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2018年9月

2018年9月 2日 (日)

出雲尼子軍記Ⅸ 上月城に消ゆ(終章)

 大黒柱元就を失っても、毛利家は輝元を二人の叔父吉川元春、小早川隆景が補佐し盤石の構えを見せていました。一方、山中鹿助ら尼子再興軍は多くの同志を戦で失い、ある者は毛利方に寝返り、鹿助の叔父立原久綱、娘婿亀井茲矩(これのり)らわずかばかりとなります。陶晴賢を討ち尼子義久を滅ぼした毛利氏は、今や山陰山陽12か国を治める巨大勢力となっていました。これに対抗するにはもっと大きな力が必要でした。鹿助らは、織田信長に期待します。信長は当時畿内をほぼ平定し中国地方の毛利氏への野心を示し始めていました。そのために尼子残党に利用価値を見出したのです。鹿助は織田の重臣柴田勝家を通じて信長への謁見を果たします。勝久と共に信長へ拝謁した鹿助は、武辺好きの信長に気に入られ四十里鹿毛の名馬を賜りました。とりあえずは中国戦線を担当する羽柴筑前守秀吉の配下に組み入れられます。
 尼子一党も参加した秀吉の中国遠征軍は、1577年10月播磨国に攻め込みました。播磨小寺氏の家老黒田孝高(如水)の手引きで御着城の小寺氏、三木城の別所氏ら有力豪族が瞬く間に帰順し11月中にはほぼ播磨を平定、但馬へも進出します。織田軍は播磨国で最後まで抵抗した上月城の赤松政範を攻め滅ぼしました。上月城は対毛利の最前線となるため、秀吉は尼子一党に上月城へ入るよう要請します。敵中に孤立する可能性のある上月城入城は勝久も立原久綱も反対したそうです。しかし鹿助は「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と主張し秀吉の申し出を受けました。
 播磨は秀吉が平定したかに見えました。ところが播磨の国人たちは織田家の勢いが強いため表面上従っているだけで、秀吉が高圧的な態度を取るのに反感を抱きます。そこへ毛利氏の調略が及び、1578年2月播磨最大の勢力三木城の別所長治が突如反旗を翻し籠城しました。毛利方は吉川元春、小早川隆景を大将とする5万の兵で上月城を囲みます。
 城兵はわずか5百。秀吉は上月城を救援するため書写山に1万の兵で陣を構えますが、数が違いすぎて遠巻きにするのみでした。秀吉のもとに信長から命令が届きます。「上月城は捨て三木城攻略に専念せよ」ただ、このまま上月城を見殺しにすれば秀吉の評判が地に堕ちます。悩む秀吉は、たまたま上月城を離れ秀吉の陣に連絡に来ていた亀井茲矩を召し出しました。
 秀吉は茲矩に、上月城に忍び入り勝久らに城を脱出するよう勧めよと命じました。若い茲矩の目にもそれが不可能なことは分かります。上月城は長い籠城戦で数多くの負傷兵が出ていました。幹部だけが彼らを見殺しにして脱出できるはずがありません。それにもし脱出したところで、毛利方は城を十重二十重に囲んでおり捕まることは必定でした。秀吉は後世の評判のために上月城を救うポーズを示しているにすぎません。はらはらと涙を流す秀吉の目が決して本心ではないことは容易に見て取れました。しかし秀吉の命令を拒むことはできません。
茲矩は万難を排し上月城に入ります。
 鹿助と会見した茲矩は秀吉の命令を伝えますが、鹿助は寂しく笑うのみでした。勝久を囲み最後の軍議が開かれます。毛利方に使者を送り鹿助、久綱以下重臣全員腹を切る代わりに勝久を助命するよう頼みますが拒否されました。毛利方は逆に降伏の条件として勝久の切腹を求めます。
 その日城では別れの宴が開かれました。席上勝久は「私は僧のまま一生を送るはずであった。それを皆のおかげで尼子の大将となり面白い生き方をさせてもらった。皆に感謝する」と述べます。尼子一党は涙を流しました。
  翌日、勝久は嫡男豊若丸、一族の氏久(晴久の末子と伝えられる)らとともに自害します。享年26歳。これを見届けた毛利方は、鹿助らに殉死を許さず捕らえました。1578年7月5日の事です。鹿助最後の願いは、吉川元春と会見し隙を見て差し違えることでした。ところが毛利方は、鹿助の腹などとうにお見通しで、厳重に警護しながら備中松山城にいる毛利輝元のもとへ連行します。途中、備中国阿井の渡しに差し掛かりました。船を待つため小休止し、鹿助も河原の石に腰掛けます。すると突如背後から斬り付けられました。天野隆重の家来河村新左衛門です。袈裟懸けに斬られ鹿助は重傷を負いました。とっさに川に飛び込んだ鹿助でしたが、毛利方は次々と斬りかかり鹿助は壮絶な斬り死にをします。享年34歳。山中鹿助幸盛、波乱の生涯は甲部川の畔に終焉を迎えました。
 勝久の死、そして鹿助非業の最期で戦国大名尼子氏の歴史は終わります。その後の尼子一党を紹介しましょう。
 まず鹿助と共に捕らえられた叔父立原久綱。毛利方は鹿助ほどの危険人物とは見ていなかったのでしょう。警備が甘かったため脱出に成功、娘婿で蜂須賀家に仕えていた福屋隆兼を頼りました。1613年阿波国で83歳の生涯を閉じます。
 次に亀井茲矩(1557年~1612年)。上月城落城の時秀吉の陣にいて助かった茲矩は、生き残った尼子残党を纏めそのまま秀吉に仕えました。秀吉も上月城を見殺しにした負い目があったのでしょう。また茲矩自身も戦功をあげ24歳の若さで因幡国鹿野城1万3千石を与えられます。関ヶ原では東軍に与し戦後3万8千石に加増。一部ではありましたが、茲矩の下で尼子一党は生き残りました。その後亀井家は、茲矩の子政矩の時代に、石見国津和野4万3千石に加増転封され幕末まで続きます。
 あくまでも伝説ですが、大坂の豪商鴻池の始祖は山中鹿助の遺児新六幸元(直文)だと言われます。鹿助の大伯父山中信直を頼り伊丹に匿われ、成長すると武士の道を諦め酒造業で財を成したそうです。本当なら面白いですね。
 亀井茲矩に嫁いだ鹿助の娘時子は養女で、尼子氏の重臣亀井秀綱の長女でした。はじめ湯氏を称していた茲矩は、時子と結婚することで名門亀井家を継いだのです。
 余談ついでにもう一つ。経久の章で出てきた山中勘兵衛勝重の孫が山中鹿助幸盛です。山中家は尼子氏の勃興と滅亡すべてに関わっていたことになりますね。
                                 (完)

