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2017年9月

2017年9月 1日 (金)

隋唐帝国13  唐の滅亡(終章)

 最盛期には支那本土はもとより、朝鮮半島北部、満洲(高句麗の故地)、モンゴル高原、西域にまで勢力を広げ当時の世界帝国だった唐。もちろん支那本土以外は、領土というより唐を盟主とした緩やかな統合ではありましたが、安史の乱勃発により唐は海外に目を配る余裕がなくなりました。
 751年と言えば玄宗皇帝の時代で安史の乱勃発の直前ですが、遠く中央アジア、キルギス共和国にあるタラス河畔で重要な戦いが起こります。唐軍は安史の乱でも出てきた高句麗系の将軍高仙芝率いる6万。相手は当時日の出の勢いだったイスラム帝国の将軍イブン・サーリフ。イスラム軍は10万とも20万だったとも言われます。タラス河畔の戦いは唐軍の大敗に終わり、この結果唐軍の捕虜の中に製紙技術者がいたことから中東や欧州に製紙法が伝わるきっかけとなりました。
 安史の乱で弱体化がはっきりしてきた唐を見て、周辺民族はこれを侮るようになります。それまで天可汗として崇めてきたのが、実態を知りしばしば侵入を繰り返しました。特に安史の乱平定に功績のあった北方遊牧民族ウイグルは、恩賞の不満もあり毎年のように侵入、略奪を繰り返します。中央政府は何もできず、自然節度使の力が増大し軍閥化していきました。
 律令体制は国家体制がしっかりしていなくては運営できず統治能力が弱体化、再び豪族が台頭し大土地所有をはじめます。このあたり日本の律令体制崩壊、荘園化の流れとそっくりでした。軍閥化した節度使、大豪族、富豪と一般庶民の貧富の差はますます拡大します。豪族の大荘園は国家の介入を拒否し税金も収めなくなりました。国家財政が急速に悪化した唐は、塩や鉄など生活必需品の専売制を強化し乏しい税収を補おうとします。
 こうなるとますます庶民の生活は苦しくなります。政府か税金を加算し値段を管理している高い塩など買えなくなり、闇商人が横行しました。そんな密売人の一人に山東出身の黄巣という人物が登場します。874年、同じ闇商人王仙之が河北で挙兵したのに呼応し山東で蜂起した黄巣も反乱に加わりました。唐政府が闇商人を弾圧し、彼らも生きられなくなっていたのです。黄巣は反乱の中で頭角を現し、指導的立場となりました。
 これを黄巣の乱(875年~884年)と呼びます。当時の庶民は重税にあえぎ生きるか死ぬかという状況に追い詰められていましたから、反乱軍はたちまち数万に膨れ上がります。唐の中央政府は愚かにも反乱軍の首謀者を懐柔し官職でも与えれば収まると工作しますが、現実を認識できない甘すぎる対応でした。王仙之は唐朝の懐柔に乗り反乱軍は分裂します。王仙之は結局唐に騙され敗死しました。黄巣達反乱軍主力は、豊かな物資のある江南に転戦し12万という大軍に膨れ上がります。880年には唐王朝の首都長安すら陥落しました。
 第21代僖宗皇帝は、安史の乱の時のように蜀に逃亡を余儀なくされます。黄巣は長安で帝位に就き国号を斉としました。そして安史の乱のときと同じく、寄せ集めの農民反乱で国家を運営できる人材がいなかったため乱脈な政治を行い内紛により分裂します。
 黄巣軍の幹部の一人朱温は、儒家の家に生まれある程度学問があったためでたらめな黄巣の政治を見て見限りました。ちょうど唐朝から帰順の誘いがあったことから部下と自分の軍を率いて寝返ります。同じ頃山西にいた突厥沙陀部の首長李克用にも唐朝は莫大な贈り物を贈り背後より黄巣軍を衝くよう要請しました。
 反乱鎮圧に異民族の力を借りればその後どうなるか安史の乱の時のウイグルで懲りているはずですが、背に腹は代えられなかったのでしょう。李克用は雁門節度使に任じられ、朱温は僖宗から『全忠』の名前を貰い官軍となります。統治能力を欠いた黄巣は、唐軍と剽悍な遊牧民沙陀族の騎兵、唐に帰順した朱全忠の連合軍に攻められ長安から叩き出されました。

 884年5月、河南省中牟県にある王満渡の決戦で黄巣軍は壊滅的打撃を受け四散します。黄巣は故郷山東に逃げ帰ろうとするも泰山付近で追手に追いつかれ自害。その残党は李克用と朱全忠の軍によって鎮圧されました。黄巣の乱平定に功があった李克用と朱全忠、両雄並び立たずの格言通り次第に対立を深めます。唐王朝は成すすべもなく二人の実力者の闘争の行方を見守るしかありませんでした。

 両雄は、何度も戦いました。李克用は片目が極端に小さい異相で、独眼竜の綽名を持ちます。彼の指揮する精強な沙陀族の騎馬軍団は、甲冑も戦袍も黒一色に染め上げ鴉軍(あぐん、鴉はカラスのこと)と呼ばれ恐れられました。一方、朱全忠は数こそ多いものの支那の伝統に則った歩兵中心の軍だったため鴉軍に押しまくられます。

 戦一辺倒の李克用に対し、朱全忠は狡猾でした。戦で勝てないのなら政略で勝とうと、904年唐王朝第22代昭宗(僖宗の弟)に圧力をかけ、自分の根拠地に近い洛陽に強引に遷都させます。これを見ても当時の唐朝が何の力もなく、有力軍閥の傀儡化していた事が分かります。すでに実質的には滅亡したも同然ですが、その昭宗でさえも904年8月、邪魔になった朱全忠によって殺されるのです。朱全忠は操り人形として昭宗の9男哀宗を擁立しました。

 これは禅譲のために擁立しただけに過ぎず、905年朱全忠は何も知らない少年皇帝哀宗から皇帝の位を奪い即位しました。これが五代十国の始まり後粱です。後粱の太祖となった朱全忠は開封を首都と定めます。後顧の憂いを断つため廃帝哀宗はじめ唐王朝の李氏一族全員を皆殺ししました。唐王朝滅亡です。




 後粱は、唐から簒奪したとはいえ勢力範囲は中原を中心に河南、山東、陝西だけに過ぎず河北では李克用が唐王朝の衣鉢を継ぐと称し後唐を建国しました。後唐も五代の一国で、両者は同時に存在していた事になります。やがて後粱は後唐に滅ぼされ、後晋、後漢、後周と続きました。そして趙匡胤によって宋が建国され分裂した支那大陸はようやく統一されるのです。その年は、唐王朝滅亡の905年から55年後の960年。


 五胡十六国時代から変容した支那社会。宋が統一したのは従来の漢人社会ではなく北方遊牧民の侵入によって大きく様変わりした支那大陸だったと言えます。



                                 (完)

隋唐帝国12  安史の乱

 唐の政治体制と言えば律令格式です。土地制度としては均田制・公地公民。税制は租庸調。軍事は府兵制。実は均田制というのは北魏から始まったもので、土地を国家の所有とし民衆にそれを貸し出し、対価として税を徴収するというシステムでした。これらは遊牧民族独特の社会制度が基となっており、その意味でも唐が遊牧民族鮮卑族の国である事が分かります。
 武韋の禍によって存亡の危機に陥った唐王朝。聡明であった則天武后は、権力闘争と国家運営を区別する最低限の良識はありました。ただ晩年、耄碌から来たのか寵臣に政治を投げ出し国政を蔑ろにした事でクーデターを招き引退を余儀なくされます。一方、則天武后ほどの頭がない韋后は、自分の権力維持のために一族を枢要な地位に据え好き勝手な政治をしたために唐の国家体制はがたがたになりました。

 韋后が自分の権力維持のために実の夫中宗を毒殺し傀儡皇帝を擁立した事は唐王朝の将来を憂う者たちにとって我慢の限界を超えます。その中の一人廃帝睿宗の三男李隆基は、則天武后の娘(睿宗の妹、李隆基の叔母)で権力の中枢から遠ざけられ不満を抱いていた太平公主と結び710年クーデターを敢行しました。韋氏一族の政治は民衆から恨まれていたため簡単に成功し韋后は反乱軍に斬られます。その一族もことごとく粛清されました。

 最初李隆基は、もし反乱が失敗したら父睿宗にも迷惑がかかると恐れ黙って実行します。クーデター成功後恐る恐る父の前に出ると、睿宗は「お前のおかげで助かった」と抱擁しながら涙を流して喜んだそうです。睿宗は復位し、隆基もこのたびの功績から三男にもかかわらず皇太子になりました。

 睿宗が復位した後、今度は太平公主が政治に口を挟むようになります。聡明な李隆基が居ては自分が母則天武后のように権力を握れないと焦った彼女は、睿宗に讒言しました。しかし、武韋の禍ですっかり懲りていた睿宗は、再び国政に混乱を招かないように712年さっさと隆基に皇位を譲って引退してしまいます。この時李隆基28歳。すなわち唐第9代玄宗皇帝(在位712年~756年)です。

 713年、クーデター成功に貢献した功績を盾に政治に口を出し王朝の癌細胞になっていた太平公主を玄宗は逮捕します。太平公主とその一党を処刑しようやく自らの政治を始める事ができました。姚崇や宋璟ら有能な人材を抜擢し、悪政で乱れた政治を立て直します。太平公主一派を粛清した713年、年号は開元と改元されました。玄宗の治世は、これにちなんで開元の治と称され太宗の貞観の治と並んで唐王朝が安定した時期だと評価されます。

 ところが、さすがの玄宗もその晩年政治に倦むようになります。737年寵妃武恵妃が亡くなってからは特に顕著でした。740年玄宗55歳の時一人の美女を見染めます。彼女は実の息子寿王李瑁の妻でした。欲望に負けた玄宗は寿王から妻を取り上げ自分の愛妾にしたのです。彼女の名は楊玉環。すなわち楊貴妃でした。父に自分の妻を奪われた寿王ですが、絶対権力者の皇帝に逆らう事はできず泣き寝入りします。別の女性を宛がわれますが失意の中775年世を去りました。

