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2017年3月

2017年3月 3日 (金)

マラズギルトの戦いとアルプ・アルスラーンの栄光

 マラズギルトというのは現在のトルコ東部、ヴァン湖北方にある城塞都市です。1071年マラズギルトの郊外でビザンツ帝国とセルジュークトルコ帝国が激突しました。この戦いの結果、ビザンツ帝国はアナトリア半島(小アジア)の大半を失陥し、逆にトルコ族はアナトリア半島に進出して土着することとなります。

 

 

 ではこの戦いに至る両国の状況を示しましょう。まずビザンツ帝国から。ビザンツ帝国は東ローマ帝国の別名です。この当時ギリシャ化が進んでいた事から、西洋人たちは首都コンスタンティノポリスの古名ビザンチウムにちなんでビザンツ帝国と呼びました。

 

 

 ビザンツ帝国の最盛期と言えばユスティニアヌス1世(大帝、在位527年~565年)の時代でしょう。有能な将軍が多く出現しベルサリウスは北アフリカ・ヴァンダル王国を滅ぼし東ゴート王国を降してイタリア半島を回復します。その後起こった東ゴート族の反抗では、宦官将軍ナルセスが最後の東ゴート王トティラをタギネーの戦いに破って滅ぼしました。ユスティ二アヌス大帝の時代、北アフリカ沿岸からイベリア半島南部も回復しガリア、ブリタニア、ゲルマニアを除くローマ帝国最盛期にほぼ匹敵する広大な領土を獲得します。

 

 

 ところが、アラビア半島に興ったイスラム帝国に636年ヤルムークの戦いで敗北、穀倉地帯シリアを失陥します。その後イスラム帝国はエジプトや北アフリカもビザンツ帝国から奪いアナトリア進出も許しました。ビザンツ帝国はこのまま衰亡し消えていくかに見えました。しかし9世紀ごろから次第に国力を充実させバシレイオス1世(在位867年~886年)の時代には再びアナトリア半島をイスラム勢力から奪還、彼の開いたマケドニア王朝(867年~1067年)はバルカン半島全土を再征服、北部シリア、南イタリアも回復して帝国を再興しました。バシレイオス2世(在位958年~1025年)時代がマケドニア朝最盛期で、強敵ブルガリア帝国を降し「ブルガリア人殺し」の異名を得ます。

 

 

 マラズギルトの戦い当時のビザンツ皇帝は、ロマノス4世ディオゲネス(在位1068年~1071年)でした。彼の経歴はユニークで、もともとはビザンツの有能な将軍です。数々の戦功をあげた事から周囲に妬まれ讒言され島流しに遭いました。友人たちの尽力で釈放され皇后エウドキアと面会します。彼女は夫コンスタンティノス10世を亡くしたばかりの未亡人で、ロマノスの流刑時代の苦労話を聞くうちに同情しそのうち彼に興味を持つようになりました。そしてついにロマノスと再婚、ロマノスは即位しビザンツ皇帝になります。

 

 

 ただ話はそう単純ではなく、当時ビザンツは東方国境をトルコ人の侵入に悩まされ強力な皇帝が必要だったという事情がある事は確かでした。皇后との面会自体宮廷人たちが仕組んだものとも言われます。

 

 

 一方、セルジュークトルコ帝国に関しては過去記事

 

中世イスラム世界Ⅵ  セルジュークトルコ帝国

 

で詳しく書いたのでここでは簡単な紹介のみに止めます。

 

 

 セルジュークトルコとは、トルコ系遊牧民オグズの指導者セルジュークを始祖とするセルジューク家に率いられたトルコ系遊牧民族が建てた国です。創始者はトゥグリル・ベク。トゥグリル・ベクは1042年アムダリア(アム川、ギリシャ人はオクサス川と呼ぶ)がアラル海にそそぐ河口デルタ地帯ホラズムを占領、1050年にはイラン高原に進出し中央アジア、トランスオクシアナ(アラル海沿岸、アムダリアとシルダリアの河間地方。中央アジア一の穀倉地帯)からシリアにまたがる広大な帝国を築きました。

 

 

