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2018年5月

2018年5月 3日 (木)

マリンチェ 売国奴か運命に翻弄された女か?

 最近世界史面白エピソードシリーズが続いていますが、実は欧州史でシリーズものを予定していましてそれまでの箸休めとお思いください。
 マリンチェという女性ですが、あまり聞いたことがない名前だと思います。1502年頃生まれ1527年あるいは1529年死去しています。どちらにしろ20歳台で亡くなっているわけで短い生涯でした。出身はメキシコ。世界史に詳しい方ならご存知だと思いますが、まさにスペイン人コルテスがアステカ帝国を滅ぼした時代です。
 マリンチェはパイナラの首長の娘に生まれました。ところが幼くして父親が死に、再婚した母親は連れ子であるマリンチェを邪魔者扱いしタバスコ州の村に奴隷として売り飛ばしてしまいます。酷い話ですが、シングルマザーで悪い男に引っかかり我が子を虐待する女が現代の日本にもいるのでよくあるケースだったのでしょう。
 おかげでマリンチェは、母語ナワトル語のほかに現地の言葉マヤ語もマスターします。そのころスペイン人の征服者(コンキスタドール)エルナン・コルテス(1485年~1547年)は、メキシコ高原に黄金の国アステカ帝国があるという噂を聞きつけマスケット銃で武装した数百名の部下(500名~1000名と諸説あり)と共に上陸します。
 途中、抵抗するタバスコ族を撃破したとき、首長は降伏の証として財宝と共にマリンチェら数名の女奴隷を差し出しました。マリンチェはよほど聡明だったのでしょう。スペイン人たちと暮らす中でスペイン語を覚えコルテスの通訳となりアステカ帝国との交渉にも同席します。コルテスとは男女の関係もあったようで息子マルティンを生みました。ただ奴隷女が正妻になることはなくコルテスは貴族の娘と結婚し日陰の身となります。
 アステカ帝国滅亡後、マリンチェが邪魔になったコルテスによって彼の部下と強制的に結婚させられたともいわれ晩年は不幸でした。
 メキシコの人たちはこれをもってマリンチェを民族の裏切り者として死後も糾弾しますが、当時メキシコという国はなくマリンチェの不幸な生い立ちから祖国と呼べるものもなかったように思えます。過酷な運命に翻弄されながら精一杯生きた女性なのでしょう。売国奴呼ばわりは可哀想な気もします。

