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2019年1月 8日 (火)

ラビ川の戦い1306年

 YouTubeを見ていて、たまたまラビ川の戦い1306年という動画を見つけました。不勉強にして知らなかったのでネットで検索してみると、wikiにすら載っていませんでした。
 ただ1306年、インド地方という情報を頼りにどうもデリースルタン朝時代(1206年~1506年)あたりではないかと考え、さらに詳しく調べるとどうもモンゴル軍がインドに侵攻した戦役の一環だと推定しました。モンゴルのインド侵攻というと一番有名なのはチンギス汗率いるモンゴル軍がホラズム朝最後の王子ジェラール・ウッディーンの軍をインダス河畔に追い詰めた1221年インダス河畔の戦いでしょう。この時半円形に包囲され背後は大河、絶体絶命のジェラールは盾を背中に背負い単騎インダス河に飛び込みました。あまりの彼の武勇にチンギス汗も矢を射かけさせるのを止めさせます。井上靖の蒼き狼にも載ってる劇的な名場面です。
 1306年の場合は、モンゴル軍ではなくその後継王朝の一つチャガタイ汗国が一方の当事者でした。アフガン高原まで版図に入れたチャガタイ汗国は、豊かなパンジャブ地方を狙って連年侵略を繰り返していたそうです。ちなみにパンジャブとはペルシャ語で五つの河という意味。大河インダス河とその4つの支流、西からジェラム川、チェナープ川、ラビ川、サトレジ河を指します。インド北西部からパキスタン北東部に跨る広大な平野で小麦や米を産する一大穀倉地帯でした。
 チャガタイ汗国第15代君主ケベクは大軍を率いデリースルタン朝の一つハルジー朝に侵攻します。ハルジー朝のパンジャブ知事ガーズィ・マリクは寡兵これを迎え撃ちモンゴル軍の侵略を防ぎました。おそらくこれが1306年ラビ川の戦いだと思います。戦いの経過は資料がないので良く分かりませんが、パンジャブのかなり奥深くまで攻め込まれているので、もしこの戦いに負けていたらハルジー朝は滅んでいたかもしれません。マリクは5万人のモンゴル兵を捕虜とし全員処刑しました。モンゴル人は遠征にも家族を連れていたので、残った家族はことごとく奴隷として売り払ったそうです。
 ただ、デリースルタン朝もインド土着王朝ではなくイスラム教徒のトルコ系やアフガン系の王朝だったので、どちらも騎兵を主力とするモンゴル~中央アジア型の軍隊でした。マリク自身もトルコ人とモンゴル人の混血だと言われます。1320年、ハルジー朝で内紛が起き最後のスルタン、クトゥブッディーン・ムバーラク・シャーが反乱者ホスローハーンに殺されると、マリクは軍を率いてデリーを制圧、反乱者ホスローハーンを殺して自らの王朝を建てました。マリクは即位してギヤースッディーン・トゥグルクと改名します。これがデリースルタン朝3番目の王朝トゥグルク朝です。
 いやあ、まだまだ知らない歴史がありますね。勉強になりました。

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