 父の側室を強引に妻にした高宗、息子の嫁を奪った玄宗、現代の我々から見るとおぞましい話ですが、実は支那の歴史ではよくあることで有名な臥薪嘗胆の故事も楚の平王が息子の太子建から妻を奪ったのが発端でした。楊貴妃を得た玄宗はますます政治を顧みなくなります。それでも宰相李林甫が生きている間は何とか回っていましたが、彼の死後宰相になった楊国忠は楊貴妃の従兄というだけの男で無能だったため政治は乱れます。

 その玄宗と楊貴妃に取り入って出世したのが安禄山でした。康国(サマルカンド)出身でソグド人と突厥人の混血だったと言われます。安禄山とはアレクサンドロスの漢訳でしょう。このように唐王朝は国際色豊かな宮廷で日本の阿倍仲麻呂が出世しても違和感ありませんでした。もともと唐の帝室自身が鮮卑族ですから、こだわりもなく有能な人材なら異民族でもどんどん登用したのです。

 唐は、辺境を守るために節度使を置きます。節度使は律令体制から外れた令外官で、藩鎮という軍管区を持ち軍事と政治を司りました。最初は辺境のみに置かれますが、唐の政治が乱れるにつれ節度使は増やされ内地にも設けられるようになります。安禄山は范陽節度使、平盧節度使、河東節度使を兼任し河北で20万の大軍を指揮する唐王朝最大の節度使でした。
 安禄山は玄宗皇帝、楊貴妃に巧みに取り入りついには楊貴妃の養子になってしまいます。もちろん安禄山の方が楊貴妃より年上で異常な関係でした。史家の中には楊貴妃と安禄山が密通していたのではないかと見る者もいます。安禄山は大きな野望の持ち主でした。755年、賄賂を朝廷の高官(その一人は宰相楊国忠)に送り便宜を図ってもらっていた嫌疑を受け玄宗に召集されそうになった安禄山は、腹心の史思明(ソグド人と突厥人の混血で安禄山と同郷)と語らいついに反乱を起こします。これが世に言う安史の乱の始まりでした。
 突厥に代わり台頭したウイグルと最前線で対峙していた安禄山の軍と中央で平和の慣れた唐軍では勝負になりません。挙兵1ヶ月で副都洛陽が陥落。この期に及んでも玄宗は安禄山の反乱を信じなかったそうですから驚きます。ようやく玄宗は高仙芝(高句麗系)らを討伐軍の大将に任じ安禄山を防がせますが、時すでに遅く関中への侵入を防ぐ最終防衛線潼関は破られ都に逃げ帰った高仙芝らは処刑されました。

 代わって防衛軍を任せられたのは隴右節度使、突厥人の哥舒翰(かじょかん)。安禄山の軍に唯一対抗できる人材でしたが、数と勢いの差は如何ともしがたくこれも敗北します。河北では書家でも有名な顔真卿と一族の顔杲卿が挙兵しますが簡単に粉砕されました。関中への最終防衛線潼関が抜かれた事で長安の宮廷はパニックに陥ります。玄宗は首都を捨て蜀(四川省)に逃れようとしました。

 安禄山は奸臣楊国忠を討つという大義名分を掲げていたため、楊国忠、楊貴妃はじめ楊氏一族へ対する風当たりが強くなります。玄宗一行が馬嵬(陝西省興平市)に着いた時、付き従っていた兵士たちは楊一族の処刑が無ければ従軍を拒否すると玄宗に要求しました。背に腹を変えられない玄宗は泣く泣く処刑を容認します。楊貴妃に対しては宦官高力士に命じて縊り殺させました。楊国忠はじめ楊氏一族もことごとく処刑されます。
 楊貴妃自身に罪は無かったと思います。則天武后や韋后のように国を乗っ取ろうという野心はなかったはず。しかし運命のまま流される弱い性格が今日の悲劇を生んだのです。確かに傾国の美女ではあったのでしょう。私は春秋時代の夏姫と似た要素を感じます。

 さて首都長安を陥れた安禄山ですが、無計画に反乱を始めた彼らに国を統治する意思も能力もありませんでした。もし天下統一の意思があるなら逃げだした玄宗一行を追撃し殺すべきなのです。愛する楊貴妃を殺され失意の玄宗は756年退位して皇位を皇太子に譲りました。すなわち第10代粛宗(在位756年~762年)です。唐軍は将軍郭子儀を中心に纏まり反撃の態勢を整えました。粛宗はウイグルに使者を送り背後から安禄山を攻撃するよう要請します。

 唐軍とウイグル軍が南北から迫る中、安禄山軍は愚かにも内紛を始めました。大燕皇帝に即位した安禄山が息子皇太子安慶緒の廃嫡を言いだした事から、怒った息子に暗殺されてしまいます。これに怒った盟友史思明は范陽に戻って自立しました。今度は安慶緒と史思明が戦争を始めました。結局史思明が759年勝ち安慶緒を殺しますが、その後息子史朝義と不仲になり息子に殺されました。

 自滅するかのように弱体化した反乱軍は、唐とウイグルの連合軍に敗れ762年10月重要拠点洛陽を奪還されます。すでに粛宗は逝去し代宗の御世になっていました。范陽に逃れ再起しようとした史朝義は763年正月唐軍に追いつかれ自害します。こうして長きに渡った安史の乱は終結しました。が、唐の国力は大きく衰え、反乱鎮圧に功績があったウイグルに苦しめられることになります。吐蕃と契丹も唐の弱体化で台頭。同じく功績のあった将軍たちへの論功行賞で節度使を乱発したために中央集権体制が崩れ節度使は軍閥化しました。

 玄宗皇帝は唐帝国中興の祖と言われますが、同時に唐帝国滅亡の遠因を作った皇帝でもありました。彼の欲望が国を傾けたのです。傾国の美女楊貴妃が悪いのか、それとも彼女に溺れた玄宗が悪いのか、言うまでもないでしょう。





 唐はその後150年続きますが、874年に起こった黄巣の乱で完全に止めを刺されました。次回最終回、黄巣の乱の顛末と唐の滅亡を描きます。

隋唐帝国11  武韋の禍(ぶいのか)

 唐三代皇帝高宗(在位649年~683年)といえば、663年には白村江の戦いで日本・百済連合軍を破り668年には新羅と同盟し懸案の高句麗を滅ぼすなど対外的には唐の国威を大きく上げた皇帝です。ところが実際の政策は小利口な官僚や有能な軍人が成した成果で、高宗本人の資質はむしろ劣っていました。父太宗が貞観の治で作り上げた国力の上に乗っかっていただけという厳しい見方もあります。
 彼の資質を象徴するのは、武皇后の冊立でしょう。武皇后すなわち武照は実は父太宗の側室でした。太宗は最初溺愛しますが、武照が聡明だった事を警戒し将来唐室の災いとなるのを恐れ遠ざけます。ところが皇太子時代から高宗は武照と通じ、父太宗が亡くなり彼女が慣例通り出家していたのをわざわざ還俗させ皇后にしました。
 義理とはいえ父の愛妾は義母に当たります。それと通じるのも言語道断ですが、父の死後自分の側室にするのは畜生にも劣る行為でした。実は支那史上こういう皇帝は何人か出ており楊貴妃を召しだした玄宗皇帝もその一人だったのです。ですから魏徴が守成の方が難しいと主張したのも私は納得できます。絶対権力を握った皇帝は、自らが律しないと他から律されることはないのです。
 高宗の後宮に上がった武照は、王皇后と蕭淑妃の対立を上手く利用し陰謀の限りを尽くして皇后に立てられました。かつて太宗が唐室の混乱の元凶となるとして自分の死後武照に死を賜るよう遺言したそうですが、その危惧は当たったわけです。一旦皇后になると、武照は無能な高宗を尻に敷き反対者を次々と粛清しました。
 廃された王皇后、蕭淑妃を処刑、初唐三大家として有名な褚遂良(書家・政治家)などは高宗に諫言した事で武照の怒りを買い左遷されます。高宗は意志薄弱で武照の思うがままでした。武照自身、自分の権力を維持するためには有力者を排除することが最優先だと承知します。太宗の皇后を出した外戚長孫氏一族は追放され、狄仁傑・姚崇・宋璟など身分の低いものを抜擢し側近にしました。
 武照に引き上げられたという事で佞臣というイメージがありますが、狄仁傑は剛直の士としてむしろ武照の暴走を抑える役割でした。武照とて馬鹿ではなく、政治が乱れると国民の不満があがり自分の権力が危うくなると知っていたのでしょう。有能な人材を抜擢したという事は、権力奪取の混乱は自分と唐王室の周辺だけに留め国政にまで影響を及ぼさないという方針だったと思います。

 いくら無能でも、自分が蔑ろにされている事は高宗にも分かります。そしてついに癌である武后廃立を決意しました。が、愚か者ゆえに計画はすぐ露見し武后に毒を盛られ失明します。失意の高宗は683年亡くなりました。高宗の死後、高宗と武后の子の中宗が即位。ところが中宗の皇后韋氏が自分の血縁者ばかり登用するのを気に入らず中宗を廃位してしまいます。同じく自分の子睿宗を即位させ垂簾聴政(すいれんちょうせい)を続けました。
 垂簾聴政とは、皇帝が幼い時その母である皇太后が摂政として政治を行う事を指します。彼女の権力欲は止まるところを知りませんでした。690年、息子睿宗を皇太子に格下げし自分が皇帝に即位するという暴挙を行います。これが則天武后です。国号を『周』とし聖神皇帝と称します。逆らうものは次々と殺され、または左遷されました。このままでは唐王朝は滅亡し周となるのも時間の問題となります。

