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2018年1月

2018年1月 4日 (木)

土佐藩の幕末維新余話  陸援隊・海援隊のその後

 土佐藩の幕末維新、書き終わった余韻が未だ覚めやりません。本編で書ききれなかった陸援隊と海援隊のその後について簡単に記します。
 まず陸援隊。中岡慎太郎が創設した陸援隊は討幕のための浪士隊でした。もちろん土佐出身者が中心で中岡横死後は同志であった田中光顕(維新後貴族院議員、宮内大臣)と谷干城(維新後子爵、陸軍中将)らが指導しました。実はこの谷干城も戦国時代長宗我部氏の重臣谷忠澄の子孫です。谷氏は代々土佐一宮土佐神社の神官で、関が原後土佐に入った山内氏も粗略にはできず召し抱えて上士にしました。
 陸援隊は中岡の死後、中島信行(維新後神奈川県令、自由党副総理、衆議院議員、貴族院議員)も参加しています。中島は土佐郷士出身、土佐勤王党加盟、脱藩し一時は長州藩の遊撃隊に参加します。その後龍馬と知り合い海援隊に入りました。中岡は亀山社中とその後身海援隊を見て、長岡謙吉(維新後三河県知事、明治5年死去)や陸奥陽之助(宗光、維新後伯爵、外務大臣)など優に一国の宰相が務まる有能な人材が龍馬のもとに集まっていたことを羨ましく思い、龍馬に人材を譲ってくれるよう頼みます。中岡の頼みで海援隊から陸援隊に移籍したのが中島でした。
 陸援隊は、維新後明治新政府が御親兵を創設したときこれに吸収されます。その際田中は官界・政界に転じ谷はそのまま軍に残ったのでしょう。
 海援隊は海軍だけではなくカンパニー(商社)としての性格もあったため複雑でした。坂本龍馬と後藤象二郎の話し合いで土佐藩預かりとなっていたため、処理は土佐藩の役目となります。1868年(慶応4年、9月8日明治に改元)長岡謙吉が土佐藩の命で海援隊隊長に任命されますが、閏4月27日藩命により解散させられました。その後は土佐商会と名前を変えます。
 土佐藩参政後藤象二郎は、部下の岩崎弥太郎(地下浪人出身、吉田東洋門下)を連れ長崎へ土佐商会の処理に赴きました。調べてみると土佐商会は莫大な借金がありこれを土佐藩が被ると大赤字になることは必定でした。後藤は岩崎に土佐商会のすべての権利を借金も含めて押し付け、これにより岩崎は商売の道に進むこととなりました。後藤の無責任さには呆れるのを通り越して笑ってしまいますが、岩崎はもともと商売っ気があったのでしょう。
 有能な岩崎は、土佐商会を整理し様々な紆余曲折を経て明治5年三菱商会を立ち上げます。これがのちの三菱財閥の始まりです。岩崎の話は単体でも面白いのですが、今回は触れません。三菱企業は戦後も生き残り現在でも三菱重工をはじめ大企業として名を連ねています。
 考えてみると陸援隊、海援隊は短くともそれぞれ歴史的意味があったのだと思うと感慨深いですね。

土佐藩の幕末維新Ⅵ  土佐藩の終焉(終章)

