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2017年12月

2017年12月 3日 (日)

長宗我部戦記Ⅸ  長宗我部氏滅亡

 元親が溺愛していた長男信親の娘と娶わせるためだけで後継者として選ばれた盛親(1575年~1615年)。盛親は増田長盛を烏帽子親として元服します。盛親の不幸は、父元親の死後わずか1年余りで関ヶ原合戦を迎えたことです。
 豊臣大名たちは、次の天下人として徳川家康に接近するか幼主秀頼を盛り立てようとする石田三成に味方するかで分裂しました。盛親は家督相続に際し多くの家臣の反対があったため、家中を纏めることに集中せざるを得ず、長宗我部家生き残りに関わる外交を全くと言ってよいほどしませんでした。家康と三成の対立がはっきりした時も、なんとなく烏帽子親増田長盛の関係から西軍に付くという迷走ぶりです。ところが肝心の増田長盛ですら秘かに家康と通じているという救いようのなさでした。
 1600年9月15日、運命の関ヶ原合戦が始まります。盛親は南宮山の東南に布陣しながら前方に傍観を決め込んだ毛利勢が居たため何一つ戦いに関与せずなし崩しに敗走します。本国土佐に逃げ帰った盛親は、帰国に当たり大坂に家臣立石助兵衛、横山新兵衛を残しました。立石らは家康重臣井伊直政にとりなしを頼みます。直政は家臣を土佐に派遣し、「盛親が家康に謁見もせず帰国したのは罪。大坂に上って申し開きをするほうが良い」と忠告しました。
 盛親は直政の申し出には感謝しながらも結局大坂には行きませんでした。家康に謝罪工作は続ける一方、軍勢を動員し万が一の時は討伐軍を迎え撃つ準備をします。これは薩摩の島津氏と同じ対応でしたが、島津氏のような有能な外交官はおらず石高もはるかに低かったため、かえって家康の不興を買います。島津氏のような遠国で、朝鮮の役で鳴り響いたほど兵も強く一時は九州を統一する勢いだったケースと違い、土佐はいくら兵が強くとも家康がその気になればいつでも潰せます。讃岐、阿波、伊予の大名たちの忠誠を試すために土佐遠征を命じても良かったのです。
 情勢は盛親に不利になっていきました。いよいよ大坂に上るという時期、実兄津野親忠を殺すという致命的なミスを犯します。実は親忠は藤堂高虎と親しく高虎を通じて家康に長宗我部家存続を願い出ており一応了承を得ていたのでした。長宗我部家が生き残るには盛親が隠居し兄親忠に家督を譲る道しかなかったと思います。ところが盛親には、親忠の動きは自分への背信行為に映りました。一説では重臣久武内蔵助親直が盛親に対し
「親忠殿は家督相続に不満で藤堂高虎と気脈を通じ東軍に与した疑いがあり、高虎を通じて土佐半国を貰う約束ができております」
と讒言したため、怒った盛親が殺害を命じたとも言われます。
 家康に謁見した盛親は、津野親忠殺害を厳しく追及されました。家康は一時「父元親に似ても似つかぬ不義者」と激怒し誅殺しようとしたそうです。これは井伊直政のとりなしで助かりますが、土佐を没収改易となりました。家康の怒りは直政と示し合わせた演技のような気もしますが、これで盛親は浪人となります。代わって土佐一国を賜ったのは山内一豊でした。
 土佐では、一豊入国に際し長宗我部旧臣の激しい抵抗があったそうですが、一豊はこれを力で圧殺します。山内氏は一部の長宗我部家臣は登用しますが、一領具足の大半は野に下り、郷士となります。江戸期を通じて土佐藩は郷士たちを冷遇しその不満が幕末に爆発、土佐勤王党の動きとなりました。
 浪人となった盛親は京都に隠棲します。剃髪して大岩祐夢(たいがんゆうむ)と名乗り寺子屋の師匠などをしていたそうです。苦節14年、大坂の秀頼と徳川方の間が険悪になると盛親は大坂方の誘いに乗り大坂城に入城します。勝利の後土佐一国を賜るという約束もあったそうですが、はたして盛親が本気で信じていたかどうか?同じ関ヶ原改易組で秀忠に仕えついには領国筑後柳川を回復した立花宗茂と対照的です。
 家康は武勇に優れる宗茂が大坂方に付くことを恐れ懸命に説得したそうですが、盛親にはそのような動きが無かったことから家康の両者に対する評価が分かります。盛親が大坂に入城すると、多くの長宗我部旧臣が駆け付けました。
 大坂冬の陣は籠城戦に終始しますが、夏の陣では盛親も5千の軍勢を率い出撃します。1615年5月6日八尾方面に進出した長宗我部勢は因縁の藤堂高虎軍と激突、これを破りました。ところが側面を井伊直孝勢に突かれ敗走します。これが盛親初めての戦らしい戦でした。翌7日、残兵をまとめた盛親は京橋口を固めますが、8日大坂城落城、秀頼は母淀の方とともに自害します。京街道を北に逃れ八幡の葦の中に隠れていた盛親は、蜂須賀勢に発見され捕らえられました。そのまま伏見に護送されます。関ヶ原、大坂の陣と二度も敵対した盛親を家康が許すはずもなく、京都三条河原で斬罪に処せられました。盛親享年41歳。
 これにより南北朝以来の歴史を誇る長宗我部氏は滅亡。私は長宗我部氏滅亡の遠因は信親の戦死にあるような気がします。その意味では十河存保の呪いは実現したのでしょう。信親の死に衝撃を受けた元親はお家存続にやる気をなくします。一時は四国を統一した英雄の晩年を考えると寂しいものがありますね。
 ただ長宗我部氏滅亡がなければ土佐郷士の不満は先鋭化せず、明治維新もなかったと思えば歴史の巡り合わせの不思議さに感慨深いものがあります。
                                (完)