 権力の妄執に取りつかれた則天武后ですが、彼女が晩年重用した張易之・昌宗兄弟が横暴を極めたため人心は離れました。唐王朝の遺臣たちも復讐の機会を待ち続けます。705年宰相張柬之は則天武后に廃された中宗をひそかに迎え兵を上げます。すでに則天武后の政治は民衆に憎まれていたため、味方する者はなく反乱軍によって張兄弟は捕えられ斬られました。こうなると則天武后も成すすべはありません。さすがに中宗の実の母なので殺すわけにもいかず、則天大聖皇帝の尊称を奉ることを約束して引退させました。
 こうして再び中宗は皇帝に返り咲きます。ところが今度は中宗の皇后韋氏が力を持ち始め国政を壟断するようになります。則天武后も韋氏の中に自分と同じような資質を発見したからこそ中宗を廃位したのでしょう。韋后は一族を国家の枢要な地位に就け反対者を排除しました。韋后は淫乱でもあったと言われ710年その行為が発覚しそうになります。追及される事を恐れた韋后は、同じく暴政仲間の娘安楽公主とともに中宗を毒殺してしまうのです。

 則天武后は確かに悪女ですが、少なくとも民生の安定には努めました。ところが韋后は自分の欲望のままに行動し暴虐な事も平気で行います。則天武后と韋后の時代は、武韋の禍と呼ばれ唐王朝滅亡の危機でした。このまま唐は滅亡するのでしょうか?
 次回玄宗皇帝の開元の治と唐王朝を揺るがせた安史の乱について語りましょう。

隋唐帝国Ⅹ  貞観の治

 皇太子李建成は決して無能な人物ではありませんでした。623年には群雄の一人劉黒闥(りゅうこくたつ)を河北館陶(現在の河北省邯鄲市近く)で撃破し滅ぼすなど軍功もあげています。ところが弟李世民があまりに有能すぎたため功を上げても霞んだのは事実でした。
 そういう彼の心の闇に接近したのが弟李元吉です。元吉は、あることないこと建成に吹き込み李世民が謀反を企んでいると信じさせることに成功しました。李建成は李元吉とともに父高祖のもとに参内し訴えます。最初は高祖も信じませんでしたが、高祖自身も息子でありながら自分の声望を上回る李世民に対し劣等感があったのかもしれません。二人に押し切られ李世民を除く事を黙認しました。
 まず李建成は、世民の力をそぐために謀臣房玄齢と杜如晦を遠ざけます。宮廷内の不穏な動きは李世民の秦王府にも届いていました。李世民は諜者を放ち李建成・李元吉一派の陰謀を察知します。そこで逆襲を決意し、626年6月4日皇太子李建成、弟李元吉が宮中に参内する途中玄武門で襲いました。一応建成陣営も用心して護衛兵を多数従えていたそうですが、李世民陣営が宮中の警備兵を抱き込んでいたため多勢に無勢、二人は討たれてしまいます。これが玄武門の変です。
 陰謀に加担していた者はその日のうちに捕えられ斬られました。李世民は事件の顛末を父高祖に報告します。父が黙認していたとははっきり言わなかったものの、李世民の静かな態度は逆に高祖には圧力となりました。結局、高祖は李世民に帝位を譲る事に同意します。太上皇に祭り上げられた高祖は隠棲し635年71歳で崩御しました。
 実の兄弟を殺し父から帝位を簒奪した形になった李世民は、この事件を生涯気に病みます。後世暴虐な皇帝との誹りを受けないためにも善政に努めました。これが支那史上屈指の名君と称えられる唐の太宗(在位626年~649年)です。彼の治世は、時の年号から貞観の治といわれ唐王朝だけでなく歴代支那王朝でも世の中がよく治まった時代だと評価されます。
 房玄齢、杜如晦、魏徴と名臣を排出し治安は安定し南北朝、隋時代と荒廃した国土は復興しました。太宗の政治は貞観政要という書物に纏められ後世帝王学の教科書となります。その中に有名なエピソードがあるので紹介しましょう。

 ある時太宗は臣下を前にしてこう下問しました。
「創業と守成、どちらが難しいだろうか?」

 文官筆頭の房玄齢は
「天下が乱れ群雄が各地で立ち上がっているとき、これを打ち破り従わせるのは至難の業です。故に創業が難しいと考えます」
と答えました。
 すると、直言の士として有名な魏徴はこれに反論し
「天子の位は天から授かり人から与えられるものですから難しくはありません。しかし人とは弱い者。一旦その位を得たら奢り高ぶり初心を忘れ結果的に庶民を苦しめる者も多いと聞きます。故に守成こそ難しいと愚考します」
 両者の意見を黙って聞いていた太宗はにっこり笑ってこう言いました。
「房玄齢は朕に従って天下を平定し長く艱難辛苦を耐えた。だから創業が難しいと考えた。魏徴は朕とともに天下を安定させ、これから勝手気ままな政治をすれば天下が乱れると思い、守成が難しいと言ったのだろう。二人の意見はもっともだ。しかしもう創業の時期は終わった。今後は守成の難を諸君と共に克服していきたい」

 このように太宗は、たとえ気に入らない意見や耳に痛い意見でも正しい事は受け入れ実行していきました。そこに私心は無かったと思います。むしろ臣下に諫言を奨励したくらいです。
 内政では三省六部の中央官制を整備し、国力の充実に努めます。その力を持って629年、北方で強大化していた突厥を討ちました。この戦いでは将軍李勣・李靖らが活躍し630年突厥の頡利可汗を捕虜にするという大功を上げます。遊牧帝国突厥は崩壊し、北方や西域の遊牧諸部族が次々と唐に服属、入朝するようになりました。彼らは太宗に天可汗の称号を奉上し崇めたそうです。
 これを見ても、遊牧民族たちが唐王朝を漢人の国ではなく自分たちの仲間である鮮卑族が建てた王朝だと見ていた事になります。可汗とは遊牧民の首長の称号だからです。しかし唐王朝は無数の漢人を統治する都合上秦の名将李信の子孫を称します。隴西李氏と言えば、漢代飛将軍李広や李陵を出した武門の名家で漢人なら誰でも知っている家柄(日本では源氏とか平氏、藤原氏くらいのメジャー)ですが、さすがにこれを信じる者は当時でもいなかったと思います。唐王朝はその出自がコンプレックスだったのでしょう。
 支那史上でも屈指の明君太宗ですが、やはり晩年陰りを見せます。後継者問題で揉め皇后の兄長孫無忌の意見を容れ最も凡庸な第9子李治(後の高宗)を皇太子と定めました。これが武韋の禍(ぶいのか)と呼ばれる唐王朝の混乱期を招くこととなります。649年太宗崩御、享年51歳。
 次回、則天武后から始まる唐王朝崩壊の危機を描きましょう。

隋唐帝国Ⅸ  虎牢関の戦い

 支那大陸の地形に詳しい方ならご存知だと思いますが、洛陽盆地は中原のやや西に位置し、北は黄河、南は伏牛山脈の支峰が黄河まで迫る狭い盆地でした。西には函谷関、東には虎牢関(河南省滎陽市)があり盆地に入る者を遮断します。もっとも西の函谷関は漢代に東へ移転され、洛陽盆地と関中盆地(長安がある)を隔てる役割は潼関に代わりました。

 李世民の唐軍、王世充の鄭軍の兵力は不明ですが、私の推定では唐軍7万、鄭軍3万ほどでしょうか。10万の夏軍に対抗するためにはできるだけ多くの兵力を虎牢関に籠らせないといけませんが、かといって洛陽の包囲を手薄にすると今度は王世充に背後から攻められます。あくまで想像ですが、李世民は洛陽包囲に3万の兵力を残し4万で虎牢関に入ったと私は思います。

 竇建徳の夏軍10万、一方李世民の唐軍4万。いくら李世民が有能であっても倍以上の兵力差を覆すのは容易ではありません。李世民は、虎牢関の要害を頼みに貝のように閉じ籠もりました。洛陽の王世充は何度か突破を図りますが、唐軍も必死に守り戦線は膠着状態に陥ります。膠着状態と言えば虎牢関も同様でした。この日のために李世民は長期戦を覚悟して兵糧を十分に準備しておりまだまだ困る事はありません。一方、戦いを安易に考えていた竇建徳は短期決戦で唐軍を殲滅できると踏んでおり最低限の兵糧しか準備していませんでした。

 対陣は数カ月に及びます。こうなると夏軍は大軍だけに補給に苦しむ事になります。こういう時は、民間から兵糧を徴発して急場を凌ぐものですが、竇建徳は民を愛する義軍を標榜していただけにそれもできませんでした。徴発や略奪をしたら、竇建徳の名声は地に堕ち国家を保つこともできなくなるのです。

 もし李世民がここまで見越して籠城戦を選んだとしたら凄いと思いますが、戦いの一ファクターとして彼が読んでいた事はおそらく間違いないでしょう。現実的にまともにぶつかれば数の上で不利なので、敵が弱点を見せるのをじっと我慢して待っていたというのが実情だったと思います。

 補給に苦しみかといって民から略奪するわけにもいかない竇建徳は、一時的に撤退し兵糧のある策源地まで戻る事を決意します。具体的には彼の領国である黄河の北岸河北。同盟していた王世充を事実上見殺しにする決断ですが、背に腹は代えられません。621年、夏軍は陣を払って粛々と撤退を開始しました。

 李世民は、この機会を待ち構えていました。数日前から夏軍の動きを諜者を放って察知していた李世民は、夏軍が動き出すとすぐさま虎牢関の城門を開き撃って出ます。すでに本国に帰る事に心を奪われていた夏軍は完全に油断していました。唐軍の主力は軽騎兵です。李氏は鮮卑族の武川鎮軍閥出身ですから歩兵主力の夏軍にこれを防ぐことはできませんでした。

