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2017年2月

2017年2月 5日 (日)

出雲源氏塩冶(えんや)氏

 この記事は、北近江浅井三代記に登場する浅井氏の旧主家北近江・出雲・隠岐・飛騨守護佐々木京極氏の外伝です。一般の方にはマニアックすぎてついてこれないかもしれませんが、私はこの記事のためだけに『島根県の歴史』(内藤正中著 山川出版社)を買ったほど入れこんでいます。
 室町時代出雲国の守護は有名な佐々木道誉の子孫京極氏が就任しました。文明十八年(1486年)京極庶流で出雲前守護代の尼子経久によって守護所月山富田城(安来市広瀬町富田)を奪われ京極氏の出雲支配は終わります。戦国史に詳しい方は、その時月山富田城を守っていた京極氏の守護代が塩冶掃部介(えんやかもんのすけ)だった事を覚えておられるでしょう。
 実はこの塩冶氏も佐々木一族でした。ただ京極氏とは遠い関係になります。源平合戦時の近江源氏佐々木氏の当主は秀義(1112年~1184年)でした。秀義には有力な何人かの息子がいました。一番有名なのは源平合戦で宇治川の先陣争いをした四男の佐々木高綱です。長男の定綱は佐々木氏の嫡流を継ぎその子孫から六角氏と京極氏を出します。
 実は鎌倉時代出雲の初代守護は、佐々木高綱だったという説があります。ただこれは確認できません。一方、長門国と備前国の守護となったのは確実だと思います。高綱と出雲の関わりは源平合戦の軍功で獲得した多くの所領のなかに出雲国内の荘園の地頭職が含まれていたというものでした。高綱の子孫はその後振るわず出雲など各地に土着します。
 佐々木一族で確認できる確実な出雲守護職は、秀義の五男義清(生没年不詳)でした。義清は承久の乱で大功をあげ出雲・隠岐の守護職を得ます。義清が出雲源氏佐々木氏の祖となります。以後彼の子孫が出雲国守護職を世襲しました。義清の孫頼泰は神門郡塩冶郷に大廻(おおさこ)城を築き本拠と定めます。以後頼泰は塩冶氏を称しました。
 塩冶氏は、近江源氏嫡流の六角氏や京極氏とは一線を画し別家を意識していたと思います。そのため南北朝時代には当主塩冶高貞(不明~1341年)は後醍醐天皇の隠岐脱出後真っ先に駆けつけ討幕軍に加わりました。高貞は建武政権でも出雲・隠岐の守護職を安堵され出雲源氏塩冶氏は繁栄します。
 ところで江戸時代、赤穂浪士事件を題材とした仮名手本忠臣蔵では浅野内匠頭を塩冶判官高貞に仮託しています。一方敵役吉良上野介をモデルにしているのは高師直です。仮名手本では高貞の妻が美人なのに横恋慕した師直が高貞に謀反の濡れ衣を着せ滅ぼした事が事件の発端となります。
 ではそういった事実が高師直と塩冶高貞との間にあったのでしょうか?塩冶氏はもともと宮方で、足利尊氏が中先代の乱鎮圧後関東で自立した時も、新田義貞率いる討伐軍に加わります。その後同族の佐々木道誉が積極的に尊氏に寝返ったのに対し、塩冶高貞は時代の流れに抗しきれずやむを得ず尊氏に降伏したという経緯がありました。
 
 ですからもともと塩冶氏は足利幕府内で信頼されているわけではありませんでした。高貞の妻云々は、どうも高貞の正室顔世御前という人がもともと後醍醐天皇に賜った女官であることから生まれた伝承のような気がします。建武政権は新田義貞にも恩賞として女官勾当内侍(こうとうのないし)を与えるなど有力武士の懐柔策としており、その一環として塩冶高貞にも女官を与えたのでしょう。土地を持たない建武政権の精一杯の努力だったと思います。
 一方、高師直は尊氏側近として幕府内で絶大な権力を握っており、性欲も人一倍あったため他人の妻を寝取るなど悪行の限りを尽くしていたようです。人間性にかなり問題があったのは間違いなく、彼と尊氏の弟直義との対立が後の観応の掾乱に発展しました。ですから、顔世御前に師直が横恋慕した事実はあった可能性が高いです。もっとも塩冶氏自体、足利政権としてはいつか排除しないといけない潜在的敵だと認識されていたはずで、師直の一件がなくともいずれ滅ぼされていたと思います。
 歴応四年(1341年)高師直は尊氏に「塩冶高貞に謀反の疑いあり」と讒言します。その事実があったのかどうかは分かりませんが、塩冶氏の幕府内での立場の弱さから言い逃れはできないと覚悟したのでしょう。これが佐々木道誉だったら尊氏邸に直接乗り込み、疑いを笑い飛ばして不問に付しそうな気もしますが(NHK大河ドラマ太平記陣内孝則のイメージ)、真面目な高貞(これもイメージ)ではそういう高度な処世術は不可能だったのでしょう。
 高貞は妻子と一族郎党を連れて京を出奔、本国出雲に向かいます。ところが幕府の追手山名時氏、桃井直常らに追いつかれ播磨国影山で進退極まり一族郎党自害して果てました。これで出雲源氏の嫡流塩冶氏は滅亡します。その後出雲守護職は一時山名時氏に与えられますが、佐々木道誉が最終的に獲得し以後彼の子孫京極氏が世襲しました。
 塩冶氏庶流は生き残ったらしく、尼子経久の時に出てきた塩冶掃部介もその後裔でしょう。

