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2018年2月

2018年2月 1日 (木)

インド大反乱とムガール帝国の滅亡

 ムガール帝国は第6代アウラングゼーブ帝崩御の後凋落の一途をたどります。皇帝の死後例によって皇位継承を巡る争いが勃発、ために皇帝権は安定せず在位数か月という事も珍しくありませんでした。シヴァージーの記事でも書いた通りマラーター同盟がインド南部からデカン高原にかけてのムガール領を侵食し、一度は服属したはずのラジャスタン地方の戦闘民族ラージプート族も帝国の統制力が弱ると反抗を繰り返します。
 デリー西北部ではヒンズー教改革派のシーク教徒が台頭しムガール軍をしばしば破りついにはパンジャブ地方にまで進出しました。第12代ムハンマド・シャー(在位1719年~1748年)は比較的長く続いた皇帝ですが、逆にこの時期ムガール帝国は崩壊の速度を早めます。
 1739年、サファヴィー朝を滅ぼしペルシャを平定した風雲児ナディル・シャーはその野心をインド亜大陸に向けました。当時、ムガール帝国は派遣した総督が自立しベンガル、ハイデラバード、アウド、ロヒルカンドに次々と独立政権を樹立、内部からぼろぼろになり始めていました。当然そんなムガール軍が破竹の勢いのペルシャ軍に勝てるはずもなく首都デリーが陥落、莫大な財宝と共に有名な黄金製の孔雀の玉座もナディル・シャーに持ち去られてしまいます。ムガールにとって幸いだったのはナディルに領土的野心がなく略奪だけで満足したことでした。
 ペルシャ軍の侵入でムガールは多くの人民を殺され莫大な財宝を奪われ荒廃します。その20年後、今度はアフガニスタンを統一したアフマッド・シャー・ドゥッラーニーの軍の侵攻を受けるのです。泣きっ面に蜂とはこのことですが、ムガール帝国はすでにデリー周辺だけを支配する一地方政権に落ちぶれ北インドまで進出したマラーター同盟が新たなインドの覇者となりつつありました。
 1761年アフガン勢力とマラーター同盟の間でインドの覇権をかけて戦われたのが第3次パーニーパットの戦いです。この時もしヒンズー教徒のマラーター同盟がインドを制すれば追い出されてしまうと危機感を持ったイスラム勢力がアフガン勢に協力したと言われています。結果はドゥッラーニー朝軍の大勝。ただここでもアフガン勢力は略奪をした後インド統治の困難さから撤退してしまいました。残されたのは混乱し数多くの国が乱立する戦国時代のインド。
 そこに付け込んだのがヨーロッパ勢力です。欧州とインドの関りはヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を経由して1498年インドのカリカットに到達したのが最初でした。12年後ポルトガルはインド西海岸のゴアを獲得します。次いでオランダが東インド会社を設立してインドへ進出、ポルトガル勢力とインドの交易権をめぐって激しく争いました。
 イギリスとフランスはそれに遅れてインドに来ますが、イギリスはチャールズ2世に嫁いだポルトガル王女の持参金としてボンベイを貰うとそこを起点に本格的にインドに勢力を拡大します。イギリスも東インド会社を設立しており、イギリス政府は東インド会社にボンベイを低利で貸与。イギリス東インド会社はボンベイ、東海岸のマドラス、ベンガル湾に面したカルカッタを中心にインド内陸部に進出しました。
 東インド会社は独自の軍隊も持ち、インドの諸王国の対立をうまく利用し商館からはじまり領土を獲得していきます。ムガール帝国はイギリスの狡猾な意図を読めず、貿易特権を与えてむしろ進出を促進させました。イギリス東インド会社は拡大の一途をたどりついにはイギリス政府の意向に逆らうまでになります。イギリス政府は介入を強め東インド会社を再編することで対抗しました。
