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2018年8月

2018年8月 1日 (水)

大内氏の防長平定  後編

 1333年鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇による建武の新政が始まります。周防国は1334年またしても安芸国とともに大内裏造営の料国と定められ、加えて鎌倉御家人・地頭に対しても得分の二十分の一の造営費が課せられました。しかも当時は法勝寺領国となっており、周防の武士たちの不満は高まります。
 1335年、中先代の乱を平定した足利尊氏は、そのまま鎌倉に居座り建武政権に反旗を翻しました。おかげで大内裏造営は中止になりますが、今度は東大寺領に戻るという周防の国人たちにとっては踏んだり蹴ったりという状況に陥ります。
 中央では1336年足利尊氏が京都に攻め上り後を追ってきた北畠顕家軍に敗北、再起を図るために九州に落ちました。この時長門の有力豪族厚東(ことう)武実とともに大内一族の長弘(鷲頭氏を継いだので以後鷲頭と表記)が尊氏を助けます。尊氏は厚東武実を長門守護、鷲頭長弘を周防守護に任じ来る日の上洛戦に備えさせました。
 同年4月、早くも尊氏は南朝方の菊池武敏を多々良ヶ浜の合戦で撃破、筑前の少弐、豊後の大友、薩摩の島津ら有力豪族を纏め上洛の途に就きます。尊氏は厚東氏、大内氏を信用しておらず一族の上野頼兼を丹波、但馬、石見の守護に任じ中国地方の抑えとしました。尊氏が京都奪還を果たしたのと同じころ、周防では南朝方の小目代清尊(東大寺から派遣)、検非違使教乗らが義兵を募り国衙(防府市)の北、牟礼村矢筈岳中腹にあった敷山験観寺に籠城、石見の南朝方小笠原長光もこれに合流します。
 北朝方の上野頼兼は石見、安芸、長門の兵を率い敷山城を攻めました。周防の武士たちもこれに従ったそうです。城は北朝軍の猛攻を受け陥落、清尊、教乗は討死しました。小笠原長光は本国石見に逃れその最期は不明です。鷲頭長弘が一応周防の守護となっていましたが、統制力が弱く周防国内は北朝方南朝方の勢力が入り乱れ不安定でした。
 鷲頭長弘は大内一族の有力者ではありましたが、嫡流は長弘の甥周防権介の弘幸です。国衙の事実上の長である弘幸が敷山討伐戦に参加したという記録はありません。弘幸の子弘世の時代になった時、大内宗家は周防守護鷲頭長弘に敵対を決めます。一族内の主導権争いでしたが、結果として大内宗家は南朝方に付くこととなりました。
 大内弘世(1325年~1380年)は、後醍醐天皇の皇子満良(みつなが)親王を奉じ宮方の周防守護に補されます。周防国は武家方と宮方、二人の守護を頂くこととなりました。しかもどちらも大内一族という異常さです。ただ弘世の方が宗家だけに勢いがありました。一族の間で長弘だけが足利氏に取り入り良い目を見てきたという嫉妬もあったのでしょう。
