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2018年11月

2018年11月 7日 (水)

薩摩藩の幕末維新Ⅴ 鳥羽伏見の戦い

 長州藩で椋梨藤太ら恭順派をクーデターで倒し、桂小五郎、高杉晋作を中心とする尊王攘夷派が武装強化し幕府に反抗の姿勢を示し始めると、将軍後見役一橋慶喜をはじめとする幕府強硬派は今度こそ長州藩を完膚なきまでに潰し、幕府に批判的な諸藩を震え上がらせようと考えます。慶喜は朝廷を動かし、1866年1月、長州処分の最終案を奏上、勅許されました。
 慶喜は京都に駐在する各藩の有力者を呼び、長州再征討の準備を行うよう下命しますが、各藩は言い訳を繰り返しなかなか従おうとしませんでした。特に薩摩藩は、「すでに長州藩は朝命に従っている。今回の征討は無用の戦であって我が藩は協力できない」と突っぱねます。幕府の威勢が強い時でしたらただ命じれば従うところですが、この時幕府の力は弱体化しており、有力外様の薩摩藩をどうすることもできませんでした。
 薩摩藩は、薩長同盟に従って長州再征討を遅らせる時間稼ぎをすると同時に、坂本龍馬の亀山社中を使ってミニエー銃、アームストロング砲など最新兵器をひそかに長州に運び入れました。長州藩は先込めながら銃身にライフリングが施され従来の火縄銃の10倍の射程距離と命中精度のあるミニエー銃を4300挺、旧式のゲベール銃も3000挺集めます。アームストロング砲も導入し、大村益次郎(村田蔵六から改名)の鍛えた洋式訓練を施した諸隊をもって幕府軍を待ち構えました。
 徳川十四代将軍家茂も後見役一橋慶喜とともに大坂城に入ります。尾張の徳川慶勝は今回征討総督就任を拒否したため、紀州徳川茂承(もちつぐ)、老中小笠原長行(肥前唐津藩主)らが分担して各方面から長州に攻め入る手筈となりました。それでも12万の大軍が集まったのですから長州藩存亡の危機でした。幕府軍は芸州口、石州口、小倉口、大島口の四方から攻撃したため、四境戦争とも呼びます。
 戦闘は1866年6月幕府艦隊の大島砲撃によって開始されました。兵力劣勢(かき集めても1万に満たない)の長州軍は最初から大島を捨てていました。簡単に大島を占領する幕府軍ですが、主攻勢正面である芸州口では、戦国時代さながらに法螺貝を吹きながら攻めてくる幕府軍先鋒彦根藩兵に対し長州軍は地面に伏せ遮蔽物に隠れながらミニエー銃で猛射を浴びせ大混乱に陥れます。石州口では大村益次郎自らが指揮し、紀州藩兵、鳥取藩兵を追いまくり浜田城を占領しました。この二つの方面は、幕府方も攻めあぐねたため膠着します。
 一番の激戦は小倉口でした。高杉晋作は奇兵隊はじめ諸隊から成る主力3千を率い関門海峡を渡海、激しい戦闘の末小倉城を落とします。そんな中、8月29日病弱だった将軍家茂が大坂城で死去、20歳の若さでした。名目ではあっても総大将だった将軍家茂の死去で幕府軍の士気は目に見えて衰え、老中小笠原長行自らが率いた九州諸藩の軍勢も、長州軍に敗れ本営小倉城までが落とされたことで崩壊します。嫌々出陣していた肥後藩はじめ九州諸藩は幕府を見限り勝手に帰国し始めました。
 そんな中、一橋慶喜は自ら出陣して幕府軍の士気を鼓舞しようと考えますが、すでにそのような機会は去っていました。九州諸藩が幕府の命令を聞かず勝手に撤兵した時点で幕府は滅んだと言っても過言ではありますまい。老中板倉勝静、小笠原長行らは慶喜に将軍就任を願い出ますが、慶喜はこれを拒否、徳川宗家の家督相続のみを認めました。結局同年12月、渋々慶喜は十五代将軍に就任します。
 1867年1月孝明天皇が崩御されました。第二皇子明治天皇が即位されます。14歳の若さでした。外祖父(母の父)中山忠能は最初公武合体派でしたが今では岩倉具視、薩摩の大久保利通らと気脈を通じる勤王倒幕派でした。忠能の息子忠光は天誅組の乱をおこし長州に逃れますがそこで暗殺されています。幕府方は中山忠能の京都政界復帰を甘く考えていたと思います。禁門の変で暗躍し孝明天皇の不興を買い謹慎処分をうけていた忠能は、孫の即位で復権したのです。