 ムガール帝国は権威だけを残すも実態はデリー周辺を領するだけの小国に落ちぶれ、他のインド勢力はインド亜大陸に独占的な力を持つようになったイギリスの半植民地と化します。もちろんインド土着勢力も黙っておらず3次に渡るマラーター戦争、4次に渡るマイソール戦争など各地で反イギリス戦争が起こりますが、イギリスは近代兵器でこれを粉砕しました。敗れた諸国は藩王国という事実上のイギリス保護国となります。
 イギリス東インド会社は、インド現地人を傭兵として採用します。この中には上流階級のイスラム教徒、ヒンズー教徒が多かったそうです。彼らはセポイとかシパーヒーと呼ばれます。19世紀、東インド会社の傭兵軍も最新式のエンフィールド式ライフルを採用する事となりました。ところがライフルの紙製薬包を口でちぎって銃口に入れる方式だったことが大問題になります。薬包にはヒンズー教徒が神聖視する牛の脂、イスラム教徒が禁忌とする豚の脂が使われていたのです。傭兵たちはエンフィールド銃の使用を拒否。東インド会社側は厳罰をもって使用させようとしますが逆効果でした。
 1857年5月、インド北部の都市メーラトに起こったシパーヒーの反乱がきっかけとなります。反乱軍はデリーに進軍し、これにデリーのシパーヒーたちが加わりました。反乱軍はデリー駐留のイギリス軍を駆逐。もともとイギリスに対する反感は多くのインド人たちが抱いていたものでしたから、次々と反乱に加わりインド亜大陸全体に広がります。
 かつては反乱の発端になったのがセポイ(シパーヒー)だったことからセポイの乱と呼ばれましたが、近年は各地の領主、農民などあらゆる階層を含んだ反乱だったことからインド大反乱あるいは第1次インド独立戦争と呼ばれるそうです。
 反乱は起こしたものの、寄せ集めでばらばらだった反乱軍には精神的支柱が必要でした。そこで彼らはムガール第17代皇帝バハードゥル・シャー2世(在位1837年~1858年)に目を突けます。権威だけは残っていたムガール皇帝を統合の象徴として担いだのです。そこに皇帝の意思はありませんでした。拒否すれば殺されるのですから従うしかなかったと思います。
 最初は混乱したイギリス軍も、射程の長い新式銃エンフィールドライフルを大量装備し反撃を開始。旧式の滑腔マスケット銃しか持たない反乱軍を射程外から攻撃して圧倒、降伏した捕虜は大砲で吹き飛ばして虐殺するなど厳しい処置で見せしめとし、近代兵器と恐怖政治で反乱に挑みます。
 結局、ばらばらの反乱軍は近代的なイギリス軍に各個撃破され1859年にはほぼ鎮圧されました。ただ反乱軍の生き残りは各地でゲリラ戦を行い抵抗を続けます。皮肉なことにインド大反乱はイギリスのインド植民地化を進める結果となりました。
 反乱に加わった藩王国は潰されイギリスの直接植民地と化します。反乱に巻き込まれただけの皇帝バハードゥル・シャー2世はデリーがイギリス軍に再占領されると降伏。イギリスが行った裁判によって有罪とされ、廃位されたのち1858年ビルマに流刑になりました。バーブル以来332年にわたってインドに君臨したムガール帝国の滅亡です。
 イギリス東インド会社も反乱を招いた罪を問われインド統治権をイギリス王室に返上、解散させられました。これによりイギリス国王が同君連合でインド皇帝を兼ねるイギリス領インド帝国が成立します。実際はイギリスの植民地です。
 インド国民が主権を取り戻すにはガンジー、ネルーなどによる1947年のインド独立を待たなければなりませんでした。