出雲尼子軍記Ⅷ 尼子再興軍の戦い

 山中鹿助幸盛(1545年~1578年)。尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に誓ったというエピソードが有名です。講談などでは鹿之介という名前で広く人口に膾炙しています。尼子家の遺臣は、主君義久が1566年毛利元就に降伏した後四散しました。鹿助は叔父立原源太兵衛久綱とともに京都に潜伏します。そこで尼子家の血を引く一人の若者を見つけました。彼はかつて尼子晴久に粛清された新宮党尼子誠久の五男で唯一生き残った孫四郎でした。
 鹿助らは孫四郎に尼子家再興の希望を託し還俗させます。孫四郎は元服し勝久と名乗りました。勝久を擁した鹿助、久綱らは秘かに隠岐島に渡ります。そこで尼子の旧臣に連絡を取り兵を集めました。その鹿助らにまもなく最大の機会が訪れます。
 1568年、毛利元就は筑前・豊前の支配権をめぐって豊後の大友宗麟を討つため全力をあげ北九州に出兵します。元就は宗麟との間で陶晴賢を討つとき密約し旧大内領の分割を決めていました。おそらく毛利が周防・長門、大友が筑前・豊前を取るという約束だったと推定されますが、いざ陶晴賢を討って防長を平定すると、元就は大友氏に筑前・豊前を譲るのが惜しくなったのです。というのも防長二国は30万石程度しかありませんが、筑前・豊前は合わせて80万石を超える石高を有し大内領国の経済的中心地だったからです。国際貿易港博多があるのも大きかったでしょう。
 元就は筑前豊前の大友方国人を調略し切り崩しを開始します。これに大友氏の重臣高橋鑑種までもが加わりました。元就は次男吉川元春、三男小早川隆景に大軍を授けこれを助けます。筑前・豊前で毛利勢と大友勢は激しく戦いました。宗麟は重臣立花道雪を派遣し鑑種を討たせます。さすがの毛利氏にとっても大友宗麟は侮りがたい敵でした。戦いは泥沼の様相を呈します。毛利勢主力が北九州に渡り後方の山陰地域が空白になったことを知った鹿助は、同年6月尼子旧臣を糾合し出雲に上陸しました。
 鹿助が上陸すると隠れていた尼子方諸将が次々と集まり6千を数えるようになります。尼子再興軍は新山城を攻略し末次城(松江市末次町)を築城、出雲奪還の本拠地としました。尼子再興軍はまたたくまに16の城を奪還し月山富田城に迫ります。尼子方の蜂起は伯耆や美作にも拡大し、毛利氏は危機に陥りました。ただ毛利の月山富田城留守居役天野隆重は寡兵良く守り尼子再興軍を寄せ付けませんでした。
 毛利氏にとって泣きっ面に蜂だったのは、大友宗麟が大内義興の甥で豊後で保護していた輝弘に手勢を授け1568年9月大内家再興を掲げさせ周防に上陸させたことでした。出雲で尼子再興軍、周防長門では大内輝弘が暴れまわり、北九州どころではなくなります。元就は憤懣やるかたないところですが、元春、隆景の北九州遠征軍を呼び戻さざるを得なくなりました。これを見ると大友宗麟もなかなかやるなと思いますが、毛利氏が去り筑前・豊前は宗麟のものとなります。宗麟は九州探題となり筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後6か国の守護を兼任する大勢力に成長しました。単純計算で総石高240万石余。ただ宗麟の絶頂期も竜造寺、島津の台頭で長くは続きません。
 毛利勢は、まず大内輝弘の反乱軍を長門長府に追い詰め1569年10月自害させます。翌1570年2月元就は自ら大軍を率い尼子再興軍を滅ぼすべく出雲に入りました。尼子再興軍にとって難攻不落の月山富田城を奪回できなかったことが致命的になります。2月14日、布部川の戦いで元就率いる毛利の大軍と激突した尼子再興軍は大敗を喫しました。以後再興軍は衰退し、追い詰められていきます。
 1571年6月、元就が75歳で死去し尼子再興軍は一時盛り返しますが、大勢は既に決していました。同年9月、尼子再興軍最後の拠点新山城が落城。尼子勝久は脱出に成功しますが、山中鹿助は吉川元春の手勢に捕らえられました。元春は鹿助の器量を認め自分に仕えるよう求めますが鹿助はこれを拒否。尾高城に幽閉されます。
 鹿助は、何度も厠に行って城兵を油断させ厠を伝って脱出に成功しました。鹿助は一旦隠岐に逃れ但馬に渡ります。すでに尼子勝久は但馬に至っており、ここに尼子再興軍は再び集結しました。鹿助らが狙ったのは隣国因幡です。因幡は尼子勢力圏で守護山名氏の勢力が衰え権力の空白地帯となっていました。尼子再興軍は因幡を制圧し伯耆、出雲と逆襲に転じようと考えます。その為に日本海の海賊奈佐日本助を味方に引き入れるなど着々と準備を進めました。
 当時因幡国は、守護山名氏の勢力が衰えその重臣鳥取城主武田高信が実質的に支配していました。高信は月山富田城の戦いの章で出てきた武田常信の子です。因幡武田氏は若狭武田氏の庶流と言われ、因幡守護山名豊数と合戦して追放し毛利氏と結んで国を乗っ取りました。因幡山名家は豊数が死に弟豊国が継ぎます。鹿助らは豊国を奉じこれを大義名分として因幡国に攻め込みました。1573年の事です。
 尼子再興軍はわずか千人余りでしたが、お家再興の悲願に燃え5千の武田軍を甑山城の戦いで撃破。同年9月にはなんと鳥取城を攻略、豊国を城に入れます。高信は城を明け渡し鵯尾城に引きました。尼子一党の力で鳥取城を取り戻した豊国ですが、毛利との対決を主張する尼子一党を次第に疎んじ始めます。彼にとっては因幡国を取り戻す事だけが重要で、強大な毛利氏との対決など迷惑だったのです。
 尼子再興軍は私部城を本拠に四方を攻略し兵力も3千余りに拡大しました。ところが同年11月、山名豊国が毛利方の調略に屈し寝返ってしまったのです。すでに因幡国内で毛利方と合戦を始めていた尼子再興軍は背後にも敵を抱える危機に陥りました。但馬守護で尼子再興軍の因幡入りを支援していた山名祐豊ですら毛利氏と和睦するという最悪の状況になり、尼子再興軍は進退窮まりました。
 1575年6月、毛利氏は吉川元春、小早川隆景率いる4万7千もの大軍を因幡に送り込みます。尼子再興軍の息の根を止めるためでした。1576年5月、毛利方の圧力に耐えられなくなった尼子再興軍は最後の拠点若桜鬼ヶ城から退去します。二度目の尼子再興運動も潰えました。またしても浪々の身となった鹿助たち。ただ、彼らとて望みを捨てたわけではありません。鹿助らが頼ったのは上洛を果たし天下統一の道を邁進していた織田信長。
 毛利との最後の決戦は迫っていました。次回最終回『上月城に消ゆ』で彼らの最後の雄姿を見ていきましょう。

