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2017年7月

2017年7月 2日 (日)

大オスマン帝国Ⅹ  トルコ革命と帝国滅亡(終章)

 19世紀末から20世紀初頭にかけてバルカン半島の西側からはオーストリア=ハンガリー二重帝国が、バルカン半島東側とコーカサス地方からはロシアがオスマン帝国の領土を窺います。国内はフランス革命の影響を受け支配下の諸民族にナショナリズムの嵐が吹き荒れていました。
 国内外の危機からオスマン朝内部でも改革の動きはありましたが、後手後手に回ります。オスマン朝では、軍事的な危機感が深刻で、当時オーストリアと対立していたドイツ帝国から軍事顧問団を招聘しドイツ式の軍制改革を始めました。ちょうど同じ時期、明治維新で近代国家の仲間入りを果たした日本もドイツからメッケル少佐を招聘し軍の近代化を果たします。ドイツは、オスマン帝国を重視しプロイセン王国時代から軍事顧問を派遣しており、一時は後の参謀総長大モルトケですらオスマン帝国に赴任しています。
 ドイツ帝国は、宿敵イギリスの3C政策(カイロ-ケープタウン-カルカッタを結ぶ経済ブロック)に対抗するため3B政策(ベルリン-ビザンチウム(イスタンブールの古名)-バクダッドを結ぶ鉄道建設)を推進しており、オスマン朝への軍事顧問団派遣もその一環でした。
 1878年ベルリン会議でロシアとの対立は一応決着しますが、その後欧州列強はオスマン朝の領土の切り取りを激化させます。1881年チュニジアをフランスに割譲、1882年には一応宗主権だけは保っていたエジプトをイギリスに割譲しました。1897年にはトルコ・ギリシャ戦争勃発、1908年イエメン独立(実質的にはイギリスの保護領)、1908年にはブルガリアが独立します。
 ボロボロのトルコ帝国の現状を憂い、西洋式教育を受けたムスタファ・ケマルら青年将校や下級官吏たちは青年トルコ党を結成しました。彼らはトルコが弱いのはアブデュルハミト2世(第34代スルタン、在位1864年~1909年)の専制政治が原因だと考えます。皮肉にもオスマン帝国は、イスラム法の下緩やかな専制で有為の青年たちを西洋に留学させていたのですが、それが仇になったとも言えました。
 1908年7月、彼らによって青年トルコ革命が起こります。革命勢力はアブデュルハミト2世によって停止されていた近代的ミトハト憲法復活を主張しました。1913年タラート・パシャ、エンヴェル・パシャを指導者とする統一派政権が誕生します。この混乱の中、スルタン・アブデュルハミト2世は廃位させられます。これをみても当時のオスマン帝国がスルタン専制ではなく官僚支配国家だった事が分かります。
 
 統一派政権はアブデュルハミト2世の弟メフメト5世(在位1909年~1918年)を擁立しました。国外では衰退するオスマン帝国領を狙ってブルガリア、セルビア、ギリシャ、モンテネグロがバルカン同盟を結成し1912年第1次バルカン戦争を起こします。この戦争でオスマン帝国はボロボロになったのですが、領土を大きく拡大したブルガリに嫉妬した他のバルカン同盟諸国が今度はブルガリアに対し第2次バルカン戦争を起こしました。ブルガリアは袋叩きにあって領土を縮小させます。

 オスマン帝国は新政権になってもドイツとの同盟を維持、オーストリア=ハンガリー二重帝国も国内の事情とロシアとの対立からオスマン帝国との対立を止め、ここに三国同盟が結ばれます。1914年、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナント大公がサラエボでセルビア人青年に暗殺された事がきっかけで第1次世界大戦が勃発しました。

 オスマン帝国は、この戦争を機にイギリス、フランス、ロシアに奪われた領土を奪回できると淡い期待を抱いていたのでしょう。しかし現実は、アラビアのロレンスに代表されるイギリスの攻勢にさらされ、他の戦線でも敗退し続けました。1915年には、オスマン朝の本土イスタンブールに近いガリポリ半島に英仏連合軍14個師団が上陸します。英仏の大艦隊に守られ強烈な艦砲射撃の下上陸した英仏軍の前にオスマン軍は絶体絶命でした。このままでは首都イスタンブールが陥落するのも時間の問題。

 当時ガリポリ半島を守っていたのはオスマン軍6個師団でしたが、最終的には14個師団に増強されます。後の無いオスマン軍は必死に防戦し、戦線は膠着状態に陥りました。この戦いで活躍したのがムスタファ・ケマルでした。ケマルはアナファルタラル集団司令官でしたが、英軍の進撃を食い止めアナファルタラルの英雄と称えられます。
 そもそもガリポリ上陸作戦自体が無理な作戦でした。補給が続かなくなった英仏軍は1916年1月撤退します。大きな犠牲を払いながら得る物の無い戦いだったのです。ただ一つ、ムスタファ・ケマルを英雄にしただけ。1918年10月30日、オスマン帝国はついに降伏します。英仏連合軍がオスマン領土に進駐し首都イスランブール、ボスポラス・ダーダネス両海峡は国際管理下に置かれました。アナトリア半島のエーゲ海沿岸地方はギリシャに取られ、オスマン帝国に残された領土はアナトリア半島中央部だけになります。
 アナトリアのトルコ人たちは危機感を抱きます。このままではトルコが滅んでしまうと。統一派政権に属しながら距離を置いていたムスタファ・ケマルはこのようなトルコ人たちの不満を糾合しアンカラで1920年トルコ大国民議会を組織します。一方、連合軍に恭順していたメフメト6世(5世の弟、在位1918年~1922年)は、この動きを反逆と断じました。
 1920年オスマン帝国と英仏連合軍との間に講和条約セーブル条約が結ばれます。これによりトルコはほとんどの海外領土を失いました。アナトリア西部エーゲ海沿岸を獲得したギリシャは、欲を出しアナトリア中央部に軍を進めます。ケマルは軍を率いてギリシャ軍を迎え撃ちサカリア川の戦いで撃破しました。ケマル率いるアンカラ政府軍は、余勢を駆りアナトリア半島に展開するギリシャ軍を駆逐します。これによりアンカラ政府の実力を知った連合国は改めてトルコに有利な状況で休戦条約を結ばざるを得ませんでした。
 連合国はローザンヌ講和会議を開催する事にし、イスタンブールのオスマン帝国政府と共にアンカラ政府を招待します。ムスタファ・ケマルは国の代表が二つあるのはおかしいと考え、1922年大国民議会に諮ってスルタン制の廃止を決議します。オスマン家に残されたのは宗教的権威のカリフのみで、世俗の権威、権力一切を剥奪されたのです。実際軍隊をもちトルコ国民から圧倒的支持を受けるアンカラ政府にオスマン朝が抵抗できるはずはありませんでした。
 1922年廃帝メフメト6世はマルタ島に亡命します。600年の歴史を誇るオスマン帝国の滅亡でした。これをトルコ革命と呼びます。翌1923年ムスタファ・ケマルはトルコ共和国樹立を宣言、総選挙を実施し初代大統領に就任しました。
 トルコの人たちは、彼の事をケマル・アタチュルク(トルコの父)と尊称します。ケマル・アタチュルク大統領によってトルコはイスラム支配ではなく西洋的近代国家に生まれ変わるのです。
                                (完)
 

大オスマン帝国Ⅸ  滅亡への序曲

 ここに一つの伝説を述べましょう。カリブ海、ドミニカの南にマルティニーク島という島があります。フランスの海外県の一つで面積1128平方キロ、2011年現在で人口40万人。
 18世紀末ごろ、この島に姉妹のように育った下級貴族の娘がいました。従姉妹同士で年も近くとても仲良かったそうです。ある時二人は、良く当たると云う黒人老婆の占い師のもとを訪ねます。
 老婆は姉を占って言いました。
「貴方は二度結婚する。二人目の亭主はさえない男だが、大きな権力を握るだろう。お前さんもそれにあやかって王妃になる。しかし栄華は長く続かず寂しい晩年になるだろうね。孤独の中でこの島の事を懐かしく思いだすよ」
 次に老婆は妹の方を占います。
「これは驚いたね。あんたは奴隷になった後皇帝になる息子を産むよ。あんた自身も大きな権力を握るけど、異郷の地で空しく亡くなるだろうね」
 ショックを受けた姉を慰めながら二人は占い師の家を出ました。年長の娘の名はジョセフィーヌ・ド・ボアルネ。言わずと知れたナポレオン・ボナパルトの皇后です。一方年少の娘はエイメ・デュ・ビュク・ド・リヴェリといいました。二人は成長すると、カリブ海の片田舎で一生を終るのが我慢できず船に乗ってフランスへ向かいます。
 ジョセフィーヌはフランスに渡り1779年ボアルネ子爵と結婚しました。しかし浪費癖が酷いせいか間もなく離婚。当時フランス革命政府の実力者だったバラスの愛人に収まります。そこでさえない軍人だったナポレオンと知り合い、彼の猛烈な求婚に負け結婚しました。バラスが浮気性の彼女に飽きてきたためナポレオンに押し付けたという話もあります。その後の歴史は皆さんご存じの通り。
 問題はエイメの方でした。フランスへの船旅の途中船が海賊に襲われ人質となってしまいます。普通なら強姦の末殺されるか、よくて売春婦に落とされ安く売り飛ばされていたでしょう。ところが彼女の美貌は際立っていました。海賊たち(おそらくアルジェのバルバリア海賊)は、彼女をオスマン朝のハーレムに売れば大金が得られると思います。処女でなければ価値が下がるため強姦も免れたはず。こうして数奇な運命の末エイメはハーレムの奴隷女となりました。
 ハーレムには帝国各地から集められたそれこそ何千人もの美女がいます。スルタンの目に留まるのはほんの一握り。さらにスルタンの王子を産みその子がスルタンになる事など夢のまた夢だったでしょう。ところがその奇跡が彼女に起きました。第23代スルタン、アブデュルハミト1世(在位1774年~1789年)の目に留まったのです。おそらく、フランス系でカリブ海で育ったためエキゾチックな美貌だったのでしょう。
 エイメはスルタンに溺愛され、王子マフムトを産みます。しかし、皇后ではなかったためオスマン朝の伝統からいったら次のスルタンが即位する時処刑されるはずでした。奇跡はさらに続きます。1789年アブデュルハミト1世が死去すると甥セリム3世が即位しました。1807年セリム3世は改革を嫌うイェニチェリに廃位され、マフムトの異母兄ムスタファ4世が即位します。ところがムスタファ4世即位後セリム3世復位を訴える大反乱が起こりました。反乱軍に担ぎあげられる事を恐れ、幽閉中のセリム3世は処刑されます。

