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2017年6月

2017年6月11日 (日)

古代の兵站話  その2

 カデシュの戦い当時2万のエジプト軍が1日にどのくらい物資を消費したか考えてみました。第2次大戦当時、歩兵師団(1.5万で計算)の1日物資消費量は最低200tと言われます。古代には、弾薬は使わないので食料が大半だったとは思いますが、消耗品である矢の補給は必須です。武器や防具も壊れたものは交換品が要ります。

 計算を単純化するために、1日で兵士が消費する物資を食料+消耗品の矢などで10kgとします。本当は秣とかもあるのでもっと多くなるとは思いますが、10kgとすると2万の兵士で200t、あれ?第2次大戦とあまり変わりませんな。一番簡単な運搬方法は兵士が自ら背負っていく事ですが、これだと30kgが限界だそうです。10kgだと3日分、節約して5kgに抑えたとしても6日分、これだと長くもちませんね。
 馬車あるいは牛車を運搬手段としましょう。20世紀初頭、馬車の最大積載量は1.5tだったそうですがこれは道路網が整備されての話。インフラもままならない古代では1tもあれば良い方だったでしょう。これで200tを賄うとなると200台必要になります。ただし移動距離も考え、物資集積所から前線まで運ぶには最低でも往復するとして400台は必要になります。数が多ければ多いほど運送効率は上がりますが、その分馬や牛の食料まで考慮しなければなりませんから、1日の物資消費量は増大します。行軍距離が長くなると物資集積所も複数設けなくてはなりません。これを合わせると馬車あるいは牛車がどれくらい必要か想像もできないほどです。
 一方、古代の船はどれくらい積載量があったでしょうか?古代ローマの大型船は最大500tの積載量を誇っていたそうです。小さめの商船でも150t、古代ギリシャもだいたいそれくらいだと言われます。カデシュ当時はそれよりは造船技術が低いと思われますから50tがせいぜいか?100tあれば良い方でしょう。50tとしたら1日4隻で済みます。100tら2隻、200tなら1隻です。
 当時の造船技術に疎いのではっきりは言えませんが、エジプトほどの大国なら100t積み以上の大型船を複数保有してもおかしくありません。部隊の一部を海路パレスチナに送り届けたという話もありますから、少なくとも数千人を一度に運べるくらいの海軍力は持っていた可能性があります。そしてそれほどの大国だったからこそシリアに遠征できたとも言えます。
 陸路1日200tの兵站線を維持するのは不可能とは言いませんが、かなり無理だと思います。やはり海路を補給の中心に据えなければこのような大規模遠征はできないでしょう。
 古代の船の積載量、とても気になります。

