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2017年1月

2017年1月24日 (火)

斎藤道三Ⅴ  長良川に散る

 さしもの斎藤道三も、今度ばかりは織田信秀率いる連合軍の攻勢の前に劣勢を余儀なくされました。連合軍は西美濃の要衝大垣城を落とし稲葉山城に迫ります。さすがに稲葉山城は長井豊後守利隆が築城し斎藤道三が大改修を加えていたため一朝一夕で落ちる城ではありませんでしたが、連合軍の跳梁跋扈を美濃で許す事は、道三陣営の国人たちの動揺を招くため放置するのは危険でした。
 八方塞の道三は、織田信秀に和睦を申し入れます。その条件は土岐頼芸を揖斐城に迎え入れ、越前に逃れていた政頼の子頼純を大桑城に迎え自分は政治の実権を返上するというものでした。さらにそれを保障するため、正室小見の方の生んだ濃姫(帰蝶)を信秀の嫡男信長に嫁がせる事も合意されました。
 道三が狡猾だったのは、頼芸だけでなく正当な土岐家督・美濃守護職の権利がある嫡流の頼純も同時に迎え入れた事です。これで美濃の権威は二分し、道三復活の目も十分にありました。織田信秀は道三の策を見抜きますが、この頃駿河の今川義元と三河の支配権を巡って激しく戦っていたため道三とは和睦の必要があり黙認します。
 宿敵織田勢が美濃を去ると、反道三勢力は道三の裏切りを警戒し大桑城に頼純だけでなく頼芸も籠城させました。しかしこれは、逆に道三に協定破りという攻撃材料を与える愚策となります。天文十六年(1547年)8月道三は軍を率いて大桑城を急襲、正当な土岐家督と美濃守護の資格を持つ頼純を戦死させました。頼芸は命からがら脱出し越前に亡命します。平安中期以来美濃に君臨した名門美濃源氏土岐氏はこの時滅亡しました。
 天文十八年(1549年)2月、道三は約束を守り愛娘濃姫を隣国尾張織田信秀の嫡子信長に嫁がせます。輿入れの前夜、道三は娘に形見の懐剣を与え
「もし婿の信長が噂通りのうつけであったら、この懐剣で刺し殺せ」と話します。すると濃姫はにっこり笑い
「もしかしたらこの剣は、父上を刺す刃になるやもしれませぬ」と答えたと言われます。すると道三は呵々大笑し「流石は蝮の娘だ」と頷いたそうです。
 もちろん史実の可能性は低いですが、そういう父娘の会話があったかもしれないと思うと歴史は面白いですね。この時信長16歳、濃姫は15歳でした。
 天文二十年(1551年)道三生涯の宿敵織田信秀が急死します。後を継いだ信長はうつけの噂も高く、道三はあわよくば信長を殺して尾張を奪おうと会見を申し込みました。両者は美濃国境近い尾張正徳寺で会う事に合意します。道三は、信長が暗愚であったらその場で暗殺するつもりでした。会見の前、信長の行列を見ようと道三は秘かに街道上の民家から覗きます。先頭を行く馬上の信長はだらしない恰好で、髷は荒縄で縛り瓢箪を下げ柿を食べながら進んでいました。やはり噂通りのうつけだったかと道三は帰ろうとしますが、その後に続く行列を見て仰天しました。