 大政奉還が行われた1867年10月14日、実はこの日は薩摩藩と長州藩に対し討幕の密勅が下った日でもありました。薩摩の大久保利通と公卿岩倉具視が中心となった陰謀ですが、彼らにとっては坂本龍馬の動きは邪魔でした。この事から龍馬暗殺に薩摩藩関与説があるのですが、私は薩摩藩を主導していた西郷の人となりから言って無かったと思います。
 それより幕府側で時流の読めない者が、幕府と徳川家の立場が悪くなるのを理解できず暴走したというのが真相だと考えています。実際、龍馬暗殺で公議路線を取る有力な勤王の志士は居なくなりました。同年12月9日、薩摩・尾張・越前・安芸遅れて土佐藩の代表が集まり京都の小御所で今後の日本の在り方を決める会議(小御所会議)が開かれます。
 席上、山内容堂は「この度の事は岩倉具視など一部公卿が薩摩藩と組んで起こした陰謀だ。この会議に徳川慶喜公が参加しないのは不当である」と激しく詰め寄りました。容堂のわがままで会議が崩壊しそうになる中、西郷隆盛は会議に参加していた大久保利通を呼び寄せ「貴方の刀は何のためにある?いざとなったら容堂を刺し殺し自分も自害して果てればよいではないか?」と覚悟を決めるよう促します。
 会議の席に戻った大久保の殺気を感じ取り、今まで勇ましく論じていた容堂は黙り込んでしまいました。結局、会議は薩摩藩と今回は会議に参加できなかった長州藩の思惑通り王政復古の大号令が出され、前将軍慶喜へは謹慎が申し渡されます。怒った容堂はさっさと帰国してしまいました。会議により朝敵だった長州藩は赦免されます。
 土佐に戻った容堂は藩士たちに薩長の軽挙妄動に絶対参加するなと厳命します。しかしすでに西郷や大久保と気脈を通じていた板垣退助は、独断で藩兵を組織し上洛しました。板垣は、今回の戦に参加しなければ戦後土佐藩が発言権を失うという危機感を持っていました。結局この判断は正解でした。容堂は山内家を大名にしてもらった恩義から徳川家に感傷的な気持ちになっていただけです。板垣の方が現実主義者だったのでしょう。
 大阪城に謹慎していた慶喜ですが、会津藩や桑名藩など急進派に押され薩摩藩の横暴を朝廷に訴えるべく1868年1月2日、京都への進軍を許可します。この頃京都には薩長の兵5000しか終結していませんでした。幕府諸隊、会津藩、桑名藩を中心とする幕府軍は2万。伏見の関所を通る通さないと小競り合いになり、これをきっかけとして鳥羽伏見の戦いが起こりました。いわゆる戊辰戦争の始まりです。
 戦闘は劣勢のはずの薩長軍がミニエー銃、スナイドル銃などの新兵器を駆使し勝利します。幕府軍は一部だけが積極抗戦派でそれ以外は嫌々参加していただけでしたから先鋒が崩れると総崩れになり大坂城に向けて敗走しました。悲惨なのは途中の淀藩が幕府軍の入城を拒否し城門を閉じたことです。当時の淀藩主は老中稲葉正邦。藩主が江戸にいるにもかかわらず藩士たちが勝手に主君を見捨て朝廷側に降ったのです。また、天王山に布陣していた津藩藤堂家は一夜にして朝廷に寝返り大砲を幕府側に振り向け砲撃を開始します。これが時流の力でした。
 大阪城に逃げ込んだ幕府軍は、慶喜を擁し一戦を交える覚悟でした。ところが慶喜は秘かにその夜大阪城を脱出し江戸に逃げ帰ります。置き去りにされた幕府軍こそいい迷惑でした。結局おのおのが落ちていき戊辰戦争は江戸へ向かう東海道、東山道、そして北陸地方に飛び火します。
 板垣退助率いる土佐軍も、これに参加しました。板垣は東山道先鋒総督府参謀になります。土佐軍を主力とした東山道軍は甲斐国勝沼の戦いで新撰組の残党甲陽鎮撫隊を撃破し江戸に迫りました。この段階に至っては山内容堂も黙認せざるを得なくなります。もし板垣らを処罰でもしようものなら、今度は自分自身が朝敵になって殺されるからです。
 1868年3月、江戸無血開城。ただ戊辰戦争は終わらず奥羽越列藩同盟との血みどろの戦いに突入します。土佐軍は宇都宮の戦い、会津の戦いへと駒を進め活躍しました。板垣に軍才があったのは、やはり先祖である武田家重臣板垣信方の血でしょうか?容堂への忠誠心から公議思想を捨てなかった後藤象二郎との差がだんだんと広がっていきます。板垣は、中岡慎太郎の置き土産陸援隊を吸収し土佐藩における勤王討幕派の首領となりつつありました。
 戊辰戦争が終わり板垣、後藤はともに参議になりますが、板垣は征韓論で敗れ野に下り自由民権運動に身を投じます。後藤は参議を辞した後黒田内閣、山縣内閣、松方内閣で逓信大臣、第2次伊藤内閣で農商務大臣などを歴任、官界で才能を発揮しました。
 容堂のその後はどうなったでしょう?明治維新後内国事務総裁に就任しますが、かつての領民や家来たちと同格になるのが我慢できず明治2年辞職。橋場(東京都台東区)の別邸に引きこもり酒と女、作詩に溺れる晩年をおくります。容堂は武市瑞山を殺したために薩長に対抗できる人材を失い新政府の実権を奪えなかったと生涯悔いたそうです。ただそれは彼の勘違いで土佐に誰が居ようと明治新政府は廃藩置県を断行し、容堂のような旧時代の遺物は消え去るしかなかったでしょう。武市にしても、そのようなくだらないことで容堂に期待されても迷惑だったはず。武市の真意は天皇を中心とする新国家樹立でしたから。
 明治4年、廃藩置県で土佐藩は正式に無くなります。代わりに高知県が設置されました。明治維新後薩摩の島津久光は「余はいつ将軍になれるのだ?」と真顔で家臣に尋ねたそうですが、いくら開明的だとは言え大名たちの認識は結局この程度だったのでしょう。容堂もまた幕末四賢侯の一人に数えられるにしてはお粗末だったと言えます。
 長宗我部家の一領具足の子孫、土佐郷士たちが多くの血を流して勝ち取った明治維新、結局その果実を食べたのは掛川衆である上士、後藤や板垣らでした。ただ板垣の起こした自由民権運動は、明治憲法の制定、国会開設へと繋がり、大正デモクラシーそして現在の民主主義へと繋がっていきます。四民平等を求めた龍馬たち土佐郷士の理想は現在になってようやく実現したのかもしれません。
                                   (完)