カデシュの戦いと古代の兵站

 エジプトを衛星写真で見ると、広大な砂漠の真ん中に一本の緑の線がある事が分かります。緑の線は地中海沿岸になると三角(デルタ)に広がります。これが総延長6650km、流域面積287万平方キロを誇る世界一の大河ナイル河です。
 ナイル河の源流エチオピア高原に雨季大量の雨が降ります。ナイル河は、大量の雨水を沿岸の肥沃な泥と共に下流に押し流し、7月の半ば明け方の東の地平線ギリギリにシリウスがひときわ輝く時期下流域に増水をもたらしました。
 下流は増水によって大氾濫を起こしますが、水が引いた後流域一帯の氾濫原に肥沃な土を残します。人々は、この氾濫原に小麦の種をまき春先に収穫しました。これがエジプトにおける農耕の始まりで、増水の時期を正確に探るために太陽暦が発達します。農耕を効果的に行うために王権が誕生し共同作業によって土木、建築工事を行いました。これがエジプト文明の始まりで、だいたい紀元前4200年頃だと云われます。
 エジプトは大きく二つに分かれ、カイロ以南からアスワンまでの上流を上エジプト、カイロ以北のナイルデルタ地帯を下エジプトと呼びました。上下エジプトを初めて統一したのは紀元前3150年頃のナルメル王です。これがエジプト古王国の始まりでした。古王国は第6王朝の紀元前2180年まで続きます。
 その後内乱が続き、それを纏めた第11王朝から中王国が始まります。中王国は短く第12王朝まででした。その後第2中間期が始まり同じく内乱が続きます。この時パレスチナ方面からヒクソスという謎の民族が来襲しエジプトは大混乱に陥りました。ただヒクソスの支配は下エジプト止まりで、上エジプトには従来の権力が残ります。
 紀元前1540年頃、上エジプトの太守イアフメス1世が下エジプトからヒクソスの勢力を駆逐して第18王朝を開きました。これがエジプト新王国です。エジプト新王国時代で有名なのはシリアに遠征してメギドの戦いに勝利した第18王朝のトトメス3世と、同じくシリアで当時の軍事大国ヒッタイトと激突した第19王朝のラムセス2世(在位紀元前1290年~紀元前1212年)でしょう。
 エジプトは、古代から莫大な小麦の生産量によって大人口を養いました。諸説ありますが一般的には古王国末期で200万人、中王国末期で250万人、新王国時代には300万人だったとされます。日本列島で人口が300万に達したのは紀元600年頃だと言われますから、これは恐るべき数字です。おそらくメソポタミア文明のチグリス河、ユーフラテス河の下流域もそれくらいの人口があったと思われますが、300万という数字は外征兵力3%として実に9万を海外に送り出せた事になります。もっとも当時の兵站は貧弱ですからこれより大きく割り引いて2~3万というのが妥当な数字だったでしょう。
 実際、ラムセス2世がヒッタイト帝国と雌雄を決すべく出陣した時率いた兵力は2万でした。エジプト軍は戦車を中心に重装歩兵、軽装歩兵を組み合わせた諸兵科連合部隊である5000名の兵士から成る師団4個に編成します。一方、ヒッタイト軍の兵力は諸説ありますが当時の農業生産力から推定して1万7千というのが妥当な数字だったと思います。こちらは、諸兵科連合部隊ではなく兵科ごとに部隊を分けていたとされます。
 ヒッタイト側の戦争目的は、独占していた浸炭法で製造された鉄器技術を守る事だったと思われます。当時、北シリアの古代都市ウガリトは一大産鉄地帯のひとつで、ここをエジプトに占領されるとオリエントの軍事バランスが崩れるのです。ヒッタイトは本拠アナトリア半島が製鉄の中心でしたが、ウガリトも守りたいというのがヒッタイトの本音でした。
