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2017年5月

2017年5月 2日 (火)

サファヴィー朝Ⅵ  簒奪者と王朝の滅亡

 どんな王朝でもいつかは衰退期に入り滅亡するのは世界史の流れです。サファヴィー朝も例外ではありませんでした。英主シャー・アッバース1世の死後凡庸な君主が続きます。宮廷は権臣たちの権力闘争の場となり、官僚制度は腐敗しました。16世紀ごろから西欧の勢力がイランにも浸透しつつありましたが、17世紀末にはロシアがカスピ海沿岸に進出、コサックを使ったサファヴィー領への略奪も始まります。
 王朝を一番悩ましたのはアフガン人の台頭でした。実はアフガニスタンという国はもともと存在していません。アフガン人とは現在も内戦の主役であるパシュトゥーン人の別名で、彼らが中心となってイラン系のタジク、トルコ=モンゴル系のハザラ、ウズベックなどの諸民族を纏め一大勢力となったためこの地をアフガニスタンと呼ぶようになりました。
 パシュトゥーン人の存在がはっきりしてきたのは13世紀と新しく、種族的にはイラン系とトルコ系の混血でいくつかの諸民族が集まって形成された民族であろうと言われます。剽悍な山岳遊牧民族であるアフガン人に、ムガール朝もサファヴィー朝も悩まされました。カンダハル地方のギルザイという部族が1709年サファヴィー朝に対し反乱を起こします。サファヴィー朝はグルジア出身のキリスト教徒将軍グルギンに2万の兵を与え鎮圧に向かわせました。一時的に鎮圧されますが、ギルザイの首長ミール・ヴァイスはグルギンを騙し討ちにし再び蜂起します。ホラサン駐留のサファヴィー軍が討伐に派遣されますが、反乱軍はこれを撃破し手がつけられなくなりました。
 反乱を起こしたアフガン人たちは、マフムードという男を首長に選出します。マフムードはサファヴィー領に攻め込み暴行略奪の限りを尽くしました。マフムードの率いるアフガン兵はわずか2万余りだったそうですが、腐敗したサファヴィー軍は成すすべもなく敗れ去ります。1725年マフムードが発狂し暗殺されなかったらサファヴィー朝はこの時滅びていたかもしれません。
 1722年にはアフガン軍によって帝国の首都イスファハーンも陥落しています。時のシャー、タフマースブ2世(在位1722年~1732年)は、アフガン軍に首都を追われホラサン地方に落ちのびます。この地でタフマースブ2世を保護し後援した一人の男がいました。その名はナディル・クリー・ベク。後にナディル・シャー(1688年~1744年)と名乗るのでこちらの名前で通します。
 ナディルは、ホラサン地方マシュハド北方ダストギルド出身。トルコ系オグズ族アフシャール部族連合キルクルー族族長の息子だとも貧しい牧夫の子だとも言われはっきりしません。ただ、長ずるにつれアフシャール部族連合を纏め上げその指導者になった一代の風雲児でした。ナディル・シャーはタフマースブ2世を助け、1729年ダムガーンの戦いでギルザイ族を撃破、1730年にはギルザイ族の族長アシュラーフを捕えて処刑しました。
 同年イスファハーンを奪回、タフマースブ2世は即位式を挙げます。これまでの経緯からナディル・シャーがサファヴィー朝内で最大の実力者になったのは当然でした。タフマースブ2世は、ナディル・シャーの傀儡になるのを嫌い1732年オスマン朝との戦争に突入します。ところがその戦争に完敗。首都に残っていたナディルはタフマースブ2世を追放、アルメニア、グルジアを割譲することでオスマン朝と講和します。その後、タフマースブ2世の子でわずか8カ月の幼児だったアッバース3世を即位させ、自分は摂政になりました。完全に傀儡です。
 1736年には、そのアッバース3世を退位させ自分が即位しました。すなわちアフシャール朝の始まりです。サファヴィー朝の滅亡はあっけないものでした。すでにアフガン族の反乱の時点でサファヴィー朝の軍も官僚組織もガタガタで壊滅状態になっており実質的にはこの時滅びていたのでしょう。その後は、ナディル・シャー率いるアファシャール部族連合の上に名ばかりの存在としてタフマースブ2世が乗っかっていたというのが実態でした。ですから、タフマースブ2世追放の時も、アッバース3世退位の時もほとんど抵抗が無かったのでしょう。
 ナディル・シャー(在位1736年~1747年)は最後の東洋的専制君主だと言われます。対オスマントルコ外交でロシアと結び、オスマン朝に奪われていたイラク地方に軍事進攻し奪回。1738年には東に矛先を変えカンダハル、ガズニ、ラホールとアフガン族が蜂起して奪っていた領土を取り戻しました。その勢いのままカイバー峠を越えムガール帝国に侵攻します。この時デリーを占領し有名な孔雀の玉座と800カラットと言われる世界最大のダイヤモンド『コイヌール』を戦利品として持ち帰りました。
 1741年ウズベク族を撃破、1742年には海軍を使ってアラビア半島のオマーンを占領します。ナディル・シャーは冷酷非情な君主だったといわれます。1740年には旧主タフマースブ2世と二人の息子を処刑、1741年に暗殺未遂事件に関わったとして自分の息子でホラサン太守だったリダー・クリー・ミールザーを盲目にし、批判した多くの民衆を虐殺したそうです。
 彼の非情な政策は、スンニ派だったナディルがイランの多数派だったシーア派と融和を図るためだったともされますが、強権を使ったそれは成功したとは言えません。1745年、マシュハドで反乱の動きがあるとして多くの軍人、官僚、市民の有力者を処刑します。その数百名にのぼりました。これは逆にアフシャール朝の官僚や軍人の間に恐怖を生みます。いつ自分が殺されるか分からないため戦々恐々としました。
 そして1747年ホラサンのクルド族反乱鎮圧に向かっていたナディル・シャー暗殺に繋がるのです。殺したのは側近でした。アフシャール朝はナディル・シャーが一代で築いた王朝だったため彼の死後分裂します。その中で勝ち上がったのがカージャール族のアーガー・ムハンマド。その後カージャール朝からパハラヴィー朝が成立し近代イランへと至るのです。

