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2018年4月

2018年4月 1日 (日)

大清帝国Ⅹ  辛亥革命(終章)

 清代末期、阿片戦争から始まる一連の西洋列強の侵略で清は半植民地と化していきます。曽国藩、李鴻章、左宗棠ら太平天国鎮圧の功労者で朝廷の実力者になった者たちは、この事を憂い西洋の技術を取り入れなければどうにもならないと悟りました。
 彼らは、第10代皇帝同治帝を動かし「中体西用」(支那の伝統文化は残し、西洋の機械文明を取り入れる。日本の和魂洋才と同じ)を唱え一連の改革を推進します。これを洋務運動と呼びますが、清の国勢は一時回復し同治の中興と称えられました。
 しかし同治帝が1875年19歳の若さで崩御すると雲行きが怪しくなります。代わって道光帝(同治帝の祖父)の孫にあたる光緒帝(在位1875年~1908年)がわずか3歳で擁立されました。これには同治帝の母西太后の意向が働きます。西太后は映画やドラマでおなじみ、稀代の悪女と呼ばれる女性です。詳しくは映画や小説に譲りますが、自分の息子同治帝を後継ぎにするために咸豊帝の正妃だった東太后を排除、ライバルの側室たちを毒殺したり罠にはめて勝ち抜きます。ところが、あらゆる苦労と努力を重ねて皇位に就けた息子同治帝はわずか19歳で亡くなり、彼女は次の傀儡として同治帝の従兄弟に当たる3歳の幼児を担いだのです。
 西太后は政治の実権を握り垂簾聴政を行いました。彼女には清国を改革し良くしようという意思は毛頭なく、自分の権力の維持だけが至上命題でした。成長した光緒帝はそんな西太后に反発し、洋務運動に理解を示し改革を進めようとすると彼女は露骨に妨害を始めました。西太后は朝廷の実力者李鴻章と結びます。李鴻章もまた洋務運動を自分の私兵である北洋軍強化に充てようと考えており両者の利害が一致したのです。北洋軍は、清朝の予算で1888年北洋艦隊という東洋最大の艦隊を建設します。
 清朝が変わるには外国の圧力が必要です。清の東には世界史上の奇跡とも呼べる新興国家が誕生していました。すなわち明治維新で近代国家に生まれ変わった日本です。清の中体西用と日本の和魂洋才は似ていましたが、日本の場合は立憲君主制を取り入れるなどより西洋に近づき徹底した近代化を果たします。
 1894年朝鮮問題を発端として勃発した日清戦争は、両者の違いを鮮明にしました。組織も兵器も近代化された日本軍は、兵器こそ最新でも旧態依然とした組織を持った清の北洋軍を圧倒。海上でも北洋艦隊が日本の連合艦隊に黄海海戦で完敗します。日本陸軍は鴨緑江を渡河、旅順を攻略し北京を目前とした山海関に迫りました。北洋軍は名目上官軍ですが、その実態は李鴻章の私兵です。自分の権力の源泉である北洋軍を失うわけにはいかない李鴻章は、朝廷を動かし日本と講和を結びます。
 下関条約で日清は和平。この結果、西洋列強は眠れる獅子として恐れていた清の本当の実力を知りました。西洋列強は、イギリスが上海を起点に長江沿岸を、フランスは仏領インドシナと隣接する広東広西を、ドイツが山東半島を、ロシアは満洲を、日本も福建省をそれぞれ勝手に勢力圏に設定、分割支配します。
 清にとってイギリスをはじめとする西洋列強に戦争で敗北することはある意味慣れていました。ですが同じアジアの新興国日本に負けたことは衝撃を与えます。敗北の原因を日本の立憲君主制と考え、康有為ら少壮官僚たちは若い光緒帝を動かし改革に乗り出します。西太后にとって、立憲君主制は自分の権力を奪う陰謀に見えました。怒った西太后は、1898年戊戌の政変を起こして光緒帝を幽閉、康有為ら改革派官僚たちを逮捕処刑します。西太后は清朝の癌でした。
 あまりの清朝のふがいなさに、1900年山東で扶清滅洋を叫ぶ義和団の乱が起こります。最初は鎮圧の動きを見せた朝廷ですが、乱は拡大の一途を辿り北京に迫ると西太后はこれと結びなんと西洋列強に対し宣戦布告したのです。北京にいた大使館や公使館の外国人たちは敵中に孤立します。英仏米露独墺伊日は八か国連合軍を結成し救出に向かいました。義和団は鎮圧され、列強は清政府に対し莫大な賠償金とさらなる植民地化を要求します。この結果清の庶民たちは政府を完全に見限りました。
 1901年清が列強との間に結んだ義和団の乱の講和条約(辛丑条約)が李鴻章最後の仕事でした。李鴻章は間もなく病死します。享年78歳。北洋軍閥を引き継いだのは叩き上げの軍人袁世凱(1859年~1916年)でした。西太后に動員された官軍が列強の連合軍に壊滅させられたことで、温存していた北洋軍を背景に袁世凱の発言権は相対的に大きくなります。
 清王朝をぼろぼろにした西太后は1908年亡くなりました。光緒帝も後を追うように同年崩御。1908年12月、第12代、そして清朝最後の皇帝宣統帝(愛新覚羅溥儀、1906年~1967年)が即位します。わずか3歳でした。宣統帝の父醇親王載灃が摂政王として政権を担当することとなります。醇親王は戊戌の政変で兄光緒帝を裏切り西太后についた袁世凱を憎んでおり、袁世凱を失脚させます。ところが袁世凱子飼いの部下は朝廷内に数多く残っており、復活の機会を虎視眈々と狙っていました。
 この頃華南地方では孫文が創設した興中会などの革命組織が誕生します。彼らは「清朝打倒、共和政体の確立」を唱えました。阿片戦争以来の清朝のお粗末な対応と、度重なる戦争による重税であえいでいた庶民は、革命組織の主張は理解できなくとも、清を滅ぼし自分たちの生活を変えてくれるかもしれないと彼らに期待します。同時に同治の中興を支持し戊戌の政変で裏切られた知識層も、この動きに同調し始めました。
 1905年孫文は亡命先の日本でこれら革命組織の団結に成功、一気に革命の機運が高まります。1908年湖北省武昌での武装蜂起をきっかけに辛亥革命が勃発。西太后の死を受け、ようやく清朝政府も科挙の廃止、憲法発布、議会の開設を約束しますがあまりにも遅すぎました。同じ頃モンゴル高原でも独立運動が起こりモンゴル国成立。清朝は内部からガタガタとなります。1912年1月1日、南京において孫文を臨時大統領とする中華民国が成立しました。
 袁世凱はこの動きを利用し巻き返しを開始します。清朝政府は北洋軍を握る袁世凱の裏切りでどうにもならなくなり、1912年2月12日宣統帝が正式に退位、清は276年に渡る歴史に幕を下ろし滅亡しました。以後、愛新覚羅溥儀と袁世凱、そして孫文にも面白い歴史がありますが、本稿のテーマから外れるのでここでは語りません。
 清王朝は、満洲族が建てた最後の東洋的征服王朝でした。そして支那における最後の王朝となります。少数の満洲族が数億の支那人民を支配する体制はどこか無理があったのでしょう。貴族化し尚武の気風を失った満洲族は、台頭してきた漢人に実権を奪われることになります。曽国藩、李鴻章、袁世凱の系譜は成るべくして成った歴史の必然だったのかもしれません。
 現在、満洲族は1000万前後。13億の巨大な人口の中では少数民族として埋没しています。この中には清朝勃興の過程で吸収された漢人八旗の子孫もいることでしょう。
 西アジアにおけるオスマン帝国と同様、清朝もまた栄光の歴史の後うたかたの夢のごとく消え去りました。
                               (完)