土佐藩の幕末維新Ⅴ  大政奉還

 龍馬が亀山社中を設立する際、薩摩藩の援助がありました。ですからあとは長州藩を貿易の利で結び付ければ薩長同盟は成るのです。近年龍馬の業績を過小評価し亀山社中自体が薩摩藩主導で、長州藩首脳との話し合いで同盟が成立したという説が出てきています。真相は分かりませんが、本稿は土佐が主人公なので龍馬が活躍したとして書き進めましょう。
 ここで幕末の長州藩の歴史を簡単に記します。1863年8月18日の政変で京都を追われた長州藩は孤立し、自藩のみで攘夷を決行しようとしました。関門海峡を通る外国船を砲撃したのです。怒った米英仏蘭は1864年4カ国連合艦隊を編成し長州藩に報復します。これが下関戦争ですが、戦いに完敗した長州藩は欧米列強の強力な兵器に精神論だけでは対抗できないと悟ります。そこで外国から兵器を大量に買い入れ近代軍備を作って幕府を倒し改めて攘夷を決行しようと決意しました。
 長州藩は1864年8月、京都に出兵し禁門の変を起こしていますから、徳川幕府も長州藩を放置できなくなります。尾張藩主徳川慶勝を総督とする長州征討軍が組織され第1次長州征伐が起こりました。長州では攘夷派の宿老周布政之助らが粛清され椋梨藤太を首班とする幕府恭順派が実権を握ります。高杉晋作ら過激派はいち早く行方をくらまし、椋梨は幕府軍に降伏しました。幕府の示した降伏の条件は攘夷派の三家老国司親相、益田親施、福原元僴の切腹、長州に匿われていた三条実美ら攘夷派五公卿の追放、山口政事堂の破却など寛大なものです。
 実は征討軍参謀に薩摩の西郷隆盛がおり、長州藩をあまり追い詰めれば討幕に不利になると考えての処分でした。幕府軍が去ると、逃亡していた高杉晋作が1865年1月12日伊藤俊輔(博文)らとともにわずか80人で下関功山寺に決起、萩城へ攻め上ります。すると次から次へと奇兵隊や諸隊が合流、椋梨が派遣した藩兵を撃破しあっというまに萩城を制圧しました。こうして長州藩の実権を握った高杉は、京を追われ但馬国に潜伏していた桂小五郎を呼び戻し藩政を委任します。また、桂が招聘した軍学者大村益次郎に軍の全権を与え軍備と教練を任せました。来るべき幕府の再征に備えての事です。
 軍備で一番重要なのは近代兵器です。特に歩兵の主力武器として銃身にライフリングが施され椎の実弾(ミニエー弾)を撃てる新式銃ミニエー銃がどうしても必要でした。軍備の責任者大村は桂に訴えます。ところが幕府は欧米諸国に長州藩との武器取引を禁じており武器購入は厳しいものになっていました。そこへ登場したのが龍馬です。
 龍馬は薩摩藩の名目で武器を購入し亀山社中の船で秘かに長州へ運ぶことを申し出ます。実は薩摩藩とも話はついており、ここに薩長同盟の第一歩が踏み出されました。亀山社中の活躍でミニエー銃4300挺、やや旧式ながら幕府の火縄銃よりははるかにましなゲベール銃3000挺、そして木造蒸気船ユニオン号の購入が決まります。
 藩主毛利敬親、世子定広親子は山口に入り、藩を上げて幕府軍と対決する姿勢を示しました。そしてついに1866年6月第2次長州征伐が始まります。長州藩は周囲すべてが敵、幕府軍は実に12万の大軍でした。長州ではこれを四境戦争と呼びます。わずか1万にも満たない長州軍は、大村益次郎の作戦と奇兵隊を率いた高杉晋作の活躍により見事勝利しました。この戦いの敗北で幕府の権威は地に堕ちます。
 1866年3月、坂本龍馬の仲介で長州の桂小五郎が京都薩摩藩邸で西郷隆盛と会談、ついに薩長同盟が成立しました。時代は討幕へと急速に流れ出します。この間、坂本龍馬や中岡慎太郎は国事に奔走し土佐にこの人ありと天下の耳目を集めました。一方、土佐藩では老公山内容堂の下ようやく後藤象二郎や板垣退助らが台頭してきた段階でした。吉田東洋門下の彼らは本来土佐勤王党の流れをくむ龍馬や中岡と合うはずがありません。実際、容堂が勤王党を弾圧したとき側近として勤王党幹部を厳しく取り調べたのも後藤らでした。
 土佐藩上士では少数だった討幕の意見を持っていた板垣は、中岡慎太郎と交流するうちに天下の情勢を知り中岡の仲介で薩摩の西郷隆盛と会ったりしました。一方土佐藩参政となっていた後藤は容堂と同じく公議思想でしたが、長崎出張中坂本龍馬と知り合い共鳴します。二人は考えればお互いに敵同士でしたが、天下国家のために手を結んだのです。
 1867年4月、後藤の仲介で脱藩の罪を許された龍馬は亀山社中を前身とする海援隊を結成しました。中岡は陸援隊を組織します。これらは土佐藩が資金援助をする約束がなされ、土佐藩を討幕に引きずり込む秘策でした。ただ龍馬は討幕が避けられないとしても、内戦になったら多くの罪なき人が犠牲になると悩みます。後藤も幕府の運命は仕方ないとしても徳川家の存続だけは実現したいと考えていました。
 龍馬は後藤と共に上洛する船上、新国家構想を語ります。龍馬が口述し海援隊書記長岡謙吉が文書にまとめました。これが有名な船中八策です。龍馬は後藤に、徳川家を守る方法として大政奉還の考え方を述べます。非常に感銘を受けた後藤は、さっそく山内容堂に報告。京都にいた将軍慶喜にも大政奉還の建白書を提出しました。1867年10月14日、将軍慶喜は土佐藩の大政奉還を容認し朝廷に将軍位返上を申し出ます。
 1867年11月15日京都近江屋にて悲劇が起こりました。坂本龍馬と中岡慎太郎が上洛し近江屋に滞在していたことを察知した刺客たちにより暗殺されたのです。実行犯は京都見廻組説が有力ですが、新撰組説、薩摩藩黒幕説など諸説あってはっきりしません。どちらにしろ時流を理解できない馬鹿者どもの犯行でした。坂本龍馬享年31歳、中岡慎太郎は救出されるものの、深手を負っており龍馬に遅れること2日で絶命しました。こちらは29歳の若さです。
 思えば、坂本龍馬と中岡慎太郎の二人が明治維新の扉を開いたとも言えます。龍馬は公議思想、慎太郎は勤王討幕と方向性は違いましたが、互いに日本の未来を見据えていたことだけは確かでした。二人の不世出の英雄の死で、戊辰戦争の道は決まったと思います。土佐藩は厳しい言い方をすると、掛川衆である後藤や板垣が土佐郷士龍馬や慎太郎の築いた土台を利用し幕末維新の舞台へと躍り出たと言えるでしょう。
 次回最終回、戊辰戦争と土佐藩の終焉を描きます。