サファヴィー朝Ⅴ  「イスファハーンは世界の半分」

 シャー・アッバース1世(1571年~1629年)は王子時代1572年、わずか1歳で祖父タフマースブ1世からホラサン総督に任命されます。これは父ムハンマド・ホダーバンデが現地のキジルバシと対立し収拾がつかなくなったための後任人事でした。もちろん1歳の幼児ですから能力があったわけではなく、王族を各地の太守に任命しないとキジルバシの台頭を押さえられなかったからです。

 アッバースは現地キジルバシの有力者の保護の下ホラサンで幼少期を過ごします。中央の政権争いとは無縁でしたが、逆にこれが結果的に権力争いに巻き込まれず生き残れた理由でした。祖父で2代シャーのタフマースブ1世が亡くなると、首都ガズヴィーンではアッバースの父も含む後継者争いが起こり大混乱に陥ります。1588年、アッバースはホラサンのキジルバシ達に擁立されてクーデターを敢行、父を退位させ第5代シャーとなりました。この時17歳。

 シャー・アッバース1世は、このままではキジルバシの有力者の傀儡として一生を過ごす運命だったと思います。ところが彼は一筋縄でいくような甘い人物ではありませんでした。おそらく隣国で最大の脅威だったオスマン朝に強く影響を受けたのだと思いますが、まず実力を蓄えるために二つの近衛軍団を編成します。

 一つは、グルジア、アルメニア、チュルケスなど主にコーカサス地方の遊牧民から選抜した「王のゴラーム(奴隷)」と呼ばれる騎兵軍団。これは1万5千の兵力でした。もう一つは「コルチ」と呼ばれるキジルバシの優秀な若者から選抜したシャー直属の騎兵軍団。こちらも1万5千。

 加えて、農耕民であるイラン人から選抜した歩兵軍団、大砲を装備する砲兵軍団を編成します。歩兵の主力武器はマスケット銃。ようやくサファヴィー朝も近代的軍隊となったのです。二つの近衛騎兵軍団と、マスケット銃歩兵軍団、砲兵軍団は対外的な意味もありましたが、ともすればシャーの命令にも従わないキジルバシを押さえこむ軍事力でもありました。

 アッバース1世が近代的軍隊を編成できたのは、その頃インド洋に進出してきたイングランド(イギリス)のジェームズ1世と結んだからです。1598年、キジルバシの勢力の強いガズヴィーンからイラン高原のほぼ中央に位置するイスファハーンに遷都します。イスファハーンはアケメネス朝起源の古代都市ですが、サファヴィー朝の首都となった事で空前の大発展を遂げました。最盛期の人口50万、あまりの繁栄ぶりに「イスファハーンは世界の半分」と称されるまでになります。

 国内を固めたアッバース1世は、反撃に転じました。まず1598年トランスオクシアナのシャイバーニー朝を討ちホラサン地方を奪回。ついで万全の準備の末1603年最大の宿敵オスマン朝に戦いを挑みます。これも10年以上の長い戦争になりましたが、今回はこちら側にもマスケット銃と大砲がありました。そうなると補給線の短い方が有利です。アッバース1世は、実に100年ぶりに旧都タブリーズを含むアゼルバイジャン地方、バグダードのあるメソポタミア地方をオスマン朝から奪還しました。1623年の事です。アッバース1世はこの功績により大帝と称えられます。サファヴィー朝最盛期を築いたシャーでした。

 1616年、イギリス東インド会社と貿易協定を締結。イギリスは軍事顧問団を送りこみサファヴィー軍の近代化に努めます。1622年には、ペルシャ湾の入り口ホルムズを占領していたポルトガル勢力をイギリスと共同で奪い返しました。当時のイギリスはオランダのマウリッツによる軍事革命の影響を強く受けていましたから、一時的にオスマン朝の旧態依然たるマスケット銃戦術より進化していた可能性があります。

 アッバース1世は、近代装備の常備軍の力を背景に王朝の癌になりつつあったキジルバシの力を押さえこみ、中央集権化を進めました。彼が卓越した君主であった事は間違いありません。ところが彼の死後それに匹敵するほどの名君が出なかったため王朝は緩やかな衰退に向かいます。1629年、アッバース1世死去。享年58歳。

 彼の死後10年もしないうちに、オスマン朝の反撃が始まりメソポタミアを再び奪還されます。以後この地をサファヴィー朝が回復する事はありませんでした。


 次回、最終回ナディル・シャーによる王朝簒奪とサファヴィー朝の滅亡を描きます。

サファヴィー朝Ⅳ  内憂外患

 1524年、偉大な父シャー・イスマイール1世の後を受け即位したタフマースブ1世(在位1524年~1576年)ですが、この時わずか10歳の少年でした。サファヴィー朝軍事力の中核、サファヴィー教徒のトルコ系遊牧民から成るキジルバシはイスマイール1世のカリスマで制御していただけで、少年王が即位するとあからさまに侮り言う事を聞かなくなります。
 即位して10年間、サファヴィー朝では国王そっちのけでキジルバシ同士の権力闘争が続き、多くの有力者が命を落としました。王朝はその成立の経緯から、中央集権化が進まずキジルバシを各地に封じる封建体制でした。成人したタフマースブ1世は、1533年キジルバシの最有力者フサイン・ハーン・シャームルーを謀反の罪で処刑、ようやくキジルバシを掌握します。
 このフサインですが、チャルディラーンの戦いで出てきたホラサン太守ドルミーシュ・ハーン・シャームルーの親族(息子あるいは甥)だったと思います。シャームルー家はキジルバシの中でも筆頭でしたから、処刑することでようやく実権を取り戻せたのです。以後、タフマースブ1世は、キジルバシたちをなだめすかして統御するしかありませんでした。

 チャルディラーンの敗因がマスケット銃と大砲という敵の新兵器だったのは明らかで一刻も早く導入すれば良いのに、というのは歴史を知っている現代人だから言える事で、キジルバシ騎兵軍団に頼っているサファヴィー朝では、彼らの既得権益を奪う事になるため改革はなかなか進みませんでした。

 1533年、そんなタフマースブ1世のもとに驚愕の報告が入ります。オスマン帝国のスレイマン1世(セリム1世の息子、大帝、在位1520年~1566年)がサファヴィー領に攻め込んできたというのです。スレイマン大帝はオスマン朝の最盛期を築いたスルタンで、ハンガリーを平定し1529年には第1次ウィーン包囲を行っています。スレイマン1世は、12万とも20万とも言われる大軍を率いました。オスマン朝にとっては、主敵であるハプスブルク家と本格対峙するため後顧の憂いを断つ事が目的の遠征でしたが、サファヴィー朝にとっては存亡の危機です。

