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2018年12月

2018年12月 1日 (土)

薩摩藩の幕末維新余話

 薩摩藩の幕末維新を書き終えましたが、余韻が冷めやりません。本編では書ききれなかったエピソードがいくつかあるのでご紹介します。

 薩軍に参加した熊本県の部隊は、宮崎八郎の協同隊の他に池辺吉十郎、佐々友房を指導者とする熊本隊7百名がいました。こちらは自由民権運動家の宮崎と違い藩校時習館に学んだ尊王攘夷派。池辺は熊本県少参事を歴任するなど新政府でも登用されました。維新後士族たちが冷遇されることに不満を抱き下野。西郷軍挙兵に同調し参加します。
 熊本隊は、田原坂の戦闘では吉次峠方面を守備、激しく戦います。以後西郷軍の転戦と共に宮崎に入りました。佐々友房は宮崎で負傷し官軍に捕まります。池辺は西南戦争後行方をくらましますが、明治10年10月、政府軍に捕縛され同月26日長崎で斬首。明治時代のジャーナリスト池辺三山は彼の子息です。
 佐々は死罪は免れますが獄中青少年教育の重要性を痛感し明治12年出獄、現代でも名門である濟々黌(甲子園優勝経験あり)を設立しました。また明治21年には濟々黌付属女学校も開設、こちらは現在の尚絅高等学校です。ちなみに彼の孫には、警察・防衛官僚で現在危機管理評論家の佐々淳行氏、その姉で元参議院議員紀平悌子氏(故人)がいます。
 宮崎八郎を出した宮崎家は、八郎の弟たち民蔵、弥蔵、寅蔵(滔天)も有名です。弥蔵は支那の革命に共鳴孫文と交流し支那渡航を本気で考えますが、その矢先病に倒れ死去、享年30歳。民蔵は兄八郎の死後宮崎家の当主となりますが、自由民権運動に身を投じ1902年土地復権同志会を東京で設立、1905年には『土地均享・人類の大権』を記しました。民蔵の活動は頭山満、幸徳秋水ら左右問わず支持されますが、政府は私有財産制の否定につながると危険視します。政府の弾圧を受けますが、一方孫文の革命運動を支持、昭和3年まで生きました。
 末弟の寅蔵(滔天)が一番有名かもしれません。孫文を荒尾の生家に匿ったり、朝鮮の金玉均の亡命も支援しました。金玉均が上海で暗殺されたときは、遺髪と衣服を持ち帰り東京浅草本願寺で葬儀を営むなど信義に厚い人物でした。孫文の辛亥革命を全面的にバックアップ、辛亥革命の対外宣伝にも努め、亡くなる前年まで大陸に渡航したそうです。大正11年12月病死、享年51歳。
 これを書くと身バレしそうであまり書きたくはないんですが、我が家と宮崎家は無関係ではありません。うちの80代になる老母は、女学校時代宮崎民蔵さんの娘さんが恩師でした。娘さんの名前と経歴は私の母が身バレするのでご勘弁ください。NHKの朝ドラでも有名になった柳原白蓮と再婚する宮崎龍介は滔天の長男で、民蔵の娘とは従兄弟同士。柳原白蓮の映画を老母は恩師や女学校仲間と見に行ったそうですが、恩師ははしゃぐでもなく静かに見入っていたそうです。あまり龍介の行状を気に入ってなかったのでは?というのが母の談。
 ちなみに柳原白蓮は、本編で出てきた公卿柳原前光の側室の子で大正天皇の生母柳原愛子の姪にあたります。

薩摩藩の幕末維新Ⅺ 城山に消ゆ(終章)

