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2018年7月

2018年7月 2日 (月)

世界史の胸糞悪くなる話2  奴隷貿易

 あんまりシリーズ化したくない題材なんですが、南米史を書いていて奴隷貿易とは切っても切れない関係だと考えて記事にしなければと勝手な使命感を抱きました。高校世界史ではおそらく表面だけさらっとしか語らないと思うので、今回どれほど酷かったのか見ていきましょう。
 黒人奴隷は主にアフリカ西海岸で調達され、南北アメリカ大陸に送られました。何故南北アメリカで奴隷が必要だったかというと、インディアンとかインディオなどとヨーロッパ人に呼ばれたネイティブアメリカンの人口が激減したからです。南北アメリカ大陸を征服したスペイン、ポルトガル、遅れてやってきたオランダ、イギリスなどは植民地を収奪の対象だと見ていました。
 まずは彼らの持つ金銀財宝を奪いつくし、その後は鉱山やプランテーション農園で酷使します。しかしこのような悲惨な生活は現地人に耐えられるはずもなく、その上ヨーロッパ人のもたらした天然痘などの新大陸の人たちに免疫のない伝染病で数多くの病死者を出しました。全盛時1600万人の人口を誇ったインカ帝国は、スペイン人の植民地支配で60万人に激減したそうです。新大陸の他の地域も似たような状況だったに違いありません。
 ヨーロッパ人たちは、現地人が死に過ぎたせいで思うような収奪ができなくなった後も植民地を諦めようとはしませんでした。人がいないなら連れてくればよい。このおぞましい考えが黒人奴隷貿易を生んだのです。
 ヨーロッパ人たちはまずアフリカの西海岸に奴隷貿易の基地となる要塞を築きます。そして近隣の部族同士で戦争が起こると捕虜が出るので、それを買い取り奴隷としました。あまりにも奴隷狩りが進んで海岸地帯に奴隷要員がいなくなると、ヨーロッパ人たちは沿岸の部族に武器を与え奥地の部族を襲撃させました。部族たちも、奴隷を狩ってヨーロッパ人に売りつければ莫大な収入になるので喜んで遠征します。この欧州人と現地部族の結託が黒人奴隷という負の遺産を築いたのです。
 さてこのような手段で集められた黒人奴隷たちは、船に乗せられ新大陸に送られます。船にできるだけ多くの奴隷を積み込まなければ採算割れするので、奴隷たちは鎖でつながれぎゅうぎゅう詰めにされました。食べ物もろくに与えられず衛生環境も悪いという過酷な環境の中、3人に1人の奴隷は大西洋上で死んだそうです。
 新大陸では奴隷一人当たり13ポンド半で売れました。これがどれほどの価値か分かりませんが、一人の人間を奴隷に売る価値ではなかったと思います。奴隷商人たちは、交易の最大効率化を図るため三角貿易を考え出します。
 まずヨーロッパから西アフリカへは武器や綿織物、ガラス工芸品などを積み込みます。これを現地の欧州人に売って、要塞内の奴隷市場で奴隷を購入。西アフリカから新大陸に奴隷を運び、売り払った金で砂糖、コーヒー、綿花などを購入、ヨーロッパに運んで売りさばくのです。この三角貿易は粗利率で59%(売り上げが100万なら利益が59万円という事)というあり得ない莫大な利益を得たといわれます。
 このような非道な手段で新大陸に送られた黒人奴隷は400年で1000万人を超えたそうです。新大陸での黒人奴隷の過酷な生活は過去記事で書いた通り。このような酷い事してきたんですから、現在欧州諸国が移民で苦しめられているのも自業自得なのでしょう。
 仏教では因果応報といわれますが、過去にしでかした悪行はいつか償わなければならないと思います。欧州は今後ますます苦しめられると個人的には考えています。