 一隊は道三が戦で工夫した長さ三間半の長槍を装備し、別の部隊は五百の鉄砲を装備していたからです。当時鉄砲は新兵器でまだまだ実戦での効果は分かっていませんでした。値段も高価で田舎大名が簡単に揃えられる代物ではありません。さらに会見では、それまでの格好とは打って変わり見事な正装で現れた信長を見て絶句します。会見後道三は、側近の猪子兵助に向かい
「我が家の子供たちは、いずれ信長の軍門に馬をつなぐことになろう」と呟いたそうです。
 一旦人物を認めると道三は信長に好意を見せました。この頃信長はまだ尾張を統一していませんでしたが、道三は使者を送り「もし戦で城を開けるときは、わが美濃から加勢を送ろう」と申し出たのです。信長は蝮と恐れられる舅の好意を複雑な感情で受けたと想像しますが、自分に好意を持ってくれている事だけは感じ取りました。実際、実の兄弟や一族ですら信用出来なくなっていた信長も舅道三だけは好きになったのかもしれません。
 斎藤道三は、織田家と和睦が成りようやく平穏な時を迎えたかに見えました。ところが稲葉山城で名目上の守護だった息子義龍が、自分の出生の秘密を知ります。父と思っていた道三が実は本当の父頼芸の仇だと知り義龍は激高しました。土岐家の旧臣たちもある事ない事吹きこんだため、義龍は道三一族排除を決意します。
 ある時、義龍は病気と称し引きこもりました。家督相続について相談があると弟孫四郎と喜平次を稲葉山城に呼び寄せた義龍は、日根野兄弟に命じて殺させます。実は道三は、機会を見て頼芸の胤である義龍を除き、実の子孫四郎を後嗣にする腹でした。義龍に先手を打たれたのです。事件を知った道三は当然怒ります。
 義龍を討とうと美濃全土に動員令を下しました。一方義龍も同じく兵を集めます。ところが義龍は明朗快活な性格で人望厚く、何より正当な土岐家の血を引くという事で美濃国人の支持を集め一万二千もの軍勢が集結しました。道三は所詮他所者で、これまでの数々の悪事からわずか二千の兵しか集まりません。道三は自らの運命を悟りました。
 弘治二年(1556年)4月、鷺山城での籠城策を捨て道三は二千の兵と共に出撃、長良川に陣を布きます。義龍も呼応し両軍は長良川を挟んで激しくぶつかりました。しかし多勢に無勢、道三勢は多くが打ち取られ敗走します。道三にとどめを刺したのはかつての側近小牧源太だったと伝えられます。織田信長も舅道三を救うべく出陣していたそうですが、義龍勢に阻まれ木曽川を越える事ができませんでした。
 一代の梟雄斎藤山城入道道三、享年62歳。死の間際、道三は信長宛に美濃国の譲り状を書いたそうです。史実かどうかは分かりませんが、天下統一の夢は娘婿織田信長に委ねられました。信長が稲葉山城に入り美濃を平定するのは、それから11年後の永禄十年(1567年)の事です。
                                  (完)