大清帝国Ⅸ  太平天国の乱

 19世紀初頭、広東省広州付近に客家出身の貧しい若者がいました。役人を志し科挙を受けようとしますが最初の県試、府試の段階で失敗。失意の日々を送ります。熱病にかかった男は、うなされていた夢枕で自分が救世主になるという予言を受けました。
 若者の名を洪秀全といいます。孔孟の書を捨てキリスト教に救いを求めました。しかし聖書など全く学んでいなかった洪秀全は勝手な解釈で拝上帝教を説き始めます。最初はだれ一人相手にしませんでしたが、当時の清は賄賂が横行し庶民は重税に喘いでいました。拝上帝教はヤハウェを天父としイエスを天兄、洪秀全を天弟として自分が神の意志を地上において代行するという、キリスト教とは似ても似つかない邪教でしたが、人々の中には藁をもすがる思いで入信する者が出てきます。
 洪秀全の拝上帝会は燎原の火のように広がり、1851年広西省金田村において挙兵、太平天国を名乗りました。清の正規軍八旗兵は贅沢に慣れ訓練もサボるようになり軍隊としての力を失います。八旗兵を補助するために動員された漢人部隊緑営ですら同様でした。清軍は寄せ集めの太平天国軍に連戦連敗、反乱軍は北上を続け湖南、湖北を席巻、1853年武昌を落とします。清はこの頃アロー号事件で英仏連合軍と戦争を行っており太平天国に本格的対処をする余裕がありませんでした。
 1853年南京を占領すると、そこを天京と改称し太平天国の首都と定めます。この時南京市民を大量に虐殺したそうです。官軍は連戦連敗を繰り返し北京の朝廷は重苦しい雰囲気になりました。そこで朝廷は窮余の策として各地に郷勇と呼ばれる義兵を募り太平天国の反乱軍に当たらせることにします。
 朝廷で礼部右侍郎の職にあった曽国藩(1811年~1872年)は母の死を受け喪に服するために郷里湖南省長沙府に戻っていました。朝廷が郷勇を募っていることを知った曽国藩は郷里の若者を組織し湘軍という義兵を作ります。湘軍はやる気のない官軍と違い故郷を賊軍から奪還する闘志に燃えていました。1854年武昌を回復したのを皮切りに太平天国軍を追い詰めていきます。ところが湘軍があまりにも力をつけたことに警戒した朝廷は恩賞を与えず曽国藩に兵部侍郎の待遇を与えたのみでした。1855年、太平天国の逆襲で武昌が再び失陥します。
 曽国藩は、部下の李鴻章に命じ彼の故郷安徽省蘆州府合肥県に戻らせました。李鴻章(1823年~1901年)はここで淮軍を組織。曽国藩は1年をかけて湘軍を立て直します。朝廷は湘軍を曽国藩の私兵とみて危険視しますが、官軍が役に立たない以上彼に頼らざるを得なくなりました。朝廷は曽国藩を両江(江蘇省、安徽省、広西省)総督に任命し欽差大臣を加えます。
 安徽省から江蘇省に渡った李鴻章の淮軍は、1864年江蘇省の大半を太平天国から奪い返しました。安徽省を攻略中だった曽国藩の湘軍は、淮軍と協力し太平天国の首都天京包囲の態勢を作ります。太平天国は愚かにも西洋列強の利権が複雑に絡む上海に手を出したため英仏は危機感を持ちました。そこでイギリス軍人ゴードンを指揮官とする常勝軍なる傭兵部隊を組織、太平天国に当たらせます。
 1864年、太平天国の首都天京は、曽国藩の腹心左宗棠が指揮する湘軍、李鴻章の淮軍、ゴードンの常勝軍の三方から包囲攻撃を受けました。曽国藩は天京を兵糧攻めにします。城内の食糧が欠乏する中、草木を食べて飢えをしのいだと言われます。教祖洪秀全は病気となり死去しました。1864年7月19日、連合軍の総攻撃を受け天京陥落。洪秀全の墓も暴かれ焼かれます。
 その後も太平天国の残党たちは各地で抵抗を続けますが、1870年代までには完全に鎮圧されました。
 太平天国の乱が終結したとき、清王朝の威信は完全に地に堕ちます。八旗兵も緑営も役に立たず、反乱鎮圧に功績のあった軍閥たちが朝廷を牛耳るようになります。さすがに曽国藩は地方官としては最高位の直隷総督となった時湘軍を手放しますが、後を引き継いだ李鴻章は子飼いの淮軍を手放さず官軍に引き上げました。これが北洋軍の始まりで、李鴻章は軍隊の力を背景に曽国藩の後を受け直隷総督、北洋通商大臣(外交と貿易の全権を持つ)として清国一の実力者にのし上がります。
 李鴻章は、同治帝の母西太后の信任を受け朝廷を支配するようになりました。同じ曽国藩門下の左宗棠は1866年陝甘(陝西省と甘粛省)総督に転じ、イスラム教徒の反乱鎮圧に尽力します。河西回廊から新疆に至る反乱を鎮圧するなど目覚ましい活躍をしますが、清仏戦争が起こると欽差大臣として任地の福建に赴任、そこで病を得て亡くなりました。享年72歳。
 李鴻章が朝廷を支配することができたのは、曽国藩門下で自分と並び立つと評価された政敵左宗棠がいなくなったからです。李鴻章は清国の軍事・外交を一手に握り清朝末期に重要な役割を果たしました。
 次回最終回、日清戦争・義和団の変・辛亥革命と清の滅亡を描きます。

大清帝国Ⅷ  阿片戦争

 清は満洲族が建てた国だけに外国人に寛容でした。康熙帝、雍正帝、乾隆帝時代イエズス会宣教師が数多く朝廷に仕え技術や文化を伝えます。ただ清は明に倣い国是として鎖国しました。海外交易は原則として朝貢に限られ日本に対する長崎貿易など一部例外があるのみでした。西洋列強が進出してくると、遥か南方の広州一港のみ解放し貿易を許します。

 

 

 イギリスは、1793年マカートニー、1816年アマーストと二度にわたり広州以外の開港と貿易拡大を求め外交使節を清に派遣します。ところが清の朝廷はイギリス使節に三跪九叩頭の礼を求めたため交渉は決裂します。三跪九叩頭は土下座して三回頭を地面につける礼を三回繰り返すためそう名付けられました。属国が皇帝に対して行う礼です。例えば李氏朝鮮は国王が清の使者に対してもこれを行います。イギリス国王の命を受けた誇りある外交使節にそのような屈辱的な礼ができるはずありません。

 

 

 ただ、流石に清もイギリスを門前払いするわけにはいかず、広州での貿易拡大のみは許しました。当時対清貿易を担当していたのはイギリス東インド会社です。イギリスは清から大量の陶磁器・絹・茶を輸入していました。しかし清人はイギリスの工業製品を好まなかったため東インド会社は銀で支払います。その銀が大量に出ていくことがイギリス国内で大問題になりました。イギリスは、銀の流出を防ぐためインドで産出する阿片を秘かに清国内で売りさばいて赤字の解消を図ります。今から考えるととんでもない暴挙ですが、おかげで清国内に重篤な阿片中毒者が大量に出現し深刻な社会問題となりました。