 忠能は、孝明天皇の命令ということで謹慎処分を受けていた岩倉具視、有栖川宮など勤王倒幕派の公卿たちに特赦を出します。将軍となった慶喜は、1867年5月薩摩の島津久光、宇和島の伊達宗城、土佐の山内容堂、越前の松平春嶽を呼び長州処分を巡る四侯会議を開きました。ところが久光らは長州の罪を許すべしと唱えたため会議は決裂します。薩摩藩は既に長州藩と結び倒幕を決意していたのです。
 土佐藩でも坂本龍馬の発案で参政後藤象二郎が慶喜へ大政奉還の建白書を出します。土佐藩は徳川幕府を見限りつつも、何とか戦乱にならぬよう軟着陸を試みていました。この段階にきて薩摩と長州が同盟を結んでいるらしいことが明らかになります。薩摩藩は岩倉を通じて朝廷に働きかけ長州藩赦免の運動を始めていました。幕府を無視し朝廷に直接働きかけることは、江戸幕府の秩序もとではありえない暴挙でしたが、時代はそこまで動いていたのです。
 徳川幕府の行く末に悲観した慶喜は、1867年10月14日土佐藩の建白を容れ大政奉還を朝廷に申し出ました。慶喜が政権を返上したことで、王政復古の大号令が発せられます。次の政体を決めるため同年12月京都御所小御所において有栖川宮熾仁を議長とし有力公家と在京の有力大名を集め会議が開かれました。これを小御所会議と呼びます。ところがすでに10月には長州藩朝敵赦免の内諾、薩摩藩長州藩に倒幕の密勅が中山忠能を通じて下されていました。
 小御所会議では、土佐の山内容堂が慶喜を次の政体に入れるよう強硬に主張、大紛糾します。会議に参加していた薩摩の大久保利通は、薩摩藩兵を率い御所の庭に控えていた西郷に善後策を尋ねる使者を出しました。そのとき西郷は「一蔵どんに伝えてくいやんせ。おはんの刀は斬れもすか、と」と答えたそうです。これは大久保に容堂と刺し違える覚悟で挑めという意味です。再開した会議で大久保の悲壮な決意に気付いた容堂は沈黙、結局慶喜の辞官納地が決まったのみでした。ただ、長州藩赦免も正式に決定します。
 これを受けた薩摩長州両藩は藩兵を次々と上洛させます。その数5千。一方、大坂城に退いた慶喜は会津・桑名藩兵と幕府歩兵隊、新撰組などから成る1万5千の兵力を有していました。小御所会議の決定は慶喜のもとにも伝えられますが、薩長が主導して旧幕府方を追い詰めようとする動きに大坂城の旧幕府方は激高します。慶喜は暴発に反対でしたが、兵士たちが強硬に詰め寄ったため、上洛を許可しました。
 1万5千の兵が動くのですから、何もないわけがありません。旧幕府方は強訴のつもりでも、薩長はそう受け取りませんでした。1868年1月3日、鳥羽街道を封鎖していた薩摩藩兵と旧幕府軍先鋒の間で小競り合いが発生、これをきっかけに鳥羽伏見の戦いが始まります。戦いは数にものを言わせ押しつぶそうとする旧幕府方に、ミニエー銃など近代兵器で武装した薩長軍が対抗するという図式でしたが、間もなく薩長方に錦旗が翻りました。これこそ岩倉具視らがひそかに準備した錦の御旗で、これを見た旧幕府方は自分たちが賊軍になったと絶望的気分になります。
 官軍となった薩長方にそれまで日和見だった各藩が次々と参加、旧幕府方として天王山に布陣していた津藩などは、大砲の向きを一夜にして変え旧幕府方を砲撃するという酷い寝返りをしました。味方にまで裏切られ旧幕府軍は総崩れになります。途中淀城に入り籠城しようとしますが、淀藩はこれを拒否し城門を閉じました。淀藩主は老中稲葉正邦です。その藩主が江戸にいるにもかかわらず、淀藩は主君を見捨てて官軍方についたのです。時世の恐ろしさでした。
 敗残兵は次々と大坂城に逃げ込みます。ですが大阪城は難攻不落、籠城策を取れば勝敗はまだ分かりません。ところが肝心の慶喜は、賊軍になった衝撃から秘かに大坂城を脱出、海路江戸に逃げ帰り謹慎してしまいます。取り残された旧幕府軍の兵士たちの哀れさをどうでしょう。総大将が逃げたとあっては籠城もへったくれもなく、各々故郷を目指し落ちていきます。
 1月7日、慶喜追討令が出されました。薩長を中心とする22藩の軍勢が江戸へ向け出発します。徳川家の哀れさは、徳川御三家の尾張藩、紀州藩がこれに加わっていたことです。しかも井伊直弼の彦根藩ですら官軍に付きます。尾張藩は、もともと徳川宗家と仲が悪く勤王派に近い藩論でしたので理解できますが、紀州藩、彦根藩に至っては敵中で孤立し滅ぼされれるよりはと、徳川宗家を見限ったのです。
 激動の戊辰戦争の始まりでした。次回は江戸無血開城、越後、奥羽の戦いを描きます。