イエメン王と予言

 世界史には時々不思議としか言いようのない出来事があります。この話も資料がないのでどこまで本当の話か分からないのですが、1918年から1962年まで今の北イエメンの地にシーア派の一派ザイード派のイマーム(指導者の意味。特にシーア派では最高指導者を意味する)であるラシード家の支配するイエメン・ムタワッキリテ王国が存在しました。
 ザイード派のイマーム自体は897年以来存在していたのですが、宗主国オスマン朝が崩壊したために独立したのでした。その初代王ヤヒヤー・ムハンマド・ハミードゥッディーン(在位1918年~1948年)は幼少時ある預言者から不思議な予言を告げられます。すなわち「決して写真を撮らせてはいけません。もし誰かに撮られたら貴方は不慮の死を迎えるでしょう」と。
 以来ヤヒヤー王は決して誰にも写真を撮らせませんでした。もし無断で撮影した者がいれば厳罰に処すという布告さえ出していたと言われます。現代人は迷信と一笑にふすでしょうが、ティムールの墓の一件(ティムールの墓を暴く者が出る時大戦争が起こるという予言。実際その2日後独ソ戦が始まった)にも代表される通り、イスラム世界ではおそらく今でも信じられているのでしょう。
 当時のイエメン王国は閉ざされた国でしたが、この不思議な噂はヨーロッパ諸国にも知られました。ある時王に面会を許されたイタリア人画家が、王の顔を完全に覚えてしまい思わず肖像画を描いてしまいます。彼の頭の中にも不思議な予言の話が残っていたのでしょう。
 イタリア人画家に悪気はなかったと思いますが、その肖像画はアメリカ人の作家リプレーに渡ります。彼は世界中の不思議な話を集めて発表し人気を博していた作家で、王の肖像画についても『信じようと信じまいと』というタイトルで予言を紹介し肖像画を載せてしまいました。イエメン王もまさか肖像画がそのような形で流出しているとは思わず、しかも遠くアメリカの話なので罰することもできませんでした。これが1948年2月20日。
 同じ日、イエメンでは王族のクーデターが勃発。ヤヒヤー王は反乱部隊の手によって殺害されてしまいました。偶然の一致と言ってしまえばそれまでですが、あまりにも不思議な話です。この時同時にヤヒヤー王の16人の王子のうち3人も暗殺されたそうです。イエメン国王暗殺、クーデターのニュースはその日アメリカの夕刊に速報として報じられました。
 イエメン王国は政情が安定せず、結局1962年9月26日3代国王ムハンマド・アル=バドルの時陸軍のクーデターで王座を追われ滅亡します。ムハンマド王はサウジアラビアの後押しで亡命政権を樹立エジプトの後押しを受けた共和国派と泥沼の内戦(イエメン内戦)になりました。内戦は共和国派が優勢となり、ムハンマド王は1970年イギリスに亡命、1996年死去します。
 イエメンはその後南イエメンと合併するも南北対立が激化、結局また内戦になりました。その戦いは現在になっても解決せずサウジアラビア、イランはもとよりアラブ諸国を巻き込み泥沼の戦いを続けています。

天空の城ラピュタは実在した?

 最近、歴史ネタに困っていましてこんな記事まで書いてしまいました(苦笑)。
 ラピュタと言えばスタジオジブリの傑作アニメ『天空の城ラピュタ』を思い浮かべるでしょう。元ネタはガリバー旅行記に出てくる空飛ぶ島ラピュタだそうです。それとは全く関係ないんですが、紀元前1300年ころ確認されている中では最も早く太平洋の島々に住み着いた住民ラピタ人がいるそうです。ということで表題の天空の城は実在しませんので悪しからず…。
 ラピタとラピュタ、ガリバー旅行記の作者スイフトがラピタ人に着想を受けたかどうかは知りませんが、もともとは1952年ポリネシアで発見された土器がラピタ土器と命名されたことから、この土器を使用する民族をラピタ人と呼んだそうです。私もまったく知識がなくwikiの受け売りなんですが、発祥の地は3600年前のメラネシア。ポリネシア人の祖先とも言われますが分かりません。
 高度な航海術を持ち太平洋上の島々を行き来していたそうです。ところが紀元前800年ころ、ラピタ人は忽然と消えます。一説では台湾土器との類似性を指摘する学者もいますが、私は知識ゼロなので全く論評できません。アジア起源説すらあるそうで、まさに謎の民族ですね。
 詳しくはwikiやネットをご覧ください。私も今後色々調べてみようと思います。