世界史英雄列伝(44) シヴァージー 反ムガールの英雄(後編)

 インドは2015年の統計で人口13億1千万。世界2位の大国です。少し古い情報ですが人口10億の時代(2000年代初め?)、ガンジス河沿岸の大平原、いわゆるヒンドスタン平原の主要部を占める北部17州だけで5億5千万人もいました。
 この計算だと、デカン高原以南の人口は4億5千万。デカンを境に北部5.5に対し南部は4.5しかいません。この人口比率は17世紀当時もほとんど変わってなかったと思います。当時のムガール帝国の領土は、これに加えデカン高原北縁部、バングラデシュの1億6千万、パンジャブ地方を中心とするパキスタン北部、アフガニスタン東部を加え推定8億から9億人の人口がいたことになります。
 17世紀当時、現在の10分の1としてもムガール帝国は1億近い人口を抱えていた超大国だったと言えます。古来「北インドを制する者がインド亜大陸を制す」と言われたのは人口の面からも当然でした。ムガール帝国はティムール6世の子孫バーブルが創始した王朝です。中央アジアの勢力争いに敗れインドに新天地を求めたバーブルは、北インドを占めるロディ朝を滅ぼし自らの帝国を打ち立てました。その後紆余曲折はあったものの2代フマユーン、3代アクバル(大帝)、4代ジャハンギール、5代シャー・ジャハンと続きアウラングゼーブは6代目皇帝です。
 もともとデカン総督としてこの地の征服を担当していたアウラングゼーブにとって、自分が皇位継承争いで構う余裕のない時に急速に勃興したシヴァージーの勢力は目障りでした。両者の直接対決の引き金は、1663年シヴァージーがムガール帝国のデカン総督シャーイスタ・ハーンをプーナの官邸に襲い負傷させたことです。超大国ムガール帝国との全面対決は当時のシヴァージーにとっては死を意味しました。
 1665年新任のデカン総督ジャイ・スィングは、多くのマラーター族に支持されたシヴァージーを討伐しても泥沼になるだけだと悟り巧みな外交によって降伏させました。同年ブランダル条約でシヴァージーは正式にムガール帝国に仕えることになります。翌年、ジャイ・スィングの強い勧めでシヴァージーはアグラの宮廷に出向きました。
 ところがアウラングゼーブは、マラーター族が新興のカーストであることからシヴァージーを軽んじ酷く尊大な態度で謁見したそうです。怒ったシヴァージーは皇帝の面前で怒りを露わにし退出します。両者の対立は決定的になりました。その後シヴァージーはデカンへの帰還を願い出ますが、アウラングゼーブは許さず彼とその息子サンバージーを監禁します。
 シヴァージーは本国への脱出の機会を待ちました。仮病を使って引きこもるとバラモンや宮廷の有力者に砂糖菓子を贈り続け油断させます。番兵もこの状況にすっかり慣れたころ、シヴァージーは洗濯籠に隠れ無事脱出に成功しました。シヴァージー一行はムガール帝国領を潜り抜け本国ラーイガド城に帰還します。
 ムガールとの全面戦争を覚悟するシヴァージーでしたが、国王が長いこと留守にしていたため国土は荒廃していました。まず領国コンカン地方の内政を立て直し、ムガールとの戦争中背後を突かれないため南のビジャープル王国と戦端を開きます。すでにビジャープル王国はムガール軍の侵攻を受け疲弊していたため講和が成立。1667年7月、シヴァージーを苦しめ続けた有能なデカン総督ジャイ・スィングが死去しました。後任はアウラングゼーブの皇子ムアッザムです。
 無能なムアッザムは、シヴァージーの降伏の申し出を喜び父アウラングゼーブに報告します。これによりシヴァージーは1668年3月ラージャの称号を認められました。しかしこれは戦争の態勢が整うためのシヴァージーの時間稼ぎに過ぎませんでした。1670年、アウラングゼーブがヒンズー教寺院を破壊したことを口実にシヴァージーはムガール領を襲い始めます。
 シヴァージーのマラーター軍の主力は軽騎兵。これに歩兵を加えた軍隊で、戦局不利となれば一時山中に退き、隙あれば敵軍の背後から奇襲し補給線を襲い分断するというゲリラ戦術に徹します。ムガール軍は大軍だけに膨大な補給物資を必要とし、「動く都市」とまで呼ばれる大部隊でしたからこの戦術は効きました。ムガール軍はマラーター軍の跳梁跋扈に悩まされ、皇帝アウラングゼーブはこのため25年間戦場からデリーに戻れないほどでした。
 1674年、シヴァージーはラーイガル城でヴェーダの古式に則りマラーター王国国王の即位式を大々的に挙行。マラーター王国が正式に誕生した瞬間です。シヴァージーはアウラングゼーブのイスラム化政策に対抗し、インド古来のヒンズー教の信仰と自由を守ることを宣言。これがデカン以南の多くのヒンズー教徒の支持を得ます。
 ムガールとマラーターの領土争いをイスラムとヒンズーの宗教対決、民族対立に持ち込んだシヴァージーの慧眼でした。シヴァージーはムガールだけでなく他のイスラム諸国とも戦い続け領土をどんどん拡大します。ヒンズー至上主義は侵略の大義名分としても有効でした。
 イスラム教徒とヒンズー教徒との間で泥沼の戦争が巻き起こる中、アウラングゼーブ帝は1679年4月異教徒に対する人頭税ジズヤを復活させるなど異教徒弾圧政策を強めます。これを聞いたシヴァージーはアウラングゼーブを諫める手紙を送ったそうですが、返って皇帝の怒りを増幅させるだけでした。
 1679年9月、インド南部のビジャープル王国がムガール軍の攻撃を受け首都ビジャープルを包囲されます。シヴァージーはこれまで幾度もビジャープル王国と戦いますが、ビジャープルが滅亡すれば自分への圧力が倍加すると考え援軍の要請を受け入れます。1万の援軍を率いたシヴァージーは背後からムガールの大軍に襲いかかり見事撃退に成功しました。
 1680年4月、シヴァージーは赤痢にかかり波乱の生涯を終えます。享年53歳。彼が生涯で獲得した領土はデカン西部からインド南部に広がる広大なものでした。シヴァージー存命の間、ムガール帝国は南方への領土拡大を頓挫させられます。シヴァージー死去の報告を聞いたアウラングゼーブは小躍りして喜んだと伝えられます。
 