 一方、エジプト側はウガリトをヒッタイトから奪う事の他に船を建造する時に必要なレバノン杉の産地を手に入れることも目的の一つだったような気がします。というのは、砂漠ばかりのエジプト本土は本格的に船を建造する木材が決定的に不足していたからです。2万の兵力となると、陸路だけでは補給線の維持ができません。運送コストの低い海路が絶対的に必要でした。
 時代は下りますが、アレクサンドロス大王がペルシャ遠征した時ペルシャ海軍の要であるフェニキアのティルス攻略を最も重視しました。マケドニア軍も補給を海路に頼っていたため、フェニキア艦隊が妨害すればマケドニア軍は敵地で立ち枯れになりかねなかったのです。地中海沿岸諸国は地中海の制海権を最も重視しました。ギリシャ然り、ペルシャ然り、マケドニア然り、ローマ然り。
 一説では、エジプト軍は部隊の一部も船でパレスチナ沿岸に送り込んだと言われます。古代エジプト文明は伝統的に海軍が弱いと言われますが、海軍が無ければシリア地方への遠征すら満足にできなかったはずなのです。
 紀元前1274年、両軍はシリア、オロンテス河畔カデシュの近郊でぶつかりました。エジプト王ラムセス2世率いるエジプト軍は縦列隊形をとってカデシュの西側を進軍していました。王は先頭のアモン師団を率います。ラムセス2世はヒッタイト軍の動きを掴んでおらず戦闘開始はまだ後だと認識していました。ところがヒッタイト軍を率いる王ムワタリ2世は、斥候を使ってエジプト軍の動きを把握します。
 カデシュの町を出発したヒッタイト軍は、戦車部隊を中心にオロンテス川を渡河しエジプト軍の南側を迂回して西側からエジプト軍の第2陣ラー師団に横から襲いかかりました。完全な奇襲を受けたラー師団は潰走し北側を進むラムセス2世のアモン師団は敵中に孤立する形となります。絶体絶命の危機です。ところがラムセス2世の凄いところは、決して慌てず部隊に円陣を組ませ戦車を外縁に配し障害物としたところです。単一兵科と諸兵科連合部隊、どちらが優れているか一概には言えないのですが、この時は諸兵科連合部隊がエジプト軍に幸いしました。
 エジプト軍は、武装が青銅器とはいえ高い技術で作られていたため鋼鉄製武器のヒッタイト軍とそれほど遜色の無い戦いをしました。ラムセス2世のアモン師団は頑強に抵抗し、ヒッタイト軍は攻めあぐねます。陣頭で指揮を執るラムセス2世と違い、ヒッタイトのムワタリ2世は後方で指揮を執ったためどうしても兵の士気の点でエジプト軍に劣りました。
 そのうち、後続のプタハ、ステフの2個師団が到着、現地アムル人の援軍も加わったためヒッタイト軍が逆に包囲される形となります。不利を悟ったムワタリ2世は軍を引きカデシュ城に籠城し、戦線は膠着します。結局両者痛み分けという形で講和が成立し両軍は兵を引きました。
 この戦いで、エジプト軍は負けはしなかったものの勝ったとも言い難いものでしたが、ラムセス2世は国内向けには大勝利を宣言しました。カデシュの戦いは世界で初めて成文の平和条約が結ばれた事でも有名ですが、エジプトとヒッタイトという超大国はシリアを国境線と定め共に領土拡大を止めます。
 以後両国は友好関係を築き、エジプトからは小麦が、ヒッタイトからは鉄器が輸出され双方を満足させました。エジプトの戦争目的の一つは鉄器の安定供給でしたので結果的には成功したと言えます。私は、これと同時にレバノン杉の安定供給も成されたのではないかと睨んでいるのです。
 古代地中海沿岸の戦いは、海上補給路の存在なしには語れません。一般にカデシュの戦いと海上補給路を論じたものは少ないですが、私は重要な要素の一つだったと考えています。