長宗我部戦記Ⅷ  元親の死

 秀吉の四国遠征の結果元親は土佐一国に押し込められます。阿波は論功行賞により蜂須賀家政(正勝の子)が獲得しました。讃岐は十河存保領3万石を除き仙谷秀久が得ます。一躍10万石の大名になった秀久は喜び勇んで入国しました。この秀久という人物、武勇はあるものの性格が軽忽でとても大名として領内を治める器ではありませんでした。伊予は小早川隆景が貰います。
 1586年正月、元親は年賀のために大坂城に上りました。秀吉は大いに持て成し感激した元親は秀吉に忠誠を誓いました。この秀吉の外様大名に対する接待は多くの田舎大名の心を捉えます。一生を謀略に捧げた奥州の津軽為信でさえ秀吉に心酔した一人で、関が原で家康に付いた後も秘かに秀吉の木像を隠し拝んでいたと言われます。石田三成の縁者すら匿いました。表裏比興の者と言われた信濃の真田昌幸もまた秀吉の人たらしにはまった一人でした。
 同年秀吉が京都方広寺大仏殿を建設したとき、元親は自ら率先して土佐の良材を選び秀吉に贈ります。秀吉は大変喜んだそうです。1586年7月、いよいよ秀吉は九州攻めを開始しました。元親も土佐勢を率い参加します。長宗我部軍は讃岐の仙谷秀久を軍監とする四国勢に組み入れられました。秀久は舞い上がっていたと言われます。軍中には元親と犬猿の仲の十河存保もいました。
 当時九州は薩摩島津義久が席巻中で、大友宗麟は豊後一国に押し込められます。筑前では大友家臣立花宗茂の立花城だけが孤塁を守っていました。宗麟はすでに家督を息子義統に譲っていたので仙谷らは義統と善後策を協議します。四国勢はこの時6千。しばらく待っていれば豊臣の大軍が到着するはずでした。義統は最初からやる気がなく、四国勢が矢面に立たされます。軍議の席で元親は「ここは一時撤退し本隊の到着を待つが得策」と主張します。しかし血気にはやる秀久は先陣で大功を上げる野心から「積極的に打って出るべし」と反対しました。
 十河存保も秀久の意見に同意したため戦闘と決します。じつは存保もこの戦いの結果は見えており秘かに嫡男千松丸を脱出させています。存保が秀久の意見に賛同したのは、宿敵長宗我部元親と共倒れになる考えだからでした。そこまで恨みが深かったのでしょう。元親はこの戦に嫡男信親を同行させていました。信親は、温厚でありながら明朗活発。知勇兼備の名将で元親が最も期待していた息子でした。当初元親は出陣に際し信親を留守に残しておこうとします。すると信親は自ら参陣を願い、元親も押し切られたのです。
 義久の弟家久を大将とする島津勢1万3千が迫っていました。1587年1月、豊後国戸次川を挟んで両軍は対峙します。ここでも元親や存保は島津勢の渡河を待って攻撃を開始するよう秀久に進言しました。しかし功を焦る秀久はこれを無視、劣勢の側が敵前渡河するという兵法上ありえない愚かな選択をします。島津勢はこれを誘い込み、敵勢が伸び切った瞬間を待って逆襲に転じます。島津勢得意の『釣り野伏せ』戦法でした。
 ただでさえ劣勢な四国勢がこれを支え切れるはずがありません。四分五裂に分断され次々と討たれました。乱戦の中、信親は敵中に孤立します。そこへ十河存保が近づきました。
「信親殿、この戦は負けじゃ。ここは潔く突撃し武士らしい最期を遂げようではないか!」
実は信親は、父元親を探して彷徨っていたのです。しかし、存保の申し出を断れば臆病者の誹りを受けます。若い信親にとってこの屈辱は耐え難いものでした。信親は手勢700とともに敵中に突撃し壮烈な戦死を遂げます。享年22歳。存保も同様でした。
 満身創痍になりながらかろうじて死地を脱した元親は、家臣たちに息子信親の安否を尋ねます。そして信親の壮烈な戦死を知りました。衝撃を受ける元親。数多くの家臣も討たれ傷心の元親は、島津軍と交渉し信親の遺体を貰い受けると土佐に帰国します。九州征伐自体は、秀吉軍の圧勝で島津氏は薩摩・大隅の安堵で許されました。
 ただ戸次川敗戦の罪は罰せられます。血気にはやり四国勢を壊滅させた仙谷秀久は所領没収の上高野山に追放。当主のいなくなった十河家も改易されます。元親は、慎重策を述べたこと、嫡子信親はじめ多くの犠牲を出したことでお咎めなし。しかし元親は、期待していた信親の死を受け生きる気力を無くしました。政治に対する興味も失い、酒浸りの日々になります。
 1588年冬、元親はそれまでの居城岡豊城を捨て大高坂(高知)城に移りました。そこも長くは居ず浦戸城に移りますが、再び大高坂城に戻るなど迷走しました。その後、1590年の小田原征伐では水軍を出して小田原城包囲に参加、朝鮮の役にも出陣します。
 長宗我部軍の軍役は3千。太閤検地における土佐の石高が9万8千石。当時の石高はこれくらいが実数だったのでしょう。信親死後の元親は惰性で生きていたような気がします。その証拠に当初後継者すら決めていませんでした。正室斎藤氏から生まれた男子は香川親和、津野親忠、盛親の三人がいて、それぞれに家臣が付き家督争いを始めます。元親は信親を溺愛していたため、彼の娘を娶わせるのに年齢の近い盛親を選びました。妄執に近いものがあります。ただ盛親は、性格粗暴で思慮浅く土佐一国を保てる人物ではありませんでした。多くの家臣が反対する中、元親は強引に盛親を後継者と決めます。
 元親は反対する家臣を次々と粛清しました。1598年太閤秀吉死去。大名たちは次の天下人として家康に接近し始めます。しかし元親は京都伏見屋敷にあってまったくそのような動きをせず、荒んだ生活が祟って病床につきました。1599年5月10日死去、享年61歳。四国を一時は平定した英雄の寂しい死でした。
 家督を継いだ盛親はどのような生涯を辿るのでしょうか?次回最終回長宗我部氏滅亡を描きます。

