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2018年6月

2018年6月 3日 (日)

チューダー朝Ⅵ アルマダ海戦(終章)

 即位したエリザベス1世は、ウィリアム・セシルを国務卿、ニコラス・ベーコンを国璽尚書とするなど人事を固めます。次に手を付けたのは宗教政策でした。それまでカトリックかプロテスタントかはっきりしないイングランド国教会をはっきりプロテスタント寄りに改めました。ただ急進的プロテスタント(カルヴァン派)である清教徒は排除。これが後年清教徒革命の遠因となります。
 エリザベス1世が即位したことを知ると、形式上義兄に当たるスペインのフェリペ2世が接触してきました。当時スペインは本国だけでイングランドの倍以上の人口を持ち、国家予算に至っては5倍。加えて新大陸からの膨大な銀によって太陽の没せぬ帝国でした。レパントの海戦は1571年ですが、すでにカトリックの盟主としてオスマン朝との対決は始まっており、1568年に始まるオランダ独立戦争もすでにネーデルラントでは不穏な空気が漂っていました。
 フェリペ2世は、エリザベス1世に結婚を申し込みます。あわよくばイングランドを取り込みネーデルラントに対する後方策源地にしようという目論見でした。メアリー1世時代、スペインとフランスの戦争に巻き込まれカレーを失った苦い経験から、エリザベス1世はこれを拒否します。その際フェリペ2世に送った返事は後世有名になりました。
 「私はすでにイングランドという国と結婚している」
 エリザベス1世は生涯を通して未婚を通します。ただ愛人は何人かいました。愛人はいても、彼らを国政に介入させなかっただけでも彼女の凄味が分かります。異母姉メアリー1世が卵巣腫瘍でなくなったように、エリザベス1世も子供の出来ない体だったのではないかと言われます。それもあって未婚を貫いたのでしょう。そればかりか、結婚という餌で諸外国を操るしたたかさも持っていました。
 ここに一人の女性が登場します。彼女の名はスコットランド女王メアリー。同じ名前がたくさん出て混乱されるかもしれませんが、彼女こそエリザベス1世の異母弟エドワード6世と結婚が画策された人物でした。エリザベス1世とは親戚(ヘンリー7世の娘マーガレット・チューダーの孫)にあたります。フランス王フランソワ2世と結婚するも夫が急死、若くして未亡人となりました。再婚問題で紛糾し祖国スコットランドに帰国、有力貴族ダーンリー卿ヘンリーと再婚します。
 エリザベス1世の即位にはイングランド国内からも疑義を持たれており、女王に不満を持った貴族たちはチューダー家の血を引くスコットランド女王メアリーに期待しました。エリザベス1世とメアリー、永遠のライバルと目されることが多いですが、彼女の存在を目障りに思ったエリザベス1世は、スコットランドの不平貴族を使嗾し反乱を起こさせます。反乱は成功し1568年メアリーはスコットランドを叩き出されました。すると彼女は、陰謀の張本人であるエリザベスのもとに亡命するのです。
 最初はエリザベス1世も、メアリーを粗略には扱わなかったそうですが、事あるごとにイングランド王位継承権を主張するメアリーを疎み最後は反逆の汚名を着せて処刑しました。1587年の事です。44歳でした。
 フェリペ2世との結婚を断ったことでスペインとの関係は冷え込みます。一時はスペインの宿敵フランスと結ぶことを考えるも、ちょうど1568年ネーデルラントで反乱が勃発、これを利用することとしました。ネーデルラントは南部に欧州毛織物工業の一大中心地フランドル地方を擁するスペインのドル箱でした。資料がないのではっきりとは分かりませんが、スペイン国家財政の3分の1くらいはネーデルラントが叩き出していたと思います。
 カルヴァン派プロテスタントが多いネーデルラントは、対オスマン朝の戦争で重税を課せられ不満がたまっていました。スペインは、カトリックの盟主と祭り上げられ新大陸からの莫大な銀さえ湯水のごとく軍費で消えていたのです。後知恵ですが、この銀を国内産業育成に使っていれば現在のスペインの凋落はなかったかもしれません。
 エリザベス1世は、ネーデルラントのカルヴァン派を支援します。と言っても経済力でスペインと太刀打ちできませんから、これに打撃を与えるため新大陸の銀に目を突けました。彼女はフランシス・ドレイクなどの海賊を手懐け私掠船免状を発行。新大陸から出港するスペインの銀輸送船団を襲わせました。ただ、スペインは多くの戦艦ガレオン船に守られた数十隻の大輸送船団を組み付け入る隙を与えません。懐かしの光栄シミュレーションゲーム大航海時代を遊んだ方ならご存知だと思いますが、多数の大砲で武装したガレオン船の中に突っ込むのは自殺行為でした。
 当時世界最大の銀鉱山はボリビアのポトシ銀山でした。ポトシの銀は現地で精錬されペルーから輸送船団に乗せられます。太平洋を北上した船団はパナマに至りました。パナマからカリブ海側に水路あるいは陸路で運ばれ、スペイン行きの大輸送船団に積み替えられるのです。ドレイク達私掠船団はこの積み替えの瞬間を狙います。敵船団が最も脆弱な状態だったからです。海賊ドレイクはイギリスでは英雄ですが、被害者のスペインでは蛇蝎のごとく嫌われました。