人類文明の発祥Ⅳ  戦車と馬

 馬という動物を人類が家畜として飼い始めたのはいつ頃でしょうか?様々な説がありますが、その中でも有力な説は紀元前4000年頃だろうとされます。ウクライナ地方で発見された遺跡で家畜化された馬の痕跡が見つかったそうです。最初、人類は馬を食肉用として飼いました。というのも、当時の馬は現在と違って馬格も小さく人が乗れるような代物ではなかったからです。
 馬がいつ騎乗用となったかは分かりませんが、最初は馬車から始まります。馬格の改良は何世代にもまたがりとても時間がかかりました。当時の人類に遺伝の知識はなかったと思いますが、経験的に馬格の大きい馬同士を掛け合わせ子孫の馬を改良して行ったのでしょう。現在強い競走馬を作るために優秀な種牡馬と牝馬を掛け合わせる手法が行われてますが、農耕馬や軍馬でも同じような事が当時なされていたのです。
 ということは、馬車の出現は文明世界とその周辺しかあり得ない事に気付きます。車輪も車軸も手綱(たずな)も轡(くつわ)も冶金技術や木工技術、製革技術が無ければ作れないからです。馬車は4輪ですが、これを2輪にしてできるだけ軽いものにしたら軍用に使えると人類は気付きました。おそらく最初に戦車(チャリオット)を使用し始めたのはシュメールかその後継者のバビロニアではなかったかと思います。メソポタミア地方は、蛮族の侵略を受けやすい地形で、青銅器が必要性に応じて使われたように戦車もまた使用されたのでしょう。
 戦車は、時速40kmくらいまで出せたといいます。歩兵のみの軍隊では太刀打ちできなかったでしょう。戦車には通常御者と1~2名の兵士が乗ります。2頭立て、4頭立てが中心で、戦車に乗る兵士は合成弓(コンポジットボウ)で武装しました。複合材料を使う合成弓もおそらく戦車の普及と同じ頃使われ出します。さらに1名が乗る場合、この兵士は支那では戈(先端がピッケル状になった長柄武器)、オリエント社会では引っかける形状を加えた矛で武装しました。
 戦車の主武器は合成弓で、敵の歩兵部隊を遠巻きにし疾走しながら弓矢で攻撃しました。戦車同士でぶつかる時は、戈や矛などが活躍します。これで並走あるいは逆走しながら敵兵士を引っ掛け落とすのです。落ちた敵兵は、戦車に従っている歩兵部隊にやられました。古代の戦争は、戦車を中心に随伴する歩兵部隊が一つで戦術単位を形成します。
 支那ではこれを乗という単位で表しました。戦車一乗は随伴歩兵が百人つきます。ですから支那古代の歴史を記した春秋で五百乗の軍と書かれていれば五万の兵力だった事になります。天子の事を万乗の君というのも語源はこれです。オリエント世界でもだいたい40名から100名くらい随伴歩兵が付きました。もちろん戦いによっては戦車だけを集めて集中使用する事もあり、その場合は歩兵は離れて続きます。
 メソポタミア、エジプト、インダス、黄河と言った古代文明の軍の主力が戦車一色になっていた頃、その周辺では馬格の改良を重ね人が乗っても大丈夫になった馬に直接乗る者たちが出てきました。といっても、鐙が無い時代ですから、幼少期から馬と一緒に生活し乗り慣れていないといけません。しかし乗り慣れると、馬は時速60kmにも達し戦車よりも機動性が高くなりました。
 彼らは馬と生活を共にし、羊などを養い移動する生活を始めます。これが遊牧民で、世界最初の遊牧民族は南ウクライナに勢力を張ったキンメリア人だと言われます。ただ、私はこれには疑問を持っており最初の遊牧民はメソポタミア文明圏の近くイラン高原あたりで生まれたのではないかと睨んでいます。おそらく印欧語族のアーリア人が遊牧を学び同じ印欧語族と見られるキンメリア人に伝えたのでしょう。
 その後、ウクライナの地には有名な遊牧騎馬民族スキタイが出現します。遊牧という生活形態は、農耕文明地帯との交流なしでは成立しません。これは平和的な交易であっても戦争や略奪であっても同様です。農耕文明社会はそれだけで生活できますが、遊牧社会は農耕社会の物資なくしては成立しないのです。
 遊牧という生活形態は、ウクライナから天山山脈北麓まで広がるキプチャク草原で暮らす多くの民族が採用し、さらにモンゴル高原や東アジアにも遊牧民族を誕生させました。ただし彼らは南の文明社会との交流を必要とします。一方、文明社会にとっては迷惑この上ない存在となりました。
 歩兵中心の文明社会の軍は、いくら戦車があったとしてもすべて騎乗し機動力に勝る遊牧民族の軍には敵いません。遊牧民族の軍は、敵が強いときは逃げる事ができ、それを文明社会の軍は追撃できません。文明社会の軍が隙を見せると、遊牧民族は容赦なく襲いかかりました。農耕民族と遊牧民族の力関係は、農耕民族がマスケット銃と大砲で武装するまで変わりませんでした。
 農耕民族も、遊牧民族に対抗するため騎兵を養成しますが付け焼刃で通用するはずもなく、まともに戦うには数で圧倒するしかありませんでした。ペルシャ帝国のダレイオス大帝や漢の武帝は、数で遊牧民を圧倒する戦術を採用しますが、これは莫大な国庫負担を生み国家の衰退を招きます。農耕民族にとって遊牧民族というのは本当に厄介な存在だったのです。
 世界史を見てみると、モンゴル帝国のチンギス汗やティムール帝国のティムール、その他の遊牧民族の首長たちが残酷な事に気づかされるでしょう。これは遊牧という生活形態から由来するという説があります。遊牧生活では、多くの家畜を養うため一部の優秀な種馬や優秀な雄羊以外は去勢します。厳しい冬を過ごすため計画的に家畜を殺し生産調整をしました。農耕民族の我々から見ると殺伐とした社会ですが、こういう生活に慣れてくると人間に対しても同様になってきます。ですから不必要な大虐殺でも厭わないし、見せしめなど合理的理由で簡単に殺す事ができるのです。
 宦官という制度も遊牧民由来なのでしょう。日本に去勢が定着しなかったのは、遊牧騎馬民族が国家を揺るがす単位では来なかったという証拠だと思います。
 戦車、のちに馬が中世まで世界を席巻しました。歩兵が優位を取り戻すのは15世紀フス戦争を待たなければなりません。

