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2017年8月

2017年8月 4日 (金)

源平合戦14 幕府成る日(終章)

 奥州合戦によって1180年以仁王の乱から始まる治承・寿永の乱所謂源平合戦は終わります。この間、栄華を誇った平家は滅亡し、源氏側でも源三位頼政、木曽義仲、源義経が亡くなりました。鎌倉にあって着々と政権基盤を固めた頼朝が最終的勝利者となったのです。
 いやもう一人いました。後白河法皇です。法皇もまた激動の戦乱の世を渡りきり、日本一の大天狗と称された権謀の才で生き残りました。1190年10月、頼朝は大軍を従え上洛の途につきます。法皇はじめ都の貴族たちは賀茂の河原に車を出し、東国の覇者を眺めたそうです。以後一ヶ月頼朝は京に滞在します。後白河法皇、後鳥羽天皇に拝謁し、特に法皇とは余人を交えず長時間語りあったと伝えられます。
 頼朝の目的は、内乱鎮圧のために朝廷から与えられていた日本国総追捕使、総地頭の権限の永続化でした。そのために、今では単なる名誉職となっていた征夷大将軍職を望みます。将軍となり幕府を開く事で、日本支配の正統化を図ったのです。幕府は柳営とも呼び、本来は将軍が任地で設けた陣地あるいは出先機関のことです。すでに実質的に鎌倉政権は天下の権を握っていましたから、幕府という名分を欲しました。
 法皇側も頼朝の狙いは十分承知しています。11月9日正二位権大納言・右近衛大将という武家では最高の官位を与えたものの、征夷大将軍職任官だけは頑なに拒否しました。頼朝は12月3日、両官を辞任します。どちらも朝廷に出仕しなければならない役職で、鎌倉に帰れなくなるのが理由でした。頼朝は盟友九条兼実と面会し善後策を協議します。結論としては法皇が生きている間は将軍職就任は難しいだろうという事になりました。
 12月14日、日本国総追捕使、総地頭の延長、恒久化で頼朝は一応満足し鎌倉に帰還します。後白河法皇最後の抵抗でした。1192年3月、その後白河法皇が俄かに病を発し崩御しました。享年66歳。これで障害は無くなり、関白九条兼実の尽力で頼朝は念願の征夷大将軍職を得ます。鎌倉幕府成立の時期がいつか議論になる所ですが、幕府という名前の由来を考えればやはり1192年が妥当でしょう。

 1193年5月、得意の絶頂であった頼朝は、富士の裾野に御家人を集め大規模な巻狩りを挙行しました。実はこの時曽我兄弟の仇打ち事件が起こるのですが、真相は頼朝暗殺計画ではなかったかとも噂されます。この混乱は尾を引き、頼朝の弟三河守範頼ですら謀反の疑いを受け伊豆へ流罪となりました。範頼はさらに伊豆修善寺に幽閉され誅殺されます。無実だったと言われますが、猜疑心の強い頼朝は自分のライバルになり得る源氏一族は兄弟であっても生かすつもりはなかったのでしょう。安田義定、一条忠頼ら甲斐源氏の有力者も頼朝によって粛清されます。独裁者の晩年はこのように暗いものになりがちですが、頼朝としてはせっかく開いた鎌倉幕府を盤石にしたいという強い思いがあったことも確かでした。

 1195年2月、頼朝は東大寺再建供養出席を名目に再び上洛します。その真意は後鳥羽天皇の妃に長女大姫を入れ外戚になることでした。ただこれは丹後局や院近臣土御門通親の妨害に会い失敗します。すでに実質的に天下人であった頼朝が何故外戚になろうと考えたのでしょうか?ここは理解に苦しむ点です。頼朝の盟友九条兼実も自分の娘(中宮任子)を入内させていましたから、両者の関係は冷え込みました。そもそも大姫入内問題は中宮任子が皇子を生まなかった事から起こります。

 鎌倉幕府の後ろ盾を失った九条兼実は、廷臣から離反され1196年11月関白の地位を追われました。一方、頼朝ですが盟友兼実を裏切ってまでごり押ししようとした大姫入内は1197年7月彼女の病死によって失敗に終わります。思えば大姫は、許婚木曽義高殺害に始まり父親の野望の犠牲になった生涯でした。1198年1月、後鳥羽天皇は頼朝の意向を無視して土御門通親の娘が生んだ土御門天皇に譲位します。結局一番得をしたのは通親でした。

 危機感を抱いた頼朝は、九条兼実に書状を送り再度の提携と次女三幡姫の入内を画策しますが後の祭りとなります。九条兼実とともに有力な頼朝党だった従二位権中納言一条能保(頼朝の同母妹坊門姫の婿)も1197年10月病死するなど頼朝の朝廷に与える影響力は減少しつつありました。これが三代将軍実朝暗殺後起こった承久の乱の遠因となります。

 征夷大将軍職を得て幕府を開いた頼朝は、これで人生の目的を果たしたのでしょう。以後は失敗続きでした。1198年12月27日、落馬が原因で頼朝は意識を失います。そのまま回復せず翌1199年1月13日波乱の生涯を閉じました。亨年53歳。




 頼朝の開いた鎌倉幕府は、頼家、実朝と続きますが源氏の嫡流は三代で途絶えます。その後、正室政子の実家である執権北条氏が台頭、幕府を主宰しました。鎌倉幕府は、日本で初めての武家政権です。それまでの摂関政治や院政を終わらせ武士の世を開いた頼朝の功績は図り知れません。頼朝は、まさに古代政治に止めを刺し中世という時代を幕開けさせた不世出の英雄と言えるでしょう。



                                (完)

源平合戦13 奥州合戦

 頼朝が後白河法皇に設置を認めさせた守護・地頭の制度。厳しい言い方ですが、義経が鎌倉政権に対して成した最大の功績が守護・地頭でした。謀反人義経追捕という大義名分で、鎌倉政権は日本全土に守護と地頭を設置します。
 守護とは、その国の軍事・警察権を司ります。原型は令外官の追捕使ですが、鎌倉政権によって制度化し室町時代には行政権まで握って守護大名に発展しました。鎌倉時代は守護奉行人と呼ばれます。ただ、守護の役職は自弁なので地頭という根が必要でした。地頭は荘園・公領の軍事警察徴税行政権を握ります。荘園の収穫の半分を兵糧米として徴収でき、これによって京の貴族たちによる荘園支配が瓦解しました。
 平家没官領が全国で五百か所。それに加え親平家の貴族、武士たちから没収した領地は恩賞として功績のあった御家人たちに与えられます。彼らは荘園の地頭職を御恩として、鎌倉殿に奉公をする事になります。御家人の功績を公平に評価し、しかるべき荘園の地頭職を与えるのは大江広元、三善康信たち側近の官僚団でした。彼らの高い実務能力なしには成しえなかった事で、鎌倉政権と以前の平氏政権との大きな違いだったと思います。
 1186年3月、頼朝は後白河法皇に圧力をかけ摂政近衛基通を辞任させます。代わって親鎌倉派の九条兼実が摂政に就任しました。朝廷に大きな楔が打ち込まれたわけです。頼朝にはもう一つ大きな仕事が残っていました。全国で唯一鎌倉殿の指示に従わない勢力、奥州藤原氏討伐です。
 藤原氏の当主泰衡は、頼朝の圧力で自分の下に亡命していた義経を攻め滅ぼしました。頼朝に敵対する意思はありません。しかしその存在自体が頼朝には邪魔でした。頼朝は、泰衡に対し「生け捕って引き渡せという命令を無視し勝手に義経を攻め殺した」と言いがかりを付け1189年7月、大軍を動員し出陣します。
 頼朝自らが率いる大手軍は勇将畠山重忠を先陣に下野国(栃木県)から攻め込みました。常陸国(茨城県)から攻め込む東海道軍を指揮するのは八田知家、千葉常胤。越後国(新潟県)から出羽方面に日本海沿いに進軍する北陸道軍の指揮官には宇佐美実政、比企能員らが選ばれます。総勢二十八万騎と号する未曽有の大軍です。ただ当時の人口、生産力からこの数字は現実的ではなく合わせて十万位が妥当だろうと思います。
 謀反の意思は毛頭ないと泰衡は弁明に努めますが、最初から聞く耳を持たない頼朝に対しては無駄でした。覚悟を決めた泰衡も奥州勢十七万騎を集めたと言います。これも実数ではなく多くても五万は超えなかったのではないかと考えます。
 奥州勢は、陸奥国阿津賀志山(福島県伊達郡国見町)に城壁を築き、阿武隈川の水を引き入れ鎌倉勢に備えました。この方面を指揮するのは泰衡の異母兄国衡で兵力二万。1189年8月、鎌倉軍は阿津賀志山の国衡勢に襲いかかります。長年戦に慣れた鎌倉軍と百年の太平を貪った奥州勢では勝負になりませんでした。鎧袖一触わずか一日の戦いで大将国衡が討たれ奥州勢は壊滅します。

 戦らしい戦があったのはこの一度だけ。後は怒涛の如くなだれ込む鎌倉軍の前にただ逃げまどうのみでした。8月22日には早くも頼朝の本隊が藤原氏の本拠平泉に達します。泰衡はすでに逃亡した後でした。泰衡は、蝦夷ヶ島(北海道)から大陸への逃亡を企てますが、9月2日比内郡贄柵(秋田県大館市)で家臣の河田次郎に裏切られ殺害されました。百年の栄華を誇った奥州藤原氏はここに滅亡します。頼朝は名実ともに天下人となったのです。
 頼朝は、葛西清重を奥州総奉行に任命し戦後処理を任せると鎌倉に帰還しました。あっけなく滅びた奥州藤原氏ですが、1189年12月には遺臣大河兼任が主君の仇を討つと称し出羽国で反乱を起こします。兼任の反乱は大規模なもので鎮圧に苦労したそうですが、逆にこれで鎌倉の奥州支配は強化されることとなりました。
 頼朝にとって残された敵は京都の後白河法皇でした。すでに現実的には天下人である頼朝に欲しいのは名分です。頼朝と法皇は征夷大将軍職を巡って虚々実々の駆け引きを繰り返すことになります。
 次回、源平合戦終章『幕府成る日』に御期待下さい。

