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2017年3月 3日 (金)

ジュチ・ウルス(キプチャク汗国)後継4汗国の興亡

 世界史で大モンゴル帝国が分裂し元朝、オゴタイ汗国、チャガタイ汗国、キプチャク汗国、イル汗国になったことは皆さんご存じだと思います。その中で支那の元朝は明の太祖朱元璋に滅ぼされ、イル汗国は分裂・解体しティムール朝に呑みこまれました。
 オゴタイ汗国は第2代オゴタイ汗の息子グユク(第3代)の死後、その遺族が第4代モンケ汗(オゴタイの弟ツルイの長男)と対立し滅亡、チャガタイ汗国もこの地に勃興した風雲児ティムールに事実上吸収されました。

 その中で、ジュチ・ウルス(キプチャク汗国)の滅亡だけ案外知られていません。何故この記事を書いたかというと、ジュチ・ウルスの分裂した国の一つシビル汗国がシベリアの語源となったのを最近知ったからです。ジュチ・ウルス分裂とその後継国家4汗国の興亡を簡単に記そうと思います。

 そもそもジュチ・ウルス(ウルスとはモンゴル語で国家あるいは人々という意味)がどうしてキプチャク汗国と呼ばれるかを語りましょう。キプチャクとは地名です。地域的には西はウクライナ平原、東はカザフ草原から天山山脈北麓まで。北はシベリアツンドラ地帯の下、南はカスピ海、アラル海の北縁までという広大な地域を指します。

 11世紀から13世紀までこの地に勢力を張ったキプチャク族(別名クマン族)が由来です。支那の歴史書では欽察草原と呼ばれました。

 ジュチ・ウルスはジュチの嫡男バトゥ(ジュチの子としては次男、異母兄オルダがいる)が1242年建国しました。といってもバトゥを中心としたジュチ一族の連合体で建国の始めから分裂の要素を孕んでいたと思います。最盛期にはロシアの前身であるモスクワ大公国などスラブ諸侯を従えます。ロシアではこの時代をタタールの軛(くびき)と呼んで忌み嫌いました。ただ、モスクワ大公国はいち早くジュチ・ウルスに従い他のスラブ諸侯の徴税を大汗に代わって請け負う事で発展した国ですから、タタールの軛を悪く言う資格はありません。

 後のロシア帝国を知っている人にとっては意外かもしれませんが、当時のモスクワは弱小国でモンゴルや西のポーランド・リトアニア連合(ヤギュウォ朝)、北のスウェーデンに圧迫される吹けば飛ぶような小国でした。そんな国が力をつけたのは何といっても西洋の文化を吸収できたからです。といってもまだまだ大航海時代前の西洋は弱く、13世紀ころからようやく発展の緒につき始めたくらいでした。

 ジュチ・ウルスの分裂は外的要因と言うよりは内部の問題です。14世紀前半にイスラム教を受け入れ、代替わりを続けて一族の意識が薄れ結束が乱れました。15世紀に入るとまず東部でシャイバーニー家のウズベク族、そしてそこから分かれたカザフ族が独立。首都サライ政権でもジュチの嫡流の血が絶えた事から、ついにクリミア汗国、アストラハン汗国、カザン汗国、シビル汗国の4つに分裂します。

 各国の出自を紹介すると、クリミア汗国はジュチの13男トカ・テムルの後裔ハージ1世ギレイが1441年建国しました。クリミア半島を中心に黒海沿岸地方を支配します。カザン汗国も同じくトカ・テムルの子孫を称し1438年ウルグ・ムハンマドが建国しました。支配地域はヴォルガ川中流域。アストラハン汗国は、ジュチ・ウルスのマフムード汗の息子カシム1世が1466年建国。国土はその名の通りカスピ海北東部アストラハン地方です。

 もっとも東、北極海からカザフ草原に接する広大な地域を支配したのがシビル汗国でした。シビルという名は、ジュチの5男シバンに由来します。1440年頃建国。シビル汗国がシベリアの語源となりました。

 4汗国のうち3汗国を事実上滅ぼしたのは、モスクワ大公国最後の君主にしてロシア帝国初代ツァーリ(皇帝)イヴァン4世(雷帝、在位1533年~1584年)でした。日本で言えば織田信長時代の人です。ポーランド・リトアニア連合、スウェーデンと戦ったリヴォニア戦争で失敗したイヴァン4世は、失った領土を東で取り戻すべくカザン汗国への侵略を開始します。西洋世界で標準となりつつあったマスケット銃と大砲で武装したロシア軍は、この頃ようやく遊牧騎馬民族の騎兵戦術に対抗しうる軍事力を築きつつありました。

 ジュチ・ウルスの正統後継者を自任するクリミア汗国は、カザン汗国を巡ってイヴァン4世と鋭く対立します。4汗国の中で一番早く滅亡したのはカザン汗国でした。1552年の事です。次がアストラハン汗国で1556年。クリミア汗国も手をこまねいていたわけではなく、南のオスマン帝国と結びロシア軍と激しく戦います。ロシア支配下のアストラハンに攻め込んだり、敵の敵は味方とばかりポーランド・リトアニア連合と同盟し1571年にはロシア帝国の首都モスクワに侵攻しています。

 クリミア汗国は、オスマン帝国を宗主国と仰ぎ1683年の第2次ウィーン包囲に参加しているほどでした。クリミア汗国が手強いと見るや、イヴァン4世は東のシビル汗国に侵略の矛先を転じます。イェルマークに率いられたコサック軍団を使いシビル汗国に侵攻させました。ところがシビル汗国は激しく抵抗し、1585年にはコサック軍を破りイェルマークを戦死させます。が、ロシアの侵略の意志は変わらず結局1598年滅亡してしまいました。

 唯一生き残ったクリミア汗国ですが、南下を続けるロシア帝国に抗しきれずついに1736年には本拠クリミア半島へのロシア軍侵攻を許します。そしてロシア帝国エカテリーナ2世時代の1783年ついに滅ぼされ併合されました。このクリミア汗国の滅亡を持ってジュチ・ウルスは完全に消滅したと言っても良いでしょう。クリミア・タタールというのはこのクリミア汗国の遺民で、長年ロシアに弾圧され中央アジアに強制移住させられるなど占領政策は過酷を極めました。

 クリミア・タタールの弾圧など忌まわしい歴史ではありますが、世界史の大局的視点ではマスケット銃と大砲は、古代から中世期世界を席巻した遊牧騎馬民族の騎兵戦術を完全に駆逐したと言えます。

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