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2016年11月

2016年11月 1日 (火)

ローマ帝国建国史Ⅴ   第1回三頭政治

 ポンペイウスが東方経略を終え帰途についている頃、またしてもローマで大事件が起こります。引き起こしたのはカティリナというつまらない男でした。素行の問題のあるカティリナは何度執政官選挙に出ても落選したため、非合法な手段で政権を握ろうと紀元前62年エトルリアのスラの退役兵たちと語らい蜂起を計画します。ところが陰謀は露見しそのカティリナを紀元前64年の執政官選挙で破ったキケロが中心となって元老院を動かし一味を逮捕しました。
 保守強硬派の小カトー(大スキピオを弾劾した大カトーの曾孫)は、全員死刑にすべしと主張します。ところが「まだ未遂犯なので終身禁固刑が妥当である」とただ一人異を唱えた者がいました。彼の名はガイウス・ユリウス・カエサル(紀元前102年~紀元前44年)。大神官という権威ある官職には就いていましたが元老院議員としては駆け出しの新人でした。スラの迫害で小アジアに亡命しローマに戻ってようやく官途に就いたばかりです。
 結局小カトーの意見が通りカティリナ一味は処刑、身一つで逃れたカティリナ本人も少数の反乱軍と共に殺されました。カエサルは、保守強硬派が主流を占める元老院貴族の中にあって一人正論を述べた事で小カトーらから怒りを買いますが、逆に権威への挑戦者として民衆から支持を受けます。
 ポンペイウスが東方から帰還したのはこのような時期でした。南伊ブルンディシウムに上陸したポンペイウスは、大方の予想に反して軍を解散、ローマに到着しても元老院尊重の態度を示します。ところが当時ポンペイウスの声望は他を圧倒しており、元老院はこのままではスラの二の舞になると警戒しました。結果論ですが、ポンペイウスが軍を解散せずそのままローマに入城していれば、スラと同様終身独裁官として絶大な権力を握れたはずでした。しかし、ポンペイウスは横紙破りのスラと違い常識人でそれゆえに最大の機会を逃がしたとも言えます。
 元老院は、軍を持たないポンペイウスを侮り元老院に無断で東方諸国を裁定したのは越権行為だと責めます。さらにポンペイウスの退役兵への土地割当法案も否決しました。一方、もう一人の巨頭である大富豪クラッススも元老院から軽んじられていました。たかが奴隷反乱を鎮圧したくらいでは元老院はおろか庶民からさえ評価されません。スラ門下の二人は、元老院の政治力の前に屈服せざるを得なくなります。
 ところが、苦境の二人に手を差し伸べたのは無名のカエサルでした。カエサルは、以前からポンペイウスの声望を自分の勢力拡大に利用しようと虎視眈々と接近の機会を狙っていたのです。実は、クラッススに対しては自身が莫大な借金をしており、カエサルの破産がクラッススも直撃するため運命共同体に近い存在となっていました。日本円で推定6億円以上の負債の保証人がクラッススでした。
 カエサルは、犬猿の仲だったポンペイウスとクラッススの仲を取り持ちます。そして紀元前60年、カエサルが執政官選挙に出馬するに際しポンペイウスは退役兵の票を、クラッススは選挙資金を提供する事が取りきめられます。カエサルはその見返りに懸案だったポンペイウス軍退役兵の土地割当法案その他を可決させる約束でした。法案が元老院で否決されると、カエサルは強引に民会にかけ、ポンペイウス派の実力行使で可決させます。
 カエサルは、ポンペイウスとさらに接近するため自分の娘ユリアを妻(再婚相手)に与えました。明らかにポンペイウスがカエサルより年上で政略結婚以外の何ものでもありませんでしたが、ポンペイウスはこの若い妻に溺れ政治への関心を示さなくなります。これが第1回三頭政治で、ポンペイウス、クラッススのローマにおける覇権が確立するとともに新興勢力カエサルの台頭を招きました。
 クラッススは閥族派を代表し、カエサルは平民派の雄、そしてポンペイウスは閥族派平民派を超えたローマの第一人者。三頭政治は、共和政ローマ末期に現れた強力な政治体制だったと言えます。その勢力を背景に、カエサルはグラックス兄弟以来の懸案でタブーだった農地法を元老院の反対を押し切り可決させるなど大きな功績をあげました。
 執政官(コンスル)職を1年間務めると、自分の好きな任地へ総督(プロコンスル総督制)として赴く事ができます。カエサルは、自分の勢力を拡大するため任地にガリア(現在のフランス、ベルギー、スイス)を選びました。当時ガリアにはラテン民族であるガリア人(ケルト人とも言う)が居住していました。一時はイタリア半島北部ロンバルディア平原(中心都市はメディオラヌム、現ミラノ)にも進出します。共和政ローマは、北イタリアを平定し属州ガリア・キサルピナ(アルプスのこちら側のガリア)を設けました。アルプス山脈を越えた北側はガリア・トランサルピナ(アルプスの向こう側のガリア)と呼ばれます。
 当時のガリア・トランサルピナはフランスの南三分の一ほどで、カエサルはローマの支配地域をガリア全土に拡大しようという野望を持っていたのです。ただし多くの部族が存在するガリアはそう簡単に征服できるはずもありません。
 紀元前58年、カエサルは両ガリア、イリュリア(イタリア北東部、バルカン半島の北西沿岸部)の属州総督として5年間のインぺリウム(軍事指揮権)を獲得しました。ではカエサルは、どのようにしてガリアを征服したのでしょうか?次回、ガリア戦争を描きます。