 一つ一つの損害は軽微でも、それが重なると馬鹿にならない額になります。最初は弱小国として相手にしていなかったフェリペ2世ですが、我慢の限界を超えイングランド討伐を決めました。1571年レパントの海戦で強敵オスマン海軍を破ったスペイン海軍は日の出の勢いでした。その艦隊は無敵艦隊(アルマダ)と呼ばれます。
 1588年5月、無敵艦隊はポルトガル(1580年併合)のリスボン港を出発。総勢130隻。陸兵1万5千が同乗していました。これはイングランドに上陸し一気に征服するためで、当時のイングランドの動員兵力から言ってまず勝てない数でした。勝負はスペイン軍の上陸を許したら終わり。海上で撃破するしかありません。エリザベス1世は、自国の運命を握る艦隊司令官にフランシス・ドレイクを任命します。イングランド艦隊は197隻でしたが、小型船が多く著しく劣勢でした。ただ鈍重な大型船が多い無敵艦隊に比べ快速船を集め機動力で勝っていたのが唯一の強みとなります。
 同年7月30日、両軍はイングランドのプリマス沖で初めて激突します。艦隊司令官ドレイクは、真っ向からぶつかる愚を避け機動力を生かして遠くから長射程砲で攻撃、確実に敵を削りました。さながら巨大な象に立ち向かうハイエナの群れような戦いぶりです。ドレイクにとってはこの戦法しかなかったでしょう。ただ、海のゲリラ戦ともいうべきイングランド艦隊のおかげで、無敵艦隊は当初の予定を狂わされます。フランドルに寄港し、現地のスペイン主力軍を搭載、イングランドに上陸して一気に叩くはずが、イングランド艦隊がハイエナのように食らいついて離さないためドーバー海峡を北へ北へと追いやられました。
 追えば逃げる、無視したら食らいつく、このような戦いが何日も続けば、さしもの無敵艦隊も士気が低下します。一時無敵艦隊はカレー港に退避します。ところがドレイクは火船でこれを攻撃、無敵艦隊の士気は崩壊します。結局散り散りになって各々スペインに帰り着く手はずとなりました。集団で行動すれば勝てないにしても火力で勝る無敵艦隊はここまで多くの損害を受けることはなかったかもしれません。最悪の選択をした無敵艦隊は、ブリテン島を一周する形で北回り航路で脱出を図ります。まさに死に至る航海でした。
 執拗なイングランド艦隊の追撃を受け、戦艦(ガレオン船)11隻喪失、戦死者600名、戦傷者800名、捕虜397名、難破行方不明54隻、遭難者2万という大損害を出します。スペインに帰り着いたのはわずか67隻だったと伝えられます。
 歴史上これをアルマダ海戦と呼びます。ただ損害は大きくとも強力な陸軍は健在だったためスペインはまだまだ強大でした。この勝利はエリザベス1世のイングランドが弱小国を脱皮し列強の一角に躍り出たにすぎません。
 エリザベス1世の晩年を記しましょう。勝利したとはいえスペインとの戦争で国庫は底をつきかけていました。当時イングランドは第一次囲い込み運動が起こり大地主が羊毛生産のための土地を独占し、多くの貧農が地方から叩き出されます。囲い込みによる経済難民は社会問題になり、エリザベス1世が『エリザベス救貧法』を発布するもほとんど効果がありませんでした。
 困難な状況の中、エリザベス1世は毛織物工業をはじめ製鉄、石炭、火薬、石鹸、製紙などの新興産業を育成し後の工業大国イギリスの基礎を作ります。ただ台所は火の車で、王領地の5分の1を売却しなければならないほどでした。エリザベス1世はイギリスにおける絶対王政の代表と目されることが多いですが、内情はこのように苦しかったのです。
 晩年は健康状態を悪化させ1603年ロンドン・リッチモンド宮殿で崩御します。享年69歳。イギリス人たちは彼女の事を「良き女王ベス」と称えました。確かに彼女がいなかったら後の大英帝国は存在しなかったかもしれません。
 エリザベス1世に子がなかったので、枢密院はヘンリー7世の血を引くスコットランド王ジェームズ6世を次のイングランド国王に選出します。エリザベス1世の死と共にチューダー朝は断絶、ジェームズ(イングランド王としてはジェームズ1世)のスチュアート朝が始まります。皮肉なことにジェームズはエリザベス1世が処刑したスコットランド女王メアリーの長男でした。
                                (完)

チューダー朝Ⅴ エリザベス1世立つ

 ヘンリー8世は傲慢短気で女癖の悪い最悪の性格を持った国王でした。にもかかわらずイングランドが破綻しなかったのは暗愚ではなかったからです。もし暗愚だったら離婚問題で揉めたときローマカトリック体制を離脱しイングランド国教会を作るなど思いもよらなかったでしょう。
 皮肉なことに、国教会樹立はイングランド外交にフリーハンドを与えることになります。状況によってカトリックに付くもよし、プロテスタントに味方してもよしです。国教会の性格がどちらかはっきりしないのも逆に好都合でした。ヘンリー8世の時代、混乱したのは宮廷内だけで庶民に迷惑がかかることはほとんどありませんでした。加えて財政部門を中心に行政改革が進められたのも大きかったと思います。