長宗我部戦記Ⅶ  秀吉の四国攻め

 1582年6月2日の本能寺の変以後歴史は大きく動き出します。早くも6月13日には毛利氏と和睦し中国大返しを行った羽柴秀吉が山崎の合戦で逆臣明智光秀を討ちました。信長亡き後の織田家の後継者を決める清洲会議が6月27日。ここで秀吉は、ライバル柴田勝家を圧倒し実力で天下人への道を歩み始めます。
 とはいえ、北陸に大きな勢力を誇る柴田勝家も黙ってはおらず1583年4月賤ヶ岳の合戦が起こりました。この戦いに勝利した秀吉は、逃げる柴田勢を追って勝家の本拠越前北ノ庄城を包囲、勝家を滅ぼします。次いで、秀吉の専横に我慢ならなかった信長の次男織田信雄が徳川家康と結び1584年3月小牧長久手の戦いが起こりました。
 秀吉は四国の事を忘れたわけではなく、元親に使者を送り土佐一国と阿波において海部・那賀の二郡を安堵するから降伏をするように命じます。元親の正室が明智光秀の重臣斎藤利三の妹という事はすでに紹介しました。当初は光秀を通して信長から四国切り取り次第の密約を得ていた元親ですが、元親があまりにも大きくなりすぎたために逆に信長は警戒し、これまで敵対してきた三好一族を使って四国侵攻の先兵としてきたのです。
 光秀謀反の原因はいろいろ言われますが、長宗我部氏に対する外交の破綻で面目を潰されたことも一因だったと思います。明智家滅亡後、斎藤利三は主君光秀と運命を共にしますが、その弟石谷頼辰(いしがいよりとき)は長宗我部家を頼って土佐に落ちてきていました。頼辰の事もあり、元親は尚更秀吉に屈服することはできませんでした。また長宗我部軍の中核である一領具足たちの軍功に見合った領地を与えるには土佐一国と阿波二郡くらいではとても足らず、自然秀吉と敵対せざるを得なくなります。
 元親のもとには、柴田勝家からも徳川家康からも使者が来ます。元親は両者と誼を通じ秀吉と敵対しました。といっても直接畿内に上陸できるわけでなく、兵糧を送ったり後方を脅かすくらいしかできません。そしてこの敵対行為が秀吉の格好の四国征伐の大義名分となります。
 1585年5月4日、秀吉は黒田孝高に四国攻めの先鋒として淡路に入ることを命じます。四国攻めの始まりです。四国攻めの総大将は秀吉の弟羽柴秀長。三好秀次、宇喜多秀家、蜂須賀正勝らが加わり総勢8万。これに伊予口からは小早川隆景、吉川元長を大将とする毛利勢3万が進撃しました。秀吉軍来るの急報を受けた元親は阿波白地城を本陣と定め総勢4万を動員します。しかし戦場は伊予、讃岐、阿波と広大でとても守り切れるものではありません。野戦などもってのほか、各地で籠城する以外手がなくなります。
 讃岐では宇喜多・黒田・蜂須賀勢が屋島に上陸し長宗我部方の喜岡城(高松市)を落としました。香西城、牟礼城も簡単に落城します。戸波親武の守る植田城だけが頑強に抵抗しなかなか落ちませんでした。羽柴方の諸将は軍議を開き、植田城の囲みに兵力を残しながら阿波攻略を優先するため秀長の本体と合流します。
 阿波口の秀長軍は、淡路洲本を出港し土佐泊へ上陸。すぐさま攻撃に移り木津城の東条関兵衛を降しました。牛岐城の香宗我部親泰、渭山城の吉田康俊は木津落城を聞いて城を捨てて逃れます。羽柴軍は谷忠澄(1534年~1600年)の守る一宮城を囲みました。谷忠澄はもともと土佐一宮土佐神社の神主でした。有能だったため元親に見いだされ主に外交を担当します。一宮城は阿波の要衝でここに長宗我部勢9千が集まりました。忠澄はなかなかの名将で羽柴軍5万が攻める中城を守り抜きます。
 攻めあぐねた秀長は、水源を断ち坑道を掘って城壁を掘り崩す作戦に出ました。こうなるといくら忠澄でも落城は時間の問題、抵抗を断念します。開城に応じた忠澄はそのまま元親のいる白地城に向かいました。忠澄はじめ全線で実際に羽柴勢と戦った者は、上方武士のきらびやかな軍装、豊富な物資、数多くの鉄砲を見てとても敵うものではないと衝撃を受けました。田舎合戦しか経験したことのない自分たちとは違うと身をもって知ったのです。
 白地城に戻った忠澄は、主君元親に羽柴軍との武器の差、物量、兵力差を説明し降伏を勧めました。最初は拒否していた元親ですが、逃げ戻ってきた諸将も口々に降伏を申し出たため、渋々という形で同意します。内心では元親もとても勝ち目がないことは分かっていました。ただ自分から降伏を言い出してはこれまで自分を信じてついてきた家臣たちに示しがつかないと思っていたのです。
 もしかしたら忠澄は一宮城開城の条件として秀長から元親に降伏を説得する役目を受けていたのかも知れません。7月25日元親はついに降伏します。使者は例によって忠澄でした。もともと秀吉も長宗我部家を完全に殲滅するつもりはなく自分に従えばよしとしていましたから、元親の降伏を認めます。結果、元親は土佐一国のみを安堵されました。
 こうして元親は羽柴秀吉配下の大名となります。以後は秀吉の命ずるまま戦場に出るだけです。土佐安堵の返礼として元親は初めて天下人秀吉の大坂城に挨拶に向かいます。この時の元親の心情は複雑だったと思います。しかし時代は動いていました。好むと好まざるにかかわらず、秀吉に従う以外道はないのです。1586年9月関白秀吉は豊臣の姓を正親町天皇から授かりました。
 次回は豊臣政権下の元親の戦い、そして死を描きます。