土佐藩の幕末維新Ⅳ  坂本龍馬

 土佐勤王党の悲劇は、山内容堂が見せる勤王の姿勢はあくまで形だけのもので本音が幕府存続にあったという事に気付けなかったことです。いや気付いてはいても信じたくなかったというのが本音でしょう。加えてテロによって奪った権力は別の力によって滅ぼされるという歴史の鉄則通りの末路を辿ったという厳しい見方もできます。
 坂本龍馬(1836年~1867年)は勤王党の危うさに気付きいち早く脱藩し助かります。坂本家は長岡郡才谷村出身でした。4代目八兵衛守之の時高知に出て才谷屋という商売(質屋)を始めます。これが大当たりし7代目直海(なおみ)の時郷士の株を買って武士になりました。ただし本家の才谷屋は直海の次男直清が継ぎます。ですから竜馬の家は郷士とはいえ非常に裕福な家庭でした。
 幼少時の龍馬は弱虫で寝小便たれ、悪童たちから泣かされて家に帰ってきていたそうです。そんな弟を可愛がり厳しく育てたのは姉乙女でした。坂本の家では、龍馬がとでも学問では身を立てられないと諦め剣術を治めさせようと地元の日根野道場に通わせます。ところがよほど才能があったのでしょう。龍馬は道場で頭角を現し江戸の北辰一刀流千葉定吉道場に入門することとなりました。
 坂本家は、龍馬が一刀流の免許皆伝を貰って帰郷し道場でも開いてくれれば満足でした。当時、各藩の若い侍たちは江戸に出て他藩の若者たちと交流します。龍馬も例外ではなく、武市半平太に連れられ長州藩の桂小五郎達と知り合いました。桂もまた神道無念流練兵館の塾頭を務めるほどの剣客で、剣でも親しくなれたというのが龍馬に幸いしました。千葉道場でも龍馬は才能を発揮し1858年24歳の時免許皆伝を許されます。
 当時江戸に集まった若い侍たちの間で、剣と同時に国学も流行し水戸藩士を中心に多くの若者が尊王攘夷思想に染まりました。青年龍馬も何となくそれに加わっていきます。龍馬の生涯を彩った女性は数多くいますが、その一人千葉定吉の次女佐那とのロマンスは有名です。定吉の跡取り重太郎とも親友となり、このままいけば佐那をめとって土佐に帰り千葉門の道場を開くという道が見えていました。
 ところが、帰国した龍馬に待っていたのは武市瑞山らによる土佐勤王党の動きでした。龍馬もまた当時の若者らしく尊王攘夷思想に染まっていましたから当然参加します。ただ龍馬は土佐の河田小龍や幕臣の勝海舟、肥後の横井小楠らと知り合ううちに、単純な尊王攘夷運動では日本を救えないと悟っていきました。中でも勝海舟には深く私淑し弟子入りまでしてしまいます。海舟と龍馬には面白いエピソードがあり、最初千葉重太郎と共に国賊(と見られていた)勝海舟を斬りに行ったところ、邸宅に上げられ海舟から時流を論じられて感激しその場で弟子入りを願い出たという話があります。
 別の見方では千葉家の大事な跡取り重太郎を犯罪者にしないために即座に海舟に弟子入りしたとも言われます。
 龍馬はテロに頼る勤王党に危うさを感じ何度か武市に忠告したそうですが容れられず、1862年3月土佐を脱藩しました。その後紆余曲折があり、長崎に落ち着いて1865年亀山社中を創設、海運貿易業に従事します。社中は日本最初のカンパニー(商社)といわれ、創設メンバーには龍馬の他に千屋寅之助、高松太郎、沢村惣之丞、近藤長次郎、新宮馬之助、池内蔵太、中島信行、陸奥陽之助(宗光、後の外務大臣)ら錚々たる人物が居ました。亀山社中は交易と同時に海軍、操船の技術を高め国事に奔走しようと考えます。
 いつの頃からか、龍馬は犬猿の仲の薩摩と長州を交易の利で結び付け討幕の原動力にしようと考え始めました。しかし同時に有力大名の合議による政体いわゆる公議思想にも共鳴し矛盾を抱えていたとも言えます。
 龍馬は幕末維新史にどのような業績を残すのでしょうか?次回、薩長同盟締結、船中八策、大政奉還について語りましょう。

