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2018年10月

2018年10月 1日 (月)

大坂冬の陣の時、大坂城にはどれくらい兵糧があったか?

 先日ブックオフで『戦国の籠城戦』(別冊歴史読本 新人物往来社)という本を買いました。古本は当たり外れが大きいのですが、これは大当たりの部類。月山富田城、三木城、上田城など有名どころの籠城戦と戦国城郭の構造、兵糧事情など有意義な情報が載っていました。
 何を隠そう先日の蔚山城の戦いも元ネタはこれで、私の乏しい知識を補完してくれる良書です。この本の中で山崎合戦前の姫路城の兵糧と金銀、大坂城の兵糧・財政事情が紹介されていました。まず姫路城。本能寺の変で主君信長の横死を受け、備中高松の陣中から姫路までわずか3日で駆け抜けた秀吉の中国大返し。姫路城で1日休息した秀吉は、「どうせ負けたらこの城には帰ってこれない」と覚悟し、城内に蓄えられた金銀を2万の兵士たちにすべて分け与え、士気が上がった兵を引き連れ明智光秀との山崎の合戦に勝利し天下人の道を歩み始めます。
 ではこの時姫路城にはどれくらい兵糧金銀が蓄えられていたのでしょうか?金800枚、銀750貫目、米8万5千石だったと伝えられます。当時の兵士1人の一日米消費量は約5合。計算すると1万5千の兵士が三年間籠城できるという膨大な量でした。金800枚も米に換算すると4万石。秀吉は、三木城攻囲、鳥取城干し殺しにも代表される通り兵站を非常に重視する武将で、鳥取城攻めの際にはあらかじめ若狭の商人に命じ因幡国内の米を通常の倍の価格で買い占めさせました。愚かな鳥取城の兵士は欲に目がくらんで城内の兵糧まで売りに出したそうです。
 このように兵站の重要性を良く知っていた秀吉ですから、心血を注いで築城した大坂城にも膨大な金銀兵糧が蓄えられていたことは容易に想像できます。秀吉の死後、豊臣家を滅ぼそうとした徳川家康もこれを熟知していたからこそ、方広寺大仏殿を再建するよう勧め大坂城の金銀を消費させようとしたのです。それ以外の畿内の神社仏閣の修復も言葉巧みに実行させ、方広寺だけで1775貫目という莫大な金塊が消費されたそうです。これがどれだけの価値か想像もできないのですが、家康は大坂城の黄金をかなり使わせたと思っていました。
 家康が戦端を開いたのは方広寺の鐘の文言に言いがかりをつけたのがきっかけですが、裏を返すと方広寺大仏殿の完成を待って仕掛けたとも言えます。この時大坂城には13万石もの兵糧が蓄えられていました。大坂方は10万人といいますが、換算すると260日の籠城戦が可能です。ところが大坂冬の陣では大坂方はわずか半月で家康の口車に乗り講和しました。その後、約束を反故にされ外堀を埋められ大坂城は裸城になります。続く大坂夏の陣で滅ぼされたのは周知のとおり。
 冬の陣の時戦いは全くの互角、秀吉の築いた大坂城はびくともしなかったのですから少なくとも半年粘れば情勢は変わっていたかもしれません。実は30万集めた徳川方の方が兵糧不足は深刻で、それぞれの大名の自弁でしたから長引けば長引くほど幕府に対する大名の不満がたまり爆発しかねなかったのです。その間に遠くの地方で反乱でも起これば情勢はどう転んだか分かりません。家康は豊臣家を滅ぼすつもりでしたから、わずか半月で講和などあり得ませんでした。
 大坂方が講和に飛びついたのは、淀殿が徳川方の撃ち込む大筒の轟音に驚いたからとも、積極的な浪人衆に対し豊臣家の家臣たちは厭戦気分が蔓延していたからだとも言われます。ただ生きるか死ぬかの瀬戸際、そんな甘いことを言っていては生き残ることはできません。結局、大坂城は長期間の籠城に耐えうる状況でも、中の人間(特に淀殿と秀頼)の無能さで落ちたといえます。結局滅ぶべくして滅んだのが豊臣家だったのでしょう。