 トゥグリル・ベクはすでに権威だけの存在となっていたバクダードのアッバース朝カリフからスルタン(イスラム世界の世俗君主、アラビア語で権力者の意味)の称号を得ます。1071年当時、スルタン位を継いでいたのはトゥグリル・ベクの甥アルプ・アルスラーン(在位1064年~1072年)でした。トルコ語で『勇猛なるライオン』を意味します。

 

 

 

 アルスラーンの父チャグリー・ベクはトゥグリル・ベクの兄弟(弟?)で、1059年アルスラーンは父の後を継いでホラサン総督となります。先代スルタン、トゥグリル・ベクが亡くなると同じ兄弟のスライマーン、トゥグリルの従兄弟(アルスラーンにとっては大叔父)クタルミシュとスルタン位を争い勝ち抜いて即位しました。遊牧国家では世襲制ではなく時の実力者同士が戦って後継者を決める事がよくありました。ですからアルスラーンとて一筋縄ではいかない人物だったと思います。

 

 

 アルプ・アルスラーンは即位するとイラン人ニザーム・アム・ムルクを帝国宰相として登用し内政を任せました。ニザームは有能で、彼の時代セルジューク帝国の基礎が固まったと言われます。即位当初、アルスラーンはアナトリア方面に軍を進めます。カッパドキア州都カエサリアを略奪し、アルメニアとグルジアを占領しました。ところが意外とビザンツ軍の抵抗が強く、これ以上の侵略を諦めなければなりませんでした。

 

 

 ビザンツは軍管区制をとっており、これをテマ制と言います。これに対し中央の軍をタグマと呼び8世紀コンスタンティノス5世時代に整備されました。当初は4つの軍団(スコライ、エクスクービテース、アリトモス、ヒカナトス)から成り約2万4千の兵力でした。その後拡張され11世紀初頭には7個軍団4万2千になります。軍管区制は、地方地方に駐屯軍が居るため外敵の侵入に対する即応性はあるのですが、中央軍の到着前に各個撃破される危険性があり一長一短でした。

 

 

 あくまで個人的考えですが、軍事的に正しいのは地方の駐屯軍は最低数に止め外敵が侵入しても城塞での防衛に徹する。そこに機動力を持つ中央軍が援軍に駆けつけ城を包囲する敵軍を挟撃するというのが理想形だったように思います。ところが当時ビザンツのテマは総兵力12万から20万に達し、地方軍閥化していました。ビザンツ兵も文明に慣れ弱兵化します。ユスティニアヌス大帝当時の重装騎兵カタクラフトと機動力のある軽装騎兵、当時地中海世界最強を誇った重装歩兵による精鋭軍団の面影はすでになくなっていました。

 

 

 ビザンツ帝国でも、自国の兵の弱体化を補うためにフランク人やスラブ人、トルコ人などの傭兵に頼るようになっていきます。アルスラーンは、国境地帯でのビザンツ帝国の意外な抵抗を受け和平の道を探りました。ところがロマノス4世は、逆に蛮族どもの弱腰を侮りこの際大軍を持ってセルジューク軍を一気に叩き東方国境を安定化させようと目論みます。ロマノス4世の意図は理解できます。しかし、もっと敵情を探り相手の実力を見極めるべきだったと思います。

 

 

 アルスラーンは、主敵をエジプトのファーティマ朝と定め遠征準備中でした。1071年、ロマノス4世は中央軍タグマを中心とする7万(4万から7万と諸説あり)の軍勢を編成し自ら東方国境に赴きます。皇帝に率いられたビザンツ軍動くの報を受け、アルスラーンは和議を求めました。当時ビザンツは眠れる獅子とも恐れられ本格的戦争になったらとても敵わないというのが当時の中東に生きる人間の常識だったそうです。かつてのローマ帝国の栄光、近年のバシレイオス2世の強勢を見たらそういうイメージを持たれて当然でした。

 

 

 和議の申し出を一蹴したビザンツ軍は、ヴァン湖北方マラズギルトに陣を布きます。アルスラーンは3万の騎兵を率いてアレッポを出陣しました。マラズギルト城はセルジューク軍が占領していましたが、守備兵が少数だったため簡単にビザンツ軍に奪還されます。ロマノス4世は、シリアに居たアルスラーン軍主力の到着に時間がかかると読み、油断していました。

