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2017年11月

2017年11月12日 (日)

阿波戦国史Ⅹ  中富川の決戦(終章)

 長宗我部元親が阿波に侵入したとき、土佐勢は総勢2万3千。明らかに土佐の石高(10万石)から見ると過大でしたが、そのからくりは一領具足だと前に書きました。すでに占領している伊予、讃岐各地から動員した兵を加えても2万3千と言えば普通はだいたい70万石から80万石に相当します。計算上阿波を除いた四国三国(土佐・伊予・讃岐)の石高より多いのです。
 
 元親四国制覇の原動力はまさに一領具足の力でした。守護細川真之は滅ぼしたものの、十河存保も三好勢も満身創痍。とても長宗我部勢に敵うはずがありません。各地で敗退を繰り返し、本拠勝瑞城まで追い詰められていきます。
 中央において、1582年6月織田信長は本能寺の変で明智光秀の謀反に遭い非業の最期を遂げていました。跡を継いだのは信長の重臣羽柴秀吉。本能寺の変を備中高松城の陣中で知った秀吉は、変を知らない毛利方と急いで和睦すると、後世中国大返しと称賛される離れ業を演じ、山崎で逆臣光秀を討ち天下人への道を歩みつつありました。
 織田信長に降伏し以後は従い続けた三好家残党ですが、当時は長老三好笑岩(康長)が一族を率いていました。信長時代、笑岩は四国進出の先兵とされ1581年には威力偵察を兼ねて阿波に上陸、この時は長宗我部元親に叩き出されています。本能寺の変直前にも、信長の三男信孝を総大将とする四国遠征軍の先鋒を任され準備中でした。四国平定後は阿波一国を恩賞として貰う約束もあったと言われます。
 信長の横死で四国遠征は沙汰止みになり、信孝も丹羽長秀も秀吉の勢いに呑まれる形で山崎合戦に参加します。笑岩は戦はからっきし下手でしたが、一方政治力は優れ次の天下人が秀吉だといち早く見抜きました。可愛い甥存保のために秀吉に四国遠征を訴えますが、畿内統一に忙しい秀吉はなかなか良い返事を与えませんでした。
 そこで笑岩は、秀吉のそばに側近として仕え存在感を示すことで接近を図ります。秀吉としても名門三好笑岩が近くに侍ることに悪い気はしませんでした。笑岩は駄目押しとして、秀吉の甥秀次を自分の養子に迎えることを申し出ます。出自コンプレックスのある秀吉としても渡りに船でした。
 その間、阿波の存保からは火の出るような援軍の要請が来ます。1582年8月、一宮城まで進出した2万3千の長宗我部軍は、存保の息の根を止めるため勝瑞城に迫りました。存保は阿波・讃岐の兵5千を集め必死の抵抗を示します。
 8月27日、中富川の南岸に長宗我部勢の先鋒香宗我部親泰(元親の弟)が着陣しました。28日までに長宗我部勢主力が到着し、正午ごろ総攻撃を開始します。このころ、阿波は疫病が流行し飢饉が起こっていました。兵糧も満足に集まらない厳しい状況だったのです。おまけに敵勢は4倍以上の大軍。いくら存保が勇将でも、個人の武勇でどうこうできる状況ではありませんでした。存保が籠城を選ばず打って出たのも兵糧問題があったのではないかと思います。
 中富川の合戦で、三好方の主だった武将はことごとく討死したと言われます。数多くの兵士も死に、四国で起こった戦では最大の死傷者を数えたと伝えられます。存保はかろうじて死地を脱し讃岐に退去しました。阿波は長宗我部元親の領土となります。同年10月、元親は讃岐に侵入し存保の籠る十河城を攻撃します。この時は存保も必死に抵抗し守り抜きました。
 1585年5月、三好一族が待ちに待った秀吉の四国攻めが始まります。羽柴軍は総勢10万を数え、流石の長宗我部軍も各地で連戦連敗、たまりかねた元親は秀吉に降伏しかろうじて本国土佐一国を安堵されました。戦後阿波を貰ったのは秀吉の宿老蜂須賀正勝の子家政。十河存保に安堵されたのは讃岐十河領三万石のみ。すでに1584年頼みの綱三好笑岩が病死していたため、存保に打つ手はありませんでした。
 時は流れ1587年。十河存保に仙谷秀久、長宗我部元親を加えた四国勢は秀吉の九州征伐の先陣として豊後に渡ります。そこへ島津家久の兵1万3千が攻めかかりました。軍議の席で元親は、「ここは一時撤退し本隊の到着を待つべき」と発言します。存保は元親を臆病者と罵り合戦を主張して譲りませんでした。大将の仙谷秀久も積極策だったため合戦に決します。四国勢は6千でした。
 実は存保は、戦の行方を見抜いておりかつての宿敵元親と心中するつもりでした。戸次川の合戦は案の定島津軍に押しまくられ四国勢は進退窮まります。どこまで史実か分かりませんが、司馬遼太郎の小説『夏草の賦』では元親の嫡男信親を見つけた存保が「ともに敵陣に突撃仕ろう」と呼びかけ、臆病者と言われるのが嫌だった信親も同意。両者は獅子奮迅の活躍をした後壮烈な戦死を遂げました。存保享年33歳。信親に至っては22歳でした。
 戦場を脱出した元親は、最も期待していた信親の戦死を知り衝撃を受けます。以後政治に対する興味を失い酒に溺れたそうです。戦の直前存保は嫡男千松丸を脱出させていました。存保の願いは千松丸が十河家三万石を継ぐことでしたが、秀吉は戸次川の敗戦の責任を追及し領地を没収します。
 存保には千松丸の他に何人かの子がいたそうですが、彼らのその後は分かりません。存保の戦死で鎌倉以来の歴史を誇る名門三好家は滅びました。
 阿波国は蜂須賀氏が領し幕末まで続きます。ここに至り阿波の住民はようやく平穏を得たともいえます。
                              (完)