パラグアイ戦争と太平洋戦争の教訓

 今回の記事は与太話なのでまじめな歴史記事を求める方はご遠慮ください。

 パラグアイ戦争と(南米の)太平洋戦争は現代を生きる我々にも多くの教訓を残していると思うんです。負けた側はどうやったら勝てたか?勝てないにしても破滅を防ぐことはできなかったのか?あくまで個人的見解ですが、軍事知識、地政学的知識も総動員して勝手に語りたいと思います。
 まずパラグアイ戦争。いくら国内が団結し強大な軍隊を持っていても周辺諸国全部に喧嘩を売ったら勝てるわけがありません。誰かが言っていましたが、当時のパラグアイはドイツ統一前のプロイセンと似ていると。
 パラグアイが失敗しプロイセンが成功したのは、戦争の前に外交の限りを尽くして敵を一つに絞ったからです。まずオーストリア、次いでフランス。ロシアとイギリスは外交で融和し戦いを避ける。まさにビスマルク外交の賜物ですが、パラグアイにはそれがなかった。
 しかもウルグアイという戦略的にはどうでもよい国に固執して大戦略を誤ったことは指摘しておきたい。パラグアイの地勢を考えると、ブラジルは人口希薄地のマットグロッソ州で接しているだけで、ブラジルの戦略的重心である大西洋沿岸部は余りにも遠い。むしろパラグアイが主敵とすべきはパラナ水系を押さえられたら経済的に干上がるアルゼンチンではなかったかと愚考します。
 ブラジルとアルゼンチンの対立をうまく煽り、ブラジルと同盟してアルゼンチンを孤立させ戦争を仕掛ければ勝つチャンスもあったと思います。ただ確実に勝てるかどうかは戦術次第。しかし史実のように国が破滅することは免れたかもしれませんね。
 次に(南米の)太平洋戦争。ペルーとボリビアは、自国領のアタカマ砂漠に膨大な硝石鉱山が見つかった時点でチリとの戦争を準備しておくべきでした。その準備もなしにボリビアのダサ大統領が硝石輸出に関税をかけチリ系企業を接収したのは愚の骨頂です。加えて戦争を想定するなら自国領のアントファガスタ市にチリ系市民が9割というのもあり得ない。ダサ大統領の愚かな行為のおかげでチリに宣戦布告の口実を与えたのですからどうしようもないですね。
 チリは海軍力でペルーよりもやや優勢と踏んでいた可能性があり、ダサ大統領の行動で自国民保護という大義名分まで得ました。陸軍が互角とするなら海軍が戦いの帰趨を握るので、その方面でもボリビアは全く準備していなかったですね。
 ボリビア本土は、アルトペルー(高地ペルー)地方と呼ばれたアンデスの高原地帯で現在のボリビアと重なります。そこから沿岸地帯に降りてくるのに満足な鉄道もなかったそうですから、これでは本土から主力軍を送ることもできませんし、補給線の維持も厳しくなります。
 ペルーはそれよりはましですが、陸路ではアタカマ砂漠の戦場に陸軍を送り込むことは難しくこちらも補給がネックとなります。ペルーは、海上輸送を使って兵站を維持する必要がありますが、チリ側は当然これを見越して海戦を仕掛けペルー海軍を潰すのですから、この時点で勝負ありました。
 後はチリ側が逆に戦場を選べるようになります。制海権を握っているので、ペルー沿岸部の任意の地に陸軍を送り込むこともできますし、海上から補給することが可能です。しかもペルーの首都リマは沿岸部にあり、海上からの攻撃に脆弱だと言う致命的欠点がありました。
 チリ本土へ逆侵攻するのも、広大な砂漠を突っ切らないといけないため現実的ではない。難しい戦いでしたね。ペルーは思い切って首都をリマから内陸のクスコに遷都し、アンデスの天険を頼んで持久戦法に徹していれば勝機はあったかもしれません。何しろ国力はチリよりも上なんですから。
 実はボリバルの解放軍がペルーに来た時、ペルー副王ラセルナの採った戦術がこれでした。ボルバル軍は攻めあぐね非常に苦戦します。海岸地帯では徹底的な焦土作戦を実行しチリ軍に現地補給をさせない。そこまで覚悟できないなら本来戦争すべきではなかったかもしれません。もっとも喧嘩を売ったのはチリの方ですが…。
 こうしてみると、地政学的に普段から戦略を練っておき、仮想敵との戦争計画、戦争の準備は前もってしておく必要があります。地勢によって戦い方が変わってくるのは当然で、敵に囲まれていたら同時に複数を相手にせず敵を一つに絞る。海上兵站戦が重要な戦場なら海軍力の整備は必須です。
 そして本土決戦は悲惨な結果になるから絶対に避ける。その意味では専守防衛がいかに無意味で害悪しかないかご理解いただけると思います。