源平合戦12 義経最期

 壇ノ浦勝利の吉報が鎌倉にもたらされた時、頼朝は亡き父義朝の菩提を弔う法要を営んでいたそうです。非業に倒れた父、自身の二十年の流人生活を思い頼朝は感慨深かったでしょう。しかし感傷に浸ってはいられません。今では鎌倉殿と尊称され天下人となったのです。ただそれを完全なものにするには院政復活を目論む後白河法皇との対決が待っていました。
 さて、当面の問題は弟義経でした。1185年4月15日、頼朝は義経と共に勝手に官位を受けた御家人たちの鎌倉帰還を禁じます。生き残った平家所縁の人たちの戦後処理はまず堂上平家の平時忠を能登に配流。安徳天皇の生母建礼門院徳子は後白河法皇の意向もあり京都大原で出家、寂光院で余生を過ごすこととなります。残るは平家の棟梁宗盛とその子清宗の処分でした。義経は宗盛父子を護送し鎌倉に向かいました。
 ところが頼朝は義経の鎌倉入りを拒否、郊外の山内荘腰越の満福寺に止めます。驚いた義経は、頼朝側近大江広元に対し自分が叛意などないこと、兄頼朝に忠誠を誓っている事などを記した有名な腰越状を送りました。が、頼朝の心は動かず京都への帰還を命じます。宗盛父子は、途中近江国篠原で斬首されました。取り付く島の無い頼朝の態度に義経は絶望します。しかし今日の事態を招いたのが他ならぬ自分である事を義経は最後まで理解できていませんでした。
 悄然と京都に戻った義経を、後白河法皇はますます優遇します。従五位下左衛門尉・伊予守に任官。ついに頼朝に対する謀反を決意した義経は、河内、紀伊あたりで蠢く叔父新宮十郎行家と結びました。またしても行家の登場です。この野心ばかりあって実力の伴わない小人は疫病神でした。義仲が滅ぼされ、今度は義経に取り憑いたわけです。義経が謀反人行家と結んだ事を知った頼朝は、御家人土佐坊昌俊を送りこみました。土佐坊は手勢を率い義経の堀川館を襲撃しますが、義経はこれを撃退します。

 怒った義経は、1185年10月後白河法皇に迫り頼朝追討の院宣をもらいました。法皇としては願ってない展開です。頼朝と義経が互いに殺し合ってくれれば源氏政権が滅び院政は盤石となるからです。ところが義経にとっても法皇にとっても誤算だったのは、義経に人望がなく味方する武士がほとんどいなかった事でした。京都に近い摂津源氏多田行綱ですら、鎌倉に忠誠を誓い義経に公然と敵対します。九州における永遠の不満分子緒方三郎惟義のみが義経に味方すると宣言、11月義経は惟義と合流しようと船団を組んで出航しました。ちなみに惟義が義経を迎えるために築城したのが戦国時代難攻不落と名高い岡城(大分県竹田市)だったと伝えられます。

 11月6日、摂津大物浦を出た義経一行は途中暴風雨に遭い難破、義経は摂津に戻されます。11月7日頼朝は後白河法皇に圧力をかけ義経のすべての官位を剥奪させました。法皇は頼朝の要求に屈し今度は義経を朝敵と定め追討の院宣を出します。信じていた法皇にまで裏切られた義経の惨めさはどうでしょう。法皇としても義経を切り捨てなければ自分の身が危なくなるのです。

 11月25日、謀反人義経、行家追討の院宣が出され、親義経派、頼朝追討の院宣に関わった公卿が解任されました。義経は郎党や愛妾白拍子の静御前と共に逃亡します。途中吉野山で足手まといの静と別れ、自分を保護してくれる奥州の覇者藤原秀衡を頼って平泉を目指しました。加賀国安宅の関(小松市)における勧進帳のエピソードは歌舞伎などで有名です。史実かどうか分かりませんが似たような事があったかもしれません。

 義経を利用して頼朝追討を画策したのは後白河法皇の大きな失点でした。鎌倉では政所別当大江広元の献策で法皇に対し義経追捕を名目とする守護・地頭の設置を要求します。法皇もこれを認めざるを得ませんでした。ただ平泉に逃げ込んだ義経に関してはしばらく放置します。奥州藤原氏は、陸奥出羽両国を支配し簡単に滅ぼせるような勢力ではなかったからです。

 1186年、頼朝は側近の中原親能を京都守護に任じ送りこみます。これが六波羅探題の前身で、ほかにも頼朝は舅北条時政に千騎を与え上洛させ、院を恫喝しました。5月、野望多き新宮十郎行家も捕えられ斬首。頼朝と奥州藤原氏の冷戦が続く中、1187年10月頼みの綱秀衡が病没します。義経は藤原氏の兵を借りて頼朝と対決するつもりでしたが、夢と消えました。藤原氏の後を継いだのは嫡男泰衡。頼朝は気の弱い泰衡に圧力をかけ謀反人義経の引き渡しを命じます。

 圧力に屈した泰衡は、1189年4月義経の住む平泉郊外の衣川館を急襲しました。わずか十数騎の義経主従は必死に防戦しますが多勢に無勢。郎党たちが次々と討たれます。覚悟を決めた義経は、持仏堂に籠りまず正室河越氏と4歳の娘を殺しました。そして自らも自刃し波乱の生涯を閉じます。享年31歳。



 義経は死にましたが、潜在的敵対勢力である奥州藤原氏を頼朝が許すはずはありませんでした。次回、奥州合戦を描きます。

源平合戦11 平家滅亡

 一の谷の戦いの後、鎌倉の頼朝は後白河法皇に対し日本全国の武士の横領・狼藉停止の命令とその実行を頼朝に委託する旨の院宣を出すよう要求します。これは実質的に頼朝が天下人となることと同義ですが、現実に軍事力で京都を制圧している頼朝の要求を法皇は認めざるを得ませんでした。その分不満は内在し、義経を利用し兄頼朝と対抗させることで巻き返しを図ろうと画策します。

 

 

 鎌倉政権は着々とその基盤を固めて行きました。1184年10月、公文書の管理、指揮命令、訴訟、財政の実務機関として公文所(後の政所)が新設されます。初代別当(長官)には大江広元が任じられました。また訴訟の審理・頼朝の採決を助ける機関として問注所も設けられます。こちらは三善康信が執事となりました。頼朝の天下を名実ともに実現するには平家を滅ぼす事でした。ただそれで終わりではなく、今度は院政復活を目論む後白河法皇との対決が待っていました。

 

 

 屋島の戦勝の結果、今回の源氏軍の総大将には九郎判官義経が任じられます。これは水軍の指揮のみで、陸軍は三河守範頼が握っていました。義経は摂津渡辺水軍、熊野水軍に加え伊予の河野水軍を味方に付けます。総兵力840隻。これに対し平家軍は軍船500隻だったと伝えられます。

 

 

 1185年3月25日運命の海戦は始まりました。負けると後の無い平家方は総大将知盛を中心に必死で戦います。戦場となった壇ノ浦は関門海峡のもっとも狭くなったところで、少数の側が多数の敵を迎え撃つには最適でした。平家はこの海戦に運命を賭けるつもりで、安徳天皇、生母建礼門院(清盛の娘徳子)、二位の尼(清盛の正室時子)など女性たちも最後尾の大船に乗って戦いの帰趨を見守ります。

 

 

 関門海峡は潮の流れが激しく、これを熟知した平家方が有利に戦いを進めました。義経軍は関門海峡の瀬戸内海側入り口満珠島、干珠島まで追いつめられたと言います。水上の戦いに慣れていない源氏方は苦戦します。業を煮やした義経は、平家方の水手、梶取(漕ぎ手)を弓で射るよう命じました。本来、海戦の場合非戦闘員の水手(かこ)は殺さないのが暗黙のルールでしたが、背に腹は代えられなかったのでしょう。軍記物では英雄的な決断だと持て囃されますが、多くの鎌倉武士はこの事で義経を見限ったとも言われます。

 

 

 水手を殺されて軍船のコントロールを失った平家方は、潮の流れが逆に変わり東から西に移った事で崩れ始めました。敗北を悟った平家方では、まず安徳天皇を抱いた二位の尼が入水。次いで女官たちが次々と身を投げます。三種の神器もこの時水没しました。安徳天皇と女官たちの最期を見届けた総大将知盛は、乳兄弟平家長と自害、享年34歳でした。教盛、経盛、資盛、教経ら平家の名ある武将たちも後に続きます。平家の棟梁宗盛も水に飛び込みますが命を惜しんで浮かび上がり泳いでいたところを捕えられました。安徳天皇の生母建礼門院は、入水するも着物が敵兵の薙刀に引っ掛かり生け捕られます。

 

 

 このほか、平家方で生き残ったのは二位の尼の弟平大納言時忠らごく少数でした。栄華を誇った平家はここに滅亡したのです。しかし全滅したわけではなく、日本各地に平家落人伝説が残ります。戦後、義経は建礼門院や宗盛ら捕虜を連れ京都に戻りました。範頼はなおも現地にとどまり戦後処理を担当します。

 

 

 

 

 京に帰還した義経は、都の人々に持て囃され凱旋将軍として得意の絶頂でした。後白河法皇は煽てに煽て、義経と彼に従っていた御家人たちを任官させます。さらに義経は、時忠の娘を娶った事が頼朝に知られ激怒されます。政治力も気配りもない義経は、何故兄頼朝が怒っているか理解できなかったのでしょう。頼朝の許可を得ず勝手に任官する事は、鎌倉政権の統制に関わる大問題でした。恩賞を与えるのはあくまで頼朝。朝廷の官位を与えるにしても頼朝の推薦が無ければ許されません。

 

 

 それを弟の義経自身が破ったのです。頼朝は怒りというより余りの弟の無能ぶりに目の前が真っ暗になったはずです。頼朝は、愚かな義経が法皇に利用され自分に牙を向く事を恐れます。そして現実的にそうなりつつありました。

 

 

 