薩摩藩の幕末維新Ⅳ 薩長同盟

 島津久光は藩兵千人を率い上洛、調停工作により勅許を受け幕府に一橋慶喜の将軍後見役を認めさせるなどある程度の成功を収めると朝廷に対する働きかけは少なくなります。一方長州藩は周布政之助、桂小五郎らが中心となり藩論を公武合体から攘夷決行に統一、朝廷に対しすさまじい働きかけを行いました。このあたり、久光の凡庸さなのでしょうが京都政界の動きは長州藩を中心に動き始めます。
 薩摩藩では、大きく後れを取った京都で主導権を取り戻すため奄美大島に流されていた西郷吉之助を呼び戻しました。ただ薩摩藩の方針は攘夷は時期尚早、公武合体の推進でしたので劣勢は否めません。攘夷派は三条実美、姉小路公知ら堂上公家を動かし将軍家茂を上洛させ、孝明天皇と共に大和行幸、そこで攘夷を約束させるという策謀を図るほど暴走しました。
 1863年5月、攘夷派の中心人物姉小路公知が暗殺されます。嫌疑は薩摩藩士田中新兵衛にかけられ田中は一言の弁明もすることなく自刃しました。攘夷派に牛耳られていた朝廷は、薩摩藩の出仕を禁じ乾門守備も免じます。窮地に立った薩摩藩は、当時京都守護職に任じられていた会津藩と急接近、攘夷派を陰で操る長州藩を京都から追い落とすべく薩会同盟を秘かに結びます。薩摩側は西郷、小松帯刀ら、会津からは秋月梯次郎が出て交渉を纏めました。
 同年8月18日、会津藩と薩摩藩は連合して御所の九門を固め、長州藩の堺町御門警備を免じます。同時に朝廷を動かし三条実美ら攘夷派公卿七名の朝廷出仕を停止しました。三条らは京都を追われ長州藩を頼って落ちていきました。これを七卿落ちと呼びます。朝廷は一気に公武合体派が実権を握る事となりました。しかし、尊王攘夷は武士だけでなく庶民の素直な気持ちでもあったため世間から薩賊会奸と忌み嫌われます。特に花柳界は長州藩が長年にわたり大金を落としていた為長州贔屓が多く、桂小五郎などは京都の芸妓幾松に匿われ九死に一生を得ます。ちなみにこの幾松こそ後の木戸孝允(桂小五郎)夫人木戸松子でした。
 政変により京都を追われた長州藩ですが、京都に残った攘夷派は会津藩御用を務める新撰組の弾圧を受けます。桂自身も京都に居れなくなり一時但馬国出石に潜伏したほどでした。長州藩では兵を率いて京都に迫り事態を打開しようという過激な意見が主流を占めるようになります。桂小五郎、高杉晋作らは反対したそうですが、政変で京都を追われた恨みを抱く藩士が多く、1864年6月福原越後、益田親施、国司信濃ら三家老に率いられた長州藩兵三千が京都に侵入、会津藩、薩摩藩兵らと京都御所蛤御門などを巡って激しく戦いました。これを蛤御門の変、あるいは禁門の変と呼びます。しかし多勢に無勢、長州藩は敗退し久坂玄瑞、来島又兵衛ら有力者が次々と戦死しました。
