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2017年10月

2017年10月 3日 (火)

日本人を守るための戦い  根本博と駐蒙軍

 大日本帝国陸軍中将根本博、戦史に詳しい方なら名前くらいは聞いたことがあるでしょう。第21軍参謀長、南支方面軍参謀長、第24師団長、第3軍司令官を経て1944年11月より駐蒙軍司令官を拝命、1945年8月19日からは北支方面軍司令官を兼任し復員事業に尽力。戦後は台湾に渡り中華民国軍の軍事顧問に就任、台湾名林保源と名乗り中将、金門島の戦いでは湯恩伯の第5軍管区顧問として実質的に金門島の戦いを指導。
 湯からは顧問閣下として礼遇を受け、厦門放棄と金門島の要塞化を進言、日本軍仕込みの重厚な防御陣地を構築し毛沢東の人民解放軍を見事撃退、軍人として有終の美を飾るが、当時の日本は台湾渡航禁止で台湾側も極秘扱いだったため知る人ぞ知るという生涯を送った人です。
 今回紹介するのは、駐蒙軍時代の根本。終戦時ソ連軍の侵攻を受け在留邦人4万人を助けるため中央の方針に逆らって独断で戦闘を継続、無事在留邦人を救い出しました。
 駐蒙軍は1937年12月駐蒙兵団として創設、1938年7月軍に改編され北支方面軍隷下となります。司令部は河北省と内蒙古の境にある張家口。当初は独立混成第2旅団しか実働部隊を持たない、いわば後方警備の軍でした。
 後方部隊のはずの駐蒙軍が矢面に立たされたのは、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し1945年8月9日参戦してきたからです。スターリンは米英との密約で大軍をシベリアに集結、宣戦布告と同時に満洲に雪崩れ込みました。内蒙古も例外ではなく、ソ連の傀儡だったモンゴル人民共和国を通って8月14日にはソ連軍が外長城まで達します。
 守る駐蒙軍は独立混成第2旅団の歩兵6個大隊、野砲兵1個大隊、工兵1個中隊のみが当面の兵力でした。これでは危ないという事で支那派遣軍第13軍から第118師団が抽出されて駐蒙軍隷下に組み入れられますが、未だ北上中でした。
 8月15日終戦。在留邦人は張家口に集まります。大本営や上級部隊の支那派遣軍司令部は、根本に対し即座の武装解除を命じました。ですがここで武装解除に応じれば、軍人はすべてシベリアに連行され、残された邦人は略奪暴行強姦に遭い生きて帰ることもできなかったでしょう。満洲各地で繰り広げられた悲劇が内蒙古でも繰り返されるのです。
 根本は悩みぬきます。しかし同胞である在留邦人を守るため、中央の命令に逆らって戦闘を継続し邦人を比較的安全な北京まで撤退させる決断をします。当時鉄道だけでは輸送は難しく、ソ連軍の爆撃も懸念されたため、あらゆる車両を総動員し、歩けるものは徒歩移動も含めて4万人の在留邦人が全員避難するまで8月22日から23日くらいまでかかる見通しでした。
 おそらく根本をはじめ駐蒙軍の兵士たちは全滅も覚悟していたでしょう。8月14日長城の北20㎞の張北に停止したソ連軍は8月17日、停戦命令を無視し航空機による空爆を開始しました。18日夜地上軍も動き出し長城線の南側、山岳地帯に構築された独立混成第2旅団の陣地に攻撃してきます。
 これでは停戦交渉どころではありません。日本軍は防衛戦闘に徹しこちらからは攻撃を控えます。そうして軍使を派遣しソ連軍と停戦交渉に入ろうとしました。ところがソ連軍はその軍使に銃撃するという暴挙を行います。まさに鬼畜の所業ですが、これが連中の正体なんでしょう。国際条約を平気で踏みにじる国ですからね。
 その間南京の支那派遣軍からは「直ちに武装解除して降伏せよ」と現実を無視した的外れの命令が下されます。根本も苦しかったでしょう。しかしすでに死を覚悟していた根本は、命令を無視し戦闘を続けます。ソ連軍の攻撃が本格化したため、この時点でもまだ2万人の邦人が逃げ遅れていました。
 頑強に抵抗する駐蒙軍に攻めあぐねたソ連軍は、20日には停戦の意思を見せ始めます。しかしここで停戦しては元も子もありません。粘り強く交渉しながら、根本は邦人脱出のタイミングを計りました。ソ連軍は「22日までに全面降伏せよ」と要求します。
 根本は隷下部隊を徐々に引き上げさせ、邦人を守りながら後退する道を選びました。ソ連軍も根本の遅滞戦術に気付き、21日砲撃を加え総攻撃を開始します。独立混成第2旅団は巧みに構築された防御陣地を有効に使い、反撃しました。4時間の戦闘で予想外の損害に驚いたソ連軍は立て直しのため長城線の北に一時撤退を余儀なくされます。
 駐蒙軍の必死の防戦で、ようやく最後の邦人が脱出に成功。根本は22日日没をもって全正面から撤退を命令。機甲部隊が主力の敵の追撃を恐れますが、損害に驚いたソ連軍の追撃はありませんでした。8月27日、駐蒙軍は内長城の青龍橋に到達します。
 その後根本は北京天津で抑留生活を送りますが、在留邦人4万は無事に帰還でき、満洲地区で起こったような残留孤児問題は内蒙古では生じませんでした。まさに奇跡の生還です。
 処罰と死を覚悟した根本の決断が、4万人の日本人を救ったのです。かくも高潔な軍人が居たという事を知ってほしくて記事にしました。