ローマ帝国建国史Ⅳ   スパルタクスの乱

 紀元前83年、スラのローマ進軍に参加したグナエウス・ポンペイウス(BC106年~BC48年)。騎士階級(上級市民)に属し中部イタリア、ピケヌム周辺に広大な土地を持つ大地主。父が執政官(BC89年)経験者で閥族派だったためマリウスの迫害を恐れ故郷に帰っていました。その父の死後莫大な財産を相続したポンペイウスは、一族の有力者からの助言で自費で2個軍団を召集、スラ軍に合流します。
 わずか23歳の若者ですが、背後には大地主ポンペイウス一族をもっていたためスラは祖略に扱いませんでした。使ってみるとなかなかの軍才がある事を見抜きます。ポンペイウス自身も節度ある態度・弁論の説得力・誠実な人柄・他人への如才なさ(プルタルコス評)で民衆から好かれました。スラが冷酷非情であったためポンペイウスに民衆が救いを見出したというところが真相でしょうが。
 スラは先妻の一族の娘をポンペイウスに与え一族として優遇します。実はすでにポンペイウスは結婚していたそうですが、最高権力者の意向には逆らえませんでした。ポンペイウスはスラの命令で軍を率いシチリア、北アフリカのマリウス派残党を討ちます。見事に成し遂げたポンペイウスは凱旋式の許可を求めますが、元老院は無冠で元老院議員でもない若輩者の凱旋式など認めませんでした。そこでポンペイウスは、スラの許可を得て盛大な凱旋式を挙行します。
 次は、ヒスパ二ア(現イベリア半島)のセルトリウス討伐戦です。セルトリウスはマリウス派のヒスパ二ア総督で現地民を手なずけほとんど独立国となっていました。何度討伐軍を送っても失敗したため元老院は苦虫をかみつぶしながらも再び無冠のポンペイウスに出陣を求めます。その際「執政官代理官」という苦しい肩書を与えざるを得ませんでした。ここでもポンペイウスはゲリラ戦で抵抗するセルトリウスを数年で鎮圧します。セルトリウスは部下に殺されました。
 その際、元老院議員の一部とセルトリウスが通じているという秘密文書を入手しますがポンペイウスはこれを焼いて不問に付しました。生前スラは、ポンペイウスにマグヌス(偉大な)という称号を与えたそうです。スラ本人としては半分冗談のつもりだったらしいのですが数々の輝ける功績によってグナエウス・ポンペイウス・マグヌスという名前はローマ中に知れ渡りました。

 スラ死後も元老院はポンペイウスを無視できなくなります。スラの軍団を引き継いでいたからです。ポンペイウスは鎮圧後のヒスパ二アを寛大に統治し、以後この地はポンペイウスの有力な勢力圏になります。ポンペイウスがヒスパ二ア遠征から戻ろうとしている頃、イタリア本土では大事件が起こっていました。剣奴スパルタクスを首領とする反乱です。

