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2016年10月12日 (水)

戦国大名駿河今川氏Ⅲ  九州探題今川了俊(後編)

 今川了俊は、史書として『難太平記』、紀行文『道ゆきぶり』、歌論書『言塵集』などを記した当代一流の文人でした。その文学的イメージと武将としてのそれにギャップがあるように感じるんですが、そういう複雑なところも含めて了俊なのでしょう。
 九州探題今川了俊の活躍によって、懐良親王率いる南朝方は大宰府を追われ筑後の山岳地帯と肥後に追い詰められます。当時懐良親王がどこを拠点にしていたかは諸説あり、筑後国星野村説、肥後国隈府(わいふ、現菊池市)の雲上宮(くものへぐう)説がありはっきりしません。どちらにしろ戦況によって移動していた事は間違いなく、幕府軍は南朝方を次第に追い詰めていきました。
 1374年11月、了俊は南朝方に止めを指すべく肥後に進攻します。南朝方の主力はなんといっても菊池氏でこれさえ倒せば南朝方は瓦解するはずでした。菊池氏側も一代の英傑武光はすでに陣没し、後を継いだ子の武政も同年5月に病死していました。家督は嫡男武朝(1363年~1407年)が継ぎますが、この時わずか11歳。了俊は武政の死を待って肥後に進軍したのです。
 玉名郡南関より肥後に入った了俊は、1375年7月山鹿を過ぎ菊池氏の本拠隈府城を指呼の間に捉えた日ノ岡に着陣します。日の岡は山鹿市の北にそびえる不動岩で有名な蒲生山に連なり南東にのびる台地上。山鹿平野を一望できる要衝でした。了俊の弟仲秋も肥前勢を率いて岩原(いわばる、古墳群で有名)に陣を布きます。これに対し菊池勢は八方ヶ岳山系が南に延び、菊池川に迫った台地上の台(うてな)城に籠って最終防衛線にしました。
 実は菊池氏の本拠隈府城(現菊池神社)は、それほど防御が堅くなく十八外城と呼ばれる支城群で守る作戦を採ります。台城も十八外城の一つで、山鹿方面からの侵攻に備えた城でした。了俊は、台城と日ノ岡の中間にあり、街道と菊池川がもっとも狭まる場所水島を決戦場と定めます。了俊はこの戦いで終止符を打つべく九州各地の有力守護にも参陣を求めました。薩摩の島津氏久、豊後の大友親世はこれに応じますが、もう一人の有力守護筑前の小弐冬資は参陣を渋ります。父頼尚の後を受けた冬資にとって利害のぶつかる九州探題の強大化は望んでいませんでした。
 困り果てた了俊は、島津氏久に仲介を頼みます。氏久の情誼を尽くした手紙を受け取った冬資は嫌々ながらもようやく8月末、日ノ岡に到着しました。その日、冬資を主賓とする宴が催されます。するとその席で、今川家臣山内道忠は冬資を組み伏せ、了俊の弟仲秋がこれを刺殺しました。いくら利害がぶつかるとはいえ、陣中での暴挙は九州全土の幕府方に動揺をもたらします。特に面目を潰された島津氏久は烈火のごとく怒り、さっさと陣を払い帰国しました。大友親世も、一応了俊の説明に納得しますが以後非協力の態度に転じます。これを水島の変と呼びます。
 水島の変は了俊の自滅でした。菊池勢も頑強に抵抗し幕府軍は肥後から撤退します。島津氏久は、了俊に対しあからさまな敵対行動を取り、了俊は嫡子義範を日向に派遣し島津勢と戦わざるを得なくなります。が、北朝優勢は変わらず、態勢を整えた了俊は大友氏など九州の有力守護に頼らず、幕府に依頼して周防・長門の守護大内弘世に援軍を出させます。これは大内氏が九州に関与する端緒でした。
 1377年春、今川軍は再度肥後に侵入します。今回は大内氏の援軍も加え今川氏の勢力範囲である筑前・筑後・肥前の兵だけで攻略するつもりでした。了俊の嫡男義範は、日向・大隅方面で島津氏久と泥沼の戦いを続けており今回は参加できませんでした。同年7月、玉名郡白木原(玉名市から南関町に至る小岱山東麓の一帯と推定)の合戦で菊池軍を破ります。1378年9月の託摩原(たくまばる、熊本市東部)の合戦は菊池武朝の奮戦もあり一時敗北しますが、大勢は変わらず1381年6月22日了俊はついに菊池氏の本拠隈府城を攻略しました。
 南朝方は、最後の拠点八代古麓城に籠城しました。実はこの前懐良親王は征西将軍職を良成親王(御村上天皇皇子、甥に当たる)に譲っており、八代に同行したとも、これと別れ筑後国矢部で病気のため薨去したとも伝えられます。了俊は古麓城を何重にも包囲、1391年9月良成親王、名和顕興らが降伏、九州南朝方はついに滅びました。この時菊池武朝は行方不明になりますが、実は菊池氏の隠し領地のある日向国米良地方に潜伏したと推定されます。
 20年という長き歳月は掛かりましたが、九州探題今川了俊はついに南朝方を降し九州を平定しました。その威勢は少なくとも九州においては足利将軍を凌ぐようになっており、三代将軍義満の警戒を受けるようになります。中央で了俊を後援しつづけた管領細川頼之が1379年康暦の政変で失脚していたことも了俊にとって悪く作用しました。新管領の斯波義将は了俊を頼之派と見ており、追い落としの機会を狙っていました。
 