延久蝦夷合戦 青森が日本になった日

 平安時代の歴史、東北日本史に興味のない方はチンプンカンプンだと思うのでスルー推奨です。延久蝦夷合戦とは前九年の役、後三年の役の間に行われた出羽の豪族清原氏による蝦夷・閉伊(これも蝦夷の一種と推定)の異民族に対する征服事業です。実は私も知らなかったんですが、前九年・後三年の役を調べているうちに発見しました。
 簡単に前九年の役を振り返ると、奥六郡(岩手県の北上川流域、中央部)の支配者安倍一族に陸奥守源頼義、義家父子が言いがかりともいう理由で戦を仕掛け滅ぼした戦役です。ただ安倍一族が頑強に抵抗したため、頼義は出羽国仙北三郡(横手盆地一帯)を領する清原氏に助けを求め、清原氏の軍事力を借りて安倍一族を滅ぼしました。
 戦の結果、源頼義は朝廷から警戒され伊予守に転出、奥羽の軍事指揮権を握る鎮守府将軍には清原武則が任じられ一方的に清原氏が得をした形となりました。この戦後処理が源氏側に不満を生み、後三年の役では陸奥守に返り咲いた源義家が清原氏の内紛に付け入る形で戦を仕掛け清原氏を滅ぼします。
 ちなみに、安倍頼時の娘を妻にしていた藤原経清(亘理権大夫、陸奥国府の役人)も戦後源頼義の怒りを買って残酷な方法で処刑(錆びた刀で鋸引き)され、妻(頼時の娘)は戦利品として仇敵清原武則の子武貞の妻にされました。この時娘は経清との間に生まれた幼児を伴っており、彼は仇敵一族の中で若年期を過ごすこととなります。
 これに目を付けたのが義家で、経清の遺児を助けるという名目で清原氏に戦を仕掛けたのです。歴史に詳しい方か勘の鋭い方なら分かると思いますが、この遺児こそ奥州藤原氏初代清衡でした。
 前九年の役の結果、仙北三郡に加え奥六郡の支配者となった清原武則は俘囚(蝦夷のうち朝廷の支配に服した者)で初めて鎮守府将軍になります。もっとも出羽清原氏は出羽国在庁官人出身で俘囚の支配者となったという説もありはっきりしません。
 清原武則は鎮守府将軍として、いまだまつろわぬ民、蝦夷の征服を考えます。朝廷における後三条天皇の征夷の意向を汲んだとも言えますが、陸奥守源頼俊が征夷の勅命を受け、実質的に軍を動かしたのは清原氏でした。wikiでは清原軍を指揮したのは清原貞衡だとされますが、出羽清原氏系図に貞衡なる人物は見つからず、鎮守府将軍になるくらいですから武則あるいはその息子武貞だろうと推定されます。
 延久蝦夷合戦は1070年ですから、まだ清原武則は生きていただろうと思います。前九年の役終結が1062年ですからね。
 合戦の具体的な経過は分かりません。すでに安倍氏時代から津軽地方の十三湊(現在の十三湖と日本海を隔てる陸橋状の半島部)を整備していたという説もありますから、安倍氏の勢力はある程度は浸透していたのでしょう。清原軍の遠征目的の一つは、安倍氏の勢力を受け継ぎ実質的な支配を確立しようという意図もあったと思います。
 おそらく抵抗らしい抵抗はなく、あったとしても小競り合い程度。一年もしないうちに、岩手県の太平洋岸(閉伊の地)と現在の青森県にあたる下北地方、津軽地方は平定されました。糠部郡や津軽郡はこの時設置されたそうです。ただ完全支配されるにはまだ数年から数十年かかったといいます。
 こうして本州の最北端まで朝廷の支配下に置かれることとなります。しかし間もなく奥州藤原氏政権が誕生、独立政権が支配するようになり、頼朝による奥州合戦の再征服が必要となりました。