 ポエニ戦争以後、ローマでは貴族が広大な土地を所有し、ローマ軍団の中核を構成する重装歩兵になる市民層が没落した事は以前書きました。数々の社会矛盾を改革しようとしたのがグラックス兄弟で、既得権益を持つ貴族層の反発で失敗。軍人マリウスが、現実的な手段で解決しますがそれはあくまで軍事的問題だけでした。大土地所有は、必然的に労働力として奴隷を多く抱える社会体制です。古代社会ですから、奴隷の扱いは非人道的でした。もちろんオリエント諸国と比べれば幾分かましではありましたが。

 奴隷の中で、剣奴と呼ばれる存在がありました。闘技場で剣闘士として死ぬまで戦わされる奴隷でローマ市民はそれを見て楽しみます。絶望的な境遇ですから不満が爆発しないわけがありません。紀元前73年カプアにある剣奴養成所から78人の奴隷が逃亡しました。周辺の羊飼い、牛飼いの奴隷も加わり反乱軍は近隣の山に立て籠もります。最初小規模な反乱だと舐めていたローマは少数の兵力を送って鎮圧しようとしますが失敗しました。ローマ人が彼らを剣闘士として鍛えていたから当然です。

 反乱軍の指導者は、トラキア出身といわれるスパルタクス。反乱は各地の奴隷たちを糾合し大規模なものになりました。元老院は当時法務官の地位にあったクラッススに鎮圧を委ねます。ところがクラッススは大富豪ではあっても軍才はそれほどでもなくたかが奴隷反乱の鎮圧に苦労しました。スパルタクスの反乱軍は最初故郷に帰る事を夢見てイタリア半島を北上。しかし極寒のアルプス越えを断念して南下、海路ギリシャ方面への逃亡を図りました。

 クラッススは、同じスラ門下でありながら若年のポンペイウスの名声が轟いている事を癪に思っていましたからスパルタクスの反乱鎮圧で名声を得ようとやっきになって攻め立てました。そしてついに紀元前71年イタリア南部で反乱軍主力を捕捉ほぼ全滅させます。

 反乱軍残党5000名は、イタリア半島のつま先カラブリア地方に逃げ込みました。ところがそこへヒスパ二アから戻ったポンペイウス軍が上陸します。ポンペイウスは、鎧袖一触で簡単に壊滅させ元老院にスパルタクスの反乱を鎮圧したのは自分だと報告しました。結局ヒスパ二アの大功とスパルタクス反乱鎮圧を合わせポンペイウスは二度目の凱旋式を許されます。今度こそ本当に元老院はポンペイウスの力を認めました。

 一方、最後の最後に功を奪われたクラッススはますます不満を募らせました。冷静に見ると彼の詰めの甘さが招いた事態でしたが、軍才が無いので理解できなかったのでしょう。紀元前70年、ポンペイウスとクラッススは共に執政官(定員2名、任期1年)になります。クラッススは閥族派の意向に従いますが、ポンペイウスはローマで多数派を占める平民派に理解を示しました。国民的人気の高いポンペイウスとしては当然です。

 さらに元老院はポンペイウスに地中海全土へ広がり海上交通を妨げていた海賊の討伐を命じました。その際地中海全土と内陸80キロまでの命令権を3年間与えるという決定を下します。ポンペイウスの腹心だった護民官ガビニウスの提案で民会が可決しました。さらに500隻の艦船、12万の兵力、莫大な軍資金がポンペイウスに与えられます。強大な権限を握ったポンペイウスは見事海賊を鎮圧。しかも3年どころか3ヶ月の早さでした。

 ポンペイウスの腹心たちは、ローマで策謀しさらに再び反ローマに立ち上がったポントス王ミトリダテス鎮圧の最高指揮権も与えるよう運動しました。これも容認され当時現地に遠征していたルクルスの軍団も加える事となります。これにより地中海全域がポンペイウス個人の手に帰したのです。

 ポンペイウスは、強大な軍事力によってミトリダテス王をコーカサス地方まで追い詰めます。ミトリダテス王は部下に殺されポントス王国の反乱も鎮圧されました。ポンペイウスはこの遠征の結果アルメニアを属国とします。さらにシリア王国も降し属州にしました。ユダヤでは王位継承問題に干渉しこれを治めます。

