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2016年12月 1日 (木)

ローマ帝国建国史13   アクティウムの海戦

 時代をやや遡ります。紀元前40年、次第に対立を深めるオクタヴィアヌスとアントニウスの関係を一時緩和するため、未亡人だったオクタヴィアヌスの姉オクタヴィアがアントニウスに嫁ぎます。明らかに政略結婚でした。
若くして未亡人となっていたオクタヴィアは、すでに前夫マルケッルスとの間に1男2女をもうけており、マルケッルスはカエサルの宿敵ポンペイウス派で彼女も苦労したと思います。ローマ市民は、賢婦人として名高かかった彼女なら何とか対立を和らげてくれるかもしれないと期待しました。
 アントニウスも再婚ですが、オクタヴィアは夫に忠実に尽くし紀元前40年から紀元残36年まで夫の赴任先ギリシャで暮らし大アントニア、小アントニアと二人の娘を産みました。ところがアントニウスは、妻オクタヴィアをローマに送り返し単身東方に赴きます。そしてエジプトに至りクレオパトラ7世と愛人関係になるのですから、ローマ市民は激高しました。もしこれがオクタヴィアヌスの計算だったとしたら、実の姉を政略に利用した事は許される事ではありません。しかし、それをやりかねない酷薄さがあったのは事実でした。
 ここでエジプトの女王クレオパトラの状況を話すと、カエサルの招待でローマに来た彼女でしたが間もなくカエサルが暗殺されたため失意のうちに帰国します。彼女は、カエサルとの間に生まれたカエサリオンがもしかしたらローマ王の息子になるかもしれないと期待していたかもしれません。が、現実はそう甘くありませんでした。ローマ人にとってエジプト人はポンペイウスを騙し討ちした連中。その血を引くカエサリオンがローマの王になるなど絶対にあり得ません。せいぜいクレオパトラの後を受けローマに忠実なエジプト王になる道しかなかったでしょう。
 そんな中、ローマの実力者アントニウスが東方地区担当として進軍して来ました。アントニウスは、フィリッピの戦いで元老院共和派に味方したクレオパトラに詰問の使者を出します。小アジア、タルソスに召喚されたクレオパトラは、逆にアントニウスを籠絡しました。すっかりクレオパトラの魅力にはまったアントニウスは、彼女と共にエジプトに赴きます。
 アントニウスが東方地域担当になったのは、かつてクラッススが殺されたカルラエの戦いの報復としてパルティアに遠征する事も理由の一つでした。紀元前36年、アントニウスはパルティアを討つため出陣します。ところがこの遠征はろくに準備していなかった事もあり惨憺たる失敗に終わりました。これによりアントニウスのローマにおける声望は失墜します。
 さらにローマ市民の神経を逆なでしたのは、アントニウスがクレオパトラ7世と正式に結婚した事です。オクタヴィアという正式な妻がありながらの暴挙でした。オクタヴィアヌスが徹底的にこれを政治利用し宣伝したためアントニウスのローマでの地位は落ち続けます。アントニウスはクレオパトラとの間に2男1女をもうけました。
 アントニウスは、紀元前34年こともあろうにエジプトの首都アレクサンドリアでアルメニア戦争勝利の凱旋式を挙行します。アントニウスはクレオパトラに多くの領土と諸王の女王の称号を与え、カエサリオン(カエサルの子)にも諸王の王の称号を授けました。オクタヴィアヌスは元老院で「アントニウスはクレオパトラに誑かされローマを裏切った」と非難、同時にアントニウスがクレオパトラにローマの領土を譲るという遺言状まで披露しました。この遺言状が本物かどうかは不明ですが、元老院議員はもとよりローマ市民全体を激高させるには十分でした。