 その後のマラーター王国を記しましょう。シヴァージーの後は息子サンバージーが継承しました。宿敵シヴァージの死を受けアウラングゼーブは大軍を動員し1686年ビジャープル王国、1687年ゴルコンダ王国を滅ぼし1689年にはサンバージーも殺害しました。この一連の戦争をデカン戦争と呼びます。1707年アウラングゼーブ帝が崩御したとき、ムガル帝国の領土は南インドの一部を除くインド亜大陸全体に及ぶようになりました。世界史の教科書に載っているムガール帝国最大版図の図はこの時のものです。
 ただその実態は一時的な占領に過ぎず、アウラングゼーブの死と共にマラーター王国の残党が蜂起し領土は一瞬にして失われます。サンバージーの死後、弟ラージャラームが王位を継ぎました。ラージャラームは南インドに逃げ王国復興の機会を待ちます。皇帝アウラングゼーブ死去で統制力が弱まったことを知ったラージャラームは旧領に戻り挙兵、マラーター王国を復興しました。
 その後、1708年1月マラーター王国を中心にマラーター同盟が成立。ところが実権はバラモンの宰相に奪われます。1720年宰相に就任したバージー・ラーオ1世はまさにシヴァージーの再来ともいえる人物でした。彼のもとでマラーター同盟は拡大を続け、一時は1736年ムガール帝国の首都デリーを包囲するまでに成長します。
 1760年代初め、マラーター同盟はヒンドスタン平原の大部分とデカン高原西半分を占める巨大勢力に膨れ上がり、ムガール帝国は首都デリー周辺のみを領する弱小国家に落ちぶれます。このままマラーター同盟が新たなインド王朝を建設するかと思われる中、1761年アフガニスタンのドゥッラーニー朝がインド侵攻を開始し第3次パーニーパットの戦いが起こります。
 この戦いは北インドの覇権を賭けたマラーター勢力とアフガン勢力の最終決戦でした。アフガン軍は10万、マラーター軍は37万にも達したと言われます。第1次、第2次をはるかに凌ぐ激戦で、マラーター側の主だった武将はほとんど戦死、大敗北を喫しました。マラーター同盟は瓦解、すでにこの当時イギリスがインド侵略を開始していましたから、1812年3次に渡るマラーター戦争で負け王国は藩王国として存在を許されるも1848年藩王シャハージーの死去をもって廃絶、イギリスに併合されることとなります。
 結局漁夫の利を得たのはイギリスで、イギリスはインド国内の諸王国の対立をうまく利用し着々と植民地化を進めました。いくら人口が多くても経済力があっても国が分裂していれば狡猾な外国勢力に付け込まれ国が滅ぼされるのです。その意味では国家の統一は本当に重要ですね。

世界史英雄列伝(44) シヴァージー 反ムガールの英雄(前編)

 故陳舜臣さんの小説にインド三国志という作品があります。アウラングゼーブ帝のムガール帝国、シヴァージーを中心とするマラーター同盟、インド亜大陸に進出を企むイギリス勢力との三つ巴の戦いを描いた小説ですが、残念ながら未完に終わっており続きが気になっていた方も多いと思います。

 

 

 シヴァージー(1627年~1680年)はマラーター族出身の豪族でマラーター王国の創始者です。話を始める前にまずマラーターから説明せねばなりません。マラーターとは中世に現れた新しいカースト集団で、もともとはクンビーと呼ばれる農耕カーストから派生したと言われます。民族的には土着のドラヴィダ系と侵略者であるインドアーリア系の混血だという説もあります。

 

 

 カースト制度とは大きく分けてバラモン(祭祀階級)、クシャトリア(戦士階級)、バイシャ(平民)、スードラ(奴隷)と不可触賤民のバリアから成り、おそらくアーリア人がインドに侵攻した紀元前15世紀頃に起源があると言われます。インドの民族宗教ヒンズー教成立とともに固定され現代でもなおインドの民衆を苦しめる身分制度でした。