斎藤道三Ⅳ  宿敵

 美濃守護土岐頼芸は暗愚な人物でした。西村勘九郎(=斎藤利政=道三)のおかげで美濃守護職と土岐家督を得たのですが、彼自身は政治に興味が無くすべてを勘九郎に任せます。勘九郎はすでに入道し斎藤道三と名乗っているので以後道三で通します。
 頼芸が要害の地革手城に居られては困る道三は、頼芸のために長良河畔枝広に豪勢な居館を建てて住まわせます。頼芸はここで酒色にふけり趣味の書画に没頭しました。土岐一族には鷹の名画を描く者が多くいたそうですが、頼芸の描く鷹は特に有名で『土岐の鷹』として後世の評価が高かったそうです。代わって守護代斎藤道三が稲葉山城で美濃の政務を執りました。
 枝広が洪水で流失すると、道三は濃尾平野北方の大桑城への移動を頼芸に勧めます。頼芸は後先も考えずこれに従い、道三を掣肘する者は美濃国に居なくなりました。さらに道三は、自分の権力掌握に邪魔だった頼芸の弟揖斐五郎光親、鷲津六郎光敦(みつのぶ)、八郎頼香、頼芸の嫡男一色小次郎頼秀らを頼芸に讒訴し遠ざけます。
 道三のやり方はあまりにも強引過ぎ、心ある美濃の国人たちに反発を受けました。反道三の蜂起は彼らの自発的なものがきっかけだったと言われますが、私は越前に亡命していた前守護政頼の影を見るのです。というのも、道三が美濃追放された直後、越前の朝倉、近江の六角、浅井、尾張の織田信秀が連合して美濃に攻めかかったからです。連合軍は土岐政頼の守護復帰を大義名分にしていました。ただ首謀者は政頼だったとしても、実質的な指揮者は尾張の織田信秀でした。この時信秀は七千の軍勢を動員します。
 反乱軍は邪魔者道三を追放したものの、これといった指導者に欠き、本来国を統治すべき守護頼芸は無能、それを補佐する守護代斎藤家も小守護代長井家も道三がすでに滅ぼしていたため大混乱に陥ります。連合軍に各地で敗北し美濃失陥は時間の問題となりました。ただ美濃を連合軍が落としたとしても前守護政頼が復帰する事はなかったと思います。織田信秀にとっては、美濃侵略の単なる口実に過ぎず、今度は美濃支配権を巡って朝倉・浅井連合軍や六角氏と信秀との間で合戦が起こっていたでしょう。
 こうなると侵略軍に対抗できる軍略を持っていた人物は一人しかいませんでした。美濃からの密使が京山崎に送られます。こうして斎藤道三は再び美濃の地に下りました。稲葉山城に入り美濃の軍勢を掌握すると、道三はまず戦意の低い浅井・朝倉連合軍と六角勢を叩きます。これを簡単に撃ち破ると織田勢と木曽川を挟んで対峙、激しくぶつかりました。信秀とて馬鹿ではありません。道三のもとで一つにまとまった美濃国は簡単に滅ぼせなくなったと悟ります。さらに他の連合軍が敗退し尾張勢だけが孤立する形になった今、これ以上の戦の継続は無駄だと考え、さっさと道三と和睦し兵を引きました。
 こうして美濃を取り戻した道三ですが、前回の失敗に懲り国人たちの懐柔を進めます。道三の活躍を見た国人たちの中にも、戦国の世で美濃を保つには悪人であっても道三しかいないと考える者たちが出てきました。その中でも有力だったのが土岐一族の明智氏で、当主光綱は妹を道三に嫁がせ姻戚関係となります。この女性が道三の正室小見の方で、彼女との間に濃姫(帰蝶)が生まれました。他に道三は深芳野との間に喜平次、孫四郎という男子をもうけます。
 道三は、さらに美濃の有力国人西美濃三人衆稲葉一鉄、安藤伊賀守、氏家卜全、あるいは日根野備中などを味方につけます。天文十一年(1542年)これらの軍勢をひきつれた道三は、突如土岐頼芸の居城大桑城を囲みました。道三は頼芸に引退を強要します。軍勢の力に恐れをなした頼芸は、城を明け渡し尾張の織田信秀を頼って落ちて行きました。
 美濃は完全に道三の手中に入ります。が、息子義龍が頼芸の胤である事は周知の事実だったため義龍を名目上の守護に奉じ稲葉山城に入れました。道三本人は鷺山城を居城とします。一介の油売りがついに一国を得たのです。こうして美濃国主となった道三ですが、事はそう簡単に収まりませんでした。
 天文十三年(1544年)、織田信秀は土岐頼芸を奉じて美濃へ侵攻を開始します。この時も信秀は、越前の朝倉、北近江の浅井、南近江の六角氏と語らい道三を挟み打ちしました。信秀率いる織田勢九千、朝倉氏なども大軍を集め総勢は二万を数えたという説もあります。絶体絶命の危機でした。信秀はすでに美濃国内にも調略の手を伸ばし氏家、稲葉、不破、伊賀氏らが信秀に付きます。
 道三はこの危機をどのように脱するのでしょうか?次回最終回道三の最期を描きます。