 ポンペイウスは、これまでの数々の戦功によりスラに匹敵する絶対権力を握るはずでした。ところが政治力でスラに劣る彼は元老院の制御に失敗します。ポンペイウスを巡る元老院の空気は冷たいものになりつつありました。

 クラッススもまた、同様でした。そしてもう一人新興勢力が登場します。彼の名はガイウス・ユリウス・カエサル。次回、第1回三頭政治を語る事にしましょう。

ローマ帝国建国史Ⅲ   マリウスとスラ

 ルキウス・コルネリウス・スラ(BC138年~BC78年)は名門コルネリウス一門に属しながら家系は没落していました。スラは、零落した家門の復興を生涯の目標に掲げ紀元前107年財務官に当選します。その時の執政官が彼の生涯の宿敵となるマリウスでした。
 ユグルタ戦争ではマリウスの副官として参戦し、大きな功績を上げます。民衆派のマリウスが凱旋将軍としてローマに戻ると、閥族派はスラに目を付けました。軍才でマリウスに勝るとも劣らないスラをマリウスの対抗馬にしようと思ったのです。スラも野心があったのでこれに応じます。
 紀元前90年、イタリア半島に同盟市戦争が勃発しました。原因は戦争の時ローマ軍に駆り出されながら平時にはローマ市民と差別されていた事にローマの同盟市のイタリア人が不満を抱いての蜂起です。イタリア半島でローマと同盟していたすべての都市が立ち上がったと言われますから、彼らの不満は以前から蓄積していたのでしょう。この時マリウス65歳。マリウスもスラも共に軍を率いて鎮圧に当たりますが、若いスラの方が軍功めざましく結局スラの意向にそって同盟市との講和が進められました。スラは戦争の原因がローマ市民権の有無だと判断し、ローマ市民権授与を餌に同盟市を切り崩します。これが功を奏し反乱軍は弱体化しました。同盟市もローマを滅ぼす意図はなくイタリア半島においてローマ市民と同格になれれば良かったのです。同盟市側もローマとの運命共同体意識は持っていました。
 戦争は続きます。今度は小アジア(アナトリア半島)北部黒海沿岸ポントス王国の王ミトリダテス6世が戦争を仕掛けたのです。ミトリダテスはローマが同盟市戦争で海外に目を向けられない隙を衝いて小アジアやギリシャ周辺の親ローマ勢力を攻撃し大きな勢力を築いていました。執政官(コンスル)だったスラは自ら軍を率い討伐に向かいます。
 ところが、スラが不在の隙にマリウス派の護民官スルピキウスがマリウスにミトリダテス戦争の指揮権を与える法案を民会に提出、可決させました。さらにスルピキウスは手勢を率い元老院に乗り込みスラ派の元老院議員を粛清、マリウスを呼び寄せます。この時スラは、まだイタリア半島を離れておらず遠征の軍団を掌握したままでしたが急遽ローマに戻りました。マリウスは、スラがここまでするとは思っておらず市内に兵力もなかったので支持者と共にローマ国外に亡命します。スルピキウスはこの時殺されました。
 紀元前87年、マリウス派だったキンナが執政官に当選するとスラは自分が小アジアに出陣中絶対に裏切らないように確約させ不安を残しながらもローマを離れました。ところがキンナはやはりすぐ裏切ります。北アフリカに亡命していたマリウスに使者を送りローマ入城を懇願しました。マリウスは前回の失敗に凝り軍を率いてローマに向かいます。ローマを制圧したマリウスは、閥族派の貴族を次々と逮捕し元老院から一掃します。同時にイタリア半島の全イタリア人にローマ市民権を与える約束したため、同盟市はほとんどマリウスに味方し同盟市戦争は完全に終息しました。
 ギリシャに渡っていたスラは、マリウス軍ローマ制圧の報告を受け愕然とします。ただ自分のなすべき責任を最優先しミトリダテス王を攻めるべく小アジアに渡りました。敵中に孤立したスラでしたが、持ち前の軍才と指揮下のローマ軍団兵の精強さによってポントス軍を撃破、講和に持ち込みます。その直後執政官マリウス病死の報が入りました。残ったキンナは小物でどうとでもなる存在です。
 そのキンナは、スラがローマに戻る事を恐れ民衆派の指揮する軍団をスラ討伐に派遣します。しかしスラは、討伐軍の指揮官と会見しこの軍団も指揮下に治めました。紀元前83年、万全の準備を終えたスラ軍はアドリア海を渡ってイタリア半島南部に上陸、ローマを目指して一直線に北上します。この時、グナエウス・ポンペイウスや大富豪クラッススらが合流しスラ軍はますます膨れ上がりました。ポンペイウスはまだ20代の若者でしたが、私財を投じて2個軍団を編成(厳密に言うと法律違反)したそうです。ポンペイウスはスラお気に入りの側近になります。
 本来ローマの法では、将軍が軍を率いてローマに入城する事を禁じていました。後年カエサルがルビコン川を渡る事を躊躇したのもそのためです。ところがスラは、全く意に介さず軍を進めます。スラのローマ入城が共和政ローマ崩壊の第一歩だったと言えるかもしれません。ローマ市はスラに降伏を申し出ますが、彼は構わず攻め立てます。軍事的にローマを制圧し、多くのローマ市民を殺戮しました。
 スラは冷酷非情だと言われますが、この時の処置も影響していると思います。マリウスの民衆派貴族や有力市民を次々と逮捕処刑し、財産を没収しました。スラは気に入らない人間は思想に関係なく物理的に処分したそうですから恐ろしい。ある時処刑リストに一人の若者が載りました。キンナの娘を妻としていたからです。しかし、若者が政治的に何の実績もなくスラや閥族派に敵対行為すらしていない事を考え、側近たちはスラに助命嘆願をします。若者が名門ユリウス一門に属していたことも考慮してでした。
 スラも、あまりの煩さに渋々若者を処刑リストから外します。ただ同時に「君たちは分からないのか。あの若者の中には百人ものマリウスがいることを」と付け加える事を忘れませんでした。この若者こそガイウス・ユリウス・カエサル。スラの恐れた通り後年閥族派を完全に葬り去り帝政ローマへの基礎を築く人物です。