阿波戦国史Ⅸ  滅亡への序曲

 1553年守護代三好義賢に暗殺された阿波守護下屋形細川持隆。義賢は傀儡の守護として義賢の遺児真之(1538年~1582年)を擁立します。いくら三好一族が強大な力を持っていても、阿波国内には下屋形家に心を寄せるものが数多くいました。それでも義賢が生きている間はその不満を軍事力で押さえつけていたのですが、1562年義賢が和泉国に出陣中紀伊守護畠山高政、根来衆の連合軍に敗れ戦死すると、箍(たが)が完全に外れました。
 義賢の後の阿波守護代は嫡男長治が継ぎますが、彼は暗愚で1572年鷹狩の際鴨を捕まえた鷹を間違って村の少年が殺してしまったことに激怒し、少年を牛裂きの極刑に処してしまいます。もともと三好一族に対する反感は根強かったので義治の人望は阿波国内で地に堕ちました。
 一宮長門守成助、伊沢越前守頼俊、吉井左衛門大夫行康、多田越前守元次らが真っ先に下屋形家細川氏復権を唱え長治に反旗を翻します。勝瑞城で長治に押さえつけられていた守護細川真之は1577年城を脱出、那賀郡の仁宇山中に逃れました。
 この事件がきっかけで、阿波国内では守護細川派と守護代三好派で真っ二つに割れ血みどろの抗争が勃発します。といっても、一時は畿内を制覇した三好一族の力は侮りがたく、真之は次第に追い詰められていきました。そこで真之は、土佐の戦国大名長宗我部元親の力を借りて長治を討とうと考えます。背に腹は代えられなかったのでしょうが、国内の争いに隣国の勢力を引き入れることは両刃の剣になるのは必定です。
 そして長宗我部元親は野心家でした。真之の申し出を二つ返事で承知した元親は、阿波守護下屋形細川真之のために逆賊三好長治を討つという大義名分を掲げ露骨に侵略を開始。1577年2月、阿波白地城に三好方の大西覚養を攻め滅ぼすと、ここを拠点に阿波侵略を始めます。白地城は阿波内陸部にあり吉野川沿いに下れば徳島平野、北の阿讃山地を越えれば讃岐、西に向かえば伊予に至るいわば四国の要の位置にありました。ここを長宗我部氏が制したことは、四国攻略の大きな第一歩となります。
 長治は、国内の争いに長宗我部勢を引き入れた真之に激怒しました。1577年3月、長治は軍勢を率い真之を討つべく出陣、那賀郡荒田野まで進出します。ところが真之派の一宮、伊沢らの兵が長治勢を逆包囲、長治は仕方なく今切城まで撤退しました。地の利を得た真之派は三好勢を包囲攻撃、進退窮まった長治は手勢を率い城を脱出、別宮の浦(徳島市)から船で淡路国への脱出を図ります。
 ところが里の長は、かつて長治のために酷い目に遭わされ(もしかしたら鷹狩の村?)恨んでいました。長治の動向を近くまで追撃してきた一宮、伊沢らに密告。敵勢に追いつかれた長治は、敵の大軍の攻撃で満身創痍になりながら月見ヶ丘まで逃れ、自害して果てました。享年25歳。人徳のなさが身を滅ぼした形ですが、これで三好方は決定的に不利になります。
 阿波の三好方は、1578年三好宗家で最後に残った十河存保(長治の実弟)を当主に迎え、勝瑞城に入れました。もともと長宗我部元親は、守護真之に阿波国を取り戻すという大義名分で侵入したはずです。ところが、真之と存保の戦いには介入せず傍観しました。明らかに両勢力の共倒れを待って一気に阿波を併呑する腹です。真之は元親の裏切りに気付きますが、後の祭りでした。
 長宗我部勢に真之が見捨てられたことを悟り、守護方は動揺します。結局彼らも自分たちの身が可愛いのです。細川方と三好方の戦いに中立を保つのは良いほう、要領の良い者は我先に元親に誼を通じ始めました。国が亡びる時はこういうものなのでしょう。2万数千の長宗我部軍を背後に感じながら、存保と真之の異父兄弟は殺し合いを演じます。
 1582年10月、存保は茨ヶ岡(いばらがおか)城に真之を攻めました。敗れた真之は八幡原で自害、名門阿波守護下屋形家細川氏は十代で滅びました。享年44歳。
 真之を滅ぼしたことで三好氏が安泰になったかというとそうではなく、最大最強の敵長宗我部元親が残っていました。元親は、真之と存保が互いに滅ぼしあい勢力を弱める時をじっと待っていたのです。
 次回最終回、中富川の決戦と三好氏の滅亡を描きます。

阿波戦国史Ⅷ  将軍弑殺

 1564年実質的な天下人三好長慶は病死しました。時の将軍足利義輝は長慶の傀儡として将軍の実権を奪われたことに我慢できず、復権の機会を虎視眈々と狙います。1559年上杉政虎(のちの謙信)が越後勢5千を率いて上洛したとき、将軍家の惨状を憂い義輝に「三好・松永を討ちましょうか?」と尋ねたそうです。

 

 

 この時義輝は三好長慶の反撃を恐れ政虎の申し出を断ったそうですが、もしこの時政虎の申し出を受けていれば歴史は大きく変わったかもしれません。というのも軍事的才能では長慶より政虎の方がはるかに上で、越後勢が一度でも三好勢を破れば、もともと三好氏に反感を持っていた武士たちは多かったはずなので雪崩を打って義輝陣営に加わった可能性もありました。

 

 

 義輝は剣豪塚原卜伝に秘剣一の太刀を伝授され剣豪将軍と呼ばれたほどですが、いざという時乾坤一擲の決断はできない性格だったようです。三好長慶やその家宰松永久秀らは、媚びんばかりに政虎の機嫌を取り続け穏便に帰国させました。この点政治力では彼らの方が一枚上手だったわけです。生涯一度の最大の機会を逃した義輝ですが、長慶が死んで一番喜んだのは彼かもしれません。

 

 

 後を継いだ長慶の養子義継(十河一存の子)は、凡庸で義輝がどうとでも操れると考えました。ところが、三好家を実際に動かしたのは家宰松永久秀や重臣三好三人衆らでした。長慶は武人と同時に文化人としても教養が高く、あからさまに義輝を蔑ろにする態度はとりませんでしたが、久秀や三人衆は露骨に将軍義輝を圧迫しました。

 

 

 危機感を抱いた義輝は、越後の上杉氏、甲斐の武田氏、奥州の伊達氏、安芸の毛利氏、出雲の尼子氏、豊後の大友氏、薩摩の島津氏などに書状を遣わし上洛を促します。彼ら戦国大名たちは、一応将軍家を尊重しますが国内事情からとても上洛する余裕はありませんでした。ですから空手形に過ぎなかったのですが、久秀や三人衆はこれを将軍の裏切りと取ります。

 

 

 久秀と三好三人衆は将軍義輝殺害を計画しました。すでに旧主阿波守護細川持隆を殺しどんな悪行もハードルがかなり下がっていたのでしょう。下克上の典型と言えますが、それにしても将軍を京都において攻め殺すという事は前代未聞でした。

 

 

 1565年5月19日、清水詣でと称する1万2千の兵が京都に入ります。率いるのは松永久秀、三好三人衆ら。軍勢は清水寺には向かわず、将軍義輝の住む二条御所を囲みました。三好家の三階菱に釘抜、久秀の蔦の旗印を見た義輝は死を覚悟します。

 

 

 御所に雪崩れ込む三好勢を相手に、義輝は秘蔵の名剣二十振り余りを畳に突き刺し、敵兵を斬り続けました。刃こぼれすると剣を取り換えあたかも阿修羅のごとく戦ったと言われます。しかし、体力には限界がありました。三好方の雑兵が義輝の足を槍で薙ぎ払い、倒れたところを寄ってたかって串刺しにされたそうです。将軍にあるまじき非業の最期でした。享年30歳。

 

 

 すでに足利将軍家の権威は地に堕ちていたとはいえ、この事件は世間に大きな衝撃を与えます。永禄の変と呼ばれる事件ですが、三好、松永勢が京都を軍事的に制圧していたため、その怒りの声は封殺されました。

 

 

 

 将軍不在ではいかに松永らが暴虐でも天下を治められません。そこで目を付けたのが阿波で逼塞する平島公方義維の子義栄(よしひで)です。自分たちがさんざん圧迫した義維の子を持ち出すのですから、随分世間を舐めた話ですが、早速担ぎ出し朝廷を脅して将軍宣下をさせます。これが室町幕府第14代将軍義栄です。ただ京都情勢が不穏で入京できず、摂津富田に留まりました。

 

 

 さて、将軍継嗣問題は解決しましたが、三好家内部の主導権争いが残ります。三好三人衆は松永久秀を除こうと挙兵、畿内各地で両陣営による戦いが起こりました。久秀は腐っても鯛とばかり主君義継を擁しますが、劣勢は否めなく、両者の戦いで東大寺大仏殿が焼失するなど畿内は荒廃しました。

 

 

