2023年2月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28        
無料ブログはココログ

« 薩摩藩の幕末維新Ⅲ 薩英戦争 | トップページ | 薩摩藩の幕末維新Ⅴ 鳥羽伏見の戦い »

2018年11月 7日 (水)

薩摩藩の幕末維新Ⅳ 薩長同盟

 島津久光は藩兵千人を率い上洛、調停工作により勅許を受け幕府に一橋慶喜の将軍後見役を認めさせるなどある程度の成功を収めると朝廷に対する働きかけは少なくなります。一方長州藩は周布政之助、桂小五郎らが中心となり藩論を公武合体から攘夷決行に統一、朝廷に対しすさまじい働きかけを行いました。このあたり、久光の凡庸さなのでしょうが京都政界の動きは長州藩を中心に動き始めます。
 薩摩藩では、大きく後れを取った京都で主導権を取り戻すため奄美大島に流されていた西郷吉之助を呼び戻しました。ただ薩摩藩の方針は攘夷は時期尚早、公武合体の推進でしたので劣勢は否めません。攘夷派は三条実美、姉小路公知ら堂上公家を動かし将軍家茂を上洛させ、孝明天皇と共に大和行幸、そこで攘夷を約束させるという策謀を図るほど暴走しました。
 1863年5月、攘夷派の中心人物姉小路公知が暗殺されます。嫌疑は薩摩藩士田中新兵衛にかけられ田中は一言の弁明もすることなく自刃しました。攘夷派に牛耳られていた朝廷は、薩摩藩の出仕を禁じ乾門守備も免じます。窮地に立った薩摩藩は、当時京都守護職に任じられていた会津藩と急接近、攘夷派を陰で操る長州藩を京都から追い落とすべく薩会同盟を秘かに結びます。薩摩側は西郷、小松帯刀ら、会津からは秋月梯次郎が出て交渉を纏めました。
 同年8月18日、会津藩と薩摩藩は連合して御所の九門を固め、長州藩の堺町御門警備を免じます。同時に朝廷を動かし三条実美ら攘夷派公卿七名の朝廷出仕を停止しました。三条らは京都を追われ長州藩を頼って落ちていきました。これを七卿落ちと呼びます。朝廷は一気に公武合体派が実権を握る事となりました。しかし、尊王攘夷は武士だけでなく庶民の素直な気持ちでもあったため世間から薩賊会奸と忌み嫌われます。特に花柳界は長州藩が長年にわたり大金を落としていた為長州贔屓が多く、桂小五郎などは京都の芸妓幾松に匿われ九死に一生を得ます。ちなみにこの幾松こそ後の木戸孝允(桂小五郎)夫人木戸松子でした。
 政変により京都を追われた長州藩ですが、京都に残った攘夷派は会津藩御用を務める新撰組の弾圧を受けます。桂自身も京都に居れなくなり一時但馬国出石に潜伏したほどでした。長州藩では兵を率いて京都に迫り事態を打開しようという過激な意見が主流を占めるようになります。桂小五郎、高杉晋作らは反対したそうですが、政変で京都を追われた恨みを抱く藩士が多く、1864年6月福原越後、益田親施、国司信濃ら三家老に率いられた長州藩兵三千が京都に侵入、会津藩、薩摩藩兵らと京都御所蛤御門などを巡って激しく戦いました。これを蛤御門の変、あるいは禁門の変と呼びます。しかし多勢に無勢、長州藩は敗退し久坂玄瑞、来島又兵衛ら有力者が次々と戦死しました。
 間の悪いことに、同年6月長州藩は米英仏蘭4か国連合艦隊17隻の侵攻を受けます。これは関門海峡を通る外国船を長州藩の砲台が攻撃したことに対する報復です。長州藩の砲台はすべて潰され、陸戦隊の上陸すら許します。大きな損害を出した長州藩ですが、そのあとの停戦交渉で責任をすべて幕府に押し付けることに成功しました。この時の長州藩全権は高杉晋作でした。
 さて禁門の変を起こした長州藩討つべしという声が幕府内で上がります。その急先鋒は将軍後見役一橋慶喜でした。尾張藩の前々藩主徳川慶勝を征討総督とし1864年8月尾張藩、越前藩、西国諸藩を中心に35藩15万の大軍が長州を撃つべく進発しました。薩摩藩もこれに加わり、西郷吉之助は征長軍参謀に任ぜられます。幕府も薩摩藩の実力を認めざるを得ませんでした。
 ただ、各藩は無理やり動員され戦意が低かったので本格的攻撃は行われず睨み合いが続きます。西郷は征討総督徳川慶勝に意見具申し長州処分を一任させられました。慶勝も長州に同情的で無用の恨みを買うことは避けたかったので渡りに船でした。西郷は単身長州に乗り込み、三家老の切腹、藩主の恭順という寛大な条件を示します。長州藩内で実権を握った恭順派の椋梨藤太らはこれを受け入れ第一次長州征伐は戦になることなく終わりました。
 幕府の征討軍が去ると、長州藩では高杉晋作が1864年12月功山寺決起を起こしクーデターで実権を奪いました。高杉は藩内の恭順派を粛清、出石に潜伏した桂小五郎を呼び戻し桂を中心に長州藩は尊王攘夷で纏まります。そのころ薩摩藩でも西郷らが公武合体から倒幕へ意識を変えつつありました。第一次長州征伐の醜態で幕府を見限ったのです。
 尊王攘夷派は長州藩と薩摩藩が結べば倒幕が成ると信じます。ところが両藩はたがいに殺し合った仇敵同士。現実的には実現しがたいことも承知していました。桂、高杉らは来るべき幕府の長州再征討に向け藩全体を上げて武装強化に邁進します。村田蔵六(大村益次郎)を軍制改革の責任者とし洋式軍事教練を施しました。また奇兵隊など諸隊を編成しミニエー銃などの最新兵器導入を図ります。
 しかし、長州藩に武器弾薬を売ることは幕府によって禁じられていました。そこで登場したのが土佐脱藩浪士坂本龍馬です。坂本は長崎に亀山社中(後に海援隊に発展)という貿易商社を作っており、坂本の仲介でまず薩摩藩が武器を購入、それを亀山社中が秘かに長州に運ぶという作戦を考えます。これは坂本の発案とも、薩摩藩が坂本を動かしたとも言われますが、まず経済的に結びつくことで薩長同盟を実現させようという方策でした。
 1866年1月、坂本龍馬、中岡慎太郎などの奔走で京都の小松帯刀邸において長州藩の桂小五郎は薩摩の西郷吉之助らと会います。両者は討幕という大義のために恨みを忘れ6か条から成る薩長同盟を締結しました。この動きは幕府も会津藩も掴めなかったそうです。この瞬間、倒幕計画はなったとも言えます。
 次回、第二次長州征伐の顛末、そして鳥羽伏見に至る歴史を語ることとしましょう。

« 薩摩藩の幕末維新Ⅲ 薩英戦争 | トップページ | 薩摩藩の幕末維新Ⅴ 鳥羽伏見の戦い »

 日本史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 薩摩藩の幕末維新Ⅳ 薩長同盟:

« 薩摩藩の幕末維新Ⅲ 薩英戦争 | トップページ | 薩摩藩の幕末維新Ⅴ 鳥羽伏見の戦い »