人類文明の発祥Ⅲ  鉄器文明

 青銅という金属器は人類史に革命をもたらします。銅の融点1085度、錫の融点232度に対し、混合することで凝固点降下が起こり錫を30%混ぜると融点が700度まで低下します。青銅は銅よりも硬度が硬く加工しやすく、展延性に優れていました。銅プレートの鎧は石の鏃を持った弓でも有効射程内で貫通できましたが、青銅製の甲冑は簡単に貫通できなくなります。そうなると武器でも青銅製が主流となっていきました。
 銅以上に世界中に存在する鉄も、当然早くから知られていました。最初は隕鉄の状態です。これは文字通り隕石に含まれる純度の高い鉄とニッケルが自然に合金を形成したものでこれを加工すると鋭利な刃物ができました。ただ隕石などそうそうあるものではなく貴重な存在でした。次に人類は、青銅器製錬の技術を応用して鉄鉱石を溶かし鋳型に流し込む事で最初の鉄器を作ります。ところがこの鉄器は、硬くはあるものの炭素を多く含みもろくてとても実用に耐えるものではありませんでした。
 しかし、人類は諦めず試行錯誤を繰り返します。そんな時、紀元前1500年頃アナトリア半島(現トルコの主要部)で錬鉄を木炭に混ぜて熱しハンマーで叩くという工程を繰り返すことで、青銅よりも強靭になることが発見されます。こうして出来たのが鋼(はがね)で、この浸炭法を発見したヒッタイト民族は一躍オリエントの強国として躍り出ました。
 実は浸炭法を発見したのは支配下にあった別の民族で、ヒッタイト人はこの地を侵略して支配していただけだという説があります。ヒッタイト人は、インド=ヨーロッパ語族で黒海北岸からアナトリアに渡ってきたとも言われます。アナトリアの地は、地表に鉄鉱石が豊富に露出する地形で青銅器加工の中心地のひとつでしたから、鉄の画期的加工法である浸炭法が発見されてもおかしくない土地でした。
 当時鋼はヒッタイト人が独占し、他国に技術が渡らないように努めました。わずかばかりの交易品で流れ出た鋼は、同じ重さの金で取引されたくらいです。青銅と鋼では勝負になりません。鋼製の武器と防具で武装したヒッタイト人は、バビロニアを征服し(後に独立される)、超大国エジプトと互角に戦いました。
 ヒッタイト軍の強さの秘密は、この鉄器と戦車(チャリオット)です。戦車に関しては次回詳しく触れるつもりですが、ヒッタイト帝国は紀元前1330年シュッピリウマ1世の時代、当時オリエント最強を誇った同じ印欧語族のミタンニ王国を滅ぼします。紀元前1274年ムワタリ2世は、シリア沿岸部カデシュの地でエジプトのラムセス2世と激突しました。カデシュの戦いの結果は、双方が勝利を宣伝したのではっきりしませんが、この時エジプト軍は青銅製の武器を使用していたためヒッタイト軍の鉄製武器に苦戦しただろうと思います。
 カデシュの戦いは、世界史上初めて成文化された講和条約が結ばれた事でも有名です。その結果、両国はこれ以上互いに侵略をしない事を取りきめ、エジプトからは食料が、ヒッタイトからは鉄器が贈られることとなりました。ところで、浸炭法は大量の木炭を使います。アナトリアの植生はそれほど豊かではなく鉄器製造のために森林が伐採され荒廃していただろうと推定されます。現在のトルコも荒涼とした平原が続いていますよね。
 ヒッタイト帝国は、自国を強国に保つための鉄器製造によって衰退していきます。そして紀元前1190年頃謎の民族と言われる海の民の襲撃を受け滅亡しました。海の民には色々な説がありますが、いくつかの民族の集合体であった事は間違いなく、その中にはギリシャ人の祖もいただろうと推定されます。
 ヒッタイト帝国の崩壊によって、ようやく浸炭法の秘密が周辺諸国に拡散しました。おそらく各国は、破格の条件で鉄器職人を召し抱えたはずで浸炭法は世界中に広まります。ギリシャ、イタリアには紀元前700年頃、インド亜大陸には紀元前1000年頃、支那大陸へは紀元前600年頃、海を渡った日本へも紀元前後には伝わりました。この恐るべき伝播力は、それだけ鉄器が便利だったという事でしょう。
 次回は、鉄器と共にもう一つ重要な文明の要素である馬、戦車と騎乗の歴史について語ります。

