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2016年12月

2016年12月 1日 (木)

ローマ帝国建国史14   第一の市民(終章)

 オクタヴィアヌスは、アレクサンドリアに逃亡したアントニウスをあえて追いませんでした。部下に見限られエジプトで酒と女に溺れ自滅するだろうと見たのです。オクタヴィアヌスは、ギリシャに上陸しアテナイなどアントニウスに味方した諸都市の戦後処理をしました。その後イタリアに帰還し背後で起こっていた反乱を鎮圧します。万全の準備を行ったオクタヴィアヌスは大軍を率い小アジア、シリア方面のアントニウス勢力を駆逐しました。
 エジプトを完全に孤立状態にして、ついにアレクサンドリアに乗り込みます。散発的に起こったアントニウスの抵抗を鎧袖一触排除しました。最後の戦いに負け傷ついたアントニウスは、アレクサンドリアの王宮でクレオパトラと会います。二人は捕虜の辱めを受けるくらいなら自ら死のうと決めました。夜半、クレオパトラが自害したと報告を受けたアントニウスは覚悟を決め、剣を自らの胸に突き立てます。武人らしい見事な最期でした。
 ところがクレオパトラはまだ死んでいませんでした。アントニウスにもたらされたのが誤報だったという説、クレオパトラに死ぬつもりは無く今後の政治工作に邪魔なアントニウスを騙して自害させたなど様々な説があります。そこまでクレオパトラが悪女だったとは思いたくないですが、あくる朝オクタヴィアヌスはアレクサンドリアに入城し女王クレオパトラと会見します。
 彼女は今回もまたオクタヴィアヌスを騙して有利な条件で講和しようと淡い希望を抱いていたかもしれません。ところがオクタヴィアヌスは、今まで彼女が見てきた男とは違い冷酷非情な人物でした。まず、自分と競争者になり得るカエサリオンの引き渡しを要求。クレオパトラの命は奪わないものの、ローマの凱旋式に黄金の鎖で繋いで引きまわすと宣言されます。屈辱で目の前が真っ暗になったクレオパトラは準備の時間が欲しいと宮中に戻り、毒蛇に胸を噛ませて自害しました。ここに300年の伝統を誇るプトレマイオス朝エジプトは滅亡します。
 アントニウスとクレオパトラとの間に生まれた子供は助命されたものの、カエサリオンは探し出されて処刑されます。紀元前30年、アントニウスとクレオパトラの死によってグラックス兄弟の改革から始まった内乱の1世紀は終わりを遂げました。オクタヴィアヌスは、地中海世界を一つにまとめ上げる事に成功したのです。カエサルが考えたローマ世界の改変は養子オクタヴィアヌスによって完成されました。
 エジプトでの占領政策を終えローマに帰還したオクタヴィアヌスは、紀元前27年元老院に対し全特権を返上し共和政に復帰する事を宣言します。ところが、実際に返したのは戦乱が終わり有名無実化していた非常事大権のみで、執政官職と巨大な軍隊は握ったままでしたから、事実上は何も変わりませんでした。
 内戦時50万人まで膨れ上がっていた軍を縮小し20万人まで減らします。オクタヴィアヌスは国軍の最高司令官(インぺラートル)に就任しました。これが後のエンペラー(皇帝)の語源です。オクタヴィアヌスは表立っては共和政を支持しているように見せかけていましたが、実質全く信じていませんでした。官僚機構を整備し、軍と両輪で自分の権力を盤石なものにします。
 表向き全権力を返上し一市民となったオクタヴィアヌスは、元老院からアウグストゥス(尊厳なる者)という称号を受けました。時にオクタヴィアヌス35歳。皮肉なことにこれが帝政の始まりとなります。オクタヴィアヌスは元老院と市民を刺激しないように王や皇帝という称号を避け、実質的には皇帝となりました。長年の戦争に疲れ果てていた元老院も市民も、オクタヴィアヌスの独裁を容認します。
 オクタヴィアヌスはその後76歳まで生きました。以後の時代は誕生したばかりのローマ帝国の基礎を建設する事にあたります。外征では腹心で親友だったアグリッパが活躍し、帝国の国境を守りました。オクタヴィアヌスは、属州を比較的安全な元老院属州と外国に接し防衛が必要な皇帝属州に分け要所には軍団を駐屯させます。
 オクタヴィアヌスの正式な官職はインぺラートルだけでしたが、執政官職とプロコンスル(前執政官)として皇帝属州の総督を決める権限を握ったため元老院は有名無実な存在になります。オクタヴィアヌスは、インペラトル・カエサル・アウグストゥス (Imperator Caesar Augustus)と正式に名乗りました。紀元2年には、国家の父という称号を贈られます。
 オクタヴィアヌスには男子がいなかったため、3番目の妻リウィア・ドルシラの連れ子ティベリウスが2代皇帝を継ぎます。このリウィアは、ティベリウス・クラウディウス・ネロの妻だったのをネロに直談判し強引に妻に貰い受けた人でした。リウィアもまた賢婦人として有名で聡明な女性だったと言われます。冷酷非情だったオクタヴィアヌスが死刑を命じた者を何度か彼女が嘆願し助命したそうです。残念なことに彼女との間に子ができず、オクタヴィアヌスは連れ子のティベリウスと、離婚する時妊娠していた前夫の子クラウディウスを溺愛しました。
 晩年、孫たちがオクタヴィアヌスが粛清したキケロの本を読んでいた時、見つかった子供たちは叱られると思い緊張します。するとオクタヴィアヌスは「彼は教養があった。教養があって、真に国を想う人だった。」と懐かしんだそうです。
 実質的に帝政を開始したオクタヴィアヌスですが、あくまで本人はプリンケプス(第一の市民)という意識だったのでしょう。紀元14年8月19日、オクタヴィアヌスはポンペイ近郊ノラで永眠します。亨年76歳。彼の作り上げたローマ帝国は、地中海沿岸はもとよりフランス、イギリス、ドイツの一部、バルカン半島、シリア、アルメニア、メソポタミアに広がる世界帝国となりました。その後東西に分裂し西ローマ帝国は476年、東ローマ帝国はオスマン帝国に滅ぼされる1453年まで続きます。
                                                           (完)