 

 

 ロマノス4世は各地に兵糧調達のために部隊を派遣します。ところがそのうちの一隊がセルジューク軍と接触、簡単に撃ち破られ指揮官が捕虜になりました。実はこれがセルジューク軍の主力で、ビザンツ軍は戦う準備の整わないまま決戦を強要されます。この段階でもなお、アルスラーンは8月25日和議の使者を送りました。ロマノス4世はこれを拒否。

 

 

 ビザンツ軍中にあったトルコ人傭兵たちは、親類がセルジューク軍に居たのを見て、その夜ひそかに陣を抜け脱走します。緒戦からケチのついたビザンツ軍ですが、翌26日ビザンツ軍は進撃を開始しました。左翼に欧州側のテマから召集された兵を率いるブリュエンニヌス、右翼にアルメニア騎兵を主力とした部隊を指揮するテオドシウス・アリュアッテスを配し、皇帝ロマノス4世は中央軍タグマを率いて中軍を進みます。

 

 

 これに対しアルスラーンは、正面からぶつかる愚を避け部隊を半月形に配置し敵が接近すると後退しながら弓矢を発射しました。欧州の歩兵軍が中東の騎兵軍に負ける時の典型ともいうべきパルティアンショットによる戦いでした。歴史的に何度も同じ戦法で負けているのに、ロマノス4世は学習しなかったのでしょうか?こういう場合無理に追撃せず、こちらも陣を固め敵が接近したら長射程の投射兵器、例えば弩などで対抗すべきだったと思います。追撃は、敵が矢を撃ち尽くしてからでも遅くはありますまい。

 

 

 夕刻、ビザンツ軍はアルスラーンのいた本陣跡を占領します。ところがセルジューク軍は後退しながら、側面では敵を包み込むように機動し、いつの間にか包囲の態勢を取っていました。こうなるとどう足掻いてもビザンツ軍に勝ち目はありません。ロマノス4世は部隊に後退命令を出しますが、タイミングが遅すぎました。命令が上手く伝わらずビザンツ軍右翼が混乱すると、アルスラーンはこの機を見逃さず重装騎兵4千に突撃命令を下します。

 

 

 大混乱に陥ったビザンツ軍は我先に逃げ出し、皇帝と親衛隊が敵中に取り残されました。皮肉にもビザンツ兵がさっさと逃げ出したのに対し、最後まで戦ったのは親衛隊のトルコ人傭兵だったと伝えられます。ロマノス4世は負傷しセルジューク軍の捕虜となりました。

 

 

 皇帝は敵将アルスラーンの前に引き出されます。

 

「貴国では捕えられた敵将の処分をいかがする?」というアルスラーンの問いに対し、皇帝は

 

「わが国では、即刻処刑するか首都コンスタンティノポリスの街頭で晒しものにするだろう」と答えたそうです。

 

それに対し、アルスラーンは

 

「では、それよりも重い罰を与えよう。貴殿を赦免し自由にする」

 

と宣言しました。

 

 

 これは有名なエピソードですが、私は史実かどうか疑っています。アルスラーンは難敵ファーティマ朝との対決に全精力を傾けるため、ビザンツ帝国との全面対決を避けたというのが真相でしょう。戦いの結果、アルスラーンは皇帝の身代金として金貨1000万枚を要求しました。賠償金は分割とされビザンツ帝国の国庫を圧迫するようになります。

 

 

 敗者として惨めな帰還を果たしたロマノス4世。ところが首都では皇后エウドキアが、すでに夫を廃して前夫との間に生まれた息子ミカエル7世ドゥーカスを即位させていました。ロマノス4世は、ミカエル7世の皇位継承を認めず対抗しますが、敗残の元皇帝に味方する者はおらず捕えられ両目を潰されて追放されます。1072年、ロマノス4世は失意のうちに亡くなったそうです。

 

 

 マラズギルトの戦いの結果、アナトリア半島にはトルコ人が大挙して入植しました。以後アナトリアはトルコ人の土地となります。セルジューク朝に従ってアナトリアに入植した一族の中に、後に大帝国を築くオスマン家がいました。