 間の悪いことに、同年6月長州藩は米英仏蘭4か国連合艦隊17隻の侵攻を受けます。これは関門海峡を通る外国船を長州藩の砲台が攻撃したことに対する報復です。長州藩の砲台はすべて潰され、陸戦隊の上陸すら許します。大きな損害を出した長州藩ですが、そのあとの停戦交渉で責任をすべて幕府に押し付けることに成功しました。この時の長州藩全権は高杉晋作でした。
 さて禁門の変を起こした長州藩討つべしという声が幕府内で上がります。その急先鋒は将軍後見役一橋慶喜でした。尾張藩の前々藩主徳川慶勝を征討総督とし1864年8月尾張藩、越前藩、西国諸藩を中心に35藩15万の大軍が長州を撃つべく進発しました。薩摩藩もこれに加わり、西郷吉之助は征長軍参謀に任ぜられます。幕府も薩摩藩の実力を認めざるを得ませんでした。
 ただ、各藩は無理やり動員され戦意が低かったので本格的攻撃は行われず睨み合いが続きます。西郷は征討総督徳川慶勝に意見具申し長州処分を一任させられました。慶勝も長州に同情的で無用の恨みを買うことは避けたかったので渡りに船でした。西郷は単身長州に乗り込み、三家老の切腹、藩主の恭順という寛大な条件を示します。長州藩内で実権を握った恭順派の椋梨藤太らはこれを受け入れ第一次長州征伐は戦になることなく終わりました。
 幕府の征討軍が去ると、長州藩では高杉晋作が1864年12月功山寺決起を起こしクーデターで実権を奪いました。高杉は藩内の恭順派を粛清、出石に潜伏した桂小五郎を呼び戻し桂を中心に長州藩は尊王攘夷で纏まります。そのころ薩摩藩でも西郷らが公武合体から倒幕へ意識を変えつつありました。第一次長州征伐の醜態で幕府を見限ったのです。
 尊王攘夷派は長州藩と薩摩藩が結べば倒幕が成ると信じます。ところが両藩はたがいに殺し合った仇敵同士。現実的には実現しがたいことも承知していました。桂、高杉らは来るべき幕府の長州再征討に向け藩全体を上げて武装強化に邁進します。村田蔵六(大村益次郎)を軍制改革の責任者とし洋式軍事教練を施しました。また奇兵隊など諸隊を編成しミニエー銃などの最新兵器導入を図ります。
 しかし、長州藩に武器弾薬を売ることは幕府によって禁じられていました。そこで登場したのが土佐脱藩浪士坂本龍馬です。坂本は長崎に亀山社中(後に海援隊に発展)という貿易商社を作っており、坂本の仲介でまず薩摩藩が武器を購入、それを亀山社中が秘かに長州に運ぶという作戦を考えます。これは坂本の発案とも、薩摩藩が坂本を動かしたとも言われますが、まず経済的に結びつくことで薩長同盟を実現させようという方策でした。
 1866年1月、坂本龍馬、中岡慎太郎などの奔走で京都の小松帯刀邸において長州藩の桂小五郎は薩摩の西郷吉之助らと会います。両者は討幕という大義のために恨みを忘れ6か条から成る薩長同盟を締結しました。この動きは幕府も会津藩も掴めなかったそうです。この瞬間、倒幕計画はなったとも言えます。
 次回、第二次長州征伐の顛末、そして鳥羽伏見に至る歴史を語ることとしましょう。