 反乱軍の首謀者、将軍アレムダル・ムスタファ・パシャは首都イスタンブールを制圧しました。セリム3世がすでに殺されていた事を知ったアレムダルは激怒、ムスタファ4世を廃位し幽閉します。ただ、スルタンがいないと帝国は動きません。傀儡であろうとなかろうと君主は必要なのです。そこで白羽の矢が立ったのは、背後に権門がいないマフムト王子でした。こうしてマフムトは即位し、マフムト2世(在位1808年~1839年)となります。
 エイメは、皇太后となりました。が、このままでは大宰相となったアレムダルの傀儡ですから権力がなく、いつ彼の都合で殺されるか分かりません。しかし、またしても幸運の女神が彼女とその息子に微笑みました。宮廷内の権力闘争でアレムダルが殺されたのです。宮廷内の実力者が相次いで権力闘争で亡くなったため、相対的にスルタンの権力が上昇します。こうして若年のスルタンを補佐し皇太后エイメは絶大な権力を握りました。
 エイメはオスマン帝国ではナクシディル・スルタンの名で呼ばれます。エイメは、従姉が皇后を務めるフランスと同盟を結びました。ところがジョセフィーヌが子供を産まない事を理由に離縁されたため、フランスとの同盟を破棄します。エイメは息子を補佐しナポレオン戦争、対露戦争、イェニチェリ反乱を戦い抜き9年後死去しました。晩年、少女時代に聞いた占い師の老婆の予言を思いだし感慨深いものがあったでしょう。まさに数奇な一生を送った美女でした。
 以上長々とエイメについて書いてきましたが、最新の研究ではナクシディル・スルタンはコーカサス出身だったという説が出てきています。ですからエイメの話はもしかしたら伝説にすぎないかもしれません。フランスとの同盟破棄云々も皇太后の個人的感情で決まるはずは無く、国際情勢上国益に沿って判断されたものであるはず。

 エイメの話は、この頃のオスマン朝を象徴していると思いあえて紹介しました。
 
 マフムト2世は、衰える国運を必死に支え諸改革を断行したスルタンでした。既得権益に胡坐をかき、帝国の癌となりつつあったイェニチェリ軍団を廃止したのも彼です。マフムト2世によって新式装備のムハンマド常勝軍が編成されます。イェニチェリは抵抗したものの、常勝軍の大砲の前に崩れ去りました。

 そういう努力も国際情勢の前には無力となります。ナポレオン戦争の影響で帝国の重要な領土エジプトが独立しました。アルバニア出身のエジプト総督ムハンマド・アリーはイェニチェリと共に帝国の癌だったマムルーク軍団を力ずくで排除、独自の軍を背景にオスマン帝国から離脱したのです。

 フランス革命の影響はオスマン帝国にも及び支配下の諸民族のナショナリズムに火を付けます。それまでのイスラム法の下、オスマン家の緩やかな専制では満足できなくなったのです。まずギリシャが独立戦争を起こし1829年独立。エジプトも二度の戦争の末1841年事実上独立しました。

 1853年にはロシアとの間にクリミア戦争が起こります。ロシアの領土拡張を好まない英仏が支援したためかろうじて勝利しますが、以後英仏はオスマン朝の内政に露骨に干渉しました。1878年には露土戦争で完敗、オスマン朝の命運は風前の灯となります。

 そして第1次世界大戦勃発、この戦争が帝国に止めを刺しました。次回最終回、トルコ革命と帝国滅亡に御期待下さい。

大オスマン帝国Ⅷ  第2次ウィーン包囲

 レパントの敗戦はオスマン帝国の屋台骨を揺るがすほどではありませんでしたが、少なくとも拡大路線が頓挫し何かが変わり始めるきっかけにはなりました。スレイマン大帝以後凡庸なスルタンしか出ず、宮廷は官僚や軍人の権力闘争の場となります。なかには第16代オスマン2世(在位1618年~1622年)のように、腐敗したイェニチェリ軍団を改革しようとして逆に軍人たちに暗殺されるスルタンも出ました。
 16世紀末から17世紀初頭にかけて、アナトリアではジェラーリーの乱という大規模な反乱が起こります。ジェラーリーとは山賊とか暴徒という意味ですが、この中にはサファヴィー朝の影響を受けたサファヴィー教徒のトルコ系遊牧民キジルバシの生き残りも含まれていたようです。
 ではそういう内政がガタガタの状態のオスマン帝国がどうして再びウィーン包囲できたのでしょうか?実は神聖ローマ帝国側も同時に疲弊していたからでした。ルターが提唱したプロテスタント運動、所謂ドイツ宗教改革はドイツ諸侯たちを巻き込んで1618年30年戦争を巻き起こします。戦場になったドイツでは人口1600万人が600万人まで激減したとも言われ深刻な爪痕を残しました。1648年ウエストファリア条約で終結したものの、その結果オランダが正式にスペインから独立、逆にスペインの海上覇権に挑戦するようになります。
 『太陽の没しない帝国』スペインの後退ははっきりし、地中海でのオスマン帝国との覇権争いも終息しました。もう一方のハプスブルク家、オーストリアは30年戦争の結果神聖ローマ帝国内のドイツ諸侯が独立志向となり統制が緩みます。最終的に神聖ローマ帝国はナポレオン戦争で解体しました。この頃、フランスではブルボン朝ルイ14世が絶頂期を迎えており、これもオーストリア・ハプスブルクにとっては悩みの種となります。
 第19代スルタン、メフメト4世(在位1648年~1687年)は政治を有力貴族キョプリュリュ家に任せ自分は狩猟三昧に明け暮れる無能な君主でした。1676年キョプリュリュ・アフメト・パシャに代わって大宰相に任じられた義弟カラ・ムスタファ・パシャは野心多き男だったと云われます。彼は内部の矛盾をごまかすため外征で成果を上げようと考えました。
 1683年北西ハンガリーでハンガリー人が神聖ローマ帝国に対し反乱を起こします。反乱軍はオスマン帝国に援助を求めました。カラ・ムスタファ・パシャはこれを絶好の好機だととらえました。1683年、15万の大軍を動員したカラ・ムスタファはオーストリア領に侵入、首都ウィーンに迫ります。7月7日時の神聖ローマ皇帝レオポルド1世は部下に守備を任せ帝都を脱出、ヨーロッパ諸国に支援を要請しました。一説ではオスマン軍の遠征はフランス王ルイ14世が唆したという話もあります。当時の複雑怪奇な国際情勢から見るとあり得る話です。
 前回の時と大きく違っていた事は、ヨーロッパ側に軍事革命が進みテルシオ戦術、マウリッツ式大隊、スウェーデン式大隊とマスケット銃を使う戦術が飛躍的に発展していた事です。一方オスマン側は、特権階級となったイェニチェリ軍団が改革を拒み旧態依然たる戦術に固執していました。とはいえ、ウィーンの守備軍はわずか1万5千だったためオスマン軍は容易に包囲します。
 最新の築城術で要塞化されたウィーンは、劣勢の兵力にもかかわらずびくともしませんでした。オスマン軍は攻めあぐみ膠着状態に陥ります。その頃、オスマン朝と領土紛争を抱えていたポーランドのヤン3世がウィーン救援に立ちあがりました。これにロレーヌ公、ザクセン選帝侯、バイエルン選帝侯などドイツ諸侯の軍が加わり7万の兵力が集まります。
 9月12日、救援軍はウィーン西方の丘陵上に布陣しました。右翼にヤン3世率いるポーランド軍3万、左翼にドイツ諸侯軍4万。オスマン軍は長期の対陣で士気が弛緩していました。クリミア・タタール軍などは強権的なカラ・ムスタファ・パシャに反発し協力を拒否する動きさえあったそうです。偵察によってオスマン軍の弱点を見抜いたヤン3世は、12日夜早くも攻撃を開始します。これが奇襲となりオスマン軍は大混乱に陥りました。中でもポーランドの誇る重騎兵『フサリア』3千騎の活躍は目覚ましく、カラ・ムスタファの本営まで一直線に進みオスマン軍の包囲陣をズタズタに切り裂きます。
 カラ・ムスタファ自身は辛くも危機を脱し逃亡に成功しますが、総指揮官がいなくなったオスマン軍は総崩れになりました。カラ・ムスタファはべオグラードに逃れなお再戦の機会を狙いますが、さすがに無能なメフメト4世も怒り敗戦の責任を追及されて処刑されます。第2次ウィーン包囲はオスマン帝国最後のヨーロッパ遠征となりました。
 以後、オーストリアは逆にオスマン領に攻め込みハンガリーを蚕食し続けました。この戦いでオスマン軍弱しと知ったポーランド、ロシアもこれに加わります。オーストリアなど欧州諸国は神聖同盟を結びオスマン朝との戦いを続けました。サンドバッグ状態のオスマン朝は1699年カルロヴィッツ条約でようやく一息つきます。しかし、この講和条約で帝国領土が多く失われました。
 オーストリアにオスマン領ハンガリー、トランシルヴァニア公国、スラヴォニアを割譲
 ポーランドにポドリア割譲
 ヴェネチアにダルマチア割譲
ロシアは、カルロヴィッツ条約には加わらなかったものの、1700年コンスタンティノープル条約でアゾブを得ます。オスマン朝の衰退は明らかでした。
 軍や政府の近代化に失敗し、「瀕死の重病人」とまで言われるようになったオスマン帝国、ただバルカン半島以外では依然として広大な領土を保持していたため滅亡は緩やかに推移します。次回はオスマン帝国滅亡への序曲を記しましょう。