 

 

 狡猾なイギリス人は、広州で阿片密売を取り締まる清の役人に賄賂を贈り見逃させます。ここに一人の人物が登場します。彼の名は林則徐(1785年~1850年)、漢人の正義派官僚でした。福建省出身で幼いころから秀才の誉れ高かった林則徐は1811年27歳で科挙に合格、進士となります。その後順調に出世し1837年には湖広(湖北省と湖南省を合わせた地域)総督となりました。ここで林則徐は、域内の阿片撲滅に尽力し成功させます。第8代道光帝は林が上奏した阿片撲滅のための施策を読み感動しました。1839年、林則徐は欽差大臣(特命を受けその案件に全権を有する)に任命され阿片密売の本拠地、広東に赴任します。

 

 

 1839年、欽差大臣林則徐はイギリス商人が持っていた阿片をすべて没収し処分しました。これに怒った商人たちは林に抗議しますが、林は全く取り合いませんでした。加えてイギリス商人に今後二度と阿片を持ち込まないこと、持ち込んだ場合は死刑という誓約書を書くよう要求します。林が処分した阿片は1400トンにも及んだそうです。

 

 

 イギリス本国ではパーマストン外相がこれを問題視し、植民地経験が長い外交官エリオットを清国貿易監察官として広東に派遣しました。イギリス政府は不測の事態に備え東インド艦隊に出動を命じます。1839年5月、林の求める誓約書提出を拒否しイギリス人たちはマカオに退去しました。

 

 

 イギリス政府は、当初このような無理筋な理由で清と戦端を開くつもりはありませんでした。さすがに最低限の良識はあったのでしょう。ところがマカオからもイギリス人たちが追放されようとしたため、エリオットは独断で九龍沖に停泊する清の艦船に砲撃を行いました。イギリス本国も、パーマストン外相の主導で開戦論に傾いており、1839年10月、メルバーン内閣は清への英軍派遣を閣議決定しました。

 

 

 イギリス国内でも野党保守党のグラッドストン(後に自由党首相)らが不義の戦争だとして政府を攻撃します。しかし植民地主義全盛時代、正論より国益が優先し抗議の声は圧殺されました。イギリス史上の汚点となる恥ずべき戦争はこのような経緯で始まります。1840年までに軍艦16隻、輸送艦27隻、近代装備で固めた陸軍4000名が清に到着しました。

 

 

 イギリス軍は、広東で大量の兵を集め待ち構える林則徐を避け、兵力が手薄な沿岸地帯を占領しながら北上し天津沖に達しました。首都北京の目と鼻の先に出現したイギリス軍に道光帝は驚愕します。対英強硬派の林則徐にすべての責任を負わせて欽差大臣を罷免、辺境の新疆省イリに左遷しました。

 

 

 清政府、とくに道光帝の覚悟のなさはどうでしょう?このような弱い態度だからイギリスに付け込まれるのです。乾隆帝時代までの満洲族の気概はどこかに吹き飛んでいました。贅沢に慣れ我慢することを忘れた満洲族は滅ぶべくして滅んだのです。

 

 

 清はイギリスの主張を丸呑みします。イギリスが今回の戦争で使った戦費を巨額な賠償金で支払い、香港も割譲しました。広東の他に厦門、寧波の開港も約束させられます。開港はさらに福州、上海にも拡大させられました。翌年、追加条約でイギリスは治外法権、最恵国待遇、関税自主権放棄を勝ち取ります。これがイギリスによる清植民地化の端緒でした。清政府の情けない態度を見て、フランスなどほかの西洋列強も清を侮るようになります。一度確定した力関係は二度と逆転することはありませんでした。

 

 

 

 よくよく考えてみると、19世紀初め清と西洋列強の軍事力はそこまで隔絶していません。清が本気になれば十分撃退できる程度のイギリス軍の兵力でした。林則徐はそれが分かっていたからこそ断固とした態度を示したのです。しかし、道光帝をはじめ朝廷の高官たちは天津に迫ったイギリス軍の勢いを恐れしなくても良い妥協をして国を売り渡します。後世の史家は林則徐にそのまま全権を任せていたら、その後の清の歴史は変わっていただろうと嘆きます。が、現実は厳しいものでした。

 

 

 左遷された林則徐は、その後起こった太平天国の乱を鎮めるため再び欽差大臣を拝命します。そして1849年、任地に赴く途中普寧で病死しました。享年65歳。

 

 

 

 

 

 

 阿片戦争の敗北で亡国の道を歩み始めた清は、さらに太平天国の乱でそれに拍車をかけます。次回、乱の経過と李鴻章の台頭を描きます。

 

大清帝国Ⅶ  十全老人

 唐の太宗と並び支那史上一二を争う名君と称えれた康熙帝ですが、さしもの彼も晩年には猜疑心が強く頑固な老人になっていました。もともと満洲人は野蛮で支那風の礼儀などあって無きが如きものでしたが、満洲族貴族たちは支那の皇帝とは北方遊牧民族のカーンに毛が生えた程度だろうと軽く考えていたそうです。
 彼らは康熙帝の皇太子に取り入り、漢風の礼式にやかましい康熙帝に対し満洲族の風俗に戻すよう進言しました。皇太子もすっかり感化されついには皇位を狙う陰謀説すら流布します。怒った康熙帝は、皇太子を廃嫡し幽閉してしまいました。これを聞いた廷臣たちは身を投げ出して泣いたといいます。康熙帝をもってしても満洲族の伝統を完全に無くすことはできなかったのです。
 事件の後、康熙帝は後悔しますが帝国の安寧のためには次の皇太子を決めなければなりません。康熙帝には35人の皇子が居ました。一番有力視されたのは康熙帝に溺愛され軍の司令官としても活躍していた第14皇子です。ところが康熙帝が指名したのは45歳と壮年の第4皇子でした。これが雍正帝(在位1722年~1735年)です。
 康熙帝は在位61年にも及び1722年68歳の天寿を全うしました。後を継いだ雍正帝はさすがに名君康熙帝の眼鏡にかなっただけに、史上まれにみる勤勉な皇帝でした。13年の在位中朝は6時に起き夜12時まで政務を見たと言われます。贅沢を排し質素倹約を実行、戦費のかかる外征を極力控えたため莫大な余剰金が生まれました。次の第6代乾隆帝(在位1735年~1796年)の時代清が最大版図を築いたのも雍正帝のおかげだったと言えるでしょう。雍正帝の死因は過労死ともされますが、彼の日常を見ると納得できます。
 乾隆帝は父雍正帝の死を受け25歳で即位します。父や祖父と違い派手好きな性格だった彼は祖父や父の残した財産を使い盛んに外征を繰り返す皇帝でした。すでに雍正帝によって皇位継承法が定められこれまでのようなお家騒動は起こらない態勢になっていました。
 乾隆帝は晩年生涯に十度の勝利を上げたと自慢し、自ら十全老人と称します。中でも康熙帝以来北方の憂いであったジュンガル部は乾隆帝によって完全に滅ぼされました。最後の遊牧帝国と呼ばれるジュンガル部は、ガルダン・ハーンの死後後継者争いで分裂し一部が清に投降するようになります。乾隆帝はこの機会を逃さず1755年大軍を送り込んで抵抗を排除、ジュンガル部を構成するオイラート部を4つに分割しました。ジュンガルの残党はなおも抵抗しますが、1779年清軍が持ち込んだ天然痘によってほとんどが死に完全に平定されます。
 これにより唯一国境が画定していなかった西北部に新疆省が置かれました。新疆とは新たな領土という意味で、現在の新疆ウイグル自治区、東トルキスタンを指します。乾隆帝も在位60年を数えました。乾隆帝は外征の過程で天山ウイグルのイスラム教国を滅ぼします。その国には、生まれながらにかぐわしい香りを発散する香妃という絶世の美女が居ました。乾隆帝はこの美女欲しさにイスラム教国を滅ぼしたとも言われます。
 捕虜となった香妃は北京に連行されますが決して乾隆帝に心を許そうとしませんでした。困り果てた皇帝は女官に彼女の機嫌を取らせ真意を尋ねさせます。すると香妃は懐に隠した懐剣を見せ「最愛の夫と一族を滅ぼした恨みは決して忘れません。皇帝が無理やり私を手籠めにしようとするなら、この剣で自害する覚悟です」と答えました。
 このことを伝え聞いた乾隆帝の母孝聖皇太后は、香妃の覚悟を知り望み通り死を与えました。乾隆帝は香妃の自害を知って嘆き悲しみます。数億の人民の頂点に立つ絶対権力者も一人の美女の心を掴むことはできませんでした。乾隆帝の時代、清は支那ほんどはもとよりモンゴル高原、チベット、東トルキスタンに広がる歴代支那王朝の最大領域になります。まさに清の黄金時代でした。
 ところが満つれば欠くるが世の習い。1796年87歳という高齢で乾隆帝が崩御した後、清は坂道を転げ落ちるがごとく衰退します。その原因はイギリスをはじめとする西洋列強の進出でした。最初の破局は阿片戦争です。次回、イギリスの進出と阿片戦争について語りましょう。

