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2017年4月

2017年4月 3日 (月)

モンゴル五大河川と地勢

 私は一つの事に興味を持つとその関連情報をとことん突き詰めてしまう癖がありまして、モンゴル帝国の首都カラコルムを調べるうちにモンゴル高原の地形そのものに興味が移りました。
 さて、モンゴル高原にはアルタイ山脈とハンガイ山脈という二大山脈があります。アルタイ山脈はモンゴル高原西部を走り4300m級。一方ハンガイ山脈は高原の中央を西から真ん中くらいまで走り3500m級です。高原自体の平均高度が1580mもあるので比高はそこまで高くないんですが、ハンガイ山脈はセレンゲ川、オルホン川という二大河川の源流となっている重要な山脈です。
 オルホン川とセレンゲ川は途中で合流しバイカル湖に注ぎます。これらはエニセイ=アンガラ水系に属します。オルホン川には東部のヘンティ山脈から発し首都ウランバートルを通って西流し合流するトーラ川という重要な川があります。西から、セレンゲ川、オルホン川、トーラ川という位置関係です。
 一方、東部にはケルレン川、オノン川という別の大きな水系があります。ケルレン川もトーラ川と同じヘンティ山脈が源流です。ヘンティ山脈がモンゴル高原の分水嶺となります。ケルレン川は不思議な川で黒龍江と合流する手前、フルン・ノール(呼倫湖)に流れ込みます。その北、ブルカン山に始まり黒龍江に合流するのがオノン川です。ブルカン山は、チンギス汗の生まれ故郷だとされます。テムジン(後のチンギス汗)率いるモンゴル族が最初の拠点としたのがオノン河畔でした。
 ケルレン川流域は、匈奴や鮮卑など主に支那方面に進出した遊牧民が本拠としたところです。やはり遊牧民族といえども分水嶺から川の流れに沿って移動するのかもしれません。ちなみに、チンギス汗の墓所はケルレン川流域のどこかとされますから、ヘンティ山脈か、あるいはブルカン山系のどこかかもしれませんね。近年発見されたチンギス汗の霊廟跡もやはりケルレン川流域だそうです。通常霊廟の近くに墓所は築かれる事が多いので、期待できますね。
 話を戻すと、オルホン川はモンゴル高原のほぼ中央を流れるため多くの遊牧民族が本拠を置きました。カラコルム近辺は匈奴も後に王庭(遊牧国家の首都)を置いたそうです。ハンガイ山脈の南側より、河川が多い北側の方が発展していたんでしょうね。水辺の方が牧草も育ちそうですし。漢代、衛青と霍去病がここまで遠征してきたかと思うと驚きますね。ゴビ砂漠を超え、モンゴル高原もハンガイ山脈を越えないと満足な水も得られないんですから。漢の国家財政が傾くわけですよ。一方、匈奴は川沿いにバイカル湖周辺まで逃げればいいんですから楽でしたね。農耕民族の軍隊は、遊牧民族の軍隊と戦う時に攻城戦はほとんどなく野戦軍を撃破しなければいけないので大変でした。逆に遊牧民は不利になったら機動力を生かし逃げればいいんですから銃の普及する以前圧倒的に有利だったわけです。
 明代の永楽帝の遠征はどうしていたのか疑問です。やはり漢代と共通の補給(特に水)の悩みは尽きなかった事でしょう。
 地理を考えると、歴史は本当に面白いですね。