ローマ帝国建国史13   アクティウムの海戦

 時代をやや遡ります。紀元前40年、次第に対立を深めるオクタヴィアヌスとアントニウスの関係を一時緩和するため、未亡人だったオクタヴィアヌスの姉オクタヴィアがアントニウスに嫁ぎます。明らかに政略結婚でした。
若くして未亡人となっていたオクタヴィアは、すでに前夫マルケッルスとの間に1男2女をもうけており、マルケッルスはカエサルの宿敵ポンペイウス派で彼女も苦労したと思います。ローマ市民は、賢婦人として名高かかった彼女なら何とか対立を和らげてくれるかもしれないと期待しました。
 アントニウスも再婚ですが、オクタヴィアは夫に忠実に尽くし紀元前40年から紀元残36年まで夫の赴任先ギリシャで暮らし大アントニア、小アントニアと二人の娘を産みました。ところがアントニウスは、妻オクタヴィアをローマに送り返し単身東方に赴きます。そしてエジプトに至りクレオパトラ7世と愛人関係になるのですから、ローマ市民は激高しました。もしこれがオクタヴィアヌスの計算だったとしたら、実の姉を政略に利用した事は許される事ではありません。しかし、それをやりかねない酷薄さがあったのは事実でした。
 ここでエジプトの女王クレオパトラの状況を話すと、カエサルの招待でローマに来た彼女でしたが間もなくカエサルが暗殺されたため失意のうちに帰国します。彼女は、カエサルとの間に生まれたカエサリオンがもしかしたらローマ王の息子になるかもしれないと期待していたかもしれません。が、現実はそう甘くありませんでした。ローマ人にとってエジプト人はポンペイウスを騙し討ちした連中。その血を引くカエサリオンがローマの王になるなど絶対にあり得ません。せいぜいクレオパトラの後を受けローマに忠実なエジプト王になる道しかなかったでしょう。
 そんな中、ローマの実力者アントニウスが東方地区担当として進軍して来ました。アントニウスは、フィリッピの戦いで元老院共和派に味方したクレオパトラに詰問の使者を出します。小アジア、タルソスに召喚されたクレオパトラは、逆にアントニウスを籠絡しました。すっかりクレオパトラの魅力にはまったアントニウスは、彼女と共にエジプトに赴きます。
 アントニウスが東方地域担当になったのは、かつてクラッススが殺されたカルラエの戦いの報復としてパルティアに遠征する事も理由の一つでした。紀元前36年、アントニウスはパルティアを討つため出陣します。ところがこの遠征はろくに準備していなかった事もあり惨憺たる失敗に終わりました。これによりアントニウスのローマにおける声望は失墜します。
 さらにローマ市民の神経を逆なでしたのは、アントニウスがクレオパトラ7世と正式に結婚した事です。オクタヴィアという正式な妻がありながらの暴挙でした。オクタヴィアヌスが徹底的にこれを政治利用し宣伝したためアントニウスのローマでの地位は落ち続けます。アントニウスはクレオパトラとの間に2男1女をもうけました。
 アントニウスは、紀元前34年こともあろうにエジプトの首都アレクサンドリアでアルメニア戦争勝利の凱旋式を挙行します。アントニウスはクレオパトラに多くの領土と諸王の女王の称号を与え、カエサリオン(カエサルの子)にも諸王の王の称号を授けました。オクタヴィアヌスは元老院で「アントニウスはクレオパトラに誑かされローマを裏切った」と非難、同時にアントニウスがクレオパトラにローマの領土を譲るという遺言状まで披露しました。この遺言状が本物かどうかは不明ですが、元老院議員はもとよりローマ市民全体を激高させるには十分でした。
 紀元前32年、アントニウスが妻オクタヴィアと正式に離婚した事で両者の対立は決定的になります。アントニウスは、エジプトからローマに輸出する莫大な小麦を差し押さえローマ市民を苦しめました。そうしておいて紀元前32年秋クレオパトラのエジプト軍と共に歩兵10万、騎兵1万2千、軍船500隻を率いギリシャ、ペロポネソス半島北部パトラエに本営を置き艦隊主力をアクティウム沖に展開させました。
 アントニウスは、優勢な艦隊を持ってローマを経済的に封鎖し自滅を待つ作戦でした。じり貧になるのを恐れたオクタヴィアヌスは、まずクレオパトラに宣戦布告し歩兵8万、騎兵1万2千、軍船400隻以上をもって出陣します。陸軍をオクタヴィアヌスが指揮し、海軍はアグリッパに任せました。陸路を進むオクタヴィアヌスは次々と要地を占領します。アグリッパ率いる海軍は、劣勢にも関わらずアントニウスの艦隊をアクティウム湾に包囲しました。
 積極的戦法を身上とするアントニウスの今回の動きの鈍さは理解に苦しみます。もしかしたらパルティア遠征の失敗がトラウマになっていたのかもしれません。戦局打開のためアントニウス陣営では作戦会議が開かれます。将軍カニディウスは陸上でオクタヴィアヌスの陸軍と戦えば勝利できると主張します。オクタヴィアヌスの戦下手は有名でしたから妥当な意見でした。ところがクレオパトラは海上戦を主張して譲りません。あくまで想像ですが異国の地でもし敗北した場合逃げ場を失う地上戦より不利になったらいつでも逃げられる事から彼女は海上決戦を主張したのかもしれません。真実なら、クレオパトラも彼女の意見を採用したアントニウスもとても天下を争うような器ではなかったと言えるでしょう。
 紀元前31年9月2日、運命の海戦の火蓋が切られます。両軍合わせて900隻以上、壮大な規模の戦いでした。アントニウスは自軍の艦隊を6隊に分け、右翼の3隊を自ら指揮します。中央に1隊、左翼に2隊を配しました。クレオパトラのエジプト艦隊は後方に控え戦闘には参加しない構えです。一方オクタヴィアヌスは部隊を3つに分け左翼をアグリッパが指揮し、右翼をオクタヴィアヌスが直率しました。
 アントニウスは、風向きが北向きに変わった時を待って左手に回り込み敵を風下に追いやる作戦でした。ところがアグリッパは、アントニウスの意図を見抜きさらに左に旋回しようとします。巴戦のようになり、アントニウス軍戦列の後尾10隻ほどが敵艦に衝突し沈没してしまいました。船の構造上船首よりも船腹や船尾が脆弱なのです。
 戦いは一進一退を繰り返します。ところが両軍の旋回運動で中央に大きな間隙ができると、クレオパトラは突如エジプト艦隊に戦列離脱を命じました。これも理解できない行動です。戦いの勝敗が決していない中での離脱は利敵行為そのものだからです。おそらく戦場経験のない彼女は、実際の戦を見て恐ろしくなったのでしょう。
 すると、善戦していたアントニウスはクレオパトラが去っていくのを見て自らも小舟に飛び乗り彼女の後を追いました。信じられないほど愚かな行為でした。突然指揮官を失ったアントニウス軍は崩壊します。雪崩をうって敗走しました。オクタヴィアヌス軍の死者2500に対し、アントニウス軍は死者5000、撃沈・拿捕200隻という損害を出します。もしアントニウスが最後まで戦場に留まっていたら結果はどうなるか分かりませんでした。実際、オクタヴィアヌスは病弱でこの日も寝込んでいたそうですから。
 こうして、アクティウムの海戦はアントニウスとクレオパトラの自滅に終わります。どう足掻いても逆転は無理でした。アントニウスに従った兵士たちも次々とオクタヴィアヌスに降伏します。自分たちを見捨てた指揮官に従う義理はないのです。敗走するアントニウス、クレオパトラは何を思っていたのでしょうか?ともかく、オクタヴィアヌスは戦争を終わらせるためエジプトに進軍します。
 次回、ローマ帝国建国史最終章、「第一の市民」を描きます。

ローマ帝国建国史12   フィリッピの戦い

 フィリッピ(ギリシャ語でピリッポイ)はギリシャ北東部、エーゲ海北岸にあります。ファルサロスにしてもフィリッピにしても、そして次回書く予定のアクティウムにしてもローマと東方勢力の戦闘がギリシャを舞台に行われる理由を考えてみました。
 まず、ローマ側(イタリア半島側)からすれば、ギリシャとイタリア半島は狭いアドリア海を隔てるだけで指呼の間にあり、イタリア上陸を防ぐためにはギリシャの地で迎え撃つしかなかったという事です。もしイタリア半島を戦場に選べば、制海権を敵に渡した事と同義になりかなり不利になります。一方、東方勢力側としたら、小アジア(アナトリア半島)やシリアに引っ込んで迎え撃つ事は、これも制海権を敵に渡した事となります。
 地中海の戦闘は制海権が死命を制するので、戦力バランスの上からもギリシャが戦場になるのは必然でした。もう一つの理由として、ローマ軍の主力重装歩兵と戦うには伝統の重装歩兵密集陣(ファランクス)の歴史があるギリシャの兵士で対抗するしかなかったという側面もあるでしょう。小アジアやオリエントの兵は、文明社会の住民だけに弱兵で有名でした。
 カエサル暗殺後、世論の糾弾を受けローマを脱出していたブルートゥスとカッシウスたちはどう動いたでしょうか。元老院は、カエサルの旧部下たちに対抗するためブルートゥスら共和派を頼みの綱にしていました。ギリシャや小アジア、シリアの属州を委ねたのも彼らに期待したからです。ところが、ローマはオクタヴィアヌス、アントニウス、レピドゥスらの兵に制圧され、多くの共和派元老院議員が粛清されます。三者は第2回三頭政治を開始し、ブルートゥスらをローマの公敵であると宣言しました。
 ブルートゥスはギリシャ、小アジア、シリアで募兵し17個軍団約10万の兵力を集めます。これはブルートゥスの人望というより反カエサルの勢力が参加したからでした。地中海沿岸各地に長年にわたって勢力を扶植したポンペイウス派の残党がこれだけ多かったという事です。
 紀元前42年、レピドゥスにローマの留守を任せ、オクタヴィアヌスとアントニウスはそれぞれの軍団を率いアドリア海を渡ります。両者の兵力はあわせて19個軍団、これも10万を超える大軍でした。ブルートゥスらの軍は、数こそ互角なものの寄せ集めで兵士の信頼は低かったそうです。そこでブルートゥスは莫大な恩賞で釣るしかありませんでした。もともと根っからのローマ人ですらない彼らに共和政の大義を説いても無駄だったでしょう。
 紀元前42年10月3日両軍はエーゲ海北岸やや内陸寄りのフリッピで対峙しました。アントニウスがカッシウスの軍に当たり、オクタヴィアヌスはブルートゥスを担当する事に決まります。緒戦で、ブルートゥス軍の奇襲を受けたオクタヴィアヌス軍は支えきれず敗走しました。どうもオクタヴィアヌスという人は、政治外交の才はあっても戦争は下手だった印象があります。その欠点が分かっていたからこそ、大伯父カエサルはアグリッパを側近に付けたのでしょうが、アグリッパも経験が浅く混乱する部隊の統制に手間取りました。
 一方、戦慣れしているアントニウスは戦の素人カッシウスを簡単に撃ち破ります。この結果、ようやくオクタヴィアヌス軍は混乱状態から立ち直りました。10月23日、両軍は最後の決戦を開始します。この戦いも主役はアントニウスで、元老院派の軍は自軍の隙をついてくるアントニウス軍の突撃を支えきれず敗走しました。
 カッシウスは戦場の混乱の中で討死し、ブルートゥスは敗兵をまとめ近くの丘に立て籠もりますが敵の包囲が厳しくなってきたため自害します。ブルートゥスの死によって元老院共和派の勢力は完全に滅亡しました。以後元老院の政治的力はほとんど失われます。
 戦後、オクタヴィアヌスは戦後処理のためにローマに帰還、アントニウスは治安維持をするため現地に留まりました。自分たちに敵対した元老院共和派を倒したことで、三者は勢力圏を取り決めます。今回の戦争で一番功績のあったアントニウスはギリシャ、小アジア、シリア、エジプトというローマの東すべてを貰いました。オクタヴィアヌスはガリアとヒスパニアを、レピドゥスはアフリカを取ります。レピドゥスが一番損しているようですが、当時のアフリカ(チュニジアが中心)はカルタゴ以来の穀物生産基地で豊かな土地でした。
 三者の勢力を人口経済力から推定すると、全体を100としてアントニウスがだいたい半分の50くらい。オクタヴィアヌスは35、レピドゥスが15くらいでしょうか。協定が成立すると、アントニウスは早速エジプトに向かいます。自分の勢力を盤石なものにするためにエジプトを抑えなければいけなかったからです。
 紀元前36年、セクストゥス・ポンペイウスの反乱が起こるとレピドゥスはこれを利用しオクタヴィアヌスを打倒しようと画策します。ところが陰謀は発覚しレピドゥスは汚職と反乱の嫌疑を受け失脚しました。終身職である最高神祇官以外のすべての官職を剥奪され追放されます。レピドゥスの勢力圏はオクタヴィアヌスが接収しました。イタリア半島も支配下に収めたオクタヴィアヌスとアントニウスの対立は決定的になります。
 次回、両者が雌雄を決したアクティウムの海戦を描きます。