大清帝国Ⅵ  三藩の乱

 摂政王ドルゴンは確かに有能な政治家・軍人でした。幼帝順治帝を擁し皇帝に等しい絶対権力をふるった彼がいなかったら清王朝成立はなかったかもしれません。ところが権力者の常、巨大な功績から慢心が生じ横暴が目立つようになりました。
 成長した順治帝はこれを苦々しく見守りますが、ドルゴンの力は絶大で生きている間は我慢するしかありませんでした。そのドルゴンは、1650年狩猟中に死去します。皇帝でもないのに廟号に成宗と諡(おくりな)されるなど異例でした。1651年、順治帝は生前ドルゴンに大逆の罪があったとして全国に罪状を公布。墓から死体を暴き斬首して晒しました。ドルゴンの名誉が回復されたのは乾隆帝時代の1778年です。順治帝がドルゴンを許せなかったのは母と再婚したからだと言われます。ドルゴン派の官僚も多くが処刑されました。
 親政を始めた順治帝はまずまずの実績を残します。1659年鄭成功の北伐軍を退けたのも彼です。順治帝の時代にほぼ大陸は平定されました。1661年順治帝は天然痘にかかり24歳の若さで崩御します。第4代皇帝に即位したのが清朝時代最高の名君と言われる康熙帝でした。順治帝の第3子として生まれた康熙帝は即位当時6歳。順治帝の遺命によりスクサハ、ソニン、エビルン、オボイの4人の大臣の合議によって政権は運営されます。
 清に天下統一の機会を与えた呉三桂は、その後も南明政権攻略に活躍します。雲南に転戦した呉三桂は南明政権最後の皇帝永暦帝を捕らえました。呉三桂は永暦帝父子を火刑に処したとも言われます。この時永暦帝の生母馬太后は「この逆賊め!妾は死して地下から見張り、お前の屍が砕かれるのを見てやる」と罵ったそうです。
 南明戦で功績を上げた呉三桂は平西王に任ぜられ雲南を領地に与えられます。同じく広東を領土とする平南王に尚可喜、福建を領土とする靖南王には耿仲明が封じられ、これを三藩と呼びました。三藩は、藩内の徴兵権・徴税権・官吏任用権を持つ清国内の半独立国です。長ずるにつれ康熙帝は三藩の存在が目障りとなっていきました。
 1673年、平南王尚可喜が引退し息子之信に藩王位を譲りたいと奏上します。朝廷ではこれを機に三藩の廃止が論ぜられました。議論は分かれますが、康熙帝は廃止の断を下します。急報は雲南の呉三桂のもとにももたらされました。普段康熙帝を若造と侮っていたこともあり、呉三桂は蜂起を決意します。ただ、挙兵の大義がなく「排満復明」を唱えるしかありませんでした。ところが、明朝最後の生き残り永暦帝とその家族を残酷な方法で処刑したのは呉三桂自身でした。人々は呉三桂の悪行を覚えていました。ですから民衆レベルでは支持されません。これが結局呉三桂が失敗した原因となります。馬太后の予言は当たったのです。
 呉三桂は、同じ問題を抱える平南王尚氏、靖南王耿氏と同盟し清に対し挙兵しました。清軍の正規兵八旗兵は精鋭ですが数は少なく、北京と華北を抑えるのがやっとでした。さすが歴戦の勇士呉三桂は雲南、貴州を固めると北上し四川、湖北、江西、福建と華南のほとんどを占領します。康熙帝は八旗兵だけではこの大反乱を鎮圧できないと悟り、漢人からなる緑営を動員します。緑営は最終的に40万にも及びました。また康熙帝はイエズス会宣教師フェルビースト(南懐仁)に命じ大量の軽火砲を製造させ、部隊に配備します。
 反乱が成功するためには民衆の支持が不可欠です。ところが呉三桂は、明朝最後の皇帝(永暦帝)を殺した悪人として多くの漢民族から憎まれていました。いくら一時的に勢いが強くとも、いずれはそれが止まる時が来ます。1676年陝西の攻防戦で呉三桂が敗れたことで陰りが生じ、清軍は盛り返します。各個撃破されまず1676年10月靖南王耿精忠が、次いで12月には尚之信が清に降伏しました。
 孤立した呉三桂でしたが、1678年3月湖南の衡州で皇帝に即位し、国号を大周と定めます。これは最後の足掻きでした。同年8月15日67歳で死去、反乱は呉三桂の孫呉世璠に引き継がれます。反乱軍は態勢を立て直すために本拠雲南に撤退、これを追った清軍は1681年呉世璠を殺しようやく長きにわたった反乱は鎮圧されました。
 1683年には台湾を平定、康熙帝によって再び支那は統一されます。この年、シベリアに進出してきたロシアと国境紛争が起こりました。1689年ロシアとの間にネルチンスク条約を締結し国境を画定します。1696年にはモンゴル高原に遠征しジュンガル部のガルダン・ハーンを撃破、チベットにも介入しました。
 康熙帝の治世は61年、この間清の領土がほぼ確定します。康熙帝は外征だけでなく内政にも力を尽くし自らは倹約、国庫を富ませました。文化事業にも熱心で康煕字典など多くの功績を残します。イエズス会宣教師を招き西洋の文化にも触れました。彼らの作った皇輿全覧図は支那史上初の全国実測地図でした。1722年康熙帝崩御、享年68歳。
 以後雍正帝、乾隆帝と続きこの三代が清朝の黄金時代だと言われます。
 次回、絶頂期乾隆帝の治世と清朝の暗雲を描きましょう。