 機動力に勝る唐軍は、側面にも回り激しく攻めかけます。夏軍は四分五裂になり潰走しました。無事に黄河を渡った者は十人に一人もいないという惨憺たる大敗北です。総大将竇建徳すらも唐軍に追いつかれ捕えられてしまいます。竇建徳は直ちに処刑されました。頼みの綱である夏軍が壊滅し竇建徳が殺された事を知った洛陽の王世充は、これ以上の抗戦を諦め李世民に降伏します。

 虎牢関の勝利によって華北における唐の覇権は確立しました。後は掃討戦にすぎません。李世民の秦王府には文官として房玄齢・杜如晦・魏徴、将軍では李勣・李靖・尉遅敬徳らが集まりました。彼らは皆建国の功臣としてふさわしい有能な者たちで、それらが高祖李淵ではなく息子李世民に直接仕えていたことから李世民が帝位を継ぐのは時間の問題だと考えられます。
 果たして李世民に帝位への野望はあったのでしょうか?私は無かったとは言えないと思います。しかし聡明な彼は、よほどうまく運ばないと後世簒奪のそしりを受ける危険性が高い事も十分承知していました。高祖は長男李建成を皇太子に定めます。ただ天下統一最大の功労者は李世民でしたので、天策上将に任じ帝国で最大の権威を与えました。両雄並び立たず。例え李世民にその気がなくとも、彼に仕える者たちは自分たちの主君が凡庸な李建成の下風に立つ事は我慢できなかったのです。
 実は皇太子李建成は温厚篤実な人物で、弟李世民さえいなければ無難な二代皇帝として国を誤る事はなかったと思います。ところがここに高祖の四男李元吉という人物が登場します。李元吉は野心家で皇帝の地位を虎視眈々と狙っていました。ただこのままでは自分にその機会が巡ってくる事はありません。有能な兄李世民に嫉妬していた事もあり、皇太子建成に近づき李世民の事をある事ない事讒言します。

 はじめは信じていなかった皇太子李建成も、あまりに元吉が讒言するため弟世民を疑い始めます。両者の亀裂は次第に大きくなり始めました。

 



 次回、玄武門の変と貞観の治について語りましょう。

隋唐帝国Ⅷ  李淵挙兵

 618年、煬帝が江都(楊州)で臣下に背かれ殺されて滅亡した隋。すでにその前から、各地に群雄が割拠し無政府状態に陥ります。その中の一人に李淵(556年~635年)という人物がいました。
 李淵の祖父李虎は、西魏・宇文泰が設けた八柱国の一人。使持節・太尉・柱国大将軍・大都督・尚書左僕射・隴右行台・少師・隴西郡開国公に任じられます。家格から言えば隋を建国した楊堅より上で、李氏は西魏、北周、隋を通して建国の功臣として大切に扱われます。文帝楊堅の正室独孤皇后は李淵の叔母にあたるほどの家柄で、李淵自身も煬帝の高句麗遠征時には兵站を管轄しました。
 楊玄感の反乱が起こると、山西 河東慰撫大使に任命され山西省太原に駐屯します。反乱や北方の遊牧民族突厥に備えるため大軍を擁していました。彼のもとにも、帝国各地で反乱が勃発し群雄が割拠し皇帝は事態を収拾できず首都長安を捨て遠く江都に逃れたという報告が入ります。ただ李淵自身は軍事的にはそこそこでも、政治上は凡庸な人物でしたからどうして良いか分からず赴任地太原に籠ったままでした。
 あるとき李淵の次男李世民(598年~649年)が父の執務室に入ってきます。世民は凡庸な李淵の子供たちの中で唯一幼少時から利発で麒麟児として李淵も将来を期待していました。李世民は父に天下の情勢を説き挙兵を促します。すでに李世民は部下たちに根回しを済ませており、李淵も断ることはできませんでした。617年、李淵はついに挙兵します。
 実質的に軍を動かしたのは李世民でした。右領軍大都督・敦煌郡公として軍を率いた李世民は、まず長安を落とします。長安には煬帝の孫代王楊侑がいました。李淵はこれを擁立し傀儡とします。すなわち恭帝です。群雄の中で一歩先んじるには大義名分が必要で、李世民にはそれが分かっていたのです。
 618年5月、煬帝が殺されたという報告を受けると李淵は幼少の恭帝に禅譲させ自ら帝位に就きます。国号は、唐国公であったことにちなみ『唐』。すなわち唐の高祖(在位618年~626年)です。同じ頃、隋の将軍出身だった王世充は洛陽で鄭を、群盗出身の竇建徳(とうけんとく)は河北で夏を建国しました。その他、李密は魏を建てます。
 唐を建国した唐の高祖李淵ですが、まだまだこの段階では数多くいる群雄の一人。天下を統一するには彼らと戦い勝ち抜かなければなりません。そしてそれを担当したのは、李淵の次男李世民でした。李世民は、建国の功績から尚書令・秦王に任じられ唐軍を率いて各地に遠征します。その間、李淵は皇帝として首都長安を守りました。
 李世民のもとには、房玄齢や杜如晦などその後の唐王朝を支える有能な人材が集まります。李世民は最初の攻撃目標を洛陽の王世充に定めました。620年軍を率い洛陽城を囲みます。しかし王世充は隋の将軍出身で有能だったため頑強に抵抗しました。その頃河北では夏王竇建徳が強大化し群雄の中で最大の勢力に成長していました。

 王世充は、竇建徳に援軍を要請する使者を送り唐軍を内と外から挟み撃ちにする計画を立てます。竇建徳は群盗の頭目出身で人心が良く分かっていました。戦いにおいても略奪を禁じ、民衆の虐殺をしなかった事からたちまちのうちに大勢力に成長し、10万の兵力を動かすまでになります。この時天下争覇レースの先頭を走っていた事は間違いなく、唐がその最大の障害になっていた事も承知していました。

 竇建徳は王世充の願いを聞き入れ自ら10万の兵を率いて救援に赴きます。李世民絶体絶命の危機です。夏軍に向かえば王世充に背後を衝かれ、洛陽の包囲を続けたら夏軍に包囲され殲滅されるのです。李世民は洛陽包囲に最低限の兵力を残し、自ら主力を率いて洛陽の東、洛陽盆地と中原を結ぶ要衝虎牢関に陣を布き夏軍を迎え撃つ事にしました。



 この戦いは華北における天王山でした。勝者が天下に覇を唱える事ができるのです。李世民に果たして勝算はあるのでしょうか?次回虎牢関の戦いと唐の天下統一を描きます。

隋唐帝国Ⅶ  隋の煬帝(ようだい)

 通常、支那王朝では皇帝が崩御すると次の皇帝が前皇帝の生前の功績をふまえて諡号(しごう)を贈ります。文帝とか武帝、あるいは宣帝などという名前はすべてこの諡号です。一方、高祖とか高宗、太祖、太宗などというのは廟号といってその皇帝が皇統の中でどこに位置するかを示す名前でした。

 では煬帝(ようだい)というのは、どれに当たるでしょうか?煬の字は悪逆な王や皇帝を示す諡号で、通常は選ばれません。せいぜい霊帝とか幽王くらいでとどめます。いくら無能な皇帝や悪逆の王でも一応自分の先祖(父か祖父)か親戚になるため、そこまで酷い言葉は選びません。ところが王朝最後の王や皇帝は、追謚するのがその王朝を滅ぼした国であるため、自分たちを正当化するためにも前の王朝を悪しざまに印象付けわざと酷い諡にするのです。

 煬帝も次の唐王朝が名付けたためこのような酷い名前になりました。夏の桀王、商(殷)の紂王も同じです。桀王・紂王に関しては最近そこまで酷くはなかったのではないかと再評価の動きが古代史学会から出ていますが、煬帝に関してもその動きはあります。さすがに治世のすべてが悪政というはずはなく中には世の中の役に立った事もあったはずなのです。煬帝最大の功績は黄河と長江を結んだ大運河の建設が上げられます。これも唐代では、煬帝が江南の物産を首都長安に送りやすくするために建設した、いわば自分の贅沢のための運河だと悪しざまに罵られました。たとえ動機がそうだったとしても、華北と華南の物流を円滑化し経済活性化させたという功績は大きかったと私は思います。

 では煬帝の生涯はどうだったのでしょうか?煬帝(在位604年~618年)は隋王朝第2代皇帝です。父高祖文帝の不可解な死を受けて即位した彼は、自分のライバルであった実の兄廃太子楊勇を文帝の遺勅だと偽り処刑しました。兄弟の生母で文帝の正室独孤皇后は、楊雄が派手好きで贅沢だった事を嫌い、弟楊広(煬帝)が親孝行で謹厳実直だった事から溺愛します。ところがそれは単なる皇太子の座を奪うためのポーズで、実際は兄以上の贅沢をするようになります。すくなくとも楊雄は学問好きだった事もあり正直でしたが、煬帝にはこのような狡猾な一面がありました。

 父文帝は倹約家で新国家建設のために蓄財に励み国庫は満ちていましたが、皇太子時代からそれを知っていた煬帝は父の遺産を使って大宮殿や大運河の建設など国家的な事業を次々と開始します。とくに長江下流にある江都(楊州)には贅を極めた離宮を造りました。このために何百万という人民が動員され国内では怨嗟の声が広がります。

 煬帝は後世に名を残したいという野望がありました。父文帝時代から懸案だった高句麗問題を解決しようと612年113万とも号する大軍を動員し遠征を行います。高句麗はツングース系民族の建てた国で現在の朝鮮半島北部から満洲東部にかけてを支配していました。隋とは南朝や突厥と結び対立します。

 隋軍は、遼東方面から陸軍、山東半島からは水軍が出撃し高句麗を攻撃しました。ところが大軍であったために補給に困り始め、陸軍が高句麗の奥深くに進撃するにつれ苦しみ出します。まともにぶつかっては勝てない高句麗軍は、直接戦わず焦土戦術で対抗しました。高句麗軍は少数の騎兵を使って隋軍の弱点である補給路を攻撃し、隋軍が向かってくれば風のように逃亡します。隋軍は困り果て、これ以上の進撃が不可能になり進退極まりました。