北近江浅井三代記Ⅸ  浅井氏の滅亡

 元亀三年(1572年)10月、甲斐の武田信玄はついに上洛の軍を発します。総勢三万三千。ただし信濃から美濃に侵攻した秋山信友勢、別働隊として三河に直接向かった山県昌景勢を含めての数で、信玄が直接率いた兵は二万七千でした。信玄来るの報を受けた徳川家康は信長に援軍を要請します。送られてきたのは佐久間信盛、平手汎秀に率いられた三千。徳川家としては、これまで信長に尽くしてきた功績から少なくとも一万近い援軍が来ると期待していました。しかし現実にはわずかな数。
 徳川家中では、信長に見限られたと憤慨する意見も多かったそうです。しかし家康は合わせて一万一千の兵で信玄に対抗するつもりでした。この時の信長の考えには様々な説があります。家康を捨て石にし美濃で武田勢と決戦するつもりだったとする説、あるいは信長包囲網に対処するため各地に兵力を分散させられ家康に割ける兵は三千が精一杯だったとする説。たしかに摂津では本願寺・三好三人衆勢力と対峙し、近江では浅井朝倉連合軍、南近江の情勢も厳しく、長島一向一揆も侮れない。後者の可能性もなくはないと思いますが、一万程度の援軍なら送れたはずだと思います。信長としては家康に浜松城で籠城してもらって時間を稼ぐだけで良しと考えていたのかもしれません。
 ところが家康はあえて出陣しました。12月両軍は浜松北方三方ヶ原でぶつかります。結果は予想通り家康の大敗。しかし上洛を急ぐ信玄は浜松城を無視し三河刑部で越年しました。この頃信玄は近江に出陣していた朝倉義景が本国越前に撤退した事を知ります。信玄上洛が成功するには朝倉勢が近江で信長を拘束しておく事が絶対条件でした。激怒した信玄は、義景に詰問の手紙を送ります。義景は、近江の野陣での越年に耐えらず撤退していたのでした。信長包囲網は朝倉義景の無能さで崩壊します。
 それでも武田勢は三河野田城を攻略しました。ところが急に軍を返し信濃駒場で留まります。原因は信玄の急死でした。享年53歳。信玄は自分の死を三年隠すように遺言したそうですが、早くも信長は信玄の死を知ります。一方、浅井朝倉方や義昭はまだその事実を把握していませんでした。
 義昭は、信玄上洛を頼み挙兵、宇治槇島城に籠城します。天正元年(元亀四年から7月に改元、1573年)7月信長は火の出るように槇島城に攻めかけ城は簡単に落ちました。義昭は降伏し命だけは助けられ追放されます。さすがの信長も将軍義昭を殺すのは外聞が悪かったのでしょう。これで室町幕府は滅亡します。
 残すはほとんど力を失った六角承禎と、浅井長政、朝倉義景のみでした。すでに小谷城は織田の大軍が包囲し籠城は三年に及んでいました。信長は小谷包囲の軍を残しつつ8月、越前に攻め込みました。義景も二万の兵を集めて対抗しようとしますが、連年の無能な戦争指導で家中には亀裂が走っていました。一族の朝倉景鏡、重臣魚住景固などは露骨に従軍を拒否します。がたがたの朝倉勢に織田軍を止める力はありませんでした。
 織田軍三万は、朝倉軍を鎧袖一触本拠一乗谷に迫ります。義景は抗戦を諦め大野郡の朝倉景鏡のもとに逃げ込みました。ところが従兄弟の景鏡は義景に自害を強要します。義景の首を土産に信長に降伏する腹でした。最後の最後に一族に裏切られるのですから義景の哀れさはどうでしょう。応仁の乱以来百年の歴史を誇る朝倉家は義景の死と共に終わります。
 朝倉氏の滅亡で小谷城は孤立無援となりました。信長は木下秀吉を使者に送り長政に降伏を勧めました。しかし長政は拒否。かわりに正室お市の方と三人の娘(茶々、初、江)を秀吉に託します。織田勢は小谷城に総攻撃を掛けました。まず本丸と長政の父久政の居る小丸の間にある京極丸を攻略。8月27日、小丸が陥落し久政自害。長政は本丸で激しく抵抗しますが、落城は時間の問題でした。刀折れ矢尽きた長政は、本丸近くの赤尾邸において自害したと伝えられます。享年29歳。8月29日の出来事でした。
 北近江に勢力を誇った浅井氏は長政の死と共に終焉を迎えます。長政の旧領はこのたびの戦いで抜群の勲功があった木下秀吉に与えられました。秀吉は、小谷城を居城にせず琵琶湖岸に長浜城を築きます。長政の嫡子万福丸は、近臣に連れられ城を脱出しますが織田軍に見つかり信長の命で関ヶ原において処刑されました。妹お市の子でも将来の禍根となる男子を許すはずはありません。お市の心境は複雑だったと思いますが、まさか兄を憎むわけにはいかず怨みを直接処刑した秀吉に向けます。
 浅井氏はこうして滅びますが、お市の三女江は後に徳川秀忠に嫁ぎ三代将軍家光を生みます。女系とはいえ徳川将軍家に浅井氏の血は残りました。
 
                                  (完)

北近江浅井三代記Ⅷ  信長の危機

 浅井三代記と言いながらここのところ信長中心の記述となっていますが、当然のことで時代は信長を中心に回っていました。もう一方の極には将軍足利義昭。本来なら越前を中心に60万石余を領する朝倉義景が一方の中心に立つべきでしたが、義景は生来の優柔不断。もし彼に器量があれば信長の位置にあるのは彼だったはず。浅井長政は余りにも力が弱く、時代に翻弄されるだけの存在だったのです。
 足利義昭は、足利幕府復興の最大の障壁信長を倒すため仇敵であるはずの三好三人衆とも結びます。石山本願寺、比叡山延暦寺までが包囲網に加わりました。この当時の大寺院は僧兵を擁し下手な大名よりも大きな力を持っています。比叡山は僧兵三千、本願寺に至っては全国から門徒を集め数万の兵力を有していました。門徒と言っても地方の武士なども多く加わり、中でも雑賀衆三千挺の鉄砲は特に脅威となります。この頃信長の保有する鉄砲も三千挺ほどですから、信長に匹敵する軍事力を持っていたわけです。
 本願寺は、全国の門徒に蜂起を命じます。伊勢長島一向一揆、近江一向一揆が信長の前に立ちはだかりました。元亀元年(1570年)7月、義昭の要請を受けた三好三人衆は一万三千の兵を率い再び海を渡ります。本願寺と連携し、摂津国野田・福島に城を築きました。信長は軍勢三万で摂津天王寺に陣を布きますが、決着はつかず戦線は膠着します。この時も雑賀鉄砲衆に撃ち掛けられ足を負傷しました。
 同年9月信長の窮地を見て、浅井長政、朝倉義景は連合して出兵、近江坂本に到着。宇佐山城の森可成は妨害しようと兵六百を率いて出陣しますが、あまりにも数が少なく大敗します。浅井朝倉連合軍はそのまま宇佐山城に攻めかかり、城将森可成以下ことごとく討死しました。連合軍は坂本、大津、醍醐、山科あたりを焼き払い比叡山に籠城します。
 急報を受けた信長は摂津から撤退し、下坂本に布陣しました。この時比叡山に使者を送り「浅井朝倉勢を山から追いだせば、横領されていた近江の寺領をすべて返還する」と言わせます。しかし比叡山は拒否。信長の性格を知っていれば強硬な態度は火に油を注ぐだけでしたが、まだ彼らは自覚していませんでした。
 織田勢と浅井朝倉連合軍は比叡山の麓と山中で睨みあいます。柴田勝家に負けて行方をくらましていた六角承禎も姿を現し南近江で蠢動を始めていました。睨みあいは11月まで続きます。この間、小競り合いは続き織田家の重臣坂井政尚が戦死しました。11月21日、信長は六角承禎に突如和議を提案します。承禎も領土のほとんどを奪われ苦しかったのでしょう。これを受け入れ包囲網の一角が崩れました。
 同じ日長島一向一揆は、尾張国小木江城を襲い信長の弟信興を攻め殺しています。桑名城の滝川一益も敗走し、救援に向かった氏家卜全が負傷するなど織田家は各地で窮地に立たされていました。膠着状態に業を煮やした信長は、朝廷を動かし浅井朝倉方に和議を持ちかけます。勅命講和は効果てきめんで浅井朝倉方もこれに応じ比叡山を下ります。しかしこれが運命の分かれ道でした。次第に気候が厳しくなる中、山の中の寒気に朝倉義景が嫌気をさし勅命講和に飛びついたのだと言われますが、苦しいのは信長も同様でこのまま粘っていれば織田家は崩壊の危険性すらありました。
 講和の条件は寛大で、浅井朝倉方に有利だったと言われます。ただし信長にとっては敵に比叡山を下山させるのが目的でしたから条件などどうでも良かったのです。一旦岐阜城に帰った信長は、元亀二年(1571年)再び近江に出陣しました。2月、小谷城との間にある横山城を織田家に奪われ敵中に孤立していた佐和山城の磯野員昌がついに降伏します。これにより横山城以南の浅井領はすべて信長の手に入りました。信長は佐和山城に宿将丹羽長秀を入れます。
 しかし今回の矛先は長政ではありませんでした。伊勢でも攻勢に転じ一揆方の村々を焼き払います。9月、柴田勝家・佐久間信盛に命じ江南の六角方の諸城を攻略させました。9月11日、織田勢は小谷城には向かわず突如坂本、三井寺に布陣します。目標は比叡山でした。前年浅井朝倉方を助けた比叡山への怨みを忘れていなかったのです。明智光秀などは伝教大師以来の伝統を理由に猛反対したそうですが、信長の意志は固く、三万の軍勢はアリの這い出る隙間もなく山頂に通じる山道を封鎖します。退路を完全に断って信長は12日焼き討ちを命じました。この時比叡山には男女含めて五千人がいたそうですがことごとくなで斬りにされます。残酷と言えば残酷、ですが信長に抵抗しなければ起きなかった悲劇でした。

