薩摩藩の幕末維新余話
薩摩藩の幕末維新を書き終えましたが、余韻が冷めやりません。本編では書ききれなかったエピソードがいくつかあるのでご紹介します。
薩軍に参加した熊本県の部隊は、宮崎八郎の協同隊の他に池辺吉十郎、佐々友房を指導者とする熊本隊7百名がいました。こちらは自由民権運動家の宮崎と違い藩校時習館に学んだ尊王攘夷派。池辺は熊本県少参事を歴任するなど新政府でも登用されました。維新後士族たちが冷遇されることに不満を抱き下野。西郷軍挙兵に同調し参加します。
熊本隊は、田原坂の戦闘では吉次峠方面を守備、激しく戦います。以後西郷軍の転戦と共に宮崎に入りました。佐々友房は宮崎で負傷し官軍に捕まります。池辺は西南戦争後行方をくらましますが、明治10年10月、政府軍に捕縛され同月26日長崎で斬首。明治時代のジャーナリスト池辺三山は彼の子息です。
佐々は死罪は免れますが獄中青少年教育の重要性を痛感し明治12年出獄、現代でも名門である濟々黌(甲子園優勝経験あり)を設立しました。また明治21年には濟々黌付属女学校も開設、こちらは現在の尚絅高等学校です。ちなみに彼の孫には、警察・防衛官僚で現在危機管理評論家の佐々淳行氏、その姉で元参議院議員紀平悌子氏(故人)がいます。
宮崎八郎を出した宮崎家は、八郎の弟たち民蔵、弥蔵、寅蔵(滔天)も有名です。弥蔵は支那の革命に共鳴孫文と交流し支那渡航を本気で考えますが、その矢先病に倒れ死去、享年30歳。民蔵は兄八郎の死後宮崎家の当主となりますが、自由民権運動に身を投じ1902年土地復権同志会を東京で設立、1905年には『土地均享・人類の大権』を記しました。民蔵の活動は頭山満、幸徳秋水ら左右問わず支持されますが、政府は私有財産制の否定につながると危険視します。政府の弾圧を受けますが、一方孫文の革命運動を支持、昭和3年まで生きました。
末弟の寅蔵(滔天)が一番有名かもしれません。孫文を荒尾の生家に匿ったり、朝鮮の金玉均の亡命も支援しました。金玉均が上海で暗殺されたときは、遺髪と衣服を持ち帰り東京浅草本願寺で葬儀を営むなど信義に厚い人物でした。孫文の辛亥革命を全面的にバックアップ、辛亥革命の対外宣伝にも努め、亡くなる前年まで大陸に渡航したそうです。大正11年12月病死、享年51歳。
これを書くと身バレしそうであまり書きたくはないんですが、我が家と宮崎家は無関係ではありません。うちの80代になる老母は、女学校時代宮崎民蔵さんの娘さんが恩師でした。娘さんの名前と経歴は私の母が身バレするのでご勘弁ください。NHKの朝ドラでも有名になった柳原白蓮と再婚する宮崎龍介は滔天の長男で、民蔵の娘とは従兄弟同士。柳原白蓮の映画を老母は恩師や女学校仲間と見に行ったそうですが、恩師ははしゃぐでもなく静かに見入っていたそうです。あまり龍介の行状を気に入ってなかったのでは?というのが母の談。
ちなみに柳原白蓮は、本編で出てきた公卿柳原前光の側室の子で大正天皇の生母柳原愛子の姪にあたります。
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