 西郷軍が人吉盆地から宮崎県に入った時3千人程度に減っていました。新政府軍はこれを鎮圧するため第1旅団、第2旅団、第3旅団を主力とする7万人にも及ぶ大部隊を集めます。すでに三月七日西郷軍の根拠地鹿児島に官軍千数百名が上陸占領していました。官軍には勅使柳原前光が同行しており、旧藩主の国父島津久光と面会します。勅使は久光に西郷軍への協力を止めるよう求めますが、久光は「西郷に加担することはないが、すでに君臣の間柄ではなく自分としては何もできない」と答えました。
 勅使の副使として黒田清隆がいました。皮肉なことに幕末期家臣だった者が上座に座り久光に命令を下す立場になります。勅使が会見を終え帰る時、平伏していた久光が黒田に対し「了介(清隆の事)も随分偉くなったものだな。茶坊主めが」と憎しみを込めて言葉を発します。息子で旧藩主(現県令)の忠義は必死に父を押しとどめますが、顔面蒼白になった黒田は「おいは昔とは違いもんど」と弱々しく反論し逃げるように去っていきました。
 三月二十一日をもって前県令大山綱良逮捕。東京に護送され長崎に移され斬首されます。享年53歳。根拠地を奪われ補給の目途が立たなくなった西郷軍は常識的には抵抗できないはずでした。ところが驚異的な粘りを見せ都城、小林盆地を中心に頑強に抵抗します。七月二十四日新政府軍別働第3旅団がようやく都城を奪回、西郷軍は宮崎県北部に去りました。
 八月に入って宮崎、高鍋を新政府軍に占領された薩軍は宮崎県北部の要衝延岡に追い詰められます。八月十二日新政府軍総攻撃開始。このとき西郷は自ら兵を率い突撃しようとしますが、周囲から押しとどめられました。八月十五日和田越の決戦に敗れた薩軍は長井村に包囲されます。ここで西郷は解軍の令を出します。これまで西郷に従ってきた多くの兵が官軍に降伏しますが、西郷と生死を共にしようという精鋭千人は最後まで残りました。
 西郷軍は軍議を開き、ここで玉砕するよりは官軍の包囲を脱し故郷鹿児島に戻ろうと決します。八月十七日西郷軍は可愛岳(えのたけ)強行突破を図りました。不意を衝かれた官軍は退却、西郷軍は弾薬3万発、砲1門の戦利品を獲ます。宮崎と熊本の県境にそびえる九州山地に向かった西郷軍を新政府軍は見失います。九月一日、西郷軍は突如鹿児島に姿を現しました。パニックに陥る官軍留守部隊を蹴散らし西郷軍は最後の決戦の地城山に立て籠ります。城山は江戸期薩摩藩の政庁があった鶴丸城背後の山で詰めの城です。西郷に付き従う兵わずか3百余り。もとより死を覚悟した布陣でした。新政府軍は、城山を何重にも包囲します。
 新政府軍の総攻撃が明日に迫る中、その夜西郷軍は最後の宴を開きました。旧中津藩士増田宗太郎は西郷軍にここまで従ってきた一人でしたが、西郷と親しく接するうちに西郷の人格に魅了されます。「先生に一日接すれば一日愛あり。ゆえに私は離れることができないのだ」と故郷の友に書き送っていました。その増田も翌日壮烈な戦死を遂げます。
 九月二十四日午前四時、総攻撃がついに開始されました。西郷は着流しに袴姿、別府晋介を護衛に堂々と城山を下ってきたそうです。西郷は銃弾を足に受けます。別府を振り返ると「晋どん、ここら辺でよかじゃろ」と声を掛けました。新政府軍の銃弾は西郷の胸を貫きます。瀕死の西郷は「介錯を…」と別府に声を掛けました。別府晋介は泣きながら西郷の首を刎ねます。49歳の波乱の生涯です。別府もその場で切腹しました。西郷の死を知った村田新八は自害、桐野は新政府軍の中に突撃し壮烈な斬り死にを遂げます。日本最後の内戦西南戦争はここに終わりました。
 薩軍戦死者6765名、官軍戦死者6403名、西郷はこれらの犠牲者と共に明治新政府が抱える様々な矛盾を背負って死んでいったとも言えます。西南戦争の結果、明治新政府はようやく日本全国の支配を確立しました。富国強兵に邁進し日清日露戦争の勝利でようやく日本は植民地化の危険から脱し、列強の一角を占める国になります。
 東京で西郷の死を聞いた大久保は号泣し「おはんの死と共に、新しか日本が生まれ変わる。強き日本が…」と何度もつぶやいたと伝えられます。大久保とて決して西郷が憎かったわけではないのです。国家に対する考え方の違いが生んだ悲劇でした。大久保は参議・内務卿として明治新政府を主導し中央集権化を進めます。明治十一年五月十四日、大久保は宮中参内のため馬車に乗って屋敷を出ました。馬車が紀尾井坂に差し掛かると突然暴徒に行く手を遮られます。大久保の中央集権化に反対する石川県の不平士族たちでした。「何者じゃ、訳を言え」と大久保は声を掛けますが、「問答無用」と斬りつけられ絶命します。享年47歳。冷酷非情な大久保は反対派から激しく憎まれますが、彼自身は清廉潔白で無私の政治家でした。
 大久保の遺産は140円。ところが8000円もの借金があったと伝えられます。所有財産もすべて抵当に入っていましたが、債権者はあえて返済を遺族に求めなかったそうです。大久保の負債は、新政府の計らいで彼が生前鹿児島県庁に学校費として寄付した8000円を回収し返済に充てられました。
 西郷、大久保の死をもって薩摩藩の幕末維新は終わります。明治国家は幕末維新期に生まれた矛盾を克服し貧しくとも強き国を建国しました。幕末維新で散って行った数多くの命は日清日露の戦いの勝利で報われたと思います。しかし大東亜戦争で敗れ平和ボケしている現代の日本人は彼らやその後の戦争で散った英霊に顔向けできるでしょうか?国家について、日本人について色々なことを考えさせてくれます。
                                (完)