 仏法の総本山と言いながらなぜ女子供がいたのでしょう?厳しい言い方ですが僧兵を蓄え時の権力と対決した腐敗堕落の寺院にはふさわしい末路だったと思います。

 元亀三年(1572年)、甲斐の武田信玄がついに上洛の軍を発します。反信長陣営にとっては頼みの綱でした。近江で浅井朝倉連合軍と対峙する信長にとっても危機です。信長と信長包囲網の戦いの結末はどうなるのでしょうか?

 次回、最終回浅井氏の滅亡を描きます。

北近江浅井三代記Ⅶ  姉川の合戦

 浅井長政の裏切りで窮地に立った織田信長。しかし撤退の決断が早かったため京都に戻った時もまだ三万近い大軍を擁していました。長政は、以後歴史の主役となりえず信長、朝倉義景、足利義昭らに翻弄される人生となります。
 さて信長ですが、態勢を立て直すために本拠岐阜城に帰る必要がありました。ところが最短距離の東山道は途中佐和山城を浅井方の磯野員昌が守っていたため一合戦しない事には通れず、違う道を進まなければいけません。信長が目を付けたのは鈴鹿山脈千草越えのルートでした。ここは旧六角方の蒲生賢秀の領地でした。賢秀は主家六角氏が観音寺城を捨てた後も本拠日野城に籠城し抵抗の構えを見せます。織田方だった賢秀の妹婿神戸具盛が単身日野城に乗り込み説得、ようやく信長に降伏しました。賢秀は嫡子鶴千代(後の氏郷)を人質に差し出します。信長は賢秀の忠義と鶴千代の利発な事を気に入り重用しました。
 途中の安全を確保するため、信長は守山城(守山市)に稲葉一鉄を入れます。六角承禎は信長の帰国を妨害しようと兵二万を集めました。この時は大規模な戦闘は起こらず、信長は滋賀郡宇佐山に城を築き森可成に守らせます。永原城(野洲市)に佐久間信盛、長光寺城(近江八幡市)に柴田勝家、安土城(観音寺城の間違いか?)に中川重政を置いて帰国の途に就きました。六角勢と浅井勢は連合してこれを阻止しようとしますが、蒲生賢秀が救援に駆け付け千草越えに差し掛かります。
 ところがここで六角承禎の雇った杉谷善住坊に鉄砲で狙撃されました。幸い弾は信長の体をかすめただけでした。捕えられた善住坊は信長の怒りを買い鋸引きという残酷な方法で処刑されます。怨みは後々まで尾を引き、六角義定(承禎の次男)を匿ったとして甲斐の恵林寺は信長に焼き討ちに遭いました。有名な快川紹喜の「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」の言葉はこの時のエピソードです。肝心の六角承禎は信長の死まで逃げ切ったのですから悪運の強さはたいしたものでした。
 元亀元年5月21日、信長は困難の末ようやく岐阜城に戻ります。長政の裏切りから始まる信長包囲網、この一連の流れを裏から操ったのは将軍足利義昭でした。両者はいつから対立関係に入ったのでしょうか?私は将軍就任直後、義昭が信長に副将軍を打診した時だったと思います。信長はこれを断り代わりに堺・大津・草津の代官職を要求しました。足利幕府の再興を願う義昭と、義昭を傀儡にして天下統一を志す信長の方向性の違いは次第に両者を乖離させていきます。義昭は本願寺勢力とも結び南近江で一揆を起こさせました。六角承禎が二万の兵を集めた中には一揆勢がかなり含まれていたと見ます。だから織田勢と本格的戦闘には入れなかったのでしょう。
 6月4日、六角承禎は柴田勝家・佐久間信盛そして旧臣永原、進藤などの軍勢と乙窪(野洲市)で合戦して敗れます。これが六角氏の組織的抵抗の最後でした。浅井長政は、信長の帰国を許した事でその後に来る織田家の大反抗を警戒します。小谷城の前面横山城の防備を固め大野木茂俊らを入れました。元亀元年6月19日信長は、三河の徳川家康に援軍を頼み二万五千の兵で江北に入ります。
 織田勢は、小谷城の前哨陣地横山城に攻めかかりました。浅井長政はこれを放っておく事ができず朝倉氏に援軍を要請します。朝倉氏は朝倉景健を総大将とする一万の軍勢を派遣しました。長政も八千の兵を兵を率い城を出ます。
 浅井朝倉連合軍の出陣を知った信長は、横山城包囲の兵を残し軍を反転させました。兵法ではこれを後詰決戦と呼びます。両軍は姉川を挟んで対陣しました。両軍の兵力は諸説ありますが浅井朝倉方が一万八千、織田徳川方が三万余としておきます。6月28日、戦端が開かれました。緒戦、浅井方の先鋒磯野員昌が織田勢を押しまくり十三段あった陣構えのうち七段が撃ち破られたそうです。一方、織田勢の左翼で朝倉方と向かい合っていた徳川勢三千は敵前渡河に成功、横山城包囲から駆け付けた稲葉一鉄ら西美濃三人衆の軍勢と共に激しく攻め立てたため朝倉景健の本陣が崩壊、たまらず景健は敗走しました。
 優勢に戦を進めていた浅井長政ですが、朝倉勢が逃げだしたためこれ以上の戦闘継続を諦め撤退を決断します。織田勢はこれを追撃し八千ばかりを討ち取ったそうです。以上は信長公記その他に記された姉川合戦の顛末ですが、真相は小競り合いに過ぎなかったという説があります。というのは、この直後浅井朝倉方は数万の兵を擁し比叡山に立て籠もり信長と睨みあうからです。姉川で打撃が無かった証拠でしょう。ではなぜ後世このように伝えられたかというと、後に天下を取った徳川家康が自分の功績を誇るために話を盛った可能性が高いとされます。さらに浅井長政は三代将軍家光の外祖父にあたるため、朝倉方が敗走したため仕方なく負けたとしたかったのでしょう。さらに言うと、この戦いで活躍したと言われる稲葉一鉄の孫にあたるのが家光の乳母春日局でした。
 信長公記では、姉川合戦で討ち取られた浅井方の武将として真柄直隆父子、阿閉五郎右衛門尉など名ある武将をあげています。合戦の結果横山城は降伏、信長は横山城の城番として木下秀吉を入れます。秀吉は、横山城を拠点に浅井方の調略を進めました。織田軍は磯野員昌が籠る佐和山城に攻めかかります。しかし員昌が良く守ったため城は落ちず、信長は付け城を築いて丹羽長秀に守らせました。
 7月4日、上洛した信長は将軍義昭に戦勝報告します。義昭の心境は複雑だったと思いますが、信長としては義昭を恫喝したのでしょう。小谷城の目と鼻の先横山城が織田方に落ちたため浅井長政は守勢に回ります。しかし、状況はそう単純ではなく信長も苦しい局面に立たされました。
 次回、比叡山を巡る両陣営の戦いと信長の危機を描きます。