 例えばトマス・モア(1478年~1535年)。『ユートピア』の著述で知られる人文主義者、法律家、思想家です。1504年下院議員に選出され政界に進出。ヘンリー8世に起用され官僚としては最高位の大法官まで出世しました。熱烈なカトリック信者だったモアはヘンリー8世が1534年国王至上法を制定しカトリックから離脱、イングランド国教会を作ろうという動きに抗議し大法官を辞職します。ヘンリー8世はこれを憎みモアを投獄しました。1535年7月斬首刑。これはイギリス史上最悪の法の名の下に行われた暗黒犯罪だと言われます。
 強烈な個性を持ったヘンリー8世が亡くなった時、王太子エドワードはわずか9歳でした。即位してもエドワード6世(在位1537年~1553年)が自ら統治できるはずありませんから、母の兄サマセット公エドワード・シーモアが摂政・護国卿として実質的に国を動かしました。
 サマセット公はエドワード6世をスコットランド女王メアリー・スチュアートと結婚させることを画策しスコットランドに戦争を仕掛け拉致を図ります。しかし大失敗しメアリーはフランス王太子フランソワ(のちのフランソワ2世)に嫁ぎました。失政を重ねたため1549年失脚、その後紆余曲折かあるも1552年大逆罪が確定し死刑となります。
 代わって台頭したのはノーサンバランド公ジョン・ダドリーでした。このダドリーもろくでもない男で、エドワード6世が重病に陥るとその死後を考え画策します。従来の王位継承順位だとエドワード6世の後はメアリー、エリザベスの順番でした。ところがダドリーは自分の6男ギルフォードをエドワードの従姉ジェーン・グレイと結婚させ、王に迫りジェーンを強引に後継者とさせます。1563年7月6日病の床にあったエドワード6世は15歳で永眠しました。
 エドワードの異母姉メアリーは、この動きを察知し逃亡します。ダドリーはジェーンを即位させました。彼女はイングランド史上最初の女王となります。ただ、こんなことが通用するはずもなく心ある廷臣はメアリーを支持しました。メアリー王女は7月10日フラムリンガム城で同志を集め挙兵。ダドリーはこれを討伐すべくロンドンを出発しますが、正統性を失っていたため脱走兵が相次ぎます。そればかりか一度はダドリーの威勢に押されジェーン即位を認めた枢密顧問官たちですら、ダドリーがいなくなると次々とメアリーに寝返りました。
 進退窮まったダドリーはメアリーを女王と認め降伏。大逆罪に問われ裁判で死刑を宣告されます。1553年8月22日斬首。傀儡として担ぎ上げられていたジェーンも捕らえられ1554年2月12日夫ギルフォードと共に処刑されました。ジェーンわずか16歳、9日間の女王と呼ばれます。
 こうして即位したのがメアリー1世(在位1553年~1558年)でした。メアリーは母キャサリン・オブ・アラゴンの影響で熱烈なカトリック信者となります。母を追放したアン・ブーリンとその娘エリザベスを憎み冷遇、ついにはプロテスタントと共謀し反乱を画策したとしてロンドン塔に幽閉しました。エリザベスは無実だったと思いますが、メアリーの憎しみはプロテスタントに向けられます。
 メアリー1世は、父ヘンリー8世の政策を覆しカトリックに復帰。そればかりかプロテスタントを迫害し女子供を含む300名を処刑しました。以後彼女は「ブラッディ・メアリー」と呼ばれます。対外政策では母方の親戚スペインのフェリペ2世と結婚しました。フェリペ2世は彼女の11歳下で政略結婚以外の何ものでもありませんでしたが、1556年フェリペ2世がスペイン王に即位するため一時帰国、1年後には戻ったものの3か月で再び帰国しその後二度と会うことはありませんでした。
 逆にスペインと同盟したことでイングランドはスペインとフランスの戦争に巻き込まれ百年戦争以降唯一残った大陸領土カレーを失うことになります。失政続きのメアリーは、自らの健康を害し死期を悟るようになりました。フェリペとの間に子をなさなかったため、後継者は異母妹エリザベスしかいませんでした。ところが彼女は妹の後継者指名を最後まで拒みます。死の数日前、ようやく渋々認めたくらいでした。1558年11月17日卵巣腫瘍を悪化させメアリー1世崩御。享年42歳。彼女の命日は圧政から解放された日としてその後300年も祝われました。
 しかし近年、メアリー1世再評価の動きも出ています。カトリック復帰も、それほど反対の声が上がらなかったのはヘンリー8世の国教会創立が強引すぎて支持されていなかった証拠でしょう。
 ともかく、エリザベス1世(在位1558年~1603年)は即位しました。25歳の若き女王です。一時はロンドン塔に幽閉され死も覚悟したでしょう。異母姉メアリー1世が死去しなければいずれ断頭台の露と消えていたはずです。青春時代の壮絶な経験が、彼女のその後の人生を決めたのかもしれません。
 弱小国家イングランドを列強の一角に押し上げるのは彼女でした。次回、最終回アルマダ海戦を記すことにしましょう。

チューダー朝Ⅳ ヘンリー8世とイングランド国教会創設

 1501年イングランド南部プリマス港に見慣れない豪華な船団が入ってきました。上陸したのはスペイン王女キャサリン・オブ・アラゴンとそれに付き従ってきた数多くの従者たち。もちろん豪華な引き出物と一緒でした。イングランド国王ヘンリー7世の王太子アーサー殿下に輿入れするために来た一行です。