ローマ帝国建国史11   第2回三頭政治

 紀元前44年3月15日、ガイウス・ユリウス・カエサル暗殺。暗殺実行犯たちは独裁者から共和政を守った英雄として市民の賞賛を受けるはずでした。事実元老院はブルートゥスら暗殺実行犯に恩赦を与えます。ところが世間は暗殺という後ろ暗い手段でカエサルを倒したブルートゥスらに厳しい目を向けました。元老院中立派のキケロからさえ距離を置かれたためブルートゥス、カッシウスらはローマを離れざるを得なくなります。
 ローマでは、カエサルの後継者となったオクタヴィアヌスと長年戦場で苦楽を共にしたアントニウス、レピドゥスらカエサル軍の宿将たちとの対立が深刻になります。アントニウスらにしてみれば、いくらカエサルの親族とはいえ何の実績もない18歳の若造に従う義理はないというところです。そんな中オクタヴィアヌスは、カエサルの遺言だったパルティア遠征を実行するため元老院に70万セステルティウスの公的資金を要求、これが認められるとその資金で自分の軍団を作りました。
 オクタヴィアヌスがパルティア遠征を持ち出した事は、カエサルの部下だった退役兵から熱烈な支持を受けます。もしこの事を計算していたとしたらオクタヴィアヌスの恐るべき慧眼だと言えるでしょう。紀元前44年5月6日、カエサルと同僚の執政官だったアントニウスは、カエサル暗殺者たちと休戦協定を結びブルートゥスとカッシウスはギリシャに、デキムス・ユニウス・ブルートゥス・アルビニウス(ブルートゥスの従兄弟)はガリア・キサルピナ(アルプスの南側のガリア、現在の北イタリア、ロンバルディア平原)に赴きました。
 ローマに戻ったオクタヴィアヌスは、カエサルの葬儀を行います。カエサルの遺産の4分の3を相続するはずだったオクタヴィアヌスですが、アントニウスの妨害に遭い入手できませんでした。しかたなく方々から借金し葬儀を挙行します。これもまたカエサルの兵士たちの支持を受けました。
 アントニウスはカエサルの遺産を横領していたため、オクタヴィアヌスは抗議しますが交渉は決裂します。そこに目を付けたのがキケロでした。キケロは、若年のオクタヴィアヌスを操って邪魔なアントニウスらカエサルの将軍たちを排除する事を考えます。元老院に隠然たる力を持つキケロの工作は功を奏し、アントニウスは次第に孤立していきました。危機感を募らせたアントニウスは、執政官の任期切れのあとガリア・キサルピナ総督として赴任することを決めます。
 ところがガリア・キサルピナには暗殺犯の方割れデキムス・ブルートゥスがいました。当然両者は戦争になります。元老院が調停しようとするも失敗、オクタヴィアヌスが自ら事態を収拾しようと申し出ました。実際にローマで現在軍を握っていたのはオクタヴィアヌスでしたし、キケロが弁護した事もあって紀元前43年1月1日、元老院はオクタヴィアヌスを元老院議員に任命、彼に軍の指揮権を与えました。まだ19歳になるかならないかの異例の抜擢です。おそらくキケロの腹の中はオクタヴィアヌスとアントニウスが共倒れになってくれる事を願っていたでしょう。
 元老院は、さらに背信行為を行います。デキムス・ブルートゥスにオクタヴィアヌスが率いる軍隊の指揮権を委ねる決議まで行いました。怒ったオクタヴィアヌスは、前線に赴く事を拒否、あろうことか現在戦争中のアントニウスと結んだのです。彼らの共通の敵は元老院でした。両者は連合してデキムス・ブルートゥスを倒すとそのままローマに軍を率いて南下します。
 元老院の裏切りは高くつく事になりました。両者は8個軍団を率いてローマを制圧します。この時、自分たちに敵対した者のリストを作り、次々と処刑しました。その中の一人にキケロまでいました。多くの元老院議員や富豪たちが粛清の対象となります。アントニウスは、ただ財産持っているというだけで無実の者を多く殺害し遺産を奪ったそうです。
 オクタヴィアヌス、アントニウスにカエサル軍の長老レピドゥスの三者が集まり国家再建三人委員会を設けて国政を支配しました。軍の威力を背景にした恐怖政治です。オクタヴィアヌスは19歳で、またしても異例な執政官に就任しました。これが第2回三頭政治です。三者の恐怖政治の下、元老院議員300名、騎士身分の者2千人が処刑されました。
 ほとんどローマにおいて勢力を失った元老院派の希望はギリシャで兵を募っていたブルートゥスらでした。ブルートゥスらは東方諸国で17個軍団10万の大軍を集めます。これに対し、三頭政治側はレピドゥスがローマを守り、オクタヴィアヌスとアントニウスがそれぞれの軍団を率いて討伐に赴く事に決まりました。
 次回、三頭政治側と元老院派の最終決戦、フィリッピの戦いを描きます。