北近江浅井三代記Ⅵ  決別

 永禄十一年(1568年)九月、足利義昭を奉じた織田信長は、徳川勢浅井勢を加えた六万と号する大軍で上洛の途に付きました。義昭上洛を助けるよう越前の朝倉氏、近江の六角氏に使者を送りますが朝倉氏は無視、六角氏に至っては三好三人衆と同盟していたため露骨に敵対の態度を見せます。
 六角氏の反応は織り込み済みで、上洛の血祭りにするつもりでした。信長は、佐和山城で初めて浅井長政と対面します。佐和山城は、その前年長政が六角氏から奪った城で重臣磯野員昌が守っていました。織田勢は、愛知川を越え六角領に乱入します。六角承禎は本拠観音寺城を守る前哨陣地である和田城に山中大和守、田中治部、箕作城に吉田出雲守らを入れ守備を固めました。
 信長は、和田城を西美濃三人衆(稲葉、安藤、氏家)に任せると主力をもって箕作城に襲いかかります。大軍に兵法なしと言われますが、この時がまさにそうで余りの勢いの激しさに城はろくに抵抗できず落城。翌日には観音寺城攻撃に入ることが確実になります。するとその夜、織田勢に恐れをなした六角承禎、義治父子は城を捨てて逃げ出しました。
 ここが一番理解に苦しむところですが、観音寺城は後に信長が城を築く安土山に連なる標高432mの大規模な山城で、数万の大軍に攻められてもちょっとやそっとでは陥落しない難攻不落の城でした。それが一戦もせず逃げだすというのは、六角家中のまとまりが欠け内通者が出る事を承禎が恐れてではないかと推理します。野良田合戦の不可解な敗北も六角家の弱点を露呈したものだったのかもしれません。
 六角承禎は、甲賀郡に逃亡し以後ゲリラ戦で信長を苦しめます。六角氏の甲賀郡逃亡は承禎の祖父高頼以来の得意技で、9代将軍足利義尚の討伐もこれで凌いだほどでした。忍者の里甲賀とその南の伊賀国には六角氏が長年勢力を扶植しており、緊急時の逃げ込み先だったのです。その後六角氏は、愛知郡の鯰江城(東近江市)まで進出して来ます。
 上洛を急ぐ信長は、六角承禎を無視しました。観音寺城を接収したことで、近江の主だった武将後藤・永田・進藤・平井氏が降ります。新たに加わった旧南近江勢は一万もいたそうです。長政も信長に従い大津から滋賀越えします。京都を支配していた三好三人衆は織田の大軍を恐れ一戦もせずに退きました。易々と京都を占領した織田勢は、そのまま岩成友通の籠城する勝竜寺城を攻撃します。城は二日で陥落、岩成は逃亡しました。信長は勝竜寺城に細川藤孝を入れます。
 信長は、山城、大和、摂津、和泉、河内など各地に軍勢を派遣し三好三人衆の勢力を攻めました。石山本願寺に矢銭五千貫、堺に二万貫を要求したのはこの時です。三好三人衆と行動を共にし足利義輝を暗殺した松永久秀はこの頃三人衆と対立していましたから、信長のもとに参陣し名茶器「九十九髪茄子」を献上して降伏を許されました。久秀は大和の旧領を安堵されます。
 三好三人衆は、信長の大軍に攻められ四国阿波に逃亡しました。信長は足利義昭の将軍宣下を見届けると一旦岐阜に帰国します。ところが信長不在の隙をついて三好勢が四国の兵八千を率いて義昭の居る六条本圀寺を奇襲しました。この時京に居たのは明智光秀勢などごく少数でした。京都に近い浅井長政が真っ先に駆けつけ、信長自身もわずか二日で援軍に駆け付けたため三好勢は敗退し、以後は活発な活動を止めます。
 信長は、二条城を将軍義昭のために築きました。それに前後し内裏の修理も行います。元亀元年(1570年)、信長は三万の大軍と共に上洛しました。名目は若狭の武藤氏討伐ですが、その真の目的は越前の朝倉氏でした。織田勢は琵琶湖の西岸を北上し金ヶ崎城を急襲します。城将朝倉景恒はたまらず降伏しました。織田勢はそのまま木ノ芽峠を越え、朝倉氏の本拠一乗谷を指呼の間に臨みます。
 この一連の軍事行動は、同盟者の浅井長政には無断で行われたものでした。浅井氏と朝倉氏の三代の友誼というのは『浅井氏三代』(宮島敬一著)では否定されていますが、それでも野良田合戦前後からの協力関係はあったはずで、長政に何の相談もなしに朝倉氏を攻める事は浅井家中にとっては裏切りと映りました。しかしこれは認識の違いで、信長は長政を格下の同盟者としか思っておらずいちいち相談する事はないと軽く考えていたのかもしれません。これは徳川家康にも言える事で、信長は長政を見誤っていたのでしょう。
 私は浅井氏を戦国大名というより北近江国人一揆の盟主という立場から見ていますが、おそらく国人たちにとっては朝倉氏の方が隣国だけに馴染みが深く、信長に対しては反感を持っていた可能性を考えています。もしかしたら長政本人は信長を裏切る気はなかったかもしれません。ところが隠居していた父久政が国人たちに担ぎあげられ織田家との手切れを長政に要求しました。
 父久政と家臣たちに衝きあげられた長政は、信長との手切れという苦渋の決断をします。まともな判断力を持っていたら巨大な織田家との対立は滅亡の道でした。しかし浅井家の分裂を避けるためには、この道しかなかったのでしょう。軍記物や小説では、夫長政の裏切りをお市が両端を縛った小豆の袋を兄信長に贈って知らせたと言われますが、史実かどうかは確認できません。ただ、長政は律義者らしく信長に使者を送り朝倉方に付く事を申し送ったそうです。
 長政の裏切りを知った織田軍に動揺が走ります。決断の速い信長は、すぐさま撤退を決めました。この時木下藤吉郎秀吉が殿軍を申し出るという有名なエピソードがあります。朝倉軍と浅井軍に挟み撃ちされる可能性が高い殿軍は全滅の危険性が高いものでした。ただ秀吉には勝算があり、律義者の動員は遅れがちになるので時間差で逃げ切れると読んでいたとも言われます。
 浅井長政と織田信長は、以後対立関係に入ります。その最初の激突が姉川の合戦でした。次回合戦に至る両者の動きを記します。