 「一時撤退し、態勢を立て直して再び遠征を」という将軍たちの声に強気の煬帝もついに折れます。しかし、隋軍の撤退を手ぐすね引いて待ち構えていた高句麗の将軍乙支文徳は、薩水(清川江)あたりで隋軍に追いつきました。すでに帰国で頭が一杯だった隋軍は、これを支える事ができず壊滅的打撃を受けて潰走します。完全に高句麗の作戦勝ちです。隋軍の戦死者は数十万を数えたそうです。ただ隋は超大国だったためにこの程度の損害は回復可能で、煬帝は小癪な高句麗を討伐するため翌613年にも遠征の準備を始めました。

 ところが、数々の土木工事の上に高句麗遠征で負担に耐えられなくなった隋の国民の怒りがついに爆発します。各地で反乱が勃発しついには河北で隋の将軍楊玄感までもが立ち上がりました。楊玄感の参謀李密は、洛陽攻撃を下策だとして反対しますが、楊はこれを聞き入れず洛陽に向かいます。楊軍の洛陽攻略は失敗し、楊玄感は関中方面に転進しようとしますが、追手に追いつかれ自害しました。

 隋の将軍楊玄感の反乱は衝撃を与えます。高句麗遠征の失敗で煬帝の権威は地に堕ち華北の各地で群雄が割拠、首都長安さえ危うくなりました。覚悟の無い煬帝は、問題解決の努力をせず首都長安を捨て離宮のあった江都に逃げだします。これを諌める臣下は皇帝の不興を買って殺されたため、煬帝の周囲にはイエスマンしか残らなくなりました。

 618年、あまりの酷さに将軍宇文化及・宇文智及兄弟や裴虔通は近衛兵を率いて煬帝に迫り、首都長安への帰還を要求します。ところが煬帝はこれを聞き入れなかったため怒った宇文化及らに殺されました。享年50歳。煬帝の死によって隋王朝は滅亡します。残ったのは隋末に興った群雄たち。この中で勝ちあがったものが次の王朝を開くこととなります。

 次回、李淵の挙兵を語りましょう。

隋唐帝国Ⅵ  楊堅の台頭

 北魏最後の皇帝孝武帝を長安に迎えた宇文泰。宇文氏はもともと匈奴族出身でした。匈奴族宇文部は後漢末に鮮卑族部族連合に加わり鮮卑化していきます。孝武帝は534年宇文泰を大都督・雍州刺史兼尚書令、536年には都督中外諸軍事・大行台に任じ安定公に封じます。
 ところが孝武帝と宇文泰は性格が合わず、孝武帝も自分を蔑ろにして専横を極める宇文泰を嫌い除こうとしました。陰謀を察知した宇文泰は先手を打って534年12月孝武帝を殺害、第6代孝文帝の孫文帝を擁立します。この頃河北では高歓が孝静帝を擁立していましたから、534年を持って北魏滅亡、西魏・東魏の分裂時代に突入しました。
 宇文泰は、西魏建国に功績があった功臣たちを八柱国に任命します。八柱国というのは柱国大将軍に任命された八人の将軍のことで、もちろん筆頭は宇文泰。軍事が最優先の西魏では、文官の最高職である丞相より上だとされました。八柱国は宇文泰子飼いの武川鎮軍閥の有力者たちです。
 八柱国の下に十二大将軍を置きその下に二十四開府を設置しました。これが府兵制の基となります。府兵制というのは現代で言えば徴兵制に近く、律令政治では均田制と対になる兵制でした。北魏孝文帝によって漢化政策と文官優位が確立しましたが、北方遊牧民の本来の制度に戻ったとも言えます。
 宇文泰は強大な権力を握りながらも皇帝になる事はありませんでしたが、彼の死後跡を継いだ三男宇文覚は557年西魏の恭帝から力ずくで禅譲を受け天王と称します。皇帝と名乗らなかったのは遊牧民的感覚では天王の方がふさわしいと思ったからでした。あるいは古代周王朝の制度を真似たという説もあります。国号を『周』と定め、漢民族を支配しました。これが北周です。同じ頃、東魏でも政変劇があり550年高歓の子高洋が孝静帝から禅譲を受け北斉が成立しました。

 西魏と東魏の対立は、そのまま北周と北斉にも引き継がれます。両者はしばしば戦いますが華北統一には至りませんでした。さて、北周において宇文覚の従兄宇文護が大きな権力を握ります。このように皇帝になってもすぐナンバー2から乗っ取られるのが北朝の特徴でした。そしてこれもありがちですが、権力を奪われた宇文覚は側近たちと権臣宇文護の暗殺を謀りますが、発覚。逆に殺されてしまいます。

 宇文護は、宇文泰の庶長子だった明帝を擁立しました。ところが明帝は意外と聡明だったため宇文護に警戒され暗殺されそうになります。560年、明帝は将来を悲観し宇文護から贈られた毒入り餅をあえて食べました。明帝享年27歳。宇文護はその弟武帝を擁立しました。実は武帝は、兄明帝よりさらに有能な人物でした。宇文護の暗殺を避けるためわざと暗君を演じます。宇文護がすっかり油断した頃合いを見図り、572年罠にはめ誅殺しました。

 武帝は、宇文護とその一党をことごとく処刑し親政を開始します。野望に燃える武帝は、富国強兵に努め北斉に親征しました。そして577年北斉を滅ぼし悲願の華北統一を果たします。578年には天下統一を目指し南朝陳を攻撃しますが、陣中で病を発し崩御。35歳の若さでした。

 後を継いだのは息子宣帝。これが救いようの無い暗愚な人物で、父武帝は息子の将来を危惧し厳しい躾をしますが無駄でした。そのため、皇后の父楊堅(541年~604年)が上柱国・大司馬となって補佐することとなります。楊堅とは一体どのような人物だったのでしょうか?

 彼の父楊忠は、宇文泰に任命された十二大将軍の一人、使持節・大将軍・大都督・陳留郡開国公で建国の功臣でした。自身も有能だった事から、北周宮廷で累進し隋州刺史、代将軍、隋国侯と官職を重ねます。578年には娘楊麗華を宣帝の皇后に入れ、外戚として絶大な権力を握りました。
 宣帝は暗愚なうえに凶暴で、臣下や皇后ですら気に入らなければ棒で叩き人心を失います。ついには579年、幼少の皇太子に帝位を譲ってしまいました。いくら暗愚だとは言え自ら帝位を捨てるでしょうか?私はここに楊堅の暗躍を見るのです。580年宣帝が22歳で死去したのも疑えばきりがありません。そうして即位した静帝はわずか8歳。外孫を傀儡として楊堅の権力はますます増大します。
 580年9月、楊堅は大丞相に進みました。12月には都督中外諸軍事・隋王。自分で自分を任命するのですからやりたい放題です。北周の人臣は次の皇帝は楊堅だと思い始めました。ただ世論の反発を恐れ楊堅は慎重に簒奪を進めます。北周の徳が失われ、天命により楊堅が立たなければならないという雰囲気作りを巧妙に重ね、581年2月、静帝から禅譲させて即位しました。すなわち隋の高祖文帝(在位581年~604年)です。即位すると文帝は、後顧の憂いを断つため静帝を始め宇文氏一族を皆殺しにしました。
 隋の高祖文帝は、さすがに有能な人物でした。楊という名から漢人に見えますが、父が武川鎮軍閥の有力者である事からも分かる通り鮮卑人。ただ、漢人を支配するために後漢の名門楊震の末裔を称しました。首都長安を大興と改めると、587年後粱、589年には南朝陳を滅ぼして300年ぶりに天下を統一します。
 唐代につづく三省六部の中央官制、地方では州県制を整備します。それまでの九品官人法に代わって科挙の制度を始めたのも文帝でした。府兵制、均田制を推し進め律令体制を築きます。ただ598年の第一次高句麗遠征だけは失敗しました。
 隋の高祖文帝は天下統一を果たすにふさわしい有能な皇帝でしたが、晩年は不幸でした。彼が期待していた長男、皇太子楊勇は独孤皇后、一族の楊素らの陰謀で廃嫡させられます。代わって皇太子に立てられたのは次男の楊広。どちらも文帝と独孤皇后の実子ですが、皇后は学問好きながら奢侈でもある楊勇を嫌い親孝行の楊広を溺愛していたそうです。

 ところが楊広の孝子ぶりは、皇太子になるためのポーズでした。604年文帝は病の床につきます。すると皇太子楊広はあろうことか父の愛妾宣華夫人に手を出そうとしました。怒った夫人は皇太子の暴挙を文帝に訴えます。楊広の正体を知った文帝は、楊広と独孤皇后を呼び罵りました。そして楊勇を廃嫡した事を後悔し呼び寄せようとします。

 文帝は、「畜生(楊広の事)になんで天下を託せようか。独孤が朕を誤らせたのだ。息子(楊勇)を呼べ!」と叫んだと云われます。その夜、容体が悪化した文帝は俄かに崩御しました。享年64歳。あまりのタイミングの良さから、息子楊広による毒殺説もあります。