 次回、腰越状事件、義経の謀反、義経の奥州逃亡について語りましょう。

源平合戦Ⅹ 一の谷から屋島へ

 正五位下斎院次官中原親能。鎌倉軍が1184年1月入京した時、人々は範頼や義経の名を知らず親能が総大将だと勘違いしたそうです。京で長年暮らして事情に明るい親能なくしては院や朝廷との交渉など不可能だったでしょう。範頼や義経はあくまで軍事面での総大将に過ぎず、実質的には親能が頼朝の意向を受けてすべての外交交渉、占領行政を司ったと言っても過言ではありません。ここが義仲軍との大きな違いでした。後白河法皇も、鎌倉軍を侮れないと悟ります。
 親能は摂関家の右大臣九条兼実と父の時代から親交が深く、院に対抗するため急接近します。九条兼実は元関白藤原忠道の第六子ですが、兄弟の近衛基実、松殿基房が摂政・関白を歴任する中1166年から1186年まで二十年も右大臣に留め置かれます。そのため、時の権力とは距離を置きその栄枯盛衰を冷めた目で見続けました。そんな兼実に絶好の機会が到来したのです。
 ライバル松殿家は、義仲の滅亡と共に没落。近衛家も平家との結び付きがあったためおとなしくしていました。兼実も九条家興隆のためには鎌倉の頼朝と結ぶことが不可欠だと考えます。ここに鎌倉と九条家と暗黙の同盟ができるのです。ただ院政復活を目論む後白河法皇としては、摂関家が再び力をつける事は好ましくなく院対鎌倉・九条家という対立の構図ができました。
 頼朝と義仲が血みどろの死闘を続けていた中、九州に落ちのびていた平家は強大な水軍を組織し再び摂津まで進出します。六万の陸兵を擁しかつての拠点福原に布陣し、京都奪還を虎視眈々と窺いました。後白河法皇は、秘かに平家に使者を送り和睦を画策します。今度は平家と頼朝を競わせようというのです。
 法皇の動きを察知した頼朝は、1184年1月26日軍事力を背景に法皇に平家追討の院宣を出させます。こうして源範頼、義経を大将とする源氏軍六万は平家を討つべく摂津に向かいました。範頼率いる主力の五万は生田口で平家軍主力知盛率いる五万と対峙します。平家側では、源氏軍が北方から回り込む事を警戒し教経に一万を与えて警戒させました。
 福原すなわち現在の神戸は六甲山が北に聳え瀬戸内海と挟まれた狭い土地です。教経の別働隊は一応の警戒のための配置で背後の一の谷だけは断崖絶壁でとても馬が駆け降る事ができないと防備は手薄でした。次将義経率いる一万は別働隊として丹波路を進みます。福原の北方に達した義経勢は、大部分を安田義定、多田行綱に授け教経勢に当たらせるため山手の夢野口に向かわせました。さらに土肥実平、熊谷直実らに三千を与え平家軍の背後に回らせました。
 義経自身はわずか七十騎余りを引き連れ、一の谷の断崖から真っ逆さまに駆け下ります。関東武士が馬の扱いに慣れていたこともあったでしょうが、まさかこんな方面から敵が攻めてくるとは夢にも思わない平家軍は大混乱に陥りました。平家軍は、沖合に軍船を浮かべていたこともあり、その場に止まって抵抗する気はなく我先に船に飛び乗って逃げ出しました。こういう面を見ても、平家軍の士気の低さが分かります。そしてこれは屋島でもまた繰り返されるのです。
 一の谷の鮮やかな勝利で、無名だった義経は名前を知られることとなりました。総大将範頼と中原親能は頼朝に戦況を報告するため一時鎌倉に帰還します。義経が残り京都の治安維持を任されました。慎重な範頼や、朝廷を知り尽くしている親能と違い、世間知らずの義経は後白河法皇にとって利用価値が高い存在でした。何かとちやほやし優遇します。8月6日、法皇より左衛門少尉、検非違使に任ぜられました。検非違使の唐名から以後義経は九郎判官(くろうほうがん)と呼ばれることとなります。
 官位を授けられ有頂天になっている弟義経を見て、頼朝は苦々しく感じます。鎌倉政権が存続するには朝廷や院と距離を置かなければならないのです。慎重な範頼はそれを理解していましたが、義経は兄の危惧を全く気付いていませんでした。このころから兄弟の間に隙間風が吹き始めたのでしょう。軍事的才能は優れているのに政治力皆無、後白河法皇としてはだからこそ使えると踏んだのです。
 敗走した平家追討の任務は範頼に与えられました。義経は任務を外され京に止められます。頼朝の了解を得て朝廷から三河守に任じられていた範頼は、1184年8月北条義時、千葉常胤、足利義兼、三浦義澄、小田朝光、和田義盛ら文字通り鎌倉軍の主力五万を率いて西国遠征に出立しました。ただその目的は、平家討伐ではなく山陽山陰から九州にかけて平家方の武士を鎮圧し平家軍を瀬戸内海に孤立させる事でした。
 備前国藤戸で平家軍の抵抗に遭い苦戦しつつも範頼軍は長門に達します。ところが制海権を平家が握っていたため兵站が阻害され深刻な兵糧不足に陥りました。1185年1月、豊後の豪族緒方三郎惟義が味方に付いたため九州方面から物資が入り一息つきます。周防から九州の豊後に渡った範頼軍は、筑前における有力な平家党原田種直を豊前葦屋浦で撃破、大宰府を制圧し九州に確固たる基盤を築きました。
 こうして平家軍は、相変わらず瀬戸内海の制海権は握っているものの背後の九州に逃げ込めなくなり戦略的に詰みます。後は掃討するのみ。軍記物では屋島と壇ノ浦を重要な戦いとしてが来ますが、すでにこの段階で戦略的には勝負あったと私は見ます。
 一の谷で敗北した平家は、讃岐国屋島(高松市)に新たな拠点を築きました。三方を海に囲まれた半島に位置し難攻不落ともいえる所です。範頼が戦略的に平家を追い詰めつつあるので別に急いで攻める必要もなかったのですが、軍功に焦った義経は強引に出兵を決めます。後白河法皇に直談判し西国出陣を奏上、許可を得ました。頼朝の許可があったか不明です。おそらく独断でしょう。一説では頼朝が義経に求めたのは平家攻めのための軍船集めだけだったとも言われます。
 出陣の準備中、軍目付として頼朝の命を受け義経を監視していた梶原景時との間に有名な逆櫓の争いが起こりました。ただ事の本質はそのような枝葉末節な事ではなく、独断専行する義経に景時が釘を刺したというのが真相でしょう。梶原景時は頼朝が最も信頼する御家人で、ほかの武将が漠然とした戦勝報告しかできない中、戦場、戦況、戦の経過、討ち取った武将の首など詳細に報告し、頼朝は初めて満足したというエピソードもあります。
 1185年2月、摂津多田渡辺党の水軍と熊野堪増の水軍を味方に付けた義経は颯爽と渡海しました。率いるのはわずか百五十騎。暴風雨を衝いた強行軍です。こういう拙速とも言える義経の行動も慎重な景時には気に入らない所でした。自然、鎌倉に対する景時の報告が辛いものになるのは仕方ありません。しかし、義経の軍才は確かに優れていました。ぐずぐずしていては敵に少勢である事がばれると、一直線に屋島に急行します。
 平家にとって最悪のタイミングだったのは、主力軍が伊予の河野通信討伐で出払っていた事でした。屋島の背後に達した義経勢は、付近の民家に火を放ち大軍であるよう見せかけます。突如現れた源氏軍を見て平家はまたしても抵抗せず、船で海上に脱出します。もしこの時籠城して頑張れば、伊予から戻ってきた平家軍主力と挟み撃ちできたかもしれなかったのです。天運にも見放され、軍の士気も低い平家はここでもろくに抵抗せず敗北しました。
 この時、義経軍の那須与一と平家の女官の間で扇の的を射るというエピソードが起こります。しかしそんな悠長な事をする暇があったら平家は再度岸にとって返し死に物狂いで一戦すべきではなかったでしょうか?とにかく瀬戸内海における重要拠点を失った平家は長門国彦島(下関市)に逃れるしかありませんでした。壇ノ浦の最終決戦は刻一刻と近づきつつあります。
 次回、平家滅亡に御期待下さい。

源平合戦Ⅸ 粟津に死す

 頼朝の派遣した大軍が迫る中、義仲に従う武士たちはどうも義仲の将来が暗そうだと分かり始めます。後白河法皇、後鳥羽天皇を幽閉した暴挙もそうだし、大義名分でも鎌倉軍の方に分がありました。こうなると寄せ集めの悲しさ、次々と逃亡者が出てきます。叔父新宮十郎行家などは危険を察知しいち早く京都を離脱、河内国長野城に立て籠もりました。義仲は樋口兼光の軍勢を派遣しこれを撃破、たまらず行家は紀伊国に逐電し行方不明となります。
 入京を果たした時五万を数えた義仲軍は、わずか数千にまで激減していました。一方逆賊義仲討伐を唱える鎌倉軍は、参加者が相次ぎ総勢六万を超えます。この中には義仲軍から鎌倉軍に乗り換えた者もかなりいました。義仲は、鎌倉軍を瀬田で防ごうと考えます。ところが古来瀬田で防げた例はありませんでした。
 鎌倉軍の主力蒲冠者範頼指揮する本隊三万五千は瀬田に迫っていたため、義仲は腹心今井兼平に五百余騎を与え瀬田の唐橋を守らせます。宇治方面には根井行親、楯親忠ら三百騎を与え側面からの廻り込みに備えさせました。義仲は百余騎で院御所を守ります。
 鎌倉軍では、宇治方面を任せられた源義経率いる別働隊二万五千が攻めよせました。1184年1月24日、合戦の火蓋が切られます。義仲軍が矢の雨を降らせ敵軍の渡河を必死に防ぐ中、梶原景季、佐々木高綱による有名な宇治川の先陣争いが起こりました。ただ兵力差がありすぎるので、鎌倉軍の勝利は動かず誰が先陣でも結果は変わらなかったと思います。義経は、敗走する義仲勢をそのまま追撃し京都市街に乱入しました。
 義仲も手勢を率いて防ぎますが、この段階ではどのように軍才があっても逆転できるはずはなく敗北します。義仲は後白河法皇を拉致し西国に逃げようと画策しますが、義経軍が一足早く院御所を確保。義仲は、なおも粟津で頑張っている股肱の臣今井兼平と合流し、本拠北陸に脱出し再起を図ろうと考えました。
 粟津(大津市)は近江国瀬田川の西岸にあり、すでにこの戦線でも兵力差がありすぎ範頼軍の突破を許していました。粟田口から大津へ向かうべく義仲一行が琵琶湖に達した時奇跡的に今井兼平と出会います。すでに義仲一行は六十騎にまで討ち減らされていました。そこへ甲斐源氏の一条忠頼(武田信義の嫡男)の軍勢が殺到。もはやこれまでと覚悟した義仲は死に場所を求めて彷徨います。
 義仲は粟津の松原で自害しようと考えました。ところが馬が深田に脚を取られよろめきます。そこへ敵の放った矢が顔面に命中、絶命しました。享年31歳。風雲児の最期です。主君の死を知った今井兼平も、後を追って自害。同じく死を覚悟した妹巴御前だけは生け捕られたそうです。
 その頃、新宮十郎行家を追っていたため戦に間に合わなかったもう一人の股肱の臣樋口兼光も主君と兄弟の死を知ります。鳥羽まで達した時自害を考えますが、義仲の父東宮帯刀先生義賢以来浅からぬ因縁がある児玉党が降伏するよう説得、兼光もこれに従いました。範頼、義経は、義仲個人には恨みなどなかったのでこれを受け入れ、院にお伺いをたてました。ところが多くの近臣を殺され自身も幽閉されていた後白河法皇の怒りは凄まじく、結局斬罪と決まります。処刑の日樋口兼光は堂々とした態度で刑に服したそうです。

 こうして木曽冠者義仲とその一党は滅亡しました。義仲の失敗は軍事的才能はあっても政治力が皆無だった事です。実は義仲を滅ぼした義経にも共通した欠点です。頼朝だけが後白河法皇と張り合えるだけの抜群の政治力を持ち、大江広元など有能な側近団を有し天下人としてふさわしい人物でした。決して軍事力だけでは天下は取れません。頼朝が天下を制したのは当然の帰結と言えるでしょう。