北近江浅井三代記Ⅴ  お市の方

 お市の方、織田信秀の五女で信長と同じ土田御前が生母だと言われます。ただし信長とは13歳離れており異母妹の可能性が高いともされます。美人が多いと言われる織田家でも絶世の美女として有名でした。私は浅井長政が野良田合戦で完全に六角氏と手切れになり、孤立を避けるためにこの頃越前の朝倉義景との同盟関係あるいは友好関係が始まったのではないかと推理しました。
 長政は、日の出の勢いの尾張織田信長とも結びます。それが信長の妹お市との婚姻でした。野良田合戦が永禄三年(1560年)。この年信長にとっては桶狭間合戦が起こっています。信長の美濃攻略は永禄十年(1567年)で、浅井家と織田家に婚姻が成立した時、まだ信長は美濃を攻めている最中でした。どうも信長の方が最初に長政に接近したようです。
 織田家の重臣不破光治が使者として浅井家に至り同盟を打診します。浅井家では賛否両論で、遠藤直経などは猛反対したと伝えられます。賛成派の意見は六角氏と対立上味方は一人でも多い方が良いというもの。反対派は、今せっかく朝倉氏と関係強化を図っているときに朝倉家と仲の悪い信長と結べば将来の禍根となるという主張でした。それぞれ一長一短あるのですが、現実の六角氏の脅威を考えると織田家と結んだほうが良いという方針に決まります。
 問題は婚姻の時期で、さまざまな説があります。ただ私は長政とお市の嫡男万福丸が天正元年(1573年)処刑された時10歳だった事を考え、少なくとも永禄七年(1564年)以降はあり得ないと考えます。論者の中には万福丸を長政の側室の子だという主張がありますが、お市が実際に処刑した秀吉を生涯許さなかった事から、実子説を採りたいです。処刑を命じたのは兄信長ですが、まさか兄を憎むわけにはいかないのでその恨みを秀吉に向けたのでしょう。秀吉の立場としては哀れです。
 政略結婚でしたが、長政お市の夫婦関係は仲睦まじかったそうです。二人の間に嫡男万福丸と有名な三姉妹お茶々、お初、お江の一男三女が生まれました。最初浅井家中で危ぶまれていた信長との同盟ですが、永禄十年信長が美濃を平定した事で浅井家中では安堵感が広がりました。この時織田家の領土は尾張・美濃合わせて110万石余り。六角氏(50万石)の倍以上です。その後信長は北伊勢も征服したためその差は大きく広がります。六角氏が浅井領に攻めてきても、信長の援軍が来れば滅ぶ可能性は格段に下がりました。
 中央では永禄八年(1565年)松永久秀と三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)らが時の将軍足利義輝を二条城に襲い弑殺するという大事件が起こります。三好三人衆は、言う事を聞かなくなった義輝を暗殺し、本拠阿波にいた義輝の従兄弟義栄(よしひで)を傀儡の14代将軍として担ぎ出しました。松永久秀と三人衆はさらに奈良一条院にいた義輝の弟一条院覚慶の殺害に動きます。これは幕府近臣三淵藤英、細川藤孝らに阻止されました。奈良を脱出した覚慶は還俗し義秋と名乗りました。後に義昭と改名するので、以後義昭で通します。
 足利義昭は、幕府再興を図り最初近江の六角承禎を頼ります。ところが承禎は三好三人衆と同盟関係にあり良い顔をしませんでした。義昭一行は越前の朝倉義景に期待を寄せ越前一乗谷に向かいます。ですが優柔不断な義景は、義昭を奉じて上洛する事を面倒がりました。その頃朝倉家には明智光秀が仕えており、彼の提案で尾張の織田信長を頼る事に決まります。
 光秀は美濃明智一族の出身ですが、明智氏が斎藤道三に付いたため斎藤義龍に攻め滅ぼされ浪人しました。各地を放浪しようやく朝倉家に仕官できたのですが、余り重用されず不満を抱きます。そんな折義昭一行が越前に到着し、側近の細川藤孝と交流する中、この策を思いついたのでしょう。光秀が信長の正室濃姫と従兄弟の関係になるという事も後押ししたかもしれません。
 光秀は、越前と美濃を往復し義昭一行迎え入れをお膳立てしました。永禄十一年(1568年)足利義昭は越前を出発し美濃で織田信長に出迎えられます。朝倉方は何の妨害もしなかったようですから、その政治センスの無さには絶望します。光秀は朝倉家を出奔し信長に仕えました。義昭が美濃に至る途中浅井家の小谷城に立ち寄ったそうですから、織田・浅井同盟はその効果を発揮します。
 永禄十一年九月、織田信長は足利義昭を奉じ上洛の兵を挙げました。その兵力は尾張・美濃・北伊勢合わせて四万余。これに同盟者三河の徳川家康勢と北近江浅井長政勢が加わりました。六万と号した大軍は、上洛の最初の障壁となる観音寺城の六角承禎に攻めかかります。浅井家にとっても長年の脅威であった六角氏の排除は願ってもない好機でした。信長・長政の蜜月時代です。しかしその関係は意外に早く決裂します。
 次回信長の上洛戦と越前攻め、浅井長政の決断を描きます。

