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2018年11月 7日 (水)

薩摩藩の幕末維新Ⅲ 薩英戦争

 1858年名君斉彬の死後、薩摩藩主となったのは異母弟久光の子忠義でしたが、後見として藩の実権を握ったのは久光ではなく、当時まだ生きていた斉彬、久光の父斉興でした。斉興は斉彬の政策をことごとく否定し集成館事業も閉鎖状態となります。斉興は翌1859年に死去、こうしてようやく久光は藩の実権を取り戻しました。
 斉彬の死と同じ年の12月、幕府に追われた勤王僧月照が薩摩を頼って逃げてきます。薩摩藩は後難を恐れ月照をひそかに亡き者にしようとしました。薩摩藩の心あるものは、こんなことをすれば薩摩藩は天下に信頼を失うと藩の方針に反発、月照を薩摩に招き入れた西郷吉之助は絶望し錦江湾に浮かべた船上、月照と無理心中を図ります。ところが西郷だけが奇跡的に助かり、薩摩藩は西郷の死を偽装し、菊池源吾と名前を変えさせ奄美大島に流しました。西郷は当時死を覚悟し、奄美大島で現地妻(愛加那)を娶り子をなします。
 西郷は居なくなりましたが、大久保一蔵、岩下左次衛門らが中心となり下級武士を中心として百余名が集まり精忠組を結成しました。彼らは京に上って京都所司代、九条関白を粛清、江戸の同志は大老井伊直弼を暗殺し東西呼応して討幕の狼煙を上げようと計画します。この報告を受けた久光、忠義らは驚いて精忠組に思いとどまるよう説得しました。
 
 ところが江戸では1860年3月24日、水戸脱藩浪士に一部薩摩脱藩浪士が加わり桜田門外で大老井伊直弼を襲撃、殺してしまいます。大混乱に陥る幕府ですが、老中安藤信正らは過激な志士たちをこれ以上弾圧し混乱を助長させることを危惧し、公武合体による局面打開に舵を切りました。1861年12月、皇女和宮の将軍家茂への降嫁でこれは成功したかに見えました。が、志士たちは幕府主導では困難な時局を収拾する力なしとして、以後倒幕の意思をはっきりと示し始めます。
 1862年3月、久光は藩兵千人を率い上洛を図りました。亡き異母兄斉彬の真似をし実力をもって公武合体の実を上げ幕政改革に乗り出すという意図でしたが、すでに時局は倒幕と佐幕の争いになっており、時代遅れの考えでした。すでに上洛していた精忠組の面々は久光の真意を知り絶望、久光に頼らず京都所司代と関白の暗殺を実行し倒幕の流れを作ろうと京都寺田屋に集まります。激怒した久光は、同じ精忠組の仲間に鎮圧を命じました。勤王倒幕を誓い合った仲間同士による壮絶な殺し合いです。有馬新七ら6名が即死、負傷した森山、橋口も翌日藩邸で自刃を命じられました。これを寺田屋事件と呼びます。
 藩内過激派の粛清に成功した久光は、京都で政治工作し勅使大原重徳とともに江戸に下りました。一橋慶喜の将軍後見役就任、松平春嶽の政治総裁職就任などの勅許を幕府に認めさせ、意気揚々と帰国の途に就きます。その途中、1862年9月14日事件が起こりました。武蔵国生麦村(現横浜市鶴見区)で久光の行列を馬上横切ったイギリス人4名に斬りつけ、1名死亡2名に重傷を負わせたのです。所謂生麦事件です。
 怒ったイギリスは、幕府に賠償金10万ポンド、薩摩藩にも犯人の引き渡しと2万5千ポンドを要求しました。幕府は渋々賠償金を支払いましたが、薩摩藩はこれを拒否。イギリスは1863年8月、7隻の軍艦を錦江湾に派遣し薩摩藩に謝罪と賠償を要求しました。日本では大名行列の前を横切るのは言語道断、斬られても文句言えません。薩摩藩はイギリスの脅しに屈せず抗戦の構えを見せます。イギリス艦隊は薩摩藩の汽船を拿捕、これがきっかけで薩英戦争が始まりました。
 久光と藩主忠義は、鹿児島がイギリス艦隊の射程圏内だったことから奥地の西田村千眼寺に本営を移します。薩摩藩の砲台はイギリス艦隊の艦砲射撃ですべて沈黙、鹿児島市街も砲撃で10分の1が焼失するという被害を受けました。しかし薩摩藩側は、どんなに損害を受けても戦意旺盛でイギリス側もユーリアス号艦長ジョスリング大佐をはじめ13名戦死、負傷者も50名を数えます。戦闘は3日間続きますが、弾薬の欠乏と船体の修理のためイギリス艦隊はついに撤退しました。
 形の上では強大なイギリス軍を撃退した薩摩藩ですが、損害は予想外に大きく単純な攘夷では通用しないと気づきます。そこで大久保一蔵、岩下方平らを使者としイギリス側と交渉、賠償金2万5千ポンドは幕府の建て替えで支払うことで決着します。ただ下手人引き渡しは行方不明という事で押し通しました。ちなみに建て替えられた賠償金は薩摩藩が払わなかったので幕府の丸損となります。
 日本の植民地化を狙っていたイギリスは、薩摩藩の実力を知りこれを応援することで倒幕を実行させその後乗っ取ろうと画策、薩摩藩に急接近しました。イギリスからの軍艦購入の交渉も成功し武器弾薬調達の目途もつきました。ただそれは薄氷を踏むような危うさでした。この手で植民地化された国はベトナムはじめ数多くあったのです。
 薩摩藩はどのように動くのでしょうか?次回薩長同盟にご期待ください。

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