2017年6月10日 (土)

人類文明の発祥Ⅱ  青銅器文明

 マルクス主義考古学者ゴードン・チャイルドによる文明の定義では
・効果的な食糧生産
・大きな人口
・職業と階級の文化
・都市
・冶金術
・文字
・記念碑的な公共建築物
などをあげていますが、私は冶金術が無くとも他があれば十分文明と言えると思います。その意味ではシュメールも長江稲作地帯も文明でした。新石器時代と一括りに言いますが、シュメールやエジプト、インダス、長江など他の狩猟採集地域と隔絶した先進的文明地域もあったのです。
 農耕は、果実、木の実などの採集生活が発展したものだと定義されます。おそらく最初の米や小麦など穀物類は水辺などに自生する野生種だったのでしょう。人類は長い時間をかけて試行錯誤を繰り返しそれらを改良し、安定的に収穫できるようにしました。狩猟で得た食物は気候の影響もあり安定したものではありません。ところが農耕によって得た穀物は、ほぼ安定した収穫を期待でき狩猟採集生活より多くの人口を養えました。
 人類は、食料を貯蔵するために土器を発明し集住し、灌漑などを行いそれが都市に発展します。各地に誕生した都市は、自分たちに足らない物資を他の都市との交易で取得します。そのためには意思の疎通が不可欠で、文字が発明されました。
 ところが増えすぎた人口は、その土地で養える人口限界を超え多くの矛盾を生みだします。本格的な戦争はこの頃登場したのでしょう。農耕文明の周辺で狩猟採集生活から抜け出していない蛮族たちも、豊かな農産物を狙って襲撃を繰り返し、戦争は頻繁に起こるようになりました。支那大陸で版築、中東地域で日干しレンガによる城壁が誕生し都市を囲むようになったのもこの頃です。一万年前から9000年前ですから驚かされます。
 戦争が常態化すると、石器の武器ではもの足りなくなりました。金属器は戦争の必要性から誕生します。最初は銅器でした。銅は世界各地に分布し純度の高い金属の塊としても見つかっていため加工しやすかったのです。しかし、銅器は兜としては有用でも、薄いプレートの鎧では石の鏃でも簡単に貫通します。武器例えば剣を作っても、刃が脆く欠けやすかったのです。
 ある時、その銅に錫を混ぜて溶かすと非常に硬くなる事を発見します。これが青銅器で、人々は武器や防具を青銅で作りました。おそらく最初に青銅器を作ったのはメソポタミア文明のシュメール人だったと思います。紀元前3500年のことです。というのは、メソポタミアはチグリス河、ユーフラテス河の河口地帯(現イラク南部)で周囲は平地が多く簡単に異民族の侵入を許したからです。一方、エジプトは東にスエズ地峡、西と南は広大な砂漠、北は地中海と天然の要害で守りやすくメソポタミアよりは青銅器の導入がやや遅れました。
 世界中どこにもある銅と違い、錫は希少金属でメソポタミアでは取れません。シュメール人たちは、コーカサス山脈やアナトリア、遠くアフガニスタン、インドまで錫を求めました。ですからこの時から広大な交易圏ができます。メソポタミア、インダス、エジプトがほぼ同じ時期に文明を誕生させたのは、まさに錫を中心とした交易ネットワークのおかげでした。