世界史の胸糞悪くなる話  幼王エドワード5世の末路

 エドワード5世(在位1483年)は薔薇(ばら)戦争中に即位したヨーク朝のイングランド国王です。わずか12歳で即位し、戴冠式挙行前に強制退位させられロンドン塔に幽閉、その後行方不明になっています。
 その前に薔薇戦争って何?という方のために過去記事を紹介↓
簡単に概要を追っただけですが、一応全体の流れはつかめるかと?
 エドワード5世は、父王エドワード4世(在位1461年~1483年、ただし途中廃位あり)がフランス遠征の準備中わずか40歳で急死したことを受け即位しました。12歳の新国王にイングランドの国政ができるはずありませんから、叔父グロスター公リチャードが摂政となってこれを補佐することになりました。ところがこのリチャード、イギリス史上でも指折りの極悪人と評されるだけあって、なかなか素敵な性格をしていました。
 まずリチャードは、先代エドワード4世に仕えた側近リヴァーズ伯アンソニー・ウッドヴィルに謀反の言いがかりをつけ逮捕処刑してしまいます。ついで、議会を動かし先王エドワード4世と妻エリザベス・ウッドヴィル(5世の生母、先に処刑されたアンソニーの娘)の婚姻は無効、よって庶子であるエドワード5世の王位継承は無効であると決議させました。
 まず外戚を殺して王太后を追い落とすなど、その用意周到さには舌を巻きますが狡猾さが際立って良い印象はありません。結局、幼王エドワード5世は弟ヨーク公リチャードと共にロンドン塔に幽閉されます。代わって王位についたのはグロスター公リチャードでした。即位してリチャード3世(在位1483年~1485年)となります。
 リチャード3世、シェイクスピアの史劇『リチャード3世』でも有名な通り稀代の奸物という評価が一般的ですが、最近では再評価する声も出てきているそうです。
 悪辣な手段で王位を簒奪したリチャード3世ですが、栄華は長く続きませんでした。1485年、ヨーク朝の対抗馬ランカスター朝の流れをくむリッチモンド伯ヘンリー・チューダーと激突したボズワースの戦いに敗北し戦死してしまいます。ヘンリー・チューダーはウエストミンスター寺院で即位し自らのチューダー朝を開きました(ヘンリー7世)。
 ところで、ロンドン塔に幽閉され歴史から忘れ去られたエドワード5世ですが、弟と共に叔父リチャード3世に暗殺されたという説が有力でした。しかしこれも最近の研究では、むしろ王位継承の邪魔になるとしてヘンリー・チューダーが殺したのでは?という者もいます。彼はエドワード5世の姉エリザベス・オブ・ヨーク(エリザベス王太后の娘)と政略結婚し自らの正当性を訴えましたから、なおさら邪魔だったのでしょう。
 1674年、ロンドン塔の改修をしていた作業員が子供の遺骨が入った木箱を発見、1678年にはウエストミンスター寺院に安置されます。1933年専門家が鑑定したそうですが、性別年齢など発表されませんでした。穿った見方をすれば、真相を発表すれば現在の王室にも迷惑がかかると思ったのかもしれません。
 現在の王室はハノーヴァー朝(ウィンザー朝)でチューダー朝とは直接関係ありませんが、チューダー朝、その後のスチュアート朝、ハノーヴァー朝と母系で繋がっているため、まるっきり無関係とも言えないんです。下手したら王位継承の正当性すら疑いかねない事態だけに、真相は闇に葬られました。
 自らの意思に関係なく、勝手に廃位させられなすすべもなく殺されたエドワード5世。あまりにも過酷な運命ですね。こういった胸糞悪くなる話が世界史にがごろごろしているんですが、こういう人たちにもたまには注目しなければいけないと思い記事にしました。