大清帝国Ⅴ  国姓爺合戦

 呉三桂が清軍を引き入れ北京に接近中という報告を受けた李自成は、あわてて即位の準備を始めます。準備を行わせたまま、軍勢を率いた李自成は迎え撃つため北京を出撃しました。この時李自成の軍は集まってきた雑軍を合わせて50万以上いたと言われます。が、所詮は寄せ集めの兵。しかも略奪暴行で軍規はあって無きようなものでした。
 結果は当然のごとく大敗。北京に逃げ戻った李自成はあわただしく即位の礼を上げると、紫禁城の財宝をことごとく奪って逃亡します。最初に北京に入城してからわずか40日の天下でした。後を追うように入城した清軍はやすやすと北京を陥れます。摂政王ドルゴンは北京に戒厳令を発し、まず最初に非業の最期を遂げた明朝最後の皇帝崇禎帝を厚く弔いました。減税特赦も発表し北京の人心安定に努めます。
 明の首都北京に対し慎重に占領政策を行うと同時に、他の占領地では満洲族の風俗である辮髪を強制しました。これは敵味方を識別する最も分かりやすい方法で、北京でも敵対の意思だと取られないように自発的に辮髪にする者が続出します。ドルゴンの巧妙な方針でした。さらにドルゴンはほぼ支那大陸を制覇すると「辮髪にあらざる者、首を刎ねるべし」という過酷な占領政策に移行していきます。女子供を含めても30万~40万人しかいない満洲族が億を超える漢人を支配するためには武断政策しかなかったのです。
 北京を追われた李自成は、追撃してきた清軍との間に一進一退の攻防を繰り返しますが、次第にじり貧になっていきます。1645年湖北省九宮山で略奪しようとした山賊を倒した農民の自警団は、死体の一人が外套の下に見事な龍の刺繍の入った錦袍を着ていることを発見しました。李自成です。一時は皇帝にまで昇り詰めた男の末路でした。
 1644年10月19日、幼帝順治帝は摂政王ドルゴンに迎えられて北京に入城。これによって清は明に代わる新たな支那大陸の支配者となります。後は掃討戦にすぎませんでした。ただ、明王朝の残党は華南各地で蜂起し反清闘争を開始します。これを南明政権と呼びます。南明政権では南京の福王政権、紹興の魯王政権、福州の唐王政権が誕生しました。
 1645年4月、清軍は南京を攻略し福王は捕らえられます。翌年北京に送られ処刑されました。残った魯王と唐王は正統性を巡って争い、その隙を突かれる形で1646年6月清軍によって紹興が陥落、魯王は鄭成功を頼って海上に逃亡します。南明の唐王は、1644年皇帝に即位すると年号を取って隆武帝と呼ばれました。武装商人・大海賊として名をはせていた鄭芝龍も隆武帝の招致に応じ南安伯に封じられます。父芝龍に連れられて皇帝に謁見した嫡男成功は、眉目秀麗で頼もしげな姿を皇帝に気に入られます。隆武帝は「朕に皇女がいれば娶らせるところだが残念ながらいない。その代わり国姓の『朱』を与えよう」と言いました。
 以後、鄭成功は国姓爺(爺とは旦那とか御大という意味)と呼ばれることになります。では鄭成功(1624年~1662年)とはどのような人物だったのでしょうか。彼には半分日本人の血が入っています。王直や鄭芝龍ら明末に名をはせた海賊たちは日本の九州、特に平戸を根拠地としました。これは現地の領主松浦氏が貿易の利を得るために保護したからですが、成功は芝龍と平戸藩士の娘田川まつの子として平戸に生を受けます。幼名を福松といいました。7歳で父の故郷福建に戻り、科挙を受けるべく勉学に励みます。泉州府の生員(科挙の資格を得る試験)に合格した成功は南京に上京し東林党の学者銭謙益に師事しました。
 しかし成功21歳の時肝心の明が滅亡。仕方なく父の元に戻ります。亡命政権隆武帝に謁見したのはこの時です。隆武帝は無謀にも北伐を敢行しました。そして大失敗し清軍に殺されます。弟紹武帝が後を継ぎますが、これもすぐに清軍に滅ぼされました。鄭芝龍は、南明政権の将来を見限り清に降伏します。陸軍ばかりで水軍がなかった清は、鄭芝龍の帰順を大歓迎し優遇しました。
 一方、息子成功は『朱』姓を賜った恩義から父と袂を分かちます。科挙を受けるため学んだ朱子学が影響したとも、日本人の血から潔い生き方をしたかったのだともいわれます。広西に居た万暦帝の孫朱由榔が永暦帝と名乗り反清に立ち上がると、鄭成功はこれを明の正統政権だと認め奉じます。清側と南明側で鄭一族は分裂しました。鄭成功は手勢を率い鄭氏の根拠地厦門島を急襲、従兄弟たちを殺して鄭氏一族を纏めます。
 1658年には北伐の軍を起こすも南京攻略に失敗。そこで勢力を立て直すために台湾攻略を企画します。当時台湾は化外の地で、沿岸部にオランダの植民地があるのみでした。1662年大軍を率いた鄭成功は、ゼーランディア城を落とし、オランダ勢力を台湾から叩き出します。鄭氏政権はこれにより台湾から厦門、福州にまたがる海上帝国を築きました。
 鄭成功は、清を討つため母の祖国日本へ援軍を求める使者を送ります。徳川幕府はこれについて議論しますが、神君家康公の定めた鎖国の大方針から最終的に断りました。一部、紀伊大納言徳川頼宣などは積極出兵策を論じたそうですが、賛同は得られなかったと伝えられます。
 清朝では、鄭成功の海上勢力を無視できなくなり父芝龍に命じて帰順工作を始めました。しかし成功が拒否したため、鄭芝龍は謀反の罪を着せられ1661年北京で処刑されます。享年58歳。現状、大海軍を保有する鄭氏政権に対し、ろくな海軍を持たない清はまず艦船の建造から始めなければなりませんでした。このままいけば、台湾は鄭氏のもとで独立国家の道を歩むはずだったかもしれません。ところが、1662年6月鄭成功は熱病にかかりあっけなく死去。まだ37歳の若さでした。
 鄭成功の生きざまは多くの人々の共感を呼びます。日本では近松門左衛門が国姓爺合戦を書いて人気になります。最初は人形浄瑠璃、そして歌舞伎にもなりました。台湾では国家の基礎を築いた英雄として称えられています。鄭氏政権は息子鄭経、孫鄭克塽(こくそう)に引き継がれ20年続きました。鄭氏政権が清朝に降伏したのは康熙帝時代の1683年の事です。
 次回、清朝が名実ともに支那大陸の覇者となるための産みの苦しみ、三藩の乱について記します。