 こういった事情から、青銅は貴重で一部祭器の他は主に武器、防具に使われます。メソポタミアの都市国家群を初めて統一したアッカド王国のサルゴン王(紀元前2374年~紀元前2279年頃)の常備軍はわずか数千だと言われますが、これは人口が少なかったからではなくそれだけ青銅器が希少だったからだと考えられます。

 メソポタミアにアッカドのような広域国家が誕生したのは、神官から発展した王では戦争指導ができなかったからでしょう。戦争が常態化し軍の指揮官が神官よりも権威と実力を持ち、それが王となりました。もともと王の起源は神官で、日頃は民衆から崇められますが凶作や疫病が発生すると王のせいとされ人身御供として殺される運命でした。その後次の王が選ばれます。ところが軍人出身の王になると、常備軍を握っているため簡単に殺す事ができず、逆に民衆支配が強化されます。

 青銅器時代は紀元前3500年から紀元前1500年頃まで続きます。その次に現れるのは鉄器です。次回は鉄器文明の発展を記します。

人類文明の発祥Ⅰ  農耕と都市の起源

 最近『戦略の歴史』(ジョン・キーガン著 中公文庫)を読んでいます。ただこれ邦題が間違いで、『戦いと人類の歴史』とでもした方がふさわしいような気がします。イギリスの軍事史家だけあって欧州に関する考察は流石だと思いますが、東洋に関しては細かいリサーチミスがあります。