薩摩藩の幕末維新Ⅲ 薩英戦争

 1858年名君斉彬の死後、薩摩藩主となったのは異母弟久光の子忠義でしたが、後見として藩の実権を握ったのは久光ではなく、当時まだ生きていた斉彬、久光の父斉興でした。斉興は斉彬の政策をことごとく否定し集成館事業も閉鎖状態となります。斉興は翌1859年に死去、こうしてようやく久光は藩の実権を取り戻しました。
 斉彬の死と同じ年の12月、幕府に追われた勤王僧月照が薩摩を頼って逃げてきます。薩摩藩は後難を恐れ月照をひそかに亡き者にしようとしました。薩摩藩の心あるものは、こんなことをすれば薩摩藩は天下に信頼を失うと藩の方針に反発、月照を薩摩に招き入れた西郷吉之助は絶望し錦江湾に浮かべた船上、月照と無理心中を図ります。ところが西郷だけが奇跡的に助かり、薩摩藩は西郷の死を偽装し、菊池源吾と名前を変えさせ奄美大島に流しました。西郷は当時死を覚悟し、奄美大島で現地妻(愛加那)を娶り子をなします。
 西郷は居なくなりましたが、大久保一蔵、岩下左次衛門らが中心となり下級武士を中心として百余名が集まり精忠組を結成しました。彼らは京に上って京都所司代、九条関白を粛清、江戸の同志は大老井伊直弼を暗殺し東西呼応して討幕の狼煙を上げようと計画します。この報告を受けた久光、忠義らは驚いて精忠組に思いとどまるよう説得しました。
 
 ところが江戸では1860年3月24日、水戸脱藩浪士に一部薩摩脱藩浪士が加わり桜田門外で大老井伊直弼を襲撃、殺してしまいます。大混乱に陥る幕府ですが、老中安藤信正らは過激な志士たちをこれ以上弾圧し混乱を助長させることを危惧し、公武合体による局面打開に舵を切りました。1861年12月、皇女和宮の将軍家茂への降嫁でこれは成功したかに見えました。が、志士たちは幕府主導では困難な時局を収拾する力なしとして、以後倒幕の意思をはっきりと示し始めます。
 1862年3月、久光は藩兵千人を率い上洛を図りました。亡き異母兄斉彬の真似をし実力をもって公武合体の実を上げ幕政改革に乗り出すという意図でしたが、すでに時局は倒幕と佐幕の争いになっており、時代遅れの考えでした。すでに上洛していた精忠組の面々は久光の真意を知り絶望、久光に頼らず京都所司代と関白の暗殺を実行し倒幕の流れを作ろうと京都寺田屋に集まります。激怒した久光は、同じ精忠組の仲間に鎮圧を命じました。勤王倒幕を誓い合った仲間同士による壮絶な殺し合いです。有馬新七ら6名が即死、負傷した森山、橋口も翌日藩邸で自刃を命じられました。これを寺田屋事件と呼びます。
 藩内過激派の粛清に成功した久光は、京都で政治工作し勅使大原重徳とともに江戸に下りました。一橋慶喜の将軍後見役就任、松平春嶽の政治総裁職就任などの勅許を幕府に認めさせ、意気揚々と帰国の途に就きます。その途中、1862年9月14日事件が起こりました。武蔵国生麦村(現横浜市鶴見区)で久光の行列を馬上横切ったイギリス人4名に斬りつけ、1名死亡2名に重傷を負わせたのです。所謂生麦事件です。
 怒ったイギリスは、幕府に賠償金10万ポンド、薩摩藩にも犯人の引き渡しと2万5千ポンドを要求しました。幕府は渋々賠償金を支払いましたが、薩摩藩はこれを拒否。イギリスは1863年8月、7隻の軍艦を錦江湾に派遣し薩摩藩に謝罪と賠償を要求しました。日本では大名行列の前を横切るのは言語道断、斬られても文句言えません。薩摩藩はイギリスの脅しに屈せず抗戦の構えを見せます。イギリス艦隊は薩摩藩の汽船を拿捕、これがきっかけで薩英戦争が始まりました。
 久光と藩主忠義は、鹿児島がイギリス艦隊の射程圏内だったことから奥地の西田村千眼寺に本営を移します。薩摩藩の砲台はイギリス艦隊の艦砲射撃ですべて沈黙、鹿児島市街も砲撃で10分の1が焼失するという被害を受けました。しかし薩摩藩側は、どんなに損害を受けても戦意旺盛でイギリス側もユーリアス号艦長ジョスリング大佐をはじめ13名戦死、負傷者も50名を数えます。戦闘は3日間続きますが、弾薬の欠乏と船体の修理のためイギリス艦隊はついに撤退しました。
 形の上では強大なイギリス軍を撃退した薩摩藩ですが、損害は予想外に大きく単純な攘夷では通用しないと気づきます。そこで大久保一蔵、岩下方平らを使者としイギリス側と交渉、賠償金2万5千ポンドは幕府の建て替えで支払うことで決着します。ただ下手人引き渡しは行方不明という事で押し通しました。ちなみに建て替えられた賠償金は薩摩藩が払わなかったので幕府の丸損となります。
 日本の植民地化を狙っていたイギリスは、薩摩藩の実力を知りこれを応援することで倒幕を実行させその後乗っ取ろうと画策、薩摩藩に急接近しました。イギリスからの軍艦購入の交渉も成功し武器弾薬調達の目途もつきました。ただそれは薄氷を踏むような危うさでした。この手で植民地化された国はベトナムはじめ数多くあったのです。
 薩摩藩はどのように動くのでしょうか?次回薩長同盟にご期待ください。