 ちなみに戦国時代の木曽氏は義仲の子孫を称しました。また上杉家の家老直江兼続(元の名は樋口与六)も樋口兼光の後裔を名乗ります。時代が隔たっているのではっきりとは言えませんが、信濃や北陸に生きる者にとって義仲とその一党の歴史が深く刻み込まれていた証拠かもしれません。
 巴御前のその後ははっきりしません。義仲はじめ戦で亡くなった所縁の者たちの菩提を弔うため尼になったとも、和田義盛に所望され後妻になって朝比奈義秀を生んだとも言われます。男勝りで薙刀をひっさげ活躍したなどと軍記物で描かれますが、史実では記述がなくその存在が確認されるのみです。ただ、尼になって91歳でひっそりと生涯を終えたという話が巴らしくはあります。
 義仲滅亡によって、鎌倉の頼朝は直接後白河法皇と対決することとなりました。平家勢力はまだ残っていましたが、頼朝と法皇の見ているのは未来でした。頼朝の鎌倉武士政権が勝つのかそれとも後白河院政が復活するのか?実際の戦とは別に、表には出てこない高度な政略・外交戦が繰り広げられることとなります。京都において頼朝の意思を代弁するのは中原親能でした。そして鎌倉には親能の弟大江広元や三善康信がいます。
 次回、一の谷から屋島へと源平合戦の戦いを描きます。

源平合戦Ⅷ 平家の都落ち

 最初に富士川合戦以降の平氏政権の動向を記しましょう。1180年12月、清盛は以仁王の乱に関連し平氏政権に反抗的な態度を崩さない南都(奈良)興福寺を焼き討ちします。指揮したのは清盛の五男重衡で、このために興福寺の深い恨みを買いました。もともと平家と深い関係のある熊野ですら衆徒が騒ぎだし伊予では河野氏が兵を挙げます。
 1181年1月安徳天皇の父高倉上皇が病を発し俄かに崩御しました。安徳天皇を擁する平氏政権と後白河法皇を結ぶ細い糸が断ち切られたのです。内憂外患が続く中、2月平家の棟梁清盛が熱病におかされました。高熱に苦しめられる死の床で清盛は遺言します。
 「わしの葬儀は不要だ。墓前に頼朝の首を捧げて供養とせよ」
 1181年閏2月4日、平清盛は波乱の生涯を閉じました。享年64歳。後を継いだのは三男宗盛。清盛の正室時子の子だという以外これと言って取り得の無い無能な人物でした。多難な時期に宗盛のような人物を棟梁にせざるを得ない平氏政権の未来は暗いものになります。
 時は流れ1183年、信濃国木曽に興った木曽義仲は、横田河原、倶梨伽羅峠と相次いで平家の大軍を撃破し日の出の勢いで京都に迫りつつありました。義仲は京都を北から窺い、新宮十郎行家は伊賀、大和を経て南にから。源三位頼政敗死以来なりを潜めていた摂津源氏の多田一族も蜂起、甲斐源氏の安田義定もまた近江から京に進撃中でした。安田義定はもともと東海地方で活躍し、頼朝とは一時的に結んでいただけでした。今回も頼朝の了解を得ておらず、のちのち大きな禍根を残すこととなります。1193年義定は頼朝に謀反の罪を着せられ処刑されました。
 宗盛は、敵が間近に迫る厳しい状況を見て京都を捨てる決意をします。六波羅の居館に火を放った平家一門は6歳の幼帝安徳天皇を擁し西に去ります。この時、後白河法皇も連れ去ろうと動きますが、法皇は動きを察知しいち早く比叡山に逃れました。これが平家運命の分かれ道になります。安徳天皇と後白河法皇を擁していれば自分たちが官軍、敵を賊軍とできたはずでした。平家一門が続々と都を離れる中、清盛の異母弟池大納言頼盛がその列を外れ京都に戻ります。実は頼盛の母は頼朝の命を救った池禅尼で、頼朝から「頼盛だけは命を保証する」との確約を受けていたからでした。
 1183年7月、義仲は軍勢を整え入京を果たします。思えばこの時が義仲の絶頂期でした。7月28日叔父行家と共に蓮華王院に参上、後白河法皇から平家追討の院宣を受けます。この時義仲と行家は序列を争って譲らず、院近臣の冷笑を受けました。論功行賞ではさらなる侮辱を受けます。今回の功績第一位は鎌倉の頼朝とされ、義仲は第二、行家は第三とされるのです。政治力の無い義仲は甘んじて受け入れるしかありませんでした。
 後白河法皇としてはせっかく取り戻した院政を手放す気はなく、義仲も頼朝も徹底的に利用する気でした。法皇は義仲に京都の治安維持を命じます。ところが軍人としては有能でも、政治力が無きに等しい義仲には無理な命令でした。そもそも治安を乱しているのは義仲の軍勢なのです。義仲の軍勢は寄せ集め。田舎者揃いで、軍中に頼朝の鎌倉政権のような軍政を司ったり兵糧を集められる官僚団など存在せず、京都においても略奪暴行強姦など乱暴狼藉の限りを尽くしました。義仲自身、略奪は勝者の当然の権利と思っていたふしがあり、そのために京都の民衆は怨嗟の声をあげます。こんな状態なら平家の方がはるかにましだったとさえ言われ出す始末。
 これだけでも後白河法皇の不興を買っているのに、さらに追い打ちをかける出来事が起こりました。安徳天皇が西に去った為皇位継承の問題が生じ、後白河法皇は亡き高倉上皇の第4皇子(安徳天皇の異母弟)尊成親王(のちの後鳥羽天皇)を考えていました。そこに義仲は、自分たちが擁する以仁王の遺児北陸宮をごり押ししてきたのです。もともと以仁王自体親王宣下を受けてないくらいですから、常識があれば北陸宮に皇位継承権がないくらい理解できるはずです。しかし教養の無い義仲にそれを求めても無駄でした。
 何とか義仲の無理な要求は退けたものの、後白河法皇は義仲に深い怒りを覚えます。義仲と叔父行家の仲が悪化している事に目を付けた法皇は、わざと両者を互いに競わせ対立を助長しました。その上で、鎌倉の頼朝に使者を送り義仲追討を秘かに命じます。これに対し頼朝は上洛の引き延ばしを願い出るとともに、上洛の条件として実質的な東海道、東山道、北陸道の軍事指揮権を求めました。後白河法皇と源頼朝の虚々実々の駆け引きが行われる中、京都の義仲はすっかり蚊帳の外におかれます。
 義仲にも、法皇の怪しい動きは分かっていました。少しでも政治力を上げるため関白松殿基房の娘伊子(冬姫とも呼ばれる)を正室に迎えたり、法皇に頼朝追討の宣旨や志田義広の平家追討使への起用を求めたりします。煩わしくなった後白河法皇は義仲を召し出し、西国で勢力回復しつつあった平家追討を命じました。体の良い厄介払いです。
 義仲としては、今は平家より頼朝こそ憎き敵でした。しかし院宣とあっては受けざるを得ず渋々西に出陣します。腹心樋口兼光を都の守備に残した義仲でしたが、備中国水島(倉敷市)の戦いで平家軍に大敗、京都に逃げ戻りました。そこへ頼朝が法皇の命を受け自分に対する追討軍を発したという報告を受けます。泣きっ面に蜂とはこの事。義仲は烈火のごとく怒りますが、まさか法皇を手に掛ける事も出来ませんでした。
 それでも腹の虫は治まらず、後白河法皇、後鳥羽天皇を捕え政権を一気に奪取しようと院御所のある法住寺殿を襲います。法皇、天皇は幽閉され義仲は松殿基房の子師家を摂政とする傀儡政権を樹立。そして自らを征夷大将軍に任じました。この時処刑された者、院近臣源光長以下百余名。義仲に批判的だった公卿43名も解官されます。
 松殿家は、一時平氏と深く結びついた近衛家のために逼塞を余儀なくされますが、義仲と結び付く事で復活を図りました。ところが義仲の天下は長く続かず、義仲と結び付いた事が仇となり、摂関家から滑り落ちます。この辺り、家の浮沈は本当に難しいと考えさせられます。
 頼朝の鎌倉政権は、頼朝の弟蒲冠者範頼、九郎義経を大将として義仲追討軍を出立させます。戦奉行として京都の事情に詳しい中原親能と官僚として有能な梶原景時が同行しました。義仲は挟撃される事を恐れ平家に和睦を申し込みますが黙殺されます。絶体絶命の義仲はどのような運命を辿るのでしょうか?
 次回、宇治川の先陣争いと義仲の最期を描きます。

源平合戦Ⅶ 倶梨伽羅峠の戦い

 越後城氏は桓武平氏の一族です。清盛などの伊勢平氏とは別流で平貞盛の弟繁盛から始まります。繁盛は常陸平氏の祖で城氏は大掾氏とも近い一族でした。繁盛の嫡男惟茂の子繁成が秋田城介(出羽国司の軍事面での次官)だったことから城氏を称します。子孫は越後を中心に勢力を伸ばし中央でも検非違使を務めるなど平氏政権とも深い関係を持っていました。
 城助職が義仲追討の命を受けた時、おそらく朝廷の命で賊徒を討つという認識だったのでしょう。助職に従う武士たちも同じ考えだったはずで、だからこそ一万近い大軍になったのです。一方、義仲は中核である木曽中原一族、諏訪氏、信濃源氏の佐久党、甲斐源氏の一族であわせて三千余り。1181年6月両軍は信濃国善光寺平の横田河原(長野市)で激突します。
 負けたら後の無い義仲勢と朝廷の命で仕方なく出兵した城勢。必死になって戦った義仲勢は、寄せ集めの城勢を圧倒、義仲の適切な指揮もあり奇襲を受けて助職の本陣が崩れます。つられて城勢は全軍崩壊、この一戦の勝利で木曽義仲は北陸の武士たちに源氏の棟梁と認めさせることに成功、信濃、上野はもとより越後、越中、加賀、越前と北陸道沿いに上洛する道が開けました。
 義仲の急成長は、関東に着々と地盤を築く頼朝にとって苦々しい存在となります。さらに頼朝に逆らった叔父新宮十郎行家と志田義広が義仲のもとに逃げ込んだ事から両者の対立は決定的になりました。1183年3月、義仲と頼朝は互いに軍勢を率いて上野国で対峙。強大な頼朝の勢力と争うのは得策でないと義仲側が折れ、長男義高を頼朝の長女大姫の婿とする事で和睦が成立します。義高は鎌倉に送られ人質となりました。
 後顧の憂いを断った義仲は、軍勢を率いて上洛の途につきます。その大義名分は以仁王の遺児北陸宮を奉じる事でした。平氏政権は、富士川の敗軍の将惟盛をまたしても総大将に据え追討軍を派遣します。これを見ても平氏にやる気の無い事が分かります。滅ぶべくして滅んだのです。おそらく都での栄耀栄華に慣れ、戦争のような汚れ仕事は惟盛のような若造に任せておけばよいという奢りでした。軍勢だけは力を入れ十万。そして無能な惟盛はまたしても兵糧の調達に手間取り軍中に大きな不満を残したまま進軍しました。
 1183年5月9日、越中国に入った平家軍先遣隊は般若野(富山県砺波市)で、義仲の武将今井兼平の軍勢の奇襲を受け敗退します。これで慎重になった平家軍は越中・加賀国境沿いに陣を布き義仲軍を迎え撃つ作戦に切り替えました。惟盛の本隊七万が砺波山に、別働隊三万を志雄山に配置。義仲軍はこの時五万に膨れ上がっていましたが、それでも平家軍の半分に過ぎませんでした。
 平家軍も寄せ集めですが、義仲軍も勢いにつられて参加してきた武士ばかりで兵の質という意味では同様です。両軍の兵の質が同等という事は、平野での決戦は数が物を言うので不利だと義仲は考えました。そこで平家軍が陣を布く山中から通じる山道をすべて封鎖、麓に降りられないようにします。そのうえで、樋口兼光に三千騎を与え北から大きく迂回させ、背後の倶梨伽羅峠に向かわせました。
 1183年5月11日、運命の合戦が始まります。昼間の内は小競り合いに終始しますが、義仲はその夜手勢を率い山中に入り、平家軍の陣の上から奇襲攻撃を掛けました。この時牛の角に松明をくくりつけ暴走させるという、所謂火牛の計が行われたと軍記物には記されますが、史実かどうかは分かりません。ただ奇襲攻撃は、もともと士気の低かった平家軍を驚愕させます。真夜中ですから方向を見失い、倶梨伽羅峠の断崖に落ち絶命する者が後を絶たなかったそうです。
 潰走する平家軍を、背後に回っていた樋口勢を中心に散々追い立て十万の大軍はその半分を失い総大将惟盛はほうほうの体で都に逃げ帰りました。倶梨伽羅峠の完勝で義仲軍の京都への道は開けます。ただ、途中加賀国で義仲軍に立ちふさがる軍勢がありました。潰走する味方を纏め加賀国篠原(加賀市)で一矢報いようというのです。
 勢いに勝る義仲軍はこれを鎧袖一触、義仲は送られてきた敵将の首実験をします。なんとその人物は、かつて自分の命を救った斎藤別当実盛その人でした。すっかり白髪になっていたものの、命の恩人の変わり果てた姿を見て義仲は涙します。実盛は平家への恩忘れ難く殿軍となって自らを犠牲にしたのでした。義仲は実盛の遺骸を丁重に葬らせます。
 義仲軍は、6月10日越前、6月13日には近江に達しました。京都へは指呼の間です。入京に先立ち、義仲は比叡山に使者を送り「味方に付くのか、敵に回るのか?もし敵対するなら軍勢を派遣する」と恫喝しました。比叡山は義仲に反感を抱きますが、強大な軍勢に膨れ上がった義仲軍に抵抗するのを断念、義仲入京を黙認する態度をとります。
 次回、平家の都落ちと義仲入京を描きます。