奥六郡と仙北三郡の生産力

 実は、独眼竜政宗にはまってからその興味が東北の歴史に移りまして前九年の役、後三年の役に関する長編を書こうかと思案しているところです。ただ、阿波戦国史、長宗我部三代記など四国ものの予定もありまして、いつになるか分かりません。
 その前に歴史シリーズはエネルギーを使いますので夏バテ気味の私としては秋以降になるかなと漠然と思っております。先に資料は集めておりますので、シリーズの前段階として前九年、後三年両役の舞台になった奥六郡、仙北三郡の生産力に関して書いておこうと思います。
 奥六郡というのは、9世紀から10世紀にかけて岩手地方で最初に成立した郡です。北上川沿いに開発され、南から胆沢、江刺、和賀、稗貫、紫波(斯波)、岩手の六郡を指します。岩手県の太平洋側は閉伊(へい)の族というおそらく蝦夷の一派の異民族が住んでおり、現在の青森県に当たる糠部郡、津軽郡も蝦夷の勢力が強すぎて設置されるのは後になります。ですから平安中期ごろはこの奥六郡が朝廷=日本の最前線と言ってよいところでした。
 一方、仙北三郡は現在の秋田県内陸部横手盆地を中心とした地方で、南から雄勝、平鹿、山本(仙北)の三郡を言います。実は現在の秋田・山形に当たる出羽国のほうが陸奥より開発が早く733年には出羽柵(秋田市付近)が築かれ、のちに秋田城が築城されます。と言っても戦国期の城ではなく政庁というもので、最前線ですからそれを柵で囲むという形状でした。
 前九年の役を起こした安倍一族の領地である奥六郡と清原氏の勢力範囲仙北三郡の石高を記しましょう。しかし江戸初期の数字ですから、あくまでイメージです。平安中期は江戸期の半分くらいの生産高ではなかったかと思います。
【奥六郡】
胆沢郡  5万1千石
江刺郡  2万9千石
和賀郡  1万2千石
稗貫郡  1万3千石
紫波郡  1万4千石
岩手郡  1万石
計    12万9千石
【仙北三郡】
雄勝郡  3万3千石
平鹿郡  2万7千石
山本郡  6万7千石
計    12万7千石
で両者はほぼ匹敵します。いくら豊富な金山で莫大な財力を誇っても兵士の頭数だけはどうにもならなくて、人口比で最大動員数が決まります。人口は石高に匹敵(特に東国では)しますから、外征兵力が人口の3%として奥六郡3870人、仙北三郡3810人。短期の国内戦なら7%までは可能ですから、それぞれ9030人、8890人となります。平安中期はその半数として、それぞれ推定2000人にも満たない兵力で戦ったことになります。
 どう考えても万単位の大規模な戦争にはならず、これなら源氏の私兵軍でも勝てそうです。そして実際勝ちました。

わんこそばと南部利直

 最近独眼竜政宗に影響されて東北戦国話が続きますが、決して政宗を手放しで褒めないのがミソ(笑)。だって知れば知るほど、自業自得の失敗を繰り返しよくこれで一時奥州に覇を唱えられたなと驚くほど。運だけは持っていたんでしょうね。政宗は嫌いではないんですが、愛情の裏返しでデイスるのは仕方ありません。ちょうど日本軍機をボロカスにけなす野原茂さんと同じ心理状況だと思います(爆)。