カルラエの戦いとクラッススの最期

 この記事は半年前くらいに書いた『ローマ帝国建国史』の外伝です。第1回三頭政治の巨頭カエサルとポンペイウスの最期は詳しく書いたものの、もう一人クラッススの最期に関してあまりにもあっさりしすぎていたと反省し今回書く事にしました。
 マルクス・リキニウス・クラッスス(BC115年~BC53年)は、騎士階級出身で執政官を務めた共和政ローマの実力者です。伝統的なローマ貴族以外が成りあがるにはキケロのように並外れた言論能力があるか、ポンペイウスのように莫大な財力があるかのどちらかでした。クラッススは後者です。しかもルキウス・コルネリウス・スラという絶対権力者に早くから味方していたという幸運もありました。
 当時のローマは、ポエニ戦争以来の社会矛盾が顕在化しマリウスとスラという二大実力者があい争う混乱の極に陥っていました。最終的に勝利したのはスラで、彼は終身独裁官となってローマを支配します。スラは冷酷非情な性格で敵対者を許しませんでした。マリウス側に付いた貴族や大富豪を逮捕処刑し財産を競売にかけます。スラの粛清は、側近たちの私腹を肥やす手段ともなり、中には無実の罪で殺された者も多かったそうです。ちなみにマリウスの盟友キンナの娘婿だった若き日のカエサルは、粛清を恐れこの時亡命しています。
 クラッススは、このスラの粛清で巨富を築きました。ですから、ローマ市民からはあまり尊敬されなかったと言われます。はっきり言えば嫌われていました。一方、同じスラ側近のポンペイウスは数々の輝かしい武勲でローマ市民の熱狂的支持を受けます。ローマ社会の反応にクラッススは苛立ち、ポンペイウスに嫉妬していたと伝えられます。
 クラッススの劣等感は、この後起こったスパルタクスの乱を鎮圧した後も晴れませんでした。ローマ市民はたかが奴隷反乱を鎮圧したくらいでは尊敬しなかったのです。しかも反乱を最終的に平定したのはヒスパニアでセルトリウスの反乱を鎮めたばかりのポンペイウスでした。ヒスパニア遠征の大功と比べれば奴隷反乱鎮圧の軍功など大したものではありませんでしたが(しかも遠征から帰還中のついで)、それさえも奪われたクラッススの屈辱感はどうでしょう。
 時は流れ、紀元前60年クラッススは最大の政敵ポンペイウス、新興のカエサルと共に第1回三頭政治を開始します。もちろん完全に和解したわけではなく、互いに利用したというのが実情でしょう。ポンペイウスの名声は不動、カエサルも三頭政治を利用しガリアで戦功をあげつつありました。クラッススは、ポンペイウスはおろかカエサルにさえも名声で差をつけられつつあるという現状に焦燥感を抱きます。
 そこで考え付いたのが、パルティア遠征でした。クラッススは紀元前54年自ら望んでシリア属州総督になります。同時に東方におけるインぺリウム(軍事指揮権)も獲得しました。パルティアは、現在のイラン地方を本拠地とする強国で地球海沿岸に進出していたローマを脅かしつつある存在でした。しかし、ポンペイウスならともかく軍事経験と言えば奴隷反乱鎮圧くらいしかないクラッススには現実的に無理な計画だったと思います。さらにパルティアとローマは当時戦争状態ではなく、侵略という形になるためパルティア国民の猛反発を食らう恐れがありました。
 クラッススは、アルメニア王アルタウァスデス2世に協力を仰ぎます。アルメニアはローマとパルティアとの間でつかず離れずの関係でしたが、王位を巡って内乱の続くパルティアを見限りローマに味方しました。アルタウァスデス2世はクラッススにアルメニア領内を通ってパルティアに向かうルートを提案します。これを見るとアルメニアが全面的にローマに協力するつもりだったのが分かります。

 ところがクラッススは提案を断りました。理解に苦しむ判断です。直接パルティアに向かうルートは、広大な砂漠を通らなくてはならず補給に苦しむのが明らかだったからです。ここでも軍事に暗いクラッススの欠点が露呈しました。クラッススの息子プブリウスは長年ガリアでカエサル軍中にありこの程度の軍略は持っているはずですが、頑固な父に意見をして受け容れられなかったか、意見して拒否されるのを恐れ黙っていたかのどちらかでしょう。