源平合戦Ⅵ 木曽冠者義仲

 1180年(治承四年)という年は平氏にとって最悪の年でした。以仁王の乱に始まり、源頼朝の挙兵、木曽義仲の挙兵、富士川の大敗と平氏政権の衰退を窺わせるような出来事が次々と起こります。平氏の棟梁清盛は、反平氏勢力が蠢く京都を嫌い、自分たちの本拠摂津国福原に遷都を計画しました。
 1180年6月26日、以仁王の乱からわずか6日後安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇に福原御幸を仰ぎ福原に行宮を設け強引に遷都を実行します。清盛としては、隣接する大輪田泊で日宋貿易を行い福原を新都として繁栄させようという考えでしたが、福原(現神戸市)は土地が狭く、都にふさわしい陣容を築くことはできませんでした。土地が足りないため、福原に屋敷を与えられたのは親平氏派の貴族のみ。巷には怨嗟の声があふれ、かえって平氏一門に対する庶民の反感は増大します。
 結局福原遷都は大失敗し同年11月23日京都遷幸となりました。平氏政権が後の鎌倉幕府と違い安定政権を築く事ができなかったのは、朝廷と一体化し高位高官に昇ることで安心し独自の官僚機構、軍事機構を構築できなかったからだと思います。清盛は平氏の中ではもっとも政治力のある人物でしたが、彼でさえこの程度なのですから、もし重盛が長生きしていたとしても同じだったと思います。ましてや重盛亡き後後継者と目された三男宗盛では尚更無理でした。
 宗盛は、清盛の正室(後妻)平時子の長男です。血統的には申し分ないのですが、取り得はそれだけ。温厚ではあっても優柔不断でとても厳しい乱世を渡れるような人物ではなかったような気がします。本来なら四男知盛が継ぐのが平氏にとっては一番良かったのでしょうが、そうならなかったことが平氏の滅亡を暗示していました。知盛は時子の次男なので後継者となっても違和感はなかったはずなのです。
 さて、話を木曽義仲に戻しましょう。大蔵合戦で父東宮帯刀先生義賢を殺され自身も処刑される寸前、斎藤別当実盛に救われ旧知の仲だった信濃国木曽谷の豪族中原兼遠に預けられた駒王丸。兼遠は駒王丸を匿い大切に育てます。信濃中原氏は、頼朝の時に出てきた中原親能とは同族です。ただし早くに分かれ武士化し信濃権守を務めるほどの豪族でした。
 駒王丸は、兼遠の子樋口兼光、今井兼平、巴御前らと兄弟同然に育てられます。この三人が後の義仲軍の中核となりました。源平盛衰記では巴御前を義仲の側室としていますが、中原氏は武家の中では名門で簡単に側室にできるような家柄ではなく、最初は正室ではなかったかとも言われています。義仲が後に京都を制し征夷大将軍になって関白松殿基房の娘伊子を娶った時に、やむなく側室に格下げになったのではないかという説です。この説は合理性があり私も採用します。
 兼遠の妻が駒王丸の乳母となりましたから、兼光、兼平、巴とは言わば乳兄弟でした。駒王丸はこの地で元服し義仲と名乗ります。義仲27歳の時、1180年叔父新宮十郎行家が以仁王の令旨を携え木曽へやってきました。正直言うと義仲の仇は平氏ではなく自分の父を殺した悪源太義平であり、頼朝は義平の異母弟なので心中複雑だったと思います。が、源氏としては敗死した以仁王や源三位頼政に代わって平氏を討てば、嫡流となり得るわけで義仲はそこへ価値を見出したのかもしれません。どの道木曽の片田舎で一生を終える気の無かった義仲としては、乾坤一擲賭けてみる事にします。
 源氏の嫡流頼朝が平氏から謀反の嫌疑を受け挙兵に追い込まれたのに比べると、義仲は積極的に動きました。木曽谷は南西に向かうと美濃国、北東に向かうと松本平に至ります。松本平からは北に越後、東は上野、南の伊那盆地を通って遠江や三河に通じていました。伊那盆地にはすでに頼朝方の甲斐源氏の勢力が伸びていましたから、義仲が伸びるとしたら北です。中原一族や近隣の諸豪族を糾合した義仲は、1180年9月7日信濃の源氏方を救援するため善光寺平に進出、市原合戦を起こします。
 その後、父義賢の旧領のある上野国多胡郡に向かい、再び信濃に戻って勢力の基盤作りに邁進しました。この頃までには、諏訪大宮司家など信濃の有力豪族を味方に付け侮れぬ勢力に成長します。平氏政権としても放っておくことができず、越後平氏の有力者城助職に義仲討伐を命じました。助職は一万とも言われる大軍を動員し南下します。義仲の前に立ちふさがった初めての大敵です。義仲はこの危機をどのように乗り越えるのでしょうか?
 次回、横田河原合戦から倶梨伽羅峠へ義仲の戦いを見て行くこととしましょう。