モンゴルの帝都カラコルム

 実はこの前ウイグル帝国の首都オルド・バリク(カラ・バルガスン遺跡)を調べていた時、モンゴル帝国の首都カラコルムもこの近くだなと思いだし調べてみました。すると驚くべき事に、同じオルホン河畔でオルド・バリクから上流(南)に20kmくらい遡ったごく近い場所にありました。オルド・バリクがアルハンガイ県で、カラコルムは隣のウブルハンガイ県にあります。(注  カラバルガスンに関しては本ブログ【ヤフーブログ参照】ココログでは省略)
 どういう事か考えてみたんですが、オルホン川自体に秘密があるのではないかと気付きました。オルホン川は、エニセイ=アンガラ水系に属しセレンガ川などと合流し北流してバイカル湖にそそぎます。現在のモンゴル国の首都ウランバートルも同じ水系に属し、いわばモンゴル高原の大動脈にも等しい川でした。
 この地域は、モンゴル高原の物資が集まるのに都合が良かったのでしょう。実際、カラコルムはチンギス汗がホラズム遠征に出発する時その兵站基地となったのが発祥だそうです。おそらくチンギス汗時代は、チンギス汗の大テントを中心に、大小無数のテント群が囲む行国(遊牧国家)の首都の形式である王庭だったと思います。
 実際カラコルムの地は、南と西を山岳に接し、町のすぐ西にオルホン川があります。開けた北と東はバイカル湖に至る北に緩やかに傾斜する平原で、敵の接近がすぐ分かります。要害の地に設けられた王庭の条件にぴったり合うのです。現在もカラコルム遺跡を中心とする地域はオルホン渓谷として世界遺産に登録されているほどの景勝の地でした。
 カラコルムに本格的に都城・宮殿ができたのは第2代オゴタイ汗時代の1235年だそうです。モンゴルの侵略の過程で連れてこられた華北や中央アジア、イランの技術者・職人たちが建設したかと思うと感慨深いものがありますね。おそらく彼らは異郷の地で生涯を終えたのでしょう。
 グーグルマップで見ると、カラコルム都城遺跡は意外と小さいものでした。一辺が500m位の正方形。この中には大汗の宮殿だけがあり、住民はその郊外に住んだんでしょう。現在の街もそういう構造になっています。世界各地から連行されてきた農耕民の住宅とモンゴル遊牧民のテントが混在していたんでしょうね。何とも不思議な光景だったと思います。建造物も東洋系と中東系が並び立っていたでしょうから。
 カラコルムはフビライ汗が支那を征服し大都(現在の北京)を首都と定めた後もモンゴル高原の重要都市として存在し、元が滅亡し北元が建った後はふたたび首都となったそうです。そして16世紀には荒廃します。おそらく遊牧民族同士の争いが激化し、都市機能を維持する職人たちも死に絶えたために消滅したのでしょう。モンゴル人やその近縁の遊牧民族には都市を維持することはできませんからね。また、その意味もない。再びテント形式の王庭に戻ったのでしょう。
 現在のモンゴルの農耕地がどれくらいあるのか調べたんですが、放牧地などすべてを含めた農地が国土面積の73%。このうち耕地はわずか0.4%だそうです。小麦、馬鈴薯などを栽培しています。やはり遊牧生活では大人口を養えないので、人口308万というのは仕方ないんでしょうね。ただ支那のように牧草地を無理やり農耕地にすると砂漠化の原因になるそうですから、牧草地は牧草地としてそのまま残すのがベストなんでしょう。

2017年4月 2日 (日)