栄光のクメール王国

 世界史では、「えっ?昔はそんな大国だったの?」と驚くような国がいくつかあります。一時東欧の覇者だったポーランド・リトアニア合同、北海沿岸のノルウェー、スウェーデン南部、ブリテン島の主要部まで支配したデンマーク北海帝国、有名どころだとポルトガル海上帝国、オランダ海上帝国、そしてアンコール・ワットで有名なクメール王国もその一つでした。
 クメール人はカンボジアの90%を占める主要民族です。オーストロアジア語族のモン・クメール語派に属し後に支那大陸南部から移動してきたタイ族、越族よりも古くから東南アジア地域に住んでいました。古代の東南アジアは、海のシルクロードの一角としてインドと支那大陸との中継貿易で栄え、東南アジア原産の犀の角、象牙、各種香木、麝香などを輸出します。
 東南アジア地域に早くからヒンズー教が伝わったのはそのためです。交易は物と共に人も移動します。インドにアラビア商人やギリシャ商人が来たように東南アジアにもインド人、支那人が来て港を中心に定住しました。貿易をするためには通訳が必要で、そのための人員が最初だったと思いますが、人が増えると、住民は宗教にも関心を抱くようになりインドからバラモンたちが多くきたそうです。ですから東南アジアに最初に広まった宗教はヒンズー教でした。後に5世紀頃から上座部仏教(南伝仏教)が伝播し、ビルマやタイ、カンボジアでは国教となるかそれに近い存在になりました。逆に島嶼部はアラビア半島からインドを経て海路イスラム教が伝わりマレーシア、インドネシアなど多くの信者を獲得します。
 東南アジアの交易国家といえばベトナム中部海岸地帯の占城(チャンパ)、メコンデルタ地域の扶南(プナム)などが有名です。占城も扶南も東南アジアの島嶼部に多いオーストロネシア語族に属しています。クメール人はメコン河中流域が発祥の地だと言われます。当初クメール人は扶南の属国でした。
 その後ジャワ島に興ったシャイレンドラ朝が伸張するとこれにも属したそうです。このあたり、ちょっと複雑なんですが550年ごろ扶南の属国だったクメールは、独立戦争を起こします。支那の史書ではクメール人の王国を真臘(しんろう)と呼びました。628年真臘はイーシャナヴァルマン王の時代、ついに扶南を滅ぼしこの地を併合します。ところがより強力なシャイレンドラ朝に屈服したというわけです。802年ころの出来事でした。
 シャイレンドラ朝が衰えると、9世紀初頭再びクメール人たちは立ち上がります。クメール王国は、ベトナム中部の占城、南下してきたタイ族と戦い領土を拡大しました。12世紀ごろがクメール王国の最盛期だと言われますが、カンボジアはもとよりラオス、メコンデルタを中心とするベトナム南部、北部を除くタイの大部分、マレー半島の北半分という広大な領土を誇ります。
 まさに最盛期ともいうべき12世紀後半、スーリヤヴァルマン2世によって建立されたのが世界遺産アンコール・ワットです。アンコールとはサンスクリット語で王都、ワットはクメール語で寺院を意味します。30年という歳月と莫大な費用、人員を用いて造られた壮大な寺院はまさにクメール王国の栄光を象徴する存在でした。後年、この地を訪れた日本人(落書きした森本右近太夫【儀太夫の息子】が有名)たちは、アンコールワットを見て仏典に書かれている祇園精舎だと信じて疑わなかったくらいでした。
 そんなクメール王国栄光の時代も長くは続きませんでした。1283年タイにスコータイ朝が成立。同年フビライ汗のモンゴル軍侵入、1225年ベトナムでも陳朝が興りました。ベトナム人とタイ人は、後継者争いと外患で衰えたクメール王国を標的にします。東西から挟み撃ちにされ領土を次々と蚕食されました。そしてついにスコータイ朝を滅ぼしタイの支配者になったアユタヤ王朝によって1431年首都アンコール・トムを落とされ滅亡します。
 以後もカンボジア人の苦難は続き、ベトナムとタイの侵略で領土を奪われ現在の国境線まで縮小しました。一時はベトナム、タイの両方を宗主国とするほど惨めな状態にも陥ります。21世紀現在クメール人は本国に1280万人いる他、タイに140万人、ベトナムには170万人もいます。これはかつてその地がクメール王国であった名残りです。当然、タイやベトナムによる民族浄化、迫害はあったはずで人口がここまで激減したのです。止めはポル・ポトによる自国民虐殺200万人!(400万人以上という説も?)
 アンコール・ワットを訪れる機会があったら、栄光のクメール王国に思いを馳せたいですね。