源平合戦Ⅴ 富士川の戦い

 頼朝一行は石橋山の敗戦後なぜ安房国に逃れたのでしょうか?安房国は房総半島の先端で敵が攻めてきても一方を守れば良いというのが理由の一つでしょう。それに安房には頼義以来の源氏の所領もありました。加えて相模国三浦半島一帯を支配する三浦氏は水軍を握っており、平家方は海路安房を攻められない事も大きかったと思います。逆に頼朝軍は三浦水軍を使っていつでも相模国を攻められます。
 いざとなったら安房に逃げるというのが頼朝陣営の作戦でした。惣領義明を失った三浦一族も、義明の息子義澄を中心に一家を上げて安房に至ります。安房に落ち付いた頼朝は関東各地の豪族に使者を送り味方に付くよう要請しました。これに真っ先に答えたのが下総の豪族千葉介常胤でした。千葉介氏は平忠常の流れをくむ下総の大豪族で、在庁官人として代々下総権介に任じられた事から千葉介を称します。常胤は頼朝の使者を迎えると、俄かに軍勢を発し下総の平家目代の館を急襲し滅ぼしました。
 ところが千葉介氏と同じ上総権介を世襲する同族で平忠常の子孫房総平氏の大物上総介広常は、最初色良い返事をしませんでした。というのは上総介氏は京都の平氏政権ともうまくやっておりこれと言って不満が無かったからです。広常は頼朝の将来性と平家の未来を天秤にかけていたのかもしれません。頼朝としてはぐずぐずしても始まりませんから、安房で軍勢を整え北上を開始しました。
 そこへ広常は二万騎と号する大軍で参陣します。上総国は戦国末期でも三十七万石。軍記物に書かれている二万騎というのは誇張にすぎないでしょう。実数は二千騎くらいだったと思います。これに従者が三名ずつ付いたとして総勢八千。これくらいが妥当でしょう。頼朝の軍勢はこの時二千にも満たないはずですから、実に総勢の八割以上を広常の軍勢が占めた事になります。こうなると態度がでかくなるのは自然でした。最初は広常の参陣を感謝した頼朝ですが、驕慢の振る舞いを繰り返す広常を憎み三年後些細な罪を着せ誅殺しました。
 上総介氏、千葉介氏という大豪族を味方に付けた頼朝の軍勢が武蔵国境に達すると、平家方の大庭景親に味方していた畠山重忠をはじめ河越氏、江戸氏ら有力豪族たちが次々と参陣します。瞬く間に大軍に膨れ上がった頼朝は、父祖以来の所縁のある要害の地相模国鎌倉を本拠地に定めました。石橋山の敗戦からここまでわずか40日。いかに頼朝が急速に勢力を拡大したかが分かります。
 頼朝は鎌倉に入ると次々と新政策を実行しました。平家方豪族の領地を没収、功績のあった武士たちに分け与えます。鎌倉を武士政権の基礎とすべく、公平な裁判を約束しました。これがのちの御成敗式目に繋がります。関東に武士たちは、平氏政権の不公平な扱いに不満を持っていましたから頼朝を支持しました。
 なぜ流人に過ぎない頼朝が、これほどの政権を立てられたのでしょうか?それは京都の下級貴族斎院次官中原親能らが従っていたからです。親能は京都時代から源氏と深い関係があり、頼朝挙兵で自分の身が危うくなり逃亡してそのまま頼朝に仕えたのでした。親能の弟で大江氏を継いだ広元、頼朝の乳母の子だった三善康信らも前後して頼朝に仕えます。彼ら有能な官僚団が加わっていたからこそ安定政権ができたのです。高位高官は占めても、実務を司る有能な官僚団を育成できなかった平氏政権よりある意味新興の鎌倉政権の方が有利だったかもしれません。
 鎌倉武士たちは教養がなく読み書きも満足にできない者が大半でしたから、政権中枢に入れるのは教養のある武士たちに限られます。石橋山合戦の際頼朝を助けた梶原景時もこの時重用された一人です。景時は大江広元らと普通に会話できたそうです。北条家でも長男宗時戦死後弟の小四郎義時が台頭します。義時は武勇はありませんが、読書好きで景時ほどではなくとも関東武士には珍しく読み書きができました。頼朝の正室政子の弟でもあった義時が、将来台頭する芽はたしかにあったのです。
 頼朝が挙兵し、全国の源氏所縁の者どもが騒ぎだしているという報告は平氏政権を驚愕させました。清盛は、頼朝の勢力が手に負えなくなる前に叩こうと討伐軍を送ります。総大将は亡き長男重盛の嫡男惟盛。このような重要な戦に、戦場経験の無い22歳の若者を総大将に起用したのは理解に苦しみます。本来であれば平氏で一番有能な清盛四男知盛を総大将にすべきでした。平家は最初から間違っていたのです。
 平氏の鎌倉討伐軍は号して十万。ただし寄せ集めでいやいや集められた者が大半で士気は低かったと思います。頼朝に呼応し甲斐源氏の武田信義、安田義定らが挙兵、平氏の軍が着く前に駿河国府を襲撃、目代を討ち取っていました。平家軍は無能な総大将惟盛を頂いて、兵糧集めも上手くいかずボロボロの状態で富士川に達します。一方、頼朝も平家との決戦に備え総兵力をこぞって駿河に入りました。この時の頼朝軍の兵力は不明ですが、すくなくとも数万はいたはずです。
 平家は大軍だけに、兵糧の不足で内部崩壊寸前でした。1180年10月20日運命の日の夜が明けようとしていました。甲斐源氏の一党は頼朝の本軍到着前に功績を上げようと未明に軍を発し朝駆けのため秘かに富士川を渡河します。ところが眠っていた水鳥たちがこれに驚きいっせいに飛び立ちました。無数の水鳥の羽音はあたかも大軍が攻めよせたかのようでした。
 少なくとも平家軍の雑兵たちはそう感じます。もともと戦意が低い者たちですから、驚愕し我先に逃げ出します。恐怖は恐怖を呼び平家軍は一戦も交えずに潰走。総大将は味方の惨状をただ茫然と眺める事しかできませんでした。結局一戦も交えず頼朝は勝利します。惟盛が京都に逃げ帰った時、供はわずか十騎ほどだったと伝えられます。
 こうして頼朝の鎌倉政権の地位は不動となります。しかし頼朝はすぐには上洛しませんでした。頼朝の賢いところは、まず地盤を固め機会を待って京都に打って出ようと考えた事です。駿河からの帰途、頼朝は生き別れとなっていた異母弟義経と再会します。義経は、僧として入れられていた鞍馬寺を脱出し奥州藤原氏に匿われていました。その他、別の異母弟範頼も加わります。頼朝は、関東における有力な平家方、同じ源氏の常陸佐竹秀義を討ちます。
 1183年、信濃国木曽谷に挙兵し信濃から越後方面に進出しつつあった木曽義仲の勢力が上野国に伸びてきたため、頼朝はこれを放置できず自ら出陣し上野に入ります。両者にらみ合いが続きますが、平家という共通の敵のために和睦が成立、義仲の嫡男清水冠者義高を頼朝の長女大姫の婿に迎える事になり両者兵を引きました。義高の婿入りは実質的には人質でした。頼朝と義仲の力関係の差がこのような結果になったのです。
 義高と大姫は二人とも幼かったためままごとのような夫婦でしたが、後に頼朝と義仲が険悪化し、結果義仲が攻め滅ぼされると人質だった義高も殺されます。そういった大人の汚い事情など分からない大姫は、生涯父頼朝を恨んだそうです。
 着々と関東を中心に勢力を伸ばす頼朝の鎌倉政権。一方、木曽義仲は頼朝との和睦で北陸に進出するしかなくなります。次回、義仲の挙兵と彼の戦いを見て行きましょう。

源平合戦Ⅳ 頼朝立つ

 大番役というのは平安末期から室町時代初期にかけて地方の武士たちが京都や鎌倉の警護をする役目でした。平安末期の大番役は、朝廷・院・摂関家が対象で任期は3年。すべて武士たちの自弁ですからその負担は大きかったそうです。ただ一方、中央の権門と繋がりができるため、官位を貰って帰国するとその地方で大きな権威を持てるメリットもありました。

 

 

 伊豆国田方郡北条を領する小豪族北条時政(1138年~1215年)も、ようやく3年の大番役を終え帰国の途につきます。後妻として京の下級貴族牧宗親の娘(あるいは妹とも?)牧の方を伴い少々浮かれていたのかもしれません。北条館に入ると、長男三郎宗時が留守中の様々な報告をしました。宗時は最後に言いにくそうに妹政子の話をします。黙って聞いていた時政は、宗時の話が終わる前に激怒していました。

 

 

 あろうことか長女政子は、流人として平氏に監視役を命じられてていた源頼朝と夫婦約束をしたというではありませんか。時は平氏全盛時代。監視役が流人を婿に迎えるなど言語道断。平氏に睨まれては滅亡もあり得ました。時政は、婚期の遅れていた(当時二十歳すぎ)政子のために、平氏の伊豆目代(知行国の代官)山木判官兼隆と婚約を進めていましたから尚更でした。

 

 

 宗時は父には黙っていましたが、関東の武士たちで平氏政権の恩恵にあずかれない者たちは不満を持っていました。政子と頼朝の仲を取り持ったのも彼ら若い関東武士だったという話があります。時政は政子を厳しく叱り強引に山木兼隆との婚儀を進めました。ところが婚礼のその日、政子は手引きする武士たちによって山木館を脱出、頼朝の待つ伊豆山権現に至ります。時政の面目丸潰れですが、事ここに至っては如何ともしがたく渋々二人の仲を認めるしかありませんでした。

 

 

 時に源頼朝(1147年~1199年)32歳。実は以前にも伊豆の豪族伊東氏の娘と恋仲になり子供までもうけますが、伊東祐親は平氏を恐れ無理やり離縁させ子供は殺害、娘も身分の低い者と結婚させました。平治の乱で流罪になって20年弱、頼朝はひたすら読経の日々を送り戦乱で亡くなった親兄弟の菩提を弔います。これは平氏に睨まれないためですが、案外本気で暮らしていたのかもしれません。

 

 

 根なし草の頼朝は、小さいとはいえ伊豆国の豪族北条時政の娘婿となってはじめて根を持ったとも言えました。このような頼朝のもとに平氏に不満を持つ近隣の豪族たちが集まります。ほとんどは伊豆周辺の者たちですが、中には相模国の大豪族三浦氏もいました。

 

 

 頼朝は流人とはいえ、乳母の甥三善康信から京の情勢を定期的に受け取りある程度は平氏政権の実態を理解していました。以仁王と源三位頼政の挙兵・敗死も頼朝は知っていました。ある時、頼朝の叔父新宮十郎行家から以仁王の令旨が届けられます。届いたのは以仁王挙兵直前だったとされますが、現実問題当時の頼朝に挙兵は不可能で、黙殺するのみでした。

 

 

 ところが、反乱鎮圧後以仁王が全国の源氏に令旨を出していた事が発覚し伊豆の頼朝のもとにも詮議の手が及びつつありました。こうなると言い逃れは不可能です。頼朝は、好むと好まざるにかかわらず挙兵せざるを得なくなります。1180年8月17日頼朝は伊豆における平氏の代官山木兼隆の屋敷を襲撃しました。何の備えもしていなかった兼隆はあっけなく討ち取られ、頼朝は瞬く間に伊豆国を制圧します。付き従う者は北条時政、宗時父子、工藤茂光、土井実平、岡崎義実、天野遠景らです。これと時を同じくして相模国三浦の豪族三浦義澄、和田義盛ら三浦一族も頼朝に合流すべく出陣しました。

 

 

 平家側の動きは素早く、鎌倉権五郎景政の流れをくむ相模の大豪族大庭景親を大将とする三千騎が頼朝と三浦勢の合流を阻止すべく伊豆国境の石橋山で迎え撃ちます。この時頼朝勢はわずか三百騎、とても勝てるはずがありません。8月23日石橋山の合戦で大敗した頼朝勢は散り散りになりました。一時頼朝一行は山中の老巨木の洞に隠れたそうですが、そこに平家方の落ち武者狩りが接近します。頼朝一行を発見したのは大庭景親の一族梶原平三景時でした。ところが景時は驚く事に、味方にそれを報告せず見逃します。景時も本心では平氏に不満を持ち頼朝の将来性に賭ける一人でした。この時の功績で、帰順後景時は鎌倉政権で重用されることになります。

 

 

 北条三郎宗時は敗戦の報を三浦一族に届けるべく単騎駆け抜けようとしますが、平家方の追手に捕まり斬り死にしました。石橋山の敗北を聞き、三浦一族の当主義明は本拠衣笠城に籠城します。これは嫡男義澄や一族和田義盛らを逃すための時間稼ぎでした。衣笠城は平家の大軍に攻められ落城。義明も自刃します。

 

 

 頼朝一行は、海路安房国に逃れました。そこに北条氏や三浦氏などが続々と集まります。安房で兵を整えた頼朝は房総半島を北上し一路鎌倉を目指しました。これが頼朝の開く鎌倉幕府の第一歩となるのです。

 

 

 

 

 次回は、頼朝の関東平定と富士川の合戦を描きます。

 