 様々な暗い前途を危ぶまれながら、紀元前53年クラッススは軍を率いパルティア遠征に出発しました。兵力は諸説ありますが最小4万、最大12万と言われます。4万なら少なすぎ、12万なら砂漠を突っ切る時補給で破綻するのが分かり切っていました。本稿では5万2千としておきましょう。この数でもカエサルやポンペイウスなら十分でしたが、クラッススが指揮する以上厳しい状況に変わりありません。

 アルメニア王アルタウァスデス2世は、ローマ軍の状況を見て従軍拒否を告げます。素人目でも負ける可能性が高いと分かる戦争ですから当然の判断でした。これを受け遠征を中止するのが妥当だったと思います。しかし劣等感で冷静な判断ができなくなっていたクラッススは意固地になって遠征を強行しました。

 この点、迎え撃つパルティア側としては幸運でした。当時のパルティアはどういう状況だったでしょうか?兄ミトリダテス3世との王位争いに勝ったばかりのオロデス2世は、即位直後で国内は混乱していました。クラッススはこういうパルティアの状況を知ったから遠征を決意したのでしょうが、パルティア以上にぐだぐだのクラッスス陣営を本人は把握していたかどうか?

 王位争いの混乱は尾を引き、ローマ軍侵入の報告を受けてもオロデス2世は本格的な迎撃軍を編成できませんでした。とりあえずは将軍スレナスに1万の騎兵を与え先行させます。このスレナスという名ですが、実在の人物かどうかは不明です。というのもパルティアは封建制をとっており七つの有力な氏族が実権を持っていました。その中の一つにスーレーン族があり、スーレーンのラテン語表記がスレナスだと言われます。おそらくスーレーン氏族当主が指揮し、スーレーン族主力の軍が先行したという事でしょう。

 クラッスス軍は、ユーフラテス川を越え砂漠を進みます。おそらくろくに補給態勢を整えていなかったでしょうから兵士は脱水症状に苦しみ熱射病でへばっていました。そこへ現れたのがスレナス率いる1万のパルティア軍です。戦場の名はカルラエと言いました。軽装騎兵主力のパルティア軍は、ローマ軍と軽く戦うとさっと撤退していきます。これを見たクラッススは敵が敗走したと勘違いし息子プブリウスに命じ軽騎兵を率い追撃させました。軍事的常識があれば偽装退却だと気付くはず。しかし悲しいかなクラッススには見抜けませんでした。

 パルティア式射術(Parthian Shot)という言葉がありますが、これは弓騎兵が退却しながら体だけ後ろに向いて弓矢を発射する技術です。敵は勝ったと思って油断しているわけですから、一瞬にして攻守が逆転するパルティア式射術は脅威でした。そしてプブリウス率いるローマ軍もまんまとこの射術の餌食となりました。スレナスは、突出したローマ騎兵の退路を断ちます。進退きわまったプブリウスは自害しました。

 砂漠の真ん中で立ち往生していたクラッスス軍本隊は、戻ってきたパルティア軍を見て愕然とします。追撃していた味方の全滅は明らかでした。騎兵を失い機動力の無くなったローマ軍は円陣を組んで守りを固めます。パルティア軍は、遠巻きにして弓矢を射かけました。そのたび円陣の外側から犠牲者が続出します。間もなくローマの軍中にプブリウスの生首が投げ込まれ、兵士たちは絶望しました。

 大混乱に陥るローマ軍では、有力武将のカッシウスが独断で撤退しシリアに逃亡するなど末期症状に陥ります。パルティア軍の重包囲下で歩兵中心のローマ軍は進退極まりました。そんな中パルティア軍から交渉の申し出があります。さすがにクラッススも罠だと気付きますが、兵士たちはクラッススに交渉へ応じるよう強要しました。すでに軍の統制も崩壊していたのです。数名の部下と共にパルティア軍中に向かったクラッススは、途中でパルティア兵の襲撃を受けて殺害されます。その首はパルティア王に献上されました。クラッスス亨年62歳。