日本人が知らない太平洋戦争

 太平洋戦争と言って一般日本人が連想するのは1941年12月8日から始まる戦争だと思います。しかしこれは戦後GHQが押し付けた名称であり日本では大東亜戦争と呼ぶのが正しいです。一方、世界史では太平洋戦争と言えば1879年から1884年まで戦われた南米チリとボリビア、ペルーとの間の戦争を指します。
 チリという国は南北4300㎞、アンデス山脈の西麓を占める細長い国です。アルゼンチンの前身ラプラタの将軍ホセ・デ・サンマルティンがサンティアゴの自治評議会のプエイレドンを助け5000の兵と共にアンデス越えして遠征、ペルー副王政府の駐屯軍を破って1818年独立した国でした。
 一方、ペルーはこのサンマルティンの遠征で一時独立するもペルー副王ラセルナの反撃を受け失敗、大コロンビア(コロンビアとベネズエラ)を独立させたシモン・ボリバルの来援を得て1821年ようやく独立できます。ボリビアもまたボリバルの部下スクレによって1825年解放されました。このボリバルとペルー副王ラセルナの戦いはそれだけで一本書けるほど面白いんですが、ここでは長くなるので割愛します。
 1800年当時、ペルーの人口150万人。ボリビアとチリはともに90万前後。インカ帝国全盛時1600万人を数えたこの地が、スペインの植民地支配でいかに荒廃したか分かります。チリの地理を簡単に述べると、北部砂漠地帯、中部が首都サンティアゴを含む農業地帯、南部はアンデスが海まで迫る山岳地帯でした。ペルーとボリビアはインカ帝国でも分かる通り潜在的に大人口を養える地域ですが、植民地支配によって人口が激減し開発できなかっただけです。
 現在はチリの北部に含まれるアタカマ砂漠ですが、当時はペルーとボリビア領でした。実はボリビアは太平洋に面した領土を持っていたのです。一見不毛の地とみられていたアタカマ砂漠ですが、この地に硝石鉱山が見つかったことから領有権を巡り周辺諸国が争うことになりました。硝石は火薬の原料で莫大な収入をもたらすことは確実だったのです。
 これまで硝石と言えば硝酸カリウムの事で天然のものは少なく土壌中の有機物、動物の排泄物のアンモニアから人工的に作るものが主流でした。ところがアタカマ砂漠で見つかったのは硝酸ナトリウム、しかも無尽蔵ともいえる莫大な埋蔵量があったそうです。ペルーとボリビアは国境線南緯23度を挟む南緯22度から南緯24度までを両国で折半するよう取り決めます。ところがすでにチリ系企業が進出しており、ボリビア領アントファガスタ市などは90%がチリ系市民で占められていました。
 1878年、ボリビアのダサ大統領はチリ系企業に輸出税を課税。チリが1874年の協定違反だとして拒否するとダサ大統領は硝石を禁輸し、チリ系企業を接収します。怒ったチリは、1879年2月チリ系硝石企業の保護を名目として5000名の部隊を派遣アントファガスタ市を占領しボリビア領の太平洋沿岸地域を制圧しました。ボリビアはペルーに援軍要請、4月チリがボリビア、ペルー両国に宣戦布告し戦争が勃発します。
 当時、チリ、ペルー、ボリビアはミニエー銃を使用していました。これは日本の戊辰戦争でも登場する小銃で前装式ながら銃身にライフリング(螺旋状の溝)が施してあり、椎の実上の弾丸を使用しそれまでのゲベール銃より長射程ではるかに威力があります。ただこのころすでに後装式のスナイドル銃や初期型のボルトアクションライフルであるシャスポー銃が登場しており過渡期にありました。もしかしたら日本の戊辰戦争のように一部の部隊は後装銃を使用していたかもしれません。
 陸軍はペルー、ボリビア連合軍が有利に進めます。海軍はチリ海軍、ペルー海軍とも装甲艦2隻が主力でした。ボリビア海軍は弱体で問題外。海岸線の長いチリは、イギリスから指導を受けて海軍整備をしており、装甲艦もペルーより新型でした。チリ艦隊はペルー領イキケ港を封鎖、これを破るためペルー艦隊が出撃し5月21日イキケ海戦が起こります。ペルー艦隊はチリ艦隊の木造船1隻を撃沈し封鎖を解きますが、自らも座礁事故で虎の子の装甲艦1隻を喪失、両国の海上軍事バランスが崩れました。
 制海権を奪われたペルー海軍はゲリラ戦で対抗するしかなくなります。10月8日アンガモス海戦でペルー海軍のグラウ提督が戦死、唯一残った装甲艦ワスカルもチリ側に拿捕されました。完全に制海権を握ったチリ艦隊は太平洋を北上し陸兵を上陸させペルーの要所を占領します。補給も海路行えばよいので決定的に有利となりました。1881年1月、チリ軍はついにペルーの首都リマに25000人の陸兵を進軍させ占領。ペルー政府はアンデスの山岳地帯に撤退し尚も抵抗を続けますが、新しく就任したイグレシアス大統領はついに降伏を決断しました。
 戦争の結果、ボリビアはアントファガスタ県など太平洋沿岸領土をチリに割譲、完全な内陸国になってしまいます。ペルーもそこに隣接するタクナ県、アリカ県を奪われました。ただ1929年チリは、タクナ県だけはペルーに返還しています。
 戦争に勝利したチリでは、アタカマ砂漠の硝石鉱山開発で北部への人口移動が起こりました。ドイツ系など多くの移民も受け入れ1925年から四半世紀で首都人口は30万人から55万人に、総人口も270万人から370万人に増加します。硝石の輸出で莫大な増収となり、鉄道などインフラ整備も進みました。ただ企業活動の活発化と共に労働運動が激化し、世界恐慌の影響もまともに受けます。一時は社会主義政権ができたくらいでした。
 1974年から始まるピノチェト大統領による軍部独裁政権における人権弾圧は記憶に新しいところです。民政移管されたのは1990年の事でした。