土佐藩の幕末維新Ⅲ  土佐勤王党

 武市半平太小盾、号して瑞山(1829年~1865年)。長岡郡吹井(ふけ、現高知市内)に生まれる。武市の家は郷士のうちで白札とよばれる家系でした。白札とは掛川衆である上士、長宗我部旧臣で一領具足の後身である郷士の中間に位置し、郷士でありながら藩の下役には就ける身分です。
 武市は身長6尺、鼻が高く顎が長くてよく整っており目は異常に鋭い、顔は青白く喜怒哀楽をあまり表情に出さない人物だったと伝えられます。沈着冷静で礼儀正しく墨龍先生と人に呼ばれますが、口を開くとよく通る声で話し人の心をうつ説得力があったそうです。ただ、口の悪い郷士仲間の例えば坂本龍馬などからは、顎に特徴があることから「あぎ(顎の事)」と呼ばれました。
 安政の大獄で藩主山内容堂が幕府に処分されると、土佐国内は動揺します。特に血気盛んな若者たちの中には薩長や水戸の志士らと交流し勤王運動に走るものが出てきました。1861年(文久元年)香我美郡野市村の郷士大石弥太郎は江戸遊学中これら志士と交わり、武市に天下の情勢と尊王の大義を説き決起を促します。
 同年8月、武市は同志たちを集め一死報国、尊王攘夷を大義とする土佐勤王党を結成しました。主だったものは大石弥太郎、坂本龍馬、中岡慎太郎、間崎哲馬、吉村寅太郎、平井収二郎ら。加盟の志士は200名に及ぶものの、郷士や庄屋層が中心で上士では容堂の側近小南五郎右衛門らが秘かに援助するのみで参加はほとんどありませんでした。
 武市瑞山は土佐藩参政吉田東洋に反論を尊王攘夷で統一するよう申し出ます。ところが容堂の真意が公武合体であることを知っている東洋は拒否しました。これを不満に思った勤王党の那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助らは1862年5月6日、帰宅途中の東洋を襲い暗殺してしまいます。東洋享年47歳。武市瑞山の命だったと伝えられますが、東洋派は藩の保守層からも憎まれていたため失脚しました。暗殺の実行犯はすでに脱藩し勤王党の犯行であることは皆承知しつつも不問に付されます。
 土佐藩は保守派中心の政権となり、土佐勤王党も日本中に広がる尊王攘夷運動から政権側は無視できなくなりました。藩は勤王党の意見を容れざるを得なくなり、武市瑞山は上洛し中川宮を擁し勤王活動を行うようになりました。このころが瑞山絶頂期だったでしょう。その間、腹心吉田東洋を殺された老公山内容堂は江戸にいましたが、不気味な沈黙を保ちました。しかし反撃の機会は着々と狙っており、まず間崎哲馬、平井収二郎、広瀬健太らに中川宮へ令旨を請うた越権行為を咎め切腹を命じます。間崎らは勤王党に属しながら上士である掛川衆だったため容堂としても処分しやすかったのでしょう。
 ただ勤王党数百の党首である瑞山へはなかなか手出しができませんでした。容堂は勤王党への圧迫をますます強めて行きます。勤王党の将来に見切りをつけた吉村寅太郎ら過激派は脱藩し独自の活動を始めました。1863年寅太郎は天誅組を京都で結成、公卿中川忠光を擁し大和国で反幕府を掲げ十津川郷士1000名と共に蜂起します。これは幕府に鎮圧され寅太郎も戦死しました。いわゆる天誅組事件です。
 武市瑞山が上洛したのは藩主豊範が朝廷より勤王と在京警備を命じられ京都に上ったとき随行したからでした。京都の土佐藩邸に入った瑞山は、勤王党の巨頭従三位権中納言三条実美に取り入り土佐藩を動かします。瑞山は岡田以蔵を使い反勤王派、佐幕派の人物を次々と暗殺しました。京都では勤王派、佐幕派が暗殺という手段を多用し混沌としてきます。テロによって無政府状態と化したのです。
 1863年8月18日、京都政界では公武合体派が巻き返し長州藩を中心とする尊王攘夷派を追放しました。この政変を受け容堂は勤王党への弾圧を強めます。武市ら主だった勤王党幹部は投獄されました。同年1月、武市は上士格留守居役に昇進していたため拷問は受けなかったものの、他の同志は厳しい拷問を受けます。そんな中、京都に潜伏していた岡田以蔵が捕らえられました。岡田は思想などなくただ武市の命令で暗殺を繰り返していただけでしたので、この頃は無宿人で強盗など犯罪を繰り返していたそうです。
 いくら拷問を受けても勤王党幹部は絶対に口を割りませんでしたが、岡田は拷問にあっさりと転び佐幕派要人の暗殺を白状しました。1865年閏5月11日、武市が命じた決定的証拠は見つからないまま君主に対する不敬行為という曖昧な理由で武市は切腹を命ぜられます。享年35歳。ただ武士らしい最期を迎えた武市は良いほうで、他の同志は武士とは認められず斬首されました。岡田以蔵はさらに悲惨で無宿人以蔵として打ち首獄門となります。 
 指導者武市瑞山の死で土佐勤王党は事実上壊滅しました。ただすでに脱藩していた坂本龍馬、中岡慎太郎らは藩外で独自の活動を始めます。すでに坂本や中岡らの方が勤王の志士として世間では有名になりつつありました。竜馬は途中公議に思想を変え大政奉還への道を選ぶことになります。山内容堂の公武合体思想は次第に時代遅れとなりつつありました。
 次回、坂本龍馬の活躍を描きます。