 ということで、政宗に岩崎一揆で嫌がらせされた南部利直さんの話。岩手名物わんこそば起源の一つに利直さん説があるのをご存知でしょうか?wikiにも載っているんですが、
 慶長年間、南部利直は上洛しようとして花巻城下を通ります。利直が食事を所望したところ、町の人は「殿様にまずい飯を差し出したら失礼にあたるべ。蕎麦を所望されているが、殿様のお好みが分からんから山海の珍味を添えて少しづつ小椀に入れて出すんべや」と思い、恐る恐る差し出したとか。(岩手弁が分からないので雰囲気で失礼します 笑)
 ちょうどお腹のすいていた利直は、小椀に盛られた蕎麦を一気に食べ、次から次へとお代わりしたとか。これがわんこそばの起源だそうですが、怪しい話ではあります。だって殿様の食事は、家臣が先々に行って準備しておくのが当然だと思うからです。
 さて真相はどうなんでしょうかね?

田村顕頼は百歳???

 前記事岩崎一揆を鎮圧した南部家の宿老北信愛(のぶちか)が当時77歳だったことに驚いたと書きました。信愛は、なんと1613年まで生き91歳で大往生を遂げたそうです。戦国時代には時々このように驚くべき長命の人が出てきますが、上には上がいました。
 といっても北信愛のように輝かしい武功を上げたというわけではなく、記録上長命であったというだけの人です。その名を田村顕頼といいます。生没年不詳なのですが、田村盛顕の次男ということだけわかっています。
 田村氏と言えば南陸奥の豪族で代々田村郡を領します。最盛期には10万石になったとされ、戦国時代最後の当主清顕は伊達政宗の正室愛(めご)姫の父として有名です。盛顕は清顕の曾祖父に当たります。盛顕の没したのが1487年。その最晩年に生まれたとしても清顕は1500年代後半の人ですから100年近くたっています。
 なぜ驚くかというと、顕頼は1589年伊達氏による二階堂氏の須賀川城攻めに従軍したという記録があるのです。顕頼が1487年生まれだとしてもこの時102歳。さすがにあり得ないと思います。
 顕頼は当時入道して月斎と名乗っていたそうですから、常識的な線では顕頼の子か孫が同じく出家して月斎と名乗ったか、単純な誤記ではないかとされます。私は子か孫説を採りたいですね。ただこれが70代だったら、北信愛の例もあるので可能性無きにしも非ずです。さすがに百歳超えたら馬にも満足に乗れないでしょう。輿に乗ったとしても鎧の重さにすら耐えられなかった気がします。
 果たして真相はどうなんでしょうね?

岩崎一揆 伊達政宗と南部信直の代理戦争

 1590年豊臣秀吉による奥州仕置き。陸奥の大名南部信直は、かつての家臣津軽為信がいち早く秀吉に謁見し独立大名として本領津軽郡5万石を安堵されたため、それ以外の領土しか安堵されませんでした。参陣が遅れた以上どのような言い訳も無駄だったのです。津軽郡にあった南部氏庶流石川氏出身で宗家を継いだ信直にとっては腸が煮えくり返る出来事でした。しかも実の父石川高信を殺したのは南部家に謀反を起こした津軽為信です。