 

 

 マラーターは固定した身分階級ではなく、その中にバラモン、クシャトリア、バイシャ、スードラを包含する民族集団でヒンズー教を信仰し支配階級はクシャトリアを名乗ります。マラーターはデカン高原西部からインド南部にかけて分布していました。当初マーラーター族はインド南部を支配するビジャープル王国に戦士として仕えます。

 

 

 シヴァージーの父シャハージーもアフマドナガル王国に仕える将軍でした。一方ラージャ(君主)の称号を持つタンジャーヴールの領主でもあります。名目的には南インドを支配するビジャープル王国に服属しました。1690年ころからデカンに侵攻してきたムガール帝国と戦い続け1712年タンジャーヴール城で死去します。一説では弟サラボージーに王位を譲りヨガ行者になったとも言われますがよく分かりません。

 

 

 面白いのはインド西部を支配するアフマドナガル王国も宗主国のビジャープル王国もイスラム教スンニ派の国で、ヒンズー教徒のマラーター族は宗教の違いを気にせず仕えていたことです。もっともデカンに侵攻したムガール帝国も土着ヒンズー教徒の将軍や官僚を多く抱えていましたから、宗教の違いは気にならなかったのかもしれません。当時の人々は現実的だったのでしょう。

 

 

 叔父サラボージーとシヴァージーの関係はよく分かりません。1712年タンジャーヴールの王位を継いだのはサラボージーで、シヴァージーはそれとは別に独自の行動をしていたようです。1633年アフマドナガル王国はムガール軍に首都ダウラタバードを落とされていました。そのためシャハージーは一時宗主国ビジャープル王国に亡命し領地を与えられています。

 

 

 幼少期をビジャープル王国で過ごしたシヴァージーは、成長するとマラーター族の故地であるコンカン地方を旅します。そこでビジャープル王国に封土を与えられていたマラータの豪族たちと知り合い、民族の結束を訴えました。シヴァージーにはカリスマ性があったのでしょう。瞬く間に一大勢力に成長します。

 

 

 1644年頃、シヴァージーはビジャープル王国からの独立を考え始めたと言われます。同地にあったビジャープル王国の要塞を奪取したのを皮切りに軍を率い時には謀略を用いてコンカン地方を切り取っていきました。そのため1648年7月には父シャハージーが王国に逮捕されます。それでもシヴァージーは侵略を止めず1653年にはコンカン地方の大部分を手中に収めました。

 

 

 マラーター族の間ではビジャープル王国に忠誠を誓う有力豪族層、新興のシヴァージーに可能性を見出し民族の独立を勝ち取ろうという小豪族層に分かれました。シヴァージーは有力豪族層を滅ぼし自らのボーンスレー家の支配を固めます。

 

 

 シヴァージーの動きは、ついにビジャープル王国の怒りを買いました。1659年5月、ビジャープル王アリー・アーディル・シャー2世は将軍アフザル・ハーンを大将とする討伐軍2万を送り込みます。11月ビジャープル軍がプラタープガド城を包囲するとシヴァージーは降伏を申し出ました。アフザル・ハーンのもとに赴いたシヴァージーは抱擁すると見せかけ、隠し持っていた短剣でアフザル・ハーンの脇腹を刺し殺害します。間髪を入れずシヴァージー軍は混乱しているビジャープル軍を急襲、敵は1万の死傷者を出して潰走しました。

 

 

 その後、何回か送られたビジャープル王国の討伐軍はシヴァージーに撃ち破られそのたびにシヴァージーの勢力は拡大し続けます。こうしてシヴァージーはデカン西部に確固たる勢力を築きました。ビジャープル王国はついにシヴァージーの討伐を諦めざるを得なくなります。

 

 

 その頃、北インドでは壮絶な兄弟による皇位継承戦争を勝ち上がったアウラングゼーブが1658年ムガール帝国皇帝に即位していました。もともとアウラングゼーブはデカン総督としてこの地を征服する任務を持っていた皇子です。その彼が王位継承戦争でデカンに構う余裕がなかったことが、シヴァージーの躍進に繋がったとも言えます。

 

 

 

 

 皇帝となったアウラングゼーブが次に狙うのはシヴァージーのマラーター王国でした。次回、ムガール帝国とマラーター王国を中心とするマラーター同盟とのインドの覇権を賭けた大戦争デカン戦争とシヴァージーの死を描きます。

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