出雲尼子軍記Ⅶ 尼子氏滅亡

 毛利元就が陶晴賢を滅ぼして旧大内領の併呑を進めている頃、尼子晴久はどう動いていたでしょうか。大寧寺の変の翌年1552年、13代将軍足利義輝により山陰山陽八か国の守護は追認され、従五位下修理大夫に昇りました。幕府相伴衆にもなり、対外的にはその威勢はいまだ健在とも言えます。因幡、美作に出兵し1553年には備前守護代浦上宗景、美作三星城主後藤勝基ら1万5千の兵を撃破して備前天神山城まで進出するなど依然として中国地方では強大な力を有していました。この時晴久が率いた兵力が2万8千を数えたことでもそれが分かります。
 安芸・周防・長門を平定し備後、石見に進出しつつあった毛利元就も、尼子氏とまともにぶつかっては不利だと悟ります。そこで元就は尼子氏の軍事力の中核である新宮党の排除を画策しました。元就は出雲に数多くの間者を放ち新宮党が毛利氏と内通し晴久を倒そうとしていると噂を流させます。新宮党は経久の次男国久を棟梁とする一族で確かに軍事的功績を鼻にかけ尼子家中では嫌われていました。元就はさらに念を押します。吉田郡山城攻めで戦死した経久の弟下野守久幸の子経貞を抱き込んだのです。冷遇されていた経貞はこれに飛びつきました。
 もともと叔父国久一党の横暴を苦々しく思っていた晴久は、経貞の讒言を信じ秘かに近臣を集め新宮党討伐の命を下します。1554年11月1日、尼子家の旧例通り来年の方針を話し合う評定が月山富田城で開かれました。晴久は病気と称し評定に出てきません。異様なことに料理も出ず新宮党の棟梁国久は嫡子誠久とともに退座し帰途に就きます。すると道の先に晴久側近の大西十兵衛、本田豊前守らがいました。国久が黙礼して通り過ぎようとすると、「上意である」と叫んで大西らがいきなり斬りかかります。抵抗する暇もなく国久は誠久共々凶刃に倒れました。
 生き残りが新宮党の館に駆け込んだため、騒然となります。新宮党の面々は急ぎ籠城の準備をしますがこの時すでに尼子方の追手によって屋敷は囲まれていました。戦いは壮絶を極めます。同じ尼子家中、親兄弟や親戚が殺しあうのです。晴久は新宮党を滅ぼすため5千も集めたそうですから、それだけ新宮党の武勇を恐れていたのでしょう。夜が明けるまでに新宮党は国久の三男敬久以下一族郎党ことごとく討ち果たされました。いや、ただ一人誠久の五男でまだ幼児だった孫四郎(後の勝久)だけが乳母に抱かれ落ち延びます。孫四郎はまず備後の徳分寺を頼り、成長後京の東福寺に上り僧となりました。
 新宮党の討伐は後味の悪いものとなります。いくら国久に専横の振る舞いがあったとはいえ、新宮党は尼子氏の軍事力の中核でした。これを失ったことで尼子氏の力は急速に衰えます。元就は、待っていたかのように1558年本格的に石見に進出しました。ただ晴久存命中は毛利氏も石見銀山を奪うことはできませんでした。
 1561年1月9日、尼子晴久は病を得て47年の生涯を閉じます。大黒柱の早すぎる死でした。家督は嫡男義久(1540年~1611年)が継ぐも、父ほどの器量は無く尼子家の将来に暗雲が漂います。尼子と毛利の軍事バランスが崩れたことで、毛利勢は尼子領への侵略を激化させました。義久は将軍義輝に請い毛利との和睦を図りますが、元就は最初から無視し攻撃を緩めなかったため無駄骨に終わります。
 1562年、元就は次男吉川元春、三男小早川隆景と共に1万5千の兵を率い出雲に雪崩れ込みました。元就の嫡男隆元は尼子攻めに従軍途中1563年病を発し安芸国佐々部で急死します。41歳でした。毛利家家督は隆元の子輝元と定められます。第二次月山富田城攻め(第一次は大内義隆)は長引きます。それだけ難攻不落だったのです。元就は白鹿城など富田城の重要な支城を攻め孤立化を進めました。同時に尼子家中に調略の手を伸ばし次々と寝返らせます。尼子氏累代の重臣亀井氏・河本氏・佐世氏・湯氏・牛尾氏までが元就に降伏するという惨状でした。元就の兵糧攻めと味方の裏切りで城内の士気は衰えます。
 それでも一年以上籠城できたのですから月山富田城がいかに堅城だったか分かります。元就の調略は凄味を増し、義久は疑心暗鬼から経久以来の忠臣宇山久兼まで無実の罪で誅殺してしまいました。1566年11月28日、義久はついに降伏を決断します。山中鹿助幸盛ら若手の強硬派は降伏に大反対したそうですが、尼子家中には厭戦気分が蔓延し大勢は覆りませんでした。
 開城した義久は、弟倫久、秀久と共に安芸国に護送され円明寺に幽閉されます。山中鹿助らは同行を願い出ますが、元就に拒否されました。さすがの元就も、義久を殺すのは後味が悪かったのでしょう。ここまでさんざんえげつない策謀をやってきた負い目もあったと思います。義久らは毛利家の客分となり関ケ原後毛利輝元が防長二州に転封となるとこれに従ったそうです。義久の降伏で戦国大名としての尼子氏は滅亡しました。
 しかし、尼子氏の歴史はまだ終わりません。新宮党唯一の生き残り勝久がいます。そして浪人となった山中鹿助ら尼子の遺臣たち。次回『尼子再興軍の戦い』ご期待ください。