斎藤道三Ⅲ  美濃乗っ取り

 美濃国の守護所は、美濃国第三代守護土岐政康が築城して以来革手(川手、岐阜市正法寺町)城でした。平城でしかも居館造りでありながら旧木曽川と荒田川にはさまれた天然の要害で、守護の統治所としてふさわしい場所です。城下町川手は繁栄し、キリスト教宣教師が同地を訪れた時その繁栄ぶりを書き記したくらいでした。
 守護代斎藤利良に対し、長井藤左衛門尉(越中守とも称す)長弘は小守護代と呼ばれます。最初池田郡白樫を本拠としていましたが美濃統治に不便なので長良に居館を構えます。その詰めの城が稲葉山でした。長弘が築城する前は小規模な砦があったそうですが、この時初めて美濃国で重要な城となりました。ところで稲葉山城は長良川に北麓を削られる急峻な山城でしたが、何故この地に誰も築城しなかったかというと山容が痩せており風水的に城主が不幸になる土地だったからだと言われます。一概に迷信と片付けられないのは、その後城主となった斎藤道三、織田秀信などの最期を知っているからです。信長も安土に移ったとはいえ最後は悲惨でしたよね。
 西村勘九郎は、土岐頼芸に仕えることとなりました。頼芸を後見していたのは小守護代長井長弘でしたから、直接的には長弘に仕えることとなります。永正十四年(1517年)病気がちだった美濃守護土岐政房は隠居しました。その家督を巡って長男政頼を推したのは守護代斎藤利良、次男頼芸には小守護代長井長弘がつき、両派は互いに争います。この時は正当性のある政頼派が勝ち、政頼が土岐家督と守護職を得ます。
 面白くないのは弟頼芸でした。この頃完全に頼芸の寵臣となっていた勘九郎は、主君に向かって政権奪取のクーデターを勧めます。とんでもない家臣もあったものですが、勘九郎の最終計画のためにはどうしても暗愚な頼芸に美濃守護になってもらわないと困るのです。
 クーデターの陰謀が着々と進む中、一つのエピソードがありました。ある時頼芸は宴席の酒肴で寵臣勘九郎に「屏風の虎の目を槍で衝いてみせよ。成功したらなんなりと褒美を取らす」と命じました。
すると勘九郎は、
「でしたら殿が御寵愛の側室深芳野殿を賜りとうございます。もし失敗したら庭先をお借りて腹かっさばく所存」と申し出ます。
 座興ではあれ自分が申し出た事ですから頼芸は渋々ながらもこれを認めました。遊びで自分の運命が決められるのを見て深芳野の内心はどうだったでしょう?勘九郎は見事屏風の虎の目を貫き深芳野は彼のものになりました。
 大永七年(1527年)、着々と美濃の国人層に工作を重ね味方につけていた頼芸陣営は突如蜂起、革手城に守護土岐政頼を攻めます。軍勢を指揮するのは西村勘九郎。突然の奇襲になすすべがなく政頼は越前の朝倉氏を頼って亡命しました。同じ年、深芳野は勘九郎の長男義龍を生みます。ところが、深芳野は勘九郎のもとに来る前すでに身籠っており、義龍は土岐頼芸の子だったと伝えられます。勘九郎が気付いていたかどうかですが、おそらく知っていたでしょう。その上で、自分の安全策として沈黙を守りました。
 こうして土岐頼芸は、西村勘九郎のおかげで土岐家督と守護職を得ます。しかし暗愚な頼芸に美濃を統治する力はなく勘九郎が実質的に美濃を支配しました。勘九郎は自分の権力を盤石なものにするため、自分を引き上げてくれた恩人守護代長井長弘の追い落としを図ります。これが蝮と言われる所以ですが、勘九郎が長弘に謀反の濡れ衣を着せて攻め殺したというのは俗説で、『岐阜県の歴史』によると病死説も取り上げています。
 ただ長弘の後を継いだ息子景弘を勘九郎が殺した可能性は高く名門長井家は断絶しました。天文二年(1533年)勘九郎は頼芸に頼み、長井家を継ぎ長井新九郎規秀と名を改めます。さらに天文七年(1538年)には正当な美濃守護代斎藤利良も亡くなりました。これも陰謀の臭いがしなくもないですが、規秀は斎藤氏を継ぎ斎藤左近大夫利政と名を変え美濃守護代に収まります。
 傀儡の守護頼芸を頂き、美濃の実権を握った利政。しかし彼の強引なやり方は美濃国人の猛反発を食らいました。斎藤氏や長井氏に所縁の者も多く、さらには守護土岐家を蔑ろにする利政は蛇蝎のように嫌われます。美濃国人たちは、利政追放を叫び一斉に蜂起しました。その数一万を超えていたそうですから、利政の嫌われ具合が分かりますね。
 おろおろする頼芸を冷静に見ていた利政は、突如頭を丸めて革手城に出仕します。出家して道三と名乗った利政は、自分が引退し美濃を去る条件で反乱軍を納得させます。こうして美濃国乗っ取りは失敗したかに見えました。道三は、京都山崎に戻り油商人山崎屋として余生を送るはずでした。
 ところが、外的要因が再び道三を美濃に呼び戻す事になります。次回宿敵に御期待下さい。

