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2018年3月

2018年3月 1日 (木)

万暦帝と朝鮮の役

 明帝国の全盛期は3代永楽帝だと言われます。彼の死後明は緩やかな衰退に入りました。明の後半期を象徴する言葉に北虜南倭があります。北虜は元を滅ぼして成立した明王朝の体制が原因ですが、南倭をもたらしたのは明の海禁政策でした。
 鎖国政策を行った明は、朝貢貿易のみを許し潤ったのは一部の権力者のみ。結果として明の辺境では私貿易が横行し日本の九州沿岸の武装商人・漁民が加わります。世界史に詳しい方なら理解できると思いますが、武装商人はトラブルが発生すれば容易に海賊に転じました。これが倭寇の始まりです。倭寇に転じた九州沿岸の者たちの心の中には、元寇における対馬壱岐の住民の大虐殺に対する復讐の意味もあったと思います。
 神出鬼没の倭寇は明の官憲を苦しめました。そのうち、辺境の暴民が日本人になりすまし月代をそって倭寇を名乗り始めます。明朝の役人は「倭寇のうち真倭は一割に過ぎない」と嘆いたそうです。このような外患にもかかわらず朝廷内部では宦官を中心として権力闘争に明け暮れます。明朝末期、皇帝を傀儡にして国政を壟断した魏忠賢が有名ですが、似たような者が数多く出現したのです。
 明王朝は、当初皇帝独裁の政治体制でした。宰相を廃し皇帝が直接六部という行政組織を見る体制ですが、皇帝一人ですべてを監視することはできないので皇帝を補佐するために内閣大学士を設置します。洪武帝や永楽帝のように有能な皇帝の場合は独裁が一番機能しました。しかし凡庸な皇帝では行政組織が動かなくなり、結局皇帝の助言・補佐役に過ぎない内閣大学士が事実上宰相の役割を担うようになります。ちなみにこれが、日本などにある内閣制度の始まりです。
 第14代神宗万暦帝(在位1572年~1620年)が即位したのはこのような時代でした。内憂外患に軍費がかさみ放埓な政治で国庫は慢性的な赤字を記録します。わずか10歳で即位した万暦帝にこのような国家の危機をさばけるはずがなく、国内政治は内閣大学士張居正(1525年~1582年)が見ました。
 張居正は人間性に難があり一度受けた恨みは絶対に晴らす執拗な性格だったと伝えられますが、12歳で生員(科挙の受験資格を得る)に合格したほどの秀才で1547年22歳の時には進士に上げられます。時の宰相(内閣大学士)徐階に目を掛けられ礼部右侍郎・吏部左侍郎・礼部尚書と朝廷の高官を歴任しました。万暦帝が即位すると政敵を追い落とし自ら宰相に就任します。
 張居正は徹底的な綱紀粛正、冗費の撤廃に努めました。彼の一番有名な政策は一条鞭法の制定です。丁税と地税を一括して銀納する税制で以後支那王朝の基本となります。彼の治世で万年赤字だった歳入は黒字に転じました。張居正の政治は厳しく多くの恨みを買いますが、実際に結果を出しているので表立って批判する者はいませんでした。そんな張居正も1581年病には勝てず死去します。享年58歳。
 張居正にすべての政治を任せていた万暦帝は、初めて自分が自由にできる環境を得ました。張居正健在の間は身を慎み謙虚さを見せていた万暦帝ですが、本心は贅沢好きで怠け者だったのでしょう。現在観光名所にもなっている定陵という墓所を建設、これは内部が巨大な地下宮殿になっていました。溺愛する息子福王の結婚式のためだけに30万両という巨費を投じます。張居正が10年かけて積み上げた余剰金が400万両ですから、どれほどひどい無駄使いか分かります。