出雲尼子軍記Ⅵ 月山富田城攻防戦

 尼子勢が吉田郡山城を攻囲中の1540年10月、但馬守護山名祐豊、因幡山名氏の重臣武田常信の後援を受け、かつて経久に伯耆国を叩き出されていた諸将が伯耆に侵入します。晴久は叔父国久率いる新宮党3千を討伐に向かわせました。新宮党は目覚ましい活躍で伯耆勢を撃破、武田常信を戦死させます。しかし、国久の次男豊久を失うなど少なくない損害を受けました。南条宗勝は、再び伯耆を叩き出され大内氏に帰順、最後は毛利氏に従ったそうです。
 尼子勢の安芸撤退で馬鹿を見たのは安芸国旧守護武田信実でした。敵中に孤立した信実は、大内毛利連合軍に居城佐東銀山城を落とされ出雲に逃亡します。これで鎌倉以来の名家安芸武田氏は実質的に滅亡しました。1540年12月、大内義隆は従三位に昇進し念願の公卿となります。得意の絶頂だった義隆は、宿敵尼子氏を完全に滅ぼすため遠征の準備を始めました。
 1541年11月、尼子方では隠居していた経久が82歳の生涯を閉じます。義隆は経久の死去を待つように1542年1月、尼子討伐の大動員令を発しました。従う兵は3万、陶隆房、杉重矩、内藤興盛、冷泉隆豊、弘中隆包ら大内方の主だった武将が参加する総力をあげた布陣です。義隆は自ら大軍を率い出雲に雪崩れ込みました。落ち目の尼子氏を見限り出雲の国人たちは次々と大内勢に参加します。晴久は、1万の兵で月山富田城に籠城しました。大内軍は出雲勢も加え4万以上に膨れ上がります。
 しかし尼子氏累代の居城で難攻不落を誇った月山富田城はびくともしませんでした。戦いは長期戦になり3か月経過。尼子方は大内軍の兵站線をゲリラ戦で襲ったため兵糧が不足し、厭戦気分が蔓延します。そんな中、一旦大内氏に従っていた旧尼子方の三沢氏、三刀屋氏、本城氏、吉川氏、山内氏らが義隆を見限り月山富田城に駆け込みました。すでに士気が低下していたこともあり、大内方は一気に崩れます。晴久も城門を開いて打って出たため、大内勢は四分五裂し敗走しました。この時毛利元就は殿軍を率い大きな犠牲を出します。義隆は、石見路を経て命からがら山口に逃げ帰りました。
 この敗戦がよほど衝撃だったのでしょう。以後義隆は政治に対する興味を失い、芸術趣味に走り国内を顧みなくなります。不満を抱いていた武断派の重臣陶隆房は主君義隆を見限り1551年挙兵して長門大寧寺にこれを滅ぼしました。大内義隆の侵略を撃退した晴久は、再び因幡、石見、安芸へ出兵、勢力回復を図ります。これはある程度成功したのですが、安芸の毛利元就は独自の動きを見せ、大内氏に従うふりをしながら自国の勢力拡大に奔走しました。
 吉川氏に次男元春を入れ、小早川氏には三男隆景を入れるなど安芸、備後に侮れない勢力を築きます。陶隆房が謀反を起こすとき元就にも同心の使者を出したそうですが、元就は曖昧な返事をするのみでした。隆房は主君を攻め滅ぼし、大友氏から養子に入っていた晴英を傀儡の当主に祭り上げます。自らも晴賢と改名しました。陶晴賢の謀反は大内方諸将の反感を買います。特に義隆の姉婿だった石見津和野城主吉見正頼は晴賢に反発し挙兵しました。
 晴賢は大軍で津和野城を囲みますが、元就にも参陣を促しました。ところが元就はこれを拒否、露骨に敵対の態度を示します。元就はこの機会を待っていたのです。主君義隆の仇を討つという大義名分を掲げ安芸国内の陶方の城を次々と攻略します。元就は間者を使い巧みに晴賢を厳島に誘い出しました。1555年10月、晴賢は元就の謀略にまんまと乗せられ厳島に2万の大軍と共に上陸します。元就は村上水軍の協力を取り付け嵐をついて厳島の背後に上陸、大軍で身動きの取れない陶軍に奇襲しました。大混乱に陥った陶軍は戦死4千7百、捕虜3千という大きな損害を受けます。退路を断たれ進退窮まった晴賢は自害して果てました。享年35歳。
 晴賢の討死で無主の国となった周防、長門に毛利軍が雪崩れ込みます。晴英は大内義長と改名していましたが、傀儡の悲しさ毛利軍の侵略に対抗できず1557年4月3日長門長福院を毛利方に囲まれ自害を強要されます。26歳の若さでした。義長は実兄(異母兄)豊後の大友義鎮(宗麟)に援軍を要請しますが、義鎮は既に元就と大内旧領の分割を約束しており弟を見捨てました。
 毛利元就は大内氏の内紛をうまく利用する形で安芸・周防・石見を平定します。後は尼子氏を滅ぼすのみです。元就にとって尼子軍の中核であった新宮党の存在が目障りでした。次回新宮党の始末、そして尼子氏滅亡を記します。