大オスマン帝国Ⅶ  レパントの海戦

 前の記事でガレー船という言葉が出ています。懐かしの光栄シミュレーションゲーム『大航海時代』を遊んだ事のある方ならご存知だと思いますが、知らない方も多いと思うので一応説明します。
 ガレー船というのは地中海やバルト海など風向きが安定しない内海で多用された船種で、帆走の他に多数の漕ぎ手がオールを漕いで推進するタイプです。風がある時は帆走、無い時は人力で動かします。逆に大西洋などの外海では帆走のみのガレオンという戦闘艦が使用されます。一般の方が大航海時代の帆船としてイメージするのはガレオン船だと思います。他に商船として使われたキャラックとかナオとかダウとかジャンク船とか安宅船とか色々あるんですが、詳しくは大航海時代をプレイして下さい(笑)。ちなみに、スペイン・ハプスブルク帝国は地中海用のガレー船艦隊と大西洋など外洋に乗り出すガレオン船艦隊を持っていました。


 1566年オスマン帝国最盛期を築いたスレイマン大帝が亡くなると、後を継いだのは悪女ヒュッレム・スルタンの子セリム2世(在位1566年~1574年)でした。泥酔者という綽名からも彼の能力が分かるでしょう。ただ、セリム2世、次のムラト3世(無能者)と無能なスルタンが続いても帝国の屋台骨が傾かなかったのは大宰相ソコリ・メフメト・パシャのおかげでした。スレイマン1世以後はスルタン専制というより、大宰相に代表される官僚支配国家という側面が強くなります。

 オスマン帝国最大の宿敵スペイン・ハプスブルク帝国の事情はどうだったでしょうか?こちらもカール5世が病気で退位し、息子フェリペ2世(在位1556年~1598年)が立っていました。神聖ローマ皇帝こそ従弟でオーストリア大公のマクシミリアン2世に譲ったものの、スペイン、ネーデルラント、ナポリ、シチリア、サルディニア、ミラノを父から継承し南北アメリカ、フィリピンに広大な植民地を有します。実質的なハプスブルク帝国の継承者となったのです。

 オスマン帝国の絶頂期がスレイマン大帝時代なら、スペイン・ハプスブルク帝国の絶頂期はまさにフェリペ2世の治世でした。オスマン朝に海上交易路を脅かされているヴェネチアなど地中海諸国は、カトリックの盟主としてフェリペ2世に期待を寄せます。

 きっかけは1570年、オスマン帝国がヴェネチア領キプロス島を占領した事でした。ヴェネチアは教皇とフェリペ2世に支援を訴えます。これにロードス島から叩き出されていた聖ヨハネ騎士団、地中海に利害関係を持つジェノバ、サヴォィアなどが加わり再びカトリック連合艦隊が結成されました。今回も総指揮官はスペインが出します。ドン・ファン・デ・アウストリアはフェリペ2世の異母弟です。私生児であったため苦労人で軍人としての道を歩みました。なかなか有能な人物だったと云われます。1571年当時24歳という若さでした。

 カトリック連合艦隊は、スペイン艦隊77隻、ヴェネチア艦隊116隻など総勢300余隻、兵力2万2千、大砲1800門。これに対しオスマン艦隊は戦闘艦だけで300隻、兵力2万、大砲2000門とほぼ互角。ただ指揮官ミュエッジン・ザデ・アリーは若い宮廷貴族で実戦経験がほとんどありませんでした。

 両軍は1571年10月7日ギリシャ、コリント湾口のレパントで激突します。カトリック連合艦隊はドン・ファンの旗艦を中心に弓型戦列でオスマン艦隊に突撃しました。コリント湾内にいたオスマン艦隊もこれを迎え撃ちます。激しい戦闘が続く中オスマン軍は乱戦で指揮官ミュエッジン・パシャが討ち取られ大混乱に陥りました。それまではどちらが勝つか全く不明でしたが、総指揮官の戦死でまずオスマン艦隊中央が壊滅。右翼も崩れます。左翼で頑張っていたウルジ・パシャは善戦したものの戦局を覆すまでには至らず血路を開いて撤退しました。

 結局、オスマン艦隊はガレー船25隻沈没、190隻が投降、戦死5千、捕虜2万5千という甚大な損害を出します。一方カトリック連合艦隊側の被害はガレー船12隻喪失、戦死7千5百、負傷7千7百にとどまりました。レパントの勝利によってスペインが地中海の制海権を奪い返したと言われますが、実態は地中海におけるオスマン帝国の拡大路線が頓挫したと言うべきでしょう。甚大な損害を出し、海上におけるオスマン帝国初めての大敗は確かに衝撃でしたが、これでオスマン帝国の屋台骨が揺らぐ事は無かったのです。

 レパントの海戦勝利によってスペイン艦隊は無敵艦隊の称号を得ます。フェリペ2世は得意の絶頂だったでしょう。ところが満つれば欠けるが世の習い。長年の戦争で戦費がかさみネーデルラントに重税を課した事でネーデルラント人の怒りが爆発、独立戦争を起こされます。後にオランダとなるユトレヒト同盟を支援するイングランドを懲らしめるため出撃した無敵艦隊は、1588年アルマダ海戦に大敗、壊滅的打撃を受けます。

 これによりスペイン海上帝国の覇権は消え去りました。レパントの海戦からわずか17年後のことです。1598年フェリペ2世の死と共に『太陽の没せぬ国』スペイン・ハプスブルク帝国も終焉を迎えます。世界史は、スペインから独立を勝ち取ったオランダ、無敵艦隊を破った新興国家イングランドを中心に動き始めるのです。



 世界史の表舞台から辺境になりつつあった、かつての世界帝国オスマン朝。実はもう一度世界の耳目を集めます。次回は第2次ウィーン包囲と帝国の衰退を描きます。

大オスマン帝国Ⅵ  壮麗者スレイマン大帝(後編)