大清帝国Ⅳ  明の滅亡

 北京が李自成の反乱軍の攻撃で陥落し、山海関を守る呉三桂が清に援軍を求めてきたというのはどのような状況だったのでしょうか。神宗万暦帝以後最後の皇帝毅宗崇禎帝(すうていてい)に至る明の歴史を簡単に振り返ります。
 明王朝末期、北虜南倭に苦しめられた明にとどめを刺したのは豊臣秀吉による朝鮮出兵でした。かろうじて撃退したものの、明の国家財政は傾き辺境に対する統制力は失われます。海上には王直、鄭芝龍などの海賊が横行し、遼東地方では李成梁、毛文龍などの軍閥が台頭しました。建州女真の一族長ヌルハチが李成梁と朝鮮人参貿易で結びつき力を蓄えたことは前に書きました。
 明朝廷では、万暦帝が放漫財政の限りを尽くし1620年崩御。泰昌帝、天啓帝即位に功績のあった宦官魏忠賢が台頭します。魏は露骨な賄賂政治を行い、正義派官僚の東林党を弾圧しました。その権力は宰相(主席内閣大学士)を凌ぎ、皇帝の万歳に対し自らを「九千歳」と称えさせるほどでした。兄天啓帝の急死によって即位した明朝第17代崇禎帝はこのような魏忠賢の横暴を憎み、即位するやいなや魏の罪を上げまず僻地鳳陽への左遷を命じます。途中逮捕され処刑が待っていると悟った魏忠賢は自害しました。崇禎帝は魏忠賢の一族をことごとく誅殺します。
 このように崇禎帝は決して無能な人物ではありませんでしたが、宦官魏忠賢に諂っていた高官たちを信用できず常に猜疑の目で見ました。その結果、一人で清の侵略を防いでいた名将袁崇煥を讒言を信じ処刑するという致命的失策を犯します。明は、清との戦争で軍費がかさみ庶民に重税を課しました。万暦帝末期庶民に520万両という巨額の税金をかけていましたが、それに加えて崇禎帝はさらに165万両を追加します。国土は荒廃し、流賊が各地に発生するとその討伐費で730万両が必要になるという悪循環に陥りました。崇禎帝時代、1700万両という巨額な重税になったといいます。王朝が倒れる時は流民が大量に発生しますがこの時もまさにそうでした。折から連年の飢饉が発生しており流民化に拍車をかけます。
 そんな中で、山西地方に駅伝業者あがりの李自成が、陝西地方では張献忠が反乱を起こしました。当初は小競り合いを演じていた両者ですが、李自成が山西、河南、陝西地方へ、張献忠が四川、湖北、湖南地方に進出し棲み分けるようになります。張献忠は1644年8月四川省成都を陥れ大西という国を建国しました。張は残虐な性格だったと言われ、四川で大虐殺事件を起こします。当時310万の人口だった四川地方が大虐殺後1万8千人に激減するという凄まじさでした。このため人心を失い1646年8月清軍と戦って敗死しました。
 最後まで流賊のままだった張献忠と違い、李自成は拡大の過程で挙人(科挙のうち郷試に合格した者)あがりの知識人李厳らを迎え入れます。李厳は李自成に献策し、
1、略奪暴行を戒めること
2、耕地を農民に平等に分配する事(均田制)
3、当分の間租税を免除する事(免糧)
を約束させました。
 単なる農民反乱に過ぎなかった李自成軍は、これにより人々の支持を得はじめます。王朝末期官軍は腐敗しがちで兵匪と呼ばれるほど庶民に忌み嫌われましたから、李自成の方がましではないかと思ったのです。李自成軍は1641年洛陽を落とし万暦帝の三男福王朱常洵を殺害しました。皇族が殺されるほど李自成軍は巨大に膨れ上がります。1644年、李自成は西安で王に即位し国号を『大順』としました。同年2月、北伐を開始。3月には北京に達しました。
 李自成の勢力をたかが農民反乱軍と侮っていた朝廷は、目前に迫った反乱軍を見て驚愕します。崇禎帝は皇帝の誇りにかけて徹底抗戦を叫びました。ところが和睦の使者にたったはずの朝廷の高官が李自成に寝返り、逆に北京に戻って皇帝に降伏勧告をする始末です。絶望した崇禎帝は、息子たちを紫禁城から脱出させ足手まといの側室や娘たちは自らの手で殺害しました。その際娘に対し「なぜお前は皇帝の家に生まれたのだ」と嘆いたそうです。周皇后の自害を見届けた崇禎帝は、紫禁城の北にある景山に登り首を吊って自殺します。この時従ったものは宦官王承恩ただ一人だったと伝えられます。享年34歳。明王朝のあっけない滅亡でした。
 ちなみに、最初に崇禎帝が手にかけた16歳の娘長平公主は皇帝が泣きながら刀を振るったため手元が狂い急所がそれ息を吹き返します。彼女は王承恩の機転で紫禁城を脱出できました。一時李自成の反乱軍に捕らえられるもその後母の実家周氏に匿われ清軍が北京に入城すると摂政王ドルゴンに庇護されます。ドルゴンの計らいで婚約者だった周世顕と結婚、ただ彼女自身は隠棲を望んでいたそうです。そして明滅亡後2年で短い生涯を終えます。
 首都北京を陥れ明王朝を滅ぼした李自成。これまで我慢してきた李自成軍は、北京の巨大さに舞い上がりすさまじい略奪暴行強姦殺人を働きます。所詮流民軍は流民軍に過ぎなかったのです。付け焼刃の慎ましい態度は誘惑によって地が出ました。李自成にとって後はしかるべき儀式を経て皇帝に即位するだけでしたが、気になる存在が一人だけいました。遼東総兵として山海関を守る呉三桂です。呉三桂は明の最精鋭部隊15万の大軍を握っていました。ここで軍の官職に総兵と経略があることを思い出された方もいるでしょう。
 明の官制では軍を司る五軍都督府の下辺境に設けられた鎮守府の司令官を総兵官と呼びました。一方、経略とは臨時に設けられた最高官でその地方のすべての軍権と行政権を握ります。総兵官の朝廷における地位は良く分かりませんが、呉三桂が平西伯の爵位を授けられていることから三品以上の高官だったことは間違いありません。三品と言えば中央官制では名誉職九卿、行政機関である六部の次官(左右侍郎)に当たりました。
 李自成は、呉三桂に使者を送り帰順を促します。悩む呉三桂でしたが、北京から驚くべき知らせが入りました。北京の自邸に残してきた愛人陳円円が李自成軍に奪われたというのです。陳円円は蘇州一と謳われた名妓(日本で言えば最高級の花魁にあたる)で呉三桂が千金をはたいて手に入れた絶世の美女でした。溺愛する陳円円を奪われたと知り呉三桂は激怒します。李自成軍は、自らの愚かな行為によって命運を尽きさせたと言えます。本来なら陳円円を大切に保護し、人質として呉三桂に投降を促すべきでした。そうすれば李自成は明に代わる新たな王朝を開けたはずです。それが台無しです。
 李自成に敵対すると決めた呉三桂ですが、気になるのは背後の清軍です。自分が李自成を討伐するため留守にすれば、背後から清軍が攻めかかり挟み撃ちで自分が滅ぼされます。悩んだ呉三桂は、歴史的な失策を犯しました。清に使者を送り援軍を頼んだのです。申し出を受けた摂政王ドルゴンは、これを機に支那大陸を制覇しようと決意します。全軍を率いて山海関に至ったドルゴンは、呉三桂と会見し彼の軍を自軍に加えました。
 呉三桂の思惑は清はあくまで援軍で自分が主役として李自成を滅ぼし新たな王朝を開くつもりでしたが、政治力で遥かに勝るドルゴンにそのような小細工は通用しませんでした。清軍の威勢で脅し援軍ではなく自分が主役となったのです。
 呉三桂の軍を加え30万近い大軍に膨れ上がった清軍は、やすやすと山海関を通過し北京に殺到します。その際、ドルゴンは「明の崇禎帝を滅ぼした逆賊李自成を討つ」という大義名分を掲げました。その実態は自分が明にとって代わろうという野心でしたが、李自成をうまく利用したのです。
 次回、李自成の末路と清の天下統一、鄭成功の活躍を描きます。