長宗我部戦記Ⅵ  四国平定

 長宗我部元親が土佐を統一したころの四国の情勢を見ていきましょう。
 阿波は守護細川真之と守護代三好長治が支配権を巡って血で血を洗う内戦中でした。讃岐は西に香川氏、中央に香西氏ついで羽床(はゆか)氏、東には三好一族の十河氏が盤踞していました。伊予は北が河野氏の勢力範囲、中央は大洲城を中心に伊予宇都宮氏、南部の宇和郡には西園寺氏が居ました。
 ここに一つの事件が起こります。元親の弟島弥九郎親益が戦で受けた傷を癒すため播磨の有馬温泉に湯治に向かおうとしていたところ、阿波海部郡の豪族海部宗寿(かいふむねとし)に敵襲と勘違いされ殺されたのです。元親はこれを口実として宍喰から海部郡に攻め入り海部城を落としました。
 伊予では河野氏を中国の毛利氏が後援し大洲城の伊予宇都宮氏を滅ぼします。南伊予は一条氏時代から西園寺氏と小競り合いが続いていましたが、1576年重臣久武内蔵助親信を大将とする長宗我部勢が侵入、宇和郡・喜多郡の諸城を落としました。大洲城の大野直之は長宗我部勢と結び北上の構えを見せます。危機感を抱いた河野氏は毛利氏に泣きつき、毛利軍は河野氏を助けるため伊予に上陸、大野直之を討って長宗我部勢と対峙しました。これで伊予平定は難しくなります。
 1577年、阿波において守護代三好長治が戦死、一時的に守護細川真之方が有利になるも三好方は長治の弟讃岐の十河存保を当主に迎え入れ逆襲に転じました。地力に勝る三好方は次第に細川方を追い詰めていきます。ここで細川真之は致命的なミスを犯しました。背に腹は代えられないと隣国長宗我部元親と結び阿波に長宗我部勢を引き入れようとしたのです。
 元親にとっても渡りに船でした。さすがに四国は言うに及ばず畿内にも一時は大きな勢力を誇った三好一族と全面対決するには大義名分が必要で、それが労せずして手に入ったからです。元親が阿波侵入に先立って目を突けたのは白地城(三好市池田町白地)でした。白地城は阿波の奥地吉野川上流に当たり吉野川沿いに下ると阿波の中心部徳島平野、西の境目峠を越えると伊予、北の猪ノ鼻峠を越えると讃岐に至る交通の要衝です。これを兵法では衢地(くち)と呼び、ここを制する者が有利になる地形でした。
 当時白地城主は三好長慶の妹婿大西覚養。元親が阿波守護細川真之を助けるため逆賊十河存保を討つという大義名分を掲げると、弟大西頼包を人質に差し出し元親と一時和議を結びます。三好一族の長老三好笑岩はこれを聞き覚養に使者を送りました。
「今織田信長様に四国遠征を願い出ておりそれが受け入れられた。もうしばらく辛抱しておれ。私が先陣として四国に入ることも決まっておる」
 笑岩の書状を受け取った覚養は一転態度を翻し元親と敵対します。裏切りを知った元親は1577年阿波に侵入し大西勢を破りました。白地城はあっという間に落とされ覚養は讃岐に逃亡します。人質となっていた覚養の弟頼包は元親に厚遇されていたため、弟の勧めもありついに降伏しました。十河存保は怒り大西覚養を攻め滅ぼします。
 元親はすぐには徳島平野に入りませんでした。守護細川真之と十河存保が激しく戦っていたからです。両者の共倒れを待って阿波を占領する腹でした。白地城を根拠地と定め西伊予に侵入、河野氏の領地を除いて伊予はほぼ手中に収めます。讃岐侵攻は苦戦しました。1578年激戦の末藤目城を落とし財田城に進出。天霧城主香川信景はこれを見て長宗我部氏と和睦、元親の次男親和を養子に迎え家督を継がせます。次いで讃岐中部の羽床氏を降し、元親は東讃岐の十河領に攻め込みました。
 伊予の情勢は河野氏が毛利氏に介入を要請したため膠着状態に陥っていました。丁度織田信長の中国攻めが始まり毛利勢が引き上げたため元親は再び侵攻を再開、津島氏、北ノ川氏、御荘氏ら南伊予の諸豪を降します。ところが大森城の土居清良だけは頑強に抵抗しこの戦いで長宗我部軍の総大将久武親信が戦死してしまいました。
 阿波では1582年、守護細川真之が攻め滅ぼされます。結局元親は真之後援を公言しただけで見殺しにしたのです。真之の策は愚策以外の何物でもありませんでした。元親にとっては三好勢が真之との戦いでぼろぼろになってくれるだけで良かったのです。この年の6月、中央では天下統一を目前にした織田信長が家臣明智光秀によって本能寺で討たれるという大事件が起こります。織田家の四国遠征は目前に迫っていたので、元親は危機を脱した形でした。
 同年8月2万3千の大軍を動員した元親は白地城を出立、三好氏の本拠勝瑞城に迫ります。十河存保は5千の兵で迎え撃ちますが中富川の戦いで敗北本拠讃岐の十河城に逃げ込みました。念願の阿波平定を果たした元親は、存保に止めを刺すべく9月十河城に攻めかかります。この時長宗我部勢は讃岐衆、降伏した阿波衆を加え3万6千に膨れ上がっていました。
 後のない存保は必至で防戦し十河城は容易に落ちません。元親は損害が増えたため一時兵を引きました。1584年6月、態勢を整えた元親は再び十河城を攻めます。城は落城し存保は羽柴秀吉を頼って落ち延びました。あとは伊予の河野氏を降すだけです。河野氏も同年12月長宗我部勢の圧力に抗しかねついに降伏しました。元親は四国平定をほぼ果たします。
 そんな元親に最大の危機が迫りつつありました。秀吉の四国遠征です。本能寺の変後秀吉が次の天下人だといち早く察した三好笑岩は、これと接近し秀吉の甥秀次を自分の養子に迎えます。秀吉も、四国に大きな影響力を持つ三好一族を粗略に扱うわけがありません。秀吉が四国平定のために準備した兵力は10万。一方四国全土から動員しても4万が限度。元親はどのように戦うのでしょうか?
 次回、秀吉の四国遠征と元親の戦いについて述べましょう。