ミカエル8世パライオロゴス  帝都を奪還した悪人皇帝

 歴史には時々どうしようもない悪人というのが出てきます。ただ悪人でなければ成し得ない事業があるのも事実。このミカエル8世パライオロゴス(1225年~1282年)は十字軍に奪われていたビザンツ帝国の帝都コンスタンティノープルを奪回し、ビザンツ帝国を再興した人物です。
 彼の登場前に、どうしてビザンツ帝国が国を奪われることになったかを見て行きましょう。アレクシオス1世コムネノスによって招き入れられた十字軍。当時の西洋世界はビザンツや中東と比べると文化が劣り蛮地だったため、十字軍は策源地となったビザンツ帝国領内で略奪暴行強姦など悪逆非道の限りを尽くしました。ビザンツ帝国は、独力で巨大なイスラム勢力と対抗しえなかったため我慢を強いられます。
 帝都コンスタンティノープルが何故十字軍によって攻め落とされなければならなかったのか?それはつまらない皇位を巡る争いが発端でした。アンゲロス朝アレクシオス3世は、兄イサキオス2世を追って帝位に就きます。この時イサキオスは弟によって両目を潰され追放されたそうですが、ビザンツではよくある処刑方法でした。これで安心したのかアレクシオス3世は、イサキオスの息子(3世の甥)アレクシオスを釈放し遠征に連れて行ったりします。脱走の機会を狙っていたアレクシオスは、あろうことかローマ教皇インノケンティウス3世に援助を求めました。
 アレクシオスは、自分が帝位に就いたら十字軍の遠征費用を払うとまで申し出ます。これにはバックにヴェネチアの意向があるのは明らかでした。教皇は第4回十字軍を送りだします。この時十字軍内部では同じキリスト教国との戦争を拒否する意見があったそうですが、ヴェネチアが示す莫大な軍資金の威力に負けてしまいました。
 アレクシオスを奉じた十字軍は、1203年ヴェネチアの大艦隊に守られてコンスタンティノープルに殺到します。ビザンツ側も敵が前皇帝の皇子を押し立ててきている事で戦意は上がりませんでした。皇帝アレクシオス3世は、さっさと皇位を放り出し莫大な財宝を持って逃亡します。皇帝の居なくなった帝都はあっさりと陥落、アレクシオスは即位しアレクシオス4世となります。
 これで終われば、ビザンツ内の単なる皇位争いに過ぎませんでした。ところが地中海貿易の独占をはかるヴェネチアは次なる陰謀を用意します。十字軍としては、コンスタンティノープル占領はエルサレムに行くための途中経過に過ぎず一刻も早く出発したかったのです。しかし連年の戦でビザンツの国庫は空となっており約束の軍費支払いが物理的に不可能となっていました。アレクシオス4世は、支払いできるようになるまで待ってほしいと猶予を求めますが、ヴェネチアは私兵を使い帝都のイスラム教徒居住区を襲います。コンスタンティノープルの住民は、蛮族の十字軍ではなく異教徒ではあってもこれまで仲良く暮らしてきたイスラム教徒に同情し西欧人たちと戦いました。
 十字軍とヴェネチアに対する反感は皇帝アレクシオス4世に向かいます。1204年市民を中心とする反乱が勃発、十字軍の傀儡皇帝アレクシオス4世を襲い殺してしまいました。遠征費用の支払いが絶望的となった十字軍は、ヴェネチアの指嗾でビザンツそのものを征服し軍費を強制的に取り立てようとします。こうしてキリスト教徒同士の凄惨な殺し合いが起こりました。すでにヴェネチア艦隊に帝都の周りを包囲され、市内にも十字軍が入り込んでいましたから、ビザンツ側の抵抗は簡単に排除されます。
 ビザンツ皇帝ラスカリスは逃亡し、コンスタンティノープルは十字軍の手に落ちました。十字軍内では選挙してフランドル伯ボードワンを皇帝に選出します。この時もヴェネチアの意向が働き、もっとも扱いやすい人物を選んだと言われます。ボードワンは即位しボードワン1世となりました。これを従来のビザンツ帝国と区別しラテン帝国と呼びます。
 ヴェネチアと十字軍による暴挙は、ビザンツ帝国の人々を怒らせます。各地に亡命政権ができラテン帝国に抵抗しました。その中で有力だったのは皇帝も輩出した有力貴族コムネノス家の興したトレビゾンド帝国(アナトリア北岸)、同じく有力貴族ドゥーカス家のエピロス専制侯国(ギリシャ西部からアルバニアにかけて)と、ラスカリス家のニカイア帝国です。ニカイア帝国を建国したのは滅亡前最後の皇帝ラスカリスの弟テオドロス1世でした。
 三つの亡命政権のうちもっとも有力だったのはコンスタンティノープルの対岸、アナトリア半島北西部を領土に持つニカイア帝国です。テオドロス1世はまず、「ローマ人の皇帝」を自称しビザンツ国民の愛国心に訴えました。次にニカイアで公会議を招集、総主教を選出します。総主教の手によって戴冠することで正統性を主張しました。
 ただし現実的な政策も実行しており、当時アナトリアの大半を有していたルーム・セルジューク朝と付かず離れずの巧妙な外交を展開します。以後ニカイヤ帝国は、ビザンツ人の支持を受けず弱体なラテン帝国を尻目にボスポラス海峡を渡ってバルカン半島側にも領土を拡大。ニカイア帝国が、奪われた帝都奪還の最有力となりました。
 ミカエル・パライオロゴスが登場したのはこのような時期です。名門貴族に生まれた彼は若くして将軍となりフランス人傭兵隊の司令官となりました。軍の力を背景に帝国内での発言権を強め、1259年皇帝テオドロス2世(1世の孫)が崩御すると重臣ムザロンを暗殺。コンスタンティノープルの大司教アルセニオス・アウトリアノスと結んで、幼帝ヨハネス4世(8歳)の後見人に収まります。この時専制公の称号を得ました。
 その後ミカエルは、あろうことかニカイア帝国の重臣たちに諮り共同皇帝になろうと画策します。さすがにこれは反発が強かったそうですが、拒否すればミカエルが敵側に奔る可能性があり、渋々ながらも認められました。一応ヨハネス4世が主、ミカエルが従という関係でしたが、ここまでくれば毒を食らわば皿までという心情になってもおかしくありません。
 ヨハネス4世が11歳になると、ミカエルは幼帝の両目を潰しマルマラ海の城郭に幽閉してしまいました。すでに共同皇帝としてニカイア帝国を実質的に牛耳っていましたから、ミカエルを恐れてだれも異を唱えなかったそうです。こうしてミカエルは、1261年即位しミカエル8世となります。
 すでに1260年には、ぺラゴニアの戦いでラテン帝国、エピロス専制侯国の連合軍を撃破するなど抜群の勲功をあげており表立って誰も抵抗できなくなっていました。ミカエル8世の帝都奪還は拍子抜けするほどあっさりしたものでした。
 コンスタンティープル周辺までニカイア帝国の領土は迫っており、その日もニカイア帝国の将軍が手兵を率いてパトロールしていたそうです。するとコンスタンティノープルの城壁に全く人の気配が無いことを気付きます。試しに部下を城壁に登らせると本当に無人でした。部下はそのまま城門に降りて内側から開けます。将軍は、命令違反を恐れたそうですが勢いが勝りそのまま城内に突入占領してしまいました。
 実はラテン帝国は、皇帝ボードワン2世自ら黒海沿岸に遠征しておりほとんど守備兵は空だったのです。1261年の出来事でした。棚から牡丹餅のように帝都を奪還したミカエル8世は大々的に帝都奪還を宣言、ビザンツ帝国は見事復活します。ラテン帝国皇帝ボードワン2世は逃亡するしかありませんでした。
 ミカエル8世が恐れたのは、十字軍が再び来襲する事でした。奪還したばかりのコンスタンティノープルの城壁を修復するとともに、ローマ教皇に使者を送り東西教会の合同を持ちかけます。これは教皇庁にとっても願ってもないことで、アンジュー伯シャルル・ダンジューの提唱する対ビザンツ十字軍は沙汰止みになりました。
 アンジュー伯は、十字軍を諦めきれず支配するシチリア王国の兵を動員して出陣しようとします。アンジュー伯を警戒していたミカエル8世は、イベリア半島のアラゴン王国と同盟して背後を襲わせました。これがシチリアの晩祷(ばんとう)事件です。
 きっかけは1282年、アンジュー家の兵がパレルモで起こした婦女暴行事件でした。フランス人であるアンジュー家の異民族支配に不満を持っていたシチリア島の住民はこの事件をきっかけとして暴徒と化します。全島民が蜂起するという破滅的状況で、アンジュー軍は対処できなくなりました。そこへアラゴン王ペドロ3世の軍が上陸、アンジュー軍を駆逐してシチリアを占領します。以後シチリア王はアラゴン王が兼ね、アンジュー伯シャルルは、残っていた領土のナポリ王になって島から叩き出されました。
 ミカエル8世は、帝都を奪還し帝国を再興しただけでなく緩慢に衰退する帝国をその後200年あまり延命させた皇帝でもありました。確かにやり口はあくどくとても善良な人物とは言えませんでしたが、このような悪人であったからこそビザンツ帝国を復活させえたのでしょう。1282年ミカエル8世死去、享年59歳。
 彼の開いたパライオロゴス朝は、1453年帝国滅亡まで続く王朝となりました。

