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2017年4月 2日 (日)

セルジューク朝の大宰相ニザーム・アル・ムルク 世界史英雄列伝(43)

 イラン、ホラサン地方ニーシャプールの高名な大学者イマーム・ムワッハックのもとで学ぶ三人の有能な若者がいました。彼らは「三人のうち誰かが出世し財を築いたら残りの二人を助けよう」と誓い合います。最初に出世したのはニザーム・アル・ムルクでした。宰相になった彼はほかの二人に地方長官のポストを用意し招聘します。
 ウマル・ハイヤームはそのような地位は煩わしいと年金を貰って悠々自適の文化生活に浸り優れた詩を数多く残しました。一方、ハサン・エ・サッバーフは中央での出世を望んでいたので地方長官くらいでは満足せず、申し出を断りエジプトに亡命します。エジプトで暗殺教団に入ったハサンは、教団の実力者になってイランに戻りました。復讐を誓うハサンは、セルジューク朝の大宰相になったニザームにアサシン(暗殺団)を送り暗殺したと伝えられます。
 以上の話は中東ではかなり有名なエピソードですが、残念ながら史実ではないそうです。年齢が違っているので同時代に同じ師のもとで学ぶことは不可能というのが理由です。ですが、大政治家ニザーム、暗殺教団の指導者ハサン、そして暦法に詳しく詩集『ルバイヤート』を記し今なおイスラム圏の人々を魅了する学者にして大詩人ウマル・ハイヤームはほぼ同時代を生きた人ですから、中東の人々は三人を偲んでこのようなエピソードを作ったのでしょう。
 セルジューク朝第2代スルタン、アルプ・アルスラーン最大の功績は数々の戦勝ではなくこのニザーム・アル・ムルクを抜擢し国政を任せた事だと言われます。ではニザーム・アル・ムルク(1017年~1092年)とはどのような人物だったのでしょうか?
 ニザームはホラサン地方トゥース近くの村の地主の家に生まれました。本名ハサン・ブヌ・アリー。ニザーム・アル・ムルクとは「王国の秩序」という意味で君主から与えられた名前です。最初ニザームはガズナ朝に仕えます。ところがガズナ朝はセルジューク朝に敗れ臣従しました。アルプ・アルスラーンはガズナ朝の臣下だったニザームの有能さを見て抜擢、セルジューク帝国の宰相とします。この思い切った人事は、おそらく遊牧民族セルジュークトルコ人では文明圏イランを統治できないだろうとアルスラーンが考えての事だと思います。その意味では賢明な判断でした。
 イランと言えばイスラム教シーア派が有名ですが、ホラサン地方はトランスオクシアナ以東のスンニ派の影響が強く、ニザーム自身もスンニ派だったと伝えられます。ニザームは正統スンニ派で国土を統一し理想的なイスラム国家を建設するという理想に燃えます。地方行政では、地方官に対する給与に税収の内一定率の金額を与えるというイクター制を整備し、しかも地方との癒着を防ぐため2~3年で交代させ調査官を送って地方官の不正を監視するという制度を築きました。
 1067年には彼の名にちなんだニザーミーヤ学園をバクダードに設立するなど教育にも力を入れます。目的はスンニ派の法学者を養成することで、ニザーミーヤ学園は各地に造られました。当然異端とされるシーア派、特に過激なイスマイル教団との対立は激化します。ニザームが内政を支えていたおかげで、アルプ・アルスラーンは安心して外征ができました。東はパミール高原から西はシリア、南はアラビア半島の西南ヤマン地方までの広大な領土がセルジューク朝のものとなります。
 セルジューク朝スルタン、アルプ・アルスラーンが1072年死去すると傅役(アタベク)として仕えていた太子、18歳のマリク・シャーを第3代スルタンに擁立します。この後彼の死までの20年がセルジューク朝の黄金時代でした。ペルシャ文学の古典として有名な『シャーサト・ナーメ(政治の書)』はニザームが若きスルタン、マリク・シャーのために治世の心得を記した書です。
 1074年には帝国の首都をイラン高原中央のイスファハーンに定めました。暦法学者で文化人のウマル・ハイヤームを招聘し天文台を建設、ジャラーリー暦という新暦(太陽暦)を作らせます。スルタン、マリク・シャーと宰相ニザームの関係は良好で、このコンビの下帝国は空前の繁栄を見せました。
 ところがマリク・シャーの晩年その後継者問題でマリク・シャーの皇后テルケン・ハトゥンと対立します。ニザームは先妻の子で太子だった長男バルキヤールクを推したのに対し、皇后は実子マフムードを後継者にしたかったのです。よくあるお家騒動は、皇后一派がニザームに弾圧されて恨みを持っていたイスマイリ派暗殺者教団と結びついた事で破局を迎えます。
 イスマイリ派の指導者、ハサン・エ・サッバーフはニザームのもとにアサシン(暗殺団)を送り込みました。1092年10月14日、ニザームは集団礼拝に参加するためモスクに向かっていたそうです。そこへ近付いてきた者がいても怪しむ者はいなかったと思います。イスラム教の神聖な儀式礼拝の途中に暴挙を起こすなどとは誰も夢にも思わなかったからです。ところが、その男は懐中の短剣を取り出すと、いきなりニザームに躍りかかります。

 暗殺者の凶刃はニザームの急所を一突きし彼は一瞬で絶命しました。偉大な政治家ニザーム・アル・ムルクは無思慮な皇后一派と、神(アッラー)をも恐れぬ冒涜者によって殺されたのです。享年74歳。大宰相ニザームの死をもってセルジューク帝国の黄金期は終わりました。その後帝国は1157年まで続きますが、最後のスルタン、サンジャルの死と共に分裂、欧州からは十字軍、中央アジアからはモンゴルの侵入と中東は多難の時代に入ります。

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