薩摩藩の幕末維新Ⅹ 田原坂

 熊本県北部、玉名郡玉東町から熊本市北区植木町の間にそびえる小丘陵があります。比高わずか60mながら1.5㎞にもわたるだらだら坂が続き、道の両側には堤防のような土手がそびえていました。この土手は、加藤清正が秀頼を擁して関東の大軍と戦うために整備させたとも言われ、天然の要害となります。その坂の名を田原坂と言いました。
 「雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂」これは民謡田原坂の一節ですが、私たち熊本県民には幼少期から慣れ親しんだ歌です。高瀬の決戦に敗れた薩軍は、南下する新政府軍を防ぐため田原坂から吉次峠に至る長大な防衛線を築きました。
 
 西南戦争最大の激戦と呼ばれる田原坂の戦いは明治十年三月一日開始されます。新政府軍は第1旅団、第2旅団を主力としてこの方面に集められる最大の兵力を投入しました。陸軍卿山県有朋直接の指揮です。負ければ後のない薩軍は必死に防戦、新政府軍は攻めあぐみました。三月四日、吉次峠方面を守る薩軍篠原国幹は近衛隊陸軍少将の軍服に赤裏のマントを翻らせサーベルを抜いて督戦しました。目立つ姿は新政府軍の格好の標的となり銃撃され戦死します。頭が切れすぎるため戦いの行く末を悲観した篠原は、この戦いで自殺したのだと言われました。
 ただ田原坂の戦闘は一か月も続きます。新政府は警察抜刀隊などあらゆる兵力をかき集め遮二無二突破を図りますが、死体の山を築くだけでした。新政府軍は戦死者2千人、戦傷者2千人という驚くべき損害を出します。が、厳しいのは薩軍も同じでした。損害を受けてもどんどん新手が来て補充できる新政府軍と違い、薩軍の人的資源には限りがあるのです。兵力に余裕がある新政府軍は、薩軍が手薄な阿蘇方面に大分県から進出しました。この中に警視隊小隊長として一人の会津人がいました。その名は佐川官兵衛、元会津藩家老です。鬼官兵衛と呼ばれた彼は、維新で散った会津の同胞の敵討ちという意識で従軍します。激戦の末佐川は壮烈な戦死を遂げました。彼の墓は阿蘇の地にあります。
 三月二十日早朝、新政府軍は最大の兵力を投入して田原坂の薩軍陣地へ総攻撃をかけました。犠牲をいとわない猛攻で新政府軍は田原坂から薩軍を叩き出します。しかし後退した薩軍は植木から吉次峠に至る新たな防衛線を築き抵抗しました。薩軍が田原坂、植木方面での抵抗を諦めたのは、背後に当たる八代、日奈久に三月二十日黒田清隆率いる別働第2旅団が相次いで上陸したからです。主力を田原坂方面に集めていた薩軍は、策源地鹿児島との連絡を絶たれたことになります。重要な兵站線を奪われただけでなく、八代から近い川尻の本営に居た西郷の身の危険も生じたのです。
 開戦以来包囲を受けていた熊本鎮台は、突破作戦を開始します。包囲開始から二か月、兵糧も尽きかけていました。田原坂方面から兵を引いた薩軍は、背後から新政府軍の別動隊が迫っていた為、宇土、松橋、御船と熊本県の内陸部へ主力を転進しました。戦闘の最中、四月十六日熊本協同隊隊長宮崎八郎、八代にて戦死、享年26歳。熊本城にはなお包囲部隊を置いていたそうですが、これも四月十三日新政府軍と熊本鎮台の挟み撃ちによって開囲されます。薩軍は矢部方面から人吉盆地に入り戦局打開を目指して宮崎県に移動しました。この段階で最盛期3万人を数えた薩軍は事実上崩壊、わずか3千人余りに激減していたそうです。
 次回、最終回。宮崎から鹿児島城山に至る西郷一党最後の戦いを描きます。