 スラは助命の条件としてカエサルにキンナの娘との離婚を命じます。しかしカエサルはこれを拒否、小アジアへ亡命しました。若きカエサルの豪胆さ、権力に屈しない反骨精神が垣間見えて面白いですね。スラは終身独裁官(ディクタトル)を宣言します。元老院からの任命ではなく宣言でした。独裁官とは戦争などの非常時に国家の全権を担って難事にあたる役職ですが、王にも等しい権力を持つため任期は半年と決まっていました。それをスラは公然と無視したわけです。

 独裁官スラは、元老院議員の定数を600人に倍増、退役兵へ土地を与えて植民させる政策、執政官・法務官経験者を属州総督に派遣するプロコンスル、プロプラエトル総督制度など次々と改革を断行します。スラは建前上は共和政の維持、元老院の護持を唱えますが、事実上この時共和政は崩壊し始めていました。紀元前80年、独裁官を辞任したスラは隠棲します。ところが数年後病を得て亡くなりました。紀元前78年のことです。享年60歳。

 反対派の貴族たちはスラの遺骸を野に晒すべきだと主張しますが、遺言通り盛大な葬儀が営まれました。スラの死後まもなく、ローマ全土を巻き込んだ大規模な奴隷反乱スパルタクスの乱が勃発します。鎮圧に活躍したのはスラ門下のポンペイウスとクラッススでした。そして亡命から戻ったカエサルと共に第1回三頭政治へと向かいます。