 ただ秀吉も信直の境遇に哀れを催し、小田原に参陣しなかったために改易となった和賀、稗貫氏の旧領和賀郡、稗貫郡を加増し埋め合わせします。ただ津軽郡は江戸期には実高30万石にまで達するほど発展性があったのに対し早くから開発され発展の余地のない和賀郡、稗貫郡(合計2万5千石)ではあまりにも差がありすぎました。
 それでも信直は、不満を抑え秀吉に仕えます。一方、葛西大崎一揆を裏で操っていたとして懲罰人事で葛西大崎領を賜った伊達政宗とは隣国となりました。伊達領の北限が胆沢郡、江刺郡、気仙郡でした。当時の南部家の石高10万石。一方伊達家は58万石。胆沢、江刺、気仙三郡だけで9万5千石もありました。
 秀吉の奥州仕置きは、厳しい検地で農民の、改易で地元の武士の不満が爆発し東北各地で一揆が起こります。南部領に和賀、稗貫が加増されたのも信直が和賀・稗貫一揆鎮圧に活躍したからでした。
 時は流れ1600年関ヶ原合戦の年。南部氏も伊達氏も時世の流れを読み家康の東軍に味方します。南部家では1599年信直が病死し嫡男利直が後を継いでいました。利直は父信直の遺言もあり家康に味方し最上義光が上杉景勝の家老直江兼続の軍勢に攻撃されると援軍として最上領に出陣します。
 一方、天下への野心を失わない伊達政宗は怪しい動きをしました。緒戦こそ上杉領の白石城を攻略するも勝手に上杉と和睦し兵を引きます。家康は政宗に陣を固く守って軽挙妄動するなと言い含めていましたが、政宗は別の意図で動きました。
 上杉勢に攻められて滅亡寸前の最上家から火の出るような援軍の催促も言を左右にして応じず、申し訳程度の援軍は送ったものの遠巻きにして積極的動きはしませんでした。政宗は、家康から約束された百万石のお墨付きを信用せず既成事実化することを虎視眈々と狙っていたのです。
 政宗は、自領内に匿っていた和賀忠親を秘かに呼び出します。政宗は援軍を授け南部領になっていた和賀、稗貫両郡に忠親を使って一揆を起こさせたのです。これを岩崎一揆と呼びます。旧領奪回に燃える忠親は、手勢を率い花巻城に襲い掛かりました。忠親が巧妙だったのは、直接花巻城に向かわず郡内各地で小規模な蜂起を繰り返させたことです。花巻城からは軍勢が次々と反乱鎮圧のために出動し手薄となります。
 和賀勢はそれを確認すると一気に花巻城に攻めかかりました。花巻城を守るのは南部家の宿老北信愛(のぶちか)。当時なんと77歳。攻める和賀勢も老骨と舐めていた節があります。花巻城に残った兵力はこの時わずか百騎にも満たなかったそうです。一方和賀勢は数千にも膨れ上がっていました。
 
 多勢に無勢、南部勢は本丸に追い込まれます。絶望的な状況の中、信愛は女中に命じ数挺の空鉄砲を次々と撃たせました。これが二十挺にも聞こえ敵勢は警戒します。信愛の家臣熊谷藤四郎は不審に思って
「空鉄砲は弾の無駄ではありますまいか?敵勢に撃ち込んでこそ意味があると思いまするが…」
と尋ねました。
 信愛は、
「分かっとらんな。相手に応じて手段は変えるものだ。敵勢を見るに地下の者が大半。和賀に勢いがあるから付き従っているだけ。こういう輩は命を懸けてまでは攻め込んでこんよ。
 それに少数で多数の敵を防ぐには、決して敵兵を殺してはならん。逆上して遮二無二突っ込んでくるからだ。そうなると落城は必至。空鉄砲で時間を稼いでいればそのうち援軍が来る。それまでの辛抱じゃ」
と答えました。
 まもなく、急報を聞いた近くの南部勢が到着、背後から攻めかかったため一揆勢は一気に崩れます。信愛はこの機会を逃さず、城を打って出て一揆勢を攻め立てました。年老いたりとはいえ、南部家にその人ありと言われた名将北信愛です。和賀忠親は南部領から叩き出され、伊達家に逃げ込みました。
 山形救援から戻った南部利直は、一揆の背後に味方であるはずの伊達政宗が居ることを知り激怒します。一揆勢に紛れ込んでいた伊達家臣の首を家康に送り、政宗の背信行為を訴えました。関ヶ原で勝利した家康もこれを聞いて怒りました。糾弾のため政宗に出頭を命じます。政宗は和賀忠親に因果を含め自害させ、その首を持参しますが、小細工は家康には通用しませんでした。
 家康は、和賀一揆加担を理由に政宗の百万石のお墨付きを反故にします。わずか二万石の加増に終わったのは政宗の自業自得でした。政宗は野心のために葛西大崎一揆を扇動して先祖伝来の伊達郡、信夫郡を失い居城のあった出羽置賜郡も没収されました。これで懲りるかと思いきや、関ヶ原でも同じ間違いをやらかすのですから救いようがありません。
 関ヶ原で要らないことをしなければ、伊達・信夫郡くらいは返してもらえたかもしれないのです。一方、南部家は北信愛の智謀によって領土を守り抜きました。津軽為信謀反以降良いことのない南部家ですが、最後に面目を施したことになります。信直も草葉の陰で喜んでいるはず。
 伊達政宗と南部信直の代理戦争、信直の勝ちですね。