大清帝国Ⅲ  摂政王ドルゴン

 ホンタイジが創始し以後清朝の基本軍事制度となった八旗兵。旗はもともと満洲人の社会組織を基にしており白・黒・紅・藍など8色の旗に分けられていました。最初に作られたのは満洲八旗です。ついで帰順したモンゴル人を組織した蒙古八旗、降伏した遼東の明兵を組織した漢人八旗ができました。満洲八旗、蒙古八旗は騎兵、そしておそらく遼東の明兵を組織した漢人八旗も騎兵主力だろうと想像できます。
 八旗に属した者を旗人と呼び、清朝の支配階級を形成しました。漢人八旗ですら、同じ旗内はもとより支配階級であった他の旗人と通婚を重ね明滅亡後に仕えた漢人たちとは一線を画した存在となります。そして清朝滅亡後は、漢人には戻らず満洲人になったそうです。
 清朝が成立すると、ヌルハチは太祖、ホンタイジは太宗という廟号を贈られました。明朝との対決の姿勢を鮮明にしたホンタイジでしたが、山海関と寧遠城を守る呉三桂の攻略は難航します。はっきり言って呉三桂は凡将でしたが、それだけ明帝国が威信をかけて築いた北方防衛線山海関と寧遠城は難攻不落だったのです。
 そこでホンタイジは、山海関ではなく搦手の大同方面やオルドス方面からの浸透を図ります。これはある程度成功しますが、山海関を中心に明の精兵15万がいる以上正面をがら空きにするわけにもいきませんでした。清軍が意外に苦戦しているのを見た属国李氏朝鮮は清を侮り再び明と結んで抵抗しようとします。ホンタイジはこれを放置できず、1637年自ら12万の軍勢を率い朝鮮に遠征しました。
 朝鮮軍は清軍に連戦連敗。あっという間に朝鮮国王仁祖のいる南漢山城は包囲されました。籠る朝鮮軍はわずか1万2千。朝鮮軍は国王を救出しようとしますが成功せず、ホンタイジの勧告を入れ降伏しました。結局降伏前よりさらに厳しい条件を科せられた属国とならざるを得なくなります。何のために離反したか全く無意味な結果に終わりました。
 朝鮮問題か片付くと、ホンタイジは1642年アバタイを大将に任命し本格的な征明軍を動員します。当時明国内では李自成、張献忠の農民反乱が手を付けられないほど拡大しており絶好の機会だと捉えたのです。ところがホンタイジは1643年8月瀋陽清寧宮で倒れ急死しました。享年51歳。
 またしても清朝の危機です。そして今回も後継者は決まらぬままでした。有力な後継者候補はヌルハチの第14子叡親王ドルゴン(1612年~1650年)、ホンタイジ長男粛親王ホーゲです。ここでドルゴンについて語りましょう。ドルゴンの母はヌルハチの第4正妃アバハイ。ヌルハチが最も寵愛した女性でしたが、頭が良く野心家でした。自分の産んだドルゴンを後継者にするため画策し、ヌルハチはこれを危険視します。ヌルハチは死に先立ち一族にアバハイを殉死させるよう命じました。
 アバハイは遺命を受け従容と死を受け入れますが、一族に息子ドルゴンの安全を保障するよう求めます。この願いは聞き入れられました。ドルゴンも母同様聡明でした。母が死んだときわずか15歳。その後順調に成長し異母兄ホンタイジの下でチャハル部討伐などで功績をあげ皇帝の一族愛新覚羅(あいしんぎょろ)氏の実力者になります。
 ドルゴン一派とホーゲ一派は皇帝位を巡って暗闘しますが、どちらが勝っても分裂は避けられませんでした。そこで両者は歩み寄りホンタイジの第9子フリンを即位させることで決着します。フリンはわずか6歳でした。後に漢風に順治帝と呼ばれるので以後この名前で通します。
 順治帝即位の後も両陣営の対立は治まりませんでした。結局政治力に勝るドルゴンが勝ち、ホーゲは謀反の罪を着せられ失脚します。1647年、ドルゴンは摂政として幼帝を補佐する事になりました。ドルゴンは順治帝の生母と結婚し幼帝の義父となる念の入れようです。事実上清朝の最高実力者となったドルゴン。彼のもとで清は大発展を遂げることとなります。
 先帝の遺志を引き継ぎ、ドルゴンは本格的な明攻略の準備を始めました。ところが1644年4月、北京が李自成の反乱軍に落とされ崇禎帝が殺されるという大事件の報告がもたらされます。そして間もなく、山海関の守将呉三桂から「李自成を討つから兵を貸してほしい」という要請が来ました。
 ドルゴンは素早く決断します。そしてこの決断が清帝国が支那大陸を制覇するきっかけとなりました。
 次回、明帝国の滅亡と清軍の長城越えのついて語りましょう。
 