 強大なオスマン軍が来たという報告はサファビー朝全土を駆け巡り、権力闘争に敗れたキジルバシ達は次々とオスマン軍に寝返りました。もともとどちらもセルジュークトルコに従いアナトリアに入植したトルコ人の子孫ですから、キジルバシにとっても心理的抵抗はなかったと思います。

 まともに戦ってもとても敵わないということはタフマースブ1世も十分承知していました。そこで徹底的にゲリラ戦法と焦土戦術で対抗します。が、それには限界がありました。首都タブリーズはオスマン軍に蹂躙され、メソポタミア地方まで奪われます。スレイマン大帝が本気なら、この時サファヴィー朝は滅んでいたでしょう。オスマン軍も伸びきった兵站線という弱点を抱えていました。タフマースブ1世が焦土戦術を採った事がようやく生きてきたのです。1555年、両国の間に和議が成立します。バグダードを含むメソポタミア地方を失ったものの、かろうじて平和を取り戻す事ができました。

 タフマースブ1世は、タブリーズの南東500kmのガズヴィーン(テヘランから北西に150km、エルブルズ山脈の南麓)に遷都しました。1540年には、インドからフマユーンの亡命を受け入れています。フマユーンは、ムガール帝国を建国したバーブルの息子で第2代皇帝となりますが、臣下のシェール・シャーに背かれインドから叩き出されたのです。タフマースブ1世もオスマン朝の侵攻に悩まされている最中でしたが、父イスマイール1世以来の関係から暖かく迎えたのでしょう。亡命中の1542年、フマユーンの息子アクバル(後のムガール帝国第3代皇帝、大帝)が生まれます。

 1545年シャール・シャーが急死するとタフマースブ1世はフマユーンに援軍を与えインド奪還を後押ししました。奪還作戦は10年かかり、1555年ようやくフマユーンはインドを取り戻します。オスマン朝との長い戦争の最中、ホラサン地方にはシャイバーニー朝軍が攻め込みます。まさに内憂外患ですが、タフマースブ1世は粘り強い戦争指導で何とか領土を守り抜きました。

 オスマン朝との和議成立後一息ついたタフマースブ1世でしたが、その晩年後継者指名をはっきりしなかったため息子たちを有力家臣が擁立しお家騒動が起こります。1576年タフマースブ1世死去、享年62歳。死因もはっきりせず、妻による毒殺、あるいは火傷が原因だったとも言われます。

 タフマースブ1世亡きあと真っ先に動き出したのは彼の三男ハイダルでした。ところが有力家臣クズルバシュ・グラーム・ハーヌムはハイダルを騙して処刑、タフマースブ1世の次男イスマイール2世を擁立します。1577年、このイスマイール2世も急死しました。陰謀の臭いがしなくもないですが、ハーヌムはイスマイール2世の兄ムハンマド・ホダーバンデを第4代シャーに担ぎ出します。当然これも傀儡でした。

 国王交代に付き物の権力闘争は、ハーヌムの命まで奪います。政争の末ハーヌムを処刑したキジルバシ達は、互いに争いサファヴィー朝は内乱状態に陥りました。すると、弱みに付け込んだオスマン朝が再度侵略を開始。この時アゼルバイジャン地方が占領されました。内乱は、ムハンマドの子アッバース1世が即位し鎮めるまで続きます。