 スペインすなわち当時はカスティリャ・アラゴン連合王国。キャサリンの両親はカトリック両王と呼ばれたフェルナンド2世とイサベラ1世。1492年イスラム勢力最後の牙城グレナダ王国を滅ぼしレコンキスタ(国土回復運動)を完了したばかりでした。百年戦争でフランスにあった広大な領土を失い二流国に転落したイングランドと違い、日の出の勢いの国です。ヘンリー7世は溺愛する息子アーサーのために三国一の花嫁を迎えたわけです。むろん強国スペインと結ぶ外交的意図はあったでしょう。この時アーサーは15歳、キャサリンは16歳でした。
 ところがヘンリー7世が最も期待した王太子アーサーは、1502年粟粒熱であっさりと死去します。ままごとのような夫婦でしたがわずか1年でキャサリンは寡婦となったのです。せっかく結んだスペインとの同盟を捨てる選択肢はヘンリー7世にはありませんでした。一時は自分がキャサリンと再婚することも考えたようですが、年齢差もあり世間体もあるので白羽の矢を次男ヘンリーに立てます。
 当時ヘンリー王子は11歳。わがまま一杯に育てられきかん気な少年はいきなり湧いて出た6歳も年上の姉さん女房を嫌います。しかし父ヘンリー7世は結婚を厳命、しぶしぶ従いました。兄の死によってヘンリー王子は王太子となりました。数奇な運命によって兄弟二人を夫としたキャサリンはその後イングランドに留まり51歳で亡くなったそうです。
 ヘンリー7世はイングランドの安定のために次々と政略結婚を進めました。1503年には自分の娘マーガレットをスコットランド王ジェームズ4世に嫁がせます。そうした中1509年4月21日波乱の生涯を閉じました。享年52歳。
 後を継いだのは王太子ヘンリー。即位してヘンリー8世(在位1509年~1547年)となります。18歳で即位したヘンリー8世の性格は良く言えば豪放磊落、悪く言えば強情短気で見栄っ張り。厳しい父7世の存命中は大人しくしていましたが、その歯止めがなくなるとどうなるか想像もできませんでした。
 実際、王妃キャサリンとの間に1516年メアリー(後のメアリー1世)をもうけますが、キャサリンの侍女アン・ブーリンを見初め関係を持ってしまいます。王妃が男子を生まないことに苛立ったヘンリー8世は王妃と離婚しアン・ブーリンと正式に結婚しようと画策しました。通常は簡単に離婚できないので王妃は(たとえ離婚したとしても)そのままとし愛人を作るのですが(例 フランスのアンリ4世、ルイ15世)、この場合はアン・ブーリンが正式な結婚を求めたと言われます。
 ところが兄(アーサー)の妻を娶ったヘンリー8世に対しては、ローマ教皇が格別な赦免を与えて許した関係でしたので教皇クレメンス7世は離婚に難色を示します。しかも神聖ローマ皇帝カール5世にとってキャサリンは叔母にあたり、離婚は国際問題にまで発展しました。実際に交渉に当たっていたトマス・フルジーがいつまでも離婚許可を得られなかったことに激怒したヘンリー8世は、フルジーを罷免。1534年には国王至上法を発布し、なんとローマ・カトリック教会から離脱、自らを首長とするイングランド国教会を作りました。これには反発も多く、大法官トマス・モアはヘンリーの怒りを買い処刑されています。1538年教皇パウルス3世はヘンリー8世を破門しました。
 さて、こんなふざけた理由で創設されたイングランド国教会ですが、当時大流行していたプロテスタントかというとそうでもなく、カトリックとプロテスタント双方の教義が入り乱れた鵺のような存在でした。1533年キャサリン妃との正式な離婚が成立。ヘンリー8世は晴れてアン・ブーリンと結婚します。キャサリン妃はヘンリー8世の意向を受けたカンタベリー大司教トマス・クランマーによってヘンリーとの結婚が無効とされました。結局前王太子(アーサー)妃未亡人に落とされ宮廷から追放されます。彼女と間に生まれた娘メアリーすら庶民に落とされるという過酷な処分でした。
 アン・ブーリンはまもなく娘を出産。エリザベス(後のエリザベス1世)と名付けられます。悲惨なのは異母姉メアリーで1534年王位継承法で継承資格を喪失、長ずると妹エリザベスの侍女にされるという酷さでした。失意の元王妃キャサリンは、キンボルト城に事実上監禁され1536年亡くなりました。
 無理に無理を重ねて正式に結婚したアン・ブーリンでしたがヘンリー8世が望んだ男子を死産したために寵を失います。彼女もまた、姦通罪の汚名を着せられ処刑されるのです。本当にヘンリー8世はどうしよもない国王でした。1536年アン・ブーリン処刑の10日後には彼女の侍女だったジェーン・シーモアと結婚します。そういう性癖だったのでしょう。この時点でエリザベスもまた庶民に落とされました。うがった見方をすれば新しい愛人シーモアのために邪魔なアン・ブーリンを殺したとも言えます。ジェーン・シーモアは1537年待望の男子エドワードを生みますが産褥熱で死亡。彼女だけがまともな最期だったとも言えます。
 結局ヘンリー8世は、生涯で6度結婚します。妻たちの過酷な運命を簡単に記すと4番目の妻アン・オブ・クレーヴスは結婚前別の男と婚約していたことを咎め追放、5番目の妻キャサリン・ハワード姦通罪で処刑、6番目で最後の妻キャサリン・パーだけが王の死で破滅を免れました。彼女は女癖の悪いヘンリーの妻にしてはできた女性で敬虔なプロテスタントでした。彼女のおかげで庶民に落とされていたメアリー、エリザベスの姉妹は王女の身分に戻され、エドワードの下位ながら王位継承権も復活しました。
