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2018年12月 1日 (土)

薩摩藩の幕末維新Ⅷ 私学校

 征韓論を巡る政変、明治六年(1873年)の政変で野に下った人材は参議の半分、軍人官僚600名にも及びました。ガタガタになった内政を立て直すため同年11月内務省が設立されます。内務省は地方行政だけでなく、警察、土木、衛生、国家神道と広範囲に権限が及び戦前内務大臣は内閣の副総理格という重要な役職でした。この強大な内務省の初代内務卿になったのが大久保利通。鹿児島に帰郷した西郷隆盛ら不満分子の反乱に備えての措置だったと思います。
 鹿児島に戻った西郷ですが、彼を慕って東京の職を辞した若者たちのために吉野開墾社を設立。彼らの生活と鹿児島の農業発展、産業育成を考えての事でした。さらに西郷は私学校を開きます。これは二つの学校から成り、篠原国幹を校長とし旧近衛歩兵600名からなる銃隊学校、村田新八を校長とし砲兵関係者200名を集めた砲隊学校です。他に西郷、桐野らの賞典禄を基に設立された賞典学校もありました。
 これをもって西郷が内乱を準備していたという意見もありますが、私はこのまま軍隊経験のある若者たちを放置しておくと暴発しかねないので、それを未然に防ぐために西郷が私学校を作ったのだと解釈します。西郷は鹿児島に理想郷を作り全国の見本とすると同時に、一朝事あるときには立ち上がり天下国家のために働くことを考えていたのでしょう。もちろんあくまで理想で現実は違ったのでしょうが、私は西郷の思いをこう想像します。
 西郷野に下るというニュースは全国に知れ渡ります。とくに明治新政府に不満を持つ士族たちの希望の星となりました。維新を起こした士族たちは、新しい時代が来ると生活が良くなると信じます。ところが現実は大きく違い、廃藩置県で職を失い廃刀令で武士の誇りを踏みにじられました。明治新政府も欧米列強の植民地化を防ぐためではあったのでしょうが、改革を急ぎすぎ様々な歪が生じていました。
 西郷と共に下野した佐賀の江藤新平は、不平士族たちに担ぎ上げられ反乱に踏み切ります。江藤は西郷に使者を送り共闘を模索しますが、西郷は動きませんでした。明治七年二月、佐賀の乱勃発。江藤自身は本意ではなかったと思いますが、佐賀の不平士族の数はすさまじく1万1千人も立ち上がります。新政府の大久保は事の重大性を考慮し自ら軍を率いてこれを鎮圧。江藤は逃亡し潜伏しますが、高知県で捕らえられ裁判の上斬首されます。皮肉なことに司法卿時代に江藤が導入した指名手配写真で逮捕されたそうです。
 佐賀の乱は以後続発する士族反乱の始まりとなりました。新政府は西郷の動向を細心の注意を持って見守ります。西郷の実弟従道や従兄弟の大山巌を派遣し東京復帰を説かせますが、西郷はすべて断りました。鹿児島県では県令大山綱良も島津久光に近く東京の新政府に批判的だったので、私学校関係者を積極的に県の役人に登用、金銭的にも私学校を全面的にバックアップします。さながら鹿児島県は独立国家のようでした。
 内務省が警察組織も司る巨大官庁だと前に書きましたが、ある時内務卿大久保利通は警視庁大警視(後の総監)川路利良を呼びました。大久保は川路に警視庁の優秀な人材を選抜し秘かに鹿児島に潜入、私学校の動向を探るよう命じます。そこで選ばれたのが薩摩出身の中原尚雄ら24名でした。ところが潜入はすぐばれます。捕らえられた中原は、潜入目的を問われ「西郷を『しさつ』せよと命じられた」と白状しました。『しさつ』とはおそらく『視察』の意味だったろうと思いますが、疑心暗鬼に陥った鹿児島側は『刺殺』と曲解します。いや、本当に刺殺だったという説もありますが、ここは歴史の謎です。
 これに火に油を注ぐ出来事が勃発します。大久保は西郷一党の暴発を未然に防ごうと、海軍大輔(海軍のナンバー2)川村純義に命じ三菱汽船を雇い鹿児島にあった武器弾薬を大阪に移させようとしました。川村は「かえって私学校を刺激することになる」と反対しますが、大久保は強行させます。当時鹿児島の集成館は日本で唯一、後装式スナイドル銃の国産に成功したところでした。搬送の目的は、スナイドル銃の製造、弾薬生産設備をすべて運び出すことです。鹿児島県令大山綱良が強気なのもこのスナイドル銃製造設備があってのことでした。
 明治十年(1877年)一月、搬送作業は深夜秘かに行われます。しかしその情報は私学校に漏れ、激高した私学校生が鹿児島武器庫の三菱汽船雇人たちに斬りつけました。この襲撃で数多くの武器弾薬が私学校側に奪われます。ただ、スナイドル銃の製造設備一式は何とか大阪に搬送され、私学校側は奪取に成功した一部のスナイドル銃以外は旧式の前装式エンフィールド銃で戦う事を余儀なくされました。
 私学校党の武器庫襲撃の報告は西郷にもたらされます。県令大山綱良を含む私学校党幹部は集まって善後策を協議しました。慎重派の村田新八、篠原国幹は軽挙妄動を慎むよう主張しますが、強硬派の桐野利秋は「戦を仕掛けてきたのは東京の大久保だ。ここで座して死を待つよりは立ち上がるべき」と挙兵を譲りません。そんな中、武器庫襲撃の下手人である私学校生たちが西郷のもとに出頭します。
 「すべては自分たちの責任です。我々を新政府に引き渡してください」と西郷に涙ながらに訴えました。黙って目を閉じていた西郷は「おいの命、お前たちに預けた」と一言言ったのみでした。西郷の一言で西南戦争が始まったと言っても良いでしょう。
 私学校党はついに立ち上がります。日本最後の内戦、西南戦争はこうして始まりました。次回は、挙兵した薩摩軍と新政府軍の激闘を描きます。

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