斎藤道三Ⅱ  松波庄五郎美濃入り

 現在の岐阜県は北の山岳地帯飛騨国と南の美濃国に分かれます。飛騨が太閤検地でわずか4万石弱だったのに対し美濃は54万石、実高で65万石あったとも言われる大国でした。これより大きい国は近江(78万石)、武蔵(67万石)くらいしかなく、日本有数の豊かな国だったと言えます。しかも関ヶ原という要衝を持ち、畿内と東国を結ぶ重要な国でした。俗に「美濃を制す者は天下を制す」と言われたくらいです。
 美濃国の守護は土岐氏。清和源氏の嫡流を継いだ河内源氏頼信の異母兄頼光から始まる名家で、頼光とその子頼国が共に美濃守を務めた事から美濃国土岐郡に土着しました。土岐氏を名乗ったのは、頼光の曾孫光信の時で、土岐郡土岐郷に住んだ事から、土地の名前を取って土岐氏と称したそうです。ちなみに同族に源三位頼政がいます。光信とは又従兄弟の関係でした。
 源氏の有力者として鎌倉時代は北条氏に警戒されたそうですが、足利尊氏を助けて大功を上げ美濃守護職を得ます。室町時代を通じて美濃守護職を世襲しますが、応仁の乱の頃には当時の有力守護の御多分に洩れず家督争いでガタガタになりました。代わって台頭してきたのは守護代斎藤氏です。
 斎藤氏は、藤原北家魚名七世の子孫藤原叙用(のぶもち)が斎宮頭に任じられた事から斎宮頭の藤原略して斎藤と称したのが始まりでした。斎藤氏の子孫からは加賀の冨樫氏や後藤氏などが出ます。斎藤氏と美濃の繋がりは斎藤帯刀左衛門尉親頼が美濃国目代(任地に赴かない遥任国司の代官)となったのが最初でした。
 斎藤氏は、南北朝時代に美濃守護土岐氏に従って戦い守護代の地位を得ます。守護代斎藤氏で一番有名なのはなんといっても斎藤妙椿(みょうちん、1411年~1480年)でしょう。妙椿は斜陽の土岐氏を支え応仁の乱期の美濃を固めます。武蔵の太田道灌と共に当代一流の文化人でしたが武将としての力量もなかなかで、ついには主家土岐氏を凌ぐようになりました。室町幕府奉公衆となって従三位権大僧都という高位に登ります。主君土岐成頼は従五位でしたので、両者の関係が悪化するのは必然でした。
 ただその対立が決定的になる前に妙椿は病死します。後を継いだのは甥で養子になっていた利国。ところが明応五年(1496年)守護代斎藤利国とその子利親が近江で戦死します。後を継ぐべき利親の子利良が幼少だったため、利親の弟で長井氏を継いでいた豊後守利隆が利良を後見し、守護代職を代行するようになっていました。
 この美濃長井氏に関しては出自が謎で、斎藤氏の一族であることは間違いないのですが、もともとあった長井氏が断絶したために利隆が継承したという説、あるいは利隆の代に新たに長井氏を興したという説がありはっきりしません。