 万暦帝は贅沢の為に新たな税を創設、湯水のごとく使い続けました。張居正の努力で黒字に転じていた明の国家財政は万暦帝のために再び赤字に転落、後世明を滅ぼしたのは万暦帝だと指弾されるようになります。自然、庶民の生活は苦しくなり朝廷に対する不満が広がりました。泣きっ面に蜂だったのは、明の属国である李氏朝鮮に日本軍が侵入したことです。
 万暦帝の時代は日本では信長の天下布武、秀吉の統一、家康の徳川幕府創設に当たります。天下を統一した豊臣秀吉は、有り余るエネルギーを海外へ向けました。古来秀吉が朝鮮出兵を何故行ったか議論されていますが、明を征服するための通り道としてまず1592年李氏朝鮮に攻撃を開始したのです。
 日本では文禄・慶長の役と呼ばれますが、被害者の朝鮮は壬辰丁酉の倭乱と称しました。乱とは属国が宗主国に反乱を起こすことを意味します。当時日本と朝鮮は何の関係もなく倭乱という言葉を使う事で腹いせするしかなかったのでしょう。朝鮮も宗主国明と同様国内政治は腐りきっており100年の戦国で鍛えぬかれ鉄砲を巧みに使う日本兵の敵ではありませんでした。破竹の勢いの日本軍は釜山に上陸するとあっという間に首都京城を陥れます。先鋒加藤清正の軍勢などは、半島の日本海側を驀進し満朝国境を越えオランカイにまで達しました。オランカイに関してはどこであったか議論が分かれるところですが、当時満洲の女真族居住地区をオランケと呼んだので満洲の東部国境当たりだったと思います。
 日本軍が明征服を唱えているのですから、報告を受けた朝廷は驚愕します。高官の中には役に立たない朝鮮を見殺しにしろという極論も出たそうですが、宗主国としての責任からも援軍を送ることとなりました。当時遼東地方を支配していたのは軍閥李成梁でした。その長子李如松(1549年~1598年)も鎮守遼東総兵官として遼東地区の明正規軍を握っていました。朝廷は李如松に命じ朝鮮に援軍として出動させます。
 李如松は直属の騎兵4万の他総勢10万前後を率いたと言われます。一方半島に侵入した日本軍は15万ほど。朝鮮の義兵が興ったとはいえ所詮烏合の衆。それほど楽な戦いでないことは李如松も承知していました。加えて率いる兵は自分の子飼いでできるだけ消耗しなくないというのが本音です。
 1593年平壌に籠る小西行長勢を攻めたときも、李如松率いる明軍は交渉して小西軍に撤退を促し深追いしませんでした。そんな李如松も明の朝廷と朝鮮軍にせっつかれて嫌々攻勢に出ることになりました。結果1593年2月碧蹄館の戦いで日本軍に大敗、一説では戦死者6万余という損害を受け、懲りた李如松は積極的に動くことを止めます。
 戦線は膠着し、外交による解決しかなくなりました。文禄・慶長と二度にわたって戦乱が起こったのは日本と明の間の外交交渉が失敗したからです。李如松は1598年4月、伏兵に遭って戦死します。朝鮮の役で朝鮮水軍李舜臣の活躍が語られますが、実際の戦闘の主役は明軍で朝鮮軍の働きは評価できません。李舜臣が日本水軍を苦しめたのが勝利に貢献したと言いますが、だったらなぜ日本軍は10万以上も渡海できたのでしょう?そして長期にわたって活動できたのでしょう?