パラグアイ戦争 知られざる本土決戦

 南米パラグアイの歴史は意外と古いものがあります。1536年スペインの探検隊はラプラタ河口デルタ地帯にブエノスアイレスを建設しました。ところが現地人に攻撃され町を放棄。ラプラタ河を遡り翌1337年中流域にアスンシオンを建設、ようやく定住に成功します。ブエノスアイレスはアスンシオンからパラナ川を下ってきた入植団によって1580年再建されました。
 アスンシオンに入植したスペイン人たちは現地のグアラニー人と戦いながら農地を拡大していきます。彼らは自ら武装し民兵を組織しました。これがパラグアイの始まりで、イエズス会の布教活動も加わり独特の社会を形成します。パラグアイは自治評議会を組織し1811年ブエノスアイレスからの統合の呼びかけを断りました。
 パラグアイが宗主国スペインから独立したのは1811年ですが、対ブエノスアイレス自立派のフランシアという人物が国民の支持を勝ち取り1816年終身独裁官に就任します。ブエノスアイレスは、内陸国パラグアイの大西洋への出口であるパラナ水系を押さえパラグアイの輸出品に関税をかけて圧力を掛けますが、逆にパラグアイの結束力を高める結果となりました。
 当時パラグアイの人口は約50万。タバコとマテ茶の栽培・流通・販売を国営化し莫大な外貨収入を得る農業国家でした。フランソワの死後カルロス・アントニオ・ロペスが後を継ぎます。1862年カルロスが死ぬと息子ソラノ・ロペスが新大統領に就任しました。
 パラグアイは内陸国でアルゼンチンやブラジルなどの外洋に面している国に常に圧力を掛けられていた関係から、7万という常備軍を持ち国民も全員民兵と成り得る軍事国家となります。アルゼンチンやブラジルよりも多い恐るべき数でした。
 1861年、ブラジルとアルゼンチンの緩衝国ウルグアイで保守党政権に対し自由党がクーデターを起こします。ブラジルは国境問題でウルグアイと揉めていた為反乱軍を支援、軍を派遣しました。パラグアイのロペス大統領は保守党を支援していた関係からブラジルに宣戦布告、マットグロッソ州に侵入します。ここは人口希薄地で無意味だったので、ロペスはウルグアイを直接支援するため、アルゼンチンに領土を通らせろと掛け合いますが当然拒否されました。するとロペスはアルゼンチンにまで宣戦布告、パラナ川を越えてコリエンテス市を占領します。
 外交的にも軍事的にも無謀を通り越して破滅への道でした。こうしてパラグアイはブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ(自由党が政権を掌握)を敵に回し袋叩きに遭います。ロペスの頭としては常備軍7万3千、いざとなったら国民皆兵で全国民を動員できるため負ける気はしなかったのでしょう。ところが現実は厳しく、戦略的に負けておりこれを戦術で挽回するのは至難の技でした。局地的戦闘では勝利しても、三国同盟軍に押されついに1866年パラグアイ本土へ攻め込まれてしまいます。
 壮絶な本土決戦が始まりました。パラグアイは必至で抵抗し膨大な損害を出したアルゼンチン軍は翌年事実上戦線を離脱、ウルグアイ軍は大したことありませんから、ブラジル軍が単独で戦うようになります。ブラジル軍は1869年ついに首都アスンシオンを占領。なおも抵抗を続けるロペス大統領も翌年戦死、ようやく戦争が終わりました。
 この戦争でパラグアイは60万の人口を半減させ、成人男性に至っては3分の1しか生き残らなかったそうです。パラグアイは戦後処理で領土の半分を奪われます。国土は焦土化しイギリスから巨額の借款を押し付けられ、経済的にイギリスとアルゼンチンに従属しました。そして政治的にはブラジルに従属するようになります。本土決戦に負けるとこうなるのです。以後、パラグアイは周辺諸国に左右される弱小国に落ちぶれました。その後もボリビアとのチャコ戦争で大きな被害を出し政情は不安定化します。
 第2次大戦後も、内戦、クーデターが相次ぎ軍部独裁から民政移管し正常化したのは1989年でした。