 紀元前32年、アントニウスが妻オクタヴィアと正式に離婚した事で両者の対立は決定的になります。アントニウスは、エジプトからローマに輸出する莫大な小麦を差し押さえローマ市民を苦しめました。そうしておいて紀元前32年秋クレオパトラのエジプト軍と共に歩兵10万、騎兵1万2千、軍船500隻を率いギリシャ、ペロポネソス半島北部パトラエに本営を置き艦隊主力をアクティウム沖に展開させました。
 アントニウスは、優勢な艦隊を持ってローマを経済的に封鎖し自滅を待つ作戦でした。じり貧になるのを恐れたオクタヴィアヌスは、まずクレオパトラに宣戦布告し歩兵8万、騎兵1万2千、軍船400隻以上をもって出陣します。陸軍をオクタヴィアヌスが指揮し、海軍はアグリッパに任せました。陸路を進むオクタヴィアヌスは次々と要地を占領します。アグリッパ率いる海軍は、劣勢にも関わらずアントニウスの艦隊をアクティウム湾に包囲しました。
 積極的戦法を身上とするアントニウスの今回の動きの鈍さは理解に苦しみます。もしかしたらパルティア遠征の失敗がトラウマになっていたのかもしれません。戦局打開のためアントニウス陣営では作戦会議が開かれます。将軍カニディウスは陸上でオクタヴィアヌスの陸軍と戦えば勝利できると主張します。オクタヴィアヌスの戦下手は有名でしたから妥当な意見でした。ところがクレオパトラは海上戦を主張して譲りません。あくまで想像ですが異国の地でもし敗北した場合逃げ場を失う地上戦より不利になったらいつでも逃げられる事から彼女は海上決戦を主張したのかもしれません。真実なら、クレオパトラも彼女の意見を採用したアントニウスもとても天下を争うような器ではなかったと言えるでしょう。
 紀元前31年9月2日、運命の海戦の火蓋が切られます。両軍合わせて900隻以上、壮大な規模の戦いでした。アントニウスは自軍の艦隊を6隊に分け、右翼の3隊を自ら指揮します。中央に1隊、左翼に2隊を配しました。クレオパトラのエジプト艦隊は後方に控え戦闘には参加しない構えです。一方オクタヴィアヌスは部隊を3つに分け左翼をアグリッパが指揮し、右翼をオクタヴィアヌスが直率しました。
 アントニウスは、風向きが北向きに変わった時を待って左手に回り込み敵を風下に追いやる作戦でした。ところがアグリッパは、アントニウスの意図を見抜きさらに左に旋回しようとします。巴戦のようになり、アントニウス軍戦列の後尾10隻ほどが敵艦に衝突し沈没してしまいました。船の構造上船首よりも船腹や船尾が脆弱なのです。
 戦いは一進一退を繰り返します。ところが両軍の旋回運動で中央に大きな間隙ができると、クレオパトラは突如エジプト艦隊に戦列離脱を命じました。これも理解できない行動です。戦いの勝敗が決していない中での離脱は利敵行為そのものだからです。おそらく戦場経験のない彼女は、実際の戦を見て恐ろしくなったのでしょう。
 すると、善戦していたアントニウスはクレオパトラが去っていくのを見て自らも小舟に飛び乗り彼女の後を追いました。信じられないほど愚かな行為でした。突然指揮官を失ったアントニウス軍は崩壊します。雪崩をうって敗走しました。オクタヴィアヌス軍の死者2500に対し、アントニウス軍は死者5000、撃沈・拿捕200隻という損害を出します。もしアントニウスが最後まで戦場に留まっていたら結果はどうなるか分かりませんでした。実際、オクタヴィアヌスは病弱でこの日も寝込んでいたそうですから。
 こうして、アクティウムの海戦はアントニウスとクレオパトラの自滅に終わります。どう足掻いても逆転は無理でした。アントニウスに従った兵士たちも次々とオクタヴィアヌスに降伏します。自分たちを見捨てた指揮官に従う義理はないのです。敗走するアントニウス、クレオパトラは何を思っていたのでしょうか?ともかく、オクタヴィアヌスは戦争を終わらせるためエジプトに進軍します。
 次回、ローマ帝国建国史最終章、「第一の市民」を描きます。

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