 指揮官の居なくなったローマ軍は屠殺を待つばかりとなります。それでも虐殺されるよりはましだろうとローマ軍は強引にパルティア軍の包囲を突破しました。この時負傷者4000名余りが置き去りにされたそうです。敗走したローマ軍は、パルティア軍の追撃を受け壊滅的打撃を受けます。命からがらシリア国境に辿り着いた兵士は出発時の半数もいなかったそうです。

 クラッススの無謀な野心から始まったパルティア遠征はこうして無残に失敗しました。以後、ローマとパルティアは、何度かの休戦を挟んで尽きる事の無い戦争状態に突入します。

ロシア近衛銃兵隊ストレリツィ

 マスケット銃というのは、銃身にライフリングが施されていない先込めの滑空式歩兵銃の事です。フリントロック式(燧発式)やホイールロック式など様々な点火機構があり、日本で爆発的に普及した火縄銃もマッチロック式マスケット銃です。
 一番信頼性が高いのは火縄銃ですが、雨の日は使えないなど初期には様々な欠点が露出し、ホイールロック式も機構が複雑すぎて信頼性が低く、結局欧州ではバランスの良いフリントロック式が一番普及しました。フス戦争(1419年~1434年)では世界で初めてマスケット銃が登場し本格的に実戦で使用されますが、農民兵の操るマスケット銃は戦闘のプロである騎士たちを圧倒し欧州中にその有効性を示します。
 オスマントルコも早くからマスケット銃の威力に注目しイェニチェリ(オスマン朝の常備歩兵軍団)の主武器に採用して欧亜にまたがる大帝国を建設しました。それまで騎兵が主力だった戦争は、マスケット銃を装備する歩兵が主役に変わります。これは古代から中世にかけて世界を席巻した遊牧騎馬民族の時代の終焉も意味しました。
 ジュチ・ウルスとその後継国家の所謂『タタールの軛』に悩まされていたロシアでも、マスケット銃を装備する近衛銃兵隊が組織されました。創設したのはイヴァン4世(雷帝)。ストレリツィと名付けられた銃兵隊はロシア初の常備軍となります。欧州との戦いでは相手も大規模な銃兵隊を組織していたのでイヴァン4世の覇業はそれほど上手くいきませんでした。ところが相手が騎兵だけの遊牧民相手だと鬼のような力を発揮します。
 イヴァン4世はストレリツィの力を使って、それまで苦しめられてきたジュチ・ウルスの後継国家群を攻めました。カザン汗国、アストラハン汗国がイヴァン4世の軍隊によって滅ぼされ、シビル汗国も一時は撃退したものの執拗なロシアの攻撃についに屈します。最後まで抵抗したのはジュチ・ウルスの正統後継者を自任するクリミア汗国。クリミア汗国は、同じイスラム教スンニ派のスルタンでありカリフでもあるオスマン帝国を頼りました。
 そのため、ロシアはイヴァン4世の治世では征服できず200年以上後のエカテリーナ2世の時代にようやく滅ぼす事ができます。それはクリミアの宗主国オスマン帝国が強すぎたのが原因です。レパントの海戦などの敗北でオスマン帝国の欧州における優位が終わり、衰え始めた事で初めてロシアはクリミアを併合できました。
 ところがストレリツィは、特権階級として次第に利権化し政府の権力争いに介入するようになってきます。創設当初6個大隊3000名だったストレリツィは16世紀末には2万5千、1681年には5万5千と拡大していきました。17世紀後半、ストレリツィの横暴に悩んだロシア政府は正規軍を創設し彼らと対抗させます。
 1689年ピョートル1世(大帝)がクーデターにより政権を取ると、正規軍の近代化を進めるとともにストレリツィには徐々に制限を加えて行き、最後は正規軍に吸収する形で廃止します。正式なストレリツィの廃止は1711年。その誕生と滅亡が隣国オスマン帝国のイェニチェリの歴史とそっくりなのは驚かされます。
 結局ストレリツィもイェニチェリと同様、時代の必要で誕生し、必要とされなくなって廃止される運命だったのでしょう。

