アクスム王国とエチオピア
アフリカの人種の中でエチオピア人はネグロイドとコーカソイドの中間的特徴を持っているとされます。エチオピア人種は白人と黒人の混血人種とも言われますが、成立過程が良く分かっていません。ただ、アラビア半島と近く、紅海を渡ってきた民族がエチオピアに定着したとされます。
アクスム王国もアラビア半島から渡ってきたセム系民族が建国しました。存在が確認されるのは紀元前5世紀頃からです。伝説では旧約聖書にのっているサバ(シェバ)人が中心になってアクスム王国を建国したとされます。アクスム歴代の王はソロモン王とサバの女王の子メネリク1世の子孫を称しました。サバ人と同じく商才に長けた民族で、古くから交易で栄えます。首都アクスムは、エチオピア北部に位置しエリトリアに近い所にあります。ただ当時はエリトリアを含む紅海沿岸が本拠地で、内陸のエチオピアはアクスム王国が後に征服した土地でした。
王国が成立したのは紀元100年頃だと言われます。アフリカから採れる象牙、金、鼈甲、エメラルドを輸出し絹、香辛料、手工業品を輸入します。その交易圏はインドからローマ帝国にまで広がっていました。2世紀から3世紀頃が最盛期で、アラビア半島の故地に進出し、アフリカではクシュ王国(メロエ王国)まで征服します。クシュは黒人王国で現在のスーダンにあり、一時はエジプト文明を征服するほどの強国でしたが、当時は衰え新興のアクスム王国に滅ぼされるまで弱体化していたのです。
このアクスム王国に、3世紀頃キリスト教の一派コプト教が伝わります。東方諸教会系のコプト教はエジプト、アレキサンドリアが発祥とされエジプトを中心に北アフリカ地域に広がりました。アクスムは、その中心地のひとつで、以後コプト教が国教となります。ですからアクスム王国はアフリカでは珍しいキリスト教国です。
アクスムが伝説のプレスタージョンの国に比定されるのも、コプト教が国教だったからだと言われます。そんなアクスム王国も、7世紀初頭アラビア半島にイスラム教が興ると陰りが見え始めます。アラブ人も交易に長けた民族で、次第に紅海での主導権を奪い始めたのです。
そして10世紀、エチオピア高原にアガウ族がザグウェ王国を建国するとアクスムは南に強大な敵と接するようになりました。ただアクスムとザグウェの関係は良く分かっておらず、衰退したアクスムを受け継いだのがザグウェ王国だという説もあります。11世紀頃には、ザグウェ朝がアクスムの故地を支配するようになりました。
このザグウェ朝にイクノ・アムラク(?~1285年)という人物が登場します。アムラクはアクスム王国最後の王デイルナードの子孫を称し、ザグウェ朝を滅ぼし自らの王朝を建国しました。これがソロモン朝で、1974年最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世が革命で倒されるまで続きます。ですからエチオピア王国(帝国)は13世紀から20世紀まで続いた長い歴史を誇ります。そしてイクノ・アムラクがアクスム王家の血を引くという話が本当なら紀元前から続く世界史上稀にみる古い王朝だともいえるのです。このソロモン朝もキリスト教エチオピア正教会を国教とするキリスト教国でした。
エチオピア正教会は、サハラ以南で唯一植民地時代以前から存在する教会で、現在でもエチオピアを中心に3600万人の信者がいるそうです。ユニークな歴史を持つエチオピアに興味が尽きません。
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