 『太陽の没しない国』スペイン・ハプスブルク帝国の主カール5世(在位1519年~1556年)。ヨーロッパ随一の経済中心地ネーデルラントを領有し、新大陸からもたらされる莫大な金銀によっておそらく当時世界一富裕だったと思われます。結果論ですが、スペインがこの金銀を国内産業の育成に投じていればスペインは現在も列強の一角として残っていたはずです。
 ところが、カール5世とその息子フェリペ2世はオスマン帝国との戦争に浪費しました。イタリア半島のナポリ王、シチリア王を兼任するカール5世にとって、オスマン朝問題は地中海貿易に関わり他人事ではなかったという事もあったでしょう。しかも実弟フェルディナント1世が大公を務めるオーストリア大公国(ハンガリー王、ボヘミア王を兼任)が直接オスマン帝国と国境を接した事に対する危機感もありました。
 そして何よりも、ヴェネチアやジェノバなど地中海貿易をオスマン帝国に脅かされていた諸国がカール5世に泣きついたのが大きかったと思います。カール5世はカトリック世界の盟主としてオスマン朝との戦争の矢面に立たされました。
 一方、スレイマン1世側はどうだったでしょうか?第1次ウィーン包囲は失敗しましたが、ハンガリーの大半を版図に組み入れほぼ満足できる結果でした。スレイマン1世がフランス王フランソワ1世と結んだように、カール5世はオスマン朝の背後にいるイランのサファヴィー朝タフマースブ1世(イスマイール1世の子)と結びます。この辺り、当時の外交戦のダイナミックさが出ていて興味深いですが、宗教の違いに関係なく列強が国益で動いていた証拠でしょう。
 背後の安全を気にしなければならなくなったスレイマン1世は東方遠征を決意します。1533年スレイマン1世に率いられた大軍はサファヴィー領に侵攻しました。先遣隊がまずアゼルバイジャンを占領、スレイマンの本隊は南下してバクダードを制圧します。その後アゼルバイジャンの重要都市タブリーズに至りますが、直接戦闘するのをサファヴィー軍が避けたためイラクとアゼルバイジャンの大半を占領したことで満足し兵を引きました。
 ところが、サファヴィー軍はオスマン軍が撤退すると出撃し騎兵の機動力を生かしたゲリラ戦、焦土作戦で対抗します。これは強大なオスマン軍に対抗するには有効な策でした。両国の戦争は泥沼状態に陥り数十年続きます。とはいえ、オスマン朝とサファヴィー朝の国力は隔絶していましたからオスマン本国が脅かされる事はありませんでした。
 スレイマン1世は、スペインと戦うため海軍の大拡張に乗り出します。1533年、アルジェを根拠地とする海賊バルバロス・ハイレディンをパシャ(海軍総督)に任命しアルジェリアも帝国の版図にしました。これに対しスペインも黙っておらず、1535年には海軍をチュニスに派遣しここではオスマン軍を破っています。
 両者の海上における直接対決は時間の問題でした。きっかけは1537年ハイレディン率いるオスマン艦隊がエーゲ海、イオニア海におけるヴェネチア共和国の島々を次々と占領した事です。危機感を覚えたヴェネチアは教皇パウルス3世に訴え、教皇の提唱でカール5世を盟主としヴェネチア、ジェノバ、教皇領、聖ヨハネ騎士団から成る連合艦隊が結成されました。指揮官はジェノバ出身でスペイン・ハプスブルク帝国の海軍提督だったアンドレア・ドリア。
 連合艦隊は1538年ヴェネチアの拠点だったコルフ島に集結します。その兵力ガレー船162隻、歩兵6万。当時ヨーロッパでは最大規模の艦隊でした。オスマン海軍もハイレディン指揮の下122隻のガレー船、2万の兵力を集めます。両軍はギリシャ西海岸のプレヴェザで激突しました。数に勝るカトリック連合艦隊の方が有利なはずでしたが、寄せ集めのために纏まりに欠け連絡の不手際から一時兵を引く事になります。そこを見逃さなかったハイレディンは追撃を命じました。撤退の陣形から向き直って戦いの陣形に戻すことは容易ではありません。寄せ集めの艦隊ならなおさらです。結局連合艦隊は、自ら招いた失策によって不利な状況で海戦に突入します。
 連合艦隊は13隻のガレー船が沈没、36隻が拿捕、3千人の捕虜を出しました。損害自体は軽微なものでしたがカトリック連合艦隊が敗北したという事実には変わりなく、以後カールの息子フェリペ2世が1571年レパントの海戦で雪辱するまで地中海の制海権はオスマン帝国が握ることとなります。
 スレイマン1世とカール5世の対決は外交でも続けられ、一説ではフランス王フランソワ1世とその子アンリ2世がドイツ宗教改革を唱えていたルター派諸侯に援助した資金の出所はスレイマン1世だったとも言われます。これが本当だとすると世界史は面白いですね。両者は地中海だけでなく紅海、インド洋でも対決します。もともとスペインやポルトガルが大航海時代で喜望峰回りの航路を開拓したのは地中海貿易をオスマン朝に独占されていたからでした。
 1538年にはポルトガルに脅かされていたインドのグジャラート・スルタン領の救援要請を受けインド洋に艦隊を派遣しています。イエメンの重要港湾アデンを占領したのもこの頃です。ポルトガルはペルシャ湾の出口ホルムズを占領するなどこの方面でもオスマン朝とヨーロッパ勢力との戦いは続きました。
 スレイマン1世はオスマン帝国最盛期を築いたスルタンです。しかしその治世の晩年さしもの名君にも衰えが目立ち始めます。奴隷出身の皇后ヒュッレム・スルタンは残された肖像画を見ると驚くべき美貌ですが、彼女は自分の息子を後継者にするためスレイマンに他のスレイマンの王子たちを讒言、無実の罪を着せて処刑させます。この悪女は1558年死去しますが、彼女の暗躍でイスタンブールの宮廷はガタガタになりました。結局ヒュッレムの子セリム2世が第11代スルタンに即位しますが、スレイマン1世の晩年は暗いものとなります。
 家庭の不幸を忘れるため、スレイマン1世は晩年になっても外征を繰り返しました。1566年神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世(オーストリア大公フェルディナント1世の子)が和約を破りハンガリーのオスマン領に攻撃を加えると、報復のため出陣します。遠征の途中、セゲド包囲戦で病を発し没しました。享年71歳。
 スレイマン1世は壮麗者という綽名の他に立法者という名でも呼ばれます。これは彼がオスマン朝の数々の立法や諸制度を整えたからで、生涯で13度の遠征と同時に行っていたのですからまさに超人でした。彼の時代がオスマン朝の絶頂期で、以後緩やかな衰退期に入ります。とはいえ、軍事的にはまだまだヨーロッパ勢力にとって脅威でした。
 次回はオスマン帝国の陰りがはっきりと表れたレパントの海戦を描きます。

大オスマン帝国Ⅵ  壮麗者スレイマン大帝(前編)

 オスマン帝国第10代スルタン、スレイマン1世(在位1520年~1566年)。大帝と尊称されオスマン帝国最盛期を築いたスルタンです。
 スレイマンの父セリム1世が1520年ロードス島遠征準備中に亡くなった時、彼はイズミルにほど近いマニサの知事でした。急報を受けたスレイマンはわずかな側近と共にマニサを発ち首都イスタンブールに向かいます。9月20日群臣の臣従の誓いを受けて即位、この時スレイマン1世26歳でした。
 オスマン帝国では新しいスルタンが即位する時ライバルになる兄弟たちを粛清するのが常ですが、不思議とスレイマン1世の時はそういう話がありません。嫡子がスレイマン1世だけしかいなかったのか、スレイマン1世が兄弟たちの粛清を嫌ったのかは分かりません。
 彼の母ハフサ・ハトゥンは信心深い賢后として有名で大変な美人でした。彼女の血を受けたスレイマン1世は眉目秀麗な若者でオスマン朝歴代スルタンでも一二を争う美男だったと伝えられます。これが壮麗者と言われた所以でしょう。
 スレイマンが即位した直後シリア総督ジャンベルディ・ガザーリが反乱を起こします。ガザーリはもとマムルーク朝に仕えた軍人で、いち早くセリム1世に寝返った為重用されていた人物でした。やはり一度裏切った人間は信用出来ないのでしょう。ダマスカスで挙兵したガザーリは、同じくマムルーク朝寝返り組でエジプト総督だったハユル・ベイを誘います。ところがハユル・ベイはオスマン側に立ちガザーリと敵対しました。孤立したガザーリは、シリアの要衝アレッポを守っていたオスマン軍を攻撃しますが失敗、1521年オスマン朝の討伐軍に敗北し処刑されます。以後シリアは、オスマン朝の直轄領となり本土並みの支配がなされました。

 ガザーリの反乱を鎮圧すると、スレイマン1世は1521年、当時ハンガリー領だったベオグラードを占領します。これは彼がバルカン進出を目標とするという意思表示でした。1522年、父セリム1世時代からの懸案だったロードス島の聖ヨハネ騎士団討伐に向かいます。騎士団は頑強に抵抗しますが長期間包囲戦の末降伏、島を明け渡してマルタ島に退去しました。以後聖ヨハネ騎士団はマルタ島騎士団と呼ばれます。

 ロードス島はエーゲ海のアナトリア半島近くに位置しオスマン朝にとって目障りな存在でした。騎士団は海賊となりオスマン朝の船団を襲っていたため安心してバルカン方面へ長期遠征できなかったのです。その棘が取れたオスマン帝国は本格的にハンガリー領を窺います。ハンガリーは、オスマン帝国の侵略に立ちふさがるヨーロッパの防波堤でした。1526年、12万の大軍を率い親征したスレイマン1世はハンガリー南端ドナウ川流域にあるモハッチ平原に着陣。ハンガリー王ラヨシュ2世も直率のハンガリー軍3万にトランシルバニア侯ヤーノシュの軍3万、姻戚のハプスブルク家、ボヘミアの援軍を加え8万前後の軍勢で迎え撃ちました。

 20歳と血気盛んなラヨシュ2世は、援軍の到着を待たずハンガリー軍単独で攻撃を開始します。ところがオスマン軍は300門の大砲と数千挺のマスケット銃で待ち構えハンガリー重騎兵の突撃を文字通り粉砕しました。この戦いでハンガリー王ラヨシュ2世戦死、ハンガリー軍は潰走しスレイマン1世はハンガリーの首都ブダに入城します。