出雲尼子軍記Ⅴ 吉田郡山城の戦い

 1537年祖父経久に家督を譲られた晴久(1514年~1561年)。祖父の後見の下ではありましたが晴久は目覚ましい活躍をします。1538年には大内義隆(義興の子)から石見大森銀山を奪取。因幡国を平定し、播磨に進出し播磨守護赤松晴政の軍勢を撃破しました。播磨の国人たちは次々と晴久に帰順、一時的に播磨を制圧します。この時が尼子氏の絶頂期で最も天下に近かったと思います。晴久は出雲・隠岐・備前・備中・備後・伯耆・因幡・美作八カ国の守護を兼ねる大勢力になりました。
 ただ、宿敵大内氏は天下への野望は諦めたとはいえ全国有数の地域大国であることには間違いなく、本国周防・長門と北九州の筑前・豊前の守護を兼ね石見・安芸の守護職も獲得していました。大内氏の勢力圏は130万石を数えるほどです。晴久が八ヶ国の守護であっても完全に支配しているのは出雲・隠岐・伯耆・美作くらいで60万石余。それ以外の国は、動員令には従うもいつ離反するか分からない勢力でした。
 大内氏が全力を挙げて尼子に攻めかかればどうなるか分からなかったかと思います。尼子氏に幸いしたのは、九州において肥前守護少弐氏、豊後守護大友氏と大内氏が深刻な対立を抱えていたからです。もともと大内氏が奪った筑前守護職は少弐氏のものでした。力関係は大内氏が圧倒的に上ですが、何度滅ぼしてもしぶとく蘇り筑前、肥前で少弐氏との戦争は泥沼化します。豊後の大友氏は鎌倉以来の名家。豊後はもとより筑後、肥後、日向に影響力を持ち豊前にも進出を図っていました。こちらも侮れない勢力で大内氏は全力で尼子討伐できない状況でした。
 ここで大内氏の状況を見てみましょう。一時は天下を握りかけた大内義興ですが、尼子経久との戦争は泥沼化し安芸門山城攻めの陣中病を発し1528年12月52歳の生涯を閉じていました。後を継いだのは22歳の嫡子義隆(1507年~1551年)です。義隆を後世無能な人物だと評する人もいますが、家督継承当時はやる気があり、有能な家臣団に支えられ全国でも有数の大大名であったことは間違いありません。
 安芸に一人の国人領主がいました。その名は毛利元就。大江広元の子孫で吉田庄(安芸高田市)の小領主。しかし謀略の才に長け、大内尼子の対立をうまく利用し調略や婚姻政策で着々と勢力を拡大、侮れない勢力になっていました。最初大内方、次いで尼子氏に付いた元就ですが、安芸国に大内氏の勢力が増すとあっさり大内方に乗り換えました。
 月山富田城内では、「裏切り者毛利元就を討つべし」という声が大きくなります。たしかに元就を放っておくと安芸国から尼子の勢力が追い出されかねないのです。この議論に隠居していた経久は加わらなかったそうですが、経久の弟下野守久幸は元就が侮れない人物であることから慎重論を述べます。主戦派の諸将は久幸を「臆病野州」と罵ったと言われますが、尼子家中に慢心があったことは確かでしょう。こういう時積極的意見に引きずられるのはよくある事ですが、晴久も元就を侮っていたのでしょう、毛利討伐の断は下りました。
 1540年尼子晴久は月山富田城を出陣します。従う兵は3万。尼子氏の総力をあげた布陣です。尼子勢は出雲赤名から備後三次を経て吉田庄に殺到します。例によって先陣は国久率いる新宮党でした。間者によって尼子方の動きを知った元就は、吉田郡山城に籠城する策を採ります。吉田郡山城は吉田盆地の北に位置し標高389メートル。全山を要塞化した難攻不落の山城でした。来るべき日に備え元就は兵糧を十分に蓄え領民も含め8千で城に入ります。同時に大内義隆に救援の使者を送りました。
 晴久は吉田郡山城北西4キロの風越山に本陣を構えます。湯原宗綱勢3千を左翼、吉川興経ら安芸勢を右翼に配し、城を十重二十重に囲みました。尼子勢は挑発を繰り返しますが、元就は頑として応じず城を固く守るのみでした。尼子勢が攻めあぐんでいるところ、同年9月には重臣陶隆房率いる大内氏の援軍1万が到着します。大内義隆自身も1万を率いて周防国を出発していました。晴久は、尼子方に入った旧守護武田信実に妨害させますが時間を遅らせただけでした。
 大内義隆としても、毛利元就を見捨てたら以後大内氏に従う国人領主がいなくなるので必死です。ここに初めて尼子氏と大内氏の決戦の機会が巡ってきました。ところが尼子勢は吉田郡山城攻囲の布陣のままでしたので、内の毛利勢と外の大内勢から挟撃される不利が想定されます。晴久は撤退を決断しました。尼子勢3万は粛々と撤退を開始しますが、この機会を待っていた毛利勢が打って出ました。大内勢もこれに追随し激戦となります。この時殿軍として激しく戦ったのは臆病野州と揶揄された下野守久幸だったと伝えられます。久幸は尼子本隊を逃がすため壮烈な戦死を遂げました。
 吉田郡山城の戦いは、得意の絶頂だった尼子晴久はじめての挫折です。大内氏との戦いは一転守勢にまわりました。大内義隆がこの機会を見逃すはずはありません。次回、本拠地月山富田城まで攻め込まれた晴久の戦いを記します。

出雲尼子軍記Ⅳ 十一州の太守

 前回記した経久による月山富田城奪還の経緯は軍記ものでは有名ですが、史実かどうかははっきりしません。単に守護代職を剥奪されただけで出雲において一定の勢力を保ったという説もあります。
 ともかく実力で月山富田城を奪還した経久は、出雲統一に向けて戦いを開始しました。最初の標的は仁多郡惣地頭三沢氏です。対三沢氏に関して軍記ものでは面白いエピソードもあるのですが史実かどうか確認できないのでここでは紹介しません。経久は謀略によって三沢勢を誘い出し奇襲攻撃を加えてこれを粉砕、1490年には三沢為国の籠る横田藤ケ瀬城を攻めます。為国は尼子勢の攻撃に耐えかね降伏しました。経久が最大の豪族三沢氏を攻略したことで三刀屋氏、赤穴氏らが次々と軍門に降ります。
 出雲国内を平定した経久は宗教政策にも力を尽くしました。杵築大社(出雲大社)の社殿を造営したり、出雲国内の有力寺社の所領を安堵したりします。1500年、対立していた出雲守護京極政経がお家騒動に敗れ出雲に下向してきました。背に腹は代えられない政経は経久と和解、再び経久は出雲守護代になります。政経は孫の吉童子丸に家督を譲り1508年死去、経久は吉童子丸の後見人となりました。ところが吉童子丸は間もなく行方不明になります。経久の陰謀の臭いがしなくもないですが、これで文字通り経久は出雲国主となりました。ちなみに政経の墓は京極一族でただ一人、出雲国安国寺にあります。
 京極家のお家騒動は、政経の子村宗に政経の甥高清の子高吉が養嗣子に入って一応の決着を迎えますが、出雲、隠岐、飛騨に対する支配力を失い本拠北近江ですら台頭してきた国人領主浅井亮政に実権を奪われ傀儡に落ちぶれます。
 京極政経が没した1508年は、京都において管領細川政元に追放され流浪していた前将軍義稙が周防の有力守護大名大内義興を頼り、上洛戦を開始した年でもありました。当時義興は周防、長門、筑前、豊前を完全に支配しており日の出の勢いです。前年1507年には権勢を振るった管領細川政元が暗殺されて畿内では細川一族による家督争いが起こっていました。
 大内義興は前将軍足利義稙を擁し2万の大軍で上洛します。この時中国の武士たちにも参陣を求めました。出雲国主尼子経久もこれに従い上洛したという説と、本人は動かず配下の武士たちを送ったという説があってはっきりしません。どちらにしろ前将軍を擁し大義名分を持つ大内義興に逆らうことはできなかったでしょう。
 義興は、細川政元の養子の一人高国と結び、管領細川澄元と対立します。澄元は大内勢との合戦に敗れ十一代将軍義澄を擁し近江に逃亡、義興は前将軍義稙を再び将軍の座に就けました。功績により細川高国が管領、大内義興は管領代、左京大夫、山城守護になります。ところが両雄並び立たず義興は高国と対立を深め、細川澄元も実家の阿波細川家、細川家家宰三好一族の後援を受けしぶとく抵抗、戦いは泥沼になりました。
 義興たちの畿内における醜い権力争いを冷静に眺めていた経久は、秘かに帰国し自らの領土を拡大すべく伯耆や石見へ侵攻を開始しました。当時、伯耆、因幡などは山名氏の守護領国でしたが応仁の乱で支配権を失い権力の空白地になっていました。美作は赤松氏と山名氏が争奪した国でしたが両家とも没落し、草刈り場となります。
 大内氏の影響力の強い石見、安芸に関しては調略の手を伸ばし国人領主たちを次々と寝返らせました。伯耆、美作には経久自ら兵を率い平定していきます。国元から急報を受けた大内義興は驚愕しました。足元に火が付いた今、天下どころではなくなります。1518年管領代の職を辞した義興は急ぎ帰国、尼子経久と決戦すべく準備を始めました。強大な後ろ盾を失った義稙、高国政権は瓦解、義稙は再び京都を叩き出され流浪、最後は1523年阿波国撫養で寂しく亡くなります。享年56歳。細川高国は逃亡した後も各地の有力大名を頼って何度か反抗を試みますが、最後は細川澄元の子晴元に大物崩れの戦いで敗れ1531年自害しました。享年48歳。
 将軍職は義澄の遺児義晴が継ぎ第12代将軍になります。以後畿内においては細川晴元、次いでその家宰阿波三好一族が猛威を振るう事となりました。
 尼子経久の勢力拡大も順調に進んだわけではありません。1518年には伯耆の南条氏と結んで反乱を起こした桜井氏の出雲阿用城の戦いで最愛の息子政久を失っています。享年26歳。政久は温厚篤実な人物で頭も良いことから経久が最も期待していた長男でした。衝撃を受けた経久ですが、武勇名高い次男国久の活躍もあり阿用城を攻略、再び勢力拡大の戦を始めます。国久の館は月山北麓新宮谷にあったため国久の一党を新宮党と呼びました。新宮党は常に尼子勢の先頭にあり武勇をもって戦を勝利に導きます。
 1521年、経久は安芸国の国人毛利元就を帰順させ大内方の鏡山城(東広島市)を攻めさせました。ここに毛利元就が初めて出てきます。経久は元就の才能は認めても、自分と同じ謀略の才を感じ取り最後まで信用しなかったそうです。
 経久は、亡き政久の遺児詮久(あきひさ)を世子に定めます。詮久は後に十二代将軍義晴から一字を拝領し晴久と名を改めますから、混乱を避けるため以後晴久で統一します。1524年経久は伯耆の有力豪族南条宗勝を破り、守護山名澄之を追放します。南条宗勝は但馬の山名氏を頼って亡命しました。安芸では旧守護武田氏を味方に引き入れるも、大内氏に武田氏が敗れたことで毛利元就は大内方に鞍替えしました。備後でも経久自ら率いた兵が、大内方の陶興房(隆房=晴賢の父)の軍勢に敗れるなど一進一退の攻防を繰り返します。
 1530年には処遇に不満を持っていた三男塩冶興久があろうことか宿敵大内氏と結び反乱を起こしました。反乱は1534年鎮圧されますが、興久は備後甲立城に逃亡。甥の晴久に攻め立てられ自害しました。同年晴久は美作にも侵攻します。1537年経久が隠居し孫の晴久に家督を譲った時、出雲・隠岐・伯耆・美作をほぼ手中に収め、安芸、石見、備後、備中、備前、因幡に勢威を振るいました。隠居中の1539年孫の晴久が播磨に進出し守護赤松晴政を撃破し一時的に播磨の支配権を握ったため、これを合わせて十一州の太守と呼ばれました。
 その後、経久は1541年まで生き82歳の高齢で没します。経久の晩年から晴久の前半までが尼子氏の絶頂期でした。しかし満つれば欠くるが世の習い。尼子氏の没落の始まりは裏切った毛利元就をその居城に攻めた吉田郡山城の戦いでした。
 次回、尼子氏と大内氏の威信をかけた激突、吉田郡山城の戦いを描きます。