 こうして即位した皇太子楊広こそ、後世悪名高い隋の煬帝(ようだい)です。次回は煬帝の治世を見て行く事にしましょう。

隋唐帝国Ⅴ  北魏の分裂と北朝の盛衰

 北魏第6代孝文帝が洛陽に遷都する前、首都平城(山西省大同市)を北方の柔然など剽悍な遊牧民から守るため鎮と呼ばれる軍管区を設置しました。西から沃野鎮、懐朔鎮、武川鎮、撫冥鎮、柔玄鎮、懐荒鎮、禦夷鎮の七鎮です。鎮将には北魏の皇族や拓跋部の有力者が選ばれます。
 国防上重要な位置を占め、七鎮の幹部たちは鮮卑族、漢族に関わりなく通婚を重ね軍閥化していきました。ところが首都が中原の洛陽に移されると、七鎮は辺境に追いやられます。モンゴル高原の脅威だった柔然が弱体した事もあり重要性が薄れたのです。北魏の皇族たちも辺境の七鎮への赴任を嫌がり北魏朝廷は七鎮を軽んじるようになりました。
 中央政界でも、次第に漢化していく中軍人の地位が低下し官僚と逆転します。武力を持って華北を平定した北魏にとってこれは致命的でしたが、官僚組織の頂点にある貴族と軍人の対立は激化しついに羽林営(近衛軍にあたる)の軍人千人が暴動を起こし軍に冷酷な大臣の屋敷を焼き討ちしました。北魏政府は鎮圧できず首謀者八人を処刑したのみで残りは大赦してしまいます。これを羽林の変と呼びますが、中央政府の弱体化を見て523年沃野鎮の武将破六韓抜陵が鎮将を殺し反旗を翻しました。破六韓抜陵は武川、懐朔両鎮を攻め落とし他の鎮もこの反乱に加わります。六鎮の乱と呼ばれる事件でした。

 反乱自体は530年将軍爾朱栄によって鎮圧されます。ところが、弱体化した王朝ではありがちですが反乱鎮圧の過程で強力な軍権を握った爾朱栄の専横が始まるのです。528年孝文帝の孫孝明帝が19歳の若さで亡くなると、その母霊太后胡氏は孝明帝の甥にあたる臨洮王の子元釗(げんしょう、幼主)を立て摂政を続けました。

 これに不満を抱いた爾朱栄は、別に孝荘帝を立てて傀儡とします。そればかりか528年4月13日幼主や霊太后、朝廷の王公百官二千人を呼び出し一挙に殺しました。幼主や霊太后は黄河に沈められたそうです。首都洛陽は貴賎を問わず衝撃を受け逃げまどいます。孝荘帝が宮城に入り百官を召しても誰も謁見に出ませんでした。

 北方遊牧民の蛮性を濃厚に残していた爾朱栄の軍は、洛陽で略奪暴行強姦殺人と乱暴狼藉の限りを尽くします。翌529年南朝粱の武帝の元に亡命していた北海王元顥(げんこう)が粱の後援を受け洛陽を一時奪回しますが、爾朱栄の軍に敗れ南に逃亡の途中農民に殺されました。
 
 530年、孝荘帝は自分を軽んじる爾朱栄に怒り誅殺します。ところが爾朱栄の一族が反撃し孝荘帝は捕えられることとなりました。処刑の日皇帝は「願わくば二度と皇帝になりませんように」という言葉を残して殺されたそうです。爾朱栄一族の暴政を鎮めたのは爾朱栄の部下だった大丞相高歓でした。彼もまた懐朔鎮に属する軍人の出身です。この頃になると、北魏はすでに王朝としての統治能力を失い高歓の専横が始まります。高歓が爾朱栄一族を滅ぼしたのは国家のためではなく自分の権力奪取のためでした。

 これまで登場した人物の内、破六韓抜陵が遊牧民である事は分かると思います。彼は匈奴族。爾朱栄は契胡族。高歓も漢族風の名前ですがおそらく鮮卑族でしょう。このように五胡十六国時代遊牧民族が互いに国を建て争っていたのが、北魏という大枠の中での争いに変わったに過ぎませんでした。数ある遊牧民族のうち何故鮮卑族が最大の勢力になったかですが、それは単純に人口が多かったからです。匈奴族にしても羯族にしても最盛期は過ぎ支那本土に至った時には少数民族になっていました。ところが鮮卑族はすでに三国時代にはモンゴル高原を統一するなど巨大な勢力になります。ですから鮮卑族が華北を統一するのは時間の問題でした。
高歓は北魏第7代宣武帝の甥孝武帝を擁立します。孝武帝は傀儡として何の力もなく高歓が専横する姿を見て絶望し534年長安の宇文泰のもとへ逃亡しました。宇文泰は鮮卑族出身で武川鎮軍閥の実力者。大都督・雍州刺史兼尚書令として長安一帯を支配していました。ただ傀儡であることには変わりがなく、まもなく534年12月宇文泰に毒酒で暗殺されます。孝武帝は北魏最後の皇帝となりました。

 皇帝に逃げられた高歓はまた別の皇族を擁立しますが、宇文泰と対立が生じた事から荒廃した洛陽を捨て河北の鄴(ぎょう)に遷都します。これにより北魏は、宇文氏が擁立する西魏と高氏が擁立する東魏に分裂しました。そして西魏は宇文氏に乗っ取られ北周に、東魏は高氏に乗っ取られ北斉になります。
 次回は、隋王朝を開いた楊堅の台頭を描きます。

隋唐帝国Ⅳ  北魏の華北統一

 遊牧国家が農耕地帯を支配しても長続きしないのは、統治するための官僚機構、税制法制の整備、民生の安定などを作り上げる事ができないからです。軍事力だけでは国を保つことはできず、国民から税を徴収しそれをインフラ投資や民生安定に投資する農耕民族国家として当たり前の事を理解できる遊牧民族は稀でした。
 そのために遊牧国家は、支那大陸では実務を司る官僚として漢民族を中東ではイラン人やソグド人を登用します。オスマントルコに至っては自分たちが滅ぼしたビザンツ帝国のギリシャ人やバルカン出身者を重用しました。彼らを使って支配下の農耕民を統治する仕組みを作ったのです。契丹族の遼や女真族の金はこれができました。ところが五胡十六国時代の遊牧民たちは満足にできなかったから短命政権に終わったのです。
 一例をあげましょう。羯族の石勒が建国した後趙。後趙は有力武将の石虎に乗っ取られます。石虎は暴虐の限りを尽くし、豪華な宮殿を建造し民間から数千人の美女を徴発しました。その中には人妻もいたそうですがお構いなしです。馬が足りなくなると民間から三万頭の馬を挑発します。後にはさらに三万人の美女を挑発し朝廷や王族に分配したそうです。逆らう者には虐殺が待っていました。各地に豪勢な宮殿を造営し数十万人を動員します。このために四十万人もの死傷者が出ました。
 後趙は漢人の怨みを買います。冉閔が国を簒奪した時、漢民族に石氏一族をはじめとする羯族への復讐を訴えたのはこういった背景があったからでした。漢民族の民衆は、羯族だけでなく長年苦しめられた五胡すべてに復讐し20万人以上が虐殺されたそうです。北方の遊牧民が漢族を殺した数が多いのか、漢族が報復で殺した遊牧民の数が多いのかは不明ですが、復讐は復讐を呼び支那の領域外に脱出できた遊牧民は10人中1人という有様でした。

 非常に皮肉な見方をすると、この時の漢民族は純粋な漢民族ではなく長年遊牧民に支配され混血がすすみ(男は虐殺、女は強姦)、ほとんど血統的には遊牧民と変わらなくなっていた人々です。ですから混血の遊牧民の子孫が、漢族という幻想の血統を守るためにかつての同胞だった純粋な遊牧民を虐殺しただけだとも言えます。

 支那文明の凄いところは、このように漢民族で無かった者たちにも漢民族としての意識を植え付けた点でした。遊牧民を虐殺した連中自身、自分たちは漢民族だと信じて疑わなかったでしょうから。その幻想は現在でも続いています。一方、南朝の国民が漢民族だったかというとこれも違い、越族系やタイ族系の原住民の上に、中原や山東から逃れてきた大貴族とその部民たちが乗っかっているだけでした。

 さて、モンゴル系と言われる鮮卑族で最大の勢力を誇る拓跋部の建てた北魏という国があります。淝水の戦い敗北の結果分裂した前秦の混乱に乗じて独立した国家でした。その本拠地は現在の内モンゴルで遊牧民としての純粋性を色濃く残します。そのため強力な軍事力を持ち中原に興った五胡の諸国の侵攻を退け、モンゴル高原にも遠征して柔然を討ちました。
 北魏の指導者は拓跋珪(たくばつ けい)という人物です。拓跋珪は遊牧民ながら非常に優秀な人物で漢民族の文化を取り入れ積極的に漢人官僚を登用します。398年平城(山西省大同)を都に定め、各地に遠征しました。即位した拓跋珪は死後道武帝と諡(おくりな)されます。
 南北朝時代が始まったとされる439年は、北魏第3代太武帝が華北を統一した年でした。北魏は漢民族の文化を積極的に取り入れ漢化した事で華北の統治を容易にしましたが、一方旧来の鮮卑族の伝統を重んじる守旧派との対立が起こります。
 第6代孝文帝(在位471年~499年)は、北魏内の両者の対立を鎮めるため思いきって首都を中原の洛陽に移しました。中央集権化を推し進め鮮卑族と漢人の融和に努めます。仏教を保護し、彼に治世で有名な洛陽郊外竜門の石窟院が造られます。九品官人法を一部取り入れるなど積極的な漢化政策を実施、北魏の最盛期を築きました。
 漢化政策は鮮卑人の反発を呼び、皇太子の元恂ですらこれに同調するようになります。孝文帝の晩年、旧都平城で反乱が起こり、首謀者に祭り上げられていた元恂は捕えられます。孝文帝は元恂を廃嫡したうえで処刑したそうです。ただ反乱の余波は残り北魏分裂の原因となりました。