蔚山(うるさん)城の戦い 紙一重の勝利

 韓国慶尚南道、日本海に面した人口116万の港湾都市蔚山(うるさん)。ここはかつて朝鮮の役の時加藤清正を大将とする日本軍が明将楊鎬率いる明・朝鮮連合軍5万余を迎え撃ちぎりぎりのところで勝利した蔚山城の戦いがあった場所です。
 蔚山城は、日本軍が朝鮮出兵時に築いた日本式城郭、所謂倭城の一つで、東側の最前線に位置した城でした。倭城は通常日本からの補給に都合が良い港湾都市や海側に近い小高い丘の上に築かれ、総構えで港湾も組み込みます。蔚山城も例外ではなく、海からほど近い太和江に面した標高50mの独立丘陵を主郭部とし周囲に郭を配し、太和江の支流で城の東側を流れる東川に面した小丘陵も取り込んだ城でした。記録では主要部を石垣で囲み、火縄銃の銃撃に都合が良い多門櫓を設けた堅固な城だったそうです。
 ただ築城を始めたのが1597年と遅く、同年12月には早くも敵の攻撃を受けたため未完成のまま戦ったと言われます。この城を担当する加藤清正は、ここから南15㎞にある西生浦倭城を拠点としており、毛利秀元、浅野幸長らの軍勢と共に急ピッチで築城を進めますが、明軍の襲来の方が早く来てしまいました。明軍の将楊鎬は、加藤清正を日本軍一の勇将ととらえており、清正を殺すか捕らえれば日本軍全体の士気をくじくと考えここに5万以上の大軍を集めます。
 当時蔚山城は籠城の準備もろくにできておらず兵糧も10日分しかありませんでした。城兵はわずか2千。通常なら数日で落ちる状態です。西生浦城で急報を受けた清正は、部隊の集結を待っていては間に合わなくなると思い、わずかの手勢を引き連れ太和江から船で急行します。同じく浅野幸長、太田一吉も加わりましたが、浅野幸長、毛利秀元らは築城のため場外で仮営していたところを明軍の先鋒である騎兵1千に急襲されたため大混乱に陥りました。緒戦の戦いで毛利家家臣冷泉元満、阿曾沼元秀、都野家頼らが打ち取られ460名もの死者を出します。
 城外の日本勢は慌てて蔚山城に駆け込みました。タイミングの悪いことに毛利秀元は物資を釜山に運び帰国の準備をしていて不在だったので、城には加藤清正、浅野行長、太田一吉と毛利家の留守部隊のみが籠城します。嵩にかかった明軍は12月23日三方から総攻撃を加えました。日本軍は主郭で加藤清正が総指揮をし、東側の郭を浅野勢が、西側を太田勢が、北側は毛利の留守部隊と加藤勢が守ります。浅野幸長が守る東側の出丸は本丸から離れて孤立しているため、清正は使者を送り郭を放棄して主郭に移るよう命じました。幸長も総構えが崩れそうになったのでこれに同意し部隊を移動させます。この日の明軍の攻撃は激しく総構えは簡単に突破され本丸、二の丸、三の丸の真下まで敵が迫る危機的状況に陥りました。
 加藤清正が自ら鉄砲で撃ちまくるほどの激戦です。後がない日本軍は必死に戦いようやく明軍を撃退しました。この日のために清正は鉄砲隊3百をあらかじめ蔚山城に送り込んでいたことで九死に一生を得たともいえます。その後も明軍は執拗に攻撃を繰り返しますが、戦国時代鉄砲戦術に長けた日本軍は、火縄銃を有効に使用する籠城術を身に着けその都度撃退します。
 戦いは持久戦になりました。するとわずか10日分の兵糧、飲み水も少なかったため日本軍に飢餓が訪れました。日本軍の援軍がいつ来るかに勝負の帰趨がかかっていたのです。籠城開始から10日後の翌1598年1月3日、毛利秀元、黒田長政率いる援軍1万2千が蔚山城南方の高地に到着、長宗我部元親率いる水軍も太和江を遡って着陣したため、明軍は早急に蔚山城を落城させなければ挟み撃ちにされる危険性がありました。
 楊鎬は消極策を述べる幕僚を斬って自ら督戦し最後の総攻撃を加えます。一方蔚山城では援軍の到来に士気が上がりありったけの鉄砲を撃ちまくってこれを撃退しました。明軍は膨大な死傷者を出し、もともと厭戦気分が蔓延していたことから士気が崩壊、総崩れになります。ここを城から打って出た加藤・浅野・太田勢と援軍の毛利・黒田勢で追撃し明軍の遺棄死体1万ともいわれる大勝利をあげました。明軍は多くの部隊長クラスを討たれ、楊鎬は漢城まで逃亡したそうです。
 ただ、この戦いは日本軍にとっても苦い勝利でした。援軍があと数日遅かったら蔚山城は陥落していたでしょう。兵糧はともかく、水不足は致命的でした。後年加藤清正は蔚山城の戦いを反省し、熊本城を築くとき城内に120か所の井戸を掘り、銀杏など食料になり得る木をたくさん植えます。城内の壁や畳にも芋がらなど緊急時の食糧になるものを塗りこんだそうですからよほど蔚山での籠城戦が懲りたのでしょう。
 熊本城は、加藤清正の厳しい経験がもとになって築城されたかと思うと感慨深いものがありますね。

