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2016年12月 1日 (木)

ローマ帝国建国史Ⅹ   カエサル暗殺

 ポンペイウスの二人の息子グナエウス(小ポンペイウス)とセクストゥスを擁したラビエヌスは、ポンペイウスが長年勢力を扶植したヒスパニアに逃れ最後の決戦を行うつもりでした。ただ、ポンペイウスもカトーら元老院保守強硬派もすべてカエサルに倒されていたため残敵掃討の段階に入っていたとも言えます。
 紀元前46年夏、ヒスパニア遠征を控え準備をするためカエサルはローマに帰還します。この時ガリア戦争とその後のローマ内乱勝利を祝い壮麗な凱旋式を挙行しました。ローマ人たちは、ガリア戦争は理解できるものの同じローマ人に対する勝利を祝う事に複雑な感情を抱きます。さらに、カエサルがエジプトからクレオパトラ7世と愛息カエサリオンを招いた事は、ローマ人たちの秘かな反発を生みました。ローマ人たちから見るとエジプト人は我らが英雄ポンペイウスを騙して殺した連中、いくらカエサルの縁者だとはいえ歓迎されるはずがありませんでした。まだまだ当時ポンペイウスの恩を忘れない者が多かったからです。凱旋式の目玉として降伏してこの日まで生かされてきたガリアの王ウェルキンゲトリクスが処刑されます。
 カエサルは元老院から10年間の独裁官、3年間の戸口監察官に任命されました。事実上の独裁者です。これがいつ終身独裁官になるかは誰も分かりませんでした。そして行きつく先は帝政という可能性もあったのです。
 ともかくカエサルは、最後に残った敵を倒すためヒスパニア遠征の準備を急ぎました。ヒスパニアはファルサロスの決戦前、後顧の憂いを断つためカエサル自ら遠征し平定しています。しかし、あくまで一時的な処置で本格的な統治ではなかったため多くのポンペイウス派が残っていました。ラビエヌスはそこに賭けたのです。
 ヒスパニアに渡ったラビエヌスらは秘かに兵を募ります。するとこれまで潜んでいたポンペイウス派が続々と参加し瞬く間に13個軍団(重装歩兵7万、騎兵6千)が集まりました。それだけポンペイウスの勢力が強かったのでしょう。この兵力を基にポンペイウス派はカエサルが任命したヒスパニア各地の属州総督を追放、カエサルの派遣したトレボニウス指揮の討伐軍も破るという深刻な状況に陥りました。
 紀元前46年11月、カエサルは4個軍団(第3、第5、第6、第10)を率いてヒスパニアに遠征します。現地に既に派遣していたものと、増援を合わせて計8個軍団(重装歩兵4万、騎兵8千)の兵力になったカエサルはすぐさま行動に移りました。この遠征にカエサルは姪の子ガイウス・オクタヴィウス・トゥリヌスを伴い英才教育をする予定でした。カエサルは生涯で多くの女性を愛しましたが男子はクレオパトラとの間に生まれたカエサリオンしかなく、幼少期から聡明だった姪の子オクタヴィウスを自分の後継者にしようと考えていたのです。勘の良い方は分かると思いますが、当時少年だったオクタヴィウスこそ後の初代ローマ皇帝オクタヴィアヌスでした。
 オクタヴィウスの帯同は、本人が病気になったために実現しませんでした。カエサルはオクタヴィウスを教育するため平民の子で同じく聡明であったマルクス・ウィプサニウス・アグリッパを側近として付け将来の布石とします。ラビエヌスらは決戦を避け、籠城策を採りました。するとポンペイウス派には現地兵が多かったため士気が弛緩しカエサル陣営の工作もあり寝返る者や逃亡する兵が相次ぎます。
 結局このままではじり貧になって崩壊すると分かったポンペイウス派は最後の決戦をすべくムンダの平原に進出しました。籠城策を採られると長期戦になるのでカエサルもこれに応じます。数の上ではカエサル軍が8個軍団、ポンペイウス派が13個軍団でしたが、歴戦のカエサル軍と比べると現地で集め実戦経験の少ない烏合の衆だったポンペイウス派は勝負になりませんでした。