人取橋合戦時の連合軍勢力

 ただいま独眼竜政宗にはまっておりまして、1585年人取橋合戦時の反伊達連合軍の勢力について興味を覚えました。そこで私なりに調べたので書き記します。

◇佐竹義重(1547年~1612年) 
 反伊達連合軍の盟主。本領は常陸国(現茨城県の大半)奥七郡。と言ってもこの分類は那珂郡と久慈郡を無理やり東西に分けて数えているので、江戸期の分類では多賀郡、久慈郡、那珂郡、茨城郡の四郡に当たる。
 その石高は、
多賀郡5.7万石
久慈郡10万石
那珂郡10万石
茨城郡14万石
で、計39万7千石。これに南陸奥の白川郡の一部と、常陸南部にも勢力拡大中だったから40万石は確実。動員兵力1万3千。盟主にふさわしい実力を持っている。
◆蘆名義広(1575年~1631年)
 佐竹義重の次男。南陸奥の名門蘆名氏の養子となり家督を継ぐ。おかげで蘆名家中は蘆名旧臣と佐竹派で分裂しまとまりに欠ける。ただ南陸奥最大の大名であることには間違いない。
 勢力圏は会津四郡27万石と安積郡、岩瀬郡の一部で30万石強。動員兵力1万。
◆畠山義綱(1574年~1589年)
 二本松城主畠山義継の遺児。幼名国王丸。父義継が伊達政宗の過酷な要求に反発し、政宗の父輝宗を人質に逃亡を図り輝宗もろとも政宗に惨殺された事件以後、伊達家とは不倶戴天の敵となった。当時二本松領の大半は伊達家に奪われていたため勢力は不明。安達郡は7万石あるが、半分もなかった模様。
◆岩城常隆(1567年~1590年)
 南陸奥、岩城郡領主。石高5万石弱。家督相続に際し母(佐竹義昭の娘)の兄佐竹義重を後見人としたため、事実上佐竹氏の属国になっていた。常隆の父親隆は伊達晴宗の子で岩城氏に養子に入った。常隆は、伊達輝宗と従兄弟。
◆石川昭光(1550年~1622年)
 伊達晴宗の子で石川氏に養子に入った。政宗の叔父。所領の石川郡はわずか5千石。その周辺に領土を広げていたとしても1万石あったかどうかの弱小勢力。のちに政宗に降伏し、御一門衆筆頭となる。
◆白河結城義親(1541年~1626年)
 実質的に白河結城氏の家督を簒奪したので、家中の統制力は弱い。隣国佐竹義重の影響下に置かれる。石高6万石。
◆相馬義胤(1548年~1635年)
 相馬三郡6万石の領主。石高のわりに戦上手で、伊達輝宗、政宗親子をしばしば苦しめた。陸前の伊具郡、亘理郡にも勢力を拡大し伊達氏と激突、政宗の正室(愛姫)の実家である田村家にも手を出し、不倶戴天の敵となった。義胤の正室は伊達稙宗の娘。
 こうしてみると、皆伊達家と姻戚関係にあり叔父甥従兄弟、又従兄弟同士の戦いであったことが分かります。佐竹義重ですら正室は伊達晴宗の娘ですから、政宗とは義理の親戚でした。
 蘆名氏の勢力は大きかったですが、家中が混乱していたので佐竹氏の軍が中核。義重が国元の異変で撤退し連合軍が瓦解したのも分かります。ただ人取橋合戦自体は連合軍3万対伊達軍7千で勝負にならず、佐竹勢撤退がなければ政宗はこの時滅亡していたと思います。
 そういう運も戦国武将には大切なのでしょう。
 ところで、連合軍の石高は全部合わせても90万石弱しかないので、兵力3万は誇張のような気がします。実数は2万前後だったのではないでしょうか?多くても2万5千くらいか。それでも伊達勢の3.5倍はいますが。