長宗我部戦記Ⅴ  四万十川の戦い

 安芸氏を滅ぼした長宗我部元親は1570年一条氏の属城蓮池城(土佐市)を落とします。翌1571年には高岡郡半山(はやま)城主津野勝興を降し元親三男親忠を養子に入れ家督を継がせました。ただ、幡多郡の一条氏への攻撃は控えます。それは長宗我部家中に一条氏を攻めることへの抵抗が大きかったからです。とはいえ、安芸国虎と結んで岡豊城を攻めた一条兼定に関して元親は良い感情を抱いてはいませんでした。
 一条兼定(1543年~1585年)は事実上土佐一条氏最後の当主です。一条房基の嫡男として生まれ、1549年父房基が自害したため7歳で一条家を継承しました。兼定は暗愚で、最初伊予宇都宮氏の娘を正室に貰い嫡男内政(ただまさ)をもうけます。ところが豊後の大友宗麟の娘が国色無双の絶世の美女と聞くと、正室を離縁し大友家に婚姻を申し出ました。
 これを聞いた宗麟は兼定の正気を疑いますが、土佐一条氏を四国進出の先兵として利用しようと娘を与えます。兼定は荒淫で女色に溺れ日夜酒宴を繰り返しました。幡多郡平田村の村長源兵衛の娘雪を見初めると側室に貰い受け、豪勢な居館を建ててそこへ住まわせます。兼定の遊興のために一条家の財政は傾きました。家老土居宗珊(そうさん)は主君をたびたび諫めますが、兼定は全く聞く耳持ちませんでした。
 一条家の家臣たちは兼定ではお家を保つことができないと憂います。その中の一派は、嫡男内政の後見に隣国長宗我部元親を頼み主君兼定を追放しようと考えました。元親にとっても渡りに船、むしろ資金を与え扇動したくらいです。元親から攻めることは難しくても、一条家中の要請という事であれば出兵の大義名分が立つのです。
 長年一条家に仕えた忠臣宗珊は家中のこのような動きを憂います。ある時主君兼定を強く諫めますが、逆に宗珊謀反の噂が出たため怒りを買い自害を命じられました。証拠はないのですが、私は元親の謀略の可能性を感じます。宗珊自害を受け、一条家の家臣たちは激高しました。1574年2月、立ち上がりついに主君兼定を豊後に追放しました。家督は内政が継ぎます。
 元親は一条家臣たちの要請を受け軍勢を中村館に派遣しました。内政に自分の娘を嫁がせ傀儡として担いだのです。中村には弟吉良親貞が入り城代となりました。こうして労せずして一条氏領を手に入れた元親ですが、一条家臣たちは話が違うと怒りました。しかし長宗我部の軍勢が中村館に入った今どうすることもできません。愚かな行為だったと悟っても後の祭りでした。
 長宗我部の軍政下、一条家の旧臣たちは秘かに豊後の兼定と連絡を取りました。1575年兼定は舅宗麟に兵を借り伊予に上陸します。一条家の旧臣たちは兼定上陸を聞くと馳せ参じ、東伊予の諸将も兼定に味方したため3千5百の兵力になりました。兼定は土佐に入り四万十川河口部西岸の栗本城に入ります。一条勢は四万十川に杭を打ち込み長宗我部軍来襲に備えました。
 一条勢は、中村へ進出し城下に火を放ちます。中村屋形にいた吉良親貞は従えていた兵が少数だったため一時撤退し、兄元親に急使を発しました。兼定は中村館に復帰します。報告を受けた元親は7千3百の軍勢を動員すると幡多郡に出立しました。長宗我部勢は四万十川東岸に布陣します。
 1575年7月、両軍は激突しました。長宗我部勢の先陣が四万十川渡河を開始。数に劣る一条勢は鉄砲を撃ちかけながらじりじりと後退します。元親は第二陣の福留儀重(親政の子)に命じ杭のない上流から渡河させようとしました。一条方は挟撃を恐れ軍を二手に分け福留勢迎撃に向かわせます。兵力の少ないほうが軍を分けるのは致命的でした。兼定に軍才がない証拠です。
 元親は一条方の動きを見逃しませんでした。全軍に一斉渡河を命じます。ただでさえ少ない兵力だった一条勢は、倍以上の兵力を受け支えきれなくなります。杭による妨害にも限度がありました。総崩れとなった一条勢は敗走します。長宗我部軍はこれを追撃し夕刻までに2千の敵兵を打ち取りました。兼定は伊予に逃亡し瀬戸内海の戸島に隠棲します。事実上四万十川の戦いで名門土佐一条家は滅亡しました。従三位権中納言・左近衛中将・土佐守という四国では並ぶ者のないほどの高官だった兼定ですが、官位は戦国の世では全くの無力だったと言えます。
 元親は念願の土佐平定を果たしました。長宗我部家の軍事力の中核は平時は農業に従事し戦時には兵となる一領具足だと以前書きましたが、石高からはあり得ないほどの大兵を動員できる反面軍功に見合った褒美を与えるには土佐一国の生産力では限界があります。自然、元親の征服事業は土佐一国では終わらず四国全土への侵攻となりました。
 元親は土佐の兵力を三分し幡多郡・高岡郡の兵には伊予に進出させ、安芸郡・香我美郡の兵は阿波へ向かわせます。中央の長岡・土佐・吾川の兵は戦況に合わせて伊予や阿波に向かわせることにしました。一方元親は外交にも力を入れます。中央では織田信長が上洛を果たし天下統一へ向けて各地へ軍を派遣していました。
 妻斎藤氏の縁で信長に家臣中島可之助を使者として送った元親は、誼を通じるとともに嫡男千雄丸に信長の一字を拝領し信親と名乗らせます。これは信長が三好三人衆と敵対していたことから、遠交近攻の策でした。信長としても元親を四国平定に利用しようという腹でした。
 次回、元親の四国平定戦を描きます。