大清帝国Ⅱ  ホンタイジと清の建国

 ヌルハチの晩年、後金は4人の執政ベイレが月番で国政を助けていました。ベイレとは満洲語で部族の長を意味します。ヌルハチが後継者を決めず亡くなったことから、ベイレたちが話し合いヌルハチの第8子ホンタイジが推されて皇帝となります。
 ホンタイジは漢語では皇太極と書きました。皇太子の意味ですが、ヌルハチが後継者にしようとして名付けたのではなくモンゴルなど北方遊牧民族では一般的な君主号で単に王子とか高貴な者というニュアンスだったそうです。実際ジュンガル部の歴代ハンもホンタイジの称号を名乗っていました。
 ホンタイジの生母は海西エホ族長の娘で、エホ族は漢文化を取り入れ文明化していたためホンタイジも高い教育を受けます。また武勇に優れ父ヌルハチから4人のベイレの一人に抜擢されたほどです。ですから正式な後継ぎではなくとも最もそれに近い存在だったことは確かだと思います。
 ホンタイジが即位したとき、後金は危機にありました。明はこの機にとどめを刺そうとモンゴル高原に勢力を持っていたチャハル部のリンダン・ハーンを買収し背後を衝かせます。リンダン・ハーンは野望多き人物で偶然から元のフビライ・ハーンが作らせたという伝国の玉璽を手に入れていました。リンダン・ハーンはチンギス汗の正統な子孫である黄金氏族でかねてからモンゴル帝国の栄光を取り戻そうと考えていました。
 明の申し出はリンダン・ハーンにとっても渡りに船で、この際後金を滅ぼして東北まで勢力を拡大しようと軍勢を動かします。ところがリンダン・ハーンには人望がなく、モンゴル高原の遊牧部族の少なくない数がホンタイジに援助を求めチャハル部に抵抗しました。1628年、ホンタイジは後金軍を率いモンゴル高原に遠征します。一進一退を繰り返すも1631年には後金の勝利が確実となりました。
 劣勢のリンダン・ハーンは高原の西に逃亡し明に降伏します。ホンタイジは盟主のいなくなったモンゴル高原を統一しました。リンダン・ハーンは巻き返そうとチベット遠征を企画するも1636年陣中に没します。ホンタイジはチャハル部の残党を追跡し、ついにリンダンの息子エジェイは伝国の玉璽をホンタイジに差し出し降伏しました。
 伝国の玉璽の所有者となったホンタイジは、満洲族、モンゴル族、漢族から成るクリルタイの推戴を受け大清国を建国、皇帝となります。清とは「天」という意味で北方遊牧民の盟主にふさわしい国号でした。すでに1627年李氏朝鮮を討って属国にしていますから、ホンタイジにとって敵は明だけとなります。
 この間明でも激変が起こっていました。ヌルハチの侵略を見事防いだ名将袁崇煥が1630年謀反の罪を着せられ処刑されていたのです。一説ではホンタイジが明の宮廷に賄賂を贈り宦官を買収して讒言させたとも言われます。明朝最後の皇帝崇禎帝は無能な人物ではありませんでしたが、猜疑心が強く簡単に讒言を信じてしまいました。
 国が亡ぶときはこのように国家を支える名将が無実の罪で殺されがちですが、明の場合もまさにそうでした。ホンタイジはこの機を逃さず攻勢を掛けます。明は当時陝西・山西地方で李自成の反乱に対処していた洪承畴(こうじょうちゅう)を呼び戻し清軍に当たらせました。洪承畴も袁崇煥に劣らぬ名将でしたが、この決断は明にとって裏目となります。
 長城線が渤海に落ちる山海関とその前哨陣地寧遠城は難攻不落で、ある程度の将なら防げたはずです。一方、李自成の乱はこの当時まだそこまで拡大しておらず、洪承畴は平定寸前でした。名将洪承畴が居なくなったことで李自成の乱は拡大の一途を辿ります。
 遼東に向かった洪承畴は朝廷から13万の官軍を授けられました。現地に到達した洪承畴は、清軍の勢いが強いことから籠城しようとします。ところが朝廷は積極策を命じ出撃せざるを得なくなりました。結局準備不足の明軍は、清の騎兵に翻弄され大敗、洪承畴も清軍の捕虜となります。死を覚悟した洪承畴はホンタイジの寛大な態度に心動かされ降伏しました。多くの明の将軍が清に降る中、後方寧遠城に残っていた呉三桂だけが抵抗を続けます。
 この時の呉三桂の心境は分かりませんが、純粋な明王朝に対する忠誠心ではなかったような気がします。自然、呉三桂は遼東における明の総司令官という立場になり15万という大軍の主となりました。朝廷は呉三桂に平西伯という官爵を与え厚遇します。
 ホンタイジは、明への攻勢を続ける中朝廷の組織を固め八旗兵という清軍の基本編制を創設しました。普通、遊牧民族の征服王朝は支那大陸を平定してから朝廷の組織を作るものですが、清だけはすでに東北にいる時から準備していたのです。当時の清の首都は瀋陽でした。
 ホンタイジと呉三桂の戦いはどのような経過を辿るのでしょうか?次回摂政王ドルゴンにご期待ください。

大清帝国Ⅰ  ヌルハチ登場

 大清帝国を打ち立てた民族女真(ジュシェン)。女直(ジュルチン)とも呼ばれる民族は12世紀長城を越え支那大陸淮河以北を平定し金王朝を開きました。半農半牧の民族で尚武の気風を持ち太平に慣れた宋の歩兵軍を圧倒します。
 ところが、すぐ後にモンゴル高原に興ったチンギス汗によって滅ぼされました。支那大陸に進出し燕京(現在の北京)を首都とし贅沢に慣れ遊牧民族としての蛮性を失ったのがモンゴルに滅ぼされた原因です。以後、女真族は本拠地満州へ戻り元の遊牧生活を始めました。17世紀にはいると彼らは満洲(マンジュ)と改称するようになります。
 元代はモンゴルに服属し大人しく過ごしました。明代に入ると朝廷はこの危険な民族を懐柔し貿易の利を与えて小集団ごとに服属させます。明の領土遼東に近くいち早く文明の利益を享受した者たちを建州女真と呼びました。次いで松花江中流域に広がる海西女真、蛮風を最後まで残し明朝に従わない者たち野人女真がいました。女真族の故地長白山麓に自生していた朝鮮人参は漢方薬として明で重宝され、女真族はこれを明に売って莫大な利益を得ます。明としては貿易の利を食らわせることで懐柔したのですが、同時に女真族の有力者を肥えさせることにもなりました。
 明代末期、秀吉の朝鮮出兵、北虜南倭でガタガタになった朝廷は辺境への統制力を弱めます。海上では王直、鄭芝龍(成功の父)などの海賊が私貿易を支配し、東北部でも李成梁、毛文龍などの軍閥が生まれました。秀吉の朝鮮出兵で明軍の総大将になったのが李成梁の長男李如松だったことでも彼らの力が分かると思います。
 特に李成梁は建州女真の有力者と結び朝鮮人参交易の利益を独占しました。明朝廷は地方で我が物顔にふるまう李成梁を問題視し1591年弾劾します。治安情勢の悪化で一度は復職したものの1608年再び罷免されました。
 ここに一人の人物がいます。彼の名はヌルハチ(1559年~1626年)。ヌルハチは建州女真の中では小さな部族の長に過ぎませんでした。ところが軍閥李成梁と結びつき朝鮮人参貿易で急速に台頭します。李成梁の失脚で一時危機に陥るも、持ち前の才覚で周辺部族をまとめ上げ建州女真最大の勢力に成長しました。明朝廷は、ヌルハチを危険視し朝鮮人参交易を停止します。苦しくなったヌルハチですが、建州女真、次いで海西女真を統一し明王朝との対決を決意しました。
 1616年全女真族を統一したヌルハチは後金国の樹立を宣言します。明は遼東経略(遼東地方の軍司令官)に楊鎬を任命し、大軍を送り込んでヌルハチを滅ぼそうとしました。1619年、撫順郊外サルフの地で両軍は激突します。後金軍6万、明軍は李氏朝鮮の援軍1万を加え16万の兵力でした。
 戦いは当初一進一退を繰り返すも、ヌルハチは明軍の弱点である朝鮮軍に攻撃を集中させます。嫌々駆り出されて参加していた朝鮮軍はやる気がなく後金軍騎兵の猛攻を受け総崩れになります。しかもあろうことか戦場で降伏するという醜態まで晒しました。戦線の一角が崩壊し明軍は敵の攻勢を支えきれなくなります。結局明軍も崩れ4万7千という大損害を出して潰走しました。後金軍の損害はわずか2千。圧勝です。
 危機感を覚えた明は、1626年名将袁崇煥(1584年~1630年)を遼東に送り込み寧遠城を守らせました。騎兵が主力のヌルハチ軍は、降伏した明の歩兵を先頭に立てて城を攻めますが、袁崇煥は良く城を守りびくともしませんでした。この時寧遠城の明軍はポルトガル製の大砲を使用したと言われます。袁崇煥率いる明軍はわずか1万。名将の指揮のもと逆に城を出撃しついには後金軍を追い払ってしまいました。
 ヌルハチはこの時受けた傷がもとで1626年8月ついに死去します。享年68歳。もともとヌルハチという一人の英雄が纏めていた女真族でしたので、彼の死でばらばらになる危険性がありました。しかもヌルハチは後継者も決めぬまま没したので跡目争いが起こるのは必定です。
 生まれたばかりの国後金はどうなるのでしょうか?次回は二代皇帝ホンタイジの即位と清王朝成立を描きます。

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