インカの反乱

 ピサロによってあっさりと滅ぼされた印象のあるインカ帝国ですが、流石に無抵抗というわけではありませんでした。最後の皇帝アタワルパを人質にされいわば騙し討ちのような形で滅ぼされたので、むしろ滅亡後にスペイン人に対する反発が激しくなったとも言えます。
 ピサロがインカ帝国を支配するため傀儡皇帝を仕立てたことは前に書きました。最初の傀儡トゥパク・ワルパが天然痘であっさり死んだあと、アタワルパやワスカル、トゥパク・ワルパの異母兄弟であるマンコ・インカが次の傀儡皇帝に擁立されます。
 ところがピサロは部下のアルマグロと占領後の分け前を巡って醜い争いを始めました。この状況を見ていたマンコ・インカは隙をついて1536年首都クスコを脱出、ビルカバンバの山中に城を築いて籠ります。すでにインカ国内でスペイン人への反発は強くなっており、また内輪もめの真っ最中だったため討伐はできませんでした。山中の新たなインカ帝国ともいうべき存在でしたが、王権はマンコ・クッパ、サイリ・トゥパク、ティトゥ・クシ、トゥパク・アマルと4代に渡って継承されます。
 最後のインカ王トゥパク・アマルが殺されたのは1572年。スペイン軍に捕らえられ激しい拷問の末斬首されました。27歳だったと伝えられます。以後トゥパク・アマルはインカ人にとってスペインに対する抵抗の象徴となりました。1996年ペルーの日本大使公邸占拠事件を起こしたテロリストもトゥパク・アマル革命運動を名乗っていたくらいです。
 欧州列強の植民地支配は過酷で人権を無視した酷いものでした。一例をあげるとポルトガルのブラジル支配。他国に隠れて目立ちませんが、ポルトガルのそれも酷いものでした。ブラジルには狩猟採取生活から脱していないインディオしかおらず人口も少なかったためプランテーション農業に不適でした。そこでポルトガル人はアフリカから黒人奴隷を連れてきてゴム農園で働かせます。この時男女比は2対1でした。黒人の奴隷女はポルトガル人農場主の邸宅で召使として使用し、時には性奴隷として慰み者にします。一方、男は隔離し死ぬまで働かせました。満足な食事も与えられない男奴隷は平均10年も生きなかったそうです。ポルトガル人にとっては、死んでも別の奴隷を連れてくればよく数多くの黒人が異郷ブラジルの土となりました。18世紀末、ブラジルの人口はわずか30万人のポルトガル人に対し300万もの黒人奴隷がいたそうです。
 スペイン領ペルー副王領(ペルーを中心にブラジルを除く南米全土が管轄)の旧インカ領ではスペインに対する小規模な反乱が後を絶たなかったそうですが、満足な武器を持たないインカ人たちはその都度鎮圧されました。
 ここに一人の人物が登場します。彼の名はホセ・ガブリエル・コンドルカンキ(1742年~1781年)。クスコの南140㎞くらいにあったティンタ郡のクラカ(村長のようなもの)でしたが、先住民としては最高の教育を受け公用語のスペイン語、インカ帝国の公用語だったケチュア語の他にラテン語まで話せたそうです。
 コンドルカンキは一説では純粋なインカ人ではなくメスティーソ(スペインとインカの混血)だったとも言われます。スペイン人の植民地に対する収奪抑圧に不満を抱いたコンドルカンキは自らインカ帝国皇帝の血を引くと宣言トゥパクアマル2世と名乗りました。16世紀当時初めて見る銃と馬に混乱したインカ人ですが、そこから200年も経つと馬は当たり前に存在し、銃器を扱った者も出てきます。クラカクラスだと自らの銃器を所持していたとしても不思議ではありません。
 ティンタ郡でトゥパクアマル2世ことコンドルカンキが蜂起したとき、瞬く間に6000名もの同調者が出現します。それだけスペインの植民地支配に対し不満が鬱積していたのでしょう。反乱に驚いた植民地政府はクスコから討伐軍を派遣します。ところが数が違いすぎて壊滅、575名もの死者を出しました。スペイン不敗神話の崩壊です。クスコの市参事会はパニックに陥りました。リマからの援軍到着はいつになるか分かりません。この時点でインカ反乱軍がクスコに進軍していれば簡単に陥落していたと思います。
 ところが反乱軍はクスコには向かわず南進し、チチカカ湖沿岸地帯を襲います。インカ発祥の地チチカカ湖を手に入れ正統性を確保したかったのかどうか分かりませんが、致命的な時間のロスは植民地政府に準備の時間を与えます。反乱軍は、スペイン人を見ると男は虐殺し、女は散々レイプした後殺したそうです。私も普段なら反乱軍の非道な行為に憤るところですが、スペイン人がかつてインカ人に同様以上の酷い行為を行っていたことを知っているため自業自得としか思えません。むろん先祖の行為の報いを子孫が受けるのは理不尽とは思いますが、インカ人にはそれすら許されていなかったのです。
 ペルー副王政府は、各地から援軍を集めインカ反乱軍鎮圧に動きました。反乱軍も銃は持っていましたが、その数は少なく全員が銃で武装するスペイン軍に各地で敗退します。この時スペイン軍は反乱軍の3分の1もいなかったと思いますが銃の数は逆にスペイン軍が圧倒していました。返す返すも惜しいのは、早い段階で反乱軍がクスコを抑えていれば大量に備蓄されていたスペイン軍の銃や大砲を奪い、ちょっとやそっとでは鎮圧できないほど強大な力を手に入れられた事です。
 1781年3月鎮圧軍との決戦に敗北、トゥパクアマル2世はついに捕まり略式裁判で死刑が宣告されます。処刑方法は馬に縄で首や手足を結び付けられ八つ裂きにされるという残酷極まりないものでした。この時トゥパクアマル2世41歳だったと伝えられます。
 トゥパクアマル2世の反乱は5か月で鎮圧されますが、これによりスペインの威信は地に堕ちその後各地で反スペインの反乱が後を絶たなくなりました。植民地政府はその鎮圧で力を使い果たし、19世紀のシモン・ド・ボルバル達による南米独立へと繋がるのです。
 敗れはしたものの、トゥパクアマル2世がいなければペルー独立には繋がらなかったわけで、彼は現在英雄視されています。1985年にはペルー旧500インティ紙幣に肖像が載るくらいでした。