 この時点で久秀に味方したものは紀伊守護畠山高政、根来衆など、一方三人衆側には阿波守護代三好長治が付きます。居城信貴山城も落とされ久秀は多聞山城に逼塞しました。このままでは久秀の滅亡は時間の問題です。ところが思わぬところから救世主が現れます。

 

 

 織田信長でした。1568年9月、亡き義輝の弟義昭を擁した信長の大軍6万が破竹の勢いで上洛します。久秀は、名物茶器九十九髪茄子を信長に献上し降伏しました。将軍義栄を擁している三好三人衆は信長に降る選択はできませんでした。

 

 

 織田の大軍の前に圧殺されるように畿内各地で敗退を重ね、三好三人衆は阿波に逃亡します。この一連の戦いで三人衆の一人岩成友通が戦死、三好政康(宗渭)病没。何度か反抗を試みるも、そのたびに織田軍に撃退され三好三人衆の勢力は雲散霧消しました。最後に残った長逸も、1569年5月には死去したと言われます。あれだけ猛威を振るった三好一族は織田信長によって息の根を止められました。十四代将軍義栄は一度も京都に入ることなく病没します。十五代そして室町幕府最後の将軍として義昭が就任しました。

 

 

 三好義継は久秀と行動を共にしたことで助かり、河内北半国と若江城を安堵されます。ところが1571年久秀と共に武田信玄を盟主とする反信長連合軍に加わり謀反。要領の良い久秀がさっさと信長に降伏して助かったのに比べ、ぐずぐずしていたため1573年11月織田信長の命を受けた佐久間信盛の大軍に若江城を攻められ敗北。妻子とともに自害しその首は信長に送られました。享年25歳。義継の死をもって三好家嫡流は途絶えます。

 

 

 松永久秀の末路も哀れでした。裏切り続けた人生の最後は、1577年上杉謙信の上洛を頼み再び信長に背きます。しかし謙信は加賀まで来たものの反転、関東出兵準備中に急逝しました。敵中に孤立した久秀は信貴山城で籠城。信長は名物平蜘蛛の茶釜を差し出せば助命すると申し出ました。信長が名物茶器欲しさに申し出たことでしたが、今回助かってもいずれ理由をつけて殺されることが分かっていた久秀はこれを断ります。裏切り続けた久秀だからこそ、相手の嘘がよくわかるのです。

 

 

 1577年10月10日、自ら平蜘蛛の茶釜を叩き割った久秀は天守閣で自爆しました。享年68歳。ちょうど10年前久秀が東大寺大仏殿を焼いた日と同じだったことから、人々は神仏の祟りだと噂します。ともかく久秀の死によって、畿内における三好一族の勢力は完全に滅び去りました。生き残った他の三好一族はすべて信長に臣従します。

 

 

 三好一族に残された領土は阿波と讃岐でした。阿波には三好長治が、讃岐には十河存保の兄弟が居ます。彼らも強大化した織田信長に屈服するしかありませんでした。ただ、阿波は守護細川真之派と守護代三好長治派が血で血を洗う大抗争の最中です。

 

 

 

 

 次回滅亡への序曲にご期待ください。

阿波戦国史Ⅶ  阿波下屋形家の暗雲

 1564年8月三好長慶が病死すると、三好家の家督は長慶の弟十河一存の子で長慶の養子になっていた義継(1549年~1573年)が継ぎます。十河一存には実子が義継しかおらず、そのために一存は兄義賢から養子を迎えなくてはなりませんでした。これが存保です。
 義継は三好家督を継ぎ左京大夫の官位は得たものの実権はなく、重臣松永久秀や三好三人衆の傀儡に過ぎませんでした。三好三人衆とは三好長逸、三好政康(政康は間違いで政勝、出家して宗渭という説あり)、岩成友通のことで、彼らが実質的に三好家を動かします。
 新参者の松永久秀と三好三人衆が合うはずもなく両者は血で血を洗う抗争を繰り返すことになりました。彼らは将軍義輝を攻め殺すという大罪を犯すのですが、その前に阿波の状況を説明しておかなければなりません。
 話は応仁の乱直後までさかのぼります。下屋形阿波守護家五代細川成之(しげゆき、1434年~1511年)は、応仁の乱では宗家京兆家の管領細川勝元陣営にあって戦い続けました。1478年娘の死で世を儚んだ成之は、嫡子政之に家督と守護職を譲り出家してしまいます。1488年政之が早世したため、次男義春が後を継ぎました。
 あろうことか、その義春も1497年病死したため、成之にとっては孫にあたる之持(義春の嫡男)が継承します。之持は若年だったため、成之が後見することとなりました。1504年管領細川政元の重臣薬師寺元一が主君政元追放を図って反乱を起こします。これはすぐ鎮圧されたのですが、政元は成之の関与を疑い両者の関係は冷え込みました。
 政元は、一時は成之を討つため阿波遠征すら計画したようです。これを知った阿波細川家は、重臣三好之長が機先を制し淡路を攻撃。政元も讃岐、阿波に軍勢を派遣するなど一時は一触即発となります。ただ細川一族の内紛は他家を利するだけとその愚を悟った両者は、政元の養子に亡き義春の次男澄元を迎えることで和解しました。ですから阿波守護之持と澄元は兄弟です。1506年成之は上洛する孫澄元に重臣三好之長と阿波勢を付けて送り出します。以後之長は細川京兆家の重臣として仕え澄元を補佐しました。
 1507年管領細川政元は家臣に暗殺させ非業の最期を迎えます。政元死後の家督をめぐって澄元と之長が両細川の乱に巻き込まれていったことは以前書きました。出家していた成之も孫を助けるために奔走しますが、1511年船岡山合戦で敗北した澄元は本国阿波に逃げ帰ります。成之も気落ちし同年78歳で死去しました。
 下屋形阿波守護家八代細川之持が1512年27歳の若さで夭折します。阿波細川家は三代にわたって当主が若死にするという不幸に見舞われました。九代を継いだのは之持の嫡子持隆(1497年~1553年)です。この時15歳。ただこの計算だと之持が11歳か12歳で子供を設けていることになるので、さすがに持隆の生年は間違いかもしれません。ともかく持隆が家督と守護職を継承したとき10代前半だったことは間違いありません。
 当主が若年だったため、阿波国は三好長慶の弟義賢が守護代として実権を握りました。成長するにつれ、持隆はこの状況が我慢できなくなります。阿波国内には持隆に同情し義賢に反発する武士が多かったそうですから、守護持隆と守護代義賢は次第に反目するようになりました。
 両者の対立が決定的になったのは、1534年十代将軍義稙の養子義維を持隆が阿波に迎え入れたことがきっかけです。持隆は那賀郡平島荘に屋敷を建て義維を住まわせました。義維は平島公方と呼ばれます。一時は次期将軍と目されるも京都に入れず今は遠く阿波の地でわずか従者6人で暮らす義維に持隆は同情します。
 勝瑞城の持隆は、阿波の軍勢を使って義維を将軍職に就けようと1553年国内に動員令を発しました。ところが実質的な京都の支配者三好長慶はすでに十三代将軍義輝を擁しており、持隆の動きは邪魔でしかありませんでした。一応持隆は長慶の主筋に当たるので、持隆が京都に来ると細川一族や、心ならずも長慶に従っている旧澄元派、高国派が持隆に寝返る可能性もあり三好政権にとっては非常に危険でした。
 兄長慶の意を受けた守護代義賢は、見性寺で守護持隆を暗殺します。享年57歳。この事件がきっかけで阿波では守護細川派と守護代三好派で真っ二つになり争うようになります。持隆が、増長する守護代義賢を除こうとして露見し逆に殺されたという説、あるいは失脚した細川晴元を持隆が支援しようとしてことに義賢が危機感を抱いて殺したという説もあります。
 このように、三好一族の支配は脆弱なものでした。本国阿波においても盤石ではなかったのです。守護持隆の動きは、三好一族に奪われた阿波支配権を取り戻そうとする動きでもありました。阿波守護職は嫡子真之(1538年~1582年)が継ぎますが、名目だけの存在で一国支配には至りませんでした。
 真之の母は悪女で有名な小少将で、夫持隆の生前から三好義賢と通じていたと言われます。義賢との間に長治と十河家に養子に入った存保という子供を設け、真之と彼らは兄弟で殺しあう壮絶な関係となりました。主君の妻を奪い、その主君を弑した義賢も末路は良くありませんでした。義賢の家老篠原長房は、悪女小少将を遠ざけるようしばしば義賢に諫言しますが、小少将の美貌に溺れきった義賢は受け入れませんでした。
 1562年阿波勢を率いて和泉国に出陣していた義賢は、畠山高政、紀州根来衆との戦いで敗北、戦死します。享年36歳。義賢の後は長男長治が継ぎます。阿波守護細川真之と守護代三好長治は異父兄弟なので、普通なら母小少将が仲を取り持ち和解する道もあったはずです。しかし根っからの淫奔な性格だったのでしょう。息子たちの争いは無視し、家老篠原長房に近づこうとしました。当然長房は拒否します。すると長房の弟自遁が彼女の毒牙にかかります。
 長房は自遁に再三忠告したそうですが、美女に溺れた自遁はこれを聞き入れず、逆に主君長治に「長房に謀反の疑いあり」と讒言しました。讒言したのは小少将だったともいわれますが、経験の薄い長治はこれを信じ1573年長房を攻め滅ぼしました。篠原長房は三好家を支える大黒柱です。長房健在の間は松永久秀ですら勝手なことはできなかったと言われます。その長房を討ったことで三好家の命運は尽きました。
 阿波国は真之と長治の兄弟同士の戦争に突入します。しかしその前に、松永久秀、三好三人衆による将軍義輝暗殺を描かなければなりますまい。