アレクシオス1世コムネノス ビザンツ中興の祖にして帝国を終わらせた男

 ビザンツ帝国(東ローマ帝国)皇帝アレクシオス1世コムネノス(1048年~1118年)。往年のゲームファンなら懐かしの歴史シミュレーションゲーム、光栄『蒼き狼と白き牝鹿ジンギスカン』に出てくる同名の皇帝を思い浮かべるでしょう。実はゲームに出てくるのはアレクシオス3世アンゲロス。1世はコムネノス朝の創始者で、3世の方はコムネノス朝を滅ぼしたアンゲロス朝の皇帝です。
 過去記事マラズギルトの戦いに出てきた皇帝ロマノス4世ディオゲネスはドゥーカス朝の皇帝でした。ロマノス4世がセルジュークトルコの捕虜となった時義理の息子ミカエル7世が立ったと書きましたが、アレクシオスはミカエル7世の従弟アンドロニコス・ドゥーカスの娘エイレーネーと結婚しています。そればかりか、ドゥーカス朝が成立する前の皇帝イサキオス1世コムネノスの甥にもあたりました。血統的にはいつ皇帝に即位してもおかしくない人物だったのは確かです。

 当時のビザンツ帝国はどのような状況にあったでしょうか?ビザンツ帝国の通貨ノミマス金貨は中世を通じて国際通貨として扱われ『中世のドル』と呼ばれるほど流通していました。これはビザンツ帝国の信用が大きく裏打ちしていたからですが、マラズギルト敗戦の後、ビザンツ帝国の信用そのものが大きく揺らぎます。さしもの超大国も官僚制度は腐敗し、連年の外敵の侵入による国防費の増加、重税による農村の疲弊に苦しめられていました。ビザンツ政府は巨額に上った赤字を解消するため、ノミマス金貨の金の含有量を大幅に減らすという最悪の手段をとります。これは逆にビザンツ国家とノミマス金貨の信用をますます落とす結果になりました。

 アレクシオス1世が即位したとき、帝国は国家破産寸前の状態にあったと言っても過言ではありません。アレクシオスは24歳の若さで将軍となると各地に転戦します。実はアレクシオス自身もマラズギルトの戦いに従軍していました。当時のドゥーカス朝は、セルジュークトルコはもちろんの事、ウクライナ平原からはクマン族(キプチャク族)の侵入に苦しめられ、帝国領土だった南イタリアではノルマン人が侵略を繰り返していました。

 国内でも反乱が相次ぎ、特に軍事貴族ブリュエン二オスの反乱は帝国を揺るがす大事件になります。バルカン半島の有力貴族たちを味方につけたブリュエンニオスは大軍を擁し首都コンスタンティノープルを窺います。時の皇帝はニケフォロス3世ボタネイアテスでした。しかしこの男も実は反乱者で、一足先に首都を制圧し皇帝を名乗っただけの存在だったのです。皇帝はブリュエンニオスを懐柔しようとしますが、本人にも正統性が無いため交渉は決裂しました。
 皇帝ニケフォロス3世は、若き将軍アレクシオスに反乱鎮圧を命じます。皇帝にとっては成功してもよし、もし失敗しても有力な皇位継承のライバルが消えるだけでしたから一石二鳥の妙案でした。当時アレクシオスは、トルコ人のアナトリア侵入で散り散りになった地方の軍隊をかき集め選抜した不死隊をいう部隊を率いていました。名前は大したものですが、実際は寄せ集めで兵の質は低いものでした。