天正伊賀の乱

 天正伊賀の乱とは、天正6年(1578年)から7年にかけての第1次、天正9年(1581年)の第2次と2回にかけて繰り広げられた織田信長と伊賀の惣国一揆との間の戦いです。惣国一揆とは聞きなれない言葉ですが、国内の国人、土豪、地侍が結合し一種の共和制を形成した集団です。イメージ的には加賀一向一揆に近いと思います。
 戦国時代の伊賀国はどういう状況だったでしょうか?伊賀は現在の三重県西部、京都や滋賀、奈良に隣接する盆地です。慶長末期の検地で石高十万石。地形の割には結構豊かです。伊賀といえば甲賀と並び忍者で有名ですが、実態は乱波、透破(らっぱ、すっぱ)の類で情報収集や情報攪乱などを担当した工作員です。伊賀や甲賀のように小土豪が乱立し統一した勢力がない地域は、外に出稼ぎに行って生計を立てる者が多かったそうです。
 ですから忍者が居るから伊賀を攻められないのではなく、必要性がないから織田信長がしばらく無視していたというのが実情でした。信長の本国尾張・美濃からは近江を通れば京都に行けますし裏街道の伊賀を通る意味はないわけです。
 織田信長の征服事業の空白地帯となっていた伊賀ですが、天正4年(1576年)三瀬の変で旧伊勢国司・守護の北畠具教を信長が暗殺し伊勢国を完全に掌握したことから隣国伊賀にも関りができました。すでに信長は伊勢に連年兵を入れ実質的には支配していました。信長の次男信雄を具教の養子として送り込んでいたことでもわかります。具教はじめ北畠一族の暗殺は形式的にも信長支配を確立させた事件でした。
 征服後伊勢国は信長の次男信雄に与えられました。ただおそらく直接支配は北畠氏旧領の南伊勢だけで、伊勢の他の地域は寄親として間接支配だったと思われます。当時の信長は天正3年長篠(設楽が原)合戦、越前再侵攻(朝倉氏滅亡後一向一揆が乗っ取っていた)、摂津石山本願寺との十年戦争、天正5年の紀州雑賀攻めなど後方地域の伊勢にかまっている暇はありませんでした。伊賀に関してはそのうち征服するにしても、優先順位は低かったのです。
 信長次男信雄という人物は暗愚で有名ですが、功名心だけは人一倍でそれが第1次伊賀攻めという愚挙につながりました。天正6年(1578年)2月、伊賀国の国人平山平兵衛が伊賀国への手引きを申し出ます。これを奇貨とした信雄は、父信長に無断で伊賀侵攻の準備を始めました。信雄が動員した兵力は八千。おそらく自分の領国のみの兵力でしょう。同年9月16日、信雄は三方から伊賀に攻め込みました。ところがろくに準備もせず情報にも暗かったため、伊賀国人一揆のゲリラ戦法にまんまとやられ惨憺たる敗北を喫します。
 報告を受けた信長は激怒し信雄に一時は親子の縁を切るとまで叱りますが、面目が潰れたことには変わりなくようやく伊賀侵攻を考え始めました。信長は内通者を募るなど周到な準備の末天正9年(1581年)四万四千という大軍を動員して伊賀に攻め込みます。今回も名目上の大将は信雄ですが、蒲生氏郷、丹羽長秀、滝川一益、堀秀政、筒井順慶などが実質的に指揮し六ケ所から侵攻しました。
 当時の伊賀の人口は推定で9万。これに四万四千の兵力で攻め込むのですから、ゲリラ戦など下手な工作は通用せず、文字通り撫で切りという惨状で、実に3万以上が殺されたそうです。信長は自分に敵対した伊賀国の住民を許さず女子供でも容赦しませんでした。伊賀国は焦土と化し多くの住民が他国に逃げ出します。
 制圧後伊賀国は、山田郡を三男信孝配下の織田信兼、他の三郡は信雄家老で北畠一族出身の滝川雄利に与えられました。関が原後は筒井定次(順慶の養子)が領しますが、筒井氏の時代でもまだ伊賀国は復興していなかったそうですから、信長の破壊がいかに凄まじかったかわかります。
 第1次、第2次を合わせて天正伊賀の乱と呼びますが、伊賀国の不幸は統一者がおらずばらばらの状態で征服者信長の侵攻を受けたことです。統一者がいれば、ほどほどのところで降伏するか、もっと利口なら最初から帰順し住民に被害が及ばなかったでしょうから。

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