阿波戦国史Ⅵ  三好長慶の台頭

 三好長慶(1522年~1564年)は、父元長が対立する主君細川晴元にはめられ敗戦の責任を取らされて自害した時わずか10歳。元長の遺児は4人おり、末弟一存は父が死んだときまだ生まれたばかりの幼児でした。
 管領細川晴元は、元長排除に利用した一向一揆が手に負えなくなりついには畿内から叩き出されてしまいます。淡路に逃げ込んだ晴元は、1334年摂津池田城に戻り態勢を立て直すとようやく一向一揆と和睦します。この際、河内の木沢長政の仲介で阿波に居た長慶と和解、家臣に組み入れました。
 わずか10歳の長慶に何ができたでしょう?晴元に対する恨みは残しつつも表面上は臣従する事となります。晴元は同じ三好一族の政長(長慶の大叔父)を重用し若年の長慶は軽んじました。そんな中、伊丹親興、三宅国村、塩河政年(細川高国の娘婿)が河内の木沢長政と結び反晴元の兵をあげます。彼らは亡くなった旧主高国の養子氏綱を擁立し晴元に対抗させます。
 晴元は、長慶、三好政康(政長の子)、池田筑後守、波多野稙道らを遣わしこれを攻めますが、一進一退を繰り返し戦線は膠着します。晴元は氏綱と一旦和睦しますが、1546年紀伊・河内守護畠山政国、その重臣遊佐長教と結んだ氏綱が再び反乱を起こすと、晴元陣営は収拾がつかなくなりました。
 というのも晴元陣営の中で長慶と政長の対立が表面化していたためで、長慶は主君晴元を裏切り氏綱陣営に走りました。三好家中にはもともと主君晴元に対する不信感があったのでしょう。そして晴元に重用される政長を一族の裏切り者と見ていたのかもしれません。長慶は1549年江口の陣を急襲し政長を討ちました。
 政長、高畠長直ら多くの重臣を討たれた晴元は、身の危険を感じ将軍義晴、その息子義輝を擁し近江坂本に脱出します。1552年長慶と氏綱は軍を率いて上洛、氏綱は念願の管領職を得ました。従四位下右京大夫の官位を貰い自らを摂津守護に任じます。実はこの氏綱が、室町幕府でも細川京兆家としても最後の管領(第35代)になります。
 すでに1550年十二代将軍義晴は、近江国穴太で病死しており、嫡子義輝が後を継ぎました。劣勢の晴元唯一の強みが足利将軍を擁していることでしたが、肝心の義輝が1552年1月氏綱・長慶と秘かに和睦し帰洛すると晴元の立場は悪くなります。その後もしつこく長慶と戦いますが、1561年六角・畠山と結んで挑んだ最後の決戦に敗れ長慶と和睦、普門寺に幽閉されました。失意の晴元は1563年普門寺において50歳で死去。
 細川氏綱は管領に就任したものの、三好長慶の傀儡でした。その氏綱も1564年1月死去します。長慶は将軍義輝を擁し、管領でこそなかったものの従四位下修理大夫、伊賀守、筑前守の官職を得ました。さらには摂津守護代、幕府相伴衆に任命されます。相伴衆というのは、通常管領の一族か有力守護大名に与えられる身分で、将軍の宴席や他家訪問に随行する役目でした。いわば名誉職のようなものですが、席次は管領に次ぐものとされ長慶の場合は幕府を主導する実力を示したものと言えます。
 実質的な天下人として長慶は山城・摂津・丹波・淡路・和泉・阿波の六か国を支配し、大和・河内・播磨へも進出する勢いでした。長慶の次弟義賢は阿波守護下屋形細川持隆の守護代となります。三弟冬康は淡路の豪族安宅(あたぎ)氏の養子になり家督を継ぎました。安宅氏は淡路の水軍を掌握しており長慶には大きな力となります。末弟一存も讃岐の有力豪族十河氏の養子に入り、讃岐もまた長慶の勢力に入りました。
 兄弟4人が団結している限り三好氏は安泰です。ここに一人の人物が登場します。彼の名は松永久秀(1508年~1577年)。山城国西岡の地侍の子、あるいは商人の生まれとも言います。1533年頃、長慶に見いだされ祐筆(武家の秘書役)となりました。
 久秀は、文人としても武人としても有能で長慶は久秀を重用し重臣として一部の軍勢の指揮を任せるようになります。久秀は戦功を重ねついに三好家の家宰の地位を得ました。ただ久秀は有能ではあっても、その性姦佞な人物でした。長慶の弟義賢やその家老篠原長房は早くから久秀の正体を気づき、久秀を遠ざけるよう長慶に進言します。
 しかしすっかり久秀を信用しきった長慶はこれを聞き入れませんでした。1561年長慶の末弟十河一存が病没します。30歳の若さでした。次弟三好義賢は1562年宿敵畠山高政との合戦で討死していますから、長慶は大黒柱である二人の兄弟を相次いで亡くしたことになります。
 戦死した義賢は別として、一存の死は久秀から毒殺されたのではという噂も立ちました。真相はともかく、久秀にとって自分を掣肘する者たちが相次いで亡くなったことは朗報でした。頼みとする弟たちの死で衝撃を受けた長慶は、政治に対する興味を失い河内国飯盛山城に引きこもります。久秀の専横はますます激しくなりました。
 久秀は唯一残った長慶の弟安宅冬康に謀反の疑いありと讒言します。冬康は人格者として有名で全くの無実でしたが、そのころ期待していた嫡男義興の急死(これも久秀の毒殺とされる)で失意のどん底と錯乱状態だった長慶は、讒言を信じ冬康を飯盛山城に召喚、言い訳も許さず自害させました。1564年6月の事です。
 結局すべての兄弟を失った長慶は、1564年8月42歳の若さで病没します。死の間際冬康がどうやら無実だったと気づいたことも病気を重くした原因になったと云われます。病床の長慶はようやく奸臣久秀の排除に動きますが後の祭りでした。
 次回長慶死後の三好家と、阿波における下屋形細川家の状況を記します。
 