 一方、ブリュエンニオスが率いるのは、ほぼ無傷のバルカン半島の精鋭。まともにぶつかれば勝負にならないのは明らかでした。両軍は首都コンスタンティノープルに近いトラキアでぶつかります。アレクシオスの軍は不死隊という名が恥ずかしくなるように負け続けました。それをアレクシオスの将器でかろうじて支えているという厳しい状況です。ところが、ブリュオンニオス軍側のスキタイ人傭兵(おそらくクマン族)は、戦いの帰趨は決したとばかり勝手に略奪を始めます。皇帝軍は、弱兵でしたがさすがに首都の軍だけあって豪華な軍装で財宝も軍中に多数携えていました。

 傭兵にとっては、戦いなどはどうでも良く自分たちの利益があれば良かったのです。ブリュエンニオスにこれを制止することはできませんでした。そればかりか、スキタイ人たちの傍若無人な振る舞いに反乱軍兵士たちはいつか自分たちが攻撃されるのではないかと動揺します。アレクシオスは、この混乱を見逃しませんでした。側近の従者たちと騎兵を率いると敵の本陣に突っ込みます。

 敵将ブリュエンニオスの馬と太刀を奪ったアレクシオスは、「敵将ブリュエンニオスを討ち取った」と伝令に触れて回らせます。実はブリュエンニオスはまだ生きていたのですが、乗馬と愛刀を見せられると混乱していた反乱軍は驚愕し潰走しました。アレクシオスはすぐさま追撃を命じ、敵将ブリュエンニオスは捕えられ反乱は潰えます。アレクシオスは、ブリュエンニオスを寛大に扱い首都に凱旋しようとしました。

 ところが皇帝ニケフォロス3世は、ブリュエンニオスの引き渡しと新たに起こった反乱の鎮圧をアレクシオスに命じます。この時アレクシオスは皇帝に対する強烈な不満を抱いたと言われます。皇帝に引き渡されたブリュエンニオスは両目を潰されて追放されました。さすがにブリュエンニオスの一族は勢力が強く皇帝としても処刑できなかったのでしょう。

 皇帝に便利使いされいつかは滅ぼされると覚悟したアレクシオスはついに反乱に立ち上がります。皮肉にも皇帝の命令で各地の反乱を討伐していくうちにビザンツ軍はアレクシオスが完全に掌握するようになっていました。1081年、軍の力を背景に退位を迫るアレクシオスに、皇帝ニケフォロス3世は抵抗できませんでした。

 こうして皇帝に即位し新たにコムネノス朝を開いたアレクシオスでしたが、難問は山積です。まず国内では貴族の力が増大し皇帝の地位を脅かすほどになっていました。アレクシオス自身も有力貴族でした。そこでアレクシオスは、貴族を弾圧するのではなく帝国の柱として優遇することで不満解消を目指します。腐敗した官僚制度にもメスを入れ、新たな官職を設けることで利権化した以前の官職を無効化し、売官制度という悪習を減らします。

 これを日本で分かりやすく言うと、近衛府や衛門府などの律令武官に対し、征夷大将軍として幕府を開き軍事警察権を独占することで律令武官の実権を奪い単なる名誉職にするようなものです。

 対外的には、帝国領南イタリアが完全にノルマン人に征服され対岸のバルカン半島にも勢力を伸ばしつつありました。そこでアレクシオスは、都市国家ヴェネチアと同盟し海軍力によってノルマン人の侵略を撃退します。ただその際、ヴェネチアに様々な関税特権を与えたことで帝国内の商工業者の衰退を招き経済的にヴェネチアがビザンツを操るようになりました。アレクシオスにとってヴェネチアとの同盟は仕方ない事だったのでしょうが、長い目で見るとビザンツ帝国の緩慢な死を招いたきっかけになったと言えるかもしれません。

 北西国境では強敵クマン族が侵入を繰り返し、帝国の悩みの種となっていました。クマン族は別名キプチャク族ともいい、トルコ系の遊牧民族です。ウクライナからカザフスタンの平原地帯が本拠地で11世紀ボルガ川方面から黒海沿岸に進出し、ルーシー諸国は激しい略奪で苦しめられます。その矛先がビザンツ帝国にも向けられたのです。アレクシオスは自ら討伐に乗り出し、激しい戦いの末西方領土を奪回します。

 最大の宿敵セルジュークトルコは、1077年分裂しアナトリア半島(小アジア)では後継国家ルーム・セルジューク朝が成立していました。当時のビザンツの国力からいってルーム・セルジューク朝単独なら対処できたと思います。しかし、いったん戦端が開かれるとシリアやイランのセルジューク一族が参戦してくるのは明らかで全面戦争となります。そうなればマラズギルトの再来となる可能性が高く、アレクシオスはこれを恐れたのだと思います。