北近江浅井三代記Ⅳ  長政登場

 よく軍記物や歴史小説で、浅井長政が信長を裏切った理由として朝倉氏との三代の友誼をあげています。長政は信長と同盟を結ぶ時、大恩のある朝倉家を決して攻撃しないと信長に約束させたのに信長がそれを反故にし越前攻めを開始したため苦渋の決断で朝倉方に寝返ったというものです。
 ところが、浅井氏と朝倉氏との間には直接援助を受けた歴史がほとんどありません。もちろん美濃への干渉戦争には六角氏とは別行動、浅井氏は朝倉氏と連合して行動しています。これは浅井氏があくまで北近江守護京極氏の名代として行動しているためで、京極氏と同族とはいえ犬猿の仲の六角氏と一緒に動くわけにはいかなかったからでした。
 六角氏が北近江に攻め込んだ時、朝倉氏は援軍を送るどころか六角氏と結んで侵攻の動きすら見せていました。『浅井氏三代』(宮島敬一著)では、長政が朝倉方についた理由として、信長が妹婿の長政を同盟者ではなく格下の臣下扱いしたことに憤慨したからだと考察しています。私もその可能性は高いと思います。さらに言えば、信長の従来の権威を蔑ろにする急進性、特に将軍足利義昭に対する態度に不安を覚えた事も大きかったのでしょう。
 浅井長政とは、どのような人物だったのでしょうか?天文十四年(1545年)浅井久政の嫡男として生まれた長政は15歳の時元服、六角義賢から偏諱をうけ賢政と名乗ります。永禄二年(1559年)の事です。同時に六角氏の家臣平井定武の娘を正室に迎えています。ところが4カ月もしないうちに平井氏と離別、六角氏と手切れを宣言しました。当主で父の久政に相談せずに成された行動だったために、父子の対立が深刻化したと言われます。
 わずか15歳の少年に重大な決断ができたでしょうか?『浅井氏三代』では浅井家臣団の総意だったとします。六角氏従属路線の久政に対し、北近江国人一揆が源流の浅井家臣団が猛反発し賢政を担ぎ出したというのが真相でしょう。浅井氏家臣団の動きを主導したのは、赤尾氏や磯野員昌だったと言われます。彼らは長政時代の浅井家臣団の中核となって行きました。
 六角氏との手切れ、久政の隠居、賢政が長政と改名し家督相続したのは一連の流れだったのでしょう。六角家ではこの頃当主義賢が家督を息子義治に譲り出家して承禎と名乗りました。ただ実権は承禎が握ったままで、実態は何も変わりません。承禎は裏切った浅井氏を許しませんでした。
 長政もこの事は覚悟の上で、坂田郡南部の一族今井定清に命じて守備を固めさせます。永禄三年(1560年)六角軍はついに動きました。承禎は事前に北近江の旧守護家京極高吉を誘うなど周到な準備をしています。先陣に蒲生賢秀(氏郷の父)、永原重興、二陣に楢崎壱岐守、和田玄蕃ら。承禎は馬廻と後藤、箕浦らの軍勢を従え後陣に控えました。総勢二万五千と号する大軍です。
 兵数は当然誇張があるでしょうが、六角氏の石高(50万石強)を考えると二万近い大軍だった事は確かでした。六角勢は、愛知川を渡り浅井氏の最前線肥田城を攻めるべく野良田に布陣します。急報を受けた長政は五千の手勢と共に小谷城を進発、野良田表で激しくぶつかりました。これを野良田合戦と呼びます。
 最初、数に勝る六角軍が優勢で長政は一時死を覚悟したそうです。安養寺氏秀、今井氏直らを本陣に呼び「南北分け目の決戦だから命を惜しむな。敵は勝ちに乗じて攻めかけてこよう。おそらく先陣は疲れているはず。新手を持って迎え撃つべし。敵に動揺が見えたなら我は本陣を衝く」と命じます。長政は部隊を二つに分け、一方を敵の先陣蒲生賢秀勢に当たらせました。蒲生勢は、長時間の戦の疲労からこれを支えきれず敗走します。そして六角勢に隙が生じたのを長政は見逃しませんでした。精兵を率い火の出るように敵本陣に突撃したため、承禎は驚き大混乱に陥ります。承禎は命の危険を感じ逃げだしました。総大将の逃亡は全軍の大潰走となります。長政は、打ち取った首920という大勝利を上げました。
 以上は「江濃記」に記された記述ですが、冷静に考えた場合五千と二万なら疲労するのは兵数が圧倒的に少ない浅井側ではなかったかという疑問がわきます。劣勢でただでさえ少ない兵力なのに兵を分ける余裕が浅井勢にあったかどうか?いくら長政が武勇で浅井勢が精兵だったとしても数の差を覆すことは至難の業。ここから導き出せる事は、よほど六角側の戦意が低かったとしか思えません。怒りをもって兵を挙げた六角承禎ですが、六角家中は嫌々参陣していたと解釈するのが自然なような気がします。後年、織田信長が上洛した時六角氏の本拠観音寺城が意外にあっさり陥落したのもこの辺りに理由があるのかもしれません。六角氏は領国内の家臣団統制に失敗していた可能性があります。
 真相はともかく、野良田合戦の勝利で浅井長政は六角氏からの独立を勝ち取りました。しかし戦国の世、わずか20万石足らずの小大名が生き残るにはどこか強大な勢力と同盟しなければなりません。朝倉氏と友誼を結んだのはこの時期だったと想像します。そして長政は、尾張の新興勢力織田信長とも結ぶのです。
 