薩摩藩の幕末維新Ⅸ 西南戦争

 明治十年二月挙兵が決まった薩摩軍ですが、方針を巡っては分かれます。西郷の弟小兵衛は長崎を奇襲し軍艦を奪取、一気に海路を進んで東京に上陸する案を主張します。桐野利秋は、かつて熊本鎮台司令官だったことから「百姓兵が守る熊本鎮台など恐るるに足りず。西郷大将が向かうと知ったら即降伏しもっそ」と鹿児島から熊本に進み九州を占領し、東京に向かう戦法を主張しました。冷静に考えると、時間をかければかけるほど新政府軍は全国から兵力を集中するので薩軍は不利になるはずです。西郷小兵衛の案は一見無謀の様ではあるが、政府に時間的余裕を与えないという意味では一番可能性が高い作戦だったかもしれません。
 西郷自身は、この戦の行く末が分かっていたと思います。しかし自分を慕う若者たちを見捨てる気にはなれず自分の身を彼らに預けていたのでしょう。薩摩軍は1個大隊2千名からなる5個大隊と若干の補助部隊を含め1万3千名。桐野利秋、村田新八、篠原国幹ら私学校幹部が大隊長として指揮しました。明治十年二月十五日薩摩軍はついに北上を開始します。この日は50年ぶりとも言われるほどの雪の日でした。
 北上した薩摩軍は新政府軍の拠点熊本鎮台を囲みます。当時の鎮台司令官は土佐出身の陸軍少将谷干城。参謀長は薩摩の樺山資紀中佐、参謀副長児玉源太郎(長州)少佐、大隊長に奥保鞏(小倉)少佐など後に日清日露戦争で活躍する人材が守っていました。熊本鎮台兵力3千。西郷軍動くという急報を受けた新政府は、2月19日有栖川宮熾仁親王を鹿児島県逆徒征討総督に任命し各鎮台から兵力を動員九州に向かわせました。ただ有栖川宮は名目上の総司令官で、実質的な政府軍の指揮は参軍(副司令官)に任命された陸軍卿山県有朋中将、海軍卿川村純義中将がとります。
 二月二十一日、熊本城を包囲した薩軍は、熊本鎮台軍の頑強な抵抗にあい攻めあぐみます。意外なことに江戸初期、加藤清正が築いた熊本城は薩軍の攻撃にもびくともしませんでした。薩軍は、本営を熊本南部の川尻に置き総大将西郷隆盛はここに滞在しました。熊本城が短期間では落ちないと分かった薩軍は若干の包囲の兵力を残し主力は北上、迫りくる新政府軍の迎撃に向かいます。
 西郷立つのニュースは全国の不平士族を狂喜させました。熊本では宮崎八郎率いる熊本協同隊が参加したほか九州各地の士族が薩軍に合流、3万以上に膨れ上がります。宮崎八郎は孫文を助けた宮崎滔天の実兄、中江兆民に学んだ自由民権運動家で植木学校を設立、薩軍とは思想が全く逆でしたが、新政府軍に対抗するという意味で参加しました。
 北上した薩軍は、植木で小倉から南下してきた乃木希典少佐率いる歩兵第14連隊とぶつかります。この時不意を打たれた第14連隊は潰走し、軍旗を奪われるという恥辱を受けました。乃木はこの事を生涯悔いたそうです。ようやく兵力をまとめた乃木は、木葉(玉東町)で戦国時代の城跡稲佐山に籠城しました。が、準備不足から背後の木葉山麓より薩軍の夜襲を受け、再び敗走します。菊池川を越え石貫(玉名市)まで逃れ、ここでようやく野津鎮雄少将率いる第1旅団と合流し一息つきました。
 新政府軍は菊池川の線を防衛拠点に定め高瀬(玉名市)に本営を置きます。薩軍は桐野隊が山鹿にまで進出、新政府軍第1旅団、第2旅団が守る高瀬に攻撃の焦点を定めました。高瀬は熊本県北部の要衝、江戸期は菊池川水運の中心で福岡から熊本北部に至るルート、海岸沿いの荒尾口、西国街道の南関口、内陸の山鹿口から至る合流点でした。高瀬を失陥すると福岡県までの防衛が難しくなり薩軍の北上を阻止できません。
 不退転の決意をした新政府軍に対し、薩軍は山鹿から桐野隊を呼び戻し篠原隊、村田隊と主力を投入、二月二十五日攻撃を開始しました。高瀬の戦いは三度行われますが、新政府軍は菊池川の堤防を遮蔽物としスナイドル銃の猛射で薩軍を防ぎます。薩軍は合流を待つことなく各隊ばらばらに攻撃を開始するという致命的失策を犯しました。膠着した戦線に業を煮やした小隊長西郷小兵衛は手勢を率いて突撃します。が、これは無謀な攻撃でした。新政府軍の猛烈な射撃を受け戦死、享年31歳。
 高瀬の戦いが西南戦争のターニングポイントになります。薩軍は、南下する新政府軍を防ぐため高瀬と熊本の間にある丘陵地帯、田原坂に陣地を築きました。田原坂は西南戦争最大の激戦となります。高瀬方面から熊本に至る道のうち、海岸ルートを除けば田原坂と金峰山系の山麓を通る吉次峠のみが大砲の通れる道でした。現在の地図では玉名から植木に至る国道3号線がありますが、当時は湿地で道がありません。
 次回、西南戦争最大の戦い田原坂の激闘を描きます。