 ハンガリー王国は事実上崩壊、神聖ローマ帝国とオスマン朝は国境を接するようになりました。当時の神聖ローマ皇帝はスペイン王を兼任するカール5世(スペイン王としてはカルロス1世)。スペインはもとより南イタリア、シチリア、サルディニア、ネーデルラント(現在のオランダ・ベルギー)を領し、神聖ローマ帝国のみならず南北アメリカに広大な植民地を持つ「太陽の没しない帝国」の皇帝でした。

 スレイマン1世とカール5世、共に日の出の勢いの世界帝国の主です。両者の激突はまず陸上から始まります。1529年スレイマン1世は12万の大軍を率い、神聖ローマ帝国の中核とも言うべきオーストリア大公国の首都ウィーンを包囲しました。これを第1次ウィーン包囲と呼びます。

 当時カール5世はスペインを本拠地としていたためウィーンにはおらず、守っていたのはカールの弟でオーストリア大公フェルディナント。オーストリア軍は歩兵2万、大砲70門、騎兵1千でした。このままではウィーン落城は時間の問題です。神聖ローマ皇帝カール5世の威信の上からも絶対に守らなければなりませんでした。ところが神聖ローマ帝国に属するドイツ諸侯たちは、オスマン軍を恐れ援軍を出すのを渋ります。

 スペインやドイツ各地からかき集めた援軍も5万前後にしかならず、神聖ローマ帝国軍はオスマン軍を遠巻きに包囲するしかありませんでした。しかし、ウィーン城内のオーストリア軍は後が無いために頑強に抵抗します。オスマン軍が攻めあぐねていると冬に入り補給が滞るようになりました。時間が経てば経つほど長大な補給線を維持しなくてはならないオスマン軍は不利になります。一方、形勢が有利になりそうだと分かると現金なものでドイツ諸侯は続々と援軍を送る姿勢を示し始めました。

 スレイマン1世は、これ以上対陣してもウィーンが落ちないと悟ります。撤退を決意したスレイマン1世は粛々と兵を引きました。ただ、ハプスブルク側もこれを追撃する余力は無く痛み分けに終わります。というのはハプスブルク側も弱点を抱えていたからです。かつてカールと神聖ローマ皇帝の座を争ったフランス王フランソワ1世は、スペイン、オーストリア両ハプスブルクに包囲されていることに危機感を覚えあろうことか異教徒であるオスマン帝国のスレイマン1世と同盟を結びます。

 キリスト教側から見ると背信行為そのものですが、フランスも生き残るための方便だと主張するでしょう。このため、フランス軍の動きを警戒しカール5世はスペイン軍主力を動かせませんでした。


 結局、ハプスブルク家はハンガリー王を兼任するようになりますがハンガリー王国に残ったのはオーストリア国境に近い一部のみ。ハンガリーの大半はオスマン朝の版図に組み入れられます。陸上での両者の戦いは一応の決着を見ました。しかし、まだ海上での戦いが残っています。

 後編ではプレヴェザの海戦とスレイマン大帝の晩年を記すこととしましょう。

大オスマン帝国Ⅴ  冷酷者セリム1世

 コンスタンティノープルを征服し世界帝国の礎を築いたメフメト2世。後を継いだバヤジット2世(在位1481年~1512年)の治世は拡大した帝国の内面を固める時代でした。というのもスルタン位継承争いをしたバヤジットの弟ジェムが聖ヨハネ騎士団、ヴェネチア、ハンガリー、フランスなどオスマン朝敵対勢力に利用されたからです。ジェムは最終的にイタリアに亡命し、フランス王シャルル8世のナポリ遠征に従軍、1495年イタリア南部ナポリに近いカプアで亡くなりました。一説では教皇アレクサンドル6世の実家ボルジア家によって毒殺されたという噂もあります。
 バヤジット2世は、征服者メフメト2世と冷酷者セリム1世に挟まれて地味なスルタンという印象がありますが、メフメト2世の晩年相次ぐ外征で財政が逼迫したのを上手く治め内政を充実させて国庫を潤し次代以降の拡大路線の基礎を作ったスルタンという評価もできるのです。
 オスマン軍の主力常備歩兵軍団イェニチェリは、当初合成弓(コンポジットボウ)を主武器としていました。ところが1444年ヴァルナの戦いでハンガリー重騎兵の突撃を防げなかった事から、当時欧州で普及しつつあった新兵器マスケット銃に目を付けます。マスケット銃は第6代ムラト2世時代にイェニチェリの主武器となりました。
 その他にも領内各地から集められた騎兵、砲兵、工兵から成る常備軍が編成されカプクルと名付けられます。カプクルはほかのイスラム世界の軍人奴隷マムルークと似ていますが、高い棒給が払われ数々の特権を有した事から近代的常備軍の最初の形と言えるかもしれません。騎兵、歩兵、砲兵を有機的に組み合わせた三兵戦術を駆使するオスマン軍は少なくとも中東世界では最強でした。
 イェニチェリ(新軍の意)は、メフメト2世時代末期には1万2千の兵力でした。カプクル全体でおそらく3万くらいか。これにトルコ系諸侯から集めた騎兵、バルカン諸国の援軍を合わせて10万前後が外征兵力でした。
 バヤジット2世の晩年、イランではイスラム教シーア派を奉ずるサファヴィー朝(1501年~1736年)が成立します。サファヴィー朝軍の中核はアナトリア高原東部サファヴィー教信者のトルコ系遊牧民キジルバシですから、それまでバルカン半島進出を重視していたオスマン朝も背後の安全を気にしなければならなくなったのです。
 それを一番敏感に感じていたのは、トルコ北東部トレブゾン州(かつてのビザンツ帝国の亡命王朝トレビゾンド王国の故地)の太守をしていたバヤジット2世の王子セリムでした。セリムはバヤジット2世の三男で継承順位も低かったそうですが、1511年サファヴィー朝に扇動されたシャー・クル(サファヴィー朝初代イスマイール1世の僕という意味)の反乱が勃発します。
 反乱は討伐に向かった大宰相が戦死するほど勢いが強く、イスタンブールの朝廷は恐慌状態に陥りました。何とか鎮圧されたものの、中央政府のあまりの優柔不断ぶりに嫌気がさしたセリムはクーデターを起こします。一度は失敗しクリミヤ半島に追放されますが、イェニチェリ軍団の支持を取り付けたセリムは1512年ふたたび挙兵し、父であるバヤジット2世を強制的に退位させスルタン位に就きました。これが第9代セリム1世(在位1512年~1520年)です。
 セリム1世は、歴代オスマン朝スルタンの例に倣い兄弟たちを次々と粛清します。父バヤジット2世はその後すぐ病死していますが、これもセリム1世による暗殺が噂されています。セリム1世はシャー・クル反乱の苦い経験から、向背定まらないアナトリア高原のトルコ系遊牧民を完全支配するには背後にいたサファヴィー朝を討つ事が必要だと考えました。サファヴィー朝側も、セリム1世の即位を嫌いセリムの兄弟アフマドを支援しアナトリアに軍を派遣したりしていますから両者の対決は時間の問題でした。
 セリム1世は、まずアナトリア半島に残るサファヴィー教団信者のトルコ系遊牧民を虐殺します。その数4万とも言われ、即位時の血生臭さと合わされ冷酷者と呼ばれるようになりました。殺されたものの中にはサファヴィー朝の中核キジルバシ達の親族も多く、サファヴィー朝宮廷ではオスマン朝討つべしという声が大きくなりました。その頃日の出の勢いだったシャー・イスマイール1世は連戦連勝の奢りもありオスマンの田舎者を懲らしめるという軽い気持ちで立ち上がります。実際キジルバシを中核とするサファヴィー朝の騎兵軍団は精強で知られており、負ける気がしなかったでしょう。
 4万のサファヴィー軍はシャー・イスマイール1世に率いられアナトリア高原東部ヴァン湖の畔チャルディラーンに到着します。急報を受けたセリム1世も12万の大軍で迎え撃ちました。1514年8月23日、両軍は激突します。
 この時オスマン軍は、中央にマスケット銃と大砲で武装したイェニチェリなどカプクル軍団を配置、両翼にバルカンとアナトリアの騎兵軍を置きました。歩兵部隊の前には遮蔽物を置き騎兵の突撃に備えます。この陣形、日本の長篠(設楽ヶ原)の合戦と似ていると気付かれたでしょうか?強力な騎兵部隊に対抗するには一番理想的な陣形だったのでしょう。セリム1世はさらに工夫を加え、歩兵部隊を隠すようにその前方に不正規騎兵を置きます。戦いが始まるとこれらは左右に逃れる手はずでした。
 重厚な火力を備えたオスマン軍正面をサファヴィー軍が警戒し突撃しない可能性を恐れたのです。しかしそれは杞憂に終わりました。全軍が騎兵で構成されたサファヴィー軍は、これまでも騎兵突撃で勝ってきたので迷いなくオスマン軍正面に突撃します。待ち構えていたオスマン軍は猛烈なマスケット銃の銃撃と大砲の砲撃を浴びせました。これまで経験した事の無い戦いにサファヴィー軍は驚きます。しかし兵を引こうにも後続が次から次へと突撃するためそれができずなすすべもなく殺されて行きました。
 最初は善戦していたサファヴィー軍も、銃撃と砲撃で大混乱に陥り大きな損害を出します。イスマイール1世が気がついたときには手遅れで、これまで無敵を誇ったサファヴィー軍は壊滅的打撃を受けて敗走します。イスマイール1世は敗戦のショックから以後政治を顧みなくなり酒と女に溺れ生涯を終えました。
 オスマン軍にとってはかつてティムールに敗れたアンゴラの戦いの雪辱戦です。戦いの発端もアナトリアのトルコ系遊牧民を巡っての争いとそっくり。ただ当時と違っていたのは、オスマン軍がマスケット銃と大砲で武装する騎兵・歩兵・砲兵を有機的に組み合わせた近代軍に成長していた事でした。サファヴィー軍はティムール時代と何ら変わり映えのしない騎兵の機動力だけに頼った戦法ですから、勝敗は戦う前から決まっていたと云っても過言ではありません。
 セリム1世は、先祖バヤジット1世の無念を思いだし感無量だったかもしれません。彼には二つの選択肢がありました。このままイランに兵を進めサファヴィー朝に完全にとどめを刺す道。もう一つは、軍を南に向けエジプトのマムルーク朝を滅ぼす道です。サファヴィー朝との戦いは、イラン北西部タブリーズでの越冬が必要で兵站面で不安があったので断念されます。ただこの戦いの結果アナトリア半島は完全にオスマン朝の版図に入り北イラクにもオスマン朝の勢力が及ぶこととなりました。
 オスマン帝国が地中海の制海権を得るにはエジプト・マムルーク朝の征服が不可欠です。セリム1世は翌1515年エジプト遠征を開始します。まず海軍を使い1516年アルジェを占領。8月24日にはシリア北部アレッポに近いマルジュ・ダービクで初めて本格的にマムルーク軍とぶつかりました。戦いはチャルディラーンと似たような経過を辿ります。
 マムルーク軍はサファヴィー軍を上回る8万の騎兵軍団を集めますが、オスマン軍の500門の大砲と数千挺のマスケット銃の前に完敗しました。7万2千という信じられないような大損害を出し文字通り壊滅したマムルーク軍にオスマン軍を防ぐ力はありません。マムルーク朝のスルタン、アルガウリーはショックのあまり脳溢血を起こし半身不随となってそのまま死亡しました。1517年、セリム1世はエジプトの首都カイロに入城します。王朝としてのマムルーク朝は滅亡しますが、セリム1世は軍隊としてのマムルーク軍団は残しエジプトの防衛を任せます。敵対者の処刑だけで良しとしました。
 その頃マムルーク朝にはアッバース朝の後裔が匿われカリフとして祭り上げられていました。カリフ・タワッキル3世は当初セリム1世に保護を求めますが、セリム1世はこれを監禁し1543年獄死させます。この辺りも冷酷者の面目躍如ですが、正統なカリフ、アッバース朝を完全に滅亡させた事により、オスマン朝はイスラム教スンニ派の盟主の地位を獲得します。これをスルタン=カリフ制度の始まりという歴史家もいますが、オスマン朝スルタン自身がカリフを名乗った事実は無いそうです。
 ただ、オスマン朝はイスラム教の聖地メッカ、メディナ、エルサレムを統治し名実ともにイスラム世界の盟主となります。
 セリム1世の征服事業はエジプト遠征が終わっても衰えませんでした。ロードス島の聖ヨハネ騎士団を完全に滅ぼすべく外征の準備を進めます。ところが病気を患いあっさりと死去、享年54歳。
 セリム1世の後を受けたスレイマン1世こそオスマン帝国最盛期を築いたスルタンでした。彼は大帝と尊称されます。次回はスレイマン大帝の治世を描きましょう。