 ヨーロッパ諸国がカトリックとプロテスタントの宗教戦争で苦しむ中、イングランドではヘンリー8世がこんな馬鹿なことをしていたのです。辺境にあったのが幸いしたとしか言えません。晩年ヘンリー8世は肥満し健康を害します。1547年荒淫暴食の末55歳で亡くなりました。
 後を継いだのは唯一の男子エドワード6世。わずか9歳の少年でした。
 次回は、チューダー朝の混乱、そしてエリザベス1世の即位を描きます。

チューダー朝Ⅲ ヘンリー7世の即位

 1485年8月22日のボズワースの戦い。リチャード3世のイングランド軍8千、日和見のスタンリー兄弟軍6千を合わせても1万4千。一方リッチモンド伯ヘンリーの兵はわずか5千。同じ天下分け目の関ケ原と比べ随分と兵力が少ない印象を受けた方も多いと思います。
 それもそのはず。当時のイングランドの人口は350万弱。同時期の日本はすでに1600万を超えていました。これは小麦と米の収穫量の違いで、同じ面積の耕地でも養える人口が違っていたからです。外征兵力3%としてイングランドの兵力10万5千。ただこれは農民を動員しての数ですから、実際は生産力の面からも騎士と若干の徴募兵、傭兵を加えて最大でも数万規模でしか動かせません。加えてリチャード3世の王位継承が簒奪ともいえるもので暴政を布いたため人心はすでに離れていました。1万前後の兵しか集まらなかったのはこのような理由です。
 それでもリチャード3世の遺骸の傷を調べると頭蓋骨に致命的な戦傷がいくつも確認され勇敢に戦った証拠だとされます。シェイクスピアの歴史劇ですっかり極悪人の烙印を押されるリチャード3世ですが、言われるほどの悪人ではなかったのではないか?と近年再評価されているそうです。リチャード3世の評価は勝者リッチモンド伯ヘンリーに都合の良いように書き換えられた可能性もあります。
 ともかくヘンリーは勝ちました。が、すぐには即位できません。即位するには自身の正統性をイングランド国民に示さなければならないのです。彼は1486年婚約者だったヨーク家エドワード4世の長女エリザベス・オブ・ヨークとウェストミンスター寺院で結婚します。その際、ランカスター家の流れをくむ赤薔薇とヨーク家の象徴白薔薇を合わせたチューダー・ローズをチューダー家の紋章と定めました。薔薇戦争で対立した両家の確執を解消しようという意図です。
 その上で議会を動かし、リチャード3世によって私生児に落とされていたエドワード4世の子たちの名誉を回復し嫡出子に戻しました。ここでリチャード3世によって廃位させられロンドン塔に幽閉されたエドワード5世と弟ヨーク公リチャードはどうなる?と思った方も多いでしょう。ヘンリーとしては自身の正統性を担保するため妻エリザベスの名誉は回復しても、本来の正当な王であるエドワード5世が名誉回復されたら困るわけです。これがエドワード5世を暗殺したのはヘンリーではないかと疑われる理由でした。
 真相は歴史の闇ですが、周到な準備の末ヘンリーはウェストミンスター寺院でイングランド国王に即位します。すなわちヘンリー7世です(在位1485年~1509年)。ただし即位はボズワースの戦いの前日1585年8月21日に遡ると宣言しました。これはリチャード3世に味方した貴族たちを反逆罪に問うためで、ヨーク派の多くの貴族が処刑されます。
 ヘンリー7世の即位は、彼の母系の血ランカスター家の傍流ボーフォート家によるものでしたが、正統性には疑義があり多くの者がイングランド王位を僭称し反乱を起こします。早くも1486年、ランバート・シムネル(1477年?~1534年?)がロンドン塔に幽閉されていたウォリック伯エドワードを騙り挙兵しました。ウォリック伯はリチャード3世の甥にあたりヨーク家最後の男系王位継承資格者でした。
 シムネルは、ウォリック伯がロンドン塔を秘かに脱出していたと称し、アイルランドの首都ダブリンのクライストチャーチ大聖堂で即位、エドワード6世と名乗ります。実はシムネルは美男というほかは取り柄がない全くの庶民でしたが、野心家ロジャー・サイモンに担ぎ上げられたのでした。講談で有名な天一坊事件の天一坊(シムネル)と軍師山中伊賀介(サイモン)の関係とそっくりですが、ヨーク派の残党はあえてこの嘘を信じたふりをし、ヘンリー7世に戦いを挑みます。なんと時のアイルランド総督キルキア伯ですら支持したと言いますから、それだけヘンリー7世に対する不満が大きかったのでしょう。
 ヘンリー7世は、この報告を受け1487年2月本物のウォリック伯を人前で公表しシムネルが真っ赤な偽物であると断じました。そのうえで大規模な恩赦を発表し人心の動揺を抑えます。追い詰められたシムネル一派はアイルランドで兵を集めます。これにリチャード3世の姉マーガレット・オブ・ブルゴーニュ(ブルゴーニュのシャルル突進公に嫁ぐ)が2千のフランドル人傭兵を集めアイルランドに援軍として送り込みました。またヘンリー7世に追放されていたリンカーン伯もこれに加わります。
 偽王エドワード6世ことシムネル一派は、大軍が集まったことに気を良くしヘンリー7世を討つべく1487年ブリテン島に上陸しました。ここでもイングランド人が多く参加したそうですが、地元貴族はシムネル軍の危うさを感じ傍観します。