阿波戦国史Ⅴ  京兆家の家督争い

 応仁の乱の結果、足利将軍は権力を失い形骸化した権威のみ残りました。三管領家でも斯波氏、畠山氏は兄弟一族が東西両陣営に分かれ激しく戦ったため力を無くし守護領国のみを汲々と守るだけの存在に落ちぶれます。三管領家で唯一残った細川政元が幕府の実権を握り独裁したのは当然でした。
 ただしその威勢も精々近畿と四国のみに及ぶだけで、すでにほかの地域では守護や守護代が台頭し戦国時代が始まっていたとも言えます。細川政元横死は確かに幕府や畿内では大きな事件でした。政元には実子がなく、九条家から入った澄之、野州家から入った高国、阿波下屋形家から入った澄元という三人の養子がいました。
 この中で、山城国守護代香西元長、摂津国守護代薬師寺長忠が後押しした澄之が最有力となります。香西、薬師寺の軍事力を背景に澄之は義父政元の葬儀を催し、将軍義澄から細川京兆家の家督を認められました。しかし、香西、薬師寺らが主君政元を暗殺したことは皆知っており澄之が裏で命じた可能性もあったため、澄之の京兆家家督相続は細川一族の猛反発を招きます。
 実は政元暗殺の時、澄之最大のライバルになるはずの澄元暗殺も計画されました。下屋形細川家から澄元補佐のために派遣されていた三好之長は、危険を察知し澄元とともに近江に脱出します。京兆家家督争いは実質澄之と澄元の対立で、家格的に一枚落ちる高国は澄元と連携し、まず余所者の澄之排除を決断。他の細川一族も澄元・高国を支援し、河内の畠山氏、近江の六角氏も引き込み1507年8月京都に攻め上りました。
 この戦いで香西元長、薬師寺長忠が戦死し、進退窮まった澄之は自害します。享年19歳、政元暗殺からわずか40日余りの天下でした。家格的に澄元が細川京兆家の家督を継ぐのは当然で、管領に就任し摂津・丹波・讃岐・土佐の守護を兼ねる強大な勢力となります。澄元を助け京兆家家督を継承させた三好之長の功績は抜群で、之長は京兆家を含めた細川一族全体の家宰に就任しました。
 ところで細川政元にクーデターで将軍の座を追われた義稙(義材から改名)はどうしていたでしょう?この頃義稙は西国の大大名大内義興の庇護のもとにありました。義興は本国周防・長門はもとより北九州の豊前、筑前の守護を兼ね、安芸や石見にも進出し実に六か国を領する巨大勢力でした。義稙は管領細川一族の内訌が自分が復権する絶好の機会だと見ました。義興もまた天下に野心を持っており両者の利害は一致します。
 義興は、澄元家督相続に不満を持つ高国と秘かに結び1508年3月2万の大軍で上洛しました。当然義稙も同行します。澄元は義興に和睦を申し込みますが、野望に燃える義興はこれを一蹴、義興と結ぶ高国も伊勢で挙兵、京都に攻め上る姿勢を見せました。同年4月、大内軍が泉州堺に上陸し京都に迫ると畿内の諸将は次々と義興に寝返ります。最終的に大内勢は6万に膨れ上がり、澄元とこれを擁する三好之長の阿波勢は近江に撤退を余儀なくされました。この時将軍義澄も行動を共にします。
 入京した義稙は、義澄の将軍職を剥奪し再び将軍に返り咲きました。義澄は将軍職を失った衝撃から間もなく病死します。今回の上洛に抜群の功績があった大内義興は、管領代、山城守護となり左京大夫の官位を得ました。細川高国は管領に就任し京兆家の家督を相続したものの、将軍義稙も管領高国も大内義興の傀儡に過ぎず、この時義興は実質的な天下人となります。
 近江に逃れた澄元、之長は何度か京都奪回を試みますが、1509年如意ヶ嶽の戦いで敗北、同年10月には逆に高国が近江に攻め込んだため澄元、之長は本国阿波に逃亡しました。ただ、義稙と高国が簒奪に近い形で権力を奪取したことは畿内の武士たちの反発を招き、余所者に過ぎない大内義興が天下人として大きな顔をしていることも嫌います。
 義興・高国政権は安定せず、前将軍義澄と前管領澄元を支持する勢力と泥沼の戦いを繰り広げました。なんとこの戦いは10年も続き、大内方諸将が離反、勝手に帰国する者が続出します。出雲の尼子経久が大内領の石見に攻め込んだため、たまりかねた大内義興は1518年帰国しました。義興・高国の連携もこの頃にはすっかり冷え込み対立していたことも義興が嫌気を起こした要因でしょう。
 高国は将軍義稙とも対立、京都政権の混乱を見て取った阿波の澄元・之長は1519年11月四国の兵を率いて摂津国兵庫に上陸しました。1520年2月、摂津でこれを迎え撃った高国が敗北したため、将軍義稙は澄元と通じました。今度は高国が近江に逃亡する番です。入京を果たした澄元は実に10年ぶりに管領に復職しました。
 しかし近江坂本に逃れた高国は、近江南半国守護六角定頼、同北半国守護京極高清、丹波の内藤貞政と結び逆襲に転じます。1520年5月高国・六角・京極・内藤連合軍に等持院の戦いで敗北した澄元は再び播磨から本国阿波に逃亡。三好之長も高国に捕らえられ二人の息子とともに処刑されました。
 失意の澄元は同年6月、阿波勝瑞城で病死します。享年32歳。京兆家の家督は嫡子晴元が継ぎました。再び権力を握った高国は、澄元と内通していた将軍義稙を追放、前将軍義澄の遺児義晴を十二代将軍に擁立します。が、高国の天下は長く続きませんでした。
 1526年10月、細川澄元の遺児晴元を擁した三好之長の孫元長が高国打倒の兵をあげます。元長の阿波勢は摂津に上陸、将軍義晴を擁立する高国に対抗するため、義晴の弟義維(よしつな)を担ぎ出しました。ただ義維は京都に入ることは叶わず堺に留まったため堺公方と呼ばれます。
 晴元・元長勢は畿内各地で高国勢と激しくぶつかり、1527年3月桂川原の戦いで高国勢が敗れたため、高国は将軍義晴を連れて近江坂本に逃亡、高国政権は崩壊しました。すると今度は、管領細川晴元と家宰三好元長が対立をはじめ、怒った元長は阿波に帰国してしまいます。復権をたくらむ高国は越前の朝倉孝景に支援を要請、孝景は大叔父朝倉宗滴を大将とする越前勢を送り込みます。越前勢とともに攻め込んだ高国は京都を奪回するも、翌年3月越前勢の帰国とともに勢いを失い京都を叩き出されました。
 しぶとい高国は、今度は備前守護代浦上村宗の協力を取り付けます。浦上勢とともに逆襲に転じた高国は1531年摂津の大半を制圧。危機感を覚えた晴元は三好元長と和睦し、元長の兵を加えて摂津中嶋の戦いで高国・浦上勢を防ぎました。同年6月、天王寺の戦いで敗北した高国は総崩れになり尼崎に逃亡します。混乱の最中、高国は進退窮まり尼崎の藍染屋に逃げ込みました。藍甕の中に隠れた高国ですが、三好勢に発見され尼崎の広徳寺で自害を強要されます。享年48歳。野望多き男の最期でした。これを大物崩れと呼びます。
 最大の宿敵高国を倒すと、再び管領晴元と三好元長の対立が表面化しました。晴元の従兄弟で阿波守護の下屋形家持隆は両者の関係を取り持とうとしますが無駄でした。1532年、晴元が扇動した木沢長政、一向一揆との戦いで元長は敗北します。管領となった晴元は堺公方義維を見限り将軍義晴を擁立していたため、元長は敵から義維を逃がすだけで精一杯でした。晴元から敗戦の責任を追及された元長は、1532年6月20日、自害します。享年32歳。
 非業の最期を遂げた元長ですが、彼の遺児長男長慶、次男義賢、三男冬康、四男一存(かずまさ)は優秀で三好一族台頭の原動力となりました。
 次回三好長慶登場、三好一族の畿内制覇を描きます。

