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2016年10月12日 (水)

戦国大名駿河今川氏Ⅷ  今川氏の滅亡

 今川義元の横死は今川領国に衝撃を与えます。特に過酷な占領地支配で苦しんでいた三河では、松平広忠の息子松平元康が自立の動きを見せていました。桶狭間の合戦時、今川軍の武将として大高城に入っていた元康は、駿府に帰還せずかつての居城岡崎城に入城します。人質に出されて以来14年ぶりの帰還でした。
 今川家は義元の息子氏真(1538年~1615年)が継ぎますが、この時家督相続をめぐって内乱が起こらなかったのは、それすらできるようなエネルギーが無かったからです。三河では、松平元康が今川勢力を駆逐し着々と領国化を進めました。凡庸な氏真も家臣団も、元康の動きを黙って見守るしかありませんでした。それだけ茫然自失していたのだと思います。
 戦国の世は弱肉強食、今まで今川家は三国同盟に守られていました。しかし氏真の凡庸が知れ渡ると甲斐の武田信玄(晴信)は、今川領を攻め取ろうと画策します。義元の娘を正室に迎えている嫡男義信から猛反対されますが、逆に義信に切腹を命じるほどの非情さを見せました。信玄は、松平元康から改名していた徳川家康に使者を送り、信玄が駿河を、家康が遠江を攻め取ろうと密約します。
 家康はさらに尾張の織田信長と同盟を結び後顧の憂いをなくしました。今川家中では徳川方、武田方双方から調略の手が伸び国人たちが次々と離反します。今川領国がガタガタになったのを確認すると、信玄は永禄十一年(1568年)軍を率い駿河に侵入しました。一方的な同盟破棄に怒った北条氏康は、氏真側に味方し駿河に援軍を送ります。駿河は今川・北条連合軍と武田軍の戦場となりました。この時、有名な塩止めのエピソードがあるのですが、上杉謙信の美談も眉唾で、単に越後ルートの塩を商売のために止めなかっただけだとも言われます。
 駿府は武田軍に落とされ、氏真は重臣朝比奈泰朝の掛川城に逃れました。信玄との密約で遠江に攻め入っていた徳川軍に掛川城は包囲されます。しかし半年の籠城戦に耐え抜きました。ここで家康は方針転換します。北条氏康に使者を送り、今川・北条・徳川で連合し駿河から武田信玄を叩き出そうとしました。が、信玄の用兵は生易しいものではなく結局駿河奪回は失敗、武田領国になりました。すでに多くの今川家臣は信玄に降っています。もはやどうしようもない状況でした。
 
 掛川城は、氏真の命を助けるという条件で開城します。事実上これが南北朝以来駿河・遠江に勢力を誇った今川氏の滅亡でした。結局氏真の器量では厳しい戦国の世で領国を保つ事は出来なかったのです。その後の氏真を描きましょう。
 氏真は一時北条氏に保護されますが、氏康死後北条家が武田家と和睦した事から居辛くなり元亀二年(1571年)かつての家臣徳川家康の庇護下に入ります。氏真は徳川家の客分となり、何度か合戦にも参加したそうですが生来の戦下手で全く活躍できず、天正十九年(1591年)頃には京に居たことが確認されます。蹴鞠の名手で父の仇信長の前でも腕前を披露したそうですが、この時の彼の感情が読めません。案外さばさばとし、父の仇などとは思わなかったかもしれません。信長は絶対権力者、命ぜられるままに機械的に動いただけだったのでしょう。でないと生き残る事は出来ないからです。
 秀吉からも領地を貰い、家康の天下となると近江国に隠居領500石を与えられます。慶長十九年(1615年)12月、江戸において死去。享年77歳。天寿を全うした氏真は、意外と幸せだったかもしれません。家康の名家好きのおかげでしょうが、氏真の孫直房は1000石を与えられ高家となりました。なんとその子孫から幕末に若年寄(範叙)を出しているんですから驚きです。
 同族の吉良上野介があんな目に遭ってる事を思うと、高家今川氏は比較的平穏だったのでしょう。
                                (完)

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