薩摩藩の幕末維新Ⅷ 私学校

 征韓論を巡る政変、明治六年(1873年)の政変で野に下った人材は参議の半分、軍人官僚600名にも及びました。ガタガタになった内政を立て直すため同年11月内務省が設立されます。内務省は地方行政だけでなく、警察、土木、衛生、国家神道と広範囲に権限が及び戦前内務大臣は内閣の副総理格という重要な役職でした。この強大な内務省の初代内務卿になったのが大久保利通。鹿児島に帰郷した西郷隆盛ら不満分子の反乱に備えての措置だったと思います。
 鹿児島に戻った西郷ですが、彼を慕って東京の職を辞した若者たちのために吉野開墾社を設立。彼らの生活と鹿児島の農業発展、産業育成を考えての事でした。さらに西郷は私学校を開きます。これは二つの学校から成り、篠原国幹を校長とし旧近衛歩兵600名からなる銃隊学校、村田新八を校長とし砲兵関係者200名を集めた砲隊学校です。他に西郷、桐野らの賞典禄を基に設立された賞典学校もありました。
 これをもって西郷が内乱を準備していたという意見もありますが、私はこのまま軍隊経験のある若者たちを放置しておくと暴発しかねないので、それを未然に防ぐために西郷が私学校を作ったのだと解釈します。西郷は鹿児島に理想郷を作り全国の見本とすると同時に、一朝事あるときには立ち上がり天下国家のために働くことを考えていたのでしょう。もちろんあくまで理想で現実は違ったのでしょうが、私は西郷の思いをこう想像します。
 西郷野に下るというニュースは全国に知れ渡ります。とくに明治新政府に不満を持つ士族たちの希望の星となりました。維新を起こした士族たちは、新しい時代が来ると生活が良くなると信じます。ところが現実は大きく違い、廃藩置県で職を失い廃刀令で武士の誇りを踏みにじられました。明治新政府も欧米列強の植民地化を防ぐためではあったのでしょうが、改革を急ぎすぎ様々な歪が生じていました。
 西郷と共に下野した佐賀の江藤新平は、不平士族たちに担ぎ上げられ反乱に踏み切ります。江藤は西郷に使者を送り共闘を模索しますが、西郷は動きませんでした。明治七年二月、佐賀の乱勃発。江藤自身は本意ではなかったと思いますが、佐賀の不平士族の数はすさまじく1万1千人も立ち上がります。新政府の大久保は事の重大性を考慮し自ら軍を率いてこれを鎮圧。江藤は逃亡し潜伏しますが、高知県で捕らえられ裁判の上斬首されます。皮肉なことに司法卿時代に江藤が導入した指名手配写真で逮捕されたそうです。
 佐賀の乱は以後続発する士族反乱の始まりとなりました。新政府は西郷の動向を細心の注意を持って見守ります。西郷の実弟従道や従兄弟の大山巌を派遣し東京復帰を説かせますが、西郷はすべて断りました。鹿児島県では県令大山綱良も島津久光に近く東京の新政府に批判的だったので、私学校関係者を積極的に県の役人に登用、金銭的にも私学校を全面的にバックアップします。さながら鹿児島県は独立国家のようでした。
 内務省が警察組織も司る巨大官庁だと前に書きましたが、ある時内務卿大久保利通は警視庁大警視(後の総監)川路利良を呼びました。大久保は川路に警視庁の優秀な人材を選抜し秘かに鹿児島に潜入、私学校の動向を探るよう命じます。そこで選ばれたのが薩摩出身の中原尚雄ら24名でした。ところが潜入はすぐばれます。捕らえられた中原は、潜入目的を問われ「西郷を『しさつ』せよと命じられた」と白状しました。『しさつ』とはおそらく『視察』の意味だったろうと思いますが、疑心暗鬼に陥った鹿児島側は『刺殺』と曲解します。いや、本当に刺殺だったという説もありますが、ここは歴史の謎です。
 これに火に油を注ぐ出来事が勃発します。大久保は西郷一党の暴発を未然に防ごうと、海軍大輔(海軍のナンバー2)川村純義に命じ三菱汽船を雇い鹿児島にあった武器弾薬を大阪に移させようとしました。川村は「かえって私学校を刺激することになる」と反対しますが、大久保は強行させます。当時鹿児島の集成館は日本で唯一、後装式スナイドル銃の国産に成功したところでした。搬送の目的は、スナイドル銃の製造、弾薬生産設備をすべて運び出すことです。鹿児島県令大山綱良が強気なのもこのスナイドル銃製造設備があってのことでした。
 明治十年(1877年)一月、搬送作業は深夜秘かに行われます。しかしその情報は私学校に漏れ、激高した私学校生が鹿児島武器庫の三菱汽船雇人たちに斬りつけました。この襲撃で数多くの武器弾薬が私学校側に奪われます。ただ、スナイドル銃の製造設備一式は何とか大阪に搬送され、私学校側は奪取に成功した一部のスナイドル銃以外は旧式の前装式エンフィールド銃で戦う事を余儀なくされました。
 私学校党の武器庫襲撃の報告は西郷にもたらされます。県令大山綱良を含む私学校党幹部は集まって善後策を協議しました。慎重派の村田新八、篠原国幹は軽挙妄動を慎むよう主張しますが、強硬派の桐野利秋は「戦を仕掛けてきたのは東京の大久保だ。ここで座して死を待つよりは立ち上がるべき」と挙兵を譲りません。そんな中、武器庫襲撃の下手人である私学校生たちが西郷のもとに出頭します。
 「すべては自分たちの責任です。我々を新政府に引き渡してください」と西郷に涙ながらに訴えました。黙って目を閉じていた西郷は「おいの命、お前たちに預けた」と一言言ったのみでした。西郷の一言で西南戦争が始まったと言っても良いでしょう。
 私学校党はついに立ち上がります。日本最後の内戦、西南戦争はこうして始まりました。次回は、挙兵した薩摩軍と新政府軍の激闘を描きます。