土佐藩の幕末維新Ⅱ  吉田東洋

 山内容堂が佐幕と勤王の板挟みになり公武合体論を推進したことは前に書きました。そしてその理想を実現しようとしたのが容堂の抜擢した土佐藩参政吉田東洋(1816年~1852年)です。
 吉田家の祖は長宗我部家の重臣吉田重俊。吉田家は土佐藩では200石の馬廻役でした。幼少期から文武の修行を積み剣は一刀流、文は藩の儒官中村文十郎に学びます。礼節を重んじるも融通の利かない性格で短気、若いころ投網の事で家僕と喧嘩し無礼討ちして蟄居処分になりました。東洋は13代藩主豊熈(とよてる)に仕え郡奉行や船奉行になります。
 1848年藩主豊熈の死去で辞職し各地を遊学、研鑽を深めました。同じ年妻の兄後藤正晴が病死すると彼の遺児保弥太(後の後藤象二郎)を引き取り親代わりとして養育します。保弥太は悪童として有名で同じ幼馴染の乾退助(後の板垣退助)と共に暴れまわっていたそうです。
 1853年7月山内容堂は東洋を見出し大目付に抜擢しました。同年12月には参政に就任、藩政改革を進めます。時代はペリー来航から激動の幕末に突入していました。東洋は容堂の命により幕府に建白書を提出、アメリカの要求を拒絶し海防を厳重に行い幕府が断固たる態度を示すよう要求した内容でした。これは尊王攘夷思想そのものでしたが、当時の日本人の考えはこれが主流だったのです。
 1854年(安政元年)6月、東洋は酒宴における旗本殴打事件を起こし150石に減俸されたうえ罷免、土佐に戻り隠居を命ぜられました。帰郷後東洋は高知郊外に私塾少林塾を開き、甥の後藤象二郎や乾退助、福岡孝弟、間崎哲馬、岩崎弥太郎らを教授します。彼らは後に『新おこぜ組』と称される一大勢力に成長しました。1857年赦免された東洋は再び参政に返り咲き、安政の藩政改革を行い革新的な政策を次々と打ち出します。
 人心の刷新と緊縮財政を行い浮いたお金で大砲・小銃を購入、文武館の整備や大阪住吉の陣営建設を実施しました。ただ緊縮財政だけでは莫大な費用を捻出できず、大阪商人からの借金や藩内で生産される木材・酒・醤油・砂糖・石灰・和紙の統制を強化し増産に努めます。その成果は1861年歳入銀2200貫余の黒字になるほどでした。
 ただ吉田東洋の改革は容堂の公武合体論に沿ったものだったので、保守的な門閥層は反発し東洋や彼の意を受けて動く若い藩士たちを憎み『新おこぜ組』と呼んで敵視します。一方、土佐国内で南学や国学の影響を受けた郷士、庄屋層は過激な尊王攘夷思想に染まり、あくまで幕府存続を前提とした東洋の改革に反感を覚えました。

土佐藩の幕末維新Ⅰ  山内容堂

 国民的歴史作家司馬遼太郎は、『竜馬がゆく』で坂本龍馬を中心とする土佐郷士たちの生きざまを描きました。彼はその郷士たちがどのように生まれたのか興味を覚え『夏草の賦』で長宗我部元親と土佐郷士の先祖である一領具足の戦いを描きたかったと述べています。
 私は逆に『長宗我部戦記』で一領具足を描きましたので、その後身である土佐郷士たちが幕末維新にどう考え行動したのかを記したいと思います。
 土佐藩山内家24万石、これはあくまで俗説で江戸幕府の公式石高は20万2600石でした。藩祖山内一豊は関ヶ原において、家康にいち早く居城掛川城と兵糧軍資金の提供を申し出、それだけで戦後恩賞として土佐一国を得ます。掛川5万9千石から一躍土佐一国10万石を得た一豊ですが、別に武功があるわけでもなく要領だけで得たため、家康に気に入られるように自分から土佐の石高を20万石と申請しました。これは何の意味があるかというと、表高で軍役や参勤交代の格式、天下普請の割り当てが決まるため徳川幕府に積極的に奉仕しますという意思表示です。