 日本軍が李舜臣の活躍にもかかわらず兵站を維持できていた証拠だと私は思います。別に当時の朝鮮を馬鹿にするつもりはありませんが、李舜臣のしたことは日本軍の海上補給線の妨害にすぎず、しかもあまり成功しなかったという事実。李舜臣の最期も日明の講和成立後撤退しようとしていた日本軍を追撃し、島津勢の逆襲に遭い戦死するという情けないものでした。
 朝鮮の役は明にとっても国家財政を傾ける出費となります。日本軍の撃退には成功したものの何ら得るものはなく明の滅亡を早めたに過ぎなかったのです。万暦帝は、朝鮮の役の時断固討伐を命じ朝臣を驚かせたほどで、その後一切政治を顧みず宮中で贅沢の限りを尽くしました。1620年8月18日万暦帝崩御。享年56歳。
 明の滅亡はそれからわずか24年後の事です。

世界史英雄列伝(45)明の世祖永楽帝(後編)

 朱元璋が建国した当時、明の首都は南京応天府でした。明は江南の人士を中心にできた政権で知識人である儒学者たちもこれを支持します。モンゴル族の元があまりにも彼ら士大夫階級を圧迫したためにその反動で久々の漢民族王朝である明に傾斜したのかもしれません。
 そんな彼らにとって、様々な事情があるにしろ武力で政権を奪った永楽帝は簒奪者でした。方孝孺に代表される通り、儒学者たちは永楽帝を認めずある者は殺され、またある者は追放されます。永楽帝自身も、南京の人士が内心では自分を認めず憎んでいることを敏感に感じ取っていました。そこで永楽帝は、自分の本拠地である北平への遷都を考え始めます。ただ、太祖洪武帝が定めた首都を簡単に変えることは許されませんでした。
 永楽帝は、北平を臨時の首都行在とすることでなし崩しに遷都しようと考えます。北平は北京順天府と改称されました。首都にふさわしい街にするため紫禁城を大改修し、道路を拡充し城壁を築きます。現在の故宮の形が出来上がったのは永楽帝の時代でした。ただ、正式に北京が首都となるためには19年もかかります。それまでは南京を首都としつつも北京に長期滞在するという形をとったのです。
 北京はもともと元朝の首都大都があった場所です。規模的には首都にふさわしいものがありましたが、永楽帝によって正式に明帝国の首都と定められ、以後の王朝もこれを継承します。永楽帝は学問を奨励しました。甥建文帝を殺し王朝を簒奪したという負い目があったのでしょう。支那最大の辞書ともいうべき永楽大典もこの時編纂されました。永楽大典は22877巻・目録60巻・11095冊という膨大なものです。その後歴代皇帝によって改訂が続けられ、清代乾隆帝が四庫全書を編纂するときも参考にされたそうです。
 その後アロー号事件が起こった時北京に侵入した英仏連合軍は、永楽大典の価値が分からず道路に敷き詰めて大砲を通したといいますから、どちらが蛮族か分かりますね。
 この頃モンゴル高原では北元がカラコルムを首都としモンゴル高原はもとより雲南や満洲へ進出し再び南下の構えを見せていました。ただ内紛によりフビライの皇統は絶え一時アリクブカの系統が立つなど混乱を極め最後の皇帝イェスデルは1391年死去します。代わって台頭してきたのはオイラート部でした。オイラートはモンゴル高原西部から新疆にかけて広がるモンゴルの有力部族で、当時の族長マフムードは最初アスト部族アルクタイを永楽帝が攻撃したときは協力したくらいでした。
 マフムードは、モンゴル高原のモンゴル諸族をまとめオイラート部族連合を結成します。北方の覇者となったオイラートは強大化し明帝国に挑戦するようになりました。永楽帝はこれを放置できず自ら親征してこれを倒すことを決意します。モンゴルの後進であるタタール(明では韃靼と呼んだ)も侮れない勢力を保ち、永楽帝は5度にわたる大遠征を敢行しました。