 このアッバース1世こそ、サファヴィー朝最盛期を築いたシャーでした。

サファヴィー朝Ⅲ  チャルディラーンの戦い

 シャー・イスマイール1世がイラン高原を征服していた頃、西隣のアナトリア西部、バルカン地域ではオスマン朝が空前の大発展期に入っていました。オスマン朝に関しては、次回長編シリーズを予定しているのでここでは簡単に書きますが、1453年コンスタンティノープルを攻略しビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン帝国は、メフムト2世のときコンスタンティノープルをイスタンブールと改称し首都と定めます。
 オスマン帝国は以後ギリシャ、アルバニア、セルビア、ボスニアとバルカン半島を席巻、黒海にも進出し1475年クリミア汗国を属国にしました。アナトリア半島にも同時侵攻し、1473年東アナトリア、オトゥルクベリの戦いで白羊朝のウズン・ハサンを撃破します。メフムト2世の孫に当たるセリム1世(1465年~1520年)は、これまでのバルカン重視の政策から中東地域に関心を向けたスルタンでした。これは中東地域に割拠する君侯たちにとってはたまったものではなく、対岸の火事だったのがいきなり存亡の危機を迎えることとなります。
 オスマントルコのセリム1世と、サファヴィー朝のシャー・イスマイール1世の対決は時間の問題でした。そもそもの発端は、セリム1世がスルタン位を相続する時争った兄弟アフメドとその息子ムラトをイスマイール1世が後援した事です。サファヴィー朝は、アフメド王子をスルタンにするためアナトリア半島に軍を派遣しています。この時の怨みもさることながら、オスマン朝がアナトリア半島平定の過程で叩き出したトルコ系遊牧民の首長たちがイスマイール1世に泣きついた事で両者の対立は決定的になります。
 実はこの構図、100年前のバヤジット1世とティムールのアンゴラ(アンカラ)の戦いのときとそっくりでした。冷酷者と渾名されたセリム1世は、まずアナトリア半島に残っていたサファヴィー教団の信者や同調者を探し出し殺します。その数実に4万とも言われました。アナトリア半島、特にその東部高原地帯はサファヴィー朝発祥の地と言ってもよく、軍事力の中核とも言うべきキジルバシの故郷でした。
 サファヴィー朝の宮廷は、セリム1世の遊牧民弾圧に激高し「オスマントルコ討つべし!」という声が大勢となります。これまで連戦連勝を続けていたイスマイール1世とキジルバシにとって負ける気はしなかったでしょう。生意気なオスマン朝の田舎者に鉄槌を下すという軽い気持ちだったかもしれません。1514年、4万のキジルバシ騎馬軍団を率いたイスマイール1世は、トルコ東部ヴァン湖北東にあるチャルディラーンに着陣しました。時にイスマイール1世27歳。
 一方、オスマン朝はセリム1世が12万とも言われる大軍を率いこれを迎え撃ちます。決戦の前夜、サファヴィー軍本営では軍議が開かれました。最初に発言したのは将軍ムハンマド・ハーン・ウスタージャルーです。
「恐れながら申し上げます。オスマン軍はイェニチェリと呼ばれる歩兵軍団が主力、マスケット銃と大砲で武装しております。これまでの敵とは違い強敵です。ここは敵の布陣が整う前に夜襲を掛けるのが上策でしょう」
 ウスタージャルー将軍は、サファヴィー朝の西方国境ディヤールバクル太守としてオスマン軍とは何度も戦っており、敵の強さ弱点を熟知していたのです。ところがこれに、東方地域シャイバーニー朝と戦いで功績をあげたドルミーシュ・ハーン・シャームルー将軍が異を唱えました。
「黙れ田舎者!そのような卑怯な戦法はディヤールバクルだけでやっておれ。王者の戦いは正々堂々とするもの。夜襲など姑息な戦法で勝ったりしたら陛下の威光に傷がつくわ」
 この両者は、サファヴィー軍の中核キジルバシの有力者で共にサファヴィー王家と姻戚関係にあり一歩も譲りませんでした。激論が続く中、イスマイール1世は断を下します。
「明朝、日の出と共に攻撃を開始する」
やはり、イスマイール1世には『王者の戦い』という言葉がプライドをくすぐったのでしょう。これまで一度も負けた事の無い彼にとって勝敗は関係なく、いかに正々堂々と勝つかが問題だったと思います。
 実際、戦端が開かれると宗教的熱狂に駆られたサファヴィー軍は歩兵が主力のオスマン軍を押しまくります。ところが数でも勝っていたオスマン軍は、今までの敵と違い容易に崩れませんでした。そればかりか、マスケット銃と大砲というサファヴィー軍がこれまで経験した事の無い兵器で反撃し、サファヴィー軍左翼のムハンマド・ハーン・ウスタージャルーは敵弾を受けて戦死してしまいます。皮肉にもオスマン軍を熟知し慎重論を唱えていたウスタージャルーが真っ先に死んだのです。
 サファヴィー軍の強みは、勇猛な騎兵で突撃し敵が崩れたところを衝いて敗走させるというものでした。ところがオスマン軍は士気が高く簡単に崩れないばかりか、逆にサファヴィー軍の戦列の乱れを見逃さず騎兵を繰り出して攻撃しました。実はオスマン軍は、マスケット銃を持ったイェニチェリ歩兵軍団、大砲で武装した砲兵軍団、バルカンやアナトリアから徴兵した騎兵軍団という世界に先駆け三兵戦術(騎兵、歩兵、砲兵を有機的に組み合わせる戦術)を採用した近代軍だったのです。
 これに中世の騎兵のみの戦法が通用するはずはありませんでした。時代はすでに近世へ突入しています。イスマイール1世は、おそらく親衛隊までが崩れ敗走する段階になっても自分が負けた原因を理解していなかったかもしれません。これまで連戦連勝だった戦法が全く通用せず、次元の違う戦法でやられたのですから。
 敗戦の衝撃はイスマイール1世を蝕みました。オスマン朝のセリム1世は、サファヴィー朝を滅ぼすまでは考えておらず、追い払うだけで良しとしました。以後、エジプトのマムルーク朝に矛先を変えこれを滅ぼすことになります。マムルーク朝もまた旧態依然とした騎兵戦術でオスマン軍に完敗しました。
 首都タブリーズに逃げ帰ったイスマイール1世は、国政への興味を失い、宰相ミールザー・シャー・フサインに政務を委ね自分は宮中に引き籠ります。以後酒色に溺れ1524年37歳で波乱の生涯を閉じました。
 次回、後を継いだ息子タフマースブ1世の苦悩とアッバース大帝の改革を描きます。