 九州に野心を持つ大内義弘(弘世の子)は、了俊に対し同盟して幕府を攻めようと持ちかけます。了俊がこれを断ったのを根に持った義弘は、逆に幕府に了俊が謀反の志を持っていると讒言しました。もちろん証拠もなく信用もできなかった話ですが、将軍義満も管領斯波義将も絶好の機会と捉え了俊を九州探題から解任します。後任には渋川満頼が選ばれました。しかし、実権はなく次第に大内氏の傀儡と化します。
 幕府に帰順した島津氏久も、独自の動きを見せていた豊後の大友親世も名目上は九州探題を尊重しますが、実際は侮り独自路線を選択、戦国時代に至ります。筑前の少弐氏は、探題の後ろ盾として九州に上陸してきた大内氏と血みどろの戦いを繰り広げる事となりました。
 今川了俊は、将軍への申し開きも許されず本国遠江に帰国を命じられます。義満はさらに追い打ちをかけ、甥泰範(範氏の次男)が守護をしていた駿河の半国守護を命じました。これは今川氏の分裂を狙った策でした。その後、応永六年(1399年)には大内義弘が応永の乱で自滅します。将軍義満の挑発にまんまと乗った結果でした。甥泰範は、了俊が運動して駿河半国守護を奪い取ったと勘違いし逆恨みしており、了俊が大内義弘と通じていたと幕府に讒言します。これによって了俊は遠江と駿河半国の守護職を剥奪されました。
 失意の時を迎えた了俊はさらに鎌倉公方足利満兼の乱への関与も疑われ、義満は関東管領上杉憲定に了俊追討を命じます。これは当の上杉憲定や今川一族の助命嘆願運動でようやく許されました。了俊は、上洛し以後一切政治に関わらない事を条件に赦免されます。義満も鎌倉府に対する備えとしての今川氏の重要性は十分承知しており、自分を脅かす恐れのある有能な了俊一人を排除するだけで良しとしたのでしょう。
 京都に隠棲した了俊は、『難太平記』執筆など静かな晩年を迎えます。応永二十七年(1420年)死去。享年94歳。父範国と同様驚くべき長命でした。その後、今川氏は泰範の子孫が嫡流として駿河守護を世襲します。一方、了俊の子孫は遠江今川氏として一族の重鎮となりました。ただ幕府に警戒されたため守護職を剥奪され、代わって斯波氏が遠江守護となります。今川氏が遠江守護職を回復するのは第6代今川義忠まで待たなくてはなりませんでした。

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