薩摩藩の幕末維新Ⅶ 明治六年の政変

 明治二年(1869年)、薩摩藩、長州藩、土佐藩の上表という形で行われた版籍奉還。これは各藩が支配する土地と領民を朝廷(新政府)に返還するという政治改革ですが、藩境はそのまま、旧藩主を藩知事に任命するというもので、江戸時代の社会体制と実質的にはほとんど変わりません。江戸期に270余りあった藩を統廃合し新政府が一元支配できるいくつかの県にする廃藩置県が急務でした。
 ただ、諸藩の反発は必至で深刻な内戦に陥る可能性もあり、独自の武力を持たない明治新政府は対応に苦慮します。兵部少輔山県有朋の献策で、薩摩藩、長州藩、土佐藩からそれぞれ藩兵を差し出させ政府の直轄軍とする御親兵制度が採用されました。御親兵は後に近衛兵に発展するのですが、それを指揮する人物として西郷隆盛が選ばれました。西郷はそのころ鹿児島に帰り、全国不平士族の希望となっており、新政府としては西郷を政府に取り込んで反乱を未然に防ぐという巧妙な策でもあったのです。
 薩摩藩から歩兵4個大隊・砲隊4隊、長州藩3個歩兵大隊、土佐藩は歩兵2個大隊、騎兵2個小隊、砲隊2隊をそれぞれ供出します。西郷は日本で唯一の陸軍大将としてこれを指揮し、軍政は近衛局が担当しました。近衛局長官にも薩摩の篠原国幹が陸軍少将となって起用。ただこれとは別に兵部大輔大村益次郎は、国民皆兵と鎮台制による近代陸軍を創設していました。大村は間もなく暗殺されますが、伝統は受け継がれ明治4年廃藩置県を受け同年10月仙台、東京、大坂、熊本の四鎮台が初めて置かれます。近衛兵と鎮台、似たような役割を持つ二つの組織は微妙な関係となって行きました。薩摩閥の多い近衛兵、長州閥が牛耳る鎮台。
 明治新政府は外国的にも深刻な問題を抱えていました。江戸末期に結ばれた不平等条約です。新政府は、西洋列強並みの近代国家に生まれ変わることで、交渉を有利に進めようと西洋列強の優れた文明を視察する岩倉具視を全権大使、木戸孝允、大久保利通を副使とする大規模な使節団を欧米に派遣することを決めます。これは明治新政府の首脳の半数近い数で、大久保は留守を守る西郷ら参議たちに、使節団が帰ってくるまでは現状維持に努め新たな政策を行わないなど12か条に渡る約定を認めさせます。岩倉使節団は明治4年12月、日本を離れました。
 途中、大久保と木戸が意見の相違から早めに帰国します。すると、留守政府は大久保との約定を破り学制改革、地租改正、断髪廃刀許可令など勝手に改革を進めていました。また、参議の構成が薩摩一人(西郷)、土佐二人、肥前三名と驚くべき比率になってることにも激怒します。これは肥前の江藤新平が画策したことで、江藤は彼なりに国家を思ってのことでした。江藤はフランス民法典を基に日本の民法を作った男です。頭が切れすぎるのが長所であり最大の欠点。似たタイプの大久保とは犬猿の仲でした。
 大久保が不在の間留守政府と李氏朝鮮の間に開国を巡る外交紛争が勃発、西郷は自分が使者になって朝鮮に赴き解決しようという所謂征韓論を主張します。西郷の真意は分かりませんが、維新によって生活が困窮した士族を救うために朝鮮で戦乱を起こそうとしたという説、単純に死に場所を求め朝鮮使節を最後のご奉公にしようとした説など数多くの意見がありはっきりしません。ただ留守政府はおおむね西郷支持の征韓論派、欧米列強の近代文明を見て彼らの実力を痛いほど理解した大久保、木戸らは「今は外に赴く時ではない」と内治派でした。
 閣議は、征韓派と内治派に分かれ紛糾します。土佐の板垣退助、肥前の江藤らは心の底から西郷の征韓論を支持していたわけではなく、この紛糾を利用し薩摩の勢力弱体化を狙っていたふしがないとも言い切れません。閣議を主導すべき太政大臣三条実美は板挟みにあい苦慮しました。「すべては岩倉が帰国してから」と決断の責任から逃れます。三条と言えば、公卿でありながら幕末期過激な攘夷派として生死を彷徨うような激しい活動をしてきたはずですが、この頃は公卿の精神的弱さばかりが目立ちました。両派から激しく突き上げられた三条はノイローゼとなり病気と称し太政大臣を辞任します。
 明治六年(1873年)九月、右大臣岩倉具視帰国。参議内務卿大久保利通は巻き返しを図り岩倉に接近。征韓派の大隈重信、大木喬任を抱き込むます。議決は征韓派4、内治派4で全くの同数となりました。岩倉は秘かに明治天皇に拝謁し内治派の意見を上奏、天皇がこれを容れられたため朝鮮使節派遣は中止となります。政争に敗れた西郷、板垣、江藤、副島らは辞表を提出しました。これを明治六年の政変と呼びます。西郷は絶望し鹿児島に帰る決意をしました。
 問題は西郷だけではありません。西郷帰国を聞いて桐野利秋、村田新八ら西郷を慕う薩摩出身者が数多く同調したことです。最初は説得し押しとどめようとしていた近衛局長官篠原国幹までが帰国を決断したと聞いて、彼を高く評価していた大久保は嘆いたと言われます。
 薩摩は、大久保ら東京残留組と西郷達鹿児島帰国組に完全に二分されました。西郷達はどう動くのでしょうか?次回、鹿児島私学校設立と西南戦争に至る流れを記します。