長宗我部戦記Ⅳ  国虎

 安芸氏はその出自がはっきりしません。壬申の乱で敗れ土佐に流罪となった蘇我赤兄の後裔という説もあれば、惟宗氏出自説、橘氏説、藤原氏説もあります。近年安芸郡少領凡直伊賀麻呂の子孫ではないかという説が有力になっていますが、まだ確定ではないそうです。
 安芸氏は安芸郡を中心に香我美郡の大忍庄まで領有する土佐七雄の一つに数えられる有力豪族でした。当時の当主は安芸国虎(1530年~1569年)。元親の父国親と同様土佐守護職を持つ管領細川高国から偏諱を賜り国虎と名乗ります。
 もともと長宗我部氏の勃興には快く思っていなかったところに加え、香我美郡夜須領を巡って長宗我部氏の家臣吉田重俊(元親の重臣孝頼の弟)と争ったことから敵対関係となりました。1563年元親が宿敵本山茂辰を攻めるため本山盆地に遠征すると、その隙をついて義兄一条兼定に兵を借り5千の軍勢で岡豊城に攻め寄せます。この時は、留守を守っていた吉田重俊の奮戦で撃退されました。
 1564年元親は安芸氏を攻めようと決意しますが、一条兼定の仲介で和睦します。1567年元親は安芸氏に使者を送り友好関係を結ぼうと国虎を岡豊城に招きました。行ったら殺されると分かっている国虎はこれを拒否。元親は国虎の拒否を口実に安芸氏攻めを発表します。これは元親の和戦両用の謀略でした。国虎はまんまと策にはまったのです。
 1569年7月満を持した元親は7千の軍勢を動員し安芸領に攻め込みました。国虎も5千の兵を集め本拠安芸城を中心に新荘城、穴内城などにも兵を置き徹底抗戦します。国虎は文字通り虎でした。その武勇は土佐中に鳴り響き戦いの帰趨を土佐の国人たちはじっと見守ります。
 元親は安芸郡和食(わじき)に陣を敷きました。国虎も八流(やながれ)に布陣します。元親は軍を二手に分け、5千を腹心福留親政に授け海沿いの道を進ませました。ちなみに親政は元親の信頼厚く、後年長男信親の守役となりました。元親自身は2千を率い山沿いを進みます。海手軍は八流で安芸方の武将黒岩越前率いる2千とぶつかりました。数の上でも長宗我部軍が有利で安芸勢は簡単に撃破されます。そこへ元親率いる本隊が安芸軍の背後を突いたため敵勢は総崩れとなりました。
 こうなると国虎個人の武勇ではどうすることもできず安芸城に逃げ込まざるを得なくなります。八流の合戦で元親が完勝したため安芸家中に動揺が走りました。国虎の家臣たちは次々と元親に内応し投降します。国虎唯一の頼みは、義兄一条兼定が元親の背後を突いてくれることでした。しかし、八流の戦いの結果は土佐中に広がっていたため、兼定は怖気づき動きません。国虎は見捨てられたのです。
 それでも国虎は城を守り抜きました。困った元親は、内応を約束してきた安芸家臣横山民部に城の井戸へ毒を入れるよう命じます。すでに裏切り者として負い目のある民部は従わざるを得ませんでした。城兵が毒水を飲んで次々と死んだため国虎は城兵の助命を条件に開城します。8月11日国虎は安芸郡浄貞寺で自害。名族安芸氏はここに滅亡しました。こうして元親は安芸領を併呑し残るは幡多郡の一条兼定のみになります。
 が、一条氏は何といっても長宗我部氏の恩人。大恩ある一条氏を滅ぼす事には長宗我部家中ですら反対がありました。元親はどのように一条氏を攻略するのでしょうか?
 次回、四万十川の戦いと一条氏の滅亡を語りましょう。

長宗我部戦記Ⅲ  姫若子

 1522年長宗我部国親は土佐一条房家の肝入りで妻を迎えます。彼女は美濃斎藤氏の出身でした。父は美濃守護代を務めた斎藤利良。美濃守護土岐家の家督相続問題で守護政房の不興を買い失脚。土佐一条氏のもとに身を寄せていたのでした。彼女の名は分かりませんが、利良の末娘で小説などでは於祥と呼ばれています。これは夫国親死後仏門に入り祥鳳玄陽と名乗ったことから取った名前でしょうが、このとき16歳。夫国親は19歳の若武者でした。
 国親は正室斎藤氏との間に元親、親貞、親泰、親益の4人の男子と葉姫、五月姫という2人の女子をもうけます。夫婦仲は良かったようです。後年元親が美濃から斎藤利三の妹を正室に迎えたもこういった関係があったからなのでしょう。
 さて、待望の長男として期待を込めて生まれてきた元親ですが、物静かでおとなしかったことから姫若子と呼ばれていました。父国親は長男の将来を心配します。厳しい戦国の世で生き残っていけるのだろうかと危惧しました。
 元親の初陣は長浜合戦でした。当時22歳です。合戦に先立ち、元親は家臣の泰泉寺豊後守に槍の突き方を尋ねたそうです。豊後は
「たただだ敵の目を突きなされ」
と助言します。元親は手勢50騎余りを率いると、豊後の助言通り槍を繰り出し大いに活躍しました。さらには、長浜合戦に大敗し逃亡する本山勢が、背後の浦戸城ではなく別の方向に逃げ去るのを見て浦戸城に突入しあっさりと落としたとも言われます。
 初陣でここまでの大功をあげた例は珍しく、今まで姫若子と揶揄していた者たちは逆に土佐の出来人と元親を称賛するようになりました。国親も、息子の意外な活躍に驚き、そして安心します。1560年6月15日、国親は急な病を発し亡くなりました。享年57歳。家督は嫡男元親が継承しました。
 元親に託されたのは、不倶戴天の宿敵本山茂辰を滅ぼすことです。実は茂辰には政略結婚で実の姉が嫁いでおり、元親にとっては義兄に当たりました。しかし戦国の世、このような関係は利害によって簡単に崩れるのです。国親が娘を本山氏に送り出した時も、長宗我部氏が勢力を安定させるまでの時間稼ぎくらいにしか思っていなかったのでしょう。戦国の世に翻弄される女性たちを思うと暗い気持ちになりますが、それだけ武士たちの生き残りは厳しかったのです。
 1361年、元親は軍勢を動員し本山氏の居城朝倉城を攻めます。茂辰は籠城策を取りますが、元親に支城をことごとく落とされたため万策尽き、1562年9月城を捨てて本拠本山城に逃亡しました。こうして元親は朝倉城を接収し長岡郡南部を完全に平定します。本山氏は土佐郡や吾川郡にも進出していましたから、これらの地も自然に元親の手に入りました。
 同年、元親は斎藤利三の妹を正室に迎えます。司馬遼太郎の小説『夏草の賦』では面白いエピソードが語られていますが、母が美濃斎藤氏の出でその縁で結婚したのだと思います。とはいえ、斎藤利三は織田信長の重臣明智光秀の家老。元親は奇しくも織田信長と縁を結びました。元親の正室斎藤氏は国色無双と呼ばれるほどの美人だったと伝えられます。二人の間には信親、親和、親忠、盛親が生まれました。
 元親は、本山茂辰にとどめを刺すべく1564年本山盆地に兵を入れます。1000m級の山々が連なる険しい道でしたが、積年の恨みを晴らすため長宗我部の兵士たちも勇んで進んだことでしょう。この時長宗我部勢3千、本山勢千、ちょうど長浜合戦の時と兵力が逆です。それだけ元親の力が増大していたのです。1564年4月、茂辰は本山城を捨て瓜生野に籠り抵抗をつづけたそうですが、そこで病死(あるいは行方不明という説も?)しました。
 茂辰の死をもって本山氏の組織的抵抗は潰えます。元親は実の姉である茂辰夫人とその子親茂の命は助けました。のち親茂は長宗我部家臣となったそうです。こうして宿敵本山氏を滅ぼした元親は、長岡郡、香我美郡、土佐郡、吾川郡と土佐の中央部を占める大勢力に成長します。しかし、東には安芸郡の安芸国虎、西には土佐一条氏の勢力があり元親の進出を阻んでいました。
 次回、元親の安芸氏攻略を描きます。

