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2017年6月11日 (日)

カデシュの戦いと古代の兵站

 エジプトを衛星写真で見ると、広大な砂漠の真ん中に一本の緑の線がある事が分かります。緑の線は地中海沿岸になると三角(デルタ)に広がります。これが総延長6650km、流域面積287万平方キロを誇る世界一の大河ナイル河です。
 ナイル河の源流エチオピア高原に雨季大量の雨が降ります。ナイル河は、大量の雨水を沿岸の肥沃な泥と共に下流に押し流し、7月の半ば明け方の東の地平線ギリギリにシリウスがひときわ輝く時期下流域に増水をもたらしました。
 下流は増水によって大氾濫を起こしますが、水が引いた後流域一帯の氾濫原に肥沃な土を残します。人々は、この氾濫原に小麦の種をまき春先に収穫しました。これがエジプトにおける農耕の始まりで、増水の時期を正確に探るために太陽暦が発達します。農耕を効果的に行うために王権が誕生し共同作業によって土木、建築工事を行いました。これがエジプト文明の始まりで、だいたい紀元前4200年頃だと云われます。
 エジプトは大きく二つに分かれ、カイロ以南からアスワンまでの上流を上エジプト、カイロ以北のナイルデルタ地帯を下エジプトと呼びました。上下エジプトを初めて統一したのは紀元前3150年頃のナルメル王です。これがエジプト古王国の始まりでした。古王国は第6王朝の紀元前2180年まで続きます。
 その後内乱が続き、それを纏めた第11王朝から中王国が始まります。中王国は短く第12王朝まででした。その後第2中間期が始まり同じく内乱が続きます。この時パレスチナ方面からヒクソスという謎の民族が来襲しエジプトは大混乱に陥りました。ただヒクソスの支配は下エジプト止まりで、上エジプトには従来の権力が残ります。
 紀元前1540年頃、上エジプトの太守イアフメス1世が下エジプトからヒクソスの勢力を駆逐して第18王朝を開きました。これがエジプト新王国です。エジプト新王国時代で有名なのはシリアに遠征してメギドの戦いに勝利した第18王朝のトトメス3世と、同じくシリアで当時の軍事大国ヒッタイトと激突した第19王朝のラムセス2世(在位紀元前1290年~紀元前1212年)でしょう。
 エジプトは、古代から莫大な小麦の生産量によって大人口を養いました。諸説ありますが一般的には古王国末期で200万人、中王国末期で250万人、新王国時代には300万人だったとされます。日本列島で人口が300万に達したのは紀元600年頃だと言われますから、これは恐るべき数字です。おそらくメソポタミア文明のチグリス河、ユーフラテス河の下流域もそれくらいの人口があったと思われますが、300万という数字は外征兵力3%として実に9万を海外に送り出せた事になります。もっとも当時の兵站は貧弱ですからこれより大きく割り引いて2~3万というのが妥当な数字だったでしょう。
 実際、ラムセス2世がヒッタイト帝国と雌雄を決すべく出陣した時率いた兵力は2万でした。エジプト軍は戦車を中心に重装歩兵、軽装歩兵を組み合わせた諸兵科連合部隊である5000名の兵士から成る師団4個に編成します。一方、ヒッタイト軍の兵力は諸説ありますが当時の農業生産力から推定して1万7千というのが妥当な数字だったと思います。こちらは、諸兵科連合部隊ではなく兵科ごとに部隊を分けていたとされます。
 ヒッタイト側の戦争目的は、独占していた浸炭法で製造された鉄器技術を守る事だったと思われます。当時、北シリアの古代都市ウガリトは一大産鉄地帯のひとつで、ここをエジプトに占領されるとオリエントの軍事バランスが崩れるのです。ヒッタイトは本拠アナトリア半島が製鉄の中心でしたが、ウガリトも守りたいというのがヒッタイトの本音でした。
