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2016年12月 1日 (木)

ローマ帝国建国史Ⅵ   ガリア戦争(前編)

 紀元前58年、両ガリア(近ガリア、遠ガリア)、イリュリア総督ガイウス・ユリウス・カエサルは軍を率いてアルプス山脈を越えました。率いる兵力は第7、第8、第9、第10、第11、第12の6個軍団3万6千(重装歩兵3万、騎兵6千)。
 カエサルが自分の勢力拡大を目指すと同時に、ようやく北方の脅威になりつつあった蛮族ゲルマン人をライン河(ラテン語ではレ―ヌス河)の彼方に駆逐するという公的な目的もありました。元老院がカエサルにガリア遠征を許可したのは国防上の理由もあったのです。軍事的縦深を深めるという意味でした。ただいくら古代社会とはいえ大義名分のない戦争は国内外から支持されません。そこでカエサルが目を付けたのはヘルウェティイ人問題でした。
 ヘルウェティイ族は、ガリア人の一部族で現在のスイス山岳地帯に住んでいました。ところがゲルマン人がこの地に進出し圧迫を受け移動を余儀なくされます。ヘルウェティイ族は安全な土地に移動するためローマ人にガリア属州の通行許可を求めていました。ところがカエサルをこれを認めず、ヘルウェティイ族に攻撃を仕掛けます。
 プブリウス・リキニウス・クラッスス(三頭政治の一角クラッススの息子、当時カエサル軍の騎兵隊長)の活躍でローマ軍はヘルウェティイ族を元の居留地に押し返すことに成功。これをきっかけにカエサルはガリアに介入していきます。
 カエサルが率いた兵力を見て少なすぎると感じた方も多いと思います。当時ローマは本土だけで軽く12万(20個軍団)を動員できる力を持っていました。属州も含めると遠征軍で20万、防衛戦なら40万以上集める事ができたでしょう。しかし、内乱の一世紀とよばれるうち続く戦乱でローマ軍は各地に駐屯、しかもそのほとんどはポンペイウスの息がかかった軍団でカエサルが自由に動かせる軍団はこの程度しかなかったのが実情でした。カエサルは最盛期でも10万以下の軍隊でガリアを征服したのです。
 
 カエサル率いるローマ軍はヘルウェティイ族討伐後そのまま北上、ライン河を越えてガリアに進出してきたゲルマン人のアリオウィストゥス率いる部族と対峙、ウォセグスの戦いに発展します。この時もプブリウス・クラッススが活躍し勝利を収めました。戦争が2年目に突入するとベルガエ人(現ベルギー人の源流)との戦いが始まります。ベルガエ人はガリア人最強とも目される部族で、これを制さないとガリア征服は完成しないとも言われていました。
 ベルガエ人は頑強に抵抗し、この地の平定は越年します。その間、大西洋沿岸のアクィタニア人(後のアキテーヌ地方に住んでいた。地域としてはブルターニュ半島の南境からスペイン国境まで。内陸にはフランス国土の西半分という広大な土地)も反ローマに立ち上がります。カエサルの率いる兵力があまりにも少なくその都度モグラ叩きのように対処せざるを得なかった事が招いた現象でした。
 ガリア戦争3年目の紀元前56年、カエサルは軍を冬営させローマ本土に戻ります。これはトスカナ地方のルッカでポンペイウス、クラッススと会談するためでした。カエサルの留守で箍が緩んできた三頭政治を締め直す事が目的でしたが、会談の結果ポンペイウスとクラッススが紀元前55年の執政官選挙に立候補しカエサルにさらに5年間のガリア総督任期延長を認めることが決まります。
 紀元前55年、カエサルは停戦協定を反故にしライン河のこちら側に進出してきたゲルマン人を再び撃破、ライン河に橋を掛けゲルマンの地に初めて侵入しました。これで一時小康状態を得ますが、背後ではブリタニア人が海峡を渡ってガリアに入り込みます。これは反ローマのガリア人たちが引き入れたものでした。カエサルは、ライン河の守備を副将ラビエヌスに任せるとブリタニア遠征を準備します。
 ブリタニア、現ブリテン島(イギリス本土)は当時ローマ人に知られていませんでした。カエサルが偵察部隊に調査させると島の大きさはガリア本土の3分の2ほど。住民はガリア人と同族のケルト人。文化はガリア人と近いがより剽悍で手ごわい相手。万全の準備をしたカエサルは2個軍団(1万強)を率いてドーバー海峡を渡りました。
 といってもあくまで威力偵察で、カエサル自身征服する気も長く留まるつもりもありません。カエサルはブリテン島に上陸した初めてのローマ人となります。遠征自体は紀元前55年、紀元前54年と2次に渡りますがブリタニア南東部(ケント州)の一部の部族を服属させローマに貢物を約束させただけで満足せざるを得ませんでした。
 この時、カエサルが征服したガリアの土地はガリア東部を北上しライン川沿岸、ベルガエ人の土地からブルターニュ半島、アクィタニアとちょうどガリアの内陸を囲むようになっていました。内陸部のガリア諸族はこの時点で旗幟を鮮明にしなければなりません。紀元前54年秋、北ガリアで散発的な反ローマ蜂起が相次ぎました。カエサルの長年に渡るガリア遠征は、バラバラだったガリア人たちに民族的自覚を芽生えさせます。紀元前52年1月、ケナブム(現オルレアン)でローマ商人が殺害されるという事件が起こりました。これをきっかけに反乱はガリア全土に広がり、ガリア人たちはアルウェルニ族の若き王ウェルキンゲトリクスを指導者に推戴し反ローマ闘争を開始します。
 カエサルの送った討伐軍はゲルゴウェアで敗北を喫しました。紀元前53年にはガリアとは別のところでも大事件が起こります。ポンペイウスの輝かしい軍功、現在進行形で名声を獲得しつつあるカエサルに劣等感を感じていたクラッススは、野心を持ってパルティア遠征を企画しました。5万の兵を率いたクラッススはシリアからユーフラテス河を渡ってパルティアに入ります。ところがパルティアの将軍スレナスは主力の弓騎兵に遠巻きにさせ矢を射かける戦術でクラッスス軍を苦しめました。
 砂漠の真ん中カルラエで立ち往生したクラッスス軍は飢えと渇きで疲弊、状況を打開しようとクラッススは息子プブリウスに騎兵を率いて強行突破を命じます。しかし、待ち構えていたパルティア軍はプブリウスを誘いこんで包囲、激しく攻め立てました。プブリウスは進退極まって自害。プブリウスの首が陣中に投げ込まれた事でローマ軍の士気は崩壊します。ローマ軍はカルラエの戦いで大敗、クラッススも戦死しました。ローマ軍は戦死者の埋葬どころか負傷者4000名も置き去りにするという状況で文字通り潰走します。
 クラッススの死によって三頭政治の一角は崩れました。同時期カエサルの娘でポンペイウスに嫁いでいたユリアが病死したことでカエサルとポンペイウスの蜜月時代は終わりを遂げる事になります。しかし、ガリア人の反乱に忙殺されるカエサルに将来を憂う余裕はありませんでした。
 後編では、ガリア人とカエサルの最終決戦アレシアの戦いを描きます。

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