ジュチ・ウルス(キプチャク汗国)後継4汗国の興亡

 世界史で大モンゴル帝国が分裂し元朝、オゴタイ汗国、チャガタイ汗国、キプチャク汗国、イル汗国になったことは皆さんご存じだと思います。その中で支那の元朝は明の太祖朱元璋に滅ぼされ、イル汗国は分裂・解体しティムール朝に呑みこまれました。
 オゴタイ汗国は第2代オゴタイ汗の息子グユク(第3代)の死後、その遺族が第4代モンケ汗(オゴタイの弟ツルイの長男)と対立し滅亡、チャガタイ汗国もこの地に勃興した風雲児ティムールに事実上吸収されました。

 その中で、ジュチ・ウルス(キプチャク汗国)の滅亡だけ案外知られていません。何故この記事を書いたかというと、ジュチ・ウルスの分裂した国の一つシビル汗国がシベリアの語源となったのを最近知ったからです。ジュチ・ウルス分裂とその後継国家4汗国の興亡を簡単に記そうと思います。

 そもそもジュチ・ウルス(ウルスとはモンゴル語で国家あるいは人々という意味)がどうしてキプチャク汗国と呼ばれるかを語りましょう。キプチャクとは地名です。地域的には西はウクライナ平原、東はカザフ草原から天山山脈北麓まで。北はシベリアツンドラ地帯の下、南はカスピ海、アラル海の北縁までという広大な地域を指します。

 11世紀から13世紀までこの地に勢力を張ったキプチャク族(別名クマン族)が由来です。支那の歴史書では欽察草原と呼ばれました。

 ジュチ・ウルスはジュチの嫡男バトゥ(ジュチの子としては次男、異母兄オルダがいる)が1242年建国しました。といってもバトゥを中心としたジュチ一族の連合体で建国の始めから分裂の要素を孕んでいたと思います。最盛期にはロシアの前身であるモスクワ大公国などスラブ諸侯を従えます。ロシアではこの時代をタタールの軛(くびき)と呼んで忌み嫌いました。ただ、モスクワ大公国はいち早くジュチ・ウルスに従い他のスラブ諸侯の徴税を大汗に代わって請け負う事で発展した国ですから、タタールの軛を悪く言う資格はありません。

 後のロシア帝国を知っている人にとっては意外かもしれませんが、当時のモスクワは弱小国でモンゴルや西のポーランド・リトアニア連合(ヤギュウォ朝)、北のスウェーデンに圧迫される吹けば飛ぶような小国でした。そんな国が力をつけたのは何といっても西洋の文化を吸収できたからです。といってもまだまだ大航海時代前の西洋は弱く、13世紀ころからようやく発展の緒につき始めたくらいでした。

 ジュチ・ウルスの分裂は外的要因と言うよりは内部の問題です。14世紀前半にイスラム教を受け入れ、代替わりを続けて一族の意識が薄れ結束が乱れました。15世紀に入るとまず東部でシャイバーニー家のウズベク族、そしてそこから分かれたカザフ族が独立。首都サライ政権でもジュチの嫡流の血が絶えた事から、ついにクリミア汗国、アストラハン汗国、カザン汗国、シビル汗国の4つに分裂します。

 各国の出自を紹介すると、クリミア汗国はジュチの13男トカ・テムルの後裔ハージ1世ギレイが1441年建国しました。クリミア半島を中心に黒海沿岸地方を支配します。カザン汗国も同じくトカ・テムルの子孫を称し1438年ウルグ・ムハンマドが建国しました。支配地域はヴォルガ川中流域。アストラハン汗国は、ジュチ・ウルスのマフムード汗の息子カシム1世が1466年建国。国土はその名の通りカスピ海北東部アストラハン地方です。

 もっとも東、北極海からカザフ草原に接する広大な地域を支配したのがシビル汗国でした。シビルという名は、ジュチの5男シバンに由来します。1440年頃建国。シビル汗国がシベリアの語源となりました。

 4汗国のうち3汗国を事実上滅ぼしたのは、モスクワ大公国最後の君主にしてロシア帝国初代ツァーリ(皇帝)イヴァン4世(雷帝、在位1533年~1584年)でした。日本で言えば織田信長時代の人です。ポーランド・リトアニア連合、スウェーデンと戦ったリヴォニア戦争で失敗したイヴァン4世は、失った領土を東で取り戻すべくカザン汗国への侵略を開始します。西洋世界で標準となりつつあったマスケット銃と大砲で武装したロシア軍は、この頃ようやく遊牧騎馬民族の騎兵戦術に対抗しうる軍事力を築きつつありました。