 次回、北魏の分裂と北朝の興亡を記します。

隋唐帝国Ⅲ  宋の武帝と南朝の興亡

 謝安が東晋朝廷を主導する前、桓温(312年~373年)という実力者がいました。桓温は大司馬・都督中外諸軍事という軍政と軍令を司る国軍の最高司令官に就任し東晋朝廷を支配します。その権力は絶大で皇帝を挿げ替えるほどでした。彼が擁立した簡文帝が臨終に際し、「皇太子(孝武帝)を補佐してほしい。諸葛武侯(諸葛亮)や王丞相(王導)のように」と遺言したにもかかわらず、幼帝を圧迫し禅譲させて国を奪う事を画策します。
 さすがにこれは東晋の貴族層の猛反発を受け、謝安らの引き延ばし政策で実現せぬまま死去しました。桓温の息子桓玄(369年~404年)は、庶子で末子でしたが父桓温から溺愛され我がままいっぱいに育ちます。桓温の事件があったにも関わらず桓氏が滅ぼされなかったのは、王氏、謝氏と並ぶ有力貴族だったからです。支那の大豪族、大貴族というのは広大な土地を所有し領民も多く、桓氏クラスになると数万の兵力を動員できるほどの実力を有していました。日本で言えば伊達氏や島津氏のような大大名をイメージしてもらえば良いかと思います。ですから滅ぼそうとしたら大乱となるのは必定で、滅ぼしたくとも滅ぼせなかったのです。
 それでも桓温に対する朝廷の反発から、息子桓玄の官職は低く抑えられました。これに反発した桓玄は30歳の時義興太守の職を捨て野に下ります。当時東晋は、首都建康(建業から改名。現在の南京)を守る北府軍と帝国の重要拠点荊州(現在の湖北・湖南省)を守る西府軍という常備軍を持っていました。貴族の連合政権で帝権の弱い東晋では、これら軍部の力が増大し朝廷は北府軍と西府軍を対立させ競わせることでバランスを保っている状態でした。北府軍も西府軍も軍閥化し中央政界に影響力を及ぼす存在となっていきます。
 当時北府軍の本拠地は首都建康の東50kmほどにある長江南岸の京口(江蘇省鎮江市)にありました。北府軍の司令官は淝水の戦いでも活躍した劉牢之。その部下に叩き上げの軍人劉裕(363年~422年)という人物がいました。

 孝武帝は暗愚な人物でした。ある時酒に酔った彼は最も寵愛する張貴人に「お前ももう30歳か?そろそろ廃されるだろう」と戯れを言います。張貴人はじっとこらえていたそうですが、その夜孝武帝が急死します。証拠はありませんが孝武帝の発言に怒った張貴人が毒殺したと噂されました。孝武帝この時35歳。息子安帝15歳が即位しました。

 安帝もまた白痴だったと伝えられます。叔父の司馬道子が摂政となり朝廷を動かしました。司馬道子は寵臣王国宝らを可愛がり政治は乱脈を極めます。ある時摂政司馬道子は朝廷の癌になりつつあった軍閥、北府軍と西府軍の削減を打ち出します。当然軍閥側は猛反発しました。

 野に下っていた桓玄がこの機会を見逃すはずはありません。荊州刺史として荊州の軍政と財政を握っていた殷仲堪を抱き込み西府軍の実権を握ると、「奸臣王国宝を討つ」と称し挙兵します。西府軍は首都建康を落とし王国宝らを処刑しました。この時北府軍の劉牢之は桓玄に味方します。部下の劉裕は「桓玄の天下は長続きしない」と劉牢之を諌めたそうですが聞き入れられませんでした。

 首都建康を制圧し西府軍・北府軍を握った桓玄に怖いものはありません。強大な軍事力を背景に安帝を脅し403年強制的に禅譲させました。摂政司馬道子まで殺害した桓玄の恐怖政治に味方した事を後悔した劉牢之は劉裕に「江北に逃れて再起を図ろう」と誘いますが、劉牢之に愛想を尽かし見限っていた劉裕はこれを拒否します。劉牢之は孤立し自殺しました。

 劉牢之の死で北府軍は解体され、劉裕も桓玄に仕える事となります。桓玄は軍の実力者劉裕に気を使い厚遇しようとしますが、桓玄の妻は劉裕がいつまでも人の下に付く人物ではないと見抜き「危険だから今のうちに殺すように」と夫に訴えたそうです。

 即位した桓玄は国号を『楚』と定めます。ところがその三カ月後の404年2月、秘かに機会を待っていた劉裕が広陵で桓玄打倒を唱え挙兵。挙兵当時わずか1700名だった劉裕軍ですが、桓玄から人心が離れていた事もあり首都建康に近づくにつれその軍勢は瞬く間に膨れ上がりました。大貴族のドラ息子に過ぎない桓玄が、叩き上げの軍人劉裕に敵うはずもありません。それを承知していたからこそ桓玄は劉裕を取り込もうとしたのですが結局無駄に終わります。

 桓玄はろくに戦いもせず首都建康を劉裕軍に明け渡し遠く蜀(四川省)に逃れようとしました。ところが益州の都護馮遷によって息子桓昇と共に捕えられ処刑されます。野望多き男の最期でした。わずか三カ月天下でしたので、楚は南朝には数えられません。

 劉裕は、廃位されていた安帝を連れ戻し復位させます。東晋再興の功臣として宰相となった劉裕は北伐でも功績を上げ相国(非常設の最高職。日本で言えば太政大臣)に任じられ宋王に封じられました。ここまで来ると東晋は国家として命運が尽き、人々は劉裕が次の天下を握るのだと思い始めました。

 418年劉裕は安帝を殺害、幼帝恭帝を擁立します。420年その恭帝から禅譲を受け自らの王朝宋を建国しました。劉裕は宋の高祖武帝(在位420年~422年)となります。即位と前後して、後顧の憂いを断つため劉裕は東晋の皇帝一族を皆殺しにしました。後世、この血生臭さがあるので劉裕のイメージはあまり良くありませんが、軍略に優れた有能な皇帝であった事は間違いなく、劉裕の建てた宋は後の趙匡胤の宋と区別するために『劉宋』とも呼ばれます。422年宋の武帝劉裕死去、享年60歳。

 正式な南北朝時代の開始は華北を鮮卑族の北魏が平定した439年ですが、華南では事実上東晋の時代から始まったとも言えます。以後南朝は宋・斉・粱・陳と続きました。


 ちなみに、桃花源記で有名な陶淵明はこの劉裕に仕えます。また世説新語の選者劉義慶は劉裕の甥にあたりました。
 次回は北魏による華北統一を描きましょう。

隋唐帝国Ⅱ  東晋の成立と淝水(ひすい)の戦い

 晋の皇族の一人に司馬叡という人物がいました。三国志で有名な司馬懿から数えると4代目。司馬懿の4男瑯邪(ろうや)王司馬伷の孫です。司馬叡の家系は三国志の時代を象徴するような家系で、彼の祖母は諸葛誕(亮の従兄弟)の娘。母は魏の宿将夏侯淵の孫。彼自身も司馬一族として瑯邪王になりました。

 祖父司馬伷は司馬師・司馬昭(炎の父)の異母弟です。同母兄の汝南王司馬亮は八王の乱のきっかけを作った人物ですが、司馬伷が早世したため瑯邪王家は直接乱に巻き込まれる事を免れました。ただ時の権力者成都王司馬頴からは警戒され監視されます。

 司馬叡は天性の勘があったのでしょう。華北の重要都市鄴(ぎょう)で軟禁されていた彼は、秘かに鄴を脱出し封地瑯邪に逃げ帰りました。この判断が彼の運命を決定的に左右したと思います。もし鄴に残っていれば戦乱に巻き込まれ他の晋の皇族と共に匈奴の劉淵に皆殺しになっていたでしょうから。

 瑯邪は山東半島南部、海に面した所にあり現在の青島の近くです。この地は戦乱の中心地中原(黄河中流域)からは離れており戦乱の影響がほとんど及んでいませんでした。漢代から豪族の大土地所有が進み、有名な瑯邪の王氏や謝氏など大貴族が強大な力を保ちます。彼ら貴族たちは、司馬叡を担ぎあげ自立する道を探り始めました。そんな中、司馬叡は時の権力者東海王司馬越から安東将軍・都督揚州諸軍事に任じられます。
 これを奇貨とした司馬叡は、本拠を北方の蛮族が暴れまわる中原から遠く離れた江南建業(現在の南京)に移しました。建業遷都を建策したのは瑯邪の王氏出身で当時司馬叡の側近王導だったと伝えられます。江南で勢力を拡大していた司馬叡の勢力を無視できなくなった晋朝政府は、丞相・大都督中外諸軍事(現在で言う所の総理大臣と国軍総司令官を兼務したようなもの)に任じました。といっても晋の中央政府自体が異民族の侵攻に苦しめられガタガタな状態でしたから、いざとなれば司馬叡の根拠地江南に脱出するための事前工作だったとも言えます。

 316年、晋朝最後の皇帝愍帝が匈奴の族長劉淵の興した漢(のちに前趙と改める)に首都洛陽を落とされ連行されます。晋の滅亡です。愍帝は翌317年漢の首都平陽(山西省)で殺されました。晋の皇族たちもこの時匈奴に虐殺され、司馬叡が唯一生き残ります。

 318年、司馬叡は山東や江南の貴族たちに推戴され即位しました。これが東晋の元帝(在位318年~322年)です。即位の過程から帝権は弱く大貴族たちの連合政権というような形になりました。東晋建国前後して、中原や山東から大貴族たちが続々と江南に逃れます。そのため、江南の地は開発が進み後に「江浙熟すれば天下足る」と評されるほど発展しました。
 もともと長江流域は稲作発祥の地にも近く、開発すれば大人口を養えるところです。長江文明もこの地に興りました。ただ、何らかの天変地異(大洪水?)で人口が激減し荒蕪地が広がっていただけなのです。事実上南北朝という時代の幕開けでした。元帝司馬叡は即位してまもなく322年、48歳の若さで死去します。
 支那大陸は南船北馬といって淮(わい)河を境にして交通手段の主流が分かれます。中原で猛威をふるった北方騎馬民族も無数の河川が縦横に交わり船でなくては移動困難な江南の地まで勢力を及ぼすことは不可能でした。東晋は、淮河以南を平定し安定した国家となっていきます。