ローマ帝国建国史Ⅹ   カエサル暗殺

 ポンペイウスの二人の息子グナエウス(小ポンペイウス)とセクストゥスを擁したラビエヌスは、ポンペイウスが長年勢力を扶植したヒスパニアに逃れ最後の決戦を行うつもりでした。ただ、ポンペイウスもカトーら元老院保守強硬派もすべてカエサルに倒されていたため残敵掃討の段階に入っていたとも言えます。
 紀元前46年夏、ヒスパニア遠征を控え準備をするためカエサルはローマに帰還します。この時ガリア戦争とその後のローマ内乱勝利を祝い壮麗な凱旋式を挙行しました。ローマ人たちは、ガリア戦争は理解できるものの同じローマ人に対する勝利を祝う事に複雑な感情を抱きます。さらに、カエサルがエジプトからクレオパトラ7世と愛息カエサリオンを招いた事は、ローマ人たちの秘かな反発を生みました。ローマ人たちから見るとエジプト人は我らが英雄ポンペイウスを騙して殺した連中、いくらカエサルの縁者だとはいえ歓迎されるはずがありませんでした。まだまだ当時ポンペイウスの恩を忘れない者が多かったからです。凱旋式の目玉として降伏してこの日まで生かされてきたガリアの王ウェルキンゲトリクスが処刑されます。
 カエサルは元老院から10年間の独裁官、3年間の戸口監察官に任命されました。事実上の独裁者です。これがいつ終身独裁官になるかは誰も分かりませんでした。そして行きつく先は帝政という可能性もあったのです。
 ともかくカエサルは、最後に残った敵を倒すためヒスパニア遠征の準備を急ぎました。ヒスパニアはファルサロスの決戦前、後顧の憂いを断つためカエサル自ら遠征し平定しています。しかし、あくまで一時的な処置で本格的な統治ではなかったため多くのポンペイウス派が残っていました。ラビエヌスはそこに賭けたのです。
 ヒスパニアに渡ったラビエヌスらは秘かに兵を募ります。するとこれまで潜んでいたポンペイウス派が続々と参加し瞬く間に13個軍団(重装歩兵7万、騎兵6千)が集まりました。それだけポンペイウスの勢力が強かったのでしょう。この兵力を基にポンペイウス派はカエサルが任命したヒスパニア各地の属州総督を追放、カエサルの派遣したトレボニウス指揮の討伐軍も破るという深刻な状況に陥りました。
 紀元前46年11月、カエサルは4個軍団(第3、第5、第6、第10)を率いてヒスパニアに遠征します。現地に既に派遣していたものと、増援を合わせて計8個軍団(重装歩兵4万、騎兵8千)の兵力になったカエサルはすぐさま行動に移りました。この遠征にカエサルは姪の子ガイウス・オクタヴィウス・トゥリヌスを伴い英才教育をする予定でした。カエサルは生涯で多くの女性を愛しましたが男子はクレオパトラとの間に生まれたカエサリオンしかなく、幼少期から聡明だった姪の子オクタヴィウスを自分の後継者にしようと考えていたのです。勘の良い方は分かると思いますが、当時少年だったオクタヴィウスこそ後の初代ローマ皇帝オクタヴィアヌスでした。
 オクタヴィウスの帯同は、本人が病気になったために実現しませんでした。カエサルはオクタヴィウスを教育するため平民の子で同じく聡明であったマルクス・ウィプサニウス・アグリッパを側近として付け将来の布石とします。ラビエヌスらは決戦を避け、籠城策を採りました。するとポンペイウス派には現地兵が多かったため士気が弛緩しカエサル陣営の工作もあり寝返る者や逃亡する兵が相次ぎます。
 結局このままではじり貧になって崩壊すると分かったポンペイウス派は最後の決戦をすべくムンダの平原に進出しました。籠城策を採られると長期戦になるのでカエサルもこれに応じます。数の上ではカエサル軍が8個軍団、ポンペイウス派が13個軍団でしたが、歴戦のカエサル軍と比べると現地で集め実戦経験の少ない烏合の衆だったポンペイウス派は勝負になりませんでした。
 戦いは当初拮抗しカエサルも一時は死を覚悟するほどだったそうですが、カエサル軍中のモウレタニア騎兵(ヌミディア滅亡後これを吸収していた)の活躍で形勢逆転、ポンペイウス派は全面崩壊、潰走しました。カエサル軍はすぐさま追撃に移ります。この戦いでポンペイウス派は死者3万という膨大な損害を出しました。一方カエサル軍の損害は戦死者千、負傷者5百に留まります。敵将ラビエヌスは戦いの中で戦死し、グナエウス・ポンペイウスも捕えられて処刑、弟セクストゥスはヒスパニア大西洋沿岸の山岳地帯に逃れ生き残りました。後年、カエサル暗殺後セクストゥスは再び蜂起しますが、オクタヴィアヌスの将軍アグリッパに敗北し紀元前35年ミレトスで捕えられこれも処刑されます。
 ムンダの勝利でルビコン渡河から始まったローマの内乱は一応の終息を迎えます。ローマに戻ったカエサルは、長年懸案だった諸政策を実行し始めました。カエサルが権力を志向したのは事実でしょう。ただし個人的権力欲だけではなく、彼なりにグラックス兄弟の改革以来山積してきたローマ社会の諸矛盾解決を願っていた事も忘れてはなりません。
 カエサルはまず、増えすぎた人口問題を解決するため各地に植民市を建設、無産市民8万人を海外に送り出しました。これにより穀物の無料配給を受ける市民が32万人から15万人に減ります。また牧場の労働者の内3分の1は自由民にすべしと布告を出します。これはスパルタクスの奴隷反乱の痛い経験からでした。カエサルの最大の改革は暦です。紀元前63年以来終身の大神官職だったカエサルは、アレクサンドリア系の太陽暦を基にした所謂ユリウス暦を制定しました。これが現在の暦の基礎となります。ユリウス暦の開始は紀元残45年1月1日からでした。
 カエサルは、当時人口100万を数えたローマ市の都市計画にも関心を示し各所で大規模な土木工事を行います。一連の諸改革で既得権益を持つ守旧派をもっとも怒らせたのはローマ市民権の野放図の拡大でした。さらにカエサルは、自分に忠実なガリア諸族の族長にまで元老院議員の地位を与えます。
 カエサルに不満を抱く者たちは秘かに集まり始めました。中でも小カトーの甥(小カトーの姉セルウィリアの子)にあたるマルクス・ユニウス・ブルートゥスが急先鋒でした。実はブルートゥスの母セルウィリアは、かつてカエサルの愛人でカエサル自身もブルートゥスを息子同然に思っていたそうです。ところが名門ユニウス氏族に属するブルートゥスにとってはこれが我慢ならなかったのでしょう。
 ブルートゥスは、カッシウスらと語らいその日を待ちました。紀元前44年3月15日、元老院はカエサルにイタリア半島以外の属州では王と呼ぶ事を決議するため出席を要請します。出発の数日前からカエサルの妻は不吉な夢を見て、また当日にもカエサルの馬が突如暴れ出すなど予兆がありました。妻はカエサルにこの日の外出を控えるよう願いますが、王になれる期待を抱いていたカエサルは構わず出発しました。
 議場に着くと、カエサルは側近たちと離され単身内部に案内されます。多くの元老院議員たちが次々と陳情に訪れカエサルが少々煩く感じたその瞬間背中に激痛を感じました。驚いたカエサルが振り返ると周囲の元老院議員たちが次々と短剣を持ってカエサルに斬りかかります。最後に止めを刺した人物を確認した時、有名な言葉を残しました。カエサルは「ブルートゥス、お前もか…」と絶句し事切れます。享年55歳、偉大なる英雄の最期でした。
 一説では最後の言葉は「息子よ、お前もか…」だったとも言われますが、どちらにしろカエサルという巨星はこの時消えたのです。数日後、カエサルの遺言状が披露されます。第1相続人に指名されたのは姪の子オクタヴィウス。わずか18歳の青年は、この時からガイウス・ユリウス・カエサル・オクタヴィアヌスと名乗ります。
 青年オクタヴィアヌスの前途は多難でした。カエサル殺害犯人の処遇、カエサル軍中のアントニウスなど有力者との関係、カエサルの莫大な財産を相続したとはいえ未だ官途にさえ就いていない徒手空拳の若者に何ができるでしょう?次回、オクタヴィアヌスがどうやって権力を掴んで行ったか、その過程を記す事にしましょう。