サファヴィー朝Ⅱ  神童

 第5代教主ジュナイドの時代、サファヴィー教団軍事力の中核となったアナトリアのトルコ系遊牧民たちをキジルバシ(赤い頭)と呼びました。これは彼らが、尖がった赤い帽子の周りに12イマームを象徴する12の襞があるターバンを巻いていたからです。
 彼らはセルジュークトルコがビザンツ帝国に勝利しアナトリアに進出した時について行ったオグズ(トルコ系、トルクメン人の祖)たちで、この中から黒羊朝、白羊朝、オスマン朝などが出てきます。ジュナイドが教主争いで叔父に敗北しアナトリア高原に亡命した時信者に加わった遊牧民たちですが、シーア派のサファヴィー教団の教義を理解したとは思えません。それよりもジュナイドの方が、遊牧民たちを味方につけるため、彼らのトルコ的信仰(上天【テングリ】信仰など)を取り入れ教義を世俗化したと言われます。
 敬虔なイスラム教徒であるアラブ人と違って、トルコ人はこういうよくいえば融通無碍(悪くいえばいい加減)なところがあります。私がサファヴィー教団の教主一族をトルコ系と断じる根拠もこれです。しかしこの現実主義は教団の拡大に大きく役立ちました。時の権力者白羊朝も、サファヴィー教団を無視できなくなりスルタン、ウズン・ハサンは自分の娘アーラム・シャオをジュナイドの息子で第6代教主ハイダルに嫁がせました。このアーラム・シャオはトレビゾンド帝国皇女を母としていましたからギリシャ系の風貌をしていたと思います。
 政略結婚でサファヴィー教団を取り込もうと考えていたウズン・ハサンですが、間もなく弾圧に転じます。ジュナイドとその息子ハイダル、さらにハイダルの長男シャイフ・アリーまでもが白羊朝やその同盟者との戦いで命を落としました。ハイダルの次男で当時わずか7歳のイスマイールは教主となってまもなく本拠アルダビールを追われ、アルダビール州の南隣でカスピ海沿いのギーラーン州に潜伏します。
 世界史に詳しい方は、イスマイールではなくイスマ―イールと書くべきではないかと思われるかもしれません。ただこれは言語感覚の違いでイスマイルと表記したりイスマ―イールと書いた本もあります。ヘブライ語のイシュマエル (Ishmael) のアラビア語形(アラビア語: إسماعيل、ラテン文字表記:IsmailまたはIsmaeel)ですから、私はラテン文字表記を重視してイスマイールとしました。これは中世ペルシャ語の王名シャプールをシャープールと書くのと同様で、どちらにしても外国語を日本語に翻訳する時の言語感覚の違いと言うしかありません。ちなみに、言語学者の方によると中世ペルシャ語に一番近い日本語表記はシャープフルだそうで、シャープールよりは私のシャプールの方がより近いのかなとは思います。
 わずか7歳の少年イスマイール(1487年~1524年)にサファヴィー教団を纏める力があったのか疑問ですが、弾圧を受ければ受けるほど内部が団結する人間心理と、彼のカリスマ性もかなり寄与していたのではないかと考えます。雌伏5年、イスマイールがギーラーン州ラシュトの町を出たのは1499年でした。この時でさえイスマイールは12歳、教団幹部の補佐があったとはいえ驚くべき神童ぶりを発揮します。イスマイールはアナトリア高原各地に広がる信者たちに檄を飛ばしました。集合の地と定められたトルコ東部エルジンジャンの町に終結したキジルバシは7000騎だったと伝えられます。キジルバシたちは少年教主イスマイールに無視の忠誠を誓いました。
 宗教的熱狂に駆られたサファヴィー軍は、弾圧者白羊朝に戦いを挑みます。英主ウズン・ハサンを失い家督争いで分裂状態にあった白羊朝にこれを防ぐ力はありませんでした。これはあくまで私個人の想像ですが、白羊朝の中にも相当数サファヴィー教団の信者がいたのではないかと考えます。これでは統一した防衛などできないはずです。結局1501年、アゼルバイジャン地方の主邑で白羊朝の首都でもあったタブリーズはサファヴィー軍によって陥落します。この年を持ってサファヴィー朝が成立したとされます。イスマイールは即位しイスマイール1世となりました。
 その後も各地に残った白羊朝の残党との戦いは続きますが、数年もしないうちにメソポタミア地方、イラン地方が完全にサファヴィー朝の手に落ちます。もはやイスマイール1世とキジルバシ軍団に敵なしという状態です。ところが東の隣国トランスオクシアナ地方には、同じ頃トルコ系の有力国家が成立しつつありました。すなわちウズベク族の首長ムハンマド・シャイバーニー・ハンの打ち立てたシャイバーニー朝(ウズベク・ウルス)です。
 両者の戦いは過去記事『バーブルとムガール朝興亡史』で詳しく記したので、ここでは簡単に紹介するに止めます。発端はイラン北東部ホラサン地方を巡る争いでした。これにシャーバーニー・ハンに追われたティムール帝国の亡命王子バーブルが関わります。バーブルは、独力でシャイバーニー・ハンに対抗できないため1510年サファヴィー朝に泣きつきました。この時イスマイール1世はまだ23歳。それに4歳年長のバーブルが泣きついたんですから、傍から見たら滑稽でした。
 シャイバーニー・ハンは若造であるイスマイール1世を舐めていたのかもしれません。ただキジルバシの軍事力を警戒しホラサン地方の大都市メルブに籠城しサファヴィー軍の出方を見ました。長期戦になる事を嫌ったイスマイールは一計を案じます。包囲を解き、わざと潰走したように見せて退却しました。これをシャイバーニー・ハンはサファヴィー軍中に異変があったのだと解釈し追撃します。戦上手として名高かったシャイバーニー・ハンにしては珍しい判断ミスですが、敗北する時は得てしてこういうものでしょう。
 伏兵を置いて待ち構えていたイスマイールは、ウズベク軍が罠にかかるのを待って一斉攻撃を命じました。戦いは一方的虐殺となります。油断していたウズベク軍は大敗し、シャイバーニー・ハンも討ち取られました。イスマイールの憎しみはよほど強かったのでしょう。シャイバーニー・ハンの頭蓋骨に金箔を貼り酒杯にして辱めたそうです。現代人の感覚から見ると異様ですが、敵の首を酒杯にするというのは遊牧民独特の文化で宗教的意味もあるとされます。このエピソードを見てもサファヴィー家がイラン系というのは有り得ないと思います。イラン人も確かに出自は遊牧民でしたが、文明化しこのような蛮行はしなくなっていたと考えます。髑髏杯はトルコ系あるいはモンゴル系遊牧民的風習のような気がするのです。
 英傑シャイバーニー・ハンの死を持ってもシャイバーニー朝は滅びませんでした。シャイバーニーの甥ウバイドゥッラー・ハン(1485年~1540年)の下で再結集したウズベク族は、力を盛り返しサファヴィー朝の後援を受けたバーブルをトランスオクシアナから叩き出します。バーブルが、サマルカンド奪還を諦めインドへ進出しムガール帝国を築いたのはこの後です。

 トランスオクシアナは、永遠にサファヴィー朝の手から失われウズベキスタンとなりました。さらにウズベク族はホラサン地方にも進出しこの地をサファヴィー朝と分け取るようになります。以後、ウズベク族とサファヴィー朝の小競り合いは続きますが、本当の脅威は西から来ました。