 次回、スパルタクスの乱とポンペイウスの台頭を描きましょう。

ローマ帝国建国史Ⅱ   マリウスの軍制改革

 グラックス兄弟の改革は元老院を形成するパトリキ(貴族)たちにより葬り去られました。ただ彼らとてローマが抱える問題を自覚しないわけではありません。ローマの軍事力の中核である重装歩兵を形成する中堅市民たちの没落が最後には軍事力の優越で成り立っているローマ自身の衰退にもなるのです。
 しかしだからと言って自分たちの既得権益を手放すのは誰でも嫌です。圧倒的多数の平民(プレブス)階級の不満はグラックス兄弟の横死後もますます増大しました。これに対し元老院が行ったのは上級市民の取り込みでした。平民の中には大土地所有や交易によって巨大な富を手にする者たちが増えます。国民皆兵のローマの軍制ではプレブスが重装歩兵になり、貴族たちは騎兵として参加しましたが、これら富裕となった市民も軍馬を養う事が可能となり騎兵になりました。新しい上級市民たちを騎士階級とよびます。のちに第1次三頭政治を行うクラッススもポンペイウスもこの騎士階級の出身です。
 元老院は騎士階級出身者を議員に迎え、自分たちの味方としました。一方パトリキの中でも主流から外れ権力の恩恵に与れない者たちはプレブスたちと結びつきます。元老院議員のパトリキと騎士階級の者たちを閥族派、プレブスと結びついた不平貴族とプレブスの有力者たちを平民派と呼びました。
 以後ローマは閥族派と平民派の対立を軸に動きます。ここに一人の男が登場します。彼の名はガイウス・マリウス(BC157年~BC86年)。騎士階級ですらなく叩き上げの軍人。国民皆兵の市民軍が前提のローマとはいえども、兵士の全員をその都度徴兵していては精強な軍隊とはなり得ません。おそらく軍の指揮官クラスは彼のような職業軍人が存在し戦時には市民からなる重装歩兵部隊を指揮したのでしょう。
 マリウスは軍才がありました。小スキピオに可愛がられ20代で幕僚となります。小スキピオは彼の庇護者となり紀元前122年財務官当選。その後護民官となり元老院議員にもなりました。紀元前109年に始まったユグルタ戦争では総司令官メッテルスの副官に任命されます。
 ある時、マリウスはメッテルスに来年のコンスル(執政官)選挙に出たいと相談しました。戦争が上手く行ってなかった事もありメッテルスはマリウスを罵倒します。「貧乏百姓が執政官だと?確かに貧乏人でも選挙に出ることはできるがそれは建前で、お前ごときには大それた望みだ」
 これに対しマリウスは、反論せず黙って軍を離れました。そしてコンスル選挙に出馬、圧倒的な軍の支持と貴族支配に不満を持っていたプレブス(平民)たちの支持を受け見事当選してしまいます。おそらく勝算があったのでしょう。マリウスは最初閥族派に近い政治思想でしたが、この時以来平民派の雄とまりました。
 コンスルに当選したマリウスが最初にしたのは、自分を罵倒したメッテルスを罷免して自分が総司令官に就任することでした。すると膠着していた戦況が一変、数か月のうちにヌミディア王ユグルタは降伏します。メッテルスが無能だったのかマリウスが有能すぎたのか。ただ、マリウスが総司令官として指揮した時、副官を務めたのはルキウス・コルネリウス・スラでした。ユグルタ戦争の勝利はスラのおかげだとも言われます。
 凱旋将軍となったマリウスは、圧倒的な民衆の支持を背景に改革に取り掛かります。マリウスもまたグラックス兄弟と同じ危惧を持っていましたが、より現実的な解決策を採りました。グラックス兄弟は、ローマ軍事力の中核である中堅市民層の救済(生活の安定)を目指しましたが、マリウスはローマの軍事力を維持するのが最終目的なら市民軍ではなく傭兵による常備軍を整備した方が早いと考えたのです。新たな軍の兵士には没落した市民を採用し、給与を払い武具も国家が支給する(それまでは自弁)。そして何年か軍務を務めた兵士には、退役時に退職金と土地を支給。退役兵士たちは、集団でイタリア半島各地(のちにはローマ支配地域全土)に植民し開拓しました。例えばドイツのケルンは、旧名コロニア・アグリピネンシスと言いローマの植民都市が起源。
 これによって、没落市民の救済と軍事力の維持、辺境の開拓という一石三鳥を狙います。マリウスの改革は確かに画期的でした。マリウスの軍制改革の軍事的側面を考えます。
 それまでのローマ軍は、初年兵から成る第1戦列(ハスタティ)、中堅兵から成る第2戦列(プリンキぺス)、ベテラン兵から成る第3戦列(トリアリィ)の重装歩兵で構成され各隊は1000名。これに戦闘初期の牽制を任務とする軽装歩兵(ウェリテス)と同盟諸都市から派遣された補助兵、騎兵で形成されていました。これが1個軍団(レギオ)で、だいたい4000名から4500名ほどでした。戦争の際には、必要に応じて何個軍団か編成されます。ローマ市だけで10個軍団以上が編成可能だと言われました。
 マリウスの改革以後は、すべてが職業軍人となり兵士の質が均一化されます。より機動的に運用するためコホルス(歩兵大隊)という戦術単位が登場しました。歩兵大隊とも訳されるコホルスは、諸説ありますがだいたい500名前後。これが10個集まって1個軍団(レギオ)となります。ただ戦闘の際の3列横陣は維持され、4・3・3のフォーメーションとなるケースが多かったそうです。これに騎兵が加わって1個軍団の定数は6000名に増大しました。
 軍団がコホルスで形成される事で、より柔軟な戦闘ができるようになります。必要によって戦列を開けたり敵の弱点に集中投入できました。コホルス戦術とよばれるローマの新たな軍制によってオリエント諸国を中心とする地中海世界、ガリアなどの内陸ヨーロッパは征服される運命となります。おそらく古代世界でここまで精緻な軍制を築いたのはローマだけでした。アレクサンドロス大王以来の伝統を誇るアンティゴノス朝マケドニアなどの後継者国家の軍隊ですら全く相手にならなかったのです。
 マリウスが開始したコホルス戦術は皮肉なことに同盟市戦争やスパルタクスの乱などの内戦で鍛え上げられました。良い事ずくめのマリウスの軍制改革でしたが、兵士の傭兵化は国家ではなく自分たちを養ってくれる将軍への忠誠、すなわち軍隊の私兵化に繋がります。この弊害が、後にマリウス自身を苦しめる事となりました。次回は、マリウスとスラの対立を描きます。