 彼は、致命的な失策を犯しました。ルーム・セルジューク朝を討つため、ローマ教皇ウルバヌス2世に傭兵の提供を要請したのです。教皇はこの申し出を奇貨として、聖地エルサレム奪回の十字軍を編成しました。これが第1回十字軍です。ビザンツ帝国は、十字軍の策源地となり逆に疲弊します。当時の西ヨーロッパは文化が低く一言でいえば蛮人だったので、同盟国であるはずのビザンツ領内でも略奪や婦女暴行など乱暴狼藉の限りを尽くします。挙句の果てには1204年、第4回十字軍がビザンツの首都コンスタンティノープルを占領しラテン帝国を勝手に建国するという暴挙まで行いました。これには裏でヴェネチアが糸を引いていたと言われます。

 ビザンツ帝国は一時滅亡し、各地に亡命政権ができました。ようやくコンスタンティノープルを奪還し帝国を再建できたのは1261年。しかし往時の力を取り戻す事はついになく1453年オスマントルコのメフムト2世によって滅ぼされるのです。アレクシオスは、その端緒を開いた皇帝でした。

 アレクシオス1世コムネノス、滅びゆく帝国の滅亡を防いだ中興の祖である事は間違いありません。しかし同時に帝国が緩慢な死に向かうきっかけを作った人物でもあるのです。ただアレクシオス1世の統治時代、ビザンツ帝国が一時の安定を取り戻した事だけは確かでした。1118年皇帝アレクシオス1世コムネノス死去、享年70歳。





 歴史的評価の分かれる人物ですが、私は高く評価したいと思います。彼がいなければビザンツ帝国は内乱の末12世紀には滅亡していたでしょうから。

セルジューク朝の大宰相ニザーム・アル・ムルク 世界史英雄列伝(43)

 イラン、ホラサン地方ニーシャプールの高名な大学者イマーム・ムワッハックのもとで学ぶ三人の有能な若者がいました。彼らは「三人のうち誰かが出世し財を築いたら残りの二人を助けよう」と誓い合います。最初に出世したのはニザーム・アル・ムルクでした。宰相になった彼はほかの二人に地方長官のポストを用意し招聘します。
 ウマル・ハイヤームはそのような地位は煩わしいと年金を貰って悠々自適の文化生活に浸り優れた詩を数多く残しました。一方、ハサン・エ・サッバーフは中央での出世を望んでいたので地方長官くらいでは満足せず、申し出を断りエジプトに亡命します。エジプトで暗殺教団に入ったハサンは、教団の実力者になってイランに戻りました。復讐を誓うハサンは、セルジューク朝の大宰相になったニザームにアサシン(暗殺団)を送り暗殺したと伝えられます。
 以上の話は中東ではかなり有名なエピソードですが、残念ながら史実ではないそうです。年齢が違っているので同時代に同じ師のもとで学ぶことは不可能というのが理由です。ですが、大政治家ニザーム、暗殺教団の指導者ハサン、そして暦法に詳しく詩集『ルバイヤート』を記し今なおイスラム圏の人々を魅了する学者にして大詩人ウマル・ハイヤームはほぼ同時代を生きた人ですから、中東の人々は三人を偲んでこのようなエピソードを作ったのでしょう。
 セルジューク朝第2代スルタン、アルプ・アルスラーン最大の功績は数々の戦勝ではなくこのニザーム・アル・ムルクを抜擢し国政を任せた事だと言われます。ではニザーム・アル・ムルク(1017年~1092年)とはどのような人物だったのでしょうか?
 ニザームはホラサン地方トゥース近くの村の地主の家に生まれました。本名ハサン・ブヌ・アリー。ニザーム・アル・ムルクとは「王国の秩序」という意味で君主から与えられた名前です。最初ニザームはガズナ朝に仕えます。ところがガズナ朝はセルジューク朝に敗れ臣従しました。アルプ・アルスラーンはガズナ朝の臣下だったニザームの有能さを見て抜擢、セルジューク帝国の宰相とします。この思い切った人事は、おそらく遊牧民族セルジュークトルコ人では文明圏イランを統治できないだろうとアルスラーンが考えての事だと思います。その意味では賢明な判断でした。
 イランと言えばイスラム教シーア派が有名ですが、ホラサン地方はトランスオクシアナ以東のスンニ派の影響が強く、ニザーム自身もスンニ派だったと伝えられます。ニザームは正統スンニ派で国土を統一し理想的なイスラム国家を建設するという理想に燃えます。地方行政では、地方官に対する給与に税収の内一定率の金額を与えるというイクター制を整備し、しかも地方との癒着を防ぐため2~3年で交代させ調査官を送って地方官の不正を監視するという制度を築きました。
 1067年には彼の名にちなんだニザーミーヤ学園をバクダードに設立するなど教育にも力を入れます。目的はスンニ派の法学者を養成することで、ニザーミーヤ学園は各地に造られました。当然異端とされるシーア派、特に過激なイスマイル教団との対立は激化します。ニザームが内政を支えていたおかげで、アルプ・アルスラーンは安心して外征ができました。東はパミール高原から西はシリア、南はアラビア半島の西南ヤマン地方までの広大な領土がセルジューク朝のものとなります。
 セルジューク朝スルタン、アルプ・アルスラーンが1072年死去すると傅役(アタベク)として仕えていた太子、18歳のマリク・シャーを第3代スルタンに擁立します。この後彼の死までの20年がセルジューク朝の黄金時代でした。ペルシャ文学の古典として有名な『シャーサト・ナーメ(政治の書)』はニザームが若きスルタン、マリク・シャーのために治世の心得を記した書です。
 1074年には帝国の首都をイラン高原中央のイスファハーンに定めました。暦法学者で文化人のウマル・ハイヤームを招聘し天文台を建設、ジャラーリー暦という新暦(太陽暦)を作らせます。スルタン、マリク・シャーと宰相ニザームの関係は良好で、このコンビの下帝国は空前の繁栄を見せました。
 ところがマリク・シャーの晩年その後継者問題でマリク・シャーの皇后テルケン・ハトゥンと対立します。ニザームは先妻の子で太子だった長男バルキヤールクを推したのに対し、皇后は実子マフムードを後継者にしたかったのです。よくあるお家騒動は、皇后一派がニザームに弾圧されて恨みを持っていたイスマイリ派暗殺者教団と結びついた事で破局を迎えます。
 イスマイリ派の指導者、ハサン・エ・サッバーフはニザームのもとにアサシン(暗殺団)を送り込みました。1092年10月14日、ニザームは集団礼拝に参加するためモスクに向かっていたそうです。そこへ近付いてきた者がいても怪しむ者はいなかったと思います。イスラム教の神聖な儀式礼拝の途中に暴挙を起こすなどとは誰も夢にも思わなかったからです。ところが、その男は懐中の短剣を取り出すと、いきなりニザームに躍りかかります。