 時代は383年、東晋では第9代孝武帝の時代まで進みます。貴族の連合政権として安定していた東晋と違い、北方ではめまぐるしい民族の興亡がありました。遊牧民族は、農耕民族に比べ絶対数が少ないため多くの異民族を糾合した連合政権にならざるを得ません。匈奴族の劉淵が建てた漢も、羯族出身の石勒や漢族の王弥など異民族出身の将軍が数多くいました。
 漢は、劉淵の死後一族の劉曜に乗っ取られます。劉曜は国号を趙(前趙)と改めました。ところが将軍石勒はこれに不満を持ち河北で自立して大単于趙王と名乗ります。これが後趙です。両者は中原で10年に渡り抗争を繰り広げますが328年結局後趙が勝ち匈奴の劉氏一族は皆殺しにされます。

 一時後趙が華北を平定しますが、中核民族の羯族の数があまりにも少なすぎ皇位継承の内紛の末漢族出身の将軍冉閔に349年滅ぼされました。冉閔は後顧の憂いを断つため羯族を皆殺しにしたそうです。冉閔は漢民族に異民族に対する復讐を訴えこの時数十万人の異民族が殺されたといいます。北方遊牧民も残虐なら、漢人も残虐、長い戦乱で人心が荒廃していたのでしょう。

 冉閔は魏を建国しますが、このような恐怖政治は長続きするはずもなく間もなく陝西地方に興った氐族の前秦が混乱を治め華北を統一しました。前秦の第3代皇帝苻堅(在位357年~385年)はなかなか有能な人物でした。漢人宰相王猛を登用し官僚機構、法制度を整え中央集権化を進めます。376年には華北統一に成功しました。このままいけば天下統一も時間の問題でした。
 天下統一の野望に燃える苻堅は百万とも号する大軍を動員し東晋を撃つべく南征の途に就きます。382年の事です。東晋も天下統一を諦めたわけではなく桓温の北伐など何度か中原遠征が試みられますが失敗していました。降って湧いたような国難に東晋の朝廷は大混乱に陥ります。時の宰相(尚書僕射)は名族謝氏出身の謝安(320年~385年)。
 権臣桓温の簒奪を防ぐなど、こちらも有能な人物でした。謝安は来るべき北方勢力の南進に備え甥の謝玄を将軍に任命し北府軍という首都防衛の精強な部隊を創設します。その北府軍に出撃命令が下り謝玄は援軍を加え8万を動員しました。数の上ではとても勝負になりません。ただ、敵は大軍ゆえに補給に重大な弱点を抱えていました。
 幾度かの小競り合いの末、383年10月両軍は寿春(淮南市)に近い淝水を挟んで対峙します。戦いを前にして謝玄は苻堅に使者を送りました。
「我が東晋軍は寡勢。せっかく国運を賭けて出撃したのにこのままでは数に圧殺されてしまう。ここは渡河させてもらい陣を整え正々堂々戦おうではないか」
 苻堅は侮っていた東晋軍が意外と精強なのに驚き、敵に乗ったふりをし東晋軍が渡河している途中を叩こうとこの申し出を受け入れます。しかしこれは要らざる小細工でした。そのまま数で圧殺すれば良いだけ。策士策に溺れる危険性は大なのです。兵法では敵が渡河している途中を撃つのはセオリーです。これを『半渡を叩く』と呼びます。しかし謝玄は、このような事は百も承知でした。

 謝玄は、勇猛な劉牢之に先鋒を任せ「渡河したら陣を整えずそのまま突撃せよ」と命じます。東晋軍は淝水を続々と渡河し始めました。苻堅は東晋軍を受け入れるため陣を後方に下げ待ち構えます。そして東晋軍が川を挟んで南北に分断する瞬間を叩こうというのです。

 ところが前秦軍は大混乱に陥りました。異民族の寄せ集め部隊だった前秦軍は、部隊間の意思統一ができておらず苻堅の作戦を知らない者が多かったのです。一時的な後退を撤退と勘違いした前秦軍の後陣が勝手に戦線を離脱し始めます。苻堅は使者を送り必死に戻そうとしますが、大軍だけに連絡が遅れました。

 この混乱を東晋軍が見逃すはずはありません。国土防衛に燃える東晋軍は火の出るような猛烈な勢いで突撃します。一旦不利になると寄せ集めの軍隊では裏切りが続出しました。特に漢人部隊は嫌々従っていた事もあり我先に東晋軍に降伏します。

 前秦軍は崩壊し、苻堅自身も流れ矢で負傷しました。誇張かもしれませんが前秦軍の8割が死傷するほどの大敗北だったと伝えられます。命からがら長安に逃げ帰った苻堅ですが、敗戦の結果皇帝の威信は地に堕ち前秦はばらばらに分裂し385年7月部下に裏切られて殺されました。

 一方、勝利した東晋ですがこちらも北上する余力はなく華南で勢力を保持するのみでした。淝水の戦勝の報告を受けた時、謝安は自宅で客と碁を打っていたそうです。文書を受け取っても無反応の謝安を見て客は不審に思い尋ねます。
「いかがされましたか?」
これに対し謝安は「小僧たちが賊に勝ったようです」
と平然と答えました。しかし客の帰った後謝安は喜びのあまり小躍りして履物の歯をぶつけて折っても気付かなかったというエピソードがあります。

 この謝安の治世が東晋の黄金期でした。その後は衰退し北府軍の有力武将劉裕に乗っ取られることとなります。次回は、劉裕の建てた宋から始まる南朝の歴史を記しましょう。

隋唐帝国Ⅰ  晋の滅亡

 日本でもなじみの深い三国時代。魏呉蜀と分かれた大陸を統一したのは魏の権臣司馬炎でした。彼は諸葛亮のライバル司馬懿の孫にあたります。司馬炎は自分が乗っ取った魏が帝室の親族を圧迫して力を弱めた反省から、一族を各地の王に封じ帝室の藩屏とすることで国家を守ろうと考えます。
 しかし何事もやりすぎるとバランスが崩れるのは当然で、今度はあまりにも一族の力が増大しすぎて相対的に皇帝の権力が弱まります。武帝と諡された司馬炎の時代はそれでも一応の安定をもたらしました。ところが後を継いだ恵帝は暗愚だったため、八王の乱という大乱を招きます。反乱を起こした司馬一族の王たちは、愚かにも周辺異民族の力を利用しようと国内に引き入れました。
 八王の乱自体は何とか鎮圧されたものの、結果として周辺異民族の強大化を招きました。全く愚かとしか言いようがありませんが、結局第4代愍帝(びんてい)の時、八王の乱の混乱に乗じて自立していた匈奴の族長劉淵に317年滅ぼされてしまいます。
 五胡十六国時代というのは西晋の滅亡から北魏が華北を統一する439年までを言います。すでに八王の乱の時から支那大陸の混乱は始まっていたともいえますが、五胡というのは次の五つの民族です。
匈奴…戦国時代以降支那の北縁を脅かしたトルコ系遊牧民族。後漢の時大飢饉が起こって南北に分裂し、そのうち南匈奴が漢に降伏し山西省に住んでいた。北匈奴は西進してフン族となったとされるが、確証はない。
羯(けつ)…匈奴の別種。あるいは月氏系とも言われる。石勒によって後趙を建国するが数が少なすぎて後趙滅亡時の漢人による大虐殺で消滅。
鮮卑…匈奴衰退後モンゴル高原で強大な勢力を誇った遊牧民族。モンゴル系だとされる。北方異民族で最大の勢力を誇り、北魏を建国しその後の支那王朝の方向性を決める。
羌(きょう)…チベット系遊牧民族。支那周辺の異民族としては春秋時代から認識されていた古い民族。一説では周の武王を助けて天下統一に貢献した古の大軍師太公望姜子牙(斉に封じられる)はこの羌族出身とも言われる。古代には支那大陸各地に分散して住んでいたが、支那が統一されるにつれ圧迫され陝西省、甘粛省に追いやられていた。

氐(てい)…チベット系遊牧民族。主に四川省から陝西省、甘粛省南部に定住。成漢、前秦、後涼などを建国。前秦の苻堅の時、一時華北を統一する。
 各国、各民族の興亡を記すのは煩雑なのでまとめると
国名   始祖      存続年          民族
前涼 張軌 301年 - 376年 漢族
前趙 劉淵 304年 - 329年 匈奴
成漢 李特 304年 - 347年 巴賨
後趙 石勒 319年 - 351年
前燕 慕容皝 337年 - 370年 鮮卑
前秦 苻健 351年 - 394年
後燕 慕容垂 384年 - 409年 鮮卑
後秦 姚萇 384年 - 417年
西秦 乞伏国仁 385年 - 431年 鮮卑
後涼 呂光 389年 - 403年
南涼 禿髪烏孤 397年 - 414年 鮮卑
北涼 沮渠蒙遜 397年 - 439年 盧水胡
南燕 慕容徳 400年 - 410年 鮮卑
西涼 李暠 400年 - 421年 漢族
赫連勃勃 407年 - 431年 匈奴
北燕 馮跋 409年 - 436年 漢族
 これだけでなく、他にも短命の国、周辺の小国などもあるのですが煩雑なので省きます。
 実質的に、西晋の滅亡をもって古代から続いていた支那文明は断絶しました。長い戦乱の中で純粋な漢民族の男たちはほとんど殺され女は奴隷となり、北方異民族との混血が現在の支那人となります。ですから古代支那人と現在の支那人は全く別の民族とも言えます。もちろん山間部など辺境には古代から続く純粋な漢民族も見つかるとは思いますが、おそらく全人口の1%もないでしょう。遊牧民族の恐ろしいところは、家畜を捌くように支配下の異民族を平気で虐殺できるところです。これは後のモンゴルや中央アジアに興った遊牧国家も同様です。
 本シリーズでは、支那が変質した五胡十六国時代から北方遊牧民族が支那化し世界帝国を建設した隋唐帝国の興亡まで描く予定です。次回は華南に逃げた晋の残党、東晋の建国と淝水の戦いを記しましょう。

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