 6月16日、1万2千の軍勢を率いたヘンリー7世のイングランド軍とノッチンガムシャーのストーク・フィールドで激突。シムネル軍は8千いたそうですが、寄せ集めの悲しさ、歴戦のイングランド軍に敵うはずもなく完敗、ヨーク派のリンカーン伯、フィッツジェラルド卿、バウトン卿、フランドル傭兵軍隊長シュヴァルツなど主だった司令官が皆戦死しました。偽王エドワード6世ことシムネルは逃げ遅れたところを捕らえられヘンリー7世のもとに連行されます。
 シムネルがまだ10歳をちょっと超しただけの少年、しかも大人たちに利用されているだけだとしてヘンリー7世は命だけは助けました。冷酷なヘンリー7世にしては優しいところもあると思うのですが、その後シムネルを宮廷の厨房召使にしたそうです。シムネルは鷹匠になり1534年ころまで生きます。
 反乱はこれだけでは終わりません。1490年、今度はパーキン・ウォーベックという者がエドワード5世の弟ヨーク公リチャードを騙り蜂起します。ウォーベックはリチャード4世を名乗りました。これにもブルゴーニュ公妃マーガレットがバックアップをし軍勢を与えイングランドに送り込みます。ここまでくると、マーガレットというよりブルゴーニュ公シャルルの関与すら疑います。シャルルは宿敵フランスと対抗するため背後のイングランドを自陣営に引き入れたかったのかもしれません。
 この動きはスコットランド、神聖ローマ帝国、フランスまで巻き込む大騒動となりますがヘンリー7世は冷静に対処しウォーベック軍を撃破。将来の禍根を断つため捕らえたウォーベック、ヨーク朝の正統王位継承資格者ウォリック伯エドワードを処刑します。エドワードは25歳の若さでした。ヘンリー7世はエドワードの姉でソールズベリー女伯マーガレット・オブ・プランタジネットも処刑しようとします。これは多くの廷臣の助命嘆願で許されますが、結局ヘンリー8世時代の1541年反逆罪の汚名を着せられ殺されることとなりました。ヨーク家の王継承資格者は生き延びられなかったのでしょう。彼女の死でヨーク朝の血は完全に絶えます。
 このようにヘンリー7世は即位後も席を温める暇もないほど内憂外患に苦しめられました。しかしそんな中でも彼は内政に力を尽くしました。厳しい徴税で財政を安定させ度量衡を統一。ネーデルラントと自由貿易条約を結びます。当時ネーデルラントは毛織物工業の中心地で、ヘンリーはそこへイングランドの羊毛を輸出しようと目論んだのです。
 外交でもそれまで対立してきたフランスと融和政策を行い、急速に台頭してきたカスティリャ・アラゴン連合王国(後のスペイン)と結びます。司法では星室裁判所(星室庁ともいう)を設け貴族の横暴を押さえました。ヘンリー7世は、その不幸な生い立ちから猜疑心強く人を信じない冷たい性格になっていました。そんな彼が唯一心を許すのは肉親でした。特に長男王太子アーサーが温厚篤実な性格だったことから溺愛し、彼のためにアラゴン王フェルナンド2世、カスティリャ女王イサベル1世の娘キャサリン・オブ・アラゴンを嫁に迎えるほどの入れ込みようでした。1509年4月ヘンリー7世死去。享年52歳。
 欠点はあってもチューダー朝の創始者ヘンリー7世は内政外交軍事でまずまずの名君だったと言えます。次回は、彼の息子ヘンリー8世の治世とイングランド国教会創設を描きます。

チューダー朝Ⅱ ボズワースの戦い

 ランカスター家、ヨーク家という王位継承権を持つ王族の争い薔薇戦争。30年続いた内戦は後半ヨーク家の優位が定まってきました。一度はランカスター家に王位を奪われたエドワード4世が実力で王冠を奪い返し復位します。ランカスター家の王ヘンリー6世はロンドン塔に幽閉され殺されました。
 エドワード4世は、ランカスター派の弾圧を開始します。ヘンリー6世の異父弟リッチモンド伯ヘンリーとて例外ではありませんでした。すでに父エドモンドは彼の生まれる直前1456年11月ヨーク派に捕らえられ南ウェールズのカーマーセン城で獄死しています。ヘンリーの母マーガレットは名門サマセット公ジョン・ボーフォートの娘でした。ボーフォート家はランカスター家の傍系でエドワード3世の孫ジョン・ボーフォートの後裔です。ただジョンは私生児で従兄リチャード2世(プランタジネット朝最後のイングランド王)からは、嫡出子として認められる代わりに王位継承権を放棄させられました。
 こういった経緯から、ヘンリー・チューダーは母系で王位継承資格を持つもののその正統性に疑問符がつけられるという微妙な存在になります。チューダー家を巡る情勢が次第に不利になって行く中、唯一の頼りはウェールズでした。というのもチューダー家は古きウェールズ君主の血を引く一族だったからです。イギリスは土着のブリトン人すなわちケルト人の土地に、アングロサクソン、デーン人、ノルマン人といったゲルマン系諸族が侵略した歴史でした。イングランドから追い出されたケルト人の中には、フランスの中で人口希薄地だったブルターニュ半島に脱出するものも数多く居たそうです。ブルターニュという名前そのものがブリテン人の土地という意味です。
 一方、島に残ったケルト人たちは次第に西に追い詰められました。これがウェールズで、イングランドのゲルマン人たちに征服され長い間雌伏を余儀なくされます。そんな彼らにとってチューダー家は唯一の拠り所だったのかもしれません。