阿波戦国史Ⅳ  両細川の乱

 ここで阿波以外の細川氏の歴史を記しましょう。阿波国守護は下屋形阿波細川家が世襲したことは前に書きました。それ以外、讃岐と土佐は奥州家定禅の活躍もあり奥州家の顕氏が讃岐、定禅が土佐の守護となります。他に河内国、和泉国の守護にもなりました。奥州家顕氏は特異な武将で、足利幕府の内訌である観応の擾乱では宗家頼春が最初から尊氏派だったのに対し、直義派の有力武将として戦います。
 ところが後に尊氏派に転じ、これが直義派劣勢の引き金となりました。顕氏は両陣営の間を巧みに泳ぎ切り乱後は引付頭人、侍所頭人など幕府要職を歴任します。その後は幕府重臣として二代将軍義詮にも仕え1352年病死しました。息子繁氏が奥州家を継承しますが1359年6月に急死、家督は繁氏の養子で宗家和氏の子業氏が継承するも奥州家の重要な守護領国である讃岐、土佐は取り上げられ宗家頼之に渡ります。
 以後奥州家は幕府官僚として京都に在住するようになりました。細川宗家では当主和氏が1342年47歳で死去します。和氏の子清氏は幼少だったため叔父頼春の後見を受けることとなりました。清氏は若狭守護、評定衆、引付頭人となり相模守の官位も得ます。1358年足利尊氏が死去し、執事(のちの管領)仁木頼章が辞任すると、二代将軍義詮の初代執事に任命されるなどまさに我が世の春といった状況で得意の絶頂でした。
 しかし、そのため政敵も多く仁木義長、斯波高経、畠山国清らと激しく対立、将軍義詮の意向にも逆らうようになったためついに義詮から追討の命が出されます。太平記では佐々木道誉の讒言が清氏失脚の元凶だと言い、今川了俊の難太平記では清氏は無実だったと記しました。1361年9月、清氏は守護領国だった若狭に脱出します。越前守護斯波高経が幕府の命令で出兵同年10月清氏の軍を破ります。
 敗北した清氏は、摂津に逃れそこで南朝に降りました。一時は楠木正儀とともに京都を奪取しますが幕府の反撃を受け地盤である四国に逃亡します。阿波を経て讃岐に至った清氏はそこで勢力を回復しました。阿波は清氏の父和氏が1340年まで守護を務めていた国、讃岐も奥州家の守護領国ながら清氏の領地もあり室町幕府は放置できなくなります。
 清氏追討の命を受けたのは従兄弟の頼之(頼春の子)でした。頼之は瀬戸内海の海賊衆を味方につけ海上封鎖し清氏を白峰城(香川県坂出市)に追い詰めます。退路を断たれた清氏は、単騎突撃し壮烈な戦死を遂げました。なお清氏の遺児正氏は南朝に属してその後も抵抗を続けますが、最期ははっきりしません。
 こうして細川宗家の家督は清氏ではなく頼之に移ります。頼之は奥州家から讃岐、土佐の守護職を得ると阿波、伊予、備後の守護にも任命されました。妻が三代将軍義満の乳母だったことから管領に就任し絶大な権力をふるいます。これが細川京兆家で、後に阿波は弟詮春の下屋形阿波細川家に譲りますが、丹波・摂津という近畿の枢要な国の守護を独占し繁栄しました。
 応仁の乱はまさに管領京兆家細川勝元と山陰山陽六か国の守護を兼ねる侍所所司山名宗全の対立でした。詮春から数えて四代目下屋形家持常は阿波の他に三河の守護職も獲得し足利六代将軍義教から絶大な信頼を得ます。将軍義教が横死した嘉吉の乱後、暗殺の首謀者播磨の赤松満祐を追討するため播磨出兵も果たします。ただ満祐討伐はすでに山名宗全によって果たされており一歩遅れる形となりました。
 播磨守護は山名宗全に奪われ、これが細川一族と山名氏の対立の発端となります。のちに八代将軍義政の後継問題から応仁の乱が起こりますが、持常の子成之は一貫して宗家勝元に従いました。応仁の乱(1467年~1477年)はご存知の通り何の得るところもなくただ戦場となった京都を荒廃させただけの戦いでしたが、結果として地方では守護や守護代が自立するようになり戦国時代の始まりとなった戦いでした。
 下屋形細川氏は、本拠阿波を動かなかったため勢力は安定し、細川一族内での発言権も大きくなります。京兆家勝元の子政元が管領に就任、父勝元に続き絶大な権勢を誇りました。政元は1493年明応の政変で十代将軍足利義材(義政の弟義視の子)をクーデターで追放、堀越公方政知の子義澄を擁立し十一代将軍に据えました。これは暴挙ともいえる事件でしたが、後々大きな影響を与えることとなります。
 京都を脱出した義材(のちに義稙と改名)は周防の大大名大内義興のもとに逃げ込み、政元死後の話ですが義興は大軍を擁して京都に攻め上りました。
 管領政元には実子がなく、三人の養子を迎えていました。前関白九条政基の末子澄之、京兆家の分家野州家の高国、そして下屋形阿波細川義春の子澄元です。もともと澄之に家督を継がせようと思っていた政元ですが、当の澄之と折り合いが悪く、これを廃嫡し一族から二人の養子を迎えたのです。これでは政元の死後家督争いが起こるのは当然でした。
 政元は修験道に凝るという妙な趣味があり、妻帯もせず異常な生活を送ります。ついには奥州に修験道修行の旅に出たいと言い出す始末で、これは重臣三好之長の諫言で思いとどまりました。家督相続の最有力候補から転落した澄之陣営の香西元長、薬師寺長忠らは、このままではジリ貧になると焦ります。1507年6月政元は湯殿に入っていたところを香西らの兵に襲われ暗殺されます。享年42歳。幕府最大の権臣のあっけない最期でした。
 政元の死後、案の定細川京兆家の家督をめぐって三人の養子が争い始めます。澄之は九条家の出なので除外し、同じ細川一族の高国、澄元の対立を称し両細川の乱、あるいは永正の錯乱とも呼びました。澄之には山城守護代香西氏、摂津守護代薬師寺氏らが付きます。高国は細川典厩家の政賢、淡路守護家の細川尚春が味方に付きました。一方、澄元は実家下屋形家の強力なバックアップを受け、下屋形家から派遣されていた付家老三好之長(長慶の曽祖父)が従います。
 三人の養子の戦いはどのように展開するのでしょうか?次回は両細川の乱の経過と三好氏の下克上を描きます。