長宗我部戦記Ⅱ  お家再興

 前回、五摂家の一つ関白一条教房が長宗我部兼序の招きで一条家の領地があった幡多郡に下向、土着して土佐一条氏となったと書きました。応仁の乱を避けたのです。実は教房の父兼良も奈良に疎開しています。兼良は従一位で元摂政・関白・太政大臣、人臣を極め当代一流の文化人として高名でした。その兼良ですら京都を逃れるのですから応仁の乱で京都がいかに荒廃したか分かります。教房の弟冬良は京都に残りこちらが嫡流扱いとなり五摂家の一つ一条家を継ぎました。
 ただ教房は土佐にありながらも従一位の位階は保ち続け、その子で後を継いだ房家も土佐に居て朝廷の官位は昇進し続けます。最終的には正二位権大納言まで昇りつめ、久しく絶えて居なかった土佐守も兼任しました。これは武家が称する私称ではなく正式な朝廷の官位なので土佐国内では尊崇の対象となり他の武士たちが戦国で争う中別格として存在し続けます。
 京都に残った一条家も房家の次男房通が継ぎます。大叔父冬良の養子となったのです。実質教房の子孫が京都の一条家と土佐一条氏を継承することになりました。その後京都の一条家は江戸時代に嫡流が絶え、後陽成天皇の第9子昭良が養子に入り第14代当主を継承しますから皇別摂家となります。
 長宗我部兼序の忘れ形見千雄丸が頼ってきたのは一条房家の時代でした。房家は幼い千雄丸に同情し温かく迎えます。今回のシリーズの基本資料『高知県の歴史』(山本大著 山川出版)に載っていないので史実かどうか確認できないのですが、亡命時代の千雄丸の有名なエピソードがあります。
 ある時一条房家は酒宴を開いていました。ほろ酔い加減の房家は、傍らに控えている千雄丸に尋ねます。
「あの欄干から下へ飛び降りることができるか?できるならばお家再興をしてやろう」
全くの戯れでした。高楼ですから、飛び降りれば無事ではすみません。下手したら死にます。周囲がハラハラする中、千雄丸はすくっと立ち上がると欄干まで走りさっと飛び降りてしまいました。
 自分の戯言で幼子を殺したかもしれないと青くなった房家が慌てて駆け寄ると、庭先で怪我一つせずにっこり笑う千雄丸が居ました。房家は武家の子のお家を思う心に感心するとともに恐怖すら覚えます。そして自分の傍らで震えている嫡子房冬を見て、一条家の将来を思い暗澹たる気持ちになったともいわれます。
 房家は、約束を守りました。千雄丸が成長すると1518年本山梅慶や山田氏、大平氏に長宗我部氏の旧領返還を命じます。さすがの梅慶も土佐国司で土佐中の尊崇を受ける房家に逆らうことはできず、渋々ながら長宗我部旧領を返しました。
 千雄丸元服の時期は明らかではありませんが、当時土佐守護だった管領細川高国から一字を拝領し国親と名乗ります。高知平野に進出し朝倉城を居城とする本山梅慶はまだまだ強大でした。家督を継いだ国親は、まず領内の充実を図ります。土佐の国人で山内首藤氏の流れをくむ江村郷吉田城主吉田孝頼(1494年~1563年)を登用し内政や軍備を任せました。後年長宗我部氏富強をもたらした一領具足の制度も孝頼が考案したと言われます。孝頼は国親の妹を正室に娶り、長宗我部一族・宿老として国親を支えました。
 本山梅慶健在の間は国親雌伏の時でした。1544年国親は自分の娘を宿敵本山梅慶の子茂辰に嫁がせます。政略結婚でした。そうしておいて1547年隣国大津城の天竺氏を滅ぼし、その南、介良の横山氏を降します。下田駿河守、十市細川定輔(守護代細川遠州家の一族か?)も服属させ、ついに1549年仇敵の片割れ山田氏を倒しました。
 国親は長岡郡南部に確固たる地位を築き、本山梅慶は警戒します。自分の子茂辰が凡庸だったことも心配の種でした。1555年梅慶は波乱の生涯を閉じます。いよいよ国親は本山氏との対決の姿勢を鮮明にしました。1556年香我美郡の香宗我部家で内紛が起こります。香宗我部家の当主親秀は、日の出の勢いの長宗我部氏を恐れこれと結ぼうとしますが、弟がこれに反対したため殺してしまいました。親秀は国親の三男親泰を養子に迎え家督を継がせます。これで国親は香我美郡にも大きな楔を打ち込みました。
 同じ年、国親はついに本山氏に対し挙兵します。本山家臣秦泉寺氏を寝返らせ、大高坂氏国沢氏を討ちました。1560年長浜城攻略。本山茂辰は朝倉城に2千の兵を集め長浜城奪回を図りますが、国親はこれを長浜の合戦で撃破、逆に国親は浦戸湾を望む本山方の重要拠点浦戸城を奪いました。
 本山氏を滅ぼすのは時間の問題となります。ただ国親には気がかりが一つありました。嫡男弥三郎元親の事です。元親(1539年~1599年)は幼少時からおとなしく姫若子(ひめわかご)と呼ばれるほど軟弱でした。宿敵本山梅慶の子茂辰が凡庸だからこそ国親の快進撃が続いているのですが、もし元親の代になったとき再逆転される恐れすらあったのです。
 その元親と、次男親貞(吉良氏を継ぐ)は長浜合戦が初陣でした。長宗我部氏の将来を決める戦いになるはずです。元親はどのように初陣を飾ったのでしょうか?
 次回、姫若子にご期待ください。