薩摩藩の幕末維新Ⅱ 島津斉彬の改革

 島津斉彬(1809年~1858年)は十代藩主斉興の長子です。幼少期から利発で曾祖父重豪に可愛がられました。豪放磊落な重豪に影響され斉彬も洋学に興味を持ちます。ところが周囲からは蘭癖と評され警戒されました。せっかく好転した藩財政が斉彬の代に浪費され借金体質に逆戻りすることを警戒されたのです。俗に斉興の愛妾お由羅が自分の産んだ久光に家督を継がせるためにライバルとなり得る斉彬の兄弟たちを毒殺したとされる所謂お由羅騒動が原因となり斉彬派と久光派に分かれて薩摩藩内で内訌が起こったとされますが、根本的には藩財政を巡る考え方の違いが原因でした。
 ただお由羅が薩摩藩乗っ取りを画策したのは事実らしく、お由羅を暗殺しようとした斉彬派13名切腹、50名が遠島謹慎処分となっています。一説では調所広郷の失脚も彼が反斉彬派の筆頭だったことが原因だったとも言われるほどです。斉彬は、父斉興がなかなか家督を譲らなかったため世子として40台まで据え置かれました。
 斉彬は世子時代から老中阿部正弘、宇和島藩主伊達宗城、越前藩主松平春嶽らと交流を深め世間では英邁の評判を得ていました。幕府改革に斉彬の手腕を期待する彼らは、薩摩藩に圧力を掛け斉彬の家督継承を迫ります。こうして斉興は渋々隠居、1851年斉彬が十一代藩主となりました。
 1853年、浦賀沖にペリー艦隊来航。時代は激動の幕末に突入します。斉彬らは、幕府の危機に攘夷派の急先鋒水戸の徳川斉昭の第七子で一橋家を継いでいた慶喜に期待します。ところが1858年大老に就任した彦根藩主井伊直弼は才気走る慶喜を嫌い、温厚な紀州藩主徳川慶福を徳川幕府将軍に据えました。すなわち徳川第十四代家茂です。直弼は斉昭を隠居に追い込み斉昭派=一橋派に弾圧を加えます。これを安政の大獄と呼びます。
 斉彬は、徳川斉昭のような一方的攘夷派ではありませんでした。攘夷を行うには実力が必要だと認識、積極的に西洋の技術を取り入れます。洋式造船、反射炉、ガラス工芸などの集成館事業を興しました。また人材の抜擢も積極的に行い、下級武士の西郷吉之助(隆盛)、大久保一蔵(正助、後の利通)らは斉彬によって見出されました。
 幕府に対する発言権を強めるため十三代将軍家定の正室として養女篤姫を送りこんだのも斉彬でした。篤姫は島津一族今泉島津忠剛の娘、島津九代藩主斉宣の孫、後の天璋院篤姫です。ただこの工作は家定が急逝したために失敗に終わりました。
 斉彬が、単純な攘夷ではなく洋式技術特に軍事技術を取り入れた後に実力を蓄えての攘夷という発想を持ったことは彼がいかに現実主義者で優れていたかの証明でしょう。同じ明治維新の原動力となった長州藩がこの発想に至ったのは1864年米英仏欄4か国連合艦隊に敗れた後でしたので、斉彬の先見性が分かります。当時の薩摩藩はあくまで佐幕、徳川幕府を改革し欧米列強の侵略を防ぐという発想でした。
 大老井伊直弼による安政の大獄が吹き荒れる中、斉彬は実力をもって幕政改革させるべく藩兵5千を率いて上洛を計画。これが実現していれば幕末の歴史は随分変わっていただろうと想像できますが、出兵準備の閲兵中の1858年8月16日、病を発し倒れます。治療の甲斐なく8月24日死去、享年50歳。久光派による毒殺も噂されましたが私は病説を採ります。薩摩藩主には斉彬の遺言により久光の子忠義が指名されますが、まだ幼少だったため久光が貢献する事となりました。
 斉彬の死後、時代は急旋回することとなります。寺田屋事件、生麦事件、そして薩英戦争、斉彬の薫陶を受けた西郷、大久保らはどう動くのでしょうか?

