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2019年2月28日 (木)

フランス革命Ⅶ ブリュメール18日のクーデター (終章)

 ネルソン提督率いるイギリス艦隊によってエジプトにナポレオンが孤立していた時、1798年12月イギリス首相小ピットの提唱で第二次対仏大同盟が結成されます。参加するのはイギリス、オーストリア、ロシア、ポルトガル、そしてなんとオスマン帝国まで!第一次はフランス革命の自国への波及を防ぐのが目的でしたが、今回はナポレオンの活躍によって奪われた領土の奪回も大きな要素になります。
 フランスは再び危機に陥ろうとしていました。国内でも総裁政府は窮地に立たされます。下院に当たる500人議会の選挙で王党派、そして復活したジャコバン・クラブが躍進したからです。テルミドール右派は中道右派、平時なら穏健で最も良い政治体制だと思われます。ところが今は戦時、腐敗し碌な政策も示せない総裁政府を国民は見限っていました。当時フランス革命で世界初の普通選挙が行われていましたが、テルミドール反動の結果直接納税者のみに限定される制限選挙に戻りました。下層階級に選挙権を与えるとロベスピエールのような扇動者が再び出現したとき統治体制が覆されるからです。
 直接納税者は成人男子である程度の収入のある者。中産階級以上で政治思想も穏健であろうと思われました。しかし中産階級であろうと、王党派やジャコバン・クラブが躍進したという事は、現状ではフランスの苦境は脱せられないとフランス国民が思っていたからです。国民は左右どちらであろうと強いリーダーシップで困難を打破してくれる英雄の出現を待ち望みます。一方、総裁政府も軍事力によって反対派を圧殺し政治的安定を実現したいと思いました。
 総裁バラスとシエイエスは、エジプト遠征中のナポレオンに白羽の矢を立てたのです。帰国を決断したナポレオンは、少数の部下と共にエジプトを出港します。幸運にもイギリス艦隊に見つからなかった一行はフランスに戻りました。エジプトに残されたフランス軍は、1801年オスマン帝国に降伏します。
 1799年10月16日、パリに到着したナポレオンは、弟で500人議会議長になっていたリュシアンからシエイエスのクーデター計画を聞きました。が、ナポレオンはシエイエスに従うつもりは毛頭なく独自の計画を持ちます。実行日はブリュメール(革命暦2月)18日、西暦で言うと1799年11月9日と決まります。その日、テルミドール右派が多数派を占める元老院は「左派の陰謀の恐れあり」として元老院と500人議会のパリ撤退、西のサンクルーへの避難を決議します。すでに議会のあるチュイルリー宮殿はナポレオン率いる軍隊によって包囲されていました。
 その途中ナポレオンは失意の議員たちに向けて演説します。
「議員諸君、共和国が危機に瀕していることは諸君も知っておられるだろう。諸君の決定は共和国を救う。私も国軍をもってこれに協力し、反対者を捕縛するつもりだ。我々は真の自由に基づいた公民的自由、国民の代表に基づいた共和国を望む。我々はそれを手にするだろう。誓って言う。余の名と、余の軍友の名において」
 シエイエスら三人の総裁が辞職し、抵抗した残り二人は軟禁されました。クーデター主流から外されたバラスは、身の危険をほのめかされパリを脱出します。総裁政府はあっけなく崩壊しました。代わって三人の統領を元首とする統領政府が樹立されます。そして第一統領に就任したのはナポレオン。シエイエスはブリュメール18日のクーデターによって自分が政権を握るつもりだったと思います。ところが実際に軍隊を持っているナポレオンが発言権を強めるのは当然でした。結局ナポレオンを利用したつもりがナポレオンに利用されたのです。
 救国の英雄としてフランス国民に絶大な人気を誇るナポレオンと、腐敗した総裁政府の一員だったシエイエスのどちらを国民が支持するか明白でした。主導権を奪われたシエイエスは実権のない元老院議長に祭り上げられ政治生命を断たれます。
 ナポレオンは第二次対仏大同盟を軍事力で粉砕、国民の圧倒的支持を受け終身統領に就任。そして1804年5月国民投票で皇帝となりました。事実上、フランス革命はここに終わります。絶対王政を廃止し、行きついた結果が帝政というのは何とも皮肉ですが、英雄が登場しなければ革命後の混迷を収拾できなかったのも事実。そして理想と現実の間には数多くの犠牲が伴うのでしょう。フランス革命期ギロチンによる犠牲者はパリだけで2000人とも4000人とも言われます。フランス全土では1万6千人以上という恐るべき数でした。それ以外の方法で処刑されたもの、暴徒に虐殺されたものも含めると死者は数万人から数十万人だったそうです。
 絶対王政を廃止し民主化を求めた革命がもたらしたものは何だったのでしょうか?フランス革命は近代民主主義への道を開いたという歴史的功績は確かにあると思います。しかし、それと同時に数多くの犠牲無くしては革命は成立しないという悲劇も示しました。私はどうしてもイギリスの清教徒革命、名誉革命と比べてしまいます。共和制より立憲君主制のほうが少ない犠牲者で済むと思うのは私だけでしょうか?本当に悩ましい問題ではあります。
                                  完

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コメント

今現在、ナポレオンボナパルトの正当後継者は…ロシアのプーチン大統領でしょうかね…良くも悪くも…

lc1gr6さん

現代で言ったら間違いなくそうでしょうね。

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