ローマ帝国建国史Ⅸ   エジプト遠征

 ファルサロスの戦い後、ポンペイウスはエジプトに亡命しカトーやスキピオ・ナシカ、ラビエヌスらは属州アフリカ(現在のチュニジア)に逃亡します。ポンペイウスが亡命したプトレマイオス朝エジプトとはどのような国だったでしょうか?
 マケドニアのアレクサンドロス大王死後ディアドコイ(後継者)と呼ばれる彼の将軍たちが大王の遺領を巡って激しく争いました。これをディアドコイ戦争(紀元前323年~紀元前281年)と呼びます。この中で勝ち残ったのはアンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトの三者でした。最初にアンティゴノス朝マケドニアがピュドナの戦いでローマの将軍アエミリウス・パウルスに一敗地に塗れ滅亡。セレウコス朝シリアはポンペイウスが東方遠征中に滅ぼします。かつては小アジアからイラン高原に渡る広大な領土を誇ったセレウコス朝でしたが滅亡前はシリア近辺を領するだけの小勢力に落ちぶれていました。
 これに対し、プトレマイオス朝エジプトは東をスエズ地峡に守られ西と南は砂漠だったため安定を維持します。ヘロドトスが評した通り「エジプトはナイルの賜物」でナイルデルタの肥沃な地形は小麦の一大産地を形成していました。人口850万を数える堂々たる大国です。外征兵力24万、ローマにとっても侮れない国だったのです。
 ポンペイウスが亡命先にエジプトを選んだのは間違った判断ではありません。エジプトから兵力を借りもう一度カエサルと決戦をするつもりだったのでしょう。先代王プトレマイオス12世はお家騒動でローマに亡命していたのを、ポンペイウスの援助で即位する事ができ恩を受けていました。彼の子であり現在の王プトレマイオス13世は7歳と幼少でしたが、先代の恩を考えればポンペイウスを援助するのは当然でした。
 しかし、そのような恩を気にするほどエジプト人、とくに宮廷人たちは良識のある者たちではありません。ポンペイウスの亡命を受け入れ援助すれば、超大国ローマの実質的指導者カエサルとの戦争を意味します。これは滅亡と同義語でした。逆に亡命を拒否すればポンペイウスの恨みを買いまだまだ強力だったポンペイウスの与党東方諸国と深刻な対立を生みます。しかも、この頃プトレマイオス13世は姉で共同統治者、そして妻でもあるクレオパトラ7世と王位を巡って内戦の途中で余裕がありませんでした。
 悩んだエジプトは、最悪の選択をします。紀元前48年10月1日、ポンペイウスをいったん受け入れて油断させ暗殺するのです。享年58歳。波乱の英雄の最期でした。結果論ですがエジプトはポンペイウスの亡命を拒否しカエサルの軍門に降るべきでした。そうすれば王朝は続いていたと思います。しかし、いったん亡命を受け入れてからの殺害はローマ人たちを不快にさせます。この時の悪印象が後のエジプトの運命を決めたとも言えるでしょう。
 カエサルが手勢を率いてエジプトに到着したのはポンペイウス暗殺から7日後でした。そこで塩漬けにされたかつての盟友の首を見せられます。カエサルは気分を害し下げさせました。この時ポンペイウス一族でエジプトの捕虜になっていた者たちはカエサルに救い出されます。
 カエサルは、エジプトに滞在しプトレマイオス13世と姉のクレオパトラ7世との調停をしようと考えます。プトレマイオス朝の王族が近親婚を繰り返していた事に奇妙さを覚える皆さんも多いでしょう。これはギリシャの伝統ではなくおそらくエジプトの慣習だったのでしょう。王の高貴さを保つためだと考えられますが、現代からみると異常だと見えます。
 莫大な穀物産地でローマも大量に小麦を輸入していたエジプトの政治的安定はカエサルにとっても必要でした。カエサルはエジプト自体を征服してどうこうしようという考えはなくエジプトがローマの忠実な同盟者で外交的に裏切らず、ローマに小麦を供給してくれさえすれば良かったのです。
 首都アレクサンドリアに滞在したカエサルの下に一人の女性が忍んできます。クレオパトラ7世でした。一般には絶世の美女でその美しさにカエサルが心を奪われ彼女に味方したと言われますが、私は間違いだと思います。彼女の胸像が残っていますが決して美女とは言えず個性的な顔立ちをしていました。そもそもカエサルは生涯で2度正式に結婚し、愛人も50人は下らなかったと言われます。美女など見飽きていました。カエサルがクレオパトラに愛情を感じたとしてもそれは顔ではなく彼女の聡明さにだったと思います。
 それよりも最初は、頼りなく信頼も置けない(ポンペイウスを裏切って暗殺した)プトレマイオス13世より、彼女を単独のエジプト王とした方がローマにとって都合良いと考えたのでしょう。カエサルがプトレマイオス王を切ったのは側近の連中の醜悪な人間性を見たからです。
 事実、クレオパトラがカエサル本営に居るという情報をつかんだプトレマイオス陣営はいきなりローマ軍に攻撃を仕掛けます。この時カエサルは1個軍団しか連れてきておらず、しかも半数はローマに戻していたためわずか数千の兵力でした。エジプト軍は誇張ではあるでしょうが十万を集めたといいます。ところが歴戦のローマ軍はエジプト軍の攻撃を凌ぎ切り、援軍の到着を待って攻勢に転じます。ナイルの戦いでカエサルはエジプト軍に勝利、プトレマイオス13世は軍と共に戦死しました。
 戦後処理のためカエサルはしばらくエジプトに滞在します。その間、クレオパトラ7世を単独のエジプト王に即位させ、彼女との間にカエサリオンという一人息子までもうけました。そんな中小アジアに派遣していたローマ軍がポントス王ファルナケス2世に敗北したという報告が入ります。紀元前47年6月、カエサルは自ら軍を率い平定に赴きました。ゼラの戦いで勝利したカエサルは元老院に戦勝報告します。この時の言葉が有名な「来た、見た、勝った」 (Veni, vidi, vici.)です。
 ポンペイウスを倒し、彼の東方における勢力を平定したカエサルはローマに帰還しました。戦争はこれで終わりではなく属州アフリカに逃亡したカトーらが2個軍団を擁し抵抗を示していたため、カエサルは鎮圧の必要性を感じます。アフリカにはポンペイウス派の残党が多数逃げ込んでいましたが、軍事的に有能なラビエヌスは大軍を率いてカエサルと雌雄を決するようなカリスマも器量もなく、カトーやスキピオ・ナシカらは元老院の重鎮で権威はあっても軍事的にはド素人。しかもカトーとスキピオ・ナシカが別々に軍を率いるなど統制もない状態でした。
 おそらく、カエサルは今度の遠征にそれほどの精神的負担は感じていなかったと思います。ただカトーらが、ヌミディア(現在のアルジェリアからモロッコあたり)王ユバ1世と組んでいた事がやっかいなだけでした。ヌミディアは地中海世界最強の騎兵を出す国で、ポエニ戦争でもハンニバルに率いられたヌミディア騎兵にローマは何度も煮え湯を飲まされていました。
 紀元前47年12月28日、カエサルは5個軍団(第5、第9、第10、第13、第14。重装歩兵3万、騎兵4千)を率い北アフリカ、タプススの南70キロの地点に上陸します。スキピオ・ナシカらは現地で徴兵した歩兵3万同盟諸国騎兵9千の他にヌミディア王からの援軍(歩兵2万5千、騎兵6千、戦象120頭)を合わせ6万以上の大軍を集めました。
 両軍はタプススで対峙します。戦場は南西に潟が広がり進軍ルートはタプススに至る細長いいくつかの陸地のみでした。カエサルは内応を約束していたマウレタニア王に使者を送りヌミディア本国を襲わせます。ヌミディア王ユバ1世は迎撃のため半分の兵力を本国に戻さざるを得なくなりました。
 両軍の布陣は、ポンペイウス派が中央に歩兵部隊の横陣、両翼に騎兵と戦象を配するオーソドックスなものに対し、カエサル軍は中央に騎兵、両翼に重装歩兵横陣を配置する奇妙なものでした。これはファルサロスでも使用された騎兵と戦象対策で、事実戦闘が始まると突進する戦象の足を斧で攻撃しなぎ払ったので傷ついた戦象は狂奔しポンペイウス派の陣中をずたずたにします。ラビエヌスが指揮する騎兵部隊も戦象の暴走に巻き込まれ潰走しました。敵の大混乱をカエサルは見逃しませんでした。中央の騎兵が突撃し、敵の戦象、騎兵を追い払った重装歩兵部隊が両翼から包囲したため、ポンペイウス派はたまらず逃げだします。ヌミディア王ユバ1世は、ザマに逃れますが町の住民は受け入れを拒否し城門を閉ざしました。背後からカエサル軍が迫る中絶望したユバ1世は、元老院議員マルクス・ぺトレイウスと刺し違えて自害、ヌミディア王国はこの時滅亡します。
 スキピオ・ナシカはヒッポレギウスで追手に追いつかれ殺害されました。その他アフラニウス、ファウストゥス・コルネリウス・スラらは捕えられて処刑されます。ラビエヌスはポンペイウスの二人の遺児とともにヒスパニアへ逃れました。カエサルは今回の乱の元凶の一人カトーの籠るウティカを囲みます。カトーは奴隷を解放して兵士にするなど徹底抗戦の構えを見せますが、肝心のウティカ住民の協力を得られず悲観したカトーは自害して果てました。
 こうしてカエサルは、属州アフリカ平定を果たします。残るはヒスパニアに逃げたラビエヌスとポンペイウス兄弟だけです。カエサルは、最後の戦いに赴こうとしていました。その後に待っているのはスラと同様終身独裁官。皇帝という選択肢もあります。しかし、彼は元老院を甘く見過ぎていました。
 次回、不世出の英雄カエサルの最期を描きます。