長宗我部戦記Ⅰ  岡豊(おこう)落城

 土佐国は現在の高知県に当たります。古代には都佐国と呼んでいましたが、一番西の幡多郡だけは波多国という別の国でした。律令制が始まって都佐と波多を合わせて土佐国となります。土佐は四国の南半分を占めますがその80%は山地。四国山脈が四国の他の三国と隔てる自然の障壁となりました。
 物部川、仁淀川、四万十川などの大河が山脈の間を縫って流れますが、河口の高知平野、安芸平野は狭く耕地は全土の7%にしかすぎません。古代日本の大動脈瀬戸内海に面した伊予、讃岐、阿波が早くから発展したのに比べ、土佐は交通の不便さから流刑地とされました。
 京都方面から土佐に下るには、一旦阿波に上陸して吉野川沿いに遡り三好郡から四国山脈に分け入り、大歩危小歩危の難所を越さなければなりません。もう一つのルートは阿波を沿岸沿いに南下し、室戸岬をこえて海路土佐に至るものでした。確か有名な紀貫之の土佐日記は、この沿岸ルートを通ったと記憶しています。
 土佐国の石高は太閤検地では9万8千石。関ヶ原以後山内一豊が入国し改めて検地したところ20万石でした。ただこれはかなり無理して作り上げた数字らしく、表高と内高の差がない厳しい藩財政を強いられます。一応土佐藩時代初期の石高を記します。
 西から
幡多郡 5万2千石
高岡郡 4万5千石
吾川郡 8千石
土佐郡 1万9千石
長岡郡 2万5千石
香我美郡 2万7千石
安芸郡 1万7千石
 おそらく戦国時代はこの半分くらいではなかったかと推定します。鎌倉時代、武家政権の力は土佐にはあまり浸透せず名目的な守護しか置かれなかったようです。土佐に中央政権の力が及んだのは南北朝時代、足利方の細川氏が四国平定してからです。最初土佐国は細川奥州家の定禅が守護となります。その後細川京兆家(嫡流)が守護を独占しました。ただ京兆家は室町幕府の管領として常に京都に居ましたから、守護代として庶流の遠州家が入りました。
 ただ遠州家だけでは土佐支配は十分ではなかったらしく、細川京兆家は有力豪族を味方につけこれを補佐させました。これが長岡郡岡豊城を居城とする長宗我部氏です。南北朝時代、長宗我部信能(のぶよし)、兼能(かねよし)父子が細川氏に仕え南朝との戦いで戦功をあげました。
 その褒美として長宗我部氏が貰ったのが土佐国内の大桶郷・吉原地頭職、朝倉領家・深淵郷・介良庄中塩田など総計千百三十四町です。長宗我部氏は、管領細川氏の重臣として土佐国の旗頭となり大きな勢力を誇ります。ただ管領細川氏の威光を笠に他の豪族に命令する長宗我部氏が好かれるはずはありません。細川氏の力が強いうちは我慢していても、一旦細川氏の威光が効かなくなると反撃されるのは時間の問題でした。

 その矛盾は応仁の乱後噴出します。1507年、管領細川政元は後継者争いのごたごたで重臣香川元長、薬師寺長忠らに入浴中を暗殺されました。土佐守護代細川長益は応仁の乱に参加しぼろぼろになって大きく勢力を減退させます。当時の長宗我部氏当主十九代兼序(かねつぐ)は、衰退した守護代遠州家に代わり土佐の守護代的役割を代行していたとされますが、主家細川政元横死で雲行きが怪しくなりました。

 兼序は、細川京兆家衰退に備え幡多郡に領地を持つ関白一条教房を招き後ろ盾にします。土佐一条氏は、幡多郡中村を居城としながら朝廷の位階も累進し中村御所と呼ばれ土佐人の尊崇を受けました。中村は京都を模した碁盤の目状に道が整備され小京都と称されます。土佐一条氏は、本来五摂家の一つ一条家の嫡流でしたが、教房の弟冬良(ふゆよし)が京都に残り関白となったことで、この子孫が嫡流になりました。

 ここに一人の人物が登場します。本山梅慶入道茂宗。兼序とおなじ長岡郡の内陸部本山城主でした。土佐は郡が横並びに連なり南で太平洋に面し、北は四国山脈に接します。通常は海に面した南部が人口が多く北部は少なかったのですが、長岡郡だけは例外で難所とはいえ大歩危小歩危の峠道で阿波との交通路だったため北部山岳地帯を支配していた本山氏はある程度の勢力を誇ります。

 本山氏は土佐日記にも先祖の八木氏として登場するほどの古い歴史を誇る国人でした。一方長宗我部氏も古代豪族秦氏の子孫を称し、平安時代末期に秦能俊(よしとし)が土佐国長岡郡宗我部郷に入り長宗我部氏を名乗ったそうです。最初は宗我部氏だったそうですが、甲斐源氏の末裔を称する香我美郡の宗我部氏が居たために、これと区別するために長岡郡の長を取り長宗我部と称したと言われます。ちなみに香我美郡の宗我部氏も香宗我部氏となります。

 本山梅慶の生年がはっきりしないためその父養明の時代の可能性もありますが、後ろ盾を失った兼序を滅ぼすため近隣の山田氏、吉良氏、大平氏と語らい1508年(1518年という説も)3千の軍勢で岡豊城を囲みました。兼序は土佐国人たちに嫌われていたため援軍もなく、わずか5百の兵で籠城します。

 滅亡は時間の問題でした。死期を悟った兼序は嫡子千雄丸(のちの国親)を呼び寄せます。近臣数名を護衛に付け中村屋形の一条氏を頼って落ち延びるよう命じました。この時千雄丸わずか4歳。千雄丸一行は敵の包囲をかいくぐり中村屋形に向かいます。

 連合軍は、岡豊城総攻撃を開始しました。多勢に無勢。兼序は獅子奮迅の活躍の後自害して果てます。岡豊城は落城しました。長宗我部氏を滅ぼした後、梅慶は本拠本山城を子の茂辰(しげとき)に譲り、自身は平野部の朝倉城(高知市)に居城を移します。1540年には長宗我部攻めで協力した吉良氏を滅ぼし、一条氏とも戦うなど本山氏の全盛期を築きました。



 一条氏を頼り落ちていった千雄丸はどうなったでしょうか?次回、お家再興について語りましょう。

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