 暗殺者の凶刃はニザームの急所を一突きし彼は一瞬で絶命しました。偉大な政治家ニザーム・アル・ムルクは無思慮な皇后一派と、神(アッラー)をも恐れぬ冒涜者によって殺されたのです。享年74歳。大宰相ニザームの死をもってセルジューク帝国の黄金期は終わりました。その後帝国は1157年まで続きますが、最後のスルタン、サンジャルの死と共に分裂、欧州からは十字軍、中央アジアからはモンゴルの侵入と中東は多難の時代に入ります。

大アラル海と小アラル海

 西アジア中世史シリーズ、なかなか人物まで行きませんが今回も地理の話。だいぶ前、アラル海が消滅の危機にあるという記事を書いたと思います。アラル海はかつて日本の東北地方の面積とほぼ等しい世界第4位の広さを持つ湖でした。アムダリヤ(アム河、ダリヤは河の意味)シルダリヤという二つの大河が注ぎ、アラル海に面する平野部は支那の史書で河間地方、ギリシャの文献ではトランスオクシアナと呼びました。
 オクサス川とはギリシャ人が呼んだアムダリヤの名前です。オクサス川の彼方の地という意味です。特にアムダリヤの河口デルタ地帯を中世にはホラズムといい石器時代の遺跡もあるほど早くから発展した地域でした。ちなみにホラズムと南接するサマルカンドを中心とする地域をソグディアナと呼び、オアシス諸都市を中心に交易が盛んでした。この地域の住民ソグド人はモンゴル帝国時代は色目人と呼ばれ経済官僚として重宝されます。
 シルクロードの中継地点として世界の物資の集まるところで、中央アジアに興った遊牧国家はトランスオクシアナの支配権を巡って激しく争いました。この地を制すれば東西に伸びるシルクロードを支配できるからです。そういう歴史のあるアラル海が、ソ連時代の乱開発によって湖水が蒸発しどんどん縮小して消滅の危機にあるというのが現状です。
 たしかにアムダリヤの河道を辿っていくと、ソグディアナからホラズム地方に入ったばかりのウルゲンチ(ホラズム帝国の首都)付近では川幅1キロあります。ところが下流に進むにつれどんどん川幅が縮小し100メートルもないくらいに狭まります。おそらく途中で灌漑用水で取られまくり流れが細まったのでしょう。
 ですから、アラル海にそそぐ水量より蒸発する量の方が多くなるので、どんどん湖面積が狭くなるのは当然です。ではもう一方の大河、シルダリヤの方はどうかというと、なんとこっちはカザフスタン政府がアラル海にそそぐ水を制限するために2005年コカラル堤防を完成させました。すると堤防の北側、小アラル海と呼ばれる地域は逆に湖面積が拡大したのです。
 アムダリヤの方のウズベキスタン政府も対策を考えているのでしょうが、ソ連時代の破壊が酷かったために現在打つ手なしという悲惨な状況になっています。ソ連は綿花を大規模栽培するためにアムダリヤから取水したそうですが、おかげで湖面が蒸発し豊かな穀物生産地域だったホラズムを荒廃させるという本末転倒な状況になりました。アスワンハイダムを綿花畑のために造り、下流の穀倉地帯が破壊されたエジプトとそっくりです。ソ連式の唯物主義は本当に駄目ですね。
 私の唯一の願いは、十分に水量が増えた後小アラル海から乾燥中の大アラル海に水を流して欲しいのですが、カザフスタンがそこまで優しいかどうか?ま、現実的には厳しいでしょうな。ソ連よ、歴史を返せ!!!