ローマ帝国建国史Ⅷ   ファルサロスの戦い

 カエサルとポンペイウスの対決が決定的になる前、カエサル陣営からポンペイウス側に投じたのはラビエヌス一人でした。ラビエヌスはガリア戦争中カエサルの腹心として一軍を指揮し大活躍した人物ですが、自分を若い頃引き立ててくれたポンペイウスの恩を忘れず彼の下に去ったのでした。
 カエサルにとって有能なラビエヌスの離脱は痛かったのですが、妨害したりはせず気持ちよく送り出します。しかしカエサル軍中で騎兵長官まで務めたラビエヌスをポンペイウスは重用しませんでした。この一点でもポンペイウスが耄碌していたのではないかと私は疑っています。カエサルがルビコン川を渡る前、カエサル派の有力武将マルクス・アントニウスは護民官としてローマに居ました。ところがアントニウスは叩き上げの軍人で、外交や裏工作ができる人物ではありません。結局カエサルとポンペイウスの交渉に何の寄与もできず、アントニウスは次第に強硬となった元老院の圧力に負けローマを逃げださざるを得なくなります。
 イタリア半島南部で軍団の集結を待っていたポンペイウスの下には彼に付き従う数百人の元老院議員がいました。そのほとんどがカトーのような保守強硬派で、カエサルを裁判にかけると息巻いていた連中ですから、許される見込みもなくポンペイウスに賭けるしかなかったのです。一方中立穏健派の議員たちは、途中でポンペイウス軍を離脱し自分の領地に引きこもります。カエサルはこのような日和見の連中に使者を送りローマに戻るよう説得しました。戦の行く末はどうなるか分かりませんが、今はローマの莫大な国庫を握っているカエサルが有利なのは確かでした。
 思ったより兵士が集まらなかったポンペイウスはブルンディシウムで様子を見ていましたが、諦めてアドリア海を渡りギリシャに赴きます。ここでポンペイウスには二つの選択肢があったと思います。ポンペイウスの勢力圏は地中海沿岸全体に及んでおり、兵の質ならヒスパ二アが一番でした。そこには子飼の7個軍団が滞在し、徴兵すれば20個軍団は集まったはずです。一方、ギリシャや小アジア、シリアなどは文明発祥の地だけに物資が豊富で補給には困りません。ところが文明世界の弊害として兵が弱いという欠点がありました。
 こういうとギリシャには重装歩兵による密集陣ファランクスやマケドニア伝統のぺゼタイロイ(重装歩兵)、ヘタイロイ(重装歩兵)があるではないかと指摘する歴史通の方もいると思います。ところがすでにピュドナの戦いでローマのアエミリウス・パウルスがアンティゴノス朝マケドニアのペルセウス王率いるマケドニア軍を完膚なきまでに破っていました。より機動力のあるローマ重装歩兵の前にマケドニア式ファランクスは相手にならなかったのです。
 結果論ですが、もしポンペイウスがヒスパ二アに逃れて兵を集めていたらカエサルは勝てたかどうか分かりません。制海権もポンペイウスが握っていました。かつてカルタゴのハンニバルが、ヒスパ二アを根拠地にローマを何年も苦しめた実績がありますから。ところがポンペイウスは、兵站を重視し物資の豊富な東方に向かいます。戦略的には悪い判断ではありません。ただ戦術的にはヒスパ二アの方が良かったかもしれないと私は考えます。通常は戦略が最優先ですが、カエサルとの対決は戦術上の勝利がもっとも重要なのでこの場合は戦術を優先すべきだったかもしれません。
 カエサルは、ポンペイウスが去ったのを受けてルビコン渡河から60日でイタリア半島を制圧します。ところが制海権が敵の手中にあったので追撃できませんでした。カエサルは、ポンペイウスを追撃する前にまず背後の脅威であるヒスパ二アに向かいます。やはりカエサルもヒスパ二アの重要性を認めていた事になります。ヒスパ二ア平定はわずか40日でした。
 その間、ポンペイウスはギリシャで4万5千の兵力を集めます。イタリア半島への逆上陸もあり得ると判断したカエサルは、紀元前48年歩兵1万5千、騎兵5百という少ない兵力でアドリア海を渡ります。援軍を率いたアントニウスが嵐に遭ったため、合わせても2万7千ほどにしかなりませんでした。
 両軍は互いに陣地を築き睨みあいます。長年東方にクリエンテス(被保護)関係を築いていたポンペイウスのもとに東方諸国の援軍が到着し6万を超える大軍になります。ポンペイウスは東方諸国のパトロヌス(保護者)でした。これが後のパトロン、クライアントの語源です。小競り合いが起こりますが、大軍のポンペイウス軍が優勢で、本営では勝った気になった元老院議員のメッティルス・スキピオ・ナシカやドミティウスが将来獲得するはずの官職を巡って争う始末でした。政治力のないポンペイウスは、ただ苦々しく見守るだけです。
 ポンペイウスがカエサル軍の補給を断ったため苦しくなってきます。カエサルは事態打開を図り出撃しますが、かえって敗北しテッサリア方面に移動します。ポンペイウスはここで一気に決着をつけようと全軍上げて追撃、両軍はファルサロスで対峙しました。紀元前48年8月9日、運命の決戦が始まります。
 ガリア以来の精鋭が多いカエサル軍ですが、ポンペイウス軍は数が倍で戦いはどう転ぶか分かりませんでした。あとは総大将の器量次第とも言えました。両軍は重装歩兵の横隊を正面に布陣しカエサル軍は右翼、ポンペイウス軍は左翼に騎兵を配します。もう一方の側面はエニぺウス川に面し側面の防御としました。騎兵の数はポンペイウス軍が7千、カエサル軍は千で劣勢。ポンペイウスは、騎兵の機動で敵の側面を包囲しカエサル軍を押し包んで勝とうとします。これはセオリー通りでした。
 一方、カエサルも自軍の騎兵の劣勢は自覚しており自軍騎兵の背後に古参兵からなる一隊(500名)を配置していました。ポンペイウス軍騎兵を率いていたのはラビエヌスです。カエサル軍騎兵を簡単に打ち破ったラビエヌスは、カエサル軍重装歩兵を包囲しようと部隊を右に旋回させます。ところが、カエサル軍の一隊が接近しピルム(槍)でポンペイウス軍騎兵の馬を攻撃しました。傷ついた馬は暴れ出し兵士を投げ落とします。そこへカエサル軍兵士が顔めがけて槍を突き出しました。ポンペイウス軍騎兵にはローマ貴族が多く顔を傷つけられるのを嫌ったのが敗因だと言われますが違うでしょう。おそらく騎乗する馬を攻撃されたため大混乱に陥ったのだと思います。寄せ集めで士気の低い軍にありがちです。
 混乱は騎兵だけでなく、膠着状態に陥っていた歩兵にも伝染します。勝機と見たカエサルは重装歩兵に突撃を命じました。これをポンペイウス軍は支えきれず全軍崩壊となります。カエサル軍を包囲するはずだったポンペイウスは、逆に立て直したカエサル軍騎兵と古参兵隊から左翼を包囲されたのです。
 数の優位よりも兵の質が勝った戦いでした。そしてカエサルの作戦がもたらした勝利です。ポンペイウスは、敗北を認めエジプトへ逃亡します。ドミティウスは討死、カトー、スキピオ、ラビエヌスらは元老院派が支配する北アフリカに逃れました。その他の生き残った元老院議員たちはカエサルに降伏します。用兵ではカエサルとポンペイウスは互角だったと思います。ところがカエサルは現役でついこないだまでガリアで軍を指揮していたのに対し、軍を離れて久しいポンペイウスは戦場の勘が鈍っていたのでしょう。
 ファルサロスの勝利によってカエサルの覇権は確立しました。しかし難敵ポンペイウスはエジプトに逃れて再起を図るつもりでした。まだまだ油断できない情勢です。次回カエサルのエジプト遠征を記す事にしましょう。

ローマ帝国建国史Ⅶ   賽は投げられた

 ガリア征服を果たしたカエサル。両ガリア、イリュリア属州総督の任期切れを待ってローマに凱旋し、執政官となって権力を盤石なものにする事は時間の問題となりました。元老院は、カエサルにスラと同じにおいを感じます。軍と共にローマに進軍し終身独裁官として君臨するのではないかと危機感を持ちました。

 

 

 

 ポンペイウスも同じ危惧を抱きます。本来なら元老院とポンペイウスは政敵関係にありましたが、カエサルという共通の脅威に対し結びつきました。ポンペイウスは、自分の軍団の威力を背景に「執政官立候補者はローマ市内在住者に限る」という法案を民会に提出します。カエサルの執政官選挙立候補を妨害するためでした。

 

 

 元老院保守強硬派のカトーは、さらにカエサルがガリア戦争中越権行為があったという嫌疑で裁判にかけるよう求めイタリアからの追放を宣言します。追い詰められていったカエサルですが、ポンペイウスとの外交による解決を図りました。しかしポンペイウスはもはやカエサルとのいかなる妥協も拒否します。この時元老院が一部から上がっていたカエサルに対抗するためポンペイウスを任期を限った独裁官に任命する案を採用していたら、おそらくカエサルはこの時滅んでいたかもしれません。軍事的能力と政治力の両方に優れたカエサルと比べれば、軍事的才能は互角でも政治力に劣るポンペイウスは制御できたはずなのです。

 

 

 しかし、元老院はポンペイウスを独裁官にする代わりに紀元前52年単独の執政官(通常は二人)に任命しました。同時に、ポンペイウスが持っていたヒスパ二ア、北アフリカ属州総督の任期を4年間延長する事も可決します。カエサルを侮っていたポンペイウスに対しある人が警告すると

 

「自分がどこにあろうと一踏み踏めば、たちどころにイタリアは軍勢でいっぱいになるだろう」と豪語しました。

 

 

 元老院の意見は次第に強硬となり、紀元前49年には非常事態宣言を行いポンペイウスに軍団の徴兵を要請します。相手はもちろんカエサルでした。当時カエサルは、第13軍団のみを率いガリア・キサルピナ(近ガリア)に居ました。執政官選挙準備のためです。主力はガリアの治安維持のためアルプスの向こう側に止めていました。

 

 

 対カエサルの戦争を覚悟したポンペイウスでしたが、軍勢は思ったほど集まりませんでした。新徴募の軍団が3個のみです。ポンペイウス軍の主力である歴戦の7個軍団はヒスパ二アに残されたままでした。陸路はカエサルの支配するガリアを通るしかありませんがそこで戦闘となるのは確実で、安全に輸送するとすれば海路ですが、今度は輸送する軍船が足りないというジレンマに陥ります。

 

 

 ところが元老院は、こういった現実を知らずカエサルに対し軍を解散してローマに出頭するか、軍を維持して公敵となるかの最後通牒を突きつけました。絶体絶命に陥ったカエサルはついに決断します。といってもガリアに居る主力を呼び戻す時間はありませんでした。ほうっておいたらポンペイウスの軍団に粉砕されるからです。

 

 

 カエサルは、第13軍団のみを率いガリアとイタリアの国境ルビコン川に立ちます。国境と言ってもルビコン川は小さな川でした。紀元前49年1月10日、カエサルは有名な言葉「賽は投げられた」を発します。

 

 

 ルビコン川を軍勢と共に渡ればその時点で反逆者です。といって軍勢を解散して渡ってもローマで裁判にかけられ処刑されるのは確実でした。軍勢と共に近ガリアに留まればポンペイウスと戦争になります。カエサルは乾坤一擲の勝負をせざるを得ませんでした。一度決断すれば行動が早いのはカエサルの長所です。騎兵を先行させ、遮二無二ローマを目指してアドリア海沿岸を南下しました。

 

 

 ここでポンペイウスには採るべきいくつかの選択肢がありました。一つは3個軍団を率いてローマの手前でカエサル軍を迎撃する案。もう一つはローマで持久しヒスパ二アからの援軍を待つ案。防備の整っていないローマを一時放棄しイタリア半島南部で軍勢の集結を持ってカエサルと決戦する案。言わば最初の案が上策、次の案が次策、最後の案が下策というところでしょうか。腐っても鯛である首都ローマを放棄する事は致命的だったと私は思います。

 

 

 元老院は、カエサルが軍を率いてルビコン川を越えたと聞いてパニックに陥ります。所詮覚悟のない連中でした。新徴募の新兵しかいない3個軍団で歴戦のカエサルの軍団を迎え撃つ事に恐怖を覚えたのです。カエサルが毎年報告したガリアでのカエサル軍の活躍が、自分たちに向けられることに今頃恐れ始めます。カトーら元老院議員は、ポンペイウスをせっつき首都ローマを放棄しイタリア南部でカエサルを迎え撃つよう求めました。ポンペイウスも長年軍務から離れていたことから不安を感じ、元老院の要求に従います。これが運命の分かれ目でした。

 

 

 ポンペイウスと共にカトーら保守強硬派は南イタリアに逃れました。中立派のキケロは途中まで同行しますが、離脱して自分の領地に引っ込みます。ローマに残ったのはカエサルの息のかかった平民派議員と中立派議員でした。3月16日、カエサルはローマに入城します。ほとんど戦らしい事はしませんでした。早い決断と断固とした行動が招いた幸運です。

 

 

 カエサルは、元老院に独裁官の称号を要求しました。ところが平民派しかいないはずの元老院は拒否。最後の良心は残っていたのでしょう。対してカエサルは「私は脅迫の言辞を弄するのは嫌いだが、実行するのは簡単だ」と軍の力を背景に恫喝します。これにより国庫の鍵を手に入れたカエサルは、兵站上有利な立場になりました。

 

 

 カエサルとポンペイウスの対決はどう展開するのでしょうか?次回、両者が雌雄を決するファルサロスの戦いを描きます。

ローマ帝国建国史Ⅵ   ガリア戦争(後編)

 ウェルキンゲトリクス(紀元前72年~紀元前46年)は、侵略者ローマに抵抗した人物としてフランス史上最初の英雄だとされます。カエサルのガリア征服は、それまでばらばらだったガリア人たちに民族としての意識と団結をもたらしました。内陸ガリアは、カエサルの征服地に囲まれている状況になってきたため危機感から立ち上がります。
 ウェルキンゲトリクスは、20歳でガリア中部アルウェルニ族の族長となります。当初、アルウェルニ族も周囲の諸族も強大なローマに服属して生き残るという意見が大勢を占めていました。しかし、ウェルキンゲトリクスはこれに反発し同士を集めます。まず部族内の親ローマ派だった叔父ゴバンニティオら有力者を追放。各地に使者を出して同盟を結び王に推戴されます。もちろん積極的に加担した者もあれば嫌々参加させられた部族もいました。ウェルキンゲトリクスは彼らから人質を取って裏切りを防ぎます。
 ウェルキンゲトリクスの勢力は、ガリア中央部はもとよりカエサルが征服した北ガリア、西ガリアにも及びます。放置すればカエサルがこれまで努力してきた結果が無駄になるのです。報告を受けたカエサルは事の重大性を理解し討伐軍を送ります。
 これに対しウェルキンゲトリクスは焦土戦術とゲリラ戦で対抗しました。こうなると敵地に居るローマ軍は苦しくなります。カエサルはウェルキンゲトリクスの本拠地ゲルゴウィアを攻略することで戦いを一気に決しようと考えました。ところが背後で兵站を担当していた親ローマのハエドゥイ族が敵側に寝返るそぶりを見せたためゲルゴウィア攻略を断念します。
 カエサルは、沿岸地方から一度北上し東へ向かうべく進軍しました。ローマ軍が弱体化していると見たウェルキンゲトリクスは、自ら軍を率い追撃します。ところが本格的野戦となるとガリア軍はカエサル率いるローマ軍の相手になりませんでした。重装歩兵とカエサルが雇い入れていたゲルマン騎兵の前に完敗しマンドゥビイ族の都市アレシアに逃げ込みます。
 カエサルは、ウェルキンゲトリクスを倒すことでガリア征服を完成させるべく子飼の6個軍団の他に第13軍団など新たに動員した6個軍団を合わせて12個軍団、これにゲルマン騎兵、クレタ投石兵、ヌミディア軽装歩兵など計6万の大軍でアレシアを囲みました。軍団の編成定数が6千なので計算が合わないかもしれませんが、カエサルは軍団の質が落ちる事を嫌い戦闘で損害が出ても補充せずそのままにしていました。カエサルの軍団は平均3千から4千だったと言われます。
 アレシアは丘陵上にあり二本の川に挟まれた要塞都市でした。ウェルキンゲトリクスは8万の兵を率い逃げ込みます。カエサルは力攻めでは大きな損害が出ると考え包囲策を採りました。総延長18キロ、高さ4メートルの土塁を二重に築きその前には二列の壕を掘り逆茂木を植えます。アレシア側の壕には水を引く重厚さです。
 こうなるとアレシアにもとからいた住民を抱えるウェルキンゲトリクスは兵糧が不足し始め飢餓に見舞われました。ウェルキンゲトリクスは、全滅を避けるため元からのアレシア住民を町から追い出します。しかしカエサルも住民の通過を拒否したため住民たちは丘の中腹で立ち往生し餓死しました。
 このころ、ウェルキンゲトリクスに同調するガリア諸族が彼を助けるためアレシアに接近しました。その数24万、しかしカエサルがあらかじめ用意していた二重の土塁と防御施設に阻まれます。アレシアの中と外からガリア軍に攻められてもカエサルの堅陣はびくともしませんでした。逆にカエサルの反撃で外側の24万の援軍が散り散りになって潰走したため、アレシア陥落は時間の問題となります。包囲網突破を図ったウェルキンゲトリクス最後の突撃も失敗、抵抗を諦めカエサルの軍門に降りました。ガリアの盟主ウェルキンゲトリクスの降伏でガリア戦争の大勢は決します。紀元前52年の事です。
 最後の一年は掃討戦でした。紀元前51年ゲルマン人と組み最後まで抵抗したトレウェリ族が降伏しカエサルのガリア征服は完了します。以後、ガリアの地はカエサルに忠実な属州となりました。8年に及ぶ遠征は、カエサルに莫大な富と自分に忠実な軍団をもたらしました。カエサルは、ガリア戦争をいちいちローマに報告し、また一般にも公表します。これが有名な『ガリア戦記』でラテン文学の傑作の一つだと言われました。ガリア戦記によって、カエサルはポンペイウスを凌ぐ声望を得ます。誰でも昔の栄光よりは今のそれに強い印象を受けるのです。ローマ貴族の子弟はこぞってカエサル軍への参加を希望したと言われます。
 面白くないのはポンペイウスでした。ガリア戦記を読むとカエサルがなかなかの将器を持っている事が分かります。すでにクラッススはシリアで戦死し歯止めが効かなくなった両者の対立は深刻なものとなりました。元老院もまた、ローマの外で強大な権力を握ったカエサルを警戒します。ポンペイウスと、元老院内部の保守強硬派カトーらは対カエサルで共闘するようになりました。キケロは中立派でしたが、元老院の権威を維持するという意志は保守強硬派と近く、ローマで反カエサル勢力が結集し始めます。
 カエサルは、これにどう対抗するのでしょうか?次回『賽は投げられた』に御期待下さい。

ローマ帝国建国史Ⅵ   ガリア戦争(前編)

 紀元前58年、両ガリア(近ガリア、遠ガリア)、イリュリア総督ガイウス・ユリウス・カエサルは軍を率いてアルプス山脈を越えました。率いる兵力は第7、第8、第9、第10、第11、第12の6個軍団3万6千(重装歩兵3万、騎兵6千)。
 カエサルが自分の勢力拡大を目指すと同時に、ようやく北方の脅威になりつつあった蛮族ゲルマン人をライン河(ラテン語ではレ―ヌス河)の彼方に駆逐するという公的な目的もありました。元老院がカエサルにガリア遠征を許可したのは国防上の理由もあったのです。軍事的縦深を深めるという意味でした。ただいくら古代社会とはいえ大義名分のない戦争は国内外から支持されません。そこでカエサルが目を付けたのはヘルウェティイ人問題でした。
 ヘルウェティイ族は、ガリア人の一部族で現在のスイス山岳地帯に住んでいました。ところがゲルマン人がこの地に進出し圧迫を受け移動を余儀なくされます。ヘルウェティイ族は安全な土地に移動するためローマ人にガリア属州の通行許可を求めていました。ところがカエサルをこれを認めず、ヘルウェティイ族に攻撃を仕掛けます。
 プブリウス・リキニウス・クラッスス(三頭政治の一角クラッススの息子、当時カエサル軍の騎兵隊長)の活躍でローマ軍はヘルウェティイ族を元の居留地に押し返すことに成功。これをきっかけにカエサルはガリアに介入していきます。
 カエサルが率いた兵力を見て少なすぎると感じた方も多いと思います。当時ローマは本土だけで軽く12万(20個軍団)を動員できる力を持っていました。属州も含めると遠征軍で20万、防衛戦なら40万以上集める事ができたでしょう。しかし、内乱の一世紀とよばれるうち続く戦乱でローマ軍は各地に駐屯、しかもそのほとんどはポンペイウスの息がかかった軍団でカエサルが自由に動かせる軍団はこの程度しかなかったのが実情でした。カエサルは最盛期でも10万以下の軍隊でガリアを征服したのです。
 
 カエサル率いるローマ軍はヘルウェティイ族討伐後そのまま北上、ライン河を越えてガリアに進出してきたゲルマン人のアリオウィストゥス率いる部族と対峙、ウォセグスの戦いに発展します。この時もプブリウス・クラッススが活躍し勝利を収めました。戦争が2年目に突入するとベルガエ人(現ベルギー人の源流)との戦いが始まります。ベルガエ人はガリア人最強とも目される部族で、これを制さないとガリア征服は完成しないとも言われていました。
 ベルガエ人は頑強に抵抗し、この地の平定は越年します。その間、大西洋沿岸のアクィタニア人(後のアキテーヌ地方に住んでいた。地域としてはブルターニュ半島の南境からスペイン国境まで。内陸にはフランス国土の西半分という広大な土地)も反ローマに立ち上がります。カエサルの率いる兵力があまりにも少なくその都度モグラ叩きのように対処せざるを得なかった事が招いた現象でした。
 ガリア戦争3年目の紀元前56年、カエサルは軍を冬営させローマ本土に戻ります。これはトスカナ地方のルッカでポンペイウス、クラッススと会談するためでした。カエサルの留守で箍が緩んできた三頭政治を締め直す事が目的でしたが、会談の結果ポンペイウスとクラッススが紀元前55年の執政官選挙に立候補しカエサルにさらに5年間のガリア総督任期延長を認めることが決まります。
 紀元前55年、カエサルは停戦協定を反故にしライン河のこちら側に進出してきたゲルマン人を再び撃破、ライン河に橋を掛けゲルマンの地に初めて侵入しました。これで一時小康状態を得ますが、背後ではブリタニア人が海峡を渡ってガリアに入り込みます。これは反ローマのガリア人たちが引き入れたものでした。カエサルは、ライン河の守備を副将ラビエヌスに任せるとブリタニア遠征を準備します。
 ブリタニア、現ブリテン島(イギリス本土)は当時ローマ人に知られていませんでした。カエサルが偵察部隊に調査させると島の大きさはガリア本土の3分の2ほど。住民はガリア人と同族のケルト人。文化はガリア人と近いがより剽悍で手ごわい相手。万全の準備をしたカエサルは2個軍団(1万強)を率いてドーバー海峡を渡りました。
 といってもあくまで威力偵察で、カエサル自身征服する気も長く留まるつもりもありません。カエサルはブリテン島に上陸した初めてのローマ人となります。遠征自体は紀元前55年、紀元前54年と2次に渡りますがブリタニア南東部(ケント州)の一部の部族を服属させローマに貢物を約束させただけで満足せざるを得ませんでした。
 この時、カエサルが征服したガリアの土地はガリア東部を北上しライン川沿岸、ベルガエ人の土地からブルターニュ半島、アクィタニアとちょうどガリアの内陸を囲むようになっていました。内陸部のガリア諸族はこの時点で旗幟を鮮明にしなければなりません。紀元前54年秋、北ガリアで散発的な反ローマ蜂起が相次ぎました。カエサルの長年に渡るガリア遠征は、バラバラだったガリア人たちに民族的自覚を芽生えさせます。紀元前52年1月、ケナブム(現オルレアン)でローマ商人が殺害されるという事件が起こりました。これをきっかけに反乱はガリア全土に広がり、ガリア人たちはアルウェルニ族の若き王ウェルキンゲトリクスを指導者に推戴し反ローマ闘争を開始します。
 カエサルの送った討伐軍はゲルゴウェアで敗北を喫しました。紀元前53年にはガリアとは別のところでも大事件が起こります。ポンペイウスの輝かしい軍功、現在進行形で名声を獲得しつつあるカエサルに劣等感を感じていたクラッススは、野心を持ってパルティア遠征を企画しました。5万の兵を率いたクラッススはシリアからユーフラテス河を渡ってパルティアに入ります。ところがパルティアの将軍スレナスは主力の弓騎兵に遠巻きにさせ矢を射かける戦術でクラッスス軍を苦しめました。
 砂漠の真ん中カルラエで立ち往生したクラッスス軍は飢えと渇きで疲弊、状況を打開しようとクラッススは息子プブリウスに騎兵を率いて強行突破を命じます。しかし、待ち構えていたパルティア軍はプブリウスを誘いこんで包囲、激しく攻め立てました。プブリウスは進退極まって自害。プブリウスの首が陣中に投げ込まれた事でローマ軍の士気は崩壊します。ローマ軍はカルラエの戦いで大敗、クラッススも戦死しました。ローマ軍は戦死者の埋葬どころか負傷者4000名も置き去りにするという状況で文字通り潰走します。
 クラッススの死によって三頭政治の一角は崩れました。同時期カエサルの娘でポンペイウスに嫁いでいたユリアが病死したことでカエサルとポンペイウスの蜜月時代は終わりを遂げる事になります。しかし、ガリア人の反乱に忙殺されるカエサルに将来を憂う余裕はありませんでした。
 後編では、ガリア人とカエサルの最終決戦アレシアの戦いを描きます。

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