 次回、アナトリア西部に勃興した巨人オスマン帝国とイスマイール1世の『チャルディラーンの戦い』を描きます。

サファヴィー朝Ⅰ  サファヴィー教団の誕生

 スーフィーとは、イスラム教の絶対神アッラーと我執を滅却しての合一することをめざし清貧行を主として様々な修行に励む人々を指します。スーフィズムはイスラム教神秘主義運動で9世紀ごろに生まれました。
 イスラム教神秘主義運動スーフィズムの一つ、サファビー教団の基となる組織ができたのは、だいたい12世紀頃だと推定されます。サファヴィー教団がはっきりと出現したのは14世紀聖者サフィー・ウッディーン(1252年~1334年)からでした。
 サフィー・ウッディーンは弟子たちと共にイラン北西部アゼルバイジャン地方(現在のアゼルバイジャンとイラン北西部、トルコ東部を含む)のアルダビールで教団を設立します。この教団は、彼の妻の父シャイフ・ザーヒドが運営していたものでした。師であり舅でもあったザーヒドの死を受けて教団を受け継ぎます。サフィー・ウッディーンの時代がどのような時代だったかというと、フラグの侵略で成立したイル汗国(フラグ・ウルス)の末期に当たりました。
 サフィーの子孫たちが代々教団の教主を務めたためこの教団をアラビア語の複数形サファヴィーヤ(サフィ家の人々という意味)からサファヴィー教団と呼びます。サファビー教団は、代々の教主をシーア派第7代指導者(イマーム)ムーサー・アル・カージルの血を引くサイイド(聖裔)と宣伝するようになりました。子孫がイランに残っているそうですが、現在でもサイイドとして遇されているそうです。すくなくとも教団の信者の間では事実だと認定されていたのでしょう。
 スンニ派政権であるイル汗国はシーア派の異端であるサファビー教団を弾圧しますが、すでに分裂が始まっていたイル汗国では鎮圧できずますます教団の力は強まります。特に、トルコ系遊牧民の間に信者を増やしその勢力は侮れないほど大きくなって行きました。ちなみに、サイイドだったかどうかは各国で異論があり、アゼルバイジャンではサフィー一族をトルコ系だと断じ、トルコはクルド系と見ています。これらはサファビー朝に酷い目に遭った国ですから幾分割り引く必要はありますが、私もトルコ系説を採りたいです。
 教団の創設者サフィー・ウッディーンは清貧を貫き瞑想でアッラーとの対話を試みる聖者だったそうですが、教団が大きくなるにつれその教えは形骸化し、独自の軍隊とアゼルバイジャン地方に広大な土地を有する大地主になりました。教団の世俗化はサフィーの息子で第2代教主サドル・アッディーンの時代には表面化し、近隣の有力な遊牧首長チュパン家と対立するまでになります。、
 また、ティムールがアゼルバイジャン地方に侵攻し教団の財産を没収しようとした時、サドルの息子ホージャ・アリーがティムールと面会しそれを撤回させたというエピソードもありました。教団に変化が現れたのは初代サフィー・ウッディーンから数えて5代目ジュナイドの時代です。教主の座を叔父と争って負けたジュナイドはアルダビールを去りアナトリア高原で遊牧生活を送りました。私はこの事からもトルコ系だと見ているのですが、サファヴィー教団の教主ジュナイドが来たという話は、瞬く間にこの地に遊牧するトルコ系遊牧民たちの間に知れ渡り、多くの信者を獲得します。
 ジュナイドは、このトルコ系遊牧民の軍事力を背景にアブダビールに戻り叔父から教主の座を奪い返しました。この頃から教団は武力によって治める軍事教団に完全に変貌します。日本でいえば戦国時代の比叡山延暦寺か、石山本願寺と一向一揆勢力だと言えば理解しやすいでしょう。もっとも日本の僧兵よりアナトリアのトルコ系遊牧民の騎馬軍団の方がはるかに物騒な存在でしたが…。こうなってくると、ティムール帝国崩壊後に興った黒羊朝も白羊朝もちょっとやそっとでは手が出せなくなります。サファヴィー教団は、黒羊朝・白羊朝の領土内独立自治国家ともいうべき存在になって行きました。
 
 次回は、先鋭化したサファヴィー教団と白羊朝の対立を描きます。

中東地域の戦術の歴史

 最近、世界史書庫では延々と遊牧民族話を書いていますが、これはイスラム世界最後の世界帝国オスマン朝の歴史を描くための前準備だとお思いください。その前にイランの歴史で書き残したサファヴィー朝、アフシャール朝を紹介します。すでにササン朝までとカージャール朝からイラン革命までの歴史は書きました。
 なぜサファヴィー朝、アフシャール朝を抜かしたかというと、イスラム勢力の侵入からカージャール朝成立までのイランは、国家的纏まりというより中東の大きな歴史の流れの中で語るべきだと考えたからです。ゆえに、前記事で初めてサファヴィー朝の前段階である黒羊(カラコユンル)朝、白羊(アクコユンル)朝の歴史を書いたわけです。
 さて今回は戦術の話。ここでいう中東の概念は西はイランから東はエジプト、北はシリア、南はアラビア半島(その辺縁部を含む)とします。遊牧民族の最初の形態が成立したのはこの中東の周辺部だったと思います。なぜなら農耕社会なくして遊牧社会は成立しないから。そしてシリアは世界最初の農耕の発祥地。なんと1万1千年前だそうです。集落の形成もその頃。
 一方、遊牧という形態で歴史上確認される最古のものはキンメリア人で紀元前8世紀頃。活動地域はウクライナ平原。もちろんそれ以前から遊牧生活はあったと思いますが、それでも紀元前1000年前後だったと思います。世界最初の文明の一つメソポタミア地域では軍隊も組織されましたが、それは歩兵中心でした。馬はあったものの直接騎乗するのではなく馬車を引かせて、その上で戦闘します。
 ですから、農耕文明社会では周辺の遊牧民の侵入に悩まされました。マスケット銃と大砲の出現前、騎兵の歩兵に対する優越は絶対的でした。機動力で大きく勝り不利になればさっさと逃げられます。一方歩兵が騎兵に対抗するには城砦に籠城するか、守りを固めて弩などの投射兵器でアウトレンジで戦うしかありませんでした。
 歩兵を指揮する者は守備の能力と投射兵器の有効的活用、騎兵を指揮する者は攻撃には強くとも守りは脆弱な騎兵の投入時期、撤退時期の見極めが最重要で、この能力の差が勝敗を分けます。これは洋の東西を問わず戦いの真理だったと私は思います。
 その騎兵の優位が絶対的になったはまさにモンゴル帝国の時代で、チンギス汗とその子孫たちが世界最大の帝国を築いたのも必然だったのでしょう。そのモンゴルの猛威が去った後、中東地域には別の新たな脅威が迫ります。それは同じイスラム世界に属するオスマントルコの侵略でした。
 オスマン朝も、発祥は遊牧民族であるトルコ族。建国当初は他のイスラム諸国と同様騎兵中心でした。ところがイスラム圏の最辺境に位置し、ヨーロッパ世界との境界にいたオスマン人たちは、世界に先駆けてマスケット銃を本格採用します。マスケット銃は15世紀チェコで起こったフス戦争で使用され、プロの軍隊である騎士軍をしばしば破りました。ところが西洋世界では騎士の身分を脅かすとしてなかなかマスケット銃の本格採用は進みませんでした。
 フス戦争で敗れたフス派の技術者たちはオスマントルコに亡命します。オスマン朝は、異教徒の技術であっても役立つものは積極的に採用する柔軟性がありました。だから世界帝国を建国できたとも言えますが、マスケット銃を常備歩兵軍団イェニチェリの主力武器として採用します。また専門の砲兵軍団、工兵軍団も創設し従来の騎兵軍団と共に世界に先駆けて、騎兵・歩兵・砲兵という近代的三兵戦術を確立しました。
 オスマントルコの軍隊は、サファビー朝の軍隊を破りエジプト・マムルーク朝の騎兵軍に勝って滅ぼしました。どちらもトルコ系民族が建国し騎兵の力によって周辺諸国を席巻した国でした。16世紀、17世紀と2度に渡ってウィーン包囲ができたのも、当時のオスマン軍が最先端の軍隊であった証拠です。
 ところが西洋では、ヴァロワ朝・ブルボン朝のフランスと、スペイン・オーストリア両ハプスブルクとの対立が、テルシオ戦術、マウリッツ式、スウェーデン式という新たなマスケット銃歩兵戦術を出現させ、従来の戦争に革命をもたらします。これらは、マスケット銃の能力を極限まで発揮できるよう工夫された戦術で、テルシオはそれを防御に、マウリッツ式とスウェーデン式は攻撃に特化させました。
 第2次ウィーン包囲失敗後、オスマン帝国がハプスブルク・オーストリアに押され始めたのはこれが理由でした。世界で先駆けて三兵戦術を採用したオスマン帝国も、西洋で急速に発展したマスケット銃戦術に追い付けなくなったのです。改革を怠り旧式化したイェニチェリは軍閥となりオスマントルコの癌となりました。1826年改革の必要を痛感した時のスルタン、マフムト2世は西洋式新式軍隊『ムハンマド常勝軍』創設と共にイェニチェリ廃止を宣言。抵抗したイェニチェリは殺されます。その数は実に六千人にも及んだと言われます。
 一時代を席巻した戦術は、成功体験があるためになかなか変えられないのでしょう。イェニチェリの歴史を見ると強く感じます。