薩摩藩の幕末維新Ⅵ 戊辰戦争

 鳥羽伏見の戦いの結果朝敵となった旧幕府。決して本意ではなかったが結果として朝敵となった徳川慶喜。薩摩藩を主導していた西郷大久保らの真意は、徳川家を滅ぼさない限り明治維新は成り立たないという強い意志でした。現実的な話をすると、新政府と言っても財源がなく徳川家の持つ天領400万石、そのほか最後まで徳川家に忠誠を誓う藩の領地を召し上げなければ日本を統治できなかったのです。
 薩長側に錦旗が渡り官軍となった時、日和見だった各藩が雪崩を打って官軍側に寝返ったのは、何も勤王倒幕に全面的に賛成したわけでなく、負けて領地没収される側に回ればたまったものではないという事でした。幕末期、各藩に佐幕派と尊王攘夷派は居ました。これは薩長ですら例外ではなく、どちらが藩内で主導権を握ったかの違いでしかありません。ただ、西国雄藩に尊王攘夷(勤王倒幕)派が多く、東国に佐幕派が多かったのは、西は長崎を通じて海外からの情報に触れやすく、東はそうでなかったという差だけです。その中でも越後長岡藩の河井継之助ら一部例外的に海外の情報に通じた優れた人材はいました。
 江戸に逃げ帰った慶喜は、主戦派の小栗上野介を罷免、自身は上野寛永寺に入り謹慎します。が、新政府は有栖川野宮熾仁親王を大総督宮として東征軍を作り、東海道東山道北陸道の三方向から江戸へ進撃を開始しました。西郷は東征大総督府下参謀(参謀には公卿が就いたが飾りで、実質的な参謀)に任ぜられ東海道を進みます。一方、東山道は土佐の板垣退助が参謀として実質的に指揮しました。
 各東征軍の進路に当たる各藩は対応に苦慮します。藩主が江戸定府というケースが多く、それだけで佐幕派とみなされたからです。ある藩は藩主を見捨て東征軍に恭順、ある藩は藩内の佐幕派に切腹を命じ藩論を勤王に統一して降伏するなど涙ぐましい努力をします。しかし徳川家のために殉じようという藩はほぼありませんでした。桑名藩(藩主が会津松平容保の実弟)など、どう足掻いても新政府に許されないと諦めたごく一部の例外を除いて。
 旧幕府ですら一部の主戦派(新撰組や幕府歩兵隊など)を除けば厭戦気分が蔓延します。誰だって負けると分かっている戦いで死にたくはないのでしょう。強硬論を述べる新撰組組長近藤勇は、甲陽鎮撫隊の隊長に任ぜられ体よく江戸を追い払われます。近藤率いる甲陽鎮撫隊が板垣率いる新政府軍東山道先鋒とぶつかったのは1868年3月29日、甲州勝沼の戦いで近藤は大敗し、下総国流山に屯集しました。ところが早くも4月には新政府軍が板橋宿に達しており、近藤は新政府軍に捕らえられます。4月25日斬首、享年35歳。
 東海道方面では、3月6日新政府軍が駿府まで達しました。駿府城内の会議で江戸城総攻撃が決まります。江戸側では薩摩から十三代将軍家定に嫁いだ天璋院篤姫、十四代家茂に嫁いだ皇女和宮、寛永寺貫主・日光輪王寺門跡の輪王寺宮能久秦王らが、慶喜の助命嘆願、徳川家の存続を訴えてきました。ただ、西郷らは甲陽鎮撫隊による抵抗などを咎め各種嘆願書の不採用が決まります。
