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2018年12月 1日 (土)

薩摩藩の幕末維新Ⅹ 田原坂

 熊本県北部、玉名郡玉東町から熊本市北区植木町の間にそびえる小丘陵があります。比高わずか60mながら1.5㎞にもわたるだらだら坂が続き、道の両側には堤防のような土手がそびえていました。この土手は、加藤清正が秀頼を擁して関東の大軍と戦うために整備させたとも言われ、天然の要害となります。その坂の名を田原坂と言いました。
 「雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂」これは民謡田原坂の一節ですが、私たち熊本県民には幼少期から慣れ親しんだ歌です。高瀬の決戦に敗れた薩軍は、南下する新政府軍を防ぐため田原坂から吉次峠に至る長大な防衛線を築きました。
 
 西南戦争最大の激戦と呼ばれる田原坂の戦いは明治十年三月一日開始されます。新政府軍は第1旅団、第2旅団を主力としてこの方面に集められる最大の兵力を投入しました。陸軍卿山県有朋直接の指揮です。負ければ後のない薩軍は必死に防戦、新政府軍は攻めあぐみました。三月四日、吉次峠方面を守る薩軍篠原国幹は近衛隊陸軍少将の軍服に赤裏のマントを翻らせサーベルを抜いて督戦しました。目立つ姿は新政府軍の格好の標的となり銃撃され戦死します。頭が切れすぎるため戦いの行く末を悲観した篠原は、この戦いで自殺したのだと言われました。
 ただ田原坂の戦闘は一か月も続きます。新政府は警察抜刀隊などあらゆる兵力をかき集め遮二無二突破を図りますが、死体の山を築くだけでした。新政府軍は戦死者2千人、戦傷者2千人という驚くべき損害を出します。が、厳しいのは薩軍も同じでした。損害を受けてもどんどん新手が来て補充できる新政府軍と違い、薩軍の人的資源には限りがあるのです。兵力に余裕がある新政府軍は、薩軍が手薄な阿蘇方面に大分県から進出しました。この中に警視隊小隊長として一人の会津人がいました。その名は佐川官兵衛、元会津藩家老です。鬼官兵衛と呼ばれた彼は、維新で散った会津の同胞の敵討ちという意識で従軍します。激戦の末佐川は壮烈な戦死を遂げました。彼の墓は阿蘇の地にあります。
 三月二十日早朝、新政府軍は最大の兵力を投入して田原坂の薩軍陣地へ総攻撃をかけました。犠牲をいとわない猛攻で新政府軍は田原坂から薩軍を叩き出します。しかし後退した薩軍は植木から吉次峠に至る新たな防衛線を築き抵抗しました。薩軍が田原坂、植木方面での抵抗を諦めたのは、背後に当たる八代、日奈久に三月二十日黒田清隆率いる別働第2旅団が相次いで上陸したからです。主力を田原坂方面に集めていた薩軍は、策源地鹿児島との連絡を絶たれたことになります。重要な兵站線を奪われただけでなく、八代から近い川尻の本営に居た西郷の身の危険も生じたのです。
 開戦以来包囲を受けていた熊本鎮台は、突破作戦を開始します。包囲開始から二か月、兵糧も尽きかけていました。田原坂方面から兵を引いた薩軍は、背後から新政府軍の別動隊が迫っていた為、宇土、松橋、御船と熊本県の内陸部へ主力を転進しました。戦闘の最中、四月十六日熊本協同隊隊長宮崎八郎、八代にて戦死、享年26歳。熊本城にはなお包囲部隊を置いていたそうですが、これも四月十三日新政府軍と熊本鎮台の挟み撃ちによって開囲されます。薩軍は矢部方面から人吉盆地に入り戦局打開を目指して宮崎県に移動しました。この段階で最盛期3万人を数えた薩軍は事実上崩壊、わずか3千人余りに激減していたそうです。
 次回、最終回。宮崎から鹿児島城山に至る西郷一党最後の戦いを描きます。

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