 例を一つ上げると商(殷)民族が戦車を使用していた事からキーガンはその起源をイラン周辺のステップ地帯だと推定しています。ところが支那の歴史に詳しい我々は商民族が東夷と呼ばれる種族から出ている事を知っています。おそらく最初期の商軍は、歩兵主力だったはずで、戦車を導入したのは中期以降。商以前の夏王朝が実在したとすれば起源は南蛮(あるいは東夷とも?、会稽伝説などが根拠)で、商を滅ぼした周は西戎出身です。支那人が東夷、南蛮、西戎、北狄とさげすんだ民族が漢字を共通文化として中原(黄河中流域)に定住したのが漢民族の始まりだと思います。商軍の戦車はシルクロードを通じて導入したのだと推察できるのです。それでも全体的に見ればなかなか鋭い考察も多く、名著だと言えるでしょう。
 私はこの本に影響され、文明の歴史に関して考えてみたくなりました。まずは、人類がどのように定住し文明を築いたかを考えます。新石器時代は紀元前8500年から青銅器文明が始まった紀元前3500年くらいを指します。この時代、人類は狩猟採集生活をしていたと思いがちですが、農業の起源は意外と古く旧石器時代、23000年前くらいにイスラエル、ガリラヤ湖岸で農業の痕跡が認められたそうです。農耕が本格的に始まったとはっきりしているのはだいたい1万年前。支那では長江流域で稲作が開始されたといいます。
 一方、小麦に関してはシリア地方からパレスチナ地方が発祥の地だと言われます。だいたい1万年前の本格的農耕遺跡が見つかっています。狩猟採集の生活と違い、農耕は大人口を養う事ができます。人口も爆発的に増加し人々は農地の灌漑用水を巡って争うようになりました。あるいは、豊かな農作物を狙って周辺の蛮族が略奪を行うため、農耕をする人たちは集住し防備を固める必要がありました。
 最初は、集落の周りに濠を掘ったり柵で囲むだけだったでしょう。ところが争いが激化するにつれ、襲撃者も集団化しそれに対抗するために農耕民も防備を固めなくてはならなくなりました。エジプトやメソポタミアの粘土質の土は水でかき混ぜ木枠にはめ天日に干すと硬くなります。これが日干しレンガで、人々は日干しレンガを建築素材にする事によって集落の周りを高い城壁で囲むようになりました。
 支那ではどうしていたかというと、版築という工法で城壁を作ります。黄河流域の土は石灰分を多量に含み、両側を板で囲み上から突き固めることで頑丈な壁ができました。この版築城壁がどれほど頑丈だったかというと、支那事変当時口径75㎜以下の火砲では崩せないほどだったと言われます。
 支那に関しては、長江文明の遺跡がほとんど発見されておらず(ただし稲作遺跡と初期の都市遺跡はある)その歴史すら不明なので、シリアを見てみると日干しレンガの城壁で囲まれた都市が発祥したのは1万年前でした。有名なのはヨルダン川西岸にあるエリコ、アナトリア半島南部コンヤ平原にあるチャタル・ヒュユクが最古の都市だと言われます。
 驚くべき事にエリコは人口3000人、チャタル・ヒュユクに至っては7000人も人口がいたそうなのです。それだけ余剰生産物が蓄積され大人口を養えるようになったのでしょう。1万年前というと新石器時代が始まって間もなく。ほとんどの人類が今だ狩猟採集生活から抜け出せない中、シリアや支那の長江沿岸など一部ではすでに文明が始まっていた事になります。
 農耕の起源の一つはシリアですが、間もなくその中心はエジプトのナイル河口地帯、チグリス河、ユーフラテス河の河口地帯メソポタミアに移ります。「エジプトはナイルの賜物」というヘロドトスの有名な言葉がありますが、その言葉通りエジプトはかなり恵まれた土地でした。世界一の大河ナイルは1年の内のある時期定期的に増水し下流に洪水をもたらします。この氾濫は、同時に上流の豊かな土を氾濫原に残しました。人々はそこに小麦の種をまき豊かな収穫を得ます。これがエジプト文明の始まりで、氾濫の時期を探るために高度な太陽暦ができ、集団で洪水対策を行うためにリーダーが生まれ、それが王権に発展していきます。
 メソポタミアではどうだったでしょうか?最近のイラクの画像を見ると砂漠ばかりでとても大規模な農耕ができないようなイメージですが、本来乾燥した土地で十分な水があれば最も効率的に農耕ができるのです。水に関してはチグリス河、ユーフラテス河という大河からの灌漑で賄えます。ただ、乾燥しているためにメンテナンスを怠れば簡単に荒廃するので人々は集まって灌漑やメンテナンスをする必要がありました。最初は、神殿の神官がそれを主導していたようですが、次第に王権が生まれるようになります。メソポタミア地方で最初の文明を築いたのは民族系統不明のシュメール人。あくまで推定ですが、私は彼らの出自をシリア地方かアナトリア南部だと考えています。シュメール人がメソポタミアに至った時最初からあまりにも高度な農耕文明だったからです。
 シュメール人は、メソポタミアの地にウルやウルク、ラガシュなどの都市国家を建設しました。エジプト文明もシュメール(メソポタミア)文明も紀元前4000年から紀元前3500年くらいに始まったとされますが、実際はそれより前紀元前6000年くらいには定住がはじまり農耕を行っていたようです。
 一般に文明の条件は金属器の使用だとされます。次回は青銅器文明の始まりについて見て行きましょう。

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