大オスマン帝国Ⅳ  征服者メフメト2世

 話はアンゴラの戦い直後まで遡ります。スルタン・バヤジット1世が捕虜になりどう足掻いても挽回不可能だと悟ったイェニチェリ軍団は驚くべき行動に出ました。王子の一人と大宰相を擁して戦場を離脱したのです。これはスルタン個人ではなくオスマン朝そのものを守る行動でした。遊牧国家は汗やスルタンの死と共に崩壊するのが常ですが、オスマン朝だけは国家という近代的概念で動いたのです。これを見てもオスマン朝がこれまでの遊牧国家とは異質な存在だと分かるでしょう。むしろ西洋近代国家の概念を先取りしていたとも言えます。
 おそらくオスマン帝国の国民もオスマン家もトルコ人の国家だという意識は無かったかもしれません。イスラム教を奉じるトルコ系のオスマン家の支配のもとにイスラム教、キリスト教を超えた多民族国家という意識がおぼろげながら芽生えていたとしか思えないのです。
 イェニチェリ軍団は、他のオスマン軍兵士が西へ逃げたのに対し王子の任地があるアンゴラの北東200kmに位置するアマスヤに向かいます。王子と大宰相を囲むように進む軍団は、兵法でいう死兵でした。すでに勝利が確定したティムール軍は、追撃しても大やけどするだけで得る物が少ない敵兵を本気では追いませんでした。なぜイェニチェリ軍団は、敵中に孤立する危険のあるアナトリア北東部アマスヤに向かったのでしょうか?
 ギリシャの歴史家ストラボンによるとアマスヤの語源はアマゾン族の女王アマシスに由来するそうです。この地は黒海沿岸の山脈中に位置しながら複数の川が流れる沃野を山脈が囲む天然の要害でした。王子の名はメフメトといいました。
 ティムールは、アンゴラの勝利の後バヤジット1世に追放されていたトルコ系諸侯たちに旧領を与えると本拠サマルカンドに帰還します。生涯の宿願である明遠征の準備をするためです。アナトリアにおけるオスマン領は、ティムールによって大部分が失われますが、バルカンのオスマン領は手つかずでした。アナトリアでもオスマン本来の領土であるエーゲ海沿岸部は残されます。
 ティムールが去った後、メフメトを始め4人の兄弟たちがそれぞれスルタン位を主張し争いました。兄弟の争いは11年続き、この期間を空位時代と呼びます。勝ち残ったのは、一番不利な位置にいたメフメトでした。やはりイェニチェリ軍団の支持が大きかったのでしょう。スルタンに即位しメフメト1世(在位1413年~1421年)となります。
 メフメト1世の生涯は失地回復に費やされました。それは息子ムラト2世(在位1421年~1451年)の時代も変わらず、ムラト2世の晩年ようやくバヤジット1世時代の領土を取り戻します。第7代スルタンに即位したメフメト2世(在位1451年~1481年)の目標は、長年の懸案だったビザンツ帝国の征服でした。オスマン朝の伝統である兄弟たちを殺して即位したメフメト2世は、領土の中にぽつんと残るビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルに目を向けます。
 19歳の青年スルタン・メフメト2世は、背後を固めるためハンガリーと3年の休戦条約を結びアナトリアに残った最後の敵対勢力カラマン君侯国を討ちました。オスマン軍はこれまで二度に渡ってコンスタンティノープルを包囲しています。過去の失敗は攻囲戦が長期になりヴェネチアなど欧州からの援軍が到着したからでした。メフメト2世は、短期決戦を決意します。そのためにウルバンの巨砲を製造させました。メフメト2世の父ムラト2世の時代から、イェニチェリ軍団はボヘミアから伝わったマスケット銃と大砲で武装しています。役に立つと分かれば例え異教徒の技術であれ柔軟に取り入れる事ができるのがオスマン軍の強みでした。
 1453年4月5日、メフメト2世はコンスタンティノープルに着陣しました。オスマン軍総兵力12万。守るビザンツ軍はわずか1万2千。ビザンツ皇帝コンスタンティノス・パライオロゴスは今回ばかりは守りきれないと覚悟します。ヴェネチアやジェノバに援軍を要請しますが到着したのはわずかばかりの援軍のみでした。側近から脱出を勧められた皇帝はこれを拒否します。帝国千年の歴史と運命を共にする覚悟でした。
 金角湾に山越えで艦隊が移されたのはこの時です。帝都包囲の輪は確実に狭まりました。5月28日夜、皇帝コンスタンティノスは宮廷で廷臣や兵士たちに向かって最後の演説をします。皇帝は涙ながらに訴えました。
「キリストのために死ぬのだ!」
 その間、オスマン軍からは何度も降伏勧告がなされます。しかし死を覚悟した皇帝が心を動かされる事はありませんでした。
 5月29日未明、オスマン軍の総攻撃が始まります。最後まで前線で指揮を取っていた皇帝は、帝国の国章をちぎり捨て帝権を象徴する豪華な衣装を脱ぐと親衛隊と共にオスマン軍に斬り込みました。皇帝の最期を見た者は誰もいません。1000年no歴史を誇るビザンツ帝国の終焉でした。
 メフメト2世は、生々しい戦いの傷跡が残る帝都に入城します。通常であれば抵抗した都市への見せしめとして三日間の略奪を許すはずでしたが、オスマン帝国の首都とする事を想定していたメフメト2世は略奪を禁じます。
 コンスタンティノープルは、イスタンブールと改称されオスマン帝国の首都となりました。ビザンツ帝国を滅ぼした事で、メフメト2世は征服者の称号を得ます。メフメト2世は、イスタンブールをオスマン朝の帝都としてふさわしく作りかえると同時にバルカン半島への進出を続けます。
 オスマン帝国は、イスタンブールを得た事で世界帝国への道を歩み始めました。イスラム支配の下異教徒は弾圧されたというイメージがありますが、実際は違います。異教徒であるキリスト教徒出身者でも普通に出世できました。最も宮廷に入る段階でイスラム教に改宗する事を要求されましたが。
 メフメト2世時代の8人の大宰相(官僚のトップ)のうち6人がバルカン半島出身。そのうち3名はメフメト2世が滅ぼしたビザンツ貴族の出です。オスマン朝は支配の原理としてイスラム教を奉じただけで、すべての異教徒の改宗など非現実的だと理解していました。これがオスマン朝を世界帝国に押し上げた原因です。
 メフメト2世の関心はバルカン半島に注がれますが、背後の安全を確保するためアナトリア東部への遠征も行いました。それが1471年の白羊朝ウズン・ハサンとの対決です。白羊朝軍を撃破すると1473年にはカラマン君侯国を完全に滅ぼしました。1475年黒海北岸のクリミア汗国を服属させます。
 メフメト2世は、自身をアレクサンドロス大王になぞらえていたそうです。その生涯は戦いに明け暮れ1481年遠征中に陣没します。
 次回は、メフメト2世の孫セリム1世の征服業を描きます。サファヴィー朝、マムルーク朝との戦いが舞台です。