 土佐は南国ですから開発すれば発展の余地は十分あったと思いますが、一豊入国当時10万石だったことは間違いなく20万石は明らかに過剰申告でした。その負担は領民にかかります。山内氏は土佐領民の反感を察知しており、弾圧で対抗しました。特に前領主長宗我部氏が農民を一領具足として大量動員していたため、ろくに戦経験のない山内家中は彼らに恐怖し徹底的に粛清します。
 相撲大会を開くと言って一領具足たちを集め皆殺しにしたり、反山内氏に立ち上がった一領具足たちを和議と称し騙し討ちするなど陰惨を極めます。山内家が軍事力に自信がないための姑息な手段でしたが、野に下って郷士となった一領具足たちは、彼らをひそかに「掛川衆」と呼んで軽侮しました。もちろん、山内家も長宗我部旧臣を登用しますが、これは一部に過ぎず一領具足たちを郷士と呼び差別します。土佐国は江戸期を通じて掛川衆である上士と土佐土着の郷士たちの対立を内包したまま幕末を迎えました。
 江戸中期、土佐では谷時中が朱子学の流れをくむ南学を興します。また国学も化政・天保期に流行し郷士や庄屋階級に広く普及しました。もともとあった藩主山内家に対する反感、不満から天皇を中心とした尊王攘夷思想が流行するのは当然でした。この流れが後に武市瑞山による土佐勤王党の結党に繋がりました。
 土佐藩山内家実質的最後の当主は山内容堂(1827年~1872年)です。実は容堂は安政の大獄に巻き込まれ1859年(安政6年)隠居し、藩主の地位を前藩主の弟豊範に譲りました。容堂は隠居後の号で本名は豊信といいます。容堂は隠居後も老公と呼ばれ藩政の実権を握り続けました。土佐藩の幕末はこの容堂の個性が大きく影響します。
 容堂は、本来山内家を継ぐ資格がありませんでした。分家の山内南家に生まれしかも母はお扶持大工平石氏という庶民。部類の酒好きで自ら鯨海酔侯や五斗先生と呼ぶほどでした。13代藩主豊熈、14代藩主豊惇が相次いで早死にし、豊惇の実弟豊範がわずか3歳だったため、お家断絶を防ぐために分家から容堂が入り藩主を継いだのです。
 容堂は頭がよく、土佐藩の実権を握り次第に独裁を開始します。当時凡庸な藩主ばかりの中容堂は確かに鶏群の一鶴ではありました。幕末四賢侯の一人に数えられる資格は十分にあったと思います。ちなみに四賢侯は他に薩摩藩の島津斉彬、宇和島藩の伊達宗城、福井藩の松平春嶽がいました。
 容堂は一人の人物を抜擢します。その名は吉田東洋。実は吉田氏は長宗我部旧臣出身で一領具足を創始した吉田孝頼の弟で自らも安芸氏・一条氏連合軍から岡豊城を守り抜いた吉田重俊の子孫でした。東洋は容堂の意を受け藩政改革を進めます。といっても容堂はあくまで勤王を貫こうとした薩摩藩や長州藩と違い、どこまで変革の志があったかは疑わしかったと言われます。というのも、薩摩や長州は別に徳川家に大名にしてもらったわけではなく自分たちの実力で勝ち取ったのに比べ、土佐藩は家康無くしては藩が成立しなかったため、容堂の心の中はあくまで徳川家中心の保守思想でした。
 容堂が、徳川家大事と勤皇思想の板挟みになり、天皇の下徳川家も含めた有力大名の合議による政体、公議思想に飛びついたのもこういった思想背景があったからでしょう。
 次回は、吉田東洋の藩政改革と郷士たちの反応を描きます。