ローマ帝国建国史Ⅰ   グラックス兄弟の改革

 イタリア半島中部、ラテン人とエトルリア人の居住地域の境界に誕生した都市国家ローマ。後に世界帝国となったローマは、伝説のロムルスとレムスによって紀元前753年建国されたと言います。紀元前509年王制を打倒した貴族(パトリキ)たちは寡頭政治を開始します。共和政ローマの始まりです。最初辺境の弱小都市国家だったローマは、辺境ゆえにラテン人とエトルリア人のあぶれ者を糾合し次第に強大化します。古代ローマ人の勤勉さも力の源泉となったのでしょう。
 共和政ローマは、近隣の諸都市を降し最初はラテン人都市国家の指導的地位となり、エトルリア諸都市も軍事力と外交によって勢力下に組み込みます。半島南部にはタラントなどギリシャ人植民都市がありました。ローマはギリシャ植民都市と戦争に突入しイタリア半島を統一します。同じころ地中海南部ではフェニキア人植民都市カルタゴ(現在のチュニジアが本拠)が強大化していました。
 紀元前264年、シチリア島の支配権を巡り両者はぶつかります。所謂ポエニ戦争です。紀元前146年まで1世紀以上も続き三度に渡って激しく戦った結果、ローマはカルタゴを滅ぼし西地中海の覇権を確立しました。質実剛健な農業国家として堅実な発展を遂げていたローマは、ポエニ戦争に勝った事により莫大な財宝と物資が流入します。結果人々は贅沢を覚え堕落しました。貴族による大土地所有が拡大し、庶民は没落します。ローマの軍事力の要はこれら中堅市民による重装歩兵でした。今のローマは強くても、バックボーンである中堅市民が没落したら将来はどうなるか分かりません。その危惧は、少しでも将来を見通せるものなら誰でも気付いていました。
 本シリーズでは、最初の改革者グラックス兄弟の失敗とその後の混乱で始まった内乱の一世紀と呼ばれる共和政ローマの苦難、カエサルの登場、オクタヴィアヌスによるローマ再統一と帝政の始まりまでを描こうと思います。タイトルをローマ帝国建国史としたのはそのためです。
 最初にグラックス兄弟(ティベリウスとガイウス)の家系について話しましょう。ティベリウス・センプロニウス・グラックス(BC163年~BC133年)は名門センプロニウス一門です。センプロニウス一門はもともとプレブス(平民)出身で、第1次ポエニ戦争を境に台頭してきた一族でした。新興貴族として執政官(コンスル)を輩出するようになります。
 ティベリウスとガイウス兄弟が有名だったのはその母のおかげでした。彼女の名はコルネリア。ポエニ戦争の英雄プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス(大スキピオ)の娘です。夫となった大グラックス(兄弟の父)は大スキピオの政敵でしたが、硬骨の士として有名で大スキピオがカトーによって弾劾された裁判では彼を弁護しています。そういう人物を見込んで、大スキピオは娘を嫁がせたのでしょう。コルネリア自身も賢婦人として有名で兄弟を厳しく育てました。
 世間の輿望を受け、ティベリウスは紀元前133年30歳そこそこの若さで護民官に当選します。護民官とはプレブス(平民)を保護する目的で設けられた官職で、元老院によって選ばれる執政官(コンスル)に次ぐ重職でした。護民官は民会によって選ばれます。これはプレブスたちがパトリキ(貴族階級)支配に対し長年争って獲得した権利でした。護民官の特権は、元老院が決した議題がもしプレブスに不利なものであれば拒否できる権利を有する事でした。同じく拒否権を持つ執政官の権力にも匹敵します。分かりやすく言えば、執政官が大統領、護民官が首相と思っていただければ当たらずといえども遠からずです。元老院が貴族院、民会が庶民院というところでしょうか。