阿波戦国史Ⅲ  阿波の南北朝

 1336年阿波国に入った細川和氏、頼春兄弟は秋月城を中心に吉野川下流域の徳島平野の国人を組織し支配を固めます。徳島県の地図を見ると分かる通り、阿波はこの吉野川流域が中心でここを制圧すればほぼ阿波一国を支配したと同然になりました。
 守護小笠原頼清、守護代小笠原頼貞にとってはたまったものではなく、侵入者細川氏に対し激しく抵抗します。が、建武政権は武士を礼遇し貴族や寺社ばかりを優遇したため阿波においても武士の支持はすでに失っていました。細川和氏は、武士の棟梁である征夷大将軍足利尊氏(就任は1338年だが、すでにその権威は持っていた)から任命された阿波の新守護。阿波の国人たちが雪崩を打って細川方に従ったのも理解できます。
 旧守護小笠原頼清は沼島に後退し、守護代頼貞も所領のある吉野川上流三好郡大西(現三好市池田町大西)に押し込められます。劣勢の小笠原氏は南朝に応じ、かろうじて細川勢の攻撃を凌ぐしかありませんでした。
 阿波国のうち、板西郡板東郡の武士団はすでに讃岐国を支配する細川定禅に応じていたため、和氏はここを起点に東西に軍を派遣し小笠原氏の勢力を追い詰めます。三好郡大西城主小笠原義盛、祖谷山の諸豪、麻植郡木屋平の三木氏、木屋平氏、櫟生(いちう)・山城谷の武士のみが最後まで小笠原氏に従い細川軍に抵抗しました。
 
 実は三好郡を除くこれらの地方は古くから朝廷領で、足利尊氏ではなく後醍醐天皇を支持し南朝に従ったのでした。阿波の南朝方は名西郡一宮の一宮大宮司を中心にまとまり阿波山岳党と呼ばれます。ただ、吉野川流域を中心に着々と支配を固める細川氏の圧力を受け、彼らは各個撃破されていきます。細川和氏は、これと同時に阿波の荘園解体を進め貴族や寺社の経済力を断ちました。武士による荘園解体はおそらく南北朝期から室町時代にかけて全国でも行われたはずで、貴族寺社勢力の衰退と武士の守護大名化に繋がります。
 細川和氏自身は軍勢を率い、九州で勢力を回復した足利尊氏に従います。1336年7月湊川合戦、京都攻略戦に参加、尊氏が幕府を開くと引付頭人、侍所頭人と幕府要職を歴任しました。これと同時進行で阿波では小笠原方、南朝方への征服事業が進められました。すでに大勢は決し、残敵掃討の段階に入っていたことから当主和氏がいなくても余裕があったのでしょう。
 和氏自身は、隠居して秋月城に戻り夢窓疎石を招き補陀寺を開くなど文化的活動に専念、1342年47歳の若さで死去しました。南朝方の抵抗はなんと1362年まで続き、まず一宮大宮司が細川氏に降伏。次いで阿波郡久千田の小野寺八郎が続きました。こうなると旧守護小笠原一族も抵抗を断念次々と細川氏に帰順します。こうして細川氏は阿波一国を完全に平定しました。細川氏も帰順した者たちを粗略にすればまた背かれる恐れがあり、気を使います。有力者はどんどん登用し細川家臣団に組み入れました。小笠原一族の三好氏は、この段階で細川家臣になり代々功績をあげ家宰(筆頭家老)にまで累進します。
 阿波守護は1341年和氏の弟頼春に交代。その後は頼春の子頼之に受け継がれました。讃岐と和泉は奥州家の顕氏が守護となり、土佐も顕氏の弟定禅が守護職を得ます。伊予にも勢力を扶植し、さながら四国と淡路は細川王国ともいうべき状況になります。阿波は頼之の後その弟泉州家の頼有が守護となり、さらにその弟詮春(あきはる)が受け継ぎました。
 詮春の子孫が代々阿波守護職を世襲することとなります。これを阿波細川家あるいは下屋形細川家と呼び、嫡流京兆家(管領頼之の子孫)に次ぐ家格を誇りました。細川氏の守護領国には他に和泉、摂津、丹波、備中、備後がありますが、室町期を通じて安定して支配したのは淡路、讃岐、阿波、土佐の4か国のみで、中でも阿波国はその中核に位置します。
 その阿波国守護職を独占した下屋形細川氏の権威が細川一族の中で高くなるのは当然で、ほかの細川一族が守護領国を守護代に任せ自身は京都に在住したのに比べ、一貫して阿波を動かなかったことも強固な支配ができた理由でした。自然、下屋形細川家の家宰三好氏が細川一族全体の家宰となって行きます。京兆家の当主は中央の政変で敗れると阿波に逃れ勢力を回復、下屋形細川家の軍勢の後援を受けて京都に戻り権力を取り戻すという事を繰り返しました。
 下屋形細川家は秋月城から勝瑞(板野郡藍住町勝瑞)に城を築き本拠を移します。勝瑞城は室町戦国期を通じて細川家の中心であり続けました。勝瑞は平城ながら徳島平野の中心にあり吉野川を下ると撫養の港に至ります。都との連絡も便利で海路堺、大阪に至りました。
 細川頼之が管領になれたのも、この四国の経済力が背景にあったのでしょう。勝瑞城は、四国細川王国の都として繁栄し多くの商人、住民が集まり四国最大の城下町を形成しました。
 阿波下屋形細川氏は安定した支配を続けますが、次第に暗雲に包まれることになります。次回は応仁の乱とその後の京都政界の阿波への影響、両細川の乱について見ていきましょう。