 ここで支那の軍制に詳しい方は疑問に思われるかもしれません。歴代支那王朝の軍隊は歩兵が中心で、騎兵の遊牧民族軍を補足することは難しく大軍だけに補給も困難なのではないか?と。疑問はもっともです。ただ前編を思い出してほしいのですが、永楽帝の軍の主力は歴代支那王朝では珍しく騎兵でした。燕王として北平に駐屯していたころ、降伏したモンゴル人や元を見限り明に帰順した遊牧民族を多数軍に加えていたのです。でなければ燕王時代の北伐すら成功しなかったでしょう。永楽帝のモンゴル遠征は実態としては北方遊牧民族同士の戦争だったとも言えます。
 それでも50万という大軍を動員しすべてが騎兵というわけにはいきませんでしたから、5回も遠征しながらオイラートやタタールに決定的な打撃を与えることはできませんでした。いくつかの戦闘では勝利しながら、敵の主力は機動力を生かし明軍の補足不可能なバイカル湖周辺や遠く西域に逃げたのです。結局、永楽帝のモンゴル遠征は一時明への遊牧民族侵入を阻止するという最低限の目的は達しましたが、永楽帝の没後再び盛り返し、1441年オイラートのエセン汗(ハン)による土木の変に繋がるのです。
 土木の変は、オイラート討伐に出陣した明朝第8代皇帝英宗正統帝が河北の土木堡でオイラート軍の捕虜になるという前代未聞の大事件でした。明は永楽帝の時代が最盛期でその後は徐々に衰退していきます。永楽帝は気宇壮大な皇帝でした。北方遠征を繰り返しながら、一方海へも目を向けます。靖難の変でも功績があった宦官鄭和(1371年~1434年)を総大将に任命し大艦隊を整備、南海への7次に渡る大航海を行わせました。
 鄭和は雲南出身のイスラム教徒、先祖はモンゴルの雲南遠征に同行した色目人だと言われます。イスラム教徒の多い東南アジア、インド洋沿岸への派遣にはうってつけの人物でした。このように五胡十六国から始まった北方異民族の侵入で漢民族は変質し多くの異民族が朝廷の高官になるほど混在していたのです。
 永楽帝が大航海を命じた理由は様々ありますが、
1、南海に逃げた可能性のある建文帝を捜索するため
2、靖難の変で途絶えた東南アジア諸国からの朝貢を促すため
3、簒奪という負のイメージを払拭し多くの国から朝貢を受けた聖なる皇帝を演出するため
などがあげられます。
 鄭和の大艦隊は総勢2万という大規模なもので、東南アジアはもとよりインド亜大陸、アフリカ大陸東部沿岸まで達しました。鄭和は部下を派遣しイスラム教の聖地メッカ巡礼すら果たしています。このように永楽帝は歴代支那皇帝では珍しくスケールの大きな人物でした。そのような永楽帝も1424年第5回モンゴル遠征の帰途陣没します。享年65歳。
 永楽帝の死後、明は鎖国政策を取り鄭和の海外遠征も全くの無駄となりました。大艦隊は解体され人々の記憶から忘れ去られます。そしてオイラートやタタールによる北虜、海禁政策によって必然的に誕生した南倭という外患、宦官による権力闘争という内憂に悩まされ続けていきました。

世界史英雄列伝(45)明の世祖永楽帝(前編)

 乞食坊主から身を起こし天下を統一した不世出の英雄、明の太祖朱元璋。一世一元の制(一人の皇帝に一つの年号)を定めたのも彼で、年号から洪武帝ともよばれます。
 洪武帝には正室馬皇后との間に4人の男子がいました。すなわち長男皇太子標。次男秦王樉(そう)。三男晋王棡(こう)。四男燕王棣(てい)です。この中で一番有能だったのは燕王朱棣でしたが、洪武帝は長幼の序から長男標を皇太子に定めます。標は温厚篤実な人物で有能な臣下の補佐があればまずまず無難に天下を治められると父洪武帝も見ていました。
 ところが肝心の標は1392年父に先立って病死してしまいます。享年38歳。洪武帝は一時四男燕王を後継者に考えたそうですが、才気走る性格に危惧を感じ票の遺児允炆(いんぶん)を皇太孫と決めました。燕王が有能だったのは事実で、1390年、1392年、1396年と三度にわたる北伐に成功し洪武帝をして「北顧の憂いなし」と喜ばせます。元王朝は滅亡したとはいえ、まだモンゴル高原に北元の勢力は残っておりしばしば南下を企てていましたから、北平(現在の北京)に駐屯する燕王の軍は重要でした。