アクスム王国とエチオピア

 アフリカの人種の中でエチオピア人はネグロイドとコーカソイドの中間的特徴を持っているとされます。エチオピア人種は白人と黒人の混血人種とも言われますが、成立過程が良く分かっていません。ただ、アラビア半島と近く、紅海を渡ってきた民族がエチオピアに定着したとされます。
 アクスム王国もアラビア半島から渡ってきたセム系民族が建国しました。存在が確認されるのは紀元前5世紀頃からです。伝説では旧約聖書にのっているサバ(シェバ)人が中心になってアクスム王国を建国したとされます。アクスム歴代の王はソロモン王とサバの女王の子メネリク1世の子孫を称しました。サバ人と同じく商才に長けた民族で、古くから交易で栄えます。首都アクスムは、エチオピア北部に位置しエリトリアに近い所にあります。ただ当時はエリトリアを含む紅海沿岸が本拠地で、内陸のエチオピアはアクスム王国が後に征服した土地でした。
 王国が成立したのは紀元100年頃だと言われます。アフリカから採れる象牙、金、鼈甲、エメラルドを輸出し絹、香辛料、手工業品を輸入します。その交易圏はインドからローマ帝国にまで広がっていました。2世紀から3世紀頃が最盛期で、アラビア半島の故地に進出し、アフリカではクシュ王国(メロエ王国)まで征服します。クシュは黒人王国で現在のスーダンにあり、一時はエジプト文明を征服するほどの強国でしたが、当時は衰え新興のアクスム王国に滅ぼされるまで弱体化していたのです。
 このアクスム王国に、3世紀頃キリスト教の一派コプト教が伝わります。東方諸教会系のコプト教はエジプト、アレキサンドリアが発祥とされエジプトを中心に北アフリカ地域に広がりました。アクスムは、その中心地のひとつで、以後コプト教が国教となります。ですからアクスム王国はアフリカでは珍しいキリスト教国です。
 アクスムが伝説のプレスタージョンの国に比定されるのも、コプト教が国教だったからだと言われます。そんなアクスム王国も、7世紀初頭アラビア半島にイスラム教が興ると陰りが見え始めます。アラブ人も交易に長けた民族で、次第に紅海での主導権を奪い始めたのです。
 そして10世紀、エチオピア高原にアガウ族がザグウェ王国を建国するとアクスムは南に強大な敵と接するようになりました。ただアクスムとザグウェの関係は良く分かっておらず、衰退したアクスムを受け継いだのがザグウェ王国だという説もあります。11世紀頃には、ザグウェ朝がアクスムの故地を支配するようになりました。
 このザグウェ朝にイクノ・アムラク(?~1285年)という人物が登場します。アムラクはアクスム王国最後の王デイルナードの子孫を称し、ザグウェ朝を滅ぼし自らの王朝を建国しました。これがソロモン朝で、1974年最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世が革命で倒されるまで続きます。ですからエチオピア王国(帝国)は13世紀から20世紀まで続いた長い歴史を誇ります。そしてイクノ・アムラクがアクスム王家の血を引くという話が本当なら紀元前から続く世界史上稀にみる古い王朝だともいえるのです。このソロモン朝もキリスト教エチオピア正教会を国教とするキリスト教国でした。
 エチオピア正教会は、サハラ以南で唯一植民地時代以前から存在する教会で、現在でもエチオピアを中心に3600万人の信者がいるそうです。ユニークな歴史を持つエチオピアに興味が尽きません。

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