インカ帝国(後編)

 前編でインカ帝国の成り立ちを記したわけですが、ここではまず滅ぼした側であるスペインの事情から説明しましょう。
 スペインが新大陸と関りを持ったのは、アラゴン王国のフェルナンド2世と結婚し現在のスペインを形成したカスティリアの女王イサベル1世が1492年イタリア人コロンブスの提案した西回り航路でのインド到達計画に出資したことがきっかけでした。当時アラゴン王国はバルセロナを含むカタルニア、イタリア南部のナポリ王国を領土としており地中海志向が強い国家でしたが、一方内陸のカスティリアはレコンキスタ(国土回復運動)の中心でイスラム教徒をイベリア半島からの駆逐した事とその後の海外進出に大きな意識の違いはなかったと言われています。いわば大西洋志向とでも言いましょうか。
 ところが皆さんもご存知の通り、コロンブスはインドへ到達できず南北アメリカ大陸を発見してしまいました。彼は最後まで新大陸をインドの東の辺境と勘違いしていたと言われ、ここに住む住民をインディオ(北米ではインディアン)と呼びます。コロンブスは国王から新発見した領土の総督にしてもらい植民地経営を始めますが住民の反発を買い大失敗、援助したスペイン(当時はカスティリャ・アラゴン連合王国だが面倒なのでスペインで通す)王室も莫大な損害を出してしまいました。
 これに懲りたスペイン王室は、以後の征服事業を請負制にします。新領土征服にかかる費用は自弁。征服後得られた戦利品の5分の1を王室に上納すればその土地の総督に任命するという方式です。これだと王室の懐は痛みません。カピトゥラシオンと呼ばれるこの制度の代表はアステカ帝国を征服したコルテス、そしてインカ帝国を滅ぼしたピサロです。請負制のため、彼らは収奪が最大の目的となり征服やその後の占領支配は過酷なものになりました。現地住民にとってはたまったものではありません。
 フランシスコ・ピサロ(1470年?~1451年)はカスティリア王国の下級貴族の家に生まれます。若いころイタリア戦争に参加するなどしますが芽が出ず、1502年新大陸に渡りました。1513年バルボアのパナマ遠征に参加して太平洋に達し、この地で黄金郷インカ帝国の噂を聞きつけたと言われます。1524年、1526年と南アメリカ探検を行いインカ帝国の北辺トゥンベスまで到達しました。
 一旦本国スペインに戻ったピサロは1528年時のスペイン国王カルロス1世(後に神聖ローマ皇帝カール5世となる)に探検で得られた戦利品を献上、南米におけるカピトゥラシオンを認められます。同志を募ったピサロは、1531年マスケット銃で武装した180名の兵士、37頭の馬(兵士二百数十名という説もあり)と共にパナマを出港し太平洋を南下しました。
 時はすこし遡りインカ帝国。1527年第11代皇帝ワイナ・カパックが原因不明の病気で亡くなります。当時彼は帝国の北部トゥメバンバ(現在のエクアドル、クエンカ)にいました。皇帝はこの地を気に入り長逗留しており、いわばクスコとトゥメバンバ、二つの首都があるような状態でした。皇帝の急死で母の違う有力な二人の皇子の間で皇位継承争いが起こります。まずワスカルが第12代皇帝としてクスコで即位。一方、もう一人の皇子アタワルパは父から溺愛されトゥメバンバに来ており皇帝の側近たちに担がれトゥメバンバで挙兵しました。
 当然両者の間では内戦がおこります。ピサロが上陸したのはちょうどこの時期でした。ある時アタワルパのもとに銀の脚をした巨大な獣に跨り、白い肌に黒や赤い髭を生やし雷鳴を放つ道具を持った異人たちが上陸したという報告が入ります。銀の脚とはおそらく甲冑をまとった馬の事でしょう。スペインの騎士でした。雷鳴を放つ道具はマスケット銃の事。
 内戦の最中でしたが、異人たちが敵であるワスカルに味方してはたまらないと、アタワルパは彼らと面会することにしました。一方、ピサロの側は自分たちが著しく劣勢であることは承知しており、何とかしてアタワルパを騙し帝国を乗っ取る事を考えていました。1532年11月16日、運命の日がやってきます。