 当主エドモンドは失ったものの、その父オウエンやエドモンドの弟ジャスパーは健在でした。ヘンリーは幼少時叔父ジャスパーに保護されウェールズで過ごします。ところが1461年、ヨーク家のエドワード4世が即位しジャスパーは追放されました。ヘンリーはヨーク派のペンブルック伯ウィリアム・ハーバートに保護されます。が、今度は1469年ペンブルック伯も処刑されました。
 1470年ランカスター家のヘンリー6世が復位するとようやくジャスパーは呼び戻されます。この時ジャスパーは甥ヘンリーを宮廷に連れて行ったそうです。1471年またしてもヨーク家が巻き返しエドワード4世復位。ランカスター家のヘンリー6世と王太子エドワードが処刑されました。エドワード4世は将来の禍根を断つためランカスター家に属する王位継承資格者を次々と粛清します。残った中で年長の資格者はヘンリーだけとなってしまいました。
 当然魔の手はヘンリーにも及びます。生命の危険を感じたヘンリーは叔父ジャスパーに連れられフランスに亡命します。フランスのブルターニューに14年間潜伏しました。この頃イングランドに残った母マーガレットは名門ボーフォート家出身という事でヨーク派のトマス・スタンリーと再婚、息子ヘンリーをヨーク派のリチャード3世に代わる王位継承者とすべく運動しました。これが功を奏し、1483年エドワード4世の娘エリザベス・オブ・ヨークと婚約が成立します。ただ肝心のヘンリーはイングランドに不在、この婚約も将来どのようになるか全くわかりません。
 ヨーク朝では、エドワード4世が1483年フランス遠征の準備中40歳で急死。息子エドワード5世がわずか12歳で即位しますが叔父である摂政グロスター公リチャードに簒奪されます。これが歴史上悪名高いリチャード3世(在位1483年~1485年)です。幼王エドワード5世は弟ヨーク公リチャードと共にロンドン塔に幽閉、病死したとも殺されたともいわれます。ここでヨーク公リチャードの名は覚えておいてください。後で出てきますから。
 ヘンリーは亡命先ブルターニュ公フランソワ2世の後押しで何度かイングランド上陸を画策します。これを知ったリチャード3世は、ブルターニュ公国にヘンリーを追放するよう圧力を掛けました。ブルターニュを追われたヘンリー一行はフランス王ルイ11世に保護されます。当時、ルイ11世の政敵ブルゴーニュ公国にエドワード4世の娘マーガレットが嫁いでおりブルゴーニュはヨーク派でした。ルイ11世は、ブルゴーニュの力を弱めるには、同盟者のイングランドを叩くのが上策と考え、亡命してきたヘンリーに目を付けます。
 人生何が幸いするか分かりませんが、おかげでヘンリーはルイ11世の全面バックアップを受け軍勢と装備を与えられました。ヘンリーはこれらを率い、ようやく念願のイングランド上陸を果たします。ランカスター家最後の希望であるヘンリーのもとに次々とランカスター派貴族が参陣しました。ヘンリー軍は、ウェールズのペンブルックシャーに上陸、イングランドへ進軍を開始します。ヘンリー軍には叔父ジャスパー、オックスフォード伯ジョン・ド・ヴィアー等が加わっていました。スコットランド兵、ウェールズ兵も参陣し5千の兵力に膨れ上がります。
 リッチモンド伯ヘンリー・チューダー上陸の報は間もなくリチャード3世にもたらされました。一応リッチモンド伯と書いてますが、この当時はヘンリーのリッチモンド伯の爵位は剥奪されており無官です。リッチモンド伯位はヘンリーが王位に就いた時自ら再叙任しました。リチャード3世は8千の軍勢を動員し迎え撃ちます。ヨーク派の有力貴族スタンリー卿ウィリアム、トマス・スタンリー男爵の兄弟も6千を率い続きました。トマス・スタンリーは前に出てきましたが、ヘンリーの母マーガレットの再婚先。つまりヘンリーの継父にあたるのです。その点を考えれば信用しきるのは危険でしたが、リチャード3世はそのような事には全く配慮せず、ただスタンリー兄弟の忠誠心に頼っていました。
 1485年8月両軍はイングランド中部レスターシャーのシェントン、ダドリントンの間ホワイトムーア近辺でぶつかります。戦場に関しては諸説ありますが、近くの町の名前を取ってボズワースの戦いと呼ばれました。
 8月22日リチャード3世の率いるイングランド軍はアンビオンヒルに布陣します。陣容は中央にリチャード3世の部隊、右翼(西側)やや突出した形でノーフォーク公の軍勢。左翼やや後ろに控えてノーサンバランド伯軍が続きました。遅れて着陣したスタンリー兄弟の軍6千は戦場の東南に離れて着陣。一方、劣勢のヘンリー軍はホワイトムーアに布陣。フランス傭兵、ウェールズ兵、スコットランド兵を中心に前面で密集隊形を汲み、ヘンリー直率の騎兵が後陣に控える形でした。
 リチャード3世は、万が一スタンリー兄弟が裏切らないよう人質を取っていました。戦いは負けると後がない劣勢のヘンリー軍が必死に戦いリチャード軍を押します。ただ数に勝るリチャード軍は容易に崩れず戦闘開始から2時間たっても決着がつきませんでした。リチャード3世は、傍観を決め込むスタンリー兄弟に使者を送り参戦するよう命じます。この時リチャード3世は「命令に従わなければ、人質であるスタンリー卿の息子の首を刎ねる」と脅したそうです。ところがスタンリー卿の返事は「息子は他にもいる」でした。