 江戸では勝海舟が山岡鉄舟を使者として東征軍と接触を開始していました。山岡と会った西郷は、彼の人物を認め江戸側の代表勝海舟との会見を承知します。西郷は山岡の武人としての覚悟、幕臣としての忠義、江戸を戦火から救おうとする大義に感じ入ったとされます。女の涙では動かず、山岡の死を覚悟した立派な態度に動かされる当たり西郷の人となりが分かりますが、3月13日江戸田町の薩摩藩邸で第一回の西郷・勝の会談が行われました。会談は二回にわたって行われ勝が示した
◇慶喜は水戸で謹慎
◇慶喜を助けた諸侯の命を奪わない
◇武器・軍艦はすべて新政府に差し出す
◇江戸城内の幕臣は城を出て謹慎
◇江戸の治安維持は勝が責任を持つ
という条件で合意されました。
 東征軍の幹部は甘すぎる処分に反対した者が多かったそうですが、西郷は勝の人物を信頼して江戸総攻撃中止を決めます。これが江戸無血開城です。
 しかし戊辰戦争はこれで終わりではありません。海軍副総裁榎本武揚は幕府艦隊を率いて逃亡、待遇に不満を抱いた幕臣が集まって上野彰義隊戦争、幕府歩兵隊も大鳥圭介に率いられ関東を転戦します。越後では、誤解から長岡藩執政河井継之助を新政府軍軍監、土佐の岩村精一郎が侮辱し、長岡戦争が起こります。新政府軍は長岡藩のガトリング砲に苦しめられ長州の山県有朋を総大将とする三万余りの大軍を集結させてようやく鎮圧しました。
 何より、会津藩主松平容保を絶対に許さないという新政府の強硬な態度が奥羽諸藩の反発を生み、奥羽越列藩同盟との血みどろの戦いに突入したことは失敗だったと思います。これも勝利に驕った新政府側の外交の不手際と言ってよいでしょう。9月24日、会津藩の降伏で奥州における戦いは集結しますが、榎本はなおも蝦夷地に逃れ蝦夷共和国を建国、3千の幕臣と共に新政府に抵抗しました。榎本らの抵抗が潰えたのは明治に入った1869年(明治二年)6月27日の事です。
 数多くの犠牲を得て明治維新は成りました。慶喜は助命され徳川宗家は田安亀之助が継ぎます。会津藩はわずか3万石、極寒の地斗南(下北半島)に転封、仙台藩が34万石減の28万石にされた他は、佐幕派諸藩も寛大な処置で終わります。
 明治天皇も、江戸へ御動座され江戸は東京と改称、文字通り明治時代が始まりました。王政復古の大号令で江戸幕府廃止のほかに摂政関白の制度も取りやめられます。天皇親政の下総裁・議定・参与からなる新官制が施行されました。1869年7月、版籍奉還、新たな太政官制が始まります。
 輔相に三条実美、議定は岩倉具視、徳大寺実則、鍋島直正の三名、参与に公卿の東久世通禧が入ったほかは、大久保利通、木戸孝允、後藤象二郎、副島種臣、板垣退助ら維新の功労者が就き実務を担当しました。ここに面白い話があります。維新後、薩摩の島津久光は「余はいつ将軍になれるのだ?」と真顔で聞いたそうです。もしかしたら大久保たちは久光にそういう甘い言葉を言っていた可能性はあります。結局久光を体よく祭り上げながら西郷、大久保らが主導で薩摩藩の明治維新は行われたという事でしょう。
 西郷隆盛は、革命の成功で満足し中央政界での出世に興味がなかったのでしょう。藩主忠義の要請で鹿児島に帰り鹿児島藩大参事になりました。が、西郷を慕う者も多く、明治新政府は西郷を鹿児島に置いておくことに不安を感じます。何とかして東京に呼び寄せようと画策しました。
 次回、廃藩置県から明治6年の政変、西郷が再び野に下るまでを記しましょう。

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