土佐藩の幕末維新Ⅲ 土佐勤王党
武市半平太小盾、号して瑞山(1829年~1865年)。長岡郡吹井(ふけ、現高知市内)に生まれる。武市の家は郷士のうちで白札とよばれる家系でした。白札とは掛川衆である上士、長宗我部旧臣で一領具足の後身である郷士の中間に位置し、郷士でありながら藩の下役には就ける身分です。
武市は身長6尺、鼻が高く顎が長くてよく整っており目は異常に鋭い、顔は青白く喜怒哀楽をあまり表情に出さない人物だったと伝えられます。沈着冷静で礼儀正しく墨龍先生と人に呼ばれますが、口を開くとよく通る声で話し人の心をうつ説得力があったそうです。ただ、口の悪い郷士仲間の例えば坂本龍馬などからは、顎に特徴があることから「あぎ(顎の事)」と呼ばれました。
安政の大獄で藩主山内容堂が幕府に処分されると、土佐国内は動揺します。特に血気盛んな若者たちの中には薩長や水戸の志士らと交流し勤王運動に走るものが出てきました。1861年(文久元年)香我美郡野市村の郷士大石弥太郎は江戸遊学中これら志士と交わり、武市に天下の情勢と尊王の大義を説き決起を促します。
同年8月、武市は同志たちを集め一死報国、尊王攘夷を大義とする土佐勤王党を結成しました。主だったものは大石弥太郎、坂本龍馬、中岡慎太郎、間崎哲馬、吉村寅太郎、平井収二郎ら。加盟の志士は200名に及ぶものの、郷士や庄屋層が中心で上士では容堂の側近小南五郎右衛門らが秘かに援助するのみで参加はほとんどありませんでした。
武市瑞山は土佐藩参政吉田東洋に反論を尊王攘夷で統一するよう申し出ます。ところが容堂の真意が公武合体であることを知っている東洋は拒否しました。これを不満に思った勤王党の那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助らは1862年5月6日、帰宅途中の東洋を襲い暗殺してしまいます。東洋享年47歳。武市瑞山の命だったと伝えられますが、東洋派は藩の保守層からも憎まれていたため失脚しました。暗殺の実行犯はすでに脱藩し勤王党の犯行であることは皆承知しつつも不問に付されます。
土佐藩は保守派中心の政権となり、土佐勤王党も日本中に広がる尊王攘夷運動から政権側は無視できなくなりました。藩は勤王党の意見を容れざるを得なくなり、武市瑞山は上洛し中川宮を擁し勤王活動を行うようになりました。このころが瑞山絶頂期だったでしょう。その間、腹心吉田東洋を殺された老公山内容堂は江戸にいましたが、不気味な沈黙を保ちました。しかし反撃の機会は着々と狙っており、まず間崎哲馬、平井収二郎、広瀬健太らに中川宮へ令旨を請うた越権行為を咎め切腹を命じます。間崎らは勤王党に属しながら上士である掛川衆だったため容堂としても処分しやすかったのでしょう。
ただ勤王党数百の党首である瑞山へはなかなか手出しができませんでした。容堂は勤王党への圧迫をますます強めて行きます。勤王党の将来に見切りをつけた吉村寅太郎ら過激派は脱藩し独自の活動を始めました。1863年寅太郎は天誅組を京都で結成、公卿中川忠光を擁し大和国で反幕府を掲げ十津川郷士1000名と共に蜂起します。これは幕府に鎮圧され寅太郎も戦死しました。いわゆる天誅組事件です。
武市瑞山が上洛したのは藩主豊範が朝廷より勤王と在京警備を命じられ京都に上ったとき随行したからでした。京都の土佐藩邸に入った瑞山は、勤王党の巨頭従三位権中納言三条実美に取り入り土佐藩を動かします。瑞山は岡田以蔵を使い反勤王派、佐幕派の人物を次々と暗殺しました。京都では勤王派、佐幕派が暗殺という手段を多用し混沌としてきます。テロによって無政府状態と化したのです。
1863年8月18日、京都政界では公武合体派が巻き返し長州藩を中心とする尊王攘夷派を追放しました。この政変を受け容堂は勤王党への弾圧を強めます。武市ら主だった勤王党幹部は投獄されました。同年1月、武市は上士格留守居役に昇進していたため拷問は受けなかったものの、他の同志は厳しい拷問を受けます。そんな中、京都に潜伏していた岡田以蔵が捕らえられました。岡田は思想などなくただ武市の命令で暗殺を繰り返していただけでしたので、この頃は無宿人で強盗など犯罪を繰り返していたそうです。
いくら拷問を受けても勤王党幹部は絶対に口を割りませんでしたが、岡田は拷問にあっさりと転び佐幕派要人の暗殺を白状しました。1865年閏5月11日、武市が命じた決定的証拠は見つからないまま君主に対する不敬行為という曖昧な理由で武市は切腹を命ぜられます。享年35歳。ただ武士らしい最期を迎えた武市は良いほうで、他の同志は武士とは認められず斬首されました。岡田以蔵はさらに悲惨で無宿人以蔵として打ち首獄門となります。
指導者武市瑞山の死で土佐勤王党は事実上壊滅しました。ただすでに脱藩していた坂本龍馬、中岡慎太郎らは藩外で独自の活動を始めます。すでに坂本や中岡らの方が勤王の志士として世間では有名になりつつありました。竜馬は途中公議に思想を変え大政奉還への道を選ぶことになります。山内容堂の公武合体思想は次第に時代遅れとなりつつありました。
次回、坂本龍馬の活躍を描きます。
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