 ピサロはアタワルパに使者を送りカハマルカの広場にやってくるよう申し出ました。アタワルパは警戒し数万の兵と共に広場に移動。ピサロ側からは従軍司祭ドミニコ会士のバルベルデが通訳を従え出てきました。この時スペイン側の記録では、バルベルデが聖書を読み聞かせアタワルパに入信するよう迫り聖書を差し出すもアタワルパはこれを拒否、渡された聖書を払いのけたため、それを合図としてピサロ側が発砲したとされます。ところがインカ側ではピサロがアタワルパの勧めた友好の証であるチチャ酒の入った黄金の杯を払いのけ、驚くアタワルパを拘束、動揺するインカ兵士たちにマスケット銃を乱射したと記録されています。
 私は後者の可能性が高いと思いますが、アタワルパを人質にされたインカ側は抵抗できず一方的にマスケット銃で虐殺されたそうです。捕らえられたアタワルパは、ピサロに対し身代金として膨大な黄金と銀を約束します。使者が帝国各地に走り翌年三月には部屋一杯が金銀で満たされるほどだったと言われます。ところがピサロは約束を破りアタワルパを処刑してしまいます。
 インカ帝国を二分した内戦は、アタワルパ優位に進んでおりクスコのワスカルはすでにアタワルパ軍に捕らえられていました。人質となりながらもアタワルパは使者を送りワスカルを処刑させます。ピサロにとってはこれが格好の口実となりました。ピサロは、アタワルパが秘かに兵を募りスペインに対する反逆を企んでいると言いがかりをつけ、兄弟殺しの罪とともに裁判にかけ死刑を宣告します。完全な茶番でした。処刑方法は火刑と決まります。ところがインカでは遺体が損傷すると来世生まれ変われないという信仰があり、死の直前カトリックの洗礼を受け絞首刑となりました。
 こうしてピサロは、邪魔なアタワルパを殺し堂々と帝国の首都クスコに乗り込みます。しかしスペイン人が圧倒的少数派なのは承知しており、インカの皇族トゥパク・ワルパ(ワイナ・カパックの子)を傀儡皇帝に仕立てての入城でした。インカ帝国は第13代アタワルパの死をもって事実上滅亡。傀儡皇帝はピサロがインカ帝国の支配を確立するまでの道具にすぎませんでした。結局1533年傀儡皇帝トゥパク・ワルパは天然痘で死亡します。
 悪逆非道の限りを尽くしたピサロですが、報いを受けることとなります。1535年ピサロはパナマのスペイン領と連絡の取りやすい沿岸部にリマ市を建設、植民地の首都としました。しかしその後植民地の分配をめぐって部下のアルマグロと対立、1537年スペイン人同士で内戦を起こします。1538年アルマグロの軍を破り彼を処刑しますが、スペイン本国ではピサロの植民地支配が失敗したとみなされ支持を失いました。国王カルロス1世(神聖ローマ皇帝としてはカール5世)は、アタワルパを無実の罪で処刑したとしてピサロに死刑を宣告します。1541年6月26日アルマグロの遺児一派にリマで暗殺されました。
 カルロス1世によるピサロの死刑宣告は、別に人道的罪を糾弾したわけではありません。コンキスタドール(征服者)による植民地支配は各地で問題となっていました。征服するまでは収奪の対象でも、その後は国王の臣民となるのです。税金徴収の対象である植民地住民は生かさず殺さず。スペイン本国では、官僚による効率的植民地支配が目指されました。いずれピサロ達コンキスタドールは排除される運命にあったのです。
 1543年ペルー副王領成立。副王はスペイン本国から派遣される官僚です。副王領はブラジルを除く南米大陸全土が管轄地域となる広大なものでした。ペルーでは1821年、ボリビアは1825年独立するまでスペインによる植民地支配が続きます。
 近年、ペルーでは混血のメスティーソも含めインカ人の子孫という意識が高まっているそうです。征服者ピサロの銅像は国民の反発で1998年撤去されます。ピサロの征服後1600万人もいたとされるインカ人は、過酷な植民地支配とスペイン人の持ち込んだ天然痘などの伝染病でなんと60万人にまで激減したそうです。
 その意味では、スペインの植民地支配は悪以外の何ものでもなかったと言えます。

