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2018年11月 7日 (水)

薩摩藩の幕末維新Ⅴ 鳥羽伏見の戦い

 長州藩で椋梨藤太ら恭順派をクーデターで倒し、桂小五郎、高杉晋作を中心とする尊王攘夷派が武装強化し幕府に反抗の姿勢を示し始めると、将軍後見役一橋慶喜をはじめとする幕府強硬派は今度こそ長州藩を完膚なきまでに潰し、幕府に批判的な諸藩を震え上がらせようと考えます。慶喜は朝廷を動かし、1866年1月、長州処分の最終案を奏上、勅許されました。
 慶喜は京都に駐在する各藩の有力者を呼び、長州再征討の準備を行うよう下命しますが、各藩は言い訳を繰り返しなかなか従おうとしませんでした。特に薩摩藩は、「すでに長州藩は朝命に従っている。今回の征討は無用の戦であって我が藩は協力できない」と突っぱねます。幕府の威勢が強い時でしたらただ命じれば従うところですが、この時幕府の力は弱体化しており、有力外様の薩摩藩をどうすることもできませんでした。
 薩摩藩は、薩長同盟に従って長州再征討を遅らせる時間稼ぎをすると同時に、坂本龍馬の亀山社中を使ってミニエー銃、アームストロング砲など最新兵器をひそかに長州に運び入れました。長州藩は先込めながら銃身にライフリングが施され従来の火縄銃の10倍の射程距離と命中精度のあるミニエー銃を4300挺、旧式のゲベール銃も3000挺集めます。アームストロング砲も導入し、大村益次郎(村田蔵六から改名)の鍛えた洋式訓練を施した諸隊をもって幕府軍を待ち構えました。
 徳川十四代将軍家茂も後見役一橋慶喜とともに大坂城に入ります。尾張の徳川慶勝は今回征討総督就任を拒否したため、紀州徳川茂承(もちつぐ)、老中小笠原長行(肥前唐津藩主)らが分担して各方面から長州に攻め入る手筈となりました。それでも12万の大軍が集まったのですから長州藩存亡の危機でした。幕府軍は芸州口、石州口、小倉口、大島口の四方から攻撃したため、四境戦争とも呼びます。
 戦闘は1866年6月幕府艦隊の大島砲撃によって開始されました。兵力劣勢(かき集めても1万に満たない)の長州軍は最初から大島を捨てていました。簡単に大島を占領する幕府軍ですが、主攻勢正面である芸州口では、戦国時代さながらに法螺貝を吹きながら攻めてくる幕府軍先鋒彦根藩兵に対し長州軍は地面に伏せ遮蔽物に隠れながらミニエー銃で猛射を浴びせ大混乱に陥れます。石州口では大村益次郎自らが指揮し、紀州藩兵、鳥取藩兵を追いまくり浜田城を占領しました。この二つの方面は、幕府方も攻めあぐねたため膠着します。
 一番の激戦は小倉口でした。高杉晋作は奇兵隊はじめ諸隊から成る主力3千を率い関門海峡を渡海、激しい戦闘の末小倉城を落とします。そんな中、8月29日病弱だった将軍家茂が大坂城で死去、20歳の若さでした。名目ではあっても総大将だった将軍家茂の死去で幕府軍の士気は目に見えて衰え、老中小笠原長行自らが率いた九州諸藩の軍勢も、長州軍に敗れ本営小倉城までが落とされたことで崩壊します。嫌々出陣していた肥後藩はじめ九州諸藩は幕府を見限り勝手に帰国し始めました。
 そんな中、一橋慶喜は自ら出陣して幕府軍の士気を鼓舞しようと考えますが、すでにそのような機会は去っていました。九州諸藩が幕府の命令を聞かず勝手に撤兵した時点で幕府は滅んだと言っても過言ではありますまい。老中板倉勝静、小笠原長行らは慶喜に将軍就任を願い出ますが、慶喜はこれを拒否、徳川宗家の家督相続のみを認めました。結局同年12月、渋々慶喜は十五代将軍に就任します。
 1867年1月孝明天皇が崩御されました。第二皇子明治天皇が即位されます。14歳の若さでした。外祖父(母の父)中山忠能は最初公武合体派でしたが今では岩倉具視、薩摩の大久保利通らと気脈を通じる勤王倒幕派でした。忠能の息子忠光は天誅組の乱をおこし長州に逃れますがそこで暗殺されています。幕府方は中山忠能の京都政界復帰を甘く考えていたと思います。禁門の変で暗躍し孝明天皇の不興を買い謹慎処分をうけていた忠能は、孫の即位で復権したのです。
 忠能は、孝明天皇の命令ということで謹慎処分を受けていた岩倉具視、有栖川宮など勤王倒幕派の公卿たちに特赦を出します。将軍となった慶喜は、1867年5月薩摩の島津久光、宇和島の伊達宗城、土佐の山内容堂、越前の松平春嶽を呼び長州処分を巡る四侯会議を開きました。ところが久光らは長州の罪を許すべしと唱えたため会議は決裂します。薩摩藩は既に長州藩と結び倒幕を決意していたのです。