 

大オスマン帝国Ⅲ  雷光バヤジット1世とアンゴラの戦い

 1389年コソボの戦いで勝利するも戦場に倒れた父ムラト1世に代わって即位したバヤジット1世(在位1389年~1402年)。ただ彼の即位はスルタン位継承の障害になる兄弟たちを殺すという血塗られたものでした。以後、即位時に兄弟を殺す事は先例になります。
 即位時の混乱はあったものの、オスマン朝の土台が揺らぐ事はありませんでした。ムラト1世の戦死で一時息を吹き返したセルビアですが、バヤジット1世は素早く反撃しセルビア軍を撃破します。バヤジットは報復としてセルビア公ラザル・フレベリャノヴィチら捕虜としたセルビア人貴族たちをことごとく処刑しました。
 1390年バヤジット1世はセルビア公ラザルの娘オリベーラ・デスピナを娶り義弟ステファン・ラザレビッチを臣従させます。以後セルビアはオスマン帝国の忠実な属国となりました。ムラト1世の死は、アナトリアでオスマン朝の勢力拡大に反感を持っていたカラマン侯国などトルコ系諸侯たちには絶好の機会だと映ります。バヤジットの義弟でもあったカラマン侯アラー・ウッディーンは周辺諸国を語らいアナトリア半島のオスマン領に侵攻しました。
 ところがバヤジット1世の方が動きが素早く、1391年バルカン半島から軍を返すとカラマン連合軍を迎え撃ちます。この時、征服したアルバニア、セルビア、ブルガリアなどの諸軍も加わっていたそうです。真っ向からぶつかると、バルカン半島で欧州の強豪と戦っていたオスマン軍の前にアナトリアの雑軍など相手にならず鎧袖一触、逆に攻め込まれてカラマンの首都コンヤがオスマン軍に包囲されます。アラー・ウッディーンは屈辱的な講和を結ばざるを得ませんでした。
 オスマン帝国の急速な拡大とバルカン進出は、ハンガリー王ジギスムントに危機感を抱かせます。ジギスムントは教皇庁や欧州各国へ十字軍結成を訴えました。これに呼応しローマ教皇ボニファチウス8世の提唱で反トルコ十字軍が結成され神聖ローマ帝国、フランス、イングランド、サヴォイなどが加わります。記録ではこの時の十字軍を兵力40万としていますが、さすがにこれは誇張でしょう。ただ10万を超える大軍であった事は確かだと思います。
 ハンガリーの首都ブダに終結した十字軍は、異教徒トルコ人を討つべくバルカン半島を南下しました。急報を受けたバヤジット1世も手勢を率いて出陣します。オスマン軍の兵力はこれも諸説ありますが、だいたい6万前後だったと言われます。
 1396年9月26日両軍はブルガリアのニコポリスで激突しました。大軍にもかかわらず十字軍内では諸侯の対立が深刻化し纏まりに欠けていました。諸侯はばらばらに突撃します。そこをオスマン軍に衝かれ各個撃破。十字軍の提唱者ハンガリー王ジギスムントさえ捕虜となるほどの大敗を喫します。ニコポリスの勝利でバルカン半島におけるオスマン朝の覇権は確立しました。以後しばらくの間欧州勢は守勢に立たされることになります。
 欧州諸国が天罰とまで呼んで恐れたオスマン帝国。欧州の有力国家ハンガリーはもとより神聖ローマ帝国すらも存亡の危機を迎えるはずでした。ところが奇跡が起きます。オスマン領のはるか東、中央アジアの奥深くから一人の巨人が出現したのです。彼の名はティムール。この一代の英傑の登場によってヨーロッパの命運は紙一重の差で滅亡を免れたとも言えます。
 カラマン侯国を始めアナトリア半島のトルコ系諸侯たちがスルタン交代時の隙を狙ってオスマン領に侵攻し逆に大敗したことはすでに述べました。当時ティムールは、チャガタイ汗国を滅ぼし、キプチャク汗国を降し、インド遠征、シリアに矛先を向けつつありました。バヤジット1世に敗れたトルコ系諸侯たちは、オスマン朝に対抗するためティムールに泣きつきます。とくに領地を捨てティムールの元に奔ったトルクメン族長たち(具体的には黒羊朝のカラ・ユースフら)の処遇を巡ってバヤジット1世とティムールは鋭く対立しました。引き渡しを求めるバヤジット、拒否するティムール。両者の対立は不可避となります。
 1402年、ティムールはバヤジット1世を討つべく20万の大軍でアナトリアに入りました。バヤジットはコンスタンティノープルを包囲中でしたが、急報を受けバルカン諸侯の援軍を加えた12万の軍勢で迎え撃つべく出陣します。兵力こそ劣るものの、数々の輝かしい戦功を誇るバヤジットは負ける気がしなかったでしょう。また歴戦のオスマン軍も精鋭でした。この頃常備歩兵軍団イェニチェリも創設されスルタンの親衛隊として付き従います。
 1402年7月20日、両軍はアナトリア高原中央アンゴラ(現アンカラ)でぶつかりました。両者は一歩も譲らず激しく戦います。特にスルタンの親衛隊イェニチェリの奮戦は目覚ましいものでした。ところが、突如オスマン軍の背後にいたトルコ系諸侯がティムール軍に寝返ります。あらかじめティムールが調略していたと言われますが、これが戦いの行方を決定付けました。皮肉にも最後まで戦ったのは臣従して日の浅いセルビア軍騎兵隊だったと云われます。
 両翼がティムール軍に撃破され崩壊、バヤジット1世はイェニチェリ軍団と共に敵中に取り残されました。逃げようとしたバヤジットは乗馬を射られ、一子とともに捕らわれます。オスマン軍初めての大敗北でした。捕虜となったバヤジット1世は、ティムールに手厚く遇されました。しかしバヤジット1世が逃亡を図ったため、以後格子付きの輿で連行されます。失意のバヤジット1世は翌年三月異郷の地サマルカンドで生涯を終えました。享年43歳。
 その後、ティムールは念願の明遠征の壮途に就きますが途中シルダリア河畔オトラルで猛吹雪に遭い波乱の生涯を閉じます。1405年2月の出来事でした。
 アンゴラの敗戦によって一時的に滅亡したオスマン帝国はどうやって復活を遂げたのでしょうか?次回は瓦礫の中から立ち上がったオスマン朝と征服者メフメト2世のコンスタンティノープル征服を描きます。