インカ帝国(前編)

 南北アメリカ大陸に人類が渡ってきたのは氷河期が終わる約1万2500年前より以前だと言われます。当時海退が進みベーリング海峡は地続きでした。ベーリング海峡は現在でも水深42mしかありませんからかっこうの陸橋だったのでしょう。人々はマンモスを追いこの海峡(当時は陸橋)を渡ります。
 南北アメリカ大陸における最初の文化は、確認されている限りだと約1万3千年前のクローヴィス文化でした。これは石器文化でアメリカ西南部ニューメキシコ州からコロラド州あたりが中心だったそうです。人々は恐るべき速度で南下し南米の最南端に1万1千年前から9000年前には達します。最初は狩猟採取生活。その後気候変動もあり、大型獣が取れなくなったことからメキシコ高原でトウモロコシ、ペルーとボリビアにまたがるチチカカ湖周辺でジャガイモ、各地でインゲン豆、カボチャ、唐辛子、トマト、タバコなど南北アメリカ大陸独特の農耕が始まりました。
 農耕によって人々が定住し始めると、集落が形成され首長が生まれます。各首長国では農業生産に差ができ、豊かな集落と貧しい集落ができます。すると持たざる者は持てる者に嫉妬し争いが起こりました。こうして離合集散を繰り返し領域国家が生まれ王が誕生しました。このあたり他の地域と同じ発展過程をたどったと思います。
 ところがアメリカ大陸の人々は、青銅器は知っていてもついに鉄器とくに浸炭法で作られた鋼鉄を最後まで知ることはありませんでした。ただ、剃刀一つ入らないという精密な石壁技術、高度な建築技術など独特な文明を築きます。
 南米大陸は6千メートル級のアンデス山脈が南北を縦断します。山脈の西側は狭く、東側は広かったのですが、アマゾン河という大河が形成する大ジャングル地帯が人類の集住を阻みました。一方、西側も海岸地帯は砂漠が広がりあまり人類の定住に向きません。人々はアンデス山脈の本流と支流の間の高原地帯に住みます。このあたりは3000mから4000mにも達する高原でしたが、空気は薄いものの気候は温暖で農耕に適したのです。
 インカ帝国を興したケチュア族も、このような民族の一つでした。エクアドルからペルーにかけての高原地帯が発祥の地だと言われます。伝説ではチチカカ湖に降り立った神の兄妹が祖先だとされました。最初インカは弱小民族に過ぎませんでした。ケチュア族が12世紀ごろクスコに移動しインカを建国したと言われますが、その前から存在していたという説もあります。ペルーでは海岸地帯のシカン文化をはじめとするプレ・インカの数多くの文化が紀元前から栄えておりインカはそれらの遺産を継承し発展させました。
 インカ皇統記には多くの王が記されていますが、考古学的に確認されているのは第8代ヴィラコチャ王(15世紀頃?)だそうです。当時はクスコ周辺を支配するだけの小国でした。クスコの北西にはチャンカ族という強力な部族がいたそうです。ヴィラコチャ王は強大なチャンカ族の侵略を受け降伏を決意します。ところが彼の次男クシ・ユパンキは父の弱腰を非難し軍勢を率いチャンカ族を迎え討ち、撃破してしまいます。降伏を考えるほどの劣勢を覆すのですからよほど軍才があったのでしょう。
 チャンカ族を滅ぼし、莫大な戦利品と共に凱旋したクシ・ユパンキは兄で王太子だったインカ・クルコを廃し父に強要して王位を譲らせます。これが第9代クシ・ユパンキ王でパチャクティ(革命者)という名前でも呼ばれました。彼がインカ帝国を実質的に建国したと言っても良いでしょう。10代トゥパク・インカ・ユパンキ、11代ワイナ・カパックの時代で、北はコロンビアから南はチリ、アルゼンチンに至る広大なインカ帝国を築きます。
 人口は1200万とも1600万ともいわれる堂々たる超大国でした。インカ帝国はマヤやアステカ帝国とも交易したといわれ、巨大な神殿、ミイラを崇拝する独特の宗教、キープと呼ばれる紐の結び方、数で意思を伝達するユニークな言語、効率的なインカ道路網、莫大な黄金を使った黄金製品など高度な文明を誇りました。
 そんな超大国が、どうしてわずか200名にも満たないスペイン人に滅ぼされなければいけなかったのでしょうか?常備軍10万もいたというのに!
 後編ではインカ帝国の滅亡を描きます。

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