黒羊朝と白羊朝

 トルクメン人は現在トルクメニスタンを中心にアフガニスタンからイラン、北はロシア南部に住む人口900万人(そのうちトルクメニスタンに430万人)の民族です。かつては中央アジアで活躍した遊牧民でした。トルクメンの語源ははっきりしないんですが、『トルコ人に似た者』という意味だとする説、あるいは『トルコ人・クマン人(キプチャク人)を合わせた言葉』だという説もあります。
 トルコ人に似た者という語源の説もありますが、トルコ系であることには間違いなく、トルクメン人の民族学者ジキエフの研究では同じトルコ系のカザフ人やウズベク人が古代トルコの伝統を色濃く残しているのに対し、トルクメン人は混血を重ねそれが薄まった集団だとしています。私は素人なので判断できませんが、多分にコーカソイドの血が入ったトルコ系遊牧民族だと解釈して話を進めます。
 なぜ長々とトルクメン人の話を続けたかというと、トルクメン人が属した集団はかつてオグズと呼ばれセルジューク帝国や黒羊朝、白羊朝、オスマン帝国を建国した民族だからです。もちろん現在のトルクメン人とこれら王朝を建国した民族が同じというわけではなく、オグズの大きな流れの中で分化して行った一つの集団が現在のトルクメン人だという事でしょう。
 
 話は、ティムール帝国末期まで遡ります。ティムール帝国第4代アミール(イスラム世界で称される君主号の一つ。軍事指揮官の意味合いが強い)ウルグ・ベク(1394年~1449年)は学問を奨励し首都サマルカンドの文化を発展させた君主として有名ですが、その晩年は不幸でした。甥のアラ・アル・ダウラに背かれ息子アブダル・ラティーフの治めるヘラートを落され、息子は捕えられてしまいます。ダウラはヘラートで自立しました。ダウラの反乱はまもなく鎮圧されますが、今度はトルクメン人がサマルカンドを占領、略奪暴行の限りを尽くしました。
 さらに不幸は続き、救出された息子アブダル・ラティーフが反乱を起こすのです。結局ウルグ・ベクは息子に殺されます。ラティーフは間もなく即位しますが、父殺しの汚名を受け誰も支持しませんでした。ティムールの子孫の一人アブー・サイードにサマルカンドを攻撃され逃亡途中暗殺されました。これでティムール帝国は崩壊します。ちなみにアブー・サイードの孫に当たるのがインドにムガール帝国を建てたバーブルでした。
 ティムール帝国は周辺の多くの遊牧民を支配下に置いていましたが、中央の統制が弱まると彼らに自立の動きが起こります。現在のトルコ東部、アルメニアやイランとの国境近くヴァン湖のある盆地は遊牧の適地の一つでトルクメン人たちが住んでいました。その中の一つ黒羊(カラ・コユンル)と称する部族の族長カラ・ユースフは、ティムールとしばしば戦いますが、1405年ティムールが死ぬと失地を回復、1408年アゼルバイジャン地方を領するティムールの王子アブー・バクルを殺してタブリーズを占領、黒羊朝を打ち立てました。1411年にはバグダードを落としイラク地方に領土を広げます。分裂し衰退の道を辿るティムール帝国は成すすべもありませんでした。
 このまま行けば黒羊朝がティムール帝国の故地を併呑するのは時間の問題だと思われます。ところがヴァン湖よりもさらに西、ディヤルバクル地方に君臨する同じトルクメン人の白羊(アク・コユンル)と称する部族に一代の英傑ウズン・ハサン(1423年~1478年)が登場しました。ウズン・ハサンはアナトリア北部のトレビゾンド帝国(ビザンツの亡命政権の一つ、コムネノス朝)の皇帝ヨハネス4世の娘を娶り同盟を結びます。イスラム教徒とキリスト教徒(ギリシャ正教徒)の結婚は違和感しかありませんが、当時生き残るが最優先で宗教の違いは問題にならなかったのでしょう。
 ウズン・ハサンは表面上は黒羊朝に服属しながら飛躍の機会を虎視眈々と狙います。1461年同盟国トレビゾンド帝国がオスマントルコのメフムト2世に攻撃されました。ウズン・ハサンは強大なオスマン軍の前に妻の実家トレビゾンドを見捨て、メフムト2世に使者を送り停戦協定を結びます。急速に台頭する白羊朝に警戒感を強めた黒羊朝のスルタン、ジャハーン・シャーは1467年白羊朝に討伐軍を送りました。これをムーシュ平野で迎え撃ったウズン・ハサンは黒羊朝軍を撃破しジャハーン・シャーを殺します。反撃に転じたウズン・ハサンは黒羊朝の領土に攻め込み2年もしないうちに黒羊朝を滅ぼしました。1469年には、黒羊朝から助けを求められ出陣したティムール帝国のアブー・サイードまで破り捕殺します。
 これでイラン高原まで領土を広げ、ウズン・ハサンは白羊朝の最盛期を築きました。しかしアナトリアに残ったトルコ系君侯国カラマン朝を支援したため、アナトリア統一を目論むオスマン帝国とぶつかります。1473年、オトゥルクベリでオスマンの大軍を迎え撃ったウズン・ハサンはオスマン軍のマスケット銃と大砲の前に完敗、王朝発祥の地である東アナトリアを奪われ、ユーフラテス川が両者の国境と定められました。1478年、ウズン・ハサンは首都タブリーズで波乱の生涯を終えます。亨年55歳。
 英主ウズン・ハサンの死によって白羊朝は分裂しました。1501年イラン北西部、カスピ海から少し内陸に入ったアルダビールを本拠とする神秘主義教団サファヴィー教団の教主イスマイールが周辺のトルクメン遊牧民を糾合し白羊朝に反旗を翻します。サファヴィー教団はタブリーズを落とし王朝を建国しました。すなわちサファヴィー朝です。サファヴィー朝は白羊朝の領土を蚕食し続け1508年完全に滅ぼしました。
 以後中東の主役は、ビザンツ帝国を滅ぼし欧亜にまたがる大帝国を築いたオスマン帝国と、イランを本拠とするサファヴィー朝になります。両者はイラク、アルメニアの支配を巡って激しく戦いました。

