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2016年11月 1日 (火)

ローマ帝国建国史Ⅰ   グラックス兄弟の改革

 イタリア半島中部、ラテン人とエトルリア人の居住地域の境界に誕生した都市国家ローマ。後に世界帝国となったローマは、伝説のロムルスとレムスによって紀元前753年建国されたと言います。紀元前509年王制を打倒した貴族(パトリキ)たちは寡頭政治を開始します。共和政ローマの始まりです。最初辺境の弱小都市国家だったローマは、辺境ゆえにラテン人とエトルリア人のあぶれ者を糾合し次第に強大化します。古代ローマ人の勤勉さも力の源泉となったのでしょう。
 共和政ローマは、近隣の諸都市を降し最初はラテン人都市国家の指導的地位となり、エトルリア諸都市も軍事力と外交によって勢力下に組み込みます。半島南部にはタラントなどギリシャ人植民都市がありました。ローマはギリシャ植民都市と戦争に突入しイタリア半島を統一します。同じころ地中海南部ではフェニキア人植民都市カルタゴ(現在のチュニジアが本拠)が強大化していました。
 紀元前264年、シチリア島の支配権を巡り両者はぶつかります。所謂ポエニ戦争です。紀元前146年まで1世紀以上も続き三度に渡って激しく戦った結果、ローマはカルタゴを滅ぼし西地中海の覇権を確立しました。質実剛健な農業国家として堅実な発展を遂げていたローマは、ポエニ戦争に勝った事により莫大な財宝と物資が流入します。結果人々は贅沢を覚え堕落しました。貴族による大土地所有が拡大し、庶民は没落します。ローマの軍事力の要はこれら中堅市民による重装歩兵でした。今のローマは強くても、バックボーンである中堅市民が没落したら将来はどうなるか分かりません。その危惧は、少しでも将来を見通せるものなら誰でも気付いていました。
 本シリーズでは、最初の改革者グラックス兄弟の失敗とその後の混乱で始まった内乱の一世紀と呼ばれる共和政ローマの苦難、カエサルの登場、オクタヴィアヌスによるローマ再統一と帝政の始まりまでを描こうと思います。タイトルをローマ帝国建国史としたのはそのためです。
 最初にグラックス兄弟(ティベリウスとガイウス)の家系について話しましょう。ティベリウス・センプロニウス・グラックス(BC163年~BC133年)は名門センプロニウス一門です。センプロニウス一門はもともとプレブス(平民)出身で、第1次ポエニ戦争を境に台頭してきた一族でした。新興貴族として執政官(コンスル)を輩出するようになります。
 ティベリウスとガイウス兄弟が有名だったのはその母のおかげでした。彼女の名はコルネリア。ポエニ戦争の英雄プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス(大スキピオ)の娘です。夫となった大グラックス(兄弟の父)は大スキピオの政敵でしたが、硬骨の士として有名で大スキピオがカトーによって弾劾された裁判では彼を弁護しています。そういう人物を見込んで、大スキピオは娘を嫁がせたのでしょう。コルネリア自身も賢婦人として有名で兄弟を厳しく育てました。
 世間の輿望を受け、ティベリウスは紀元前133年30歳そこそこの若さで護民官に当選します。護民官とはプレブス(平民)を保護する目的で設けられた官職で、元老院によって選ばれる執政官(コンスル)に次ぐ重職でした。護民官は民会によって選ばれます。これはプレブスたちがパトリキ(貴族階級)支配に対し長年争って獲得した権利でした。護民官の特権は、元老院が決した議題がもしプレブスに不利なものであれば拒否できる権利を有する事でした。同じく拒否権を持つ執政官の権力にも匹敵します。分かりやすく言えば、執政官が大統領、護民官が首相と思っていただければ当たらずといえども遠からずです。元老院が貴族院、民会が庶民院というところでしょうか。
 護民官となったティベリウスは、さっそく民会に改革法案を提出します。
①貴族による土地所有を125ヘクタール以下に抑える事
②国家が払い下げ、または貸与した土地は国家が原価で買い上げる事
③返還された土地は、改めて貧しい市民に抽選で配分される。ただし転売は禁止し、課税対象とする。
 改革案はローマが直面する問題に対する至極当然なものでしたが、若いティベリウスは既得権益を持つ元老院の反発を計算に入れていませんでした。ティベリウス本人はローマ市民の人気を背景に押し切るつもりでしたが、巨大な財力と権力を持つ元老院のパトリキ達を甘く見ていたのかもしれません。
 元老院と民会の対立は先鋭化し、元老院側はティベリウスの護民官の任期が切れ次第国家反逆罪で裁判にかけると脅します。ティベリウスは、1年任期の護民官の再選が法律に禁止されているにもかかわらず再度護民官に立候補しました。ティベリウスの誤算は、民衆がずっと自分を支持してくれると思った事です。しかし明確な法律違反の護民官連続再選は支持層である民衆の反発を受けました。
 選挙の日、ティベリウス支持派と元老院派が激しくぶつかりティベリウスは反対派の棍棒を脳天に受け絶命します。ティベリウスの遺骸は埋葬も許されず反対派によってティベル河に投げ込まれました。これを見ても反対派の怒りが分かりますね。
 それから9年後の紀元前123年、弟ガイウスが兄の意志を継いで護民官に当選しました。兄の失敗を反省しガイウスは慎重に改革を進めます。護民官に再度当選したガイウスは、長年温めてきた構想を実行に移そうとしました。元老院の定員を倍に増やし民会選出の300名を入れる事、イタリア半島の自由民の大半にローマ市民権を与える事を提案したのです。
 ところが彼もまた元老院を甘く見ていました。元老院はもう一人の護民官ドルーススを抱き込み、ガイウスの留守を狙って元老院に都合のよい法案を通させガイウスの改革案を葬ります。ガイウスが慌てて駆けつけた時には手遅れでした。三度護民官に立候補したガイウスは落選、選挙に不正があったとも言われますがこれに落胆しガイウスは政界を引退しました。
 その後も、ガイウス派が民会の主流を占め元老院と対立は続きます。ガイウス派の一人が激高し元老院議員の一人を斬り殺した事で一触即発の事態に陥りました。これを憂いたガイウスは調停に乗り出しますが、混乱の中彼もまた暗殺されました。元老院は騒乱の責任を追及しガイウス派の250名を処刑、逮捕者は3000名を超えます。こうしてローマが抱えた諸問題は何の解決も見ないまま残りました。
 紀元前133年ティベリウス・センプロニウス・グラックス暗殺事件が内乱の一世紀の始まりだと言われます。これより100年間、同じローマ人が争う戦乱の時代に突入しました。もはや政治家では収拾できない事態です。そして新たな改革案を示したのは一人の軍人でした。彼の名はガイウス・マリウス。
 次回、マリウスの軍制改革を記します。

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