 ジュチ・ウルスの正統後継者を自任するクリミア汗国は、カザン汗国を巡ってイヴァン4世と鋭く対立します。4汗国の中で一番早く滅亡したのはカザン汗国でした。1552年の事です。次がアストラハン汗国で1556年。クリミア汗国も手をこまねいていたわけではなく、南のオスマン帝国と結びロシア軍と激しく戦います。ロシア支配下のアストラハンに攻め込んだり、敵の敵は味方とばかりポーランド・リトアニア連合と同盟し1571年にはロシア帝国の首都モスクワに侵攻しています。

 クリミア汗国は、オスマン帝国を宗主国と仰ぎ1683年の第2次ウィーン包囲に参加しているほどでした。クリミア汗国が手強いと見るや、イヴァン4世は東のシビル汗国に侵略の矛先を転じます。イェルマークに率いられたコサック軍団を使いシビル汗国に侵攻させました。ところがシビル汗国は激しく抵抗し、1585年にはコサック軍を破りイェルマークを戦死させます。が、ロシアの侵略の意志は変わらず結局1598年滅亡してしまいました。

 唯一生き残ったクリミア汗国ですが、南下を続けるロシア帝国に抗しきれずついに1736年には本拠クリミア半島へのロシア軍侵攻を許します。そしてロシア帝国エカテリーナ2世時代の1783年ついに滅ぼされ併合されました。このクリミア汗国の滅亡を持ってジュチ・ウルスは完全に消滅したと言っても良いでしょう。クリミア・タタールというのはこのクリミア汗国の遺民で、長年ロシアに弾圧され中央アジアに強制移住させられるなど占領政策は過酷を極めました。

 クリミア・タタールの弾圧など忌まわしい歴史ではありますが、世界史の大局的視点ではマスケット銃と大砲は、古代から中世期世界を席巻した遊牧騎馬民族の騎兵戦術を完全に駆逐したと言えます。

蘇東坡と東坡肉(トンポーロウ)

 蘇軾、雅号東坡。一般には蘇東坡(1037年~1101年)といえば北宋時代の政治家・詩人・書家として有名です。どのような人か知らずとも名前くらいは聞いた事があるでしょう。柳宗元、王安石らと共に唐宋八大家の一人として知られていますよね。
 最近知ったんですが、中華料理の東坡肉(トンポーロウ)って蘇東坡が考案した料理だそうですよ。たしかに東坡で共通してますもんね。

 1079年左遷された蘇東坡は湖北省黄州に追われたそうです。時の政権を批判した罪で事実上の流罪ですから質素な生活をし晴耕雨読の日々だったそうです。なんでも湖北省黄州は豚肉の産地だそうで、蘇東坡は豚のバラ肉を揚げて醤油と酒とミリン(蘇東坡時代は醤油だけだったらしい)で煮た料理を考案し、大好物だったと言われます。来客にも振る舞ったため評判になって世間に広まり、後に蘇東坡の名前を取って東坡肉(トンポーロウ)と名付けられたらしいですよ。

 蘇東坡自身は、北宋末の王安石による新法党と司馬光らの旧法党との争いに巻き込まれ何度か左遷、中央復帰を繰り返しています。決して順風満帆の生涯ではなかったと思います。62歳の時にはなんと海南島まで追放されたといわれますから凄まじい。66歳の時哲宗皇帝が崩御し徽宗皇帝が即位したため、恩赦で許され都開封(東京 とうけい)に帰還する途中常州(江蘇省)で病を得死去しました。
 蘇東坡といえば赤壁賦で有名ですが、実際の三国時代の古戦場は別のところ(過去記事で考察してますよね)だったらしく戦場の赤壁を武赤壁、蘇東坡が詩を詠んだところを文赤壁と呼ぶそうです。それにしても、まさか中華料理でまで蘇東坡のお世話になっていたとは…。世界史エピソードって面白いですね(笑)。

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