 護民官となったティベリウスは、さっそく民会に改革法案を提出します。
①貴族による土地所有を125ヘクタール以下に抑える事
②国家が払い下げ、または貸与した土地は国家が原価で買い上げる事
③返還された土地は、改めて貧しい市民に抽選で配分される。ただし転売は禁止し、課税対象とする。
 改革案はローマが直面する問題に対する至極当然なものでしたが、若いティベリウスは既得権益を持つ元老院の反発を計算に入れていませんでした。ティベリウス本人はローマ市民の人気を背景に押し切るつもりでしたが、巨大な財力と権力を持つ元老院のパトリキ達を甘く見ていたのかもしれません。
 元老院と民会の対立は先鋭化し、元老院側はティベリウスの護民官の任期が切れ次第国家反逆罪で裁判にかけると脅します。ティベリウスは、1年任期の護民官の再選が法律に禁止されているにもかかわらず再度護民官に立候補しました。ティベリウスの誤算は、民衆がずっと自分を支持してくれると思った事です。しかし明確な法律違反の護民官連続再選は支持層である民衆の反発を受けました。
 選挙の日、ティベリウス支持派と元老院派が激しくぶつかりティベリウスは反対派の棍棒を脳天に受け絶命します。ティベリウスの遺骸は埋葬も許されず反対派によってティベル河に投げ込まれました。これを見ても反対派の怒りが分かりますね。
 それから9年後の紀元前123年、弟ガイウスが兄の意志を継いで護民官に当選しました。兄の失敗を反省しガイウスは慎重に改革を進めます。護民官に再度当選したガイウスは、長年温めてきた構想を実行に移そうとしました。元老院の定員を倍に増やし民会選出の300名を入れる事、イタリア半島の自由民の大半にローマ市民権を与える事を提案したのです。
 ところが彼もまた元老院を甘く見ていました。元老院はもう一人の護民官ドルーススを抱き込み、ガイウスの留守を狙って元老院に都合のよい法案を通させガイウスの改革案を葬ります。ガイウスが慌てて駆けつけた時には手遅れでした。三度護民官に立候補したガイウスは落選、選挙に不正があったとも言われますがこれに落胆しガイウスは政界を引退しました。
 その後も、ガイウス派が民会の主流を占め元老院と対立は続きます。ガイウス派の一人が激高し元老院議員の一人を斬り殺した事で一触即発の事態に陥りました。これを憂いたガイウスは調停に乗り出しますが、混乱の中彼もまた暗殺されました。元老院は騒乱の責任を追及しガイウス派の250名を処刑、逮捕者は3000名を超えます。こうしてローマが抱えた諸問題は何の解決も見ないまま残りました。
 紀元前133年ティベリウス・センプロニウス・グラックス暗殺事件が内乱の一世紀の始まりだと言われます。これより100年間、同じローマ人が争う戦乱の時代に突入しました。もはや政治家では収拾できない事態です。そして新たな改革案を示したのは一人の軍人でした。彼の名はガイウス・マリウス。
 次回、マリウスの軍制改革を記します。

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