大オスマン帝国Ⅱ  オルハンとムラト1世

 オスマン君侯国が最初に都と定めたブルサはどのような都市だったでしょうか?2015年の人口統計では、イスタンブール(1486万)、アンカラ(532万)、イズミル(416万)に次ぐ第4位283万の人口を誇ります。14世紀当時の人口は分かりませんが、ある程度の人口(数万)はいただろうと想像できます。
 荒涼たる高原が広がるアナトリア半島は、古代からの通商路の要衝に当たる内陸のアンカラ(当時はアンゴラ)を除き、人口の大半はエーゲ海沿いの西部とトレビゾンドを中心とする黒海沿岸の北部に集中していました。ブルサを都としたオスマン朝初期の領土はだいたいアナトリア半島の5%程度。総人口も10万いたかどうか分かりません。人口の3%が外征兵力ですから3千程度の軍隊しかもたない弱小国でした。
 オスマン・ベイの子で2代君侯(べイ)を継いだオルハン(在位1326年~1362年)は、ブルサを根拠地としビザンツ領への侵攻を開始します。普通ならこのような弱小国が勢力を伸ばすのはあり得ないのですが、ちょうどビザンツ帝国は衰退期に入っておりバルカン半島側で強大化したブルガリアとセルビアも互いに争いこの地方は権力の空白地帯になっていました。
 初期のオスマン軍は、トルコ系遊牧民を主力とする騎馬軍でした。数で劣っても機動力でビザンツの地方軍を圧倒できたのです。オルハンが一代で征服した領土はアナトリア西北部のボスポラス海峡からダーダネス海峡まで。面積でアナトリア全体の15%ほどでしょうか?ここまで来るとある程度国家としての基盤を確立したとも言えます。
 国家としての形が固まると、オルハンはこれまでのようなトルコ遊牧民たちの武勇に頼ることに不安を感じ始めます。遊牧民は確かに強かったのですが、反面自主性が強く君侯の命に絶対服従したわけではありません。時には命令違反もあり、今後の拡大路線にとって障害になる事は明らかでした。
 
 その点オスマン家は辺境で育っていただけに柔軟な考えを持っていました。ビザンツの傭兵制度に目を付け、オスマン家独自の常備軍を構想します。最初はトルコ系から選抜した騎兵ミュッセレムと歩兵ヤヤから成る部隊でした。軍役中は日給を支給され平時は免税特権を受け農業に従事します。これが後にキリスト教子弟から徴兵された常備歩兵軍団イェニチェリに発展するのです。
 第3代君侯にはオルハンの子ムラト1世(在位1362年~1389年)が即位します。依然としてベイ(君侯)を自称していました。まだスルタン(イスラム世界の世俗君主の称号)を名乗らなかったのは、そこまでの勢力になっていないとの自覚なのでしょう。
 ムラト1世は、祖父オスマン、父オルハンを凌ぐ英主でした。大人口(推定100万)を誇る帝都コンスタンティノープルの攻略を目指しバルカン半島へ進出します。ビザンツの帝都周辺は人口密集地でオスマンの兵力での攻略はまだ無理でした。そこでムラト1世は、帝都周辺以外のバルカン半島のビザンツ領を蚕食します。この時ビザンツのバルカン半島における重要都市アドリアノープルを征服しました。以後この都市はエディルネと改称されオスマン第二の首都となります。
 ビザンツ帝国は、首都周辺とギリシャの一部を残してほとんどの領土をオスマンに奪われました。ムラト1世の晩年、スルタン号を名乗るにふさわしくなったと思ったのでしょう、ようやくスルタンを名乗り始めました。以後オスマン君侯国は帝国となって行きます。
 急速に拡大したオスマン帝国に危機感を抱いたセルビア、クロアチア、ボスニア、アルバニアはオスマンに臣従していたブルガリアを誘い反トルコ十字軍を結成、1386年ムラト1世に挑戦しました。オスマン軍はこれをニコポリスで破り、1389年にはコソボの戦いで止めを刺します。ところがこの戦いの最中、ムラト1世はセルビア人貴族ミロシュ・オビリチに殺されました。
 戦死したムラト1世の後を継いだのは息子バヤジット1世。スルタンが亡くなってもオスマン帝国の拡大路線は頓挫しませんでした。次回はバヤジット1世のバルカン征服とアンゴラの戦いを描きます。

大オスマン帝国Ⅰ  オスマン家のルーツ

 現在トルコといえばアナトリア半島(小アジア)とバルカン半島の一部(トラキア地方)を領土とする国を指します。ところがトルコ民族としては最も西に位置し、ほとんどのトルコ民族はトルキスタンと呼ばれる地域に住みました。その地域は広大で、国でいえばカザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、キルギス、タジキスタンを中心にアフガニスタンのヒンズークシ山脈より北部、支那の実効支配する新疆ウイグル自治区を含みます。面積はインド亜大陸より広いと言われます。
 古代トルコ民族の居住区はもっと広大で東はモンゴル高原、西はイラン辺境部、ウクライナまで及びました。トルコ民族発祥の地はモンゴル高原西部だと言われます。隣接するモンゴル民族とはきわめて近く、違いはモンゴル語とトルコ語だけ。それも東洋史学者宮脇淳子先生によれば方言の違いにすぎないそうです。
 古代支那の史書に出てくる狄や匈奴はトルコ系民族だったと言われます。その後丁零、高車と続き突厥の時に大遊牧帝国を築きました。突厥はトルコの漢訳です。突厥の時代に現在のトルキスタンと呼ばれる地域に住み始めたと言われます。逆にモンゴル高原はモンゴル民族が広がり地域の名になりました。
トルキスタンといっても、すべてトルコ民族が占めているわけではなく様々な民族が住みます。タジキスタンを例に挙げると多数派はイラン系のタジク人でウズベキスタンももともとはソグド人というイラン系民族が定住していました。トルキスタンはトルコ語が通じる地域という側面もあり、上で挙げた国々はトルコ諸語を公用語にしています(タジク語だけ例外)。
 トルコ民族は、セルジューク・トルコの西アジア進出開始(11世紀)以降イラン、イラク地方にも猛威を振るい特にイランではサファヴィー朝、アフシャール朝、ガージャール朝も支配民族はトルコ系でした。イランの民族王朝パフラヴィー朝が成立したのはなんと1925年です。
 トルコ民族が西アジアに進出した原因はイスラム教を奉じるアラブ人がこの地域を征服したからでした。もともと砂漠の剽悍な民族だったアラブ人は、支配者としての贅沢に慣れるにつれ堕落していきます。剣とコーランの両方で異民族を支配していたアラブ人ですが、剣である軍事力が堕落によって弱まります。かといって現地民族を兵士として採用するとアラブ人支配を覆される危険がありました。そこでアラブ人たちは、中央アジアに出現したトルコ人に目を付けます。彼らを傭兵として雇う事で、自分たちの支配を盤石なものにしようと考えたのです。これが軍人奴隷マムルークの発祥です。
 が、世の中そんな甘い話は無く結局軍人奴隷であるマムルークのトルコ人たちが実権を握り支配者のアラブ人たちを追放し自分たちの王朝を開きました。アラブ人はトルコ人のために露払いをしたという皮肉な見方もあります。セルジューク朝による征服も、前段階としてマムルークたちによる西アジア進出があったからでした。
 ところで、セルジューク朝を開いたセルジューク家はオグズと呼ばれる集団に属しました。オグズは現在ではトルクメン人と呼ばれます。トルクメンとはもともと『トルコに似たもの』というのが語源だそうですが、トルコ民族で間違いありません。トルコ民族が西アジアに進出した過程で、民族の伝統を守り続けた者が純粋なトルコ人だと呼ばれたのに対し、柔軟に現地の文化を取り入れた集団がオグズと呼ばれ区別されたにすぎません。

 オグズは24氏族で形成されていたそうですが、そのうち有力な6氏族はそれぞれ有力な王朝を開いています。

クユク氏 → セルジューク朝
バユンドゥル氏 → アクコユンル(白羊朝)
イウェ氏 → カラコユンル(黒羊朝)
サルグル氏 → サルグル朝
アフシャル氏 → アフシャール朝
カユグ氏 → オスマン朝
 本シリーズで取り上げるのはカユグ氏に属するオスマン家です。1071年セルジューク朝のスルタン、アルプ・アルスラーンがマラズギルトの戦いでビザンツ帝国を破るとアナトリア地方はセルジューク朝に従ってきたトルコ人たちの進出を許しました。オスマン家もその中の一つで、アナトリア西北部かろうじて残ったビザンツ領との国境近くに定着します。
 辺境というのは、双方の文化を取り入れる事ができるので意外と発展しやすいものです。その典型はエトルリア人とラテン人の勢力の境界に誕生した都市国家ローマで、アナトリア西北のオスマン君侯国も似たような立場でした。遊牧騎馬民族であったオスマン家は、ビザンツの不満分子を受け入れ歩兵戦術、攻城法を学びます。これがのちの大発展につながったのでしょう。
 オスマン朝を建国したオスマン・ベイ(オスマン1世、在位1299年~1326年)は、突如国家を建設したというよりその前の君侯国時代の基盤あってのものでした。数々のエピソードがありますが史実と言い難いものもありはっきりしません。ただオスマン朝が1326年ボスポラス、ダーダネス海峡にはさまれた内海マルマラ海に近いブルサを落とした事は大きな事件でした。それまでガーズィーと呼ばれるイスラム教を奉じジハードを行う戦士集団(実態は夜盗に近い)と見られていたオスマン朝が国家として初めて認識されたからです。
 オスマン・ベイは1299年主家ルーム・セルジューク朝から独立を宣言します。ブルサ占領は二代オルハン時代でした。オスマン・ベイはブルサ包囲戦の途中に没します。ブルサはオスマン朝最初の首都となりました。
 次回は、オスマン朝の発展とムラト1世のバルカン進出を描きます。

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