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2019年1月 8日 (火)

京観  恐ろしい風習

 画像は恐ろしいので紹介しません。カンボジアのポルポト政権の虐殺の跡を想像していただければ当たらずとも遠からずです(苦笑)。あるいは欧州のカタコンベ(地下墓地)かエジプトのネクロポリスか?

 京観とは、戦争のあと勝利者が敵の捕虜を殺しその頭蓋骨をピラミッド状に積み上げたものです。支那では春秋左氏伝に記録があることから、少なくとも紀元前600年前後にはその風習があったことになります。支那の場合は、もっとえげつない例もあり京観の上に土を盛り版築の土台にしたり城壁に埋め込んだりしたそうです。人柱の起源かもしれません。
 実際、河北省易県(北京近く)の遺跡から3万体近い頭蓋骨が版築の烽火台地下で発見されたというおぞましい話もあります。日本人になじみが深い三国志でも、司馬懿が遼東遠征の際反逆した公孫淵の首都襄平を攻略し、公孫氏政権の役人・軍人・一般市民をことごとく虐殺し1万人分の京観を築いたという記述があります。
 支那では、敵を震え上がらせるため京観を頻繁に築いたようですが、流石に残酷に過ぎるということで改めようという権力者も出てきました。例えば隋を建国した楊堅。彼は京観の代わりに寺院を建立し敵味方の死者を弔ったそうです。支那史上でも名君の誉れ高い唐の太宗李世民は、楊堅の寺院建立を受け継ぐとともに古いものも含めてすべての京観の取り壊しを命じました。さすがに王朝の創始者は違うと感心するんですが、その唐ですら国が乱れてきた7世紀末になると京観が復活したそうですから人間の業の深さを感じますね。
 日本でも人柱伝説があるくらいですから他人の事は言えないんですが、幸いなことに日本では京観はあまり普及しませんでした。ただ例が全くないわけではない(奈良時代以前?)そうですが私は寡聞にして知りませんし、知りたくもありません。
 京観についてよく考えると、どうも農耕民族由来の風習ではないように思えます。というのも漢民族少なくともその支配層はチベット系の羌(きょう 後のチベット民族の源流の一つ)族の流れをくむように思えるからです。羌族は今の陝西省、甘粛省あたりに住んでいた半農半牧の遊牧民族です。一部には部族単位で河南・河北・山東地方にも分布していました。ちなみに周の武王の覇業を助け斉を建国した太公望姜子芽は羌族出身だという説があります。漢民族が形成された時代と言われる周王朝の故地は陝西省の渭水流域で羌族と非常に近しい関係でした。
 色々な歴史書を見ると京観は遊牧民族特有の風習に思えます。チンギス汗やティムールも京観を築いたという話がありもしかしたらスキタイ由来なのかもしれません。ともかくこんな恐ろしい風習が日本に流行らなくて本当に良かったと思います。
 なんでこういう記事を書いたかというと、最近チンギス汗のホラズム遠征について記した本を読み、そこに京観の記述があったからです。

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