出雲尼子軍記Ⅲ 月山富田城追放

 皆さんは尼子経久(1458年~1541年)と聞いてどのようなイメージを持っていますか?私は何と言っても1997年放送のNHK大河ドラマ『毛利元就』の緒形拳です。超大国の主として鷹揚とした細川俊之演じる大内義興と違い、策謀を内に秘めた油断も隙もない人物、それでいて人間的魅力あふれる一代の傑物でした。
 実際の経久も冷酷非情でありながら人間的魅力が大きい人物だったとされます。経久がいつ父清定から尼子家督を譲られたかはっきりしませんが、応仁の乱終結の1年後1478年までには継承したとされます。清定はその後10年生きますが、父清定の後見のもと経久は出雲守護代としての経験を積んでいったことでしょう。
 応仁の乱後、出雲守護京極氏の支配力は弱まります。出雲は実質的に守護代尼子氏のものとなります。ただ依然として守護京極氏の権威は残っていました。若い経久はそれを見誤っていたのです。経久は、減額しながらも送り続けていた美保関の公用銭を京極氏に届けることを拒否します。経久の頭には京極家の出雲における影響力を排除し自ら出雲国主になる考えがあったのでしょう。
 もちろんすっかり衰退した京極氏に出雲を奪回する力は既にありませんでした。ただ出雲国内には経久の専横を不快に思っている武士が多く居ます。父清定の時代は守護代の権威でそれを抑え込んでいたのですが、若い経久には権威も配慮もありませんでした。出雲守護京極政経は幕府に尼子経久の横暴を訴え出雲各地の豪族たちに経久を討つよう書状を送ります。もともと経久に反感を抱いていた豪族たちは1484年南西出雲の三沢為信を筆頭とし三刀屋氏、朝山氏、広田氏、桜井氏、塩冶氏ら連合軍が経久の本拠月山富田城に攻め寄せました。
 大義名分は幕府と守護の命を奉じた反乱軍側にありました。完全に孤立した経久は反乱軍に降伏、守護代職と居城月山富田城を奪われて追放されます。時に経久27歳。ここで経久を殺さなかったことを反乱軍の諸将は後に後悔することになりました。出雲守護代職は、京極氏の前の守護で佐々木一族だった塩冶掃部助連清に決まります。とはいえ守護代職は単なる名誉職以外の何ものでもなく出雲は有力豪族がひしめく戦国時代へと突入しました。
 月山富田城を叩き出された経久はどうしたでしょうか?追放後経久は母の実家石見の真木氏を頼ったり各地を流浪し艱難に耐えました。その一年後、富田城下の尼子家旧臣山中勘兵衛勝重の屋敷を一人の念仏僧が訪れます。それはかつての主君経久でした。
「勘兵衛、富田城奪還の策が成ったぞ」
経久から話を聞いた勘兵衛はあっと驚きました。というのも主君と共に城を追放されて以来、勘兵衛も富田城奪還の策を常に考えてきたからです。
 勘兵衛は経久に鉢屋賀麻党を使うと聞かされます。鉢屋賀麻党は月山山麓に住む遊行集団で芸能を生業とする者たちでした。もともとは平将門の乱に参加した飯母呂一族だとされ、将門敗死後全国に散っていたのです。関東に残った鉢屋衆は風魔衆になったとも言われます。経久は、早くから鉢屋衆の頭目鉢屋弥之三郎と親しく交流しており、今回莫大な恩賞を約束し味方につけたのでした。
 鉢屋衆は毎年元旦富田城に入り祝いの舞を演じることになっていました。経久、勘兵衛らはこれに紛れ込んで城内に入り蜂起する手はずでした。1486年正月、千秋万歳を舞う鉢屋党の一団が富田城大手門に着きます。例年の事なので城兵は門を開けました。この日を楽しみにしていた城兵やその家族、守護代塩冶掃部助の家族まで鉢屋党の祝いの舞を見ようと本丸広庭に集まります。
 富田城内が祝いの酒で全員ほろ酔いになる頃、鉢屋党から離れ搦手に回る一団がありました。言うまでもなく経久一行56名です。城の要所に火をつけた彼らは口々に「火事だ!」と叫びます。城兵たちが驚いていると甲冑に身を固めた一団が斬りかかりました。するというのまにか鉢屋党の面々も鎧に着替えこれに加わります。富田城の兵たちが奇襲だと気づいた時には手遅れでした。城主塩冶掃部助は懸命に防ぎますが力尽き、妻子を刺して自らも自害します。不意を打たれた城兵もろくに抵抗できず七百余人が殺されたそうです。
 こうして経久は見事月山富田城を奪い返しました。放浪の旅で世間の厳しさを知った経久には昔の失敗はありません。以後経久は出雲統一、そしてついには山陰山陽11か国に勢威を振るう大勢力に成長します。
 次回、経久の覇業を描くこととしましょう。