 次回、長政と信長の妹お市の方との婚姻を書きましょう。

北近江浅井三代記Ⅲ  久政の時代

 浅井亮政が浅井氏嫡流ではなく、嫡流直政の一人娘蔵屋の婿養子となって宗家を継いだ事は前回書きました。しかし蔵屋との間には鶴千代という娘しかできませんでした。亮政は、この鶴千代に同じ浅井庶家の田屋氏から婿明政を迎え後を継がせるつもりでした。おそらくこれは亮政が宗家を継いだ時の約束だったのでしょう。男子が生まれたらそのまま家督を継ぎ、女子でも一族から婿養子を迎える事で継承するというものだったと思います。
 一方、亮政には側室尼子氏(京極一族、出雲の尼子氏はその庶流)との間に庶長子久政(1526年~1573年)がいました。本来久政は浅井家を継承する資格がありませんでした。『浅井氏三代』(宮島敬一著)によると、本願寺が亮政の香典を明政宛てに贈っている事でもはっきり分かります。
 ではなぜ久政が浅井氏の家督を継げたかというと、隣国南近江の守護六角定頼と結んだからです。父亮政時代に激しく対立した六角氏を頼るなど現代の感覚からいうとちょっと信じられませんが、時は戦国時代、久政としても背に腹は代えられなかったのでしょう。逆の見方をすると、六角氏が北近江を支配するために久政を担ぎ出したという可能性もあります。当然明政は反発しました。久政の家督相続に異を唱え反乱をおこしますが、六角氏の力を背景にした久政に簡単に鎮圧されます。
 ただ久政としても浅井一族全員に家督と認められていた明政を殺すことはできず、田屋姓に戻って身を引く事で許されました。この段階で浅井氏正統の蔵屋、鶴千代の母娘ラインは力を失います。浅井家の内紛は後々まで尾を引きました。浅井氏の力は、父亮政の時代からは大きく後退します。こうなると久政はますます六角氏に接近しました。結局久政は、六角氏の被官となります。
 浅井氏は傀儡とはいえ守護京極氏を推戴していたはずですが、こうなると京極氏の立場はありません。六角氏は悲願とも言える近江一円支配を達成したとも言えます。北近江前守護京極高清は、亮政の晩年浅井氏の本拠小谷城を出て本来の守護所上平寺館に移り天文七年(1538年)没していました。
 高清の長男で現守護高広は何度か浅井氏に対し挙兵するも失敗、三好長慶を頼り宿敵六角定頼、義賢父子と戦いますが勝つことはできず、天文二十二年(1553年)六角氏との合戦で敗北した後消息不明になります。高清が家督を継がせたかった次男高吉に至ってはさらに波乱万丈で、まず兄高広を追い落とすために六角定頼を頼り先陣となって攻め込むほどでした。しかし浅井氏が六角氏に臣従すると雲行きが怪しくなり、京都に向かって13代将軍足利義輝の近臣として仕えます。義輝暗殺後は義昭擁立に尽力、義昭が織田信長と対立すると進退極まり近江で隠居しました。しかし生き残り策だけは上手で、息子小法師を信長の人質として差し出します。この小法師こそ後の近江大津藩主、初代若狭小浜藩主の京極高次でした。
 よく、浅井久政が六角義賢の圧力で嫡子に「賢」の字を偏諱として受けさせ賢政と名乗らせたり、その賢政に六角氏の家臣平井定武の娘を正室に迎えさせるなど屈辱を受けたと言われますが、浅井氏はこの時六角氏の被官になっていたので当たり前でした。浅井久政の事を戦下手の弱腰と後世非難されますが、彼の立場としては当然でしょう。家督相続の経緯から一族の間でも地位が安定せず、領内は旧京極派との対立、外からは六角氏の圧力で私はむしろ良く家を保ったと思います。
 六角義賢(1521年~1598年)は出家後の承禎(しょうてい、じょうてい)の名で有名ですが、彼の時代は六角氏が全盛期と滅亡を経験した時代でした。家督を継ぐと管領細川晴元を助けて三好長慶と抗争、自領に侵入した浅井久政を降して臣従させます。これで北近江まで勢力を広げました。その後はこれから書いていきますが、簡単に記すと浅井賢政の離反で北近江失陥、信長の上洛戦で本拠観音寺城を落とされて流亡。反信長勢力の一員として南近江でゲリラ戦を行いますが、鯰江城を柴田勝家の軍勢に攻め落とされ行方不明になります。最後は豊臣秀吉のお伽衆となり慶長三年(1598年)死去しました。
 浅井久政の六角氏に対する一見弱腰に見える態度は、家督相続の時から不満を抱いていた浅井一族、家臣団に不信感を増幅させます。久政の嫡男賢政が英邁で武勇も優れていた事から家中の期待は賢政に集まりました。そしてついに永禄三年(1560年)、賢政を擁立した家臣団によって隠居を余儀なくされるのです。
 この賢政こそ浅井氏最後の当主浅井長政(1545年~1573年)でした。次回、長政の登場を描きます。

北近江浅井三代記Ⅱ  京極氏根本被官浅井亮政

 京極氏を北近江半国守護と書きましたが、実際は六角氏が近江全体の守護職で京極氏の勢力圏である北近江6郡は守護不入の地として京極氏が守護の権能(軍事警察権)を代行したそうなのです。ですから正式な半国守護ではないが実質的に守護に等しいというのが実態でした。
 北近江には守護代を設置しなかった可能性が高く、京極氏の最有力家臣は侍所所司代(長官である所司が京極氏の時)となりました。多賀氏が有名です。その他根本被官と呼ばれる有力家臣として上坂(こうさか)氏、下坂氏、大津氏、山田氏、黒田氏などがあげられます。ちなみに遠国出雲は守護代を設置しました。京極庶流の尼子氏が有名ですよね。飛騨も京極一族の三木氏が守護代として乗り込みますが、三木氏は国司姉小路氏を乗っ取り飛騨国司として京極氏から独立した勢力を築きますから、京極氏の権力は飛騨には浸透しませんでした。
 この段階で浅井氏はまだ登場していません。浅井氏が歴史に登場するのは、応仁の乱とその後の京極氏の家督争いがきっかけでした。当時の京極氏当主を高清(1460年~1538年)といいます。京極氏は応仁の乱で東軍に属しました。一方佐々木嫡流の六角高頼は西軍に味方します。京極氏と六角氏は京都はもちろん本国近江でも激しく戦います。その戦乱で高清の祖父持清、父勝秀を失いました。高清が家督を継いだのは、応仁の乱後に発生した壮絶な家督相続争いの結果でした。
 文明二年(1470年)の京極持清の病没から永正二年(1505年)持清の孫高清の家督相続までの34年間の戦乱を京極騒乱と呼びます。詳しく書くと紙面がいくらあっても足りないので簡単に述べるに止めますが、結果として出雲は守護代尼子経久に乗っ取られ尼子氏は戦国大名への道を突き進みます。飛騨も守護代三木氏が実権を握りました。
 京極高清と家督争いをした村宗(高清の従兄弟)を推した北近江の国人の中に浅井直種という人物が登場します。家督争いに敗れた京極村宗は永正四年(1507年)高清によって自害に追い込まれました。しかし、京極高清は村宗に味方した有力国人たちに厳しい処分を下せませんでした。それだけ彼らの力が増大していたのです。相対的に守護京極氏の力は衰退します。
 当時、京極氏は伊吹山南麓上平寺(米原市上平寺)に守護館を構え背後の山に詰めの城上平寺城(標高660m)を築いていました。上平寺館は南に北国脇街道を臨む要衝で、北近江に押し込められた京極氏が領地支配のために定めた守護所です。京極高清時代に、浅井氏は根本被官として台頭したと言えます。
 浅井直種の子が亮政(すけまさ、1491年~1542年)でした。浅井亮政は浅井氏の庶流ですが、宗家直政に男子がいなかったため一人娘蔵屋と結婚し浅井宗家を継ぎます。大永三年(1523年)またしても京極氏に家督争いが起こりました。高清の次の家督として長男高広と次男高吉を推す一派で京極家中が分裂したのです。
 高清は次男高吉を溺愛し彼に後を継がせるつもりでした。重臣上坂信光も支持します。しかし高広を推す浅見貞則、浅井亮政らはこれを認めず両派は合戦になりました。有名な浅井氏の本拠小谷城はこの頃(1523年)築かれれたという説が有力です。北近江の国人一揆(盟約を結んだ集団)を味方につけた浅見、浅井氏らの方が勢い強く高清・高吉親子は敗北し尾張に叩き出されます。
 その後北近江国人一揆は盟主浅見貞則の専横が酷くなり、浅井亮政は他の国人の支持を取り付け浅見貞則を追放しました。亮政はここに北近江国人一揆の盟主となり、京極家中でも有力な重臣となります。亮政らのおかげで北近江守護の地位を得た高広でしたが、次第に亮政と対立をするようになりました。
 一方、南近江で順調に戦国大名の道を歩み始めていた六角定頼(高頼の子。1495年~1552年)は、混乱する北近江の状況を見て露骨に侵略を始めます。浅井亮政に追放された主君京極高清の守護職を回復するというのが大義名分でした。完全に北近江を平定したわけではない亮政にとって六角氏との対立は厳しい状況に陥ります。。さらに悪い事に傀儡の当主高広も父高清と和睦、亮政の保護下を脱し六角氏とも結び、北近江の反亮政勢力を糾合し蜂起したのです。
 四面楚歌の亮政は、天文三年(1534年)京極父子と和睦せざるを得ませんでした。この年は、浅井亮政が本拠小谷城に京極高清・高広父子を招き饗応した年でもあります。これで浅井氏は名実ともに京極家中の第一人者となったわけですが、守護京極氏との対立構造は続き失意のうちに天文十一年(1541年)死去します。亨年51歳。
 小谷城の一角に京極丸という郭がありますが、ここは浅井亮政が京極高清・高広父子を幽閉した場所だという伝説があります。しかし実態は京極氏の屋敷があった場所だそうで、守護京極氏を保護する事で北近江支配を盤石なものにする意図があったのでしょう。
 亮政の意志は息子久政に引き継がれることとなります。次回、久政の時代を描きましょう。