 美濃国の実権は、守護土岐氏から守護代斎藤氏に移り、今は一族の長井利隆が権勢をふるうようになりました。そして永正十二年(1515年)利隆が死去すると、息子藤左衛門尉長弘は実権を守護代利良に返さず事実上守護代のように振る舞います。もっとも好意的見方もあり、頼りない利良に代わって美濃国を支えただけだとも言えます。
 松波庄五郎が美濃国に入った時は、このような情勢でした。庄五郎は最初常在寺に日運上人を訪ねます。かつての妙覚寺の兄弟弟子、法蓮坊が訪ねてきたと聞いた日運は狂喜してこれを迎えました。田舎にいては中央の情勢に疎くなり、話の合う教養人もほとんどいなかったため日運は高度な会話ができる者を渇望していました。親友であった法蓮坊、今は還俗して松波庄五郎は彼にとってうってつけの人物だったのでしょう。話は懐かしの思い出話に始まり、天下の情勢を論じはじめると、日運は庄五郎の話にどんどん惹き込まれて行きました。
 歓談尽きぬ中、日運はふと庄五郎に尋ねます。
「時に庄五郎殿、貴方は美濃国で仕官する気はないか?その気があるなら甥の長弘に口利きしても良いが…」
これに対し庄五郎は
「今美濃は守護土岐家の家政乱れ、いつ滅ぶか分からぬ状況。仕えるなら日の出の勢いの尾張の織田信秀かなあ」と答えました。
 隣国、しかも敵国である織田信秀に有能な庄五郎が仕えればますます美濃が危なくなると恐れた日運は必死に庄五郎を説得します。読者の皆さんはすでにお気づきと思いますが、これは庄五郎一流の手で相手に懇願されて美濃に仕官するという形を作るための策でした。
 「庄五郎殿、そなたの力で美濃を支え、滅亡から防いでもらいたい」という日運の願いに応える形で庄五郎は仕官する事を承諾しました。
 叔父で一族の長老日運上人の強力な推挙だったため、長井長弘も庄五郎を歓迎します。しかも庄五郎は教養だけでなく弁舌さわやか、武芸の嗜みもあり、長弘は守護土岐政房に推挙しました。ところが政房の嫡子政頼が反対しこの話は流れます。政頼からしたら、どこの馬の骨か分からない庄五郎に胡散臭さを感じていました。結果論ですがこの直感は当たりでした。しかし、美濃の人間が気付くのはあまりにも遅すぎたのです。
 仕方なく庄五郎は、政頼の弟頼芸(よりあき)に仕えることとなります。頼芸も芸術好きで庄五郎と馬が合いました。庄五郎は頼芸の命で、名門西村家が絶えていたのを継いで西村勘九郎と名乗ります。
 西村勘九郎となった庄五郎、彼はどのような手段で美濃国を乗っ取ったのでしょうか?次回、美濃国盗りを描きます。