阿波戦国史Ⅱ  細川氏の阿波入部

 細川氏は足利一門です。足利初代義康の曾孫義季が三河国額田郡細川郷(岡崎市細川町)に所領を得て細川氏と称します。同じ足利一門でも、宗家に匹敵する家格を持つ斯波(尾張足利)氏や、武蔵の大豪族畠山重忠の名跡を継いだ畠山氏、吉良氏と比べると家格は低く仁木氏や一色氏と同様その他大勢という間柄でした。
 ところが南北朝の動乱を通じて軍功を上げ、足利将軍家の重臣として確固たる地位を築きます。鎌倉末南北朝期の細川氏では嫡流の細川和氏、奥州家の細川顕氏が有力でした。和氏には頼春、顕氏には定禅(じょうぜん 出家していた)とそれぞれ有力な弟がおり兄を補佐します。
 建武政権が細川和氏を阿波守に任命したのは、潜在的敵である足利氏の勢力を分散させ弱める目的もあったかと思います。すでに阿波には鎌倉幕府に任命された守護小笠原氏がおり(建武政権に帰順)、細川氏が入国しても紛糾するのは火を見るよりも明らかでした。
 徳島県の歴史(福井好行著 山川出版)によると、尊氏が瀬戸内海の重要性を考え腹心の和氏を阿波国司に推薦し送り込んだとします。もちろん尊氏側にはこのような意図はあったでしょう。ただ同時に建武政権側の隠れた意図も見え隠れするのです。尊氏は同時に、奥州家顕氏の弟定禅を讃岐に派遣し、讃岐国人たちを組織させました。ちなみに奥州家は顕氏の官位が陸奥守だったことが由来です。
 後醍醐天皇と足利尊氏の蜜月関係は、護良親王の尊氏暗殺計画露見で冷却し1335年鎌倉幕府の残党が起こした中先代の乱で亀裂が決定的となりました。尊氏は中先代北条時行討伐に際し征夷大将軍職を望みますが、後醍醐天皇はこれを拒否し征東将軍に任じたのみでした。
 不満を抱きながら反乱鎮圧に向かった尊氏は、鎌倉を奪回し反乱を鎮圧するとそのまま鎌倉に居座りました。建武政権の再三の帰還命令も無視したため、天皇は尊氏を朝敵と断じ新田義貞を大将とする7万の大軍を送り込みます。1336年1月、新田軍と足利軍は箱根竹ノ下で激突しました。新田義貞という人は個人の武勇はあってもどうも戦の采配は苦手だったような気がします。この時も、足利勢に大敗し総崩れ、京都に逃げ帰りました。
 新田勢敗北の原因は、官軍に従っていた佐々木道誉(高氏)、大友貞載らが尊氏に寝返ったからです。彼らも武士を圧迫する建武政権を見限り、尊氏の将来性に賭けたのでしょう。足利軍は逃げる新田軍を追って東海道を西に上り京都を瞬く間に占拠します。
 ところが陸奥守北畠顕家が奥州勢を率いて上洛、足利軍の背後から襲い掛かりました。楠木正成も河内、摂津方面で足利軍の補給を脅かしたため尊氏はせっかく占領した京都を叩き出されます。古来京都は守りにくい場所で、四方の補給を断たれれば自滅しました。この時の足利軍もまさにそうで、本拠の東国への道は北畠顕家の奥州勢に抑えられていたため、仕方なく西国へ向かいました。
 尊氏は筑前の有力守護少弐頼尚の勧めもあり海路九州へ向かいます。しかし布石は着々と打っており、宮方を裏切った赤松円心を本国播磨に残し白旗城に籠らせました。また数年前から勢力を扶植していた細川一族を四国に派遣します。このあたりが武勇一辺倒の新田義貞との違いで、尊氏は武将というより政治家でした。南朝の後醍醐天皇に対抗するため、持明院統(北朝となる)の光厳上皇と結びすでに院宣も得ていました。これが南北朝時代の始まりとなります。
 細川和氏は、従兄弟定禅が固めた讃岐に上陸しました。まず讃岐国鷺田荘に拠った和氏は弟頼春とともに阿波に入国、板野郡土成町秋月(現在の阿波市土成町秋月)に城を築き阿波経略の拠点とします。秋月城は阿讃山地の南麓に位置し、阿波を東西に貫く大河吉野川を望む要地でした。もともとこの地は持明院統の伝領法金剛院領で尊氏が光厳上皇と結んだことも和氏が秋月に城を築いた理由の一つだったと思います。
 時の阿波守護は、鎌倉幕府から建武政権に横滑りした小笠原頼清でした。そこへ北朝の守護として細川和氏が乗り込んできたのです。両者の激突は必至でした。
 次回、細川氏と小笠原氏の阿波支配をめぐる戦いについて語りましょう。

阿波戦国史Ⅰ  鎌倉時代の阿波

 慶長検地における四国の石高は伊予国(愛媛県)37万石、土佐国(高知県)10万石、讃岐国(香川県)17万5千石、阿波国(徳島県)18万7千石でした。地形から見ると伊予だけ突出しているように見えますが、伊予は早くから開発が進み山間部にも棚田式の水田が多く作られていたのでしょう。土佐は広大なのでもっと石高があっても不思議がなく、徳川家康などは山内一豊に土佐一国を与えたとき内高(本当の石高)百万石はあるだろうと思い込んでいたそうです。これはかなり眉唾(実際検地のデータがあるはず)なんですが、家康が一豊に石高を聞いたところ無理して20万石と一豊が答え、驚いたというエピソードがあります。
 家康の誤解はおそらく長宗我部氏の動員兵力が過大だったためだと思われますが、これには理由があり長宗我部氏は一領具足という平時には農民として暮らし戦時には兵士となる者を組織し、石高以上の大量動員ができたからでした。実際、長宗我部元親が阿波に侵入したとき2万という土佐の石高(せいぜい3千程度。無理して7千)から見ると考えられないほどの大軍を動員しています。これが長宗我部元親四国平定の原動力となるのですが、阿波国は中国・四国・近畿に広がる細川領国の中核で、そのあとを受けた三好氏の本拠地でした。
 本シリーズでは、細川氏・三好氏がどのように阿波国の支配権を固め、中央に打って出たか、そしてどのように滅亡したかを描こうと思います。
 まず最初は細川氏入国に至る前、鎌倉時代の阿波について語ります。
 阿波国は、古代北部が粟の産地だったため粟国と名付けられたそうです。阿波の南部は長国。これが一つになり和銅6年(713年)元明天皇の好字令で阿波と改められました。平氏全盛時代、阿波国は平氏知行国の一つとなりますが、強固な支配まではいかず一部の豪族が平氏に従うのみでした。
 源頼朝が平氏を滅ぼし鎌倉幕府を開くと、阿波国守護として佐々木経高が任ぜられます。経高は有名な宇治川先陣争いの佐々木高綱の兄で、佐々木氏嫡流六角氏とその有力庶家京極氏の祖となった定綱の弟にあたります。佐々木一族は幕府創建に大きな功績をあげ各地の守護職を得ますが、阿波もその一つでした。
 ところが経高は承久の乱で宮方に付いたため敗北し自害、佐々木一族の阿波守護職は没収されます。代わって守護となったのは信濃源氏小笠原氏の祖長清でした。と言っても長清本人は鎌倉幕府に出仕していたため阿波国には一族が赴任します。こうして小笠原一族は阿波各地に土着しました。
 鎌倉時代を通じて阿波国は小笠原氏が守護となります。一方、小笠原氏の本国信濃国では守護となることはありませんでした。当初は比企氏、そのあとは北条氏が信濃守護職を独占します。これは鎌倉幕府というより執権北条氏の巧妙な有力御家人統制策で、地盤を強化させないためでした。同じ例は足利氏にもあり、本国下野国は小山氏が守護を独占し、三河国が足利氏の守護国となります。小笠原氏と足利氏は同じ源氏の一族。北条氏が警戒したのでしょう。
 ですから三河国には足利一族が多く土着し、細川氏とか吉良氏は三河が発祥です。実は三好氏も小笠原一族で、長清の孫で阿波小笠原氏の祖長房の子長種、あるいは弟長忠が三好郡に土着し三好氏を称したのが始まりだとされます。このように出自がはっきりしないのですが、三好氏は小笠原氏の後裔を称しました。
 鎌倉幕府が滅亡し、建武新政府が成立すると鎌倉幕府の阿波守護小笠原氏も帰順し引き続き阿波守護職を認められたようです。ただ、建武政権はいずれ武士の支配を無くす目的を持っており、その地位は不安定でした。後醍醐天皇は足利一族の細川和氏を阿波守に任命してますから、小笠原と細川で阿波の支配権を争わせるつもりだったのかもしれません。
 ただ細川氏にとっては、これが阿波国そして四国と関りを持つ最初となりました。
 次回は細川一族の阿波入国、そして南北朝の争いを描きます。

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