 土佐藩でも坂本龍馬の発案で参政後藤象二郎が慶喜へ大政奉還の建白書を出します。土佐藩は徳川幕府を見限りつつも、何とか戦乱にならぬよう軟着陸を試みていました。この段階にきて薩摩と長州が同盟を結んでいるらしいことが明らかになります。薩摩藩は岩倉を通じて朝廷に働きかけ長州藩赦免の運動を始めていました。幕府を無視し朝廷に直接働きかけることは、江戸幕府の秩序もとではありえない暴挙でしたが、時代はそこまで動いていたのです。
 徳川幕府の行く末に悲観した慶喜は、1867年10月14日土佐藩の建白を容れ大政奉還を朝廷に申し出ました。慶喜が政権を返上したことで、王政復古の大号令が発せられます。次の政体を決めるため同年12月京都御所小御所において有栖川宮熾仁を議長とし有力公家と在京の有力大名を集め会議が開かれました。これを小御所会議と呼びます。ところがすでに10月には長州藩朝敵赦免の内諾、薩摩藩長州藩に倒幕の密勅が中山忠能を通じて下されていました。
 小御所会議では、土佐の山内容堂が慶喜を次の政体に入れるよう強硬に主張、大紛糾します。会議に参加していた薩摩の大久保利通は、薩摩藩兵を率い御所の庭に控えていた西郷に善後策を尋ねる使者を出しました。そのとき西郷は「一蔵どんに伝えてくいやんせ。おはんの刀は斬れもすか、と」と答えたそうです。これは大久保に容堂と刺し違える覚悟で挑めという意味です。再開した会議で大久保の悲壮な決意に気付いた容堂は沈黙、結局慶喜の辞官納地が決まったのみでした。ただ、長州藩赦免も正式に決定します。
 これを受けた薩摩長州両藩は藩兵を次々と上洛させます。その数5千。一方、大坂城に退いた慶喜は会津・桑名藩兵と幕府歩兵隊、新撰組などから成る1万5千の兵力を有していました。小御所会議の決定は慶喜のもとにも伝えられますが、薩長が主導して旧幕府方を追い詰めようとする動きに大坂城の旧幕府方は激高します。慶喜は暴発に反対でしたが、兵士たちが強硬に詰め寄ったため、上洛を許可しました。
 1万5千の兵が動くのですから、何もないわけがありません。旧幕府方は強訴のつもりでも、薩長はそう受け取りませんでした。1868年1月3日、鳥羽街道を封鎖していた薩摩藩兵と旧幕府軍先鋒の間で小競り合いが発生、これをきっかけに鳥羽伏見の戦いが始まります。戦いは数にものを言わせ押しつぶそうとする旧幕府方に、ミニエー銃など近代兵器で武装した薩長軍が対抗するという図式でしたが、間もなく薩長方に錦旗が翻りました。これこそ岩倉具視らがひそかに準備した錦の御旗で、これを見た旧幕府方は自分たちが賊軍になったと絶望的気分になります。
 官軍となった薩長方にそれまで日和見だった各藩が次々と参加、旧幕府方として天王山に布陣していた津藩などは、大砲の向きを一夜にして変え旧幕府方を砲撃するという酷い寝返りをしました。味方にまで裏切られ旧幕府軍は総崩れになります。途中淀城に入り籠城しようとしますが、淀藩はこれを拒否し城門を閉じました。淀藩主は老中稲葉正邦です。その藩主が江戸にいるにもかかわらず、淀藩は主君を見捨てて官軍方についたのです。時世の恐ろしさでした。
 敗残兵は次々と大坂城に逃げ込みます。ですが大阪城は難攻不落、籠城策を取れば勝敗はまだ分かりません。ところが肝心の慶喜は、賊軍になった衝撃から秘かに大坂城を脱出、海路江戸に逃げ帰り謹慎してしまいます。取り残された旧幕府軍の兵士たちの哀れさをどうでしょう。総大将が逃げたとあっては籠城もへったくれもなく、各々故郷を目指し落ちていきます。
 1月7日、慶喜追討令が出されました。薩長を中心とする22藩の軍勢が江戸へ向け出発します。徳川家の哀れさは、徳川御三家の尾張藩、紀州藩がこれに加わっていたことです。しかも井伊直弼の彦根藩ですら官軍に付きます。尾張藩は、もともと徳川宗家と仲が悪く勤王派に近い藩論でしたので理解できますが、紀州藩、彦根藩に至っては敵中で孤立し滅ぼされれるよりはと、徳川宗家を見限ったのです。
 激動の戊辰戦争の始まりでした。次回は江戸無血開城、越後、奥羽の戦いを描きます。

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