斎藤道三Ⅰ  出自の謎

 斎藤秀龍入道道三、歴史に興味が無くともある程度の一般教養がある方なら名前くらいは聞いた事があるでしょう。少し日本史に興味のある人なら、織田信長の正室濃姫の父、あるいは一介の油商人から成りあがり下剋上を重ねついには美濃(岐阜県の主要部)一国を乗っ取った戦国武将としてご存じだと思います。
 
 斎藤道三とその娘婿織田信長の生涯を描いた国民的歴史作家司馬遼太郎の『国盗り物語』はあまりにも有名ですよね。ところが近年(といっても1960年)古文書「六角承禎条書写」などから美濃乗っ取りは道三一代ではなくその父松波庄五郎との二代に渡る事跡ではないかという説が出され、有力になってきています。
 私は今回シリーズを書くに当たって、ネット上ではありますが道三美濃二代乗っ取り説を確認するため色々調べてみたんですが結論は出ませんでした。二代に渡っての乗っ取りかもしれないし、従来通り道三一代で成し得た事だとも言えます。道三の父と言われる松波庄五郎の業績が今一見えてこないのです。あくまで文書上に名前が出てくるだけ。これは『岐阜県の歴史』(山川出版、1970年)を記された中野効四郎氏も同じ見解らしく、同書ではあえて『美濃国諸旧記』などを出典とする従来説を書かれています。
 という事で、本シリーズでも『岐阜県の歴史』の記述に準拠して進めていこうと思っています。さて、斎藤道三は生涯で何度も名前を変えていることで知られます。最初は松波庄五郎(小説などでは庄九郎となっていますよね)。次に仏門に入れられ法蓮坊。還俗し京都山崎の豪商奈良屋に婿入りして奈良屋庄五郎。そこから自分の店として山崎屋庄五郎。美濃守護代長井長弘に仕え西村勘九郎。美濃守護土岐頼芸(よりあき)に仕え長井新九郎規秀。次いで守護代となり斎藤利政。守護頼芸を追放して斎藤秀龍。最後に出家して道三。
 名前を変えるたびに、それまで恩を受けた主家を乗っ取り、あるいは追放し、時には殺し、その阿漕な手法から世間は蝮の道三と呼び忌み嫌いました。ただ、逆に悪の魅力があるのも事実。たしか司馬遼太郎が書いていたと記憶しますが、普通はこういう悪逆非道の人間は世間に嫌われ自滅する。しかし次々と悪事が成功していったのには、本人にどこか憎めない可愛げがあったのではないか?と。清朝を乗っ取った袁世凱もそんな感じだったそうです。袁世凱の写真を見れば納得できますよね。
 道三が出た松波家は、代々北面の武士を務める山城国乙訓郡西岡の小豪族でした。道三の生年ははっきりしませんが応仁の乱が終わって戦国時代に突入した明応三年(1494年)頃だと言われます。幼名峰丸。北面の武士程度では生きられなかったのでしょう。峰丸少年は11歳の時京都日蓮宗の巨刹妙覚寺に入れられました。法連坊と名付けられ日善上人に弟子入りします。この時2歳下の兄弟弟子南陽坊と親友になりました。
 南陽坊は美濃国守護代長井豊後守利隆の弟でした。この関係は後々大きな意味を持つようになりますが、ここでは触れずに先に進めます。法蓮坊は生来の聡明さからめきめきと頭角を現しました。ところが実家に力が無いためこれ以上妙覚寺での出世が難しくなります。一方、親友南陽坊は美濃に帰り厚見郡今泉村(岐阜市)常在寺の住職に迎えられ日運(小説では日護)上人と名乗りました。常在寺は美濃守護代斎藤氏、長井氏(両者は同族)の菩提寺で、一門の中から仏門に入れ寺を継がせるのが慣習だったようです。
 これは地方の有力武士ではよくあることで、僧としての能力とはまったく関係ありませんでした。兄弟弟子南陽坊の事もあったのでしょう。妙覚寺での出世に見切りをつけた法蓮坊は還俗し元の松波庄五郎に戻りました。世は戦国時代、徒手空拳の若者にいったい何ができたでしょう?
 しかし庄五郎は諦めませんでした。いつの頃からか分かりませんが将来を見据えて武技の鍛錬だけは怠らなかったそうです。京都山崎の油商人奈良屋に婿入りした経緯ははっきりしませんが、国盗り物語では奈良屋の娘お万阿が賊に襲われていたところを助けた事がきっかけだったとされます。そんな事実もあったかもしれません。
 油商人と言っても、当時の荏胡麻(えごま)油は贅沢品で明かりに使用するなくてはならないものでした。大山崎八幡は全国の荏胡麻油の販売権を握っており、大山崎油座が支配していました。奈良屋も座に属する有力商人で、全国で巨利を上げていたと言われます。当時油商人は隊商を組んで全国各地に赴いていました。途中賊に襲われますから隊商自体も武装し、あるいは各地の有力豪族に礼金を払い守ってもらったりしていました。
 奈良屋庄五郎は隊商を率い全国各地で商売を行い、戦の駆け引きを学んだのだと思います。時には賊との間で小規模な合戦もあったかもしれません。その奈良屋がいつ山崎屋になったかですが、どうも庄五郎の商売自体が原因だったように思います。
 庄五郎は販路を拡大するため、大山崎油座の取り決めを無視することもあったようなのです。これが他の油座商人の反発を食らい大山崎八幡宮の神人達に襲撃され店が打ち壊されたと言われます。庄五郎は八幡宮と直談判し、屋号を山崎屋に変えることで商売続行を許されました。当然要路に賄賂を配るなど万全の事前工作は行ったでしょう。
 山崎屋庄五郎は、一時の危機を乗り越えますます商売で利益を上げ続けます。ですがこれで終わる庄五郎ではありません。さらに飛躍の機会を虎視眈々と狙っていました。次回、庄五郎美濃入りを描きます。

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