 実はスタンリー兄弟は秘かにヘンリーと内通していました。しかし戦いの結果がどう転ぶか分からないため日和見を決め込んでいたのです。そこへリチャード3世からの高飛車の要求。これで兄弟の心は決します。そればかりか、後方のノーサンバランド伯軍まで戦闘に参加しませんでした。
 苛立つリチャード3世ですが、ヘンリーの本営が前線近くまで来ているのを見て彼さえ倒せばこの戦いに勝てると踏みます。リチャード3世は手元にいた数百の騎士を率いるとヘンリーの本営目掛け突撃しました。前線では乱戦でリチャード軍の指揮官ノーフォーク公が戦死します。リチャード3世は、ヘンリーの旗手を倒すほど肉薄しますが、この時スタンリー兄弟の軍がようやく動きだしました。ところがこれはリチャード3世に味方したものではなく、逆にヘンリー側に寝返っての動きでした。
 リチャード3世は腹背に敵を受け壮絶な戦死を遂げます。享年32歳。戦場で倒れたイングランド王はヘースティングスでノルマンディー公ウィリアムに敗れたハロルド2世に続いて2例目でした。国王戦死を受けて、イングランド軍は総崩れになります。ヘンリーは勝利したのです。リチャード3世の死をもってヨーク朝は断絶。勝利者ヘンリーはこの時点で自らのチューダー朝を開く資格を得ました。
 ただ正統性に疑問を持つ者も少なくなく、ヘンリーは即位後も統治の安定に苦しむこととなります。次回は、ヘンリーの即位とその後について語りましょう。

チューダー朝Ⅰ チューダー家の出自

 イギリスはブリテン島のイングランド、ウェールズ、スコットランドと北部アイルランドから成る連合王国です。日本のイギリス呼称の語源はポルトガル語のイングレスから来ていますが、これはイングランドの事です。外国からはイギリスの中心がイングランドとみられている証拠なのですが、ウェールズやスコットランドの人は気分が悪いでしょう。
 19世紀から20世紀にかけてイギリスは太陽の没せぬ国と称えられるほど繁栄した超大国でした。ただイギリスは一朝一夕に成ったのではありません。最初は貧乏な島国だったイギリスが大国になったきっかけはヘンリー7世から始まりエリザベス1世で終わるチューダー朝(1485年~1603年)だったと考えます。本シリーズではヘンリー7世の王朝樹立、ヘンリー8世の国教会創設のいきさつ、エリザベス1世の治世を描こうと思っています。
 イングランド北部(ブリテン島全体から見ると中部)、マンチェスターの北北東160キロあたり、ノース・ヨークシャー州にリッチモンドという地方都市があります。市街地の南西にはリッチモンド城がありました。現在では外壁だけが残り内部は更地になっていますが、中世この地にはリッチモンド伯領が存在しました。初代領主はブルターニュ公エオン1世の子アラン・ルーフス(赤卿)。その後何回か領主は変わり、最後の7代目リッチモンド伯に任命されたのはヘンリー6世により叙爵されたエドモンド・チューダー(1430年~1456年)でした。
 チューダー家はエドモンドの父オウエン・チューダー(1400年頃~1461年)の代に急速に勃興した家です。チューダー家はウェールズが発祥の地でウェールズ君主の血を引く名門でしたが、オウエンの時代すっかり没落しヘンリー5世の未亡人キャサリン・オブ・ヴァロワ王太后(ヘンリー6世の母)の納戸係秘書官を務める下級貴族になっていました。
 ところが、若くして未亡人になったキャサリン王太后はなんと秘書官のオウエンと結婚してしまったのです。よほどオウエンの性格が良かったのか、あるいは美男子だったのかどうかは知りませんが、この結婚は枢密院から認められず二人の間に生まれたエドモンドは私生児扱いになります。ただ、とはいえヘンリー6世の異父弟であることには変わりなくエドモンドは1452年リッチモンド伯に叙されました。オウエンとキャサリン王太后は他にジャスパーという男子をもうけます。
 時は薔薇戦争(1455年~1485年)の真っただ中。エドモンドの母キャサリンは1437年38歳で亡くなっていました。リッチモンド伯エドモンド・チューダーもわずか26歳の時、ヨーク派のハーバート家に捕らえられ南ウェールズのカーマーセン城に幽閉されます。そこで病を発し亡くなりました。エドモンドの妻マーガレットは、夫が幽閉されたとき身籠っており、夫の死の二か月後忘れ形見ヘンリーを生みます。
 ここで薔薇戦争について簡単に説明しましょう。薔薇戦争はイングランド王位を争ったランカスター家が赤薔薇、ヨーク家が白薔薇を紋章としたことに由来します。どちらもプランタジネット朝の分家で、嫡流が断絶したために次の王位を狙って戦争を起こしたのでした。
 ヘンリー6世がランカスター家ですから異父弟エドモンドもランカスター家陣営。当然その子ヘンリーも含みます。一方、ヨーク家はエドワード4世が1461年内戦に勝利しランカスター家の王ヘンリー6世を廃位し即位しました。一時的にランカスター家が反撃し王位を奪われますが奪回。ただ1483年急死したため、弟リチャード3世に王位を簒奪されます。
 薔薇戦争は、イングランド中の貴族を巻き込み泥沼の様相を呈してきました。出生時すでに父がいなかったという運命の子ヘンリー・チューダー。彼はどのようにして王権を手に入れるのでしょうか?
 次回、ボズワースの戦いを描きます。

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