大オスマン帝国Ⅷ 第2次ウィーン包囲
レパントの敗戦はオスマン帝国の屋台骨を揺るがすほどではありませんでしたが、少なくとも拡大路線が頓挫し何かが変わり始めるきっかけにはなりました。スレイマン大帝以後凡庸なスルタンしか出ず、宮廷は官僚や軍人の権力闘争の場となります。なかには第16代オスマン2世(在位1618年~1622年)のように、腐敗したイェニチェリ軍団を改革しようとして逆に軍人たちに暗殺されるスルタンも出ました。
16世紀末から17世紀初頭にかけて、アナトリアではジェラーリーの乱という大規模な反乱が起こります。ジェラーリーとは山賊とか暴徒という意味ですが、この中にはサファヴィー朝の影響を受けたサファヴィー教徒のトルコ系遊牧民キジルバシの生き残りも含まれていたようです。
ではそういう内政がガタガタの状態のオスマン帝国がどうして再びウィーン包囲できたのでしょうか?実は神聖ローマ帝国側も同時に疲弊していたからでした。ルターが提唱したプロテスタント運動、所謂ドイツ宗教改革はドイツ諸侯たちを巻き込んで1618年30年戦争を巻き起こします。戦場になったドイツでは人口1600万人が600万人まで激減したとも言われ深刻な爪痕を残しました。1648年ウエストファリア条約で終結したものの、その結果オランダが正式にスペインから独立、逆にスペインの海上覇権に挑戦するようになります。
『太陽の没しない帝国』スペインの後退ははっきりし、地中海でのオスマン帝国との覇権争いも終息しました。もう一方のハプスブルク家、オーストリアは30年戦争の結果神聖ローマ帝国内のドイツ諸侯が独立志向となり統制が緩みます。最終的に神聖ローマ帝国はナポレオン戦争で解体しました。この頃、フランスではブルボン朝ルイ14世が絶頂期を迎えており、これもオーストリア・ハプスブルクにとっては悩みの種となります。
第19代スルタン、メフメト4世(在位1648年~1687年)は政治を有力貴族キョプリュリュ家に任せ自分は狩猟三昧に明け暮れる無能な君主でした。1676年キョプリュリュ・アフメト・パシャに代わって大宰相に任じられた義弟カラ・ムスタファ・パシャは野心多き男だったと云われます。彼は内部の矛盾をごまかすため外征で成果を上げようと考えました。
1683年北西ハンガリーでハンガリー人が神聖ローマ帝国に対し反乱を起こします。反乱軍はオスマン帝国に援助を求めました。カラ・ムスタファ・パシャはこれを絶好の好機だととらえました。1683年、15万の大軍を動員したカラ・ムスタファはオーストリア領に侵入、首都ウィーンに迫ります。7月7日時の神聖ローマ皇帝レオポルド1世は部下に守備を任せ帝都を脱出、ヨーロッパ諸国に支援を要請しました。一説ではオスマン軍の遠征はフランス王ルイ14世が唆したという話もあります。当時の複雑怪奇な国際情勢から見るとあり得る話です。
前回の時と大きく違っていた事は、ヨーロッパ側に軍事革命が進みテルシオ戦術、マウリッツ式大隊、スウェーデン式大隊とマスケット銃を使う戦術が飛躍的に発展していた事です。一方オスマン側は、特権階級となったイェニチェリ軍団が改革を拒み旧態依然たる戦術に固執していました。とはいえ、ウィーンの守備軍はわずか1万5千だったためオスマン軍は容易に包囲します。
最新の築城術で要塞化されたウィーンは、劣勢の兵力にもかかわらずびくともしませんでした。オスマン軍は攻めあぐみ膠着状態に陥ります。その頃、オスマン朝と領土紛争を抱えていたポーランドのヤン3世がウィーン救援に立ちあがりました。これにロレーヌ公、ザクセン選帝侯、バイエルン選帝侯などドイツ諸侯の軍が加わり7万の兵力が集まります。
9月12日、救援軍はウィーン西方の丘陵上に布陣しました。右翼にヤン3世率いるポーランド軍3万、左翼にドイツ諸侯軍4万。オスマン軍は長期の対陣で士気が弛緩していました。クリミア・タタール軍などは強権的なカラ・ムスタファ・パシャに反発し協力を拒否する動きさえあったそうです。偵察によってオスマン軍の弱点を見抜いたヤン3世は、12日夜早くも攻撃を開始します。これが奇襲となりオスマン軍は大混乱に陥りました。中でもポーランドの誇る重騎兵『フサリア』3千騎の活躍は目覚ましく、カラ・ムスタファの本営まで一直線に進みオスマン軍の包囲陣をズタズタに切り裂きます。
カラ・ムスタファ自身は辛くも危機を脱し逃亡に成功しますが、総指揮官がいなくなったオスマン軍は総崩れになりました。カラ・ムスタファはべオグラードに逃れなお再戦の機会を狙いますが、さすがに無能なメフメト4世も怒り敗戦の責任を追及されて処刑されます。第2次ウィーン包囲はオスマン帝国最後のヨーロッパ遠征となりました。
以後、オーストリアは逆にオスマン領に攻め込みハンガリーを蚕食し続けました。この戦いでオスマン軍弱しと知ったポーランド、ロシアもこれに加わります。オーストリアなど欧州諸国は神聖同盟を結びオスマン朝との戦いを続けました。サンドバッグ状態のオスマン朝は1699年カルロヴィッツ条約でようやく一息つきます。しかし、この講和条約で帝国領土が多く失われました。
オーストリアにオスマン領ハンガリー、トランシルヴァニア公国、スラヴォニアを割譲
ポーランドにポドリア割譲
ヴェネチアにダルマチア割譲
ロシアは、カルロヴィッツ条約には加わらなかったものの、1700年コンスタンティノープル条約でアゾブを得ます。オスマン朝の衰退は明らかでした。
軍や政府の近代化に失敗し、「瀕死の重病人」とまで言われるようになったオスマン帝国、ただバルカン半島以外では依然として広大な領土を保持していたため滅亡は緩やかに推移します。次回はオスマン帝国滅亡への序曲を記しましょう。
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