 一方、エジプト側はウガリトをヒッタイトから奪う事の他に船を建造する時に必要なレバノン杉の産地を手に入れることも目的の一つだったような気がします。というのは、砂漠ばかりのエジプト本土は本格的に船を建造する木材が決定的に不足していたからです。2万の兵力となると、陸路だけでは補給線の維持ができません。運送コストの低い海路が絶対的に必要でした。
 時代は下りますが、アレクサンドロス大王がペルシャ遠征した時ペルシャ海軍の要であるフェニキアのティルス攻略を最も重視しました。マケドニア軍も補給を海路に頼っていたため、フェニキア艦隊が妨害すればマケドニア軍は敵地で立ち枯れになりかねなかったのです。地中海沿岸諸国は地中海の制海権を最も重視しました。ギリシャ然り、ペルシャ然り、マケドニア然り、ローマ然り。
 一説では、エジプト軍は部隊の一部も船でパレスチナ沿岸に送り込んだと言われます。古代エジプト文明は伝統的に海軍が弱いと言われますが、海軍が無ければシリア地方への遠征すら満足にできなかったはずなのです。
 紀元前1274年、両軍はシリア、オロンテス河畔カデシュの近郊でぶつかりました。エジプト王ラムセス2世率いるエジプト軍は縦列隊形をとってカデシュの西側を進軍していました。王は先頭のアモン師団を率います。ラムセス2世はヒッタイト軍の動きを掴んでおらず戦闘開始はまだ後だと認識していました。ところがヒッタイト軍を率いる王ムワタリ2世は、斥候を使ってエジプト軍の動きを把握します。
 カデシュの町を出発したヒッタイト軍は、戦車部隊を中心にオロンテス川を渡河しエジプト軍の南側を迂回して西側からエジプト軍の第2陣ラー師団に横から襲いかかりました。完全な奇襲を受けたラー師団は潰走し北側を進むラムセス2世のアモン師団は敵中に孤立する形となります。絶体絶命の危機です。ところがラムセス2世の凄いところは、決して慌てず部隊に円陣を組ませ戦車を外縁に配し障害物としたところです。単一兵科と諸兵科連合部隊、どちらが優れているか一概には言えないのですが、この時は諸兵科連合部隊がエジプト軍に幸いしました。
 エジプト軍は、武装が青銅器とはいえ高い技術で作られていたため鋼鉄製武器のヒッタイト軍とそれほど遜色の無い戦いをしました。ラムセス2世のアモン師団は頑強に抵抗し、ヒッタイト軍は攻めあぐねます。陣頭で指揮を執るラムセス2世と違い、ヒッタイトのムワタリ2世は後方で指揮を執ったためどうしても兵の士気の点でエジプト軍に劣りました。
 そのうち、後続のプタハ、ステフの2個師団が到着、現地アムル人の援軍も加わったためヒッタイト軍が逆に包囲される形となります。不利を悟ったムワタリ2世は軍を引きカデシュ城に籠城し、戦線は膠着します。結局両者痛み分けという形で講和が成立し両軍は兵を引きました。
 この戦いで、エジプト軍は負けはしなかったものの勝ったとも言い難いものでしたが、ラムセス2世は国内向けには大勝利を宣言しました。カデシュの戦いは世界で初めて成文の平和条約が結ばれた事でも有名ですが、エジプトとヒッタイトという超大国はシリアを国境線と定め共に領土拡大を止めます。
 以後両国は友好関係を築き、エジプトからは小麦が、ヒッタイトからは鉄器が輸出され双方を満足させました。エジプトの戦争目的の一つは鉄器の安定供給でしたので結果的には成功したと言えます。私は、これと同時にレバノン杉の安定供給も成されたのではないかと睨んでいるのです。
 古代地中海沿岸の戦いは、海上補給路の存在なしには語れません。一般にカデシュの戦いと海上補給路を論じたものは少ないですが、私は重要な要素の一つだったと考えています。

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