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2016年12月 1日 (木)

ローマ帝国建国史14   第一の市民(終章)

 オクタヴィアヌスは、アレクサンドリアに逃亡したアントニウスをあえて追いませんでした。部下に見限られエジプトで酒と女に溺れ自滅するだろうと見たのです。オクタヴィアヌスは、ギリシャに上陸しアテナイなどアントニウスに味方した諸都市の戦後処理をしました。その後イタリアに帰還し背後で起こっていた反乱を鎮圧します。万全の準備を行ったオクタヴィアヌスは大軍を率い小アジア、シリア方面のアントニウス勢力を駆逐しました。
 エジプトを完全に孤立状態にして、ついにアレクサンドリアに乗り込みます。散発的に起こったアントニウスの抵抗を鎧袖一触排除しました。最後の戦いに負け傷ついたアントニウスは、アレクサンドリアの王宮でクレオパトラと会います。二人は捕虜の辱めを受けるくらいなら自ら死のうと決めました。夜半、クレオパトラが自害したと報告を受けたアントニウスは覚悟を決め、剣を自らの胸に突き立てます。武人らしい見事な最期でした。
 ところがクレオパトラはまだ死んでいませんでした。アントニウスにもたらされたのが誤報だったという説、クレオパトラに死ぬつもりは無く今後の政治工作に邪魔なアントニウスを騙して自害させたなど様々な説があります。そこまでクレオパトラが悪女だったとは思いたくないですが、あくる朝オクタヴィアヌスはアレクサンドリアに入城し女王クレオパトラと会見します。
 彼女は今回もまたオクタヴィアヌスを騙して有利な条件で講和しようと淡い希望を抱いていたかもしれません。ところがオクタヴィアヌスは、今まで彼女が見てきた男とは違い冷酷非情な人物でした。まず、自分と競争者になり得るカエサリオンの引き渡しを要求。クレオパトラの命は奪わないものの、ローマの凱旋式に黄金の鎖で繋いで引きまわすと宣言されます。屈辱で目の前が真っ暗になったクレオパトラは準備の時間が欲しいと宮中に戻り、毒蛇に胸を噛ませて自害しました。ここに300年の伝統を誇るプトレマイオス朝エジプトは滅亡します。
 アントニウスとクレオパトラとの間に生まれた子供は助命されたものの、カエサリオンは探し出されて処刑されます。紀元前30年、アントニウスとクレオパトラの死によってグラックス兄弟の改革から始まった内乱の1世紀は終わりを遂げました。オクタヴィアヌスは、地中海世界を一つにまとめ上げる事に成功したのです。カエサルが考えたローマ世界の改変は養子オクタヴィアヌスによって完成されました。
 エジプトでの占領政策を終えローマに帰還したオクタヴィアヌスは、紀元前27年元老院に対し全特権を返上し共和政に復帰する事を宣言します。ところが、実際に返したのは戦乱が終わり有名無実化していた非常事大権のみで、執政官職と巨大な軍隊は握ったままでしたから、事実上は何も変わりませんでした。
 内戦時50万人まで膨れ上がっていた軍を縮小し20万人まで減らします。オクタヴィアヌスは国軍の最高司令官(インぺラートル)に就任しました。これが後のエンペラー(皇帝)の語源です。オクタヴィアヌスは表立っては共和政を支持しているように見せかけていましたが、実質全く信じていませんでした。官僚機構を整備し、軍と両輪で自分の権力を盤石なものにします。
 表向き全権力を返上し一市民となったオクタヴィアヌスは、元老院からアウグストゥス(尊厳なる者)という称号を受けました。時にオクタヴィアヌス35歳。皮肉なことにこれが帝政の始まりとなります。オクタヴィアヌスは元老院と市民を刺激しないように王や皇帝という称号を避け、実質的には皇帝となりました。長年の戦争に疲れ果てていた元老院も市民も、オクタヴィアヌスの独裁を容認します。
 オクタヴィアヌスはその後76歳まで生きました。以後の時代は誕生したばかりのローマ帝国の基礎を建設する事にあたります。外征では腹心で親友だったアグリッパが活躍し、帝国の国境を守りました。オクタヴィアヌスは、属州を比較的安全な元老院属州と外国に接し防衛が必要な皇帝属州に分け要所には軍団を駐屯させます。
 オクタヴィアヌスの正式な官職はインぺラートルだけでしたが、執政官職とプロコンスル(前執政官)として皇帝属州の総督を決める権限を握ったため元老院は有名無実な存在になります。オクタヴィアヌスは、インペラトル・カエサル・アウグストゥス (Imperator Caesar Augustus)と正式に名乗りました。紀元2年には、国家の父という称号を贈られます。
 オクタヴィアヌスには男子がいなかったため、3番目の妻リウィア・ドルシラの連れ子ティベリウスが2代皇帝を継ぎます。このリウィアは、ティベリウス・クラウディウス・ネロの妻だったのをネロに直談判し強引に妻に貰い受けた人でした。リウィアもまた賢婦人として有名で聡明な女性だったと言われます。冷酷非情だったオクタヴィアヌスが死刑を命じた者を何度か彼女が嘆願し助命したそうです。残念なことに彼女との間に子ができず、オクタヴィアヌスは連れ子のティベリウスと、離婚する時妊娠していた前夫の子クラウディウスを溺愛しました。
 晩年、孫たちがオクタヴィアヌスが粛清したキケロの本を読んでいた時、見つかった子供たちは叱られると思い緊張します。するとオクタヴィアヌスは「彼は教養があった。教養があって、真に国を想う人だった。」と懐かしんだそうです。
 実質的に帝政を開始したオクタヴィアヌスですが、あくまで本人はプリンケプス(第一の市民)という意識だったのでしょう。紀元14年8月19日、オクタヴィアヌスはポンペイ近郊ノラで永眠します。亨年76歳。彼の作り上げたローマ帝国は、地中海沿岸はもとよりフランス、イギリス、ドイツの一部、バルカン半島、シリア、アルメニア、メソポタミアに広がる世界帝国となりました。その後東西に分裂し西ローマ帝国は476年、東ローマ帝国はオスマン帝国に滅ぼされる1453年まで続きます。
                                                           (完)

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