源平合戦Ⅲ 源三位頼政の死

 前記事で近衛基通が出てきたのでここで藤原北家の嫡流五摂家について簡単に記します。保元の乱で関白藤原忠通は、父忠実や弟悪左府頼長が崇徳上皇方に付いたのに対し、後白河天皇方に味方して勝利しました。というより、頼長を溺愛した忠実が忠通に関白職を弟に譲れと要求したのが父子対立の始まりで保元の乱の原因の一つとなったのです。
 忠通には三人の有力な息子がいました。四男の基実は平安京近衛小路に屋敷があった事から近衛家を称し、三男兼実は同じく京都九条の屋敷から九条家を名乗ります。これに対し五男基房は、松殿屋敷の地名から松殿家と呼ばれます。忠通の息子は他にもいましたが、この三家が摂関家を独占しました。
 松殿家は一時後白河法皇の引き立てを受け嫡流になりますが、源平合戦時の生き残りに失敗し摂関家の家格から滑り落ちます。残った近衛家、九条家が以後摂政・関白職を独占するようになりました。近衛家から一条家と二条家、九条家からは鷹司家が分かれ、この五家が五摂家と呼ばれ最高の家格を誇るようになります。
 ここに一人の女性がいました。彼女の名は八条院。近衛天皇の同母姉で鳥羽法皇と美福門院の忘れ形見。そのため莫大な財産を相続しこの当時日本有数の大富豪でした。彼女自身は普通の女性で野心家でもなかったため、八条女院御所には後白河法皇と平清盛との熾烈な権力闘争を嫌った貴族たちが集まり一種のサロンを形成します。この中には摂津源氏の源三位頼政も加わり、厳しい浮世と離れ和歌を詠んで過ごしました。
 さて生涯未婚を通した八条院ですが、彼女の寵臣三位の局(高梨盛章の娘)は以仁王という冴えない皇族と結婚します。王と親王の違いは以前説明しましたが、ようするに皇位継承資格があるかどうかです。以仁王は後白河法皇の第三皇子ですがよほど母の身分が低かったのでしょう。あるいは権門でなかったため親王宣下を受けられなかったのかもしれません。
 子供のいない八条院は、以仁王と三位の局との間に生まれた子供たちを可愛がり養子として引き取りました。このため、以仁王も八条院御所に出入りし猶子(ゆうし)という一種の養子関係にもなるのです。泣かず飛ばずの皇族以仁王に八条院の莫大な遺産相続の可能性が出てきました。
 安徳天皇が即位すると、蔵人頭に清盛の五男重衡が補任されるなど平氏かその縁者が朝廷の官職を独占する事になります。平氏と対立する者たち、官職にあり付けない者たちの間で不満は蓄積していきました。そんな中、以仁王が謀反を企んでいるという噂が京の町を駆け巡りました。確かに、以仁王は八条院の猶子となり浮かれていた面はあったでしょう。ただ、彼はそんな大それたことを企む人物ではありませんでした。噂を流したのは、以仁王を嫉妬する不遇な貴族たちだったと思いますが、自分たちが嫌われていると自覚し疑心暗鬼になっていた平氏の者たちはこの噂を真に受けました。

 1180年5月、清盛の意向を受けた朝廷は以仁王を臣籍降下させ源以光と改名、土佐に配流と決めます。平氏政権としては以仁王の背後にいる八条院を刺激しないよう穏便に事を済ませるつもりでした。ところが、殺されると曲解した以仁王は屋敷を脱出し園城寺に逃げ込みます。八条院を通じて以仁王と関係があった源三位頼政は、使者を送って素直に朝廷の命に従うよう説得しますが無駄でした。それどころか以仁王は頼政に対し自分に味方するよう誘います。
 頼政は迷いました。文人でもあり有能な武人でもあった頼政は、たとえ挙兵しても負ける事が分かっていたからです。そしてこれに加担すれば摂津源氏の滅亡も覚悟しなければなりませんでした。が、忠義に負けた頼政は味方に付く決意をします。この頃追捕使として以仁王逮捕に向かっていた養子兼綱が取り逃がした失態もあり、以仁王と頼政が手紙のやり取りをしていた事がばれれば言い逃れできないと覚悟したのでした。
 頼政は、以仁王に全国の源氏に挙兵を促す令旨を出すよう進言します。少しでも勝つ可能性を高めるための策ですが、頼政自身これが効果あるとは思っていませんでした。以仁王の挙兵と源三位頼政の同心は清盛を驚かせます。どう考えても負ける戦を頼政ほどの武将がするはずないと安心していたからです。
 この時頼政は76歳の高齢でした。以仁王と合流しひとまず大和国の興福寺に逃れようと考えます。頼政の軍勢は千騎ほどだったとされますが、おそらく誇張でしょう。5月25日、園城寺を出た一行は宇治川に辿りつきます。武士ではない以仁王がいたため行軍速度が遅くなっていました。そこへ平知盛(清盛四男)率いる追討軍が到着します。頼政は平等院に籠り宇治川を挟んで必死に防戦しますが多勢に無勢。息子たちは次々と討たれ、自身も深手を負った頼政は、以仁王を秘かに脱出させると平等院の境内で自刃して果てました。
 一方脱出に成功した以仁王ですが、30騎程に討ち減らされ平氏軍に追いつかれて殺されます。これが以仁王の挙兵の顛末です。本人に謀反の意思はなかったと思いますが、運命に翻弄され波乱の生涯を閉じました。以仁王の第一皇子北陸宮は秘かに脱出し木曽義仲に匿われます。義仲は北陸宮を奉じ上洛の大義名分としました。
 以仁王と源三位頼政の敗死は徒労とも言える出来事でしたが、以仁王が出した令旨は時代を大きく揺り動かします。木曽義仲もそうだし、伊豆で流人生活を過ごしていた源頼朝をも動かします。時代は大きく流れようとしていました。
 次回、源頼朝挙兵について語りましょう。

源平合戦Ⅱ 鹿ケ谷(ししがたに)の陰謀

 平清盛の正室時子の妹滋子(建春門院)と後白河法皇の間に生まれた高倉天皇。高倉天皇の即位は、藤原摂関家や六条天皇親政派の復活を阻止するために、清盛と後白河法皇の利害が一致した結果でした。
 清盛率いる伊勢平氏一門と後白河院政派の微妙な権力バランスは、1176年建春門院の病死で崩れ始めます。同年12月5日、院の近臣藤原定能、藤原光能が蔵人頭に任ぜられました。蔵人頭とは定員二名の令外官(律令には無い新設の官職)で、位階は未定(だいたい四位相当)ながら天皇の勅旨や上奏を伝達する秘書官的役割で天皇や上皇に直接近侍するため時には摂関家以上の権力を握ります。
 これは後白河院政派の巻き返しでしたが、平家側も黙っておらず平重盛(清盛長男)を左大将、平宗盛(清盛三男)を右大将にしました。平家側は近衛府という衛門府とともに都の軍事警察権を司る武官の最高位(大将はだいたい三位相当)を握る事で、政治力に長けた院政派に軍事力で対抗しようとしたのです。
 平氏政権は、清盛の屋敷が京都六波羅にあったことから六波羅政権とも呼ばれますが、都の警察権を司る検非違使庁も握り、都の各地に間者を送りこんで敵対勢力の動静を探らせました。1177年、比叡山の大衆が強訴を起こします。後白河院は、御所の警護を清盛に命じました。これは平氏と延暦寺の対立を煽る法皇の陰謀でした。しかし清盛は、四門のうち一つを源三位頼政に守らせることによって平氏対延暦寺ではなく朝廷対延暦寺という構造を作り法皇の意図を挫きます。
 思慮深い頼政は、比叡山の大衆を上手くなだめ彼らを撤退させることに成功しました。これを白山事件と呼びますが、後白河法皇は事あるごとに平氏と山門の対立を煽り、その隙にクーデターを起こして都を制圧し清盛を失脚させようと願い続けます。この間様々な陰謀が渦巻くのですが、後白河法皇は山門の横暴許し難しとして1177年6月近衛府の左右大将だった重盛、宗盛兄弟に比叡山を討てと命じました。
 驚いた重盛らは、摂津福原に滞在していた父清盛に相談します。清盛も事態の重大さを見て急ぎ上洛。法皇に謁見し思いとどまるよう説得しました。ところが法皇の意思は固く清盛は押し切られます。渋々出陣の準備を行っていた清盛でしたが、その夜法皇に山門追討を命じられた一人多田行綱が西八条の清盛邸に駆け込みました。
 
 行綱は、これは法皇の陰謀で平氏が山門追討で都を留守にした隙に挙兵する計画だと密告します。後白河法皇が鹿ケ谷の山荘に側近の藤原成親、西光、俊寛らを集め清盛追い落としを謀議していたと聞いて、清盛は激怒しました。実は行綱もその謀議に加わっていたのですが、恐ろしくなって清盛に寝返ったのでした。
 これを鹿ケ谷の陰謀と呼びます。比叡山に向かうはずだった平氏の大軍は都の反平氏勢力に向けられました。まず、西光が捕えられ厳しい拷問を受けます。すべてを白状した西光は斬首されました。西光の自白により、藤原成親、俊寛ら謀議に加わった者たちはすべて捕えられます。藤原成親備前に配流。俊寛も鬼界が島に流されました。ある者は斬罪、ある者は流罪と事後処理は峻烈を極めます。一旦流罪になった者でも、例えば藤原成親などは食物をわざと与えられず餓死させられたほどです。
 さすがに後白河法皇自身に類は及びませんでしたが、側近をことごとく処刑した事で清盛は法皇を恫喝しました。ただ鹿ケ谷事件で清盛と後白河法皇の関係は修復不可能になります。強大な兵力を握る清盛に対し何もできない後白河法皇は、平氏の力が衰えるまでじっと我慢しました。後に日本一の大天狗と言われた後白河法皇は、このように一筋縄ではいかない人物だったのです。
 清盛の権力は絶頂期を迎えます。ところが1179年7月、最も期待していた長男重盛が42歳で病死。後白河法皇は重盛の知行国越前を没収、清盛の娘宗子が嫁いでいた近衛基通(20歳)を差し置いて、わずか8歳の松殿師家(基通の従兄弟)を権中納言にするなど人事で嫌がらせするのがせいぜいでした。これに対し清盛は、11月14日本拠福原から軍勢を率い上洛、治承三年の政変と呼ばれるクーデターを敢行します。関白松殿基房、師家父子を始め反平氏方の公卿・院近臣39名を解任、平家方の公卿をこれに代えました。後白河法皇も一時鳥羽院に幽閉されます。
 清盛は出家し第一線からは表向き退いていたため、高倉天皇、関白近衛基通(政変後就任、のち安徳天皇の摂政)、平宗盛の三人が政治を主導する事になります。ところがこの三人は経験が浅く、結局清盛が表に出ざるを得なくなりました。清盛は娘徳子(建礼門院)をすでに高倉天皇に嫁がせており言仁(ときひと)親王が生まれています。
 1180年、病気がちであった高倉天皇は譲位して息子言仁親王が即位しました。すなわち安徳天皇です。わずか3歳の幼児に政治ができるはずはありません。外戚清盛の独裁政権の始まりでした。高倉天皇の譲位も平氏の圧迫が無かったとは言えないのです。
 表向き平氏に逆らう者はいなくなりました。しかし、潜在的不満は溜まり続け以仁王の挙兵、源三位頼政の敗死へと繋がるのです。これは源平合戦の直接の始まりでした。では、以仁王、源三位頼政の挙兵はどのような経緯を辿ったのでしょうか?
 次回、以仁王が何故挙兵したのか、そして摂津源氏の嫡流源三位頼政の死について述べることとしましょう。

