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2018年11月 7日 (水)

薩摩藩の幕末維新Ⅱ 島津斉彬の改革

 島津斉彬(1809年~1858年)は十代藩主斉興の長子です。幼少期から利発で曾祖父重豪に可愛がられました。豪放磊落な重豪に影響され斉彬も洋学に興味を持ちます。ところが周囲からは蘭癖と評され警戒されました。せっかく好転した藩財政が斉彬の代に浪費され借金体質に逆戻りすることを警戒されたのです。俗に斉興の愛妾お由羅が自分の産んだ久光に家督を継がせるためにライバルとなり得る斉彬の兄弟たちを毒殺したとされる所謂お由羅騒動が原因となり斉彬派と久光派に分かれて薩摩藩内で内訌が起こったとされますが、根本的には藩財政を巡る考え方の違いが原因でした。
 ただお由羅が薩摩藩乗っ取りを画策したのは事実らしく、お由羅を暗殺しようとした斉彬派13名切腹、50名が遠島謹慎処分となっています。一説では調所広郷の失脚も彼が反斉彬派の筆頭だったことが原因だったとも言われるほどです。斉彬は、父斉興がなかなか家督を譲らなかったため世子として40台まで据え置かれました。
 斉彬は世子時代から老中阿部正弘、宇和島藩主伊達宗城、越前藩主松平春嶽らと交流を深め世間では英邁の評判を得ていました。幕府改革に斉彬の手腕を期待する彼らは、薩摩藩に圧力を掛け斉彬の家督継承を迫ります。こうして斉興は渋々隠居、1851年斉彬が十一代藩主となりました。
 1853年、浦賀沖にペリー艦隊来航。時代は激動の幕末に突入します。斉彬らは、幕府の危機に攘夷派の急先鋒水戸の徳川斉昭の第七子で一橋家を継いでいた慶喜に期待します。ところが1858年大老に就任した彦根藩主井伊直弼は才気走る慶喜を嫌い、温厚な紀州藩主徳川慶福を徳川幕府将軍に据えました。すなわち徳川第十四代家茂です。直弼は斉昭を隠居に追い込み斉昭派=一橋派に弾圧を加えます。これを安政の大獄と呼びます。
 斉彬は、徳川斉昭のような一方的攘夷派ではありませんでした。攘夷を行うには実力が必要だと認識、積極的に西洋の技術を取り入れます。洋式造船、反射炉、ガラス工芸などの集成館事業を興しました。また人材の抜擢も積極的に行い、下級武士の西郷吉之助(隆盛)、大久保一蔵(正助、後の利通)らは斉彬によって見出されました。
 幕府に対する発言権を強めるため十三代将軍家定の正室として養女篤姫を送りこんだのも斉彬でした。篤姫は島津一族今泉島津忠剛の娘、島津九代藩主斉宣の孫、後の天璋院篤姫です。ただこの工作は家定が急逝したために失敗に終わりました。
 斉彬が、単純な攘夷ではなく洋式技術特に軍事技術を取り入れた後に実力を蓄えての攘夷という発想を持ったことは彼がいかに現実主義者で優れていたかの証明でしょう。同じ明治維新の原動力となった長州藩がこの発想に至ったのは1864年米英仏欄4か国連合艦隊に敗れた後でしたので、斉彬の先見性が分かります。当時の薩摩藩はあくまで佐幕、徳川幕府を改革し欧米列強の侵略を防ぐという発想でした。
 大老井伊直弼による安政の大獄が吹き荒れる中、斉彬は実力をもって幕政改革させるべく藩兵5千を率いて上洛を計画。これが実現していれば幕末の歴史は随分変わっていただろうと想像できますが、出兵準備の閲兵中の1858年8月16日、病を発し倒れます。治療の甲斐なく8月24日死去、享年50歳。久光派による毒殺も噂されましたが私は病説を採ります。薩摩藩主には斉彬の遺言により久光の子忠義が指名されますが、まだ幼少だったため久光が貢献する事となりました。
 斉彬の死後、時代は急旋回することとなります。寺田屋事件、生麦事件、そして薩英戦争、斉彬の薫陶を受けた西郷、大久保らはどう動くのでしょうか?

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