火縄銃の火薬の話

 火縄銃、西洋で言うところのマッチロック式マスケット銃の火薬は黒色火薬です。硝石75%、硫黄10%、木炭15%で構成されています。
 日本は火山国なので硫黄は豊富にあります。森林資源も豊富なので木炭もあります。ただ一番重要な硝石は輸入に頼らざるを得ませんでした。九州の大名が切支丹になったのも硝石をポルトガル船から確実に輸入するという目的が大きかったように思えます。
 実はヨーロッパでも硝石が無尽蔵にとれるわけではなく、牛馬の糞と魚の腸を混ぜて寝かし一~二年で硝石培養土を作って取り出していたそうです。硝石つまり硝酸カリウムは土壌中の有機物や排泄物に含まれる尿素、そしてそれが分解して生じたアンモニアなどの窒素化合物がバクテリアの亜硝酸菌や硝酸菌が分解する過程で、アミノ酸態やアンモニウム態の窒素化合物が硝酸イオンに酸化され、カリウムイオンと塩を形成することによって得られます(このあたり、完全にウィキペディアのパクリ)。
 東南アジアでは蝙蝠が住む熱帯雨林の洞窟などで大量の糞で自然に形成された天然硝石が取れたと言います。
 原理を知ってしまえば日本でも製造できるということで、古土法、培養法で硝石が作られました。古土法は『何十年かたった古民家の床下の土を集め、温湯と混ぜた上澄みに炭酸カリウムを含む草木灰を加えて硝酸カリウム塩溶液を作り、これを煮詰めて放冷すれば結晶ができる。この結晶をもう一度溶解して再結晶化させ硝石を得る製法』(このあたり専門用語はすべてwikiから。素人では分かりません)。
 一方培養法はヨーロッパの製造法に近いやり方で自然の草(ヨモギ、しし独活、麻殻、稗殻…など)を雨露のかからない場所に人間の尿をかけて10日間ほど蒸し腐らせます。同時に家の床下などに作硝ムロを作り尿や蚕糞で腐らせた草を土と交互に積み重ねます。数年すると化学変化を起こし硝酸石灰を含んだ土ができます。こうして作った塩硝土に水を加え煮詰めると硝石ができるそうです。効率はこちらの方が上でした。
 培養法での硝石作りが盛んな地域は越中の五箇山(富山県南砺市)や加賀国白山地域、飛騨国などでした。日本史に詳しい方ならピンとくるかもしれませんが、一向一揆が盛んな地域と被ります。一向一揆は農民を大量に動員するため鉄砲のような一定の訓練を積めば誰でも戦力化できる兵器が有用だったのです。
 江戸時代この辺りは加賀藩前田家の領地となります。五箇山の硝石は加賀藩の特産となり年間5トンも産出していたそうです。
 ただ国内生産では硝石需要は追いつかないので、ポルトガルあるいはオランダとの交易が重要だったのでしょう。堺商人や博多商人の台頭も納得できますね。

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