源平合戦Ⅰ 平清盛の台頭

 平安時代末期に起こった保元の乱・平治の乱は貴族政治を終わらせ武士の時代を到来させた戦乱でした。保元・平治の乱に関しては過去記事で詳しく書いたのでここでは概略を述べるに止めます。
 保元の乱(1156年)は極論すると、白河・鳥羽院政によって権力を奪われた前関白藤原忠実とその子悪左府頼長の旧摂関家勢力と、鳥羽法皇の寵姫美福門院に疎まれ院政の道を閉ざされた崇徳上皇が、美福門院の養子守仁親王(のちの二条天皇)を皇位に就けるためその中継ぎで登板した守仁の父後白河天皇(崇徳上皇の異母弟、美福門院の子ではない)とそれを後押しする美福門院勢力に挑んだ戦いでした。
 河内源氏の棟梁源為義は劣勢と承知するも摂関家との結びつきから崇徳上皇方に味方せざるを得ず、最初から鳥羽院方だった嫡男義朝と戦い敗れます。保元の乱の敗北によって藤原摂関家が権力を取り戻す道は完全に閉ざされました。
 平治の乱(1160年)は、保元の乱で勝利した院政側の内部争いです。院の近臣藤原信西入道は桓武平氏の棟梁清盛(1118年~1181年)と結び付き絶大な権力を握ります。官位は藤原摂関家と比べる事も出来ないほど低かった信西(正五位下少納言)ですが、院庁が発する院宣(上皇からの命令を受けた院司が、奉書形式で発給する文書)の発行権を握っていたため例え藤原摂関家ですら従わざるを得なかったのです。院宣は天皇の下す宣旨より優先されるものとされました。
 一方、同じ院の近臣であった藤原信頼は、自分の政治力の無さは棚に上げ信西体制に無視されていた事を憤りクーデターを計画しました。これに同じくもともと摂関家側とみなされ冷遇されていた源義朝が組んで起こしたのが平治の乱です。
 信頼・義朝は信西一族を倒すことには成功しますが、肝心の平清盛を取り逃がし、軟禁していた二条天皇、後白河上皇が脱出して六波羅の清盛邸に逃げ込んだ時点で勝負ありました。官軍となった清盛は、大軍を持って反乱軍を圧倒、信頼は捕えられて処刑され、義朝は本拠関東に戻る途中美濃で家臣長田忠致に裏切られ暗殺されます。

 最終的勝者となった清盛ですが、戦後処理は大甘でした。義朝の嫡男頼朝は死一等を減じられ伊豆国蛭ヶ小島に流罪、義朝の幼い子供たちも仏門に入れる事で命を助けられます。もしこの時清盛が源氏一族を根絶やしにしていてば後の源平合戦は起こらなかったと思います。清盛が処刑したのは、あくまで敵対の姿勢を崩さなかった義朝の庶長子悪源太義平のみでした。


 平治の乱の勝利によって平清盛の天下になったかというと、実はそうではありません。平治の乱の勝利を見届けるように影の権力者美福門院は1160年11月亡くなります。しかし、美福門院の院政派はそのまま二条天皇の側近となって残りました。

 あくまで二条天皇までのつなぎで即位した後白河は美福門院の圧力で1158年譲位せざるを得ませんでした。本来なら上皇として院政を始めたい後白河上皇でしたが、鳥羽院派=二条天皇親政派によって締め出される危険性がありました。後白河は、同じく二条天皇親政派を警戒する平清盛と結び付きます。

 清盛は、正室時子が二条天皇の乳母だった事から、天皇の後見役として検非違使別当、中納言となり、時子の妹滋子(建春門院)が後白河の寵姫となり憲仁親王(のちの高倉天皇)を生んだことから後白河院庁の別当にもなりました。清盛は朝廷と院の双方に仕え両者の対立を上手く取り成しバランスをとります。

 二条天皇には男子が生まれず、後白河院政派は憲仁親王の立太子を画策しました。1164年二条天皇に念願の男子順仁親王が生まれます。ところが1165年二条天皇は病に倒れました。息子順仁親王の立太子を済ませると7月崩御します。これで一安心した天皇親政派ですが、後白河院政派は巻き返しを図りました。

 即位したばかりの六条天皇に対し、後白河上皇の子憲仁親王の親王宣下を認めさせます。親王とは皇位継承の有資格者となることであり、年齢があまり変わらぬとはいえ六条天皇の叔父にあたる憲仁の親王宣下は異例でした。

 これをみて、院と朝廷両属の形だった平清盛は完全に後白河方に付きます。後白河上皇が、自分の権力の基盤として清盛を優遇したため、平氏の権勢は絶大なものになりました。清盛も馬鹿ではありません。娘盛子を関白近衛基実に嫁がせるなど摂関家とも深く結び付きます。1165年清盛は大納言に昇進しました。1166年11月内大臣。1167年には太政大臣に就任します。

 1166年10月10日、六条天皇の3歳年長にもかかわらず憲仁親王は後白河上皇のごり押しで立太子されます。1167年後白河上皇は出家して法皇となりました。1168年、後白河法皇はわずか5歳の六条天皇を強引に退位させ憲仁親王を即位させました。すなわち高倉天皇です。


 清盛は、高倉天皇に自分の娘徳子(のちの建礼門院)を入内させます。後白河院の絶大な引き立てで従一位太政大臣としてこれまでの武士では例の無い高位高官に昇った清盛ですが、陰謀好きで誠意に欠ける後白河法皇の性格を信用していませんでした。いつ無実の罪を着せられ滅ぼされるか分かりません。清盛は、責任を取って詰め腹を切らされる事を恐れ、劣位の対抗者を用意しました。白羽の矢が立ったのは摂津源氏の棟梁源頼政。河内源氏の勢力が平治の乱でほぼ壊滅した今、本来の正嫡である摂津源氏の優遇は世間からも当然だと思われます。

 源頼政は、1167年清盛の推挙で従四位下になりました。1178年には同じく清盛の推挙で従三位に昇進。従三位以上は公卿といって大臣にもなれます。武家源氏では最高位になったのです。清盛にとって都合が良かったのは、頼政が武人としてより歌人として高名で間違っても謀反を起こすような野心家ではなかった事でした。

 清盛の一族は、嫡男重盛が正二位内大臣になったのをはじめ、一門で公卿(従三位以上)10名、殿上人(正四位上から従五位下まで。特例として六位の蔵人も含む)30数名を占め、全国の半数近くの国を知行国とするほど繁栄しました。清盛の義弟(正室時子の弟)平大納言時忠が「平氏にあらずんば人にあらず」と豪語したのもこの時です。

 清盛は、摂津国福原(現兵庫県神戸市)に別荘を造営し、日宋貿易に力を入れます。交易は莫大な富を平氏一門にもたらしました。その富力を背景にますます京都で権勢を極めた平氏ですが、満つれば欠くるが世の習い。平氏追い落としの陰謀は着々と練られます。

 次回、鹿ケ谷の陰謀と以仁王の挙兵を見て行きましょう。

源平合戦 序章 大蔵合戦

 河内源氏の祖は清和源氏の始祖六孫王源経基の孫頼信です。頼信は父満仲の三男で、長兄は鬼退治で有名な摂津源氏の祖頼光、次兄は大和源氏の祖頼親でした。系図からも分かる通り、本来頼信の子孫が清和源氏の嫡流として約束されていたわけではありません。ちなみに、摂津源氏頼光の子孫から源三位頼政、美濃源氏土岐氏が出ています。
 河内源氏が嫡流と見なされるようになったのは、なんといっても頼信の嫡男頼義、嫡孫義家の功績でした。頼義、義家父子は前九年の役、後三年の役で活躍し陸奥守、鎮守府将軍として関東に勢力を扶植、清和源氏の子孫の内最大の勢力を誇るようになります。
 河内源氏代々の当主は、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった藤原摂関家と結び付き、摂関家の武力となる事でその勢力を維持しました。ところが平安時代末期、白河上皇によって院政がはじまると藤原摂関家の威勢は衰え、河内源氏も微妙な立場に立たされます。代わって台頭してきたのは、院の武力として使われた伊勢平氏でした。伊勢平氏もまた、桓武平氏の嫡流と決まっていたわけではなく、この時白河院政と深く結びついたのが最大勢力となったきっかけでした。
 河内源氏の勢力減退は五代棟梁為義(1096年~1156年)と、嫡男義朝(1123年~1166年)との路線対立となって先鋭化します。義朝は、これまでのように藤原摂関家と深く結び付いていては河内源氏の衰退につながると父の方針に反発、新興勢力であった院と結び付こうとしました。このため、義朝は父為義の不興を買い廃嫡の危機に陥ります。
 京における活動に限界を感じた義朝は、関東に下り鎌倉を根拠地に独自の勢力を築こうとしました。一方、為義は言う事を聞かない義朝を嫌い、次男義賢を溺愛します。義賢は東宮帯刀先生(とうぐうたちわきのせんじょう、正六位下相当)の官位まで与えられました。この段階で無冠の兄義朝と決定的な差がついたわけです。
 無冠の義朝が、同じ河内源氏の下野国足利氏や南関東の豪族と結び付き独自の勢力を築いたことは為義やその主家藤原摂関家に警戒心を抱かせます。というのは義朝単独でこのような勢力を築けるはずがなく、その背後には鳥羽院の後押しがある事が明らかだったからです。
 義朝は、関東を庶長子悪源太義平にまかせると、1143年前後上洛しました。当然鳥羽院に出仕し、摂関家に仕える父為義との間は冷戦状態となります。1143年には、院の近臣藤原季範の娘を娶り嫡男頼朝をもうけました。藤原季範と言えば熱田大宮司として有名ですが、それは晩年の事で当時は鳥羽上皇に仕えていました。
 軍記物を読むと保元の乱で為義と義朝は涙の別れをしたと思われがちですが、すでにその前から対立は始まっていたのです。為義は、地盤である関東を義朝から奪還するために次男義賢を関東に派遣します。義賢は、武蔵国比企郡大蔵館(嵐山町)に拠りました。武蔵一の大豪族秩父重隆の娘婿になり、武蔵北部から上野国にわたり勢力を築きます。
 1156年8月16日、義賢が住む大蔵館は突如一群の軍勢に襲われました。敵の総大将は悪源太義平。不意を突かれた義賢と舅秩父重隆は討死。義賢の忘れ形見駒王丸は生母と共に義平勢に捕えられます。いくら田舎とはいえ、このような私闘は本来許されるはずありません。当時の武蔵守は院の近臣藤原信頼(後に平治の乱を起こす)、義平の単独行動ではなく、明らかに院の意向か少なくとも武蔵守信頼の黙認が無ければできないはずです。という事は大蔵合戦は保元の乱の前哨戦とも言えました。
 義平は、捕えた駒王丸の処刑を畠山重能(重忠の父)に命じます。重能は秩父氏の一族で宗家に逆らって義平方に付いていたのですが、わずか2歳の駒王丸の命を奪う事をためらいました。現実的に畠山氏の周辺には秩父氏の一族や義賢方の豪族がひしめいており、義賢の忘れ形見を殺すことで孤立する事を恐れたのが本音だったと思います。
 駒王丸とその生母を自分の領地に護送する間も重能は悩み抜きました。途中京の大番役から帰ったばかりの斎藤別当実盛の一行と出会います。重能は実盛に事情を話し、善後策を相談しました。実盛は、親交のあった信濃国木曽谷の豪族中原兼遠に駒王丸を託すことに決めます。こうして駒王丸は従者と共に信濃国木曽谷に落ちて行きました。この駒王丸こそ、後の木曽冠者源義仲です。
 次回は、保元の乱・平治の乱で最終的な勝者となった平清盛の台頭を描きます。

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