飛将軍李広と西涼の武昭王

 最近、モンゴルというか遊牧民族話が続きますがこれも関連記事かな?
 飛将軍李広、史記や漢書など漢籍に明るい人か支那の歴史ファンの方ならご存知だと思いますが、最近は高校の漢文くらいでしか紹介されないので一般の方はご存じないでしょう。李広は、前漢武帝時代の将軍で武勇に優れるも世渡りが下手で、最後は匈奴遠征の行軍途中道に迷い集合の期日に遅れ、総大将衛青から詰問された事を恥じ自害した悲運の名将です。
 朴訥として飾らない性格だったため民衆から愛され、彼の死が伝わると皆涙したそうです。後日譚があり、李広の三男李敢は父の死のいきさつから衛青を恨み酒席で殴打したそうですが、衛青も奴隷からたたき上げの苦労人だったために李敢の気持ちをくんで不問にしました。ところが、衛青の甥霍去病は激高し狩猟場で李敢を暗殺します。霍去病は武帝の寵臣だったために処罰されず有耶無耶で終わりました。私は、これがあるために世間では名将として人気が高い霍去病をどうしても好きになれないんです。

 話はさらに続き、李広の若死にした長男李当戸の嫡男に李陵という人物がいました。彼も武勇で名高かったそうですが、匈奴との戦争で六倍の敵に包囲されるも八日間守り抜き刀折れ矢尽きてやむなく降伏してしまいます。武帝はこれを怒り李陵の家族を処刑しようとしました。この時、李陵と親交のあった史官司馬遷は彼のために弁護します。そして武帝の逆鱗に触れ宮刑(去勢)にされました。その後許されて宦官として出世しますが司馬遷の屈辱感は晴れず、家業だった史書の編纂に後半生を捧げます。こうして完成したのが有名な史記で、現代でも愛される不朽の名作となりました。
 前置きが非常に長くなりましたが、李広が集合の期日に遅れたのは現地匈奴人の案内人がいなかったからではないかと考えます。前記事で書いた通り、匈奴の中心地オルホン河畔に行くには広大なゴビ砂漠を越え大草原地帯を進まなければなりません。漢軍は農耕民族の軍ですから、騎兵が少なくおそらく李広の部隊は歩兵中心だったはず。数少ない騎兵は主力の衛青や霍去病の部隊に回されたはずですから。

 水場は現地人でなければ分かりません。機動力もない李広の軍は水場を探しながらの行軍だったでしょうから遅れるのは当然でした。一方、衛青や霍去病の軍は騎兵中心で条件は匈奴軍と同じでしたから活躍するのは当たり前だったと思います。もちろん両者の将軍としての能力は認めますが…。

 それでも匈奴に止めをさせなかったのは、遊牧民族は不利になると民族ごと遠くに移動し逃げる事が可能だったからです。これをいくら騎兵中心とはいえ農耕民族の軍が捕捉するのはまず不可能。彼らには農耕民族のように籠城戦という概念がありませんでした。明の永楽帝も五次にわたるモンゴル高原遠征を行いますが、ほとんど成果が上がらなかったのは同じ理由です。

 武帝は、何度も匈奴遠征を繰り返しますが複数の部隊を同時に出し、一部隊は主力でも五万を超える事はほとんどありませんでした。酷い場合は遼東方面、大同方面、甘粛方面と大きく離れた場所から同時に進軍します。これは補給の問題からでした。これでは共同作戦の意味がほとんどありません。それでも漢の国家財政は傾き王朝の衰退を招きました。マスケット銃の普及による近世の軍事革命まで、遊牧国家の農業国家に対する優越は続きます。



 ところで話は飛びますが、五胡十六国時代。匈奴など五つの異民族が西晋を滅ぼして華北各地に国家を建設しますが、すべてが異民族だったわけではなく少数ですが漢人の建てた国もありました。その中の一つ、敦煌を都とし甘粛省一帯を領土とした西涼を建国した李暠(りこう、武昭王)は漢の飛将軍李広の子孫を自称します。李広の次男李椒十五代目の子孫だそうです。出身地が隴西。隴西の李氏といえば皆李広の子孫を称しましたから可能性はなくはありません。李広の先祖秦の将軍李信も武勇で名高かったですし、李広の子孫を称すれば漢人の支持を得やすかったのかもしれません。三国時代呉の孫氏が春秋時代の兵法家孫武の子孫を自称したのと同じ心理でしょう。


 ちなみに唐を建国した李淵も武昭王八世の孫を称します。ところがこちらは鮮卑族出身なのが明らかですので嘘です。蛮族でなく有名な李氏の子孫として漢人の支持を得たかったんでしょうけど、漢人たちは冷笑していたかもしれませんね。李淵の涙ぐましい努力は認めますが(笑)。反対に鮮卑族の子孫という事で、唐の皇帝は天可汗として遊牧民族から支持を集め広大な領土を獲得できたんですから、痛し痒しでしょうね。

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