出雲尼子軍記Ⅱ 尼子清定の台頭

 室町幕府の守護大名から戦国大名に成長した常陸の佐竹氏、甲斐の武田氏、駿河の今川氏、周防の大内氏、豊後の大友氏、薩摩の島津氏などには共通した一点がありました。それは京都に上らず在国で支配を強化した事です。一方、細川氏、斯波氏、畠山氏、一色氏、山名氏ら幕府高官になった守護大名たちは京都での政争に明け暮れ、本国は守護代に任せたため応仁の乱以後急速に衰退しました。
 京極氏も京都組の一家ではありましたが、唯一のまともな守護領国である出雲の重要性を考え京都と出雲在国を半々くらいにします。京極高詮は出雲守護に返り咲いた1392年から亡くなる1401年の9年間のうち5年出雲に在国したそうです。それだけ出雲が難治の国だったのでしょう。
 前回、山名満幸の反乱を描きましたが実は明徳の乱(1391年)の一環でして、当時山名氏は当主氏清や満幸ら山名一族で山陰・山陽・畿内11か国の守護を務め六分一殿(全国が六十余州)と呼ばれるほど強大な勢力を誇っていました。三代将軍足利義満は山名一族の力を恐れ挑発して反乱を起こさせます。氏清、満幸らはまんまと義満の策謀に乗り挙兵、京都内野合戦で幕府軍に敗北し総大将山名氏清は戦死しました。
 満幸は逃亡に成功し本拠山陰に逃れていたのです。幕府からお尋ね者として追われていた満幸が伯耆・出雲で蜂起しても大きな勢力になれず現地の武士たちに鎮圧されたというのはある意味当然でした。満幸は出雲で敗れた後剃髪して僧になり筑前に逃亡、流浪して京都に戻ったところを捕縛され処刑されます。
 京極高詮の死後出雲・隠岐・飛騨守護を継いだのは嫡男高光でした。当時の出雲は杵築大社(出雲大社)ら寺社勢力が強く既得権益を持っていた為統治は困難を極めます。そんな中1411年(応永十八年)京極氏の分国飛騨で国司姉小路尹綱が大規模な反乱を起こし、守護高光に鎮圧の幕命が下りました。これには多くの出雲武士たちも参加しますが、鎮圧後恩賞がなかったことに怒り勝手に帰国する者も出てきます。
 高光は1413年39歳で没しました。嫡男吉童子丸(後の持高)はわずか3歳(異説あり)だったため叔父高数(高光の弟)が後見することとなります。持高も1439年29歳の若さで死去、嫡子がいなかったので弟持清が家督を継ぐはずでした。ところが六代将軍義教はお気に入りの高数に強引に京極家督を継がせるのです。1441年将軍義教が播磨守護赤松満祐に暗殺されるという嘉吉の乱が起こりました。京極高数も将軍側近として赤松邸に招かれていたため、殺されてしまいます。こうしてようやく持清は京極家督と出雲・隠岐・飛騨の守護職を得ることができました。
 このように京極氏が京都での政争に明け暮れる中、出雲守護代になった尼子持久(1381年~1437年)は着々と実力を蓄えていました。尼子氏の本拠として名高い月山富田城を築いたのも持久だと言われます。実は持久の事績ははっきりしていません。ただ守護京極氏が京都で政争したり幕府の命で兵を出すとき、出雲国内でこれを纏めるのは守護代持久の役割でした。加えて出雲から上がる年貢を京極家に送るのも持久でした。尼子氏は出雲守護代として武士たちを統御し庶民には年貢徴収という形で支配力を強めていったのです。もちろん国内の裁判権も守護代が担いました。
 持久は、静かに出雲の支配力を強めながら1427年死去します。享年56歳。後を継いだのは清定(1410年~1488年)でした。清定の時代京都では応仁の乱(1467年~1477年)が勃発します。近江の佐々木一族でも宗家の六角高頼が西軍、京極持清が東軍となりました。というのは西軍の総大将山名宗全と出雲守護京極持清とは利害が衝突していたからです。出雲からも三刀屋助五郎ら多くの国人が動員されます。そんな最中、京極持清は1470年死去しました。享年64歳。この頃京極氏は近江の支配権をめぐって宗家六角氏と血みどろの戦いを続けていました。嫡子勝秀は父に先立って亡くなっていたので京極家督は勝秀の子、すなわち持清の孫にあたる孫童子丸が継ぎます。ところがその孫童子丸も家督継承後一年で死去、京極家は家督を巡り持清の三男政経と勝秀の庶長子高清が泥沼の内紛を始めました。
 出雲でも危機が訪れます。西軍の総大将山名宗全は、東軍の有力武将京極氏の力を削ぐため出雲国人に調略の手を伸ばしたのです。これに真っ先に応じたのが安来庄(安来市)地頭十神山城主松田備前守(公順?)でした。1468年山名方の後押しを受けた松田勢は隣接する富田庄の月山富田城に攻め寄せます。守護代尼子清定は、一時危機に陥りますが激戦の末これを撃退しました。
 もともと守護京極氏、守護代尼子氏に反感を持っていた出雲の国人たちはこれを機に一斉に蜂起します。出雲西南部に勢力を持つ有力豪族三沢氏などはその急先鋒で、尼子清定は各地を転戦し反乱鎮圧に奔走しました。京極氏の支援を当てにできない清定は独力で各地の反乱を鎮め1473年ころにはほぼ出雲を統一します。翌1474年清定は嫡男又四郎(経久)を上洛させ主君京極政経から所領を確認してもらいました。当時又四郎17歳。
 出雲をほぼ統一したとはいえ、清定の統治は安定しませんでした。主君京極氏の要請で隣国伯耆に出兵したり、足元で起こった能義郡一揆を討伐するなど東奔西走しました。その過程で清定は美保関の代官職を獲得します。美保関は出雲半島の東端にあり中国地方のたたら製鉄で作られた鉄の一大輸出港でした。日本ばかりでなく朝鮮や明の交易船も寄港する日本海有数の貿易港を得たことが尼子氏台頭のきっかけです。以後尼子氏は美保関からあがる莫大な公用銭(船役運上金など港から上がる税収)を手中に収め大きな力を手に入れます。
 守護京極氏としては守護代尼子氏を通して公用銭の確実な入手をすべく清定を代官にしたのですが、いつまでも尼子氏がこれに従うかは不明でした。当初は真面目に公用銭を送っていた清定ですが、次第に言を左右にして送金を怠るようになりました。守護京極政経は書状を送って何度も清定に催促したという記録があります。長い交渉の末、公用銭を五万疋から四万疋に減額することで妥協が成立、応仁の乱で勢力を弱めていた京極氏は泣き寝入りせざるを得なくなりました。
 少なくとも出雲においては実力的に守護京極氏よりも守護代尼子清定が上という状況になります。清定は出雲支配をほぼ成し遂げた後、1488年死去します。後を継いだのは嫡男又四郎。彼こそ十一州の太守と謳われた尼子経久です。ただその前に経久には逆境が待っていました。
 次回、経久の月山富田城追放を記します。