メルブ   砂漠に消えた幻のオアシス都市

 忘れたころにやってくる「世界の都市の歴史」シリーズ。今回はトルクメニスタンにあるメルブ遺跡の話です。最近の世界史記事の傾向から、私が中世西アジア史にはまっていることがお分かりでしょう。実は、マラズギルトの戦いの記事の後、ビザンツのアレクシオス1世コムネノスとセルジューク朝の大宰相ニザーム・アル・ムルクに興味を覚え、ビザンツは後で書くとして、ニザーム関連でまずイランの北西部からトルクメニスタン南部にまたがるホラサン地方を調べました。
 すると、イスラム帝国が最初ホラサン地方を制圧した時総督府をこのメルブに設けた事が分かりました。その後総督府はニーシャプールに移ります。ニーシャプール(イラン北西部)はグーグルマップですぐ見つかりました。現在ではネイシャープルと呼ばれているみたいですね。ところがメルブは見つからなかったので、ググってみるとすでに都市としての機能は失われ、現在は遺跡となりトルクメニスタン最初の世界遺産に登録されたとか。
 最盛期には人口100万という世界史上有数の大都市だったメルブがどうして滅んだのか?犯人はやはりモンゴルでした。モンゴルは東西を結び一大交易ネットワークを築くなど数々の功績もあるのですが、メルブを廃墟にしたり、イラン高原のカナート(カレーズとも言う。古代から伝わる灌漑技術)を破壊し豊かだったイランを荒廃させるなど数々の悪事もやらかしています。カナート網が現在も存在していたら、おそらくイランは人口1億を超えていたと思います。
 まずメルブという町の成立から見て行きましょう。メルブは紀元前600年アケメネス朝時代にはすでに存在していました。アレクサンドロスがこの地を征服しマケドニア王国が成立すると、メルブはマルギアナと呼ばれます。現在の地図で見ると、トルクメニスタン第2の都市マリからM37線沿いに東に向かって10kmほどいきます。すると不思議な遺跡が見えてきます。北辺に円形の城壁をもち、その周囲を四角の城壁で囲った都市遺跡が確認できます。これがメルブ遺跡です。
 マケドニア時代のマルギアナは、北辺の円形の城域でした。周囲は砂漠でメルブの周辺だけに緑があります。典型的なオアシス都市です。現在はこの円形城域内の遺跡をエルク・カラと呼ぶそうです。この内部だけでも12ヘクタールあります。その後拡張され四角い城壁の内部面積は60平方キロもあるそうです。人口100万という数字も納得できますね。
 メルブはシルクロードの要衝として順調に発展を遂げ、パルティア時代、ササン朝ペルシャ時代、イスラム帝国時代、その後の混乱期、セルジューク時代までホラサン地方の主邑であり続けました。統一セルジューク朝最後のスルタン、サンジャルの時代には首都となります。スルタン・サンジャルの廟もメルブにあり頑丈に造られていたためさしものモンゴル軍もサンジャル廟だけは破壊できなかったそうです。
 私は遊牧帝国を築いた大先輩セルジューク朝に敬意を払ってモンゴル軍が破壊しなかったのだと好意的に解釈しようと思ってましたが、冷静に考えるとコーランを入れた聖なる箱を馬の飼い葉桶とか水のみ桶にしたくらいデリカシーの無い連中ですから、本当に頑丈で壊せなかっただけなのでしょう。
 12世紀末メルブは、アムダリア河口デルタ地帯に興った強国ホラズムの支配下に入ります。ホラズムはチンギス汗の征西の目標となったため、メルブにもモンゴル軍が殺到しました。モンゴル軍はいち早く降伏した都市は住民の命だけは助けますが、一度でも抵抗の構えを見せると降伏を許さず、見せしめのために皆殺しにしました。メルブは、モンゴル軍の送った降伏勧告の使者を殺すという最悪の選択をします。
 メルブを攻めたモンゴル軍の指揮官はチンギス汗の末子ツルイだったそうですが、1221年モンゴルの大軍はメルブを容赦なく攻め立てて占領しました。その後、生き残った住民は場外に引き出されことごとく殺されます。メルブも徹底的に破壊されたため、その後復興する事はなかったようです。サマルカンドのようにモンゴル軍破壊後見事に復興した都市もあったのに比べると、悲惨な歴史ですね。私は、大航海時代が始まりシルクロードの重要性が薄れた事が復興に繋がらなかったのではないかと推測します。
 モンゴル占領当時も100万の人口がいたとしたら、メルブの周辺を掘ると夥しい人骨が出土しそうですね。私は憶病なので、ぜったいにメルブの近くには住みたくありません。その意味では、サマルカンドやヘラートなどモンゴル軍虐殺由来の都市には絶対に旅行したくありません。興味はとてもあるんですが…。よく調べないと、モンゴルの後ティムールも虐殺してますから、中央アジアの主要都市はほぼアウトかと(苦笑)。

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