薩摩藩の幕末維新Ⅰ 調所広郷

 島津氏第二十五代、薩摩藩主としては第八代、島津重豪(しげひで、1745年~1833年)が藩主となった時、500万両という膨大な借金がありました。これは幕府の外様大名圧迫政策で各地の治水土木工事を命じ外様大名が力をつけないようしたのです。特に1753年の木曽川治水では30万両という借金を作って完成させ、そのために藩の工事惣奉行平田靱負(ゆきえ)は責任を取り工事完了後自刃するほどでした。
 また江戸中期以降、日本の経済発展に伴い物価は上昇し少々の倹約くらいでは追いつかないほど幕府や各藩の財政は悪化していました。ですから八代将軍吉宗の倹約より尾張宗春の経済振興策の方が正しい政策でした。さて、薩摩藩でも、最初は吉宗に倣い徹底的緊縮財政でこの危機の乗り切ろうとします。これは重豪が隠居し息子斉宣(九代)の時でしたが、当然のごとく大失敗しました。激怒した重豪は斉宣を強制的に隠居させ孫斉興を藩主に据えます。家督相続時斉興はまだ17歳。65歳だった重豪が藩政を見ました。
 重豪はこの危機を脱却するため一人の人物を抜擢します。茶坊主上がりのその人物は調所笑左衛門広郷(ずしょしょうざえもんひろさと、1776年~1849年)といいました。広郷はまず薩摩藩の債権者である大阪商人たちを集めます。ところが彼らは利子すら満足に返さない薩摩藩に対し不満を爆発させました。広郷はそこを宥め透かし時には脅迫して250年賦無利子償還という半ば詐欺的な方法で解決してしまいます。大坂商人たちも借金を踏み倒されるよりはと渋々認めざるを得ませんでした。
 また広郷は、特産のサトウキビを南西諸島で密貿易することで財を蓄積します。藩内の殖産興業にも尽力、投資を盛んにし専売制度を採用し藩財政の健全化に努めました。おかげで広郷の晩年(1840年頃)には逆に200万両の余剰金ができるほどだったと伝えれます。ところが広郷の密貿易は幕府隠密のかぎつけるところとなり、責めを負った広郷は1849年江戸藩邸で自害しました。
 ただ調所広郷の改革は、薩摩藩が幕末で雄飛する原動力となりました。薩摩藩であれ長州藩であれ西国雄藩が幕末に活躍できたのは内政改革で軍資金があったからに他なりません。百万石の加賀藩、六十二万石の仙台藩が大藩であるにもかかわらず活躍できなかったのは、改革に失敗したか改革そのものに着手できず先立つものである軍資金がなかったからです。
 広郷は家老として重豪、十代藩主斉興に仕えますが、彼の改革は藩財政を潤す一方領民の生活を困窮させます。特にドル箱のサトウキビ生産に携わった奄美大島の農民に対する収奪は苛斂誅求を極めました。斉興の跡を継いだ十一代斉彬(1809年~1858年)は、調所が築いた財を基本にし幕末の政界に打って出ます。
 次回は斉彬の登場と幕末政界の動きについて記しましょう。

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