出雲尼子軍記Ⅰ 出雲守護代尼子氏

 戦国時代、出雲を中心に山陰山陽11か国に勢威を振るった尼子氏。一時は防長二国と九州の筑前・豊前を支配した大内氏と互角以上の戦いをしながら、最後は毛利氏にあっけなく滅ぼされました。実質的な尼子領国の建設者経久や、全盛期の晴久は有名ですが尼子氏がどのように出雲を支配したのか、どのように滅んでいったかは意外と知られていません。
 第一回は、尼子氏誕生の歴史、出雲の実権を握った経過を見ていきたいと思います。ちなみに尼子氏全盛期は出雲・隠岐・伯耆・美作を完全に支配し石見、安芸、備後、備中、因幡、備前、播磨の一部、あるいは大部分を支配しました。ただ確実に領土と言えるのは出雲・隠岐・伯耆・美作で太閤検地の数値だと60万石強。それ以外を含めるとだいたい合計120万石くらいでした。というのは山陰は石高が低い国が多かったのと、豊かな播磨、安芸などは完全支配できなかったからです。
 一方尼子氏の宿敵である大内氏は、本国である防長二州こそ30万石くらいですが、筑前50万石、豊前30万石とこれだけで110万石を超えます。加えて石見半国、安芸半国を足すと130万石以上、しかも勘合貿易で巨利を得ていましたから経済力では尼子氏を上回っていました。両者の間で石見銀山を奪い合ったのは当然の帰結です。特に尼子氏にとって石見銀山まで奪われたら大内氏に太刀打ちできなくなるからです。
 尼子氏は京極佐々木氏の一族でした。京極佐々木氏は有名な佐々木道誉の子孫で室町幕府侍所所司(長官)を輩出した四職家の一つです。ちなみに他の三家は足利一族の一色氏、新田源氏でありながら宗家を裏切って足利方に付いた山名氏、播磨に勢力を持ち家祖赤松円心が幕府創設に貢献した赤松氏です。
 室町幕府は管領を輩出する三管領家(細川、斯波、畠山 ともに足利一門では最高の家格を誇る)と、この四職家が支えていました。四職家のうち一番強大なのは山名氏、ついで赤松氏でした。京極氏は佐々木一門では傍流に過ぎず佐々木道誉が一代で築いた家です。本拠地の近江国の守護は佐々木嫡流の六角氏に奪われ、近江北半国を守護不入の地として実質的に管理したのみでした。他に飛騨、隠岐、出雲の守護職を得ますが、隠岐は貧しい島国、飛騨も金山はあっても貧しい山国で、太閤検地時代で22万石ある出雲のみが唯一まともな領国でした。近江の北半国も20万石強くらいしかなく六角氏は50万石以上とも言われる豊かな近江南部を支配していましたから京極氏は最初から劣勢でした。
 京極氏にとって出雲はそれだけ重要な国だったのです。佐々木道誉の後は三男京極高秀が継ぎます。高秀は出雲・隠岐・飛騨の守護職の他、侍所所司、幕府評定衆になりました。高秀は幕府高官として京都に常駐しなければなりませんから、出雲守護代として次男高久を派遣しました。ですから高久は佐々木道誉の孫にあたります。
 この高久こそ、尼子氏の祖です。最初高久は近江国犬上郡尼子郷に館を構えていたことから尼子氏を称しました。高久は1391年わずか29歳で亡くなります。近江の所領は詮久(のりひさ)が受け継ぎました。これが近江尼子氏の祖となります。一方出雲守護代は高久の次男持久が継ぎます。
 尼子持久(1381年~1437年)以後、尼子氏は出雲に土着し守護代として勢力を蓄えることとなりました。出雲守護は高秀の後嫡男高詮(たかのり)が継ぎます。持久にとっては伯父にあたりました。高詮の京極氏継承は複雑で、一時宗家六角家の養嗣子として出ていながら戻って京極家督を継承します。このため跡目争いが起き六角家と京極家はたがいに憎しみ合う関係となりました。
 この当時、山陰地方は南北朝の戦乱冷めやらぬ時期で丹後・伯耆・出雲・隠岐の守護職だった山名満幸が1393年出雲・伯耆で挙兵します。満幸は三代将軍義満の不興を買い放逐されていたのでした。彼に代わって出雲守護に任ぜられたのが京極高詮で、京極氏にとっては久々に出雲守護に返り咲けたのです。山名満幸の挙兵には、京極氏の前の出雲守護だった塩冶一族も加担します。反乱は伯耆国で始まり山名勢は三刀屋城を攻撃しました。守護京極高詮は急ぎ現地に向かいますが、三刀屋城主諏訪部菊松丸は見事防ぎ切り逆に山名軍に逆襲、これを散々破ります。結局山名満幸の反乱は現地の武士たちの活躍で頓挫するほどしょぼかったとも言えます。1395年、満幸は捕らえられ侍所所司だった高詮により京都五条坊門高倉の宿で誅殺されました。
 京極氏の最重要守護領国出雲は、まだまだ不安定でした。守護代尼子持久の出雲下向の時期は不明ですが、この反乱の後送り込まれたのだと思います。
 次回は、尼子氏出雲支配の確立と尼子氏二代清定の台頭を描きます。

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