北近江浅井三代記Ⅰ  浅井氏の登場

 浅井氏と言えば、織田信長の妹お市の婿浅井長政が有名です。最初は信長の協力者として、次に越前攻めをきっかけに信長の敵対者として苦しめ、最後は織田の大軍に本拠小谷城を落とされ切腹しました。信長の怒りは凄まじく、長政とその父久政、越前の朝倉義景の頭蓋骨を薄濃(はくだみ、漆塗りに金粉を施すこと)にし、正月の宴席の見世物にしたというゾッとする話もあります。
 では浅井氏は、どのようにして近江で台頭し織田信長と対決できるまでに力をつけたのでしょうか?私は浅井氏の歴史に深い興味を抱きました。本シリーズでは、浅井氏初代亮政(すけまさ)の台頭から久政時代の成長、長政の滅亡までを描こうと思います。シリーズを通しての主要参考文献として『浅井氏三代』(宮島敬一著、吉川弘文館)をあげておきます。その他、中公文庫日本の歴史など戦国関連本を参照しています。
 浅井氏の歴史を書き始める前に、当時の近江(滋賀県)の情勢から始めます。近江国は太閤検地で78万石、陸奥や出羽を除くと日本一豊かな国でした。ちなみに二位は武蔵で67万石。室町時代近江の守護は佐々木氏でしたが、あまりにも大国だったため南北に分割されます。南近江は近江源氏佐々木氏の嫡流六角氏(佐々木信綱の子泰綱が初代)が守護となりました。北近江はこれも佐々木一族の京極氏(泰綱の弟氏信が家祖)が守護に任ぜられます。
 京極氏で一番有名なのは佐々木道誉(氏信の曾孫)でしょう。道誉は足利尊氏の幕府建設を助け三管領四職の一家として山名・一色・赤松氏と共に侍所所司を歴任する重要な家となりました。ただ、京極氏は守護領国には恵まれず本拠の北近江以外は出雲18万石だけがまともな国で、それ以外はたった五千石の島国隠岐、四万石しかない山国飛騨でした。しかも、出雲は一族で守護代尼子氏に乗っ取られ、飛騨は国司姉小路氏次いで守護代三木氏の勢力が強すぎ、一度もまともな勢力圏を築けないまま終わります。
 北近江の本国(伊香郡、浅井郡、坂田郡中心。高島郡と滋賀郡に関しては支配関係が微妙)はわずか20万石しかなく、六角氏の南近江50万石と比べると大きな差をつけられていました。これは足利尊氏の巧妙な守護大名統制策で、佐々木氏嫡流の六角氏には実利を与え、京極氏には名誉を与えたという事でしょう。そのため、六角氏が戦国時代に突入しても順調に戦国大名に発展したのに比べ、京極氏は領国が全国に分散し統一した勢力に纏められず、本国北近江の支配さえ怪しくなって行きました。
 代わって台頭したのが浅井氏ですが、では浅井氏が守護代だったかというとこれも違いどうも国人一揆(この場合は反乱ではなく国人【地侍】の盟約、あるいは盟約した集団)の代表として力をつけた一族だったようです。
 最近、浅井氏の読みを「あざい」氏と濁るのが主流になってきていますが、『浅井氏三代』によるとやはり「あさい」が正しいそうです。浅井を「あざい」と読むのは江戸期以降で、それまでは「あさい」と呼んでいました。そうなると尼子を「あまご」と読むのも護良親王を「もりよししんのう」と読むのも怪しくなってきますね。ちなみに良を「なが」と読むのは宮中用語だそうで、護良親王は後醍醐天皇の皇子なので「もりなが」と読むのが正しいという話を読んだ記憶があります。戦前は教養のある学者が多かったので読みで間違う事はなかったそうですが、戦後教育にどっぷりつかった学者が奇を衒うようになり従来の読み方を改めて行ったそうですから、我々一般人としては許せない話ですね。穿った見方をすると戦後左翼学者が日本の伝統を破壊しようと意図して読み方を変えたとも言えます。
 浅井氏の出自に関しては色々な疑義があるそうです。通常武士は土地の名前を取って苗字とするそうですが、浅井氏は郡の名前を取っています。郡名を名乗るのは異様な事だそうで、『浅井氏三代』では浅井郡に朝日郷というところがあり、当初浅井氏は朝日氏と名乗っていたのではないかと考察しています。そうなると「あさひ」→「あさい」となって郡の名前を取って浅井氏と名乗ったという方向が自然に思えますね。となるとやはり読みは「あさい」氏が正しいのでしょう。
 浅井氏は三条公綱落胤説、物部守屋後胤説など様々な出自が言われますが、三条公綱落胤説は時代的・土地的にあり得ず物部氏後胤説は確認しようがないそうです。結論としてはどこの馬の骨か分からない一族で、戦国の風雲に乗じて台頭したという事でしょう。
 次回は、浅井氏初代亮政の台頭を描きます。

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