 弘世は鷲頭氏の根拠地である都濃郡を攻めます。鷲頭長弘は敗北し周防国を叩き出されました。鷲頭氏を滅ぼし周防を平定した大内弘世はその野心を隣国長門に向けます。この当時南北朝時代真っただ中で畿内においても九州においても両勢力が激しく争い長門周防は権力の空白地帯となっていました。
 長門守護厚東武実は、大内弘世の侵略を迎え撃ちます。厚東氏は厚狭郡の東を根拠地としたことから厚東氏を称しました。物部守屋の子孫を称し大内氏と同じく在庁官人から勢力を蓄え武士団化した一族だと言われます。慶長検地のデータですが周防国16万4千石、長門国13万4千石で石高上長門国が不利でした。南北朝時代はこれより生産力が劣ると思いますが、両国の力関係は変わらなかったでしょう。
 大内弘世は、厚東氏との対決に先立ち本拠を大内村から隣接する山口盆地に移しました。これが山口の始まりですが、椹野(ふしの)川上流に位置し三方を山に囲まれる要害の地でした。西南には小郡があり山陽街道に接します。山陽街道は長門に入ると厚東氏の本拠棚井村(宇部市)霜降城に通じました。
 厚東氏は守護所を長府に置いており、本拠霜降城と15㎞くらい離れていました。これが厚東氏の弱点となります。どちらかを捨て全力で大内軍に当たるべきだったはず。霜降城は標高250mの霜降山頂にあり防長一の堅城でした。大内弘世の長門侵攻は1355年に始まります。この時厚東氏の当主は武実の曾孫義武でした。若い義武では老練な大内弘世に抗しきれず、1358年ついに霜降城を脱出し九州に逃れます。
 南朝では弘世の功績を評価し長門守護に任じました。翌年までに弘世は長門国内の厚東残党を平定、防長二国を手に入れます。九州では懐良親王の征西府が統一する勢いで、足利幕府は大内氏の防長平定を重く見ました。大内氏が手引きして九州の南朝勢力を引き入れれば足利幕府が転覆しかねないからです。1363年、幕府は防長二国の守護職を条件に大内弘世に寝返りを工作をします。大内弘世にとっても別に南朝に忠誠心があるわけではなく、成り行き上南朝方になっただけだったので、幕府の申し出に二つ返事で帰順しました。このあたり奥州の伊達氏に似ていますね。
 馬鹿を見たのは北朝方の長門守護厚東義武です。怒った義武は南朝方に転じ菊池武光の援助を受け長門奪還の動きを見せました。関門海峡を挟んで大内氏と厚東氏は激しく戦います。足利幕府は一族の今川了俊を九州探題に任命し派遣しました。大内弘世は嫡子義弘に大軍を授け了俊に協力します。当初の目的は厚東氏の息の根を完全に止めることでしたが、これにより大内氏は九州への足掛かりを持つこととなります。
 厚東義武の最期ははっきりしていません。今川了俊の九州探題の勢力によって完全に滅ぼされたことだけは確かです。以後大内氏は足利幕府の有力守護大名として歩み始めることとなりました。

