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2016年10月12日 (水)

戦国大名駿河今川氏Ⅳ  今川氏の内訌

 九州探題として足利将軍家を凌ぐ力を持った今川了俊は、三代将軍義満の逆鱗に触れて失脚。駿河守護には甥の泰範が単独で指名され、以後彼の子孫が今川氏嫡流として駿河を支配しました。その駿河に最初の危機が訪れます。すなわち上杉禅秀の乱でした。
 
 犬懸上杉氏の当主で関東管領であった上杉氏憲(出家して禅秀)は、時の関東公方足利持氏と仲が悪く応永二十二年(1415年)、管領職を罷免されます。代わって管領に就任したのは氏憲の政敵山内上杉憲基でした。怒った禅秀(分かりやすいので以後この名前で書きます)は、与党の大名を語らい持氏に反乱を起こします。鎌倉の公方館を反乱軍に攻撃された持氏は、命からがら海岸伝いに相模、伊豆と逃れ箱根を越え駿河の東端、瀬名にたどり着きました。
 時の駿河守護今川範政(泰範の子)は、驚いて持氏を保護するとともに事の次第を京の幕府に報告します。幕府は範政に上杉禅秀追討を命じました。範政は越後守護上杉房方と協力し禅秀の反乱軍を攻めます。駿河勢は数こそ少ないものの初代駿河守護範国以来統制が行き届いており強力でした。一方反乱軍は数は多くても計画性がなく勢いで蜂起したため纏まりに欠いていたと思います。応永二十四年(1417年)正月、各地で駿河勢に敗北した反乱軍は鎌倉に逃げ込みました。将来を悲観した首謀者上杉禅秀はここで自害、反乱は鎮圧されます。
 四代将軍義持は範政の働きを激賞し、同時に鎌倉公方持氏からも「忠孝・恩義は忘れ難し」という賞詩を拝領しました。以後、駿河守護今川氏は幕府の先兵として鎌倉公方を監視する重要な役目を帯びます。後に「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」と称された理由の一つはこの時の今川氏の地位向上もあるのだと思います。
 鎌倉公方持氏にとっても今川範政は無視できない存在になりました。五代将軍義量が19歳の若さで急死し、籤引きで三代義満の子義教が将軍職に就くと、秘かに将軍の座を狙っていた持氏は今川範政へ自分の味方に付くよう働きかけます。しかし幕府への忠節を重んじる範政はこれを拒否、持氏に諫言しました。両者の関係は冷え込みます。
 同じころ関東管領上杉憲実も持氏の軽挙妄動を戒めたそうですが、逆に勘気を被り追放されました。持氏の不穏な動きは逐一京の義教にもたらされます。そうした中永享四年(1432年)将軍の富士遊覧が催されました。当然物見遊山などではなく明らかに持氏に対する威圧です。持氏にも駿河へ出頭が命じられます。しかし、暗殺を恐れた持氏はこれを拒否しました。
 永享十年(1438年)6月、義教の数々の挑発で我慢の限界に達した持氏はついに挙兵します。所謂永享の乱です。ところが待ち構えていた義教は、駿河の今川勢と上杉憲実の越後・上野の大軍を差し向け鎌倉を包囲し、持氏を自殺に追い込みました。
 実は、この時今川軍を率いてたのは範政ではなくその子彦五郎範忠でした。当主範政は永享三年(1431年)頃から病の床についていたのです。範政には家督継承の資格がある三人の子がいました。正室の末子である千代秋丸(範秋)、弥五郎範頼、彦五郎範忠です。最初範政は有力守護山名時熙の支援もあり正室の子千代秋丸に家督を譲ろうとします。しかし、山名氏と今川氏の連合を警戒する幕府はこれを許しませんでした。
 弥五郎範頼を推す一派は、管領細川持之を頼ります。ところがこれも同じ理由で将軍義教から家督相続を拒否されました。義教は有力守護の勢力削減策を推進しており山名氏や細川氏と今川氏の連合は絶対にあってはならないものだったのです。結局、今川家督は一番継承の可能性が低い彦五郎範忠に与えられました。
 このような経緯で今川氏五代と駿河守護職を継承した範忠(1408年~1461年)でしたが、家中は千代秋丸派(=山名派)と弥五郎派(=細川派)に分裂します。範忠に従った国人は朝比奈、岡部、矢部氏らでした。一方本来なら正室の子で一番家督継承資格があった千代秋丸派の狩野、富士、興津氏らは、あろうことか関東公方の援軍まで要請し駿河国内で両派の合戦が起こりました。
 一種の家督相続をめぐる内乱です。事態を憂慮した将軍義教は、範忠を全面的に支援し反乱軍は狩野氏の本拠湯ヶ島城に追い込まれました。一族の重鎮今川貞秋(仲秋の子)率いる今川軍主力はこれを包囲し、陥落させます。反乱軍に担ぎあげられた千代秋丸のその後が不明ですが、殺されたか仏門に入れられたかのどちらかでしょう。
 これで千代秋丸派は壊滅しますが、もう一方の弥五郎派は不気味な沈黙を守ります。そして弥五郎範頼の子小鹿範満の代に再び大騒動を起こすのです。ともかく幕府の後押しで家督を継いだ範忠は、以後関東への出兵三回、京都への出兵一回と活躍し、康正元年(1455年)不帰の人となりました。後を継いだのは嫡男義忠。
 義忠の代は、今川氏が守護大名から戦国大名に成長する端緒となります。応仁の乱を利用し斯波氏に奪われていた遠江守護職を奪回するのです。しかしその後悲劇が起こります。再び起こるお家騒動。これを纏めたのは外から来た一人の男でした。次回、伊勢新九郎に御期待下さい。

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