 ただ、次の時代になった時の事を思うと洪武帝は不安を感じます。すでに皇太孫に将来の危険がないようにと建国の功臣を次々と粛清していた時で、その矛先がいつ燕王ら子どもたちに及ぶか分からない状況でした。そうこうしているうちに、1298年6月洪武帝は病を発して崩御します。去年71歳。
 皇太孫允炆が即位し建文帝となりました。21歳の若い皇帝です。洪武帝の残した廷臣たちは先帝の遺訓を守り建文帝を脅かす恐れのある皇族たちの粛清を始めました。建文帝自身は父に似ておとなしい人物だったそうですが、だからこそ廷臣たちは皇族粛清策を推進したのです。兄弟や甥たちが次々と罪を得て流罪になったり殺されるのを見た燕王は次は自分の番だと恐れます。
 すでにほとんどの軍権を奪われていた燕王に勝算はなかったと思います。しかしむざむざ殺されるよりはと1399年「君側の奸を討つ」と称し北平で挙兵しました。これを靖難の変と呼びます。挙兵当時燕王の兵力は1万程度しかいませんでした。燕王を挑発し挙兵させた朝廷はこの日を予期し百万と号する討伐軍を北平に送り込みます。
 燕王の軍はわずか1万とはいえ、モンゴル族との戦争に備えすべてが騎兵でした。おそらく兵士の大半は帰順したモンゴル族か他の遊牧民だったと思います。しかも戦争で鍛えられた精兵でした。朝廷軍は百万と号するも大半は歩兵で、しかも実戦経験のすくない烏合の衆です。燕王軍は、敵を本拠地北平近くまで引き寄せ一気に叩く作戦に出ました。地の利に明るく機動力のある燕王軍は歩兵中心の朝廷軍を翻弄し撃破します。
 すると面白いもので、朝廷軍から次々と寝返りが続出しました。燕王は河北、山東へと出兵し領土を拡大します。建文帝は燕王挙兵の大義名分である君側の奸すなわち皇帝側近の斉泰、黄子澄らを更迭することで燕王側に和睦を求めますが無駄でした。こうなれば騎虎之勢です。燕王としては皇族粛清という朝廷の姿勢が変わらない限りいつかまた同じことが繰り返されると考えざるを得ません。生きるか死ぬかの瀬戸際だったのです。燕王が生き残るためには甥建文帝を滅ぼす以外選択肢はありませんでした。
 戦いは3年続き一進一退を繰り返しますが、首都南京では建文帝の厳しすぎる処罰を恨んだ宦官の一人が燕王に内応の約束をします。1402年燕王軍は、宦官の手引きで淮河、長江を越え首都南京を囲みました。この期に及んで建文帝は領土割譲を条件に燕王に和睦を申し出ますが拒否されます。南京では撤退論と死守論が激突し混乱する最中、ついに総攻撃が始まりました。
 燕王軍は宮殿に次々と火を放ちます。建文帝は乱戦の中火中に没したとも、秘かに脱出し雲南で余生を過ごしたとも言われますがはっきりしません。この状況で建文帝が生き残ることは考えにくく、戦死した可能性が高いとは思いますが、建文帝の悲劇に同情した庶民が生存説を残したのでしょう。
 こうして燕王朱棣は実力で天下を奪い取りました。南京を平定した燕王は皇帝の学問の師だった高名な儒学者方孝孺を捕らえます。燕王は自己の謀反を正当化するため方孝孺に即位の詔を起草するよう命じました。しかし剛直の士として名高かった方孝孺はこれを拒否。燕王は彼の家族や弟子たちを捕らえ「言う事を聞かなければ処刑するぞ」と脅します。
 方孝孺は「燕賊簒位」(燕賊、国を奪う)と大書し燕王に投げつけました。激怒した燕王は家族や弟子もろとも方孝孺を残酷な方法で処刑します。ただこのことは燕王生涯の汚点となりました。
 1402年燕王朱棣は即位します。すなわち永楽帝(在位1402年~1424年)です。次回は永楽帝の政治と対外政策について見ていきましょう。

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