大内氏の防長平定  前編

 大内氏に関しては過去何度か記事にしています。
です。
 
 それだけ思い入れの深い一族なのですが、今回『山口県の歴史』(三坂圭治著 山川出版社)で大内氏の周防・長門(現在の山口県)平定の詳しいいきさつが分かったのでご紹介したします。
 さて、話は大きく遡り源平合戦の時代。源頼朝、木曽義仲の挙兵で畿内にも不穏な空気が漂っていました。南都の興福寺、東大寺などの寺院勢力は斜陽の平家を侮り露骨に反抗的態度を示します。怒った清盛は五男重衡に大軍を授け1181年1月南都を討たせました。この時東大寺の大伽藍は兵火を受け焼け落ちます。
 清盛の死後早くも大仏再鋳の議が起こり、後白河法皇は藤原行隆を勅使として奈良に派遣しました。現地を見た行隆は余りの惨状に呆然とし、同行していた鋳工たちもとても再建できないと尻込みします。そこに一人の老僧が近づき「私が東大寺再建の大事業を成し遂げましょう」と名乗り出ました。この老僧こそ重源(ちょうげん)でした。
 後白河法皇は、重源の申し出を喜び彼を東大寺の大勧進(寺社仏像の造営・修復のために寄付を集める役目)に任命します。こうして重源は全国を回り東大寺大仏殿再建のための寄付を広く集める旅に出ました。寄付はある程度集まったのですが、大仏殿再建は国家的プロジェクトであったためついに周防国(山口県南部)の税収をもって再建費用に充てる決定がなされます。というのも当時周防国は藤原行隆の知行国(国司の代わりに目代【代官】を派遣して支配する形態。平安末期に流行った)だったためです。
 源平合戦は源氏の勝利に終わり頼朝の鎌倉政権は全国に守護・地頭を設置し武家政権を樹立していました。当然周防にも守護・地頭を設置していた為朝廷と利害が衝突するはずでした。たださすがに東大寺再建のための造営領国とされては表立って反対もできません。時の周防守護佐々木高綱も重源に協力しました。
 朝廷は重源を周防国の事実上の国司(これを国司上人と呼ぶ)に任じ、集められた年貢はすべて東大寺大仏殿再建に充てられます。周防国は代々東大寺から派遣される国司上人が支配する国となりました。1209年ようやく東大寺大仏殿再建が成ります。これで現地の人々は周防国が造営領国から外れるかと思っていたところ、今度は山城国法勝寺の造営領国に充てられます。これが終わると再び東大寺が受領国となりました。寺院勢力は一度獲得した既得権益を手離すつもりはなかったのです。
 こうなるとさすがに周防の国人たちも激昂します。周防国は鎌倉時代を通して寺院勢力が支配する国でしたので守護の力が弱い国でした。そこで人々は、国衙(国府の役所)在庁官人のトップだった大内氏に不満を訴えます。大内氏は百済聖明王の子琳聖太子の子孫を称していましたが、周防に土着し周防権介(権官は定員外の官職という意味)を代々世襲する一族でした。国司制度は朝廷の支配が弱まったために地方に国司が派遣されなくなり、現地の有力者を国司の次官に任命し地方政治を代行させていたのです。
 鎌倉御家人の鎮西奉行・筑前守護武藤氏を大宰少弐(大宰府の三等官)に任命したのと同じです。ちなみに大宰少弐は従五位下相当であるのに対し、周防は上国なので介は従六位上で三段階ほど少弐の官位が上でした。
 在庁官人出身の豪族が勢力を拡大しついには国を支配するというケースは稀ですが、周防国が造営領国という形態だったために起こった特殊な例です。周防国は代々北条氏一門が守護となりますが、寺院勢力と対決したくないために直接支配を及ぼさなかったと思われます。周防の地頭たちは、大内氏を盟主に担ぎ上げ寺院勢力と対決します。大内氏は、在庁官人として朝廷に年貢を送る(実際には受領主の寺院に送る)役目と、現地の不満を調整する役目の矛盾に悩みますが、次第に後者に傾きます。というのも、寺院の横暴に自身も不満を抱いていた為です。
 その寺院支配を打破する絶好の機会が訪れました。鎌倉幕府の滅亡です。大内氏はいったいどのように動くのでしょうか?後編では大内氏の周防支配の完成、そして長門進出を描きます。

江戸時代の貨幣価値

 最近、山口県の歴史(山川出版社、三坂圭治著)を読んでいるんですよ。大内氏の発展の話が面白くて、尼子氏との攻防を新たに記事にしようかと過去記事を読み直していたんです。
 2010年2月15日に書いた『石見銀山の産出量』に至ったところ、石見銀山の産出量年1万貫、金に換算して年1万両とざっくり書いていました。
 ところがよく読むと、私は貨幣価値である銅銭の1貫と重さの単位の1貫(3.75㎏)をごっちゃにしていたことに気づきました。恥ずかしいので早速追伸で修正したんですが、ここで改めて紹介すると江戸時代換算で
 金1両=銀60匁(もんめ)=銅銭4000文(4貫)

になります。もちろん戦国期のレートはこれとは若干違っていたかもしれませんが、石見銀山の年間産出量を金の価値に直すと
 10000×1000(匁)÷60=166666.7
 
になります。ということで小数点以下を四捨五入して金貨換算約16万6667両の産出量があったことになります。濡れ手に粟で16万両以上も銀が手に入るならそりゃ大内も尼子も命を懸けて争奪するはずですよ。
 なかなか勉強になりました(笑)。計算間違ってないよね?もし間違っていたらご指摘ください。文系だから数字に弱いんですよ(←言い訳)。
追伸:
金1両=銀60匁
金10両=銀600匁
金100両=銀6000匁=銀6貫
金1000両=銀60貫
金1万両=銀600貫
金10万両=銀6000貫
だから、だいたい合ってるよね?

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