モンゴルのビルマ侵攻

 史上空前の大帝国を建設したモンゴル。日本やベトナム、ジャワ島を中心にスマトラ、マレー半島、ボルネオ、セレベス、バリという広大な領土を誇ったマジャパヒト王国、西ではエジプト・マムルーク朝などモンゴル軍の侵攻を撃退できた国は幸運でしたが、他の多くの国は滅ぼされます。
 ビルマ(現在のミャンマー)に最初に成立したビルマ人の王朝パガン王国(849年~1298年)もそのような国の一つでした。パガン王国を建てたビルマ族は現在ミャンマー全人口の7割を占める主流民族です。しかし、もともとこの地に住んでいたわけではなく、9世紀頃支那雲南地方から南下しました。
 ビルマ族はチベットビルマ語族で、五胡の一つ氐族の後裔だと言われます。同じチベット系とされる南詔が雲南地方に成立した影響で押し出された、あるいは南詔の先兵としてビルマ地方に下ったとも言われています。この地にはすでにチベットビルマ語族系のピュー(驃)と呼ばれる古代王国がありました。
 ビルマ族は、ピュー王国を滅ぼしパガン王国を建国します。これには異説があり、ピューを滅ぼしたのは南詔で、ピューとビルマ族はもともと同族、南詔軍侵攻で滅ぼされ混乱したビルマ地方を再統一したのがパガン王国だったとも言われます。このあたり、まったく知識がないので両説を紹介しておきます。
 パガン王国は、上座部仏教(南伝仏教)を国教とし仏教文化が栄えました。パガンといえばパゴダ(ビルマ形式の仏塔)と連想されるほど有名ですよね。そんなパガン王国にも終焉の時が来ます。
 チンギス汗によって建国されたモンゴル帝国はユーラシア各地に遠征軍を派遣しました。当時モンゴルの騎兵戦術は他国で対抗できないほど精強で多くの国が滅ぼされます。雲南地方に割拠していた大理も1254年モンゴルの将軍ウリヤンカダイの侵攻を受け滅亡しました。
 元朝が成立すると、辺境雲南地方はフビライ汗の庶子フゲチが雲南王に封じられます。フゲチの後は子のエセン・テムル(?~1332年)が継承しました。元朝は大理に隣接していたパガン王国に対し1271年朝貢を促す使者を送りました。ところが時のパガン王ナラティーハパテは元の要求を拒絶し使者を斬ってしまいます。
 怒った元は、雲南王国に命じ1277年、1283年と二度に渡って懲罰の軍を送らせました。それでもパガン王国が屈服しなかったため1286年雲南王エセン・テムルが征緬副都元帥に任命され軍を率い国境を越えます。エセン・テムルは直属の兵わずか7千余りしか率いなかったそうです。ただ全兵力が精強なモンゴル騎兵。歩兵中心で鈍重なパガン軍を機動力で圧倒できると踏んでの編制でした。
 さすがのナラティーハパテ王も、連年のモンゴルの侵攻で疲弊しようやく降伏を考え始めていたところでしたが、それに反対する庶子の一人に毒殺されます。跡を継いだのはナラティーハパテの王子たちの家督継承争いに勝ち残ったチョウスワー王。ただし王国の実権はシャン族の3人の大臣に握られていました。
 パガン軍はバモーの戦いに敗北し首都パガンを放棄、王はベンガル湾沿いのパテインに避難します。チョウスワー王もモンゴルへの降伏を考え始めますが、怯懦であるとしてまたしても庶子の一人に殺されました。実権は相変わらずシャン族三兄弟が握り、パガン朝は侵略者モンゴル軍と対決するため4万の軍を率いて北上します。
 待ち構えていたエセン・テムルはエーヤワディー川沿いに軍を展開、両軍は首都パガン郊外でぶつかりました。結果は機動力に勝るモンゴル軍の圧勝、首都パガンはモンゴル軍の馬蹄に蹂躙されます。以後も傀儡政権が続きますが、これにより事実上パガン王国滅亡。傀儡のパガン王国は元の属国となりました。
 シャン族三兄弟は上ビルマで自立、独自の王国を建てますが間もなく内紛で分裂、300年に渡る分裂時代に突入します。乱れたビルマを統一したのは同じくビルマ族の王朝タウングー朝(1510年~1752年)でした。

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