 戦いは当初拮抗しカエサルも一時は死を覚悟するほどだったそうですが、カエサル軍中のモウレタニア騎兵(ヌミディア滅亡後これを吸収していた)の活躍で形勢逆転、ポンペイウス派は全面崩壊、潰走しました。カエサル軍はすぐさま追撃に移ります。この戦いでポンペイウス派は死者3万という膨大な損害を出しました。一方カエサル軍の損害は戦死者千、負傷者5百に留まります。敵将ラビエヌスは戦いの中で戦死し、グナエウス・ポンペイウスも捕えられて処刑、弟セクストゥスはヒスパニア大西洋沿岸の山岳地帯に逃れ生き残りました。後年、カエサル暗殺後セクストゥスは再び蜂起しますが、オクタヴィアヌスの将軍アグリッパに敗北し紀元前35年ミレトスで捕えられこれも処刑されます。
 ムンダの勝利でルビコン渡河から始まったローマの内乱は一応の終息を迎えます。ローマに戻ったカエサルは、長年懸案だった諸政策を実行し始めました。カエサルが権力を志向したのは事実でしょう。ただし個人的権力欲だけではなく、彼なりにグラックス兄弟の改革以来山積してきたローマ社会の諸矛盾解決を願っていた事も忘れてはなりません。
 カエサルはまず、増えすぎた人口問題を解決するため各地に植民市を建設、無産市民8万人を海外に送り出しました。これにより穀物の無料配給を受ける市民が32万人から15万人に減ります。また牧場の労働者の内3分の1は自由民にすべしと布告を出します。これはスパルタクスの奴隷反乱の痛い経験からでした。カエサルの最大の改革は暦です。紀元前63年以来終身の大神官職だったカエサルは、アレクサンドリア系の太陽暦を基にした所謂ユリウス暦を制定しました。これが現在の暦の基礎となります。ユリウス暦の開始は紀元残45年1月1日からでした。
 カエサルは、当時人口100万を数えたローマ市の都市計画にも関心を示し各所で大規模な土木工事を行います。一連の諸改革で既得権益を持つ守旧派をもっとも怒らせたのはローマ市民権の野放図の拡大でした。さらにカエサルは、自分に忠実なガリア諸族の族長にまで元老院議員の地位を与えます。
 カエサルに不満を抱く者たちは秘かに集まり始めました。中でも小カトーの甥(小カトーの姉セルウィリアの子)にあたるマルクス・ユニウス・ブルートゥスが急先鋒でした。実はブルートゥスの母セルウィリアは、かつてカエサルの愛人でカエサル自身もブルートゥスを息子同然に思っていたそうです。ところが名門ユニウス氏族に属するブルートゥスにとってはこれが我慢ならなかったのでしょう。
 ブルートゥスは、カッシウスらと語らいその日を待ちました。紀元前44年3月15日、元老院はカエサルにイタリア半島以外の属州では王と呼ぶ事を決議するため出席を要請します。出発の数日前からカエサルの妻は不吉な夢を見て、また当日にもカエサルの馬が突如暴れ出すなど予兆がありました。妻はカエサルにこの日の外出を控えるよう願いますが、王になれる期待を抱いていたカエサルは構わず出発しました。
 議場に着くと、カエサルは側近たちと離され単身内部に案内されます。多くの元老院議員たちが次々と陳情に訪れカエサルが少々煩く感じたその瞬間背中に激痛を感じました。驚いたカエサルが振り返ると周囲の元老院議員たちが次々と短剣を持ってカエサルに斬りかかります。最後に止めを刺した人物を確認した時、有名な言葉を残しました。カエサルは「ブルートゥス、お前もか…」と絶句し事切れます。享年55歳、偉大なる英雄の最期でした。
 一説では最後の言葉は「息子よ、お前もか…」だったとも言われますが、どちらにしろカエサルという巨星はこの時消えたのです。数日後、カエサルの遺言状が披露されます。第1相続人に指名されたのは姪の子オクタヴィウス。わずか18歳の青年は、この時からガイウス・ユリウス・カエサル・オクタヴィアヌスと名乗ります。
 青年オクタヴィアヌスの前途は多難でした。カエサル殺害犯人の処遇、カエサル軍中のアントニウスなど有力者との関係、カエサルの莫大な財産を相続したとはいえ未だ官途にさえ就いていない徒手空拳の若者に何ができるでしょう?次